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Moving On
manuscript.39
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影村と八神の試合は圧倒的な実力差で影村が押していた。ゲームカウントは3-0。八神のサーブ。影村と八神は互いに睨み合った。八神の顔は真剣そのもので、どうしたら影村を崩せるのか。それだけを考える。
「.....。(フラット直球勝負...いや、スライスで外に出して...ダメだストレートにリターンエースをくらう...どうすればいい。どうすれば奴は崩れる。)」
「.........。」
影村は構えを解いた。八神はサービスルーティンの最中顔を上げた。影村はラケットを回す。そしてその場でジャンプした。影村は八神が硬く強張った顔をしていたことに気が付く。彼はベースラインの内側へと入る。八神は彼の行動が理解できなかった。彼は昔よくアンディと対戦する時、決まって第3ゲームが過ぎたころで1ゲーム分を使って行うある対戦方法をするのを思い出した。
影村は何らかの合図を送る様に、利き腕である右手に持っていたラケットを上に放り投げると、回転するラケットを再び右手でキャッチしてまた構えに入った。八神は深呼吸をして肩を落とし、サーブの構えに入る。影村はやはり通じないかとキョトンと肩を落とした後、その場でラケットを構え直した。観客の中には影村のラケット投げを挑発ととらえるものだと考えたり、八神の緊張を解す為に行ったものだと考えたりと、各々が思考を張り巡らすもその意味は分からない。敏孝と森野もよくわかっていなかったが恐らく後者だろうと考えた。
ともかく八神はトスを上げる。影村は軽くスプリットステップを踏むとリラックスした状態でラケットを構えた。八神からファーストサーブが打ち込まれる。球種はスピンサーブ、コースは影村のフォアハンド側だった。影村は160キロ近い速度のサーブにすぐさま反応し、コンパクトなテイクバックでバウンドして伸びあがる途中のボールを八神がサービスを打ち終わった付近へと返球する。
八神はすかさず返球されたボールを影村のバックハンド側へと撃ち込む。影村は八神がバックハンド側へボールを打つことが分かっているため、フォアハンドストロークを打ち終わるとそのままバックハンド側へと走り、またコンパクトなテイクバックで、今度は八神のいるコートのバックハンド側へとボールを打ち返す。八神もすかさず走り、バックハンドストロークを影村のフォアハンド側へと撃ち込む。影村は全てのボールをベースライン内で打ち返していた。相沢は何かに気が付く。そして東越大の信楽も何かに気が付いた。相沢はブツブツと独り言のように八神に指示を出す様に小声で言った。
「...ダメだ。八神、攻めろ。攻めるんだ。攻めろ。もっと深く狙え、もっと深くボールを打ち込め。」
隣で見ていた近藤も相沢の声を聞き何かに気がつく。敏孝はすでに影村が何をしているのかに気が付く。森野もこれをやられたらたまらないといった表情だった。相沢の隣で近藤も気が付いて悔しそうに眼をグッと閉じた。
「....後ろに下げられてるぞ。」
八神は必死に影村のストロークに追いすがり、彼のいない方向へボールを打って攻めている。しかしラリーに夢中になっている中、当人は気が付いていなかった。彼はストロークを打てば打つ程、攻めれば攻める程、徐々にベースラインの外側へ外側へ、後ろへ後ろへと追いやられている。ネットが遠くなる。呼吸が乱れる。
影村は八神が打ち込んでくるボールを全てライジング気味のショットで捉えており、尚且つベースラインの内側という絶対的優位の状況に立っていた。八神がストローク戦の違和感に気が付いたがもう遅かった。八神はボールをネットへ掛ける。
「0-15」
八神は息が乱れた状態で影村を見ながらボールを拾った。影村は汗は掻いていたが息は上がっていなかった。八神は次のサービスポイントもそのまた次のサービスポイントも落としてしまう。彼は影村のプレースタイルに対応できなかった。影村は全てのボールをコンパクトスイングで尚且つライジング気味のボールで八神のコートのベースライン付近へとボールを返していた。八神は自分が打ったボールがすぐに返球されて来ることに焦りを感じていた。
「...あの八神君が圧倒的に押されている。」
「ねぇ、何なのあいつ...。」
「マジ生意気...。」
中高生女子らは自分達の推しである八神が1ポイントも取れないままゲームが進んでいることに苛立ちを覚える。影村は淡々と八神のサーブを待っている。
「......。(まるで試合という作業を淡々とこなしているようだ。)」
ポイントを取ってもノーリアクション。ベンチで見ていた桃谷も、影村の高校生離れしたフィジカルもそうだが、彼の試合中全く無表情で機械の様に淡々と決められたルールに従って動く姿にある一定の気持ち悪さを感じていた。
「.........。(外に追い出せば揺さぶれるが、一撃でダウンザラインのリターンをかまされる。)」
八神はサービスの構えに入る。彼はトスを上げる。影村は八神の次のサーブも、その次のサーブもサービスラインのセンターを狙うだろうと予測を立てていた。正確には八神がサーブをコートのセンターを狙うように仕向けている状況となる。桃谷はこのゲーム内で影村の1ゲーム目からの行動を思い出すそしてある予測を立てた。
「......。(もしかしてあの子...八神君にワイドへのサーブを打たせないため...八神君が得意としているストローク戦へと持ち込ませるために...でもそうだとして何故相手の土壌に足を...。)」
桃谷は八神のサーブルーティンからトスがあげられるほんの数秒間で、その回転の速い頭脳を働かせて影村の行動について予測した。彼女の推測は正解だった。影村はサーブをワイドへ撃てば、そのままいつでもストレートのベースライン際付近へとボールをリターンで返すことができる。それをさせないため、そして少しでも自分の得意なストローク戦に持ち込もうと、八神はサービスラインのセンターを狙い続ける必要があった。
ボールは影村のフォアハンド側。サービスライン中央でバウンドする。影村はコンパクトなフォアハンドのスイングボールを捉えると、バウンドして上がってくる途中のボールを、わざと八神のコートの真中へと返球した。八神はすかさず影村のバックハンド側へと返球する。
「......!(バックハンドを狙い続ける!)」
八神は影村のバックハンドを狙い続けた。高校生クラスのプレーヤの多くはフォアハンドよりもバックハンドの方が段違いで劣る選手が多い。影村のように両手バックハンドのプレーヤーは、ボールは安定するがフォアハンドよりも威力が落ちる。八神はそれを利用して何としても自分に有利な状況を作りたかった。影村もそれがわかっており、八神のバックハンド同士のラリーが始まる。八神と影村両者の両手バックハンドの応酬。敏孝は影村がわざと八神の打ちやすい位置へとボールを送っていることに気が付く。そして森野はその光景を見て、自分達がスイスで影村らにやられたゾッとする悍ましいラリーを思い出すと体が震えていた。バックハンドの打ち合いが止まらない。八神は影村がコートの外側付近へ行くのをまだかまだかと待つように、バックハンドのボールがバウンドしてコートの外側へ行くよう角度を絞って返球していた。
「...。(いつまで打ち合っている。)」
神奈川商工大学のメンバーらは、このラリー中ずっと悶々としていた。なぜ八神はストレートへ切り返してダウンザラインを狙わないのか。何故彼はボールを回り込んで打たないのかと。近藤は八神の顔が歪んでいることに気が付く。
「.........。(野郎!ガス欠狙ってやがる!つーかなんだこれは!さっきから同じ場所へ同じ角度、そして同じ高さと威力のボールを打ってやがる!機械かよ!)」
影村は八神に気持ちよく最高のバックハンドを打たせ続けるようボールを返球していた。かつて彼自身もローマンにやられた地獄を八神に向けてやっていた。八神は息が切れてきた。実力差が圧倒的な相手との試合、思考と体が無意識に攻めろという脳の信号を受け取り、8割の力でボールを打ち続けていた代償は大きい。えげつない影村とのラリー戦。普通にバウンドしたボールを打つのではなく、ライジング気味で打たれたそれは、八神が次の態勢へと入る隙を見せられない程に、タイミングよく彼のコートの同じ位置へと返球されていく。もし八神がストレートへボールを切り替えしたら、影村に先ほどのゲームの時のように、急角度のショートクロスで八神のフォアハンド側の届かない場所へとボールを打たれることになる。それを見越してネット前へ詰めても影村からどのようなボールが打たれるかわからない。
「...見てるのがつらいわ。」
「俺もです...。」
影村は只々ポーカーフェースで同じ位置へとボールを返す。桃谷と矢留は何かえげつないものを見るような顔になる。矢留はもし自分が同じことをやられたら1分と持たないのではないかと考えた。池内もギョッとした目つきで影村を見ている。八神と同じ球速のボールを打ち合っても、一向に表情も変えず、疲れる気配を見せない影村。ラリーは3分40秒程続き、八神が息を散らしながら腰の回転による脇腹の痛みに襲われる。それはマラソンの時に現れる脇腹の痛みと同じものだった。
「...っあぁぁ!...っあぁぁ!...っぁ!」
バックハンドストロークを打たされ続ける八神の顔が疲労に歪む。影村は八神の打つボールが緩くなったのを見ると、一気に前へと詰め寄って、緩く上がったボールをスマッシュで叩いた。八神はラケットを杖のようにしてコート面で息を散らしながら屈んでいた。影村は大きく1回深呼吸する。
「0-30」
「......八神君が。」
「八神君大丈夫!?」
「八神君!」
八神は屈んだまま動かない。息が整わない。身体中に乳酸がたまって動けない。彼は屈んだまま顔を歪ませる。額からは大粒の汗が流れてそれがコート面へと落ちていた。八神は顔を上げた。影村は八神の顔をみて彼の今後の成長を期待した。疲労に歪みながらもその顔はまるで高い壁に挑戦しようとする一人のアスリートだった。八神の目から見た影村は只々高い山の見えない頂だった。
「...はぁ...はぁ...はぁ...(高けぇな...あぁ...竹下が優しく見えるぐらいに強えぇ...やっぱ強い奴とやるのは面白れぇな。)」
八神は曲げていた上半身を起こした。それを見たベンチからは黄色い声援が飛び交う。彼の復活にエールを送るファン達、そして彼を応援するベンチの神奈川商工大学のメンバーらと他のチームの選手達。影村は八神がうらやましく思えたが、今の彼には賞金の事しか頭になかった。
「キャー!八神君!」
「やった復活した!」
「キャー!」
「頑張ってー!八神くーん!」
まるでジュニアアイドルに声援でも送るかの様な光景を見た影村。彼は八神がサーブの構えに入ったのを見ると、ベースラインの内側でラケットを構えた。影村はまた無表情に戻る。サーブが打たれる。コースは影村のバックハンド側。影村は八神のスピンサーブをコンパクトなバックハンドスイングでストレートの深いボール打ち込んだ。
八神は走ってバックハンドストロークを影村のいないバックハンド側へと撃ち込む。影村は既にコートの真中でボールを待ち構えていた。影村は走りながら姿勢を落として右足を前へと出しボールに対して肩を向ける。まるで居合いのようにラケットを構えるとそれを一気に振った。
「.........!(片手バックハンド!?)」
影村の片手によるバックハンドストロークのボールがストレートへと打ち込まれる。八神は走り、今度はロブの高さまで行かないムーンボールを上げる。影村はスプリットステップを踏んだ。大きく息を吸い込み1歩、2歩、3歩と大股でコートを駆けると、4歩目で大きくジャンプした。彼は空中へと一気に飛び上がった。影村の魅せた驚異的な身体能力に八神の目がぐらつく。影村はラケットを一気に打ち降ろした。時速200キロのスマッシュが八神のコートへと突き刺さる。
「......っく!」
神奈川商工大学のメンバーらは悔しさにこぶしを握って手を震わせた。八神は影村の驚異的なジャンプ力と豪肩を活かした猛烈なスマッシュを見て、全ての時間が凍結した感覚に陥った。彼の中で、彼が積み重ねてきた努力、竹下という生涯のライバル。残りの天才達との熾烈な覇権争いの末の勝利。輝かしい過去の栄光。これまでのゲームの中で半壊状態だったその全てが音を立てて完全に崩れ去った。彼を圧倒的な強さで打倒したのは、5人の天才と呼ばれる面々でもない、国内では名前も聞いたことの無い、同年代の無名の高校生だった。
「ゲームセット! マッチ ウォン バイ 影村! トゥ 6-0!」
「...八神君。」
「嘘よ...嘘だって言ってぇ!」
「いやぁぁぁ!大人にも負けたこと無いのにぃ!」
「なんなの!あの対戦相手!雑誌でも見たこと無い!」
「で、でも公式戦じゃないもの!ノーカンよ!ノーカン!」
中高生女子達は狂気のように荒れ狂った。影村と八神はネットの前で握手をした。影村の翁手が八神の手を握る。八神はどこか清々しい表情で影村を見ていた。
「...高校生だって言ったな。どこの高校だ。名のある強豪校なんだろ?」
「海生代...千葉県の名も無い高校だ。」
「...海生代...おい、それって。ニュース記事に載ってた竹下の...次のインターハイには出てくるのか?今度は公式戦でやりたい!」
「俺は出ねぇよ。その代わりうちのエースがあんたにもう一度挑戦をしたいって息巻いてたぜ。」
「お前以上に強いやつがいるかよ。」
「...じゃあな。」
影村は荷物を取ろうとベンチへと向かうも、八神が少年の顔をして携帯端末を片手に声を掛けて来た。
「連絡先教えろよ。」
「あん?」
「...教えろよ。非公式の試合とはいえ、5人の天才のトップを潰したんだ。なかなかないぞ?有名人のダチ持つなんて。」
「すまねぇな。龍谷に続いて2人目だ。」
「...龍谷と!?まさか...お前、龍谷とも試合したのか!?」
「あぁ。」
「...どうだった...いや、俺に勝ったんだ。どうせストレートだろ?」
「...。」
影村は八神がグイグイと携帯電話を持って迫ってくる状況に困惑するも。ジャックの顔を思い出す。ジャックも最初は影村にぐいぐい接近して彼を困らせていた。その顔はキラキラとまるで新しい玩具を見るような純粋な少年の目だった。そんな彼が影村に対して言った言葉がとても印象に残っていた。
“対戦相手?うっせぇなぁ!コートの外じゃそんなもん関係ねぇよ!一緒に飯食おうぜ飯!な!ヨシタカ!”
ジャックが言ったその言葉は影村の中で大きく響き渡った。対戦相手だからと言ってコートの外でも対戦相手という訳ではない。影村はそれを思い出し、携帯端末を取出して連絡先を交換した。そんな状況を中高生女子達は羨ましそうに見ていた。
「次は負けねぇよ。」
「まず、俺から3ゲーム取ってみろ。」
「言ってくれるな。」
「...観客に礼言って来な。」
「...? あぁ。」
影村は布袋を担いでベンチへと戻って行った。八神は影村の背中を見送った後、自分のファンである中高生女子達の前へと移動して深く一礼した。矢留と池内は驚いた顔で彼の方を見ていた。桃谷は普段見せない矢留の驚いた顔を見てクスッと笑う。中高生女子達は戸惑いの表情で八神の方を見ていた。
「応援ありがとう!そして、ごめんみんな!ストレートで負けた!でも、次は負けない!これからも応援してくれ!」
彼の声はコート中に響いた。八神の顔は真剣だった。数々の試合中、ファンである彼女達や支えてくれた池内達がいてこそ勝てるようになったと改めて自覚したようだった。普段の高圧的で貴族様の様な姿勢の彼が誰かに頭を下げたのを見たのは、相沢も神奈川商工大学のメンバーらも同じだった。一礼を終えた八神のまるで竹下の爽やかスマイルと同じ雰囲気の顔に一同が固まる。
「や、八神...どうしちゃったの?」
「はっはっはっは!」
「笑いごとかよ相沢!え!?八神!?」
「んなもん、ったりめぇだろ八神!相沢の後輩は俺達の後輩だろが!」
「はっはっはっは!」
神奈川商工大学のメンバーの言葉に八神は更に笑顔になった。それは今まで誰も見たことがなかった顔だった。いや、一つだけ訂正すると、彼を小学校の頃から見てきた一部のファンと、年上の幼馴染で昔から彼を可愛がっていた相沢にとっては数年ぶりに彼の笑顔を見た状況となる。小学校からのテニス人生の中で一度も負けたことがなかった天才のたった一度の敗北。それは彼の中で成長するための起爆剤になるのであろうか。
「キャー!」
「キャー!八神くーん!(目がハート)」
「もうずっと応援します!これからも!」
「キャー!キャー!」
ファンである中高生女子達の横で、その甲高い耳が割れるような歓声に耳を押さえる矢留と桃谷。池内は八神に拍手を送った。そして真剣な表情で影村を見た。
「八神君。いい負けっぷりね。これで目標はできたわ。プロになったら彼と再戦しないと。でもまずは...」
「彼、高1です。」
「...え?」
「え?」
八神は東越大のメンバ達に肩を組まれたり、抱き着かれたり、頭を撫でられてぶっきら棒な面構えになっている影村の方を見て言った ”高1です“という言葉 。八神からこの単語が発せられた時、周囲にいた全員が固まった。八神は固まった周囲の人間達の顔を見て言葉も出ず、信じてもらえないんだといった表情で立ち尽くした。
「.....。(フラット直球勝負...いや、スライスで外に出して...ダメだストレートにリターンエースをくらう...どうすればいい。どうすれば奴は崩れる。)」
「.........。」
影村は構えを解いた。八神はサービスルーティンの最中顔を上げた。影村はラケットを回す。そしてその場でジャンプした。影村は八神が硬く強張った顔をしていたことに気が付く。彼はベースラインの内側へと入る。八神は彼の行動が理解できなかった。彼は昔よくアンディと対戦する時、決まって第3ゲームが過ぎたころで1ゲーム分を使って行うある対戦方法をするのを思い出した。
影村は何らかの合図を送る様に、利き腕である右手に持っていたラケットを上に放り投げると、回転するラケットを再び右手でキャッチしてまた構えに入った。八神は深呼吸をして肩を落とし、サーブの構えに入る。影村はやはり通じないかとキョトンと肩を落とした後、その場でラケットを構え直した。観客の中には影村のラケット投げを挑発ととらえるものだと考えたり、八神の緊張を解す為に行ったものだと考えたりと、各々が思考を張り巡らすもその意味は分からない。敏孝と森野もよくわかっていなかったが恐らく後者だろうと考えた。
ともかく八神はトスを上げる。影村は軽くスプリットステップを踏むとリラックスした状態でラケットを構えた。八神からファーストサーブが打ち込まれる。球種はスピンサーブ、コースは影村のフォアハンド側だった。影村は160キロ近い速度のサーブにすぐさま反応し、コンパクトなテイクバックでバウンドして伸びあがる途中のボールを八神がサービスを打ち終わった付近へと返球する。
八神はすかさず返球されたボールを影村のバックハンド側へと撃ち込む。影村は八神がバックハンド側へボールを打つことが分かっているため、フォアハンドストロークを打ち終わるとそのままバックハンド側へと走り、またコンパクトなテイクバックで、今度は八神のいるコートのバックハンド側へとボールを打ち返す。八神もすかさず走り、バックハンドストロークを影村のフォアハンド側へと撃ち込む。影村は全てのボールをベースライン内で打ち返していた。相沢は何かに気が付く。そして東越大の信楽も何かに気が付いた。相沢はブツブツと独り言のように八神に指示を出す様に小声で言った。
「...ダメだ。八神、攻めろ。攻めるんだ。攻めろ。もっと深く狙え、もっと深くボールを打ち込め。」
隣で見ていた近藤も相沢の声を聞き何かに気がつく。敏孝はすでに影村が何をしているのかに気が付く。森野もこれをやられたらたまらないといった表情だった。相沢の隣で近藤も気が付いて悔しそうに眼をグッと閉じた。
「....後ろに下げられてるぞ。」
八神は必死に影村のストロークに追いすがり、彼のいない方向へボールを打って攻めている。しかしラリーに夢中になっている中、当人は気が付いていなかった。彼はストロークを打てば打つ程、攻めれば攻める程、徐々にベースラインの外側へ外側へ、後ろへ後ろへと追いやられている。ネットが遠くなる。呼吸が乱れる。
影村は八神が打ち込んでくるボールを全てライジング気味のショットで捉えており、尚且つベースラインの内側という絶対的優位の状況に立っていた。八神がストローク戦の違和感に気が付いたがもう遅かった。八神はボールをネットへ掛ける。
「0-15」
八神は息が乱れた状態で影村を見ながらボールを拾った。影村は汗は掻いていたが息は上がっていなかった。八神は次のサービスポイントもそのまた次のサービスポイントも落としてしまう。彼は影村のプレースタイルに対応できなかった。影村は全てのボールをコンパクトスイングで尚且つライジング気味のボールで八神のコートのベースライン付近へとボールを返していた。八神は自分が打ったボールがすぐに返球されて来ることに焦りを感じていた。
「...あの八神君が圧倒的に押されている。」
「ねぇ、何なのあいつ...。」
「マジ生意気...。」
中高生女子らは自分達の推しである八神が1ポイントも取れないままゲームが進んでいることに苛立ちを覚える。影村は淡々と八神のサーブを待っている。
「......。(まるで試合という作業を淡々とこなしているようだ。)」
ポイントを取ってもノーリアクション。ベンチで見ていた桃谷も、影村の高校生離れしたフィジカルもそうだが、彼の試合中全く無表情で機械の様に淡々と決められたルールに従って動く姿にある一定の気持ち悪さを感じていた。
「.........。(外に追い出せば揺さぶれるが、一撃でダウンザラインのリターンをかまされる。)」
八神はサービスの構えに入る。彼はトスを上げる。影村は八神の次のサーブも、その次のサーブもサービスラインのセンターを狙うだろうと予測を立てていた。正確には八神がサーブをコートのセンターを狙うように仕向けている状況となる。桃谷はこのゲーム内で影村の1ゲーム目からの行動を思い出すそしてある予測を立てた。
「......。(もしかしてあの子...八神君にワイドへのサーブを打たせないため...八神君が得意としているストローク戦へと持ち込ませるために...でもそうだとして何故相手の土壌に足を...。)」
桃谷は八神のサーブルーティンからトスがあげられるほんの数秒間で、その回転の速い頭脳を働かせて影村の行動について予測した。彼女の推測は正解だった。影村はサーブをワイドへ撃てば、そのままいつでもストレートのベースライン際付近へとボールをリターンで返すことができる。それをさせないため、そして少しでも自分の得意なストローク戦に持ち込もうと、八神はサービスラインのセンターを狙い続ける必要があった。
ボールは影村のフォアハンド側。サービスライン中央でバウンドする。影村はコンパクトなフォアハンドのスイングボールを捉えると、バウンドして上がってくる途中のボールを、わざと八神のコートの真中へと返球した。八神はすかさず影村のバックハンド側へと返球する。
「......!(バックハンドを狙い続ける!)」
八神は影村のバックハンドを狙い続けた。高校生クラスのプレーヤの多くはフォアハンドよりもバックハンドの方が段違いで劣る選手が多い。影村のように両手バックハンドのプレーヤーは、ボールは安定するがフォアハンドよりも威力が落ちる。八神はそれを利用して何としても自分に有利な状況を作りたかった。影村もそれがわかっており、八神のバックハンド同士のラリーが始まる。八神と影村両者の両手バックハンドの応酬。敏孝は影村がわざと八神の打ちやすい位置へとボールを送っていることに気が付く。そして森野はその光景を見て、自分達がスイスで影村らにやられたゾッとする悍ましいラリーを思い出すと体が震えていた。バックハンドの打ち合いが止まらない。八神は影村がコートの外側付近へ行くのをまだかまだかと待つように、バックハンドのボールがバウンドしてコートの外側へ行くよう角度を絞って返球していた。
「...。(いつまで打ち合っている。)」
神奈川商工大学のメンバーらは、このラリー中ずっと悶々としていた。なぜ八神はストレートへ切り返してダウンザラインを狙わないのか。何故彼はボールを回り込んで打たないのかと。近藤は八神の顔が歪んでいることに気が付く。
「.........。(野郎!ガス欠狙ってやがる!つーかなんだこれは!さっきから同じ場所へ同じ角度、そして同じ高さと威力のボールを打ってやがる!機械かよ!)」
影村は八神に気持ちよく最高のバックハンドを打たせ続けるようボールを返球していた。かつて彼自身もローマンにやられた地獄を八神に向けてやっていた。八神は息が切れてきた。実力差が圧倒的な相手との試合、思考と体が無意識に攻めろという脳の信号を受け取り、8割の力でボールを打ち続けていた代償は大きい。えげつない影村とのラリー戦。普通にバウンドしたボールを打つのではなく、ライジング気味で打たれたそれは、八神が次の態勢へと入る隙を見せられない程に、タイミングよく彼のコートの同じ位置へと返球されていく。もし八神がストレートへボールを切り替えしたら、影村に先ほどのゲームの時のように、急角度のショートクロスで八神のフォアハンド側の届かない場所へとボールを打たれることになる。それを見越してネット前へ詰めても影村からどのようなボールが打たれるかわからない。
「...見てるのがつらいわ。」
「俺もです...。」
影村は只々ポーカーフェースで同じ位置へとボールを返す。桃谷と矢留は何かえげつないものを見るような顔になる。矢留はもし自分が同じことをやられたら1分と持たないのではないかと考えた。池内もギョッとした目つきで影村を見ている。八神と同じ球速のボールを打ち合っても、一向に表情も変えず、疲れる気配を見せない影村。ラリーは3分40秒程続き、八神が息を散らしながら腰の回転による脇腹の痛みに襲われる。それはマラソンの時に現れる脇腹の痛みと同じものだった。
「...っあぁぁ!...っあぁぁ!...っぁ!」
バックハンドストロークを打たされ続ける八神の顔が疲労に歪む。影村は八神の打つボールが緩くなったのを見ると、一気に前へと詰め寄って、緩く上がったボールをスマッシュで叩いた。八神はラケットを杖のようにしてコート面で息を散らしながら屈んでいた。影村は大きく1回深呼吸する。
「0-30」
「......八神君が。」
「八神君大丈夫!?」
「八神君!」
八神は屈んだまま動かない。息が整わない。身体中に乳酸がたまって動けない。彼は屈んだまま顔を歪ませる。額からは大粒の汗が流れてそれがコート面へと落ちていた。八神は顔を上げた。影村は八神の顔をみて彼の今後の成長を期待した。疲労に歪みながらもその顔はまるで高い壁に挑戦しようとする一人のアスリートだった。八神の目から見た影村は只々高い山の見えない頂だった。
「...はぁ...はぁ...はぁ...(高けぇな...あぁ...竹下が優しく見えるぐらいに強えぇ...やっぱ強い奴とやるのは面白れぇな。)」
八神は曲げていた上半身を起こした。それを見たベンチからは黄色い声援が飛び交う。彼の復活にエールを送るファン達、そして彼を応援するベンチの神奈川商工大学のメンバーらと他のチームの選手達。影村は八神がうらやましく思えたが、今の彼には賞金の事しか頭になかった。
「キャー!八神君!」
「やった復活した!」
「キャー!」
「頑張ってー!八神くーん!」
まるでジュニアアイドルに声援でも送るかの様な光景を見た影村。彼は八神がサーブの構えに入ったのを見ると、ベースラインの内側でラケットを構えた。影村はまた無表情に戻る。サーブが打たれる。コースは影村のバックハンド側。影村は八神のスピンサーブをコンパクトなバックハンドスイングでストレートの深いボール打ち込んだ。
八神は走ってバックハンドストロークを影村のいないバックハンド側へと撃ち込む。影村は既にコートの真中でボールを待ち構えていた。影村は走りながら姿勢を落として右足を前へと出しボールに対して肩を向ける。まるで居合いのようにラケットを構えるとそれを一気に振った。
「.........!(片手バックハンド!?)」
影村の片手によるバックハンドストロークのボールがストレートへと打ち込まれる。八神は走り、今度はロブの高さまで行かないムーンボールを上げる。影村はスプリットステップを踏んだ。大きく息を吸い込み1歩、2歩、3歩と大股でコートを駆けると、4歩目で大きくジャンプした。彼は空中へと一気に飛び上がった。影村の魅せた驚異的な身体能力に八神の目がぐらつく。影村はラケットを一気に打ち降ろした。時速200キロのスマッシュが八神のコートへと突き刺さる。
「......っく!」
神奈川商工大学のメンバーらは悔しさにこぶしを握って手を震わせた。八神は影村の驚異的なジャンプ力と豪肩を活かした猛烈なスマッシュを見て、全ての時間が凍結した感覚に陥った。彼の中で、彼が積み重ねてきた努力、竹下という生涯のライバル。残りの天才達との熾烈な覇権争いの末の勝利。輝かしい過去の栄光。これまでのゲームの中で半壊状態だったその全てが音を立てて完全に崩れ去った。彼を圧倒的な強さで打倒したのは、5人の天才と呼ばれる面々でもない、国内では名前も聞いたことの無い、同年代の無名の高校生だった。
「ゲームセット! マッチ ウォン バイ 影村! トゥ 6-0!」
「...八神君。」
「嘘よ...嘘だって言ってぇ!」
「いやぁぁぁ!大人にも負けたこと無いのにぃ!」
「なんなの!あの対戦相手!雑誌でも見たこと無い!」
「で、でも公式戦じゃないもの!ノーカンよ!ノーカン!」
中高生女子達は狂気のように荒れ狂った。影村と八神はネットの前で握手をした。影村の翁手が八神の手を握る。八神はどこか清々しい表情で影村を見ていた。
「...高校生だって言ったな。どこの高校だ。名のある強豪校なんだろ?」
「海生代...千葉県の名も無い高校だ。」
「...海生代...おい、それって。ニュース記事に載ってた竹下の...次のインターハイには出てくるのか?今度は公式戦でやりたい!」
「俺は出ねぇよ。その代わりうちのエースがあんたにもう一度挑戦をしたいって息巻いてたぜ。」
「お前以上に強いやつがいるかよ。」
「...じゃあな。」
影村は荷物を取ろうとベンチへと向かうも、八神が少年の顔をして携帯端末を片手に声を掛けて来た。
「連絡先教えろよ。」
「あん?」
「...教えろよ。非公式の試合とはいえ、5人の天才のトップを潰したんだ。なかなかないぞ?有名人のダチ持つなんて。」
「すまねぇな。龍谷に続いて2人目だ。」
「...龍谷と!?まさか...お前、龍谷とも試合したのか!?」
「あぁ。」
「...どうだった...いや、俺に勝ったんだ。どうせストレートだろ?」
「...。」
影村は八神がグイグイと携帯電話を持って迫ってくる状況に困惑するも。ジャックの顔を思い出す。ジャックも最初は影村にぐいぐい接近して彼を困らせていた。その顔はキラキラとまるで新しい玩具を見るような純粋な少年の目だった。そんな彼が影村に対して言った言葉がとても印象に残っていた。
“対戦相手?うっせぇなぁ!コートの外じゃそんなもん関係ねぇよ!一緒に飯食おうぜ飯!な!ヨシタカ!”
ジャックが言ったその言葉は影村の中で大きく響き渡った。対戦相手だからと言ってコートの外でも対戦相手という訳ではない。影村はそれを思い出し、携帯端末を取出して連絡先を交換した。そんな状況を中高生女子達は羨ましそうに見ていた。
「次は負けねぇよ。」
「まず、俺から3ゲーム取ってみろ。」
「言ってくれるな。」
「...観客に礼言って来な。」
「...? あぁ。」
影村は布袋を担いでベンチへと戻って行った。八神は影村の背中を見送った後、自分のファンである中高生女子達の前へと移動して深く一礼した。矢留と池内は驚いた顔で彼の方を見ていた。桃谷は普段見せない矢留の驚いた顔を見てクスッと笑う。中高生女子達は戸惑いの表情で八神の方を見ていた。
「応援ありがとう!そして、ごめんみんな!ストレートで負けた!でも、次は負けない!これからも応援してくれ!」
彼の声はコート中に響いた。八神の顔は真剣だった。数々の試合中、ファンである彼女達や支えてくれた池内達がいてこそ勝てるようになったと改めて自覚したようだった。普段の高圧的で貴族様の様な姿勢の彼が誰かに頭を下げたのを見たのは、相沢も神奈川商工大学のメンバーらも同じだった。一礼を終えた八神のまるで竹下の爽やかスマイルと同じ雰囲気の顔に一同が固まる。
「や、八神...どうしちゃったの?」
「はっはっはっは!」
「笑いごとかよ相沢!え!?八神!?」
「んなもん、ったりめぇだろ八神!相沢の後輩は俺達の後輩だろが!」
「はっはっはっは!」
神奈川商工大学のメンバーの言葉に八神は更に笑顔になった。それは今まで誰も見たことがなかった顔だった。いや、一つだけ訂正すると、彼を小学校の頃から見てきた一部のファンと、年上の幼馴染で昔から彼を可愛がっていた相沢にとっては数年ぶりに彼の笑顔を見た状況となる。小学校からのテニス人生の中で一度も負けたことがなかった天才のたった一度の敗北。それは彼の中で成長するための起爆剤になるのであろうか。
「キャー!」
「キャー!八神くーん!(目がハート)」
「もうずっと応援します!これからも!」
「キャー!キャー!」
ファンである中高生女子達の横で、その甲高い耳が割れるような歓声に耳を押さえる矢留と桃谷。池内は八神に拍手を送った。そして真剣な表情で影村を見た。
「八神君。いい負けっぷりね。これで目標はできたわ。プロになったら彼と再戦しないと。でもまずは...」
「彼、高1です。」
「...え?」
「え?」
八神は東越大のメンバ達に肩を組まれたり、抱き着かれたり、頭を撫でられてぶっきら棒な面構えになっている影村の方を見て言った ”高1です“という言葉 。八神からこの単語が発せられた時、周囲にいた全員が固まった。八神は固まった周囲の人間達の顔を見て言葉も出ず、信じてもらえないんだといった表情で立ち尽くした。
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