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Proving On

chronicle.19

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 水谷は5歳でラケットを握った。彼の親は厳しく妥協を許さなかった。そして彼が持ったラケットは大人用だった。影村は小学校2年生でラケットを握った。彼の親はある程度の放任主義だった。そして彼が持ったラケットもまた大人の使うラケットだった。そっくりな境遇であるが、正反対の親を持つ二人。水谷は小学校4年生で天才と呼ばれファイブパーソンプロジェクトのメンバーに選出され、影村はP.T.S.Dを患いその後両親の仕事の都合でスイスへと旅立った。

 元プロテニス選手である吉岡昭三を含む優秀なプロジェクトチームの研鑽の末、才に溢れ栄華を誇ってきた水谷と、スイスで半ば巻き込まれる形で、最高峰のスパルタコーチであるハリー・グラスマンの徹底した教育を受け、ヒッティングパートナーとして、そして仲間達と大人が出場する賞金付きの大会に出続け、一気に険しい高い崖を登って来たであろう影村の衝突。

 “おい、ヨシタカ!お前すげぇフォアハンドだな!大人を打ち負かしてるぞ!っておい!ヨシタカ!いつまでボール打ってんだ!?ヨシタカ!コーチ!ヨシタカがまたヤベーモードに入った!”

 “またかヨシタカ!よーし!全員ヨシタカとやれ!アンディ!いけぇ!”

 “ マ ジ か よ ! ”

 影村の脳裏に外国人の子供達の声がこだまする。遠い記憶の中、スイスで最初に影村へ声をかけたのは、アメリカ人のアンディとジャックだった。ボサボサに伸びきった髪、威嚇した野生児の様な目つきと血走った眼。そして何かに怯えるような顔で狂気と云わんばかりに、大人ですらベースラインの後ろへと下がらせる凶暴な大振りのフォアハンドを打ちまくった当時10歳の少年だった影村。頭の中にこびりつき何度も繰り返し繰り返し響いて消えない木魂。罵詈雑言の雨を唯一忘れられるのがコートの上での練習だった。とにかく全力でボールを打って打って打ちまくる。彼の体力が完全に無くなり、頭の中から声が消えるまで、そして鼻血を出して意識がなくなるまでそれは毎日のように続いた。

 “ハリー!ヨシタカがまたウェイトトレーニングで鼻血出してる!”

 “ヨシタカテメェ!またオーバーワークしやがって!ジャック!テメェ!!ぼさっとしてねぇで他のスタッフ呼んで来い!”

 “ヨシタカ!プロテイン飲もうぜ!2個あるからよ!”

 “お前これが超まずいからって、またヨシタカに飲ませようとしてる...って全部飲んだだと!?つーかそれ大人が飲む錠剤まで飲んでやがる!”

 ”あーいつやべーよぉー!”

 影村は自分の頭の中の声をかき消すためにとにかく全力を出す滅茶苦茶な少年だった。日本にいた頃の明るく朗らかで、おばあちゃん子の心優しい無邪気な少年の面影は完全に消失し、常時何かに怯え、目を血走らせ、どう猛な野獣の如く唯々狂気に走るだけの息子に両親は頭を抱えた。しかし、彼を日本に残していくよりは、まだ自分達の目が届く場所に置いておきたかった。その状況を見たハリーはアンディへ1つの提案をした。ハリーは彼には何が必要なのかを最初の一目で理解し、彼を一人にしない事、そして仲間はここにいるという事を何度も認識させる必要があると判断した。

 “...紹介?”

 “ローマン。こいつだよ!ヨシタカ!すげぇフォアハンド打つんだ!”

 “...へぇ。こいつが...なるほど。フォアハンドが強いってことはサーブも伸びそうだな。よく見つけたなアンディ。”

 “だろだろ?俺天才!”

 “いや。天才は俺だアンディ。”

 “ローマン。それサラッと言うのやめてくれ。”

 少年達4人が影村をじっと見つめる。初めて会ったイギリス人のローマンは、どこか真面目なデキる頼れる兄貴分だった。アンディはトレードマークのバンダナを頭に巻き、ジャックはいつもランニング短パン姿でウエハースのプロテインバーをかじっていた。ソファに座っていたスペイン出身のマルコスは、体力バカのクレーコーターであったが練習後はいつも居眠りするし、たまに寝すぎて練習に遅刻するようなラテン系の色黒の少年だった。3人の前に立ったアンディが手を広げて影村へ言った。

 “ヘイ!ヨシタカ!今日からPT何とかなんてな気にすんじゃねぇよ!誰がどれだけの数ヤジぶっ飛ばそうとな!コートの上じゃ応援なんて所詮外野なんだよ!勝った後にそいつらに●ァッ●ユーってこんな魔法のハンドサインやってやればいいんだよ!”※両手のハンドサインにはモザイクがかかってます。

 アンディがポーズを決めた後にローマンが突っ込む。
 
 “あ、それジャックがこの前試合で勝った後に速攻怒られたやつじゃん。”

 更にアンディがその後ジャックに何かあったのを知っていたように話し始める。

 “その後コーチにもぶっ飛ばされたよな。笑うわー。裏庭で飼ってるアヒルのジョージにもケツつつかれてさぁ...クックッ...ハッハッッハッハッハ!”

 アンディーの言葉にムキになったジャックが影村へ詰め寄った。

 “お前にもわかるだろ?ヨシタカ!ヘイ!わかれよぉ!かっこいいだろぉ!”

 影村は英語に慣れていなかったため返事だけすることにした。

 “........わかった。”

 影村の返答に第2のジャックが生まれてしまう事を危惧するローマンが止めに掛かるも居眠りするマルコスがチラチラと視線に入ってくる。

 “わかっちゃダメだろぉヨシタカ!ってかマルコス寝ながらプロテインバー食ってる。”

 ローマンが言った後、アンディーはマルコスを指さした。

 “マルコスこの前ヨシタカとの試合した後、寝ながらパスタ食ってたぜ。”

 ところかまわず居眠りするマルコスを見て、ジャックが咄嗟に見たことがあるテレビ番組のワンシーンを思い出す。

 “マジかよ。ホームビデオの赤ちゃんじゃん。”

 “ハッハッハッ!”

 全県杯の準々決勝の最中。影村は現実と物思いの中、鬼気迫る表情で自慢のフォアハンドを撃ち込んでは返され、打ち込んでは返されの繰り返しに顔を歪ませる水谷を見る。

 「........。(あれからどれ位経った。俺はこの国で壊れた。そしてまたここに戻ってきた。1回戦で怒りをぶつけた。周りは俺を怖がった。逆だ。最初に...俺が壊れた時と真逆だ。)」

 「.....っ!(なんだこいつ!まだ上があるのか!俺のフォアハンドを同じ速度で返してくるなんて!いや違う!ラリーのテンポが速すぎる!)」

 影村のコンパクトフォームから打ち込まれたボールが水谷をコートの後ろへ後ろへと下げていく。水谷は届かない実力差を目の当たりにし、焦りと苛立ちを見せていた。


 「おぉぉぉぉ!(負けられん!俺は負けるわけには!たとえ1ポイントでも返さんと!)」


 「......。(俺には何もなかった。ただ頭の声をかき消すためだけにがむしゃらに全力でやってきた。そしてこれが消えた時、何かを手に入れた。ローマンもジャックもアンディもマルコスもそれを持っていた。あいつらは持っていたものを形にした...しかし俺にはわからない。手には入れたがそれが何かがわからない...ハリー教えてくれ。ただ勝って勝って相手を粉砕する事が今までだった。大会もこんな学生の出るような試合じゃなく、それに見合った賞金が出る試合で稼いできた。現実的にそうやって生きてきた。だがなんだ...この満たされない感じは。)」

 水谷が押され続け、ネットにボールが掛かる。水谷が中腰になって両手を膝について息を荒げている。

 「......。(ローマン、アンディ、マルコス、ジャック...俺はお前らに...しかし、それだけでいいのだろうか。)」

 「ゲームセット! マッチ ウォン バイ 影村! 6-0・6-0!」

 審判のコールが影村を現実へと引き戻す。水谷は呆然と立ち尽くす。全てが終わったかのように只々雲の漂う空を見上げ、雲間から見える太陽を眺めて放心状態になっていた。顔は生まれて初めての天才以外から圧倒された敗北感を噛締めていた。観客達は言葉を失い只々コートの中を見ていた。

 「...はぁ...はぁ...。(負けたのか...俺は...。)」

 水谷はこれまで自分の中で蓄積してきた経験や技量などといったコート上で培ってきた常識が破壊された事に衝撃を受けた。自分を遥かに上回る高い基礎的技量に見た事の無い戦術・テクニック。そして何より高校生レベルを逸脱した速度に戦術が上乗せされたサービス。準決勝戦。24本のサービスエースを取られ、18本のリターンエースを取られ、そして普通のラリーでも届かなかった。いきなりの怪物出現に何も考えられない。

 「...はぁ...はぁ...。」

 水谷はもうすべてを出し切ったという表情でその場から何とか顔を上げてネットへと歩いてくる。大粒の汗をかきながら手を差し出す水谷は、そこそこ程度に汗をかいている影村と握手をする影村。

 「...。」
 「...。」

 両者は黙ったまま握手を交わす。審判の女性は2人を見てオドオドしていた。影村と水谷は目を合わせる。そして黙ったままベンチへと歩いて行き荷物をまとめる。影村はジャージを羽織る。ただそれだけの光景。しかし観客席で見ていた誰もがその姿に目を向けた。影村の背中の上で靡く「海.」の文字が皆の脳裏に焼き付く。

 「あの...水谷に...勝ちやがった...相手...天才だぞ...?」
 「あれが...海将...」
 「...とんでもないことやりやがったぞ。あいつ...」

 影村のクラスメイトを含め、観客席にいた人間達も放心状態だった。桃谷は記録を取り終えるとそれを鞄へと仕舞った。ベンチでは影村が去り際に水谷へ何かを言った。その言葉に水谷は動揺の表情を見せた。しかしそれはコートの外からは確認できなかった。影村のクラスメイト達はまるで祭りが終わった後のような余韻に浸っていた。

 「....な、なぁ。やっぱ影村すげぇよ。」
 「あぁ...何だろう。言葉には言い表せねぇ。なんつーか...強いって感じだな。」
 「あぁ。それな。」

 クラスメイトの男子2人は影村の背中を見送る。常盤は影村という歩く芸術作品を目の当たりにし、呆然と、そして恍惚とした表所を浮かべる。それは恋愛感情などといったものではなく。自分が見てきたどの芸術作品でも言い表せない躍動感、そしてそれを早く新しい真っ白のキャンバスに描き起こしたいという逸る気持ちからだった。

 「そうね...私も頑張ろう。それじゃあ帰るね。」
 「俺達も帰りますか。あ、ちょっと待って。東京来たんだし帰りにカフェあるまじろ行かね?」
 「あ、いいわね。そこで解散しましょう。あなた達もどうですか?」
 「あー、いきまーす!甘いの食べたーい!」
 「えー、男子と一緒?」
 「べつにいいだろー?一々そんなの気にすんの?中学生じゃあるまいし~。」
 「あ~、言ったわね!でも委員長いるならいきまーす!」

 ごく一般的な明るい高校生染みた会話をしながら、クラスメイト達5人は有明テニスの森公園を後にする。同じコートから出ていく観戦者達も皆水谷を倒した影村の話題で持ちきりだった。その中にはスタッフのタグをぶら下げ、高そうな望遠レンズ付きのカメラを持ち歩いているスポーツ雑誌の記者達までいた。

 「いやぁ、まさか5人の天才の一人、水谷君が名も無い一般の選手に倒されるなんてな。」
 「今回の大会記事荒れますよぉ?」
 「写真もバンバンとってるし、早速編集部へ持って行ってまとめねぇとな。」
 「今日は徹夜っすね。」
 
 雑誌記者とカメラマンの会話をベンチに座って聞いている男が耳にする。笹原は会場を後にするスポーツ雑誌記者の後姿を目で追うと、そのまま立ち上がった。携帯端末の着信音が鳴る。彼は静かに端末を耳元へと持って行く。

 「三竹君か...あぁ、聞きましたよ。まさか彼らが高校生となる年齢を迎え、このプロジェクト最大の山場で問題が発生するとは思いませんでした。これだから高校テニス界は...で、どこの馬の骨ですか?...あぁ。竹下君の学校ですか...ふふふ、いいでしょう。少し彼らとコンタクトを取るとしましょう。あ、今日は水曜日です。ノー残業デーなので、部署の方へは早く帰る様にお伝えください。私が事務所に帰った時点で誰か居た場合...わかっていますね。では、失礼します。」

 笹原は不敵な笑みで電話を切ると有明テニスの森を後にする。水谷は同じ八星高校の面々と歩いてテントへと戻って行く。大柄な少年の背中を前に、佐後、後藤、久江の3人は先輩として励ましの言葉をかけられないでいた。水谷は生まれて初めて5人の天才ではない人間に敗北を喫した。

 「......。(あのサーブは何だ...あのストロークのフォームは何だ。なぜやつは俺が狙ったボールのコースがわかる...。)」

 “修永!もっとしっかりしなさい!常勝無敗でいなさい!!負けは許しません!”

 水谷の脳裏に幼少の頃に突き付けられた一切の妥協を許さない完璧主義者の親からの声。周囲の期待。自分がプロジェクトに選出されるに至った才能への他者からの羨望の目。それが長い年月重圧という形で彼の心を抉っていた。

 「......。(敗北は“恥”と教わった。コートの上では常時勝者じゃなきゃいけなかった。5人の天才...俺はこの言葉に苦しめられた。小学生から才能を見込まれた5人が選出され...中学ん時は天才ともてはやされた...しかし、もし俺が高校、大学、そしてプロになったとして、自分が果たして天才で居続けられるのか。そう考えただけで...俺は...重圧に潰されそうになる。)」

 “天才なんざこの世にいねぇ。”

 「......。(天才...重圧なんて存在しない...負けてもいいんか...俺は...。)」

 水谷は影村が去り際にはなった言葉を思い出す。そして何か肩の荷が下りた気がしてならなかった。天才と云う事も、自分が思い込んできた重圧も全てはまやかしでしかない。P.T.S.Dを克服した男からの不器用だが真意を突いた言葉。水谷の肩が小さく震え始めた。3年生の先輩達は、自分達より圧倒的な実力を持つ水谷にどう言葉を駆けようか悩んだ。自分よりも弱い選手に慰められる必要はなく、かえって水谷のプライドを刺激して機嫌を損ねるのではないか。佐後と後藤がそう考えていると後ろから久江が二人の背中を叩いた。

 「うっ...ま、まぁ...なんだ水谷。次の大会までに仕上げるぞ...。(あぁデラやべぇ...言っちまった...先輩面しちまった...あいつから見たら雑魚の俺が...!)」

 「そ、そそそうだぞ水谷...お前まだ1年だろ?もっと練習すりゃ届くって。な?伸びしろまだまだでらいっぱいあるっての!(よく言った佐後。俺が言い易くなったじゃんか。)」

 「え、えぇそうよ!海将って人の動画も撮ったし!対策するわよ!そ、それに課題も見つかるじゃん!よかったじゃん!」

 「つ、次の試合までにお前どえりゃ強くなるんだでさ!ア、アハハハハ!」

 「せ、せやなせやな!アハハハ!」

 佐後の声掛けに水谷は止まった。3人は緊張でビクリと固まる。そして心の中で「...(あ、デラやべぇ...気に障ったっぽい。)」と冷や汗を流しながら震えた。水谷がゆっくりと振り返る。

 「......。」

 「...水谷?」
 「水谷君...。」
 「マジか...。」

 3人は水谷が見せた顔を見たとき少しだけ力が抜けた。彼の眼には涙がこぼれていた。水谷が大きな体にセンチメンタルなハートを持っている事が分かった先輩達は、どこか心を擽られるように、そしてまるで喧嘩に負けて帰って来た自分の弟の様な親近感が一気に湧いた。佐後は水谷の頭をがっしりと掴むと思いっきり撫で始めた。後藤も彼と肩を組んでわき腹を優しく拳で突いていた。

 「前、泣くなって!ハッハッハ!こいつぅ!」
 「お前しっかりしろよ!うちの大エースなんだからよ!なぁ、この後ラーメン食いに行こうぜ!」
 「そそ、東京はでらうめぇラーメン屋いっぱいあるからよぉ!行くぞ~!水谷ぃ!」
 「で、でもホテルの門げ...」
 「主将の俺が何とかしたる!顧問に話つけたらぁ!今日だけだぞ!真面目か!」
 「...すいません。」
 「よっしゃ、俺達が奢ったる!めっちゃうまいラーメン店知ってる東京の連れがいる!」

 佐後、水谷、後藤の背中を見た久江は目頭をジーンとさせながら、まるで弟の成長を見ているかのような目で3人を見守った。同日ダブルスの順々決勝戦で滝邨高校ペアが五日市工業のペアに敗れた。そして、静岡県代表に続き愛知県代表がトーナメントから姿を消した。
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