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Moving On

manuscript.37

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 会場で試合を終えたプレーヤー達が皆第2コートへと集まっていた。八神はサーブの構えに入った。彼のファン達が嬉々とその姿を見る。影村は只々淡々とした表情で腰を落として踵を浮かせ、ラケットをクルクルと回しながら左へ右へと重心を移動させる。八神が脇を締めながらボールを持つ左腕で少し前気味のトスを上げる。


 影村はトスが始まると共に、スプリットステップを踏みベースラインの中へと1歩踏み出した。八神はトスされたボールめがけて膝を曲げ、まるで弓を引くような体勢を取り、トスされたボールが上がりきったところでラケットを振り上げた。

 「.........。」

 影村は八神のフォームからスライスサーブが来ると判断すると、コートの外側へと一歩飛び出した。八神のサーブから放たれたボールは、影村の予想通りスライス回転の掛かった状態で影村のコートサービスラインのフォアハンド側へとバウンドして、彼をコート外へ出そうとさらに角度をつけて飛んで行こうとした。しかしボールは影村のラケットのスイートスポットに捉えられた。

 八神の打ったボールへの一歩を出しながらラケットヘッドを立てたまま肩を小さく回す。この時点で影村のフォアハンドのラケットのテイクバック及び腰の捻りが完成していた。即ちボールがバウンドしてスライス回転によってコート外に出ようとしたところでもう彼のラケットが振られていたことになる。

 影村は驚異的な体幹の回転力と腕力。そして、体の前で打点を取ったことにより、ボールを捉えた後にラケットのスイングに乗せられる大胸筋の力により、超コンパクトスイングで尚且つハードヒットというあり得ない技を披露した。ラケットにボールが当たる音は、もう何かを思いっきり殴打したにドンッと分厚い音を響かせる。

 程よいスピン回転が掛かったボールとなって、八神のサーブが打ち終わった時点で既に彼のコートのバックハンド側のベースラインへとバウンドしていた。ファンの中高生女子達は影村の打った異常な打音のボールに動揺する。影村のフォアハンドは、既に外国人プロ選手が打つ程に強烈な一振りだった。

 「0-15」

 「.....リターンエース...嘘...。」
 「.........。」

 そんな周囲の状況を見た東越大の面々は、「やっぱりそうなるよね。」といった表情で全員がほくそ笑んでいた。信之は顔が引き攣っていた。神奈川商工大学のメンバーはとんでもない怪物の登場に肩を落とした。

 「......(東越大め。どこからあんな怪物連れてきやがった!プロか!?いや、でも聞いたことがないぞ!あんなプレーヤー!)」

 相沢は敏孝と森野を睨む。敏孝は切れ長の目で相沢へ視線を送る。その時の敏孝は冷徹美麗だった。一方矢留は影村のリターンを見て、もう彼がこの国の枠内に収まっていないのではないかと感じた。それは桃谷も同様だった。彼女は常にポーカーフェースだが、影村のサーブ、そして彼が今目の前で見せたリターンに動揺した。
 
 「鉄子先輩も驚くことがあるんですね。」
 「当り前よ。機械じゃないの。」
 「...あれはもう高校生の域じゃない。さっさと海外に出てもいいぐらいだ。」
 「...そうね。」
 「でも、少なくとも八神の方は嬉しそうだ。おそらく、竹下と同じでいつまでも挑戦者でいたいんだろう。」

 矢留と桃谷は、ラケットでボールを突きながら次のサービス位置へと向かう影村へ視線をやる。矢留は喜々として影村を見つめる八神の顔を見た。両者とも全く汗をかいていない。テニスでありながら、今の今までラリーがない。このような試合を見るのは誰しもが初めてだった。

 「......。(今のリターンエースどうやった...!やっべ...真剣にやっててポイントとかゲーム取られるの楽しいわ...全力出そう。ラリー戦に持ち込む。)」

 八神はサービスの構えに入る。影村はレシーブの態勢へと入る。風は無風。天気は快晴。観客は静まり返る。影村は淡々と八神の様子を窺う。トスが上がる。八神がサーブを打とうと体を捻じ曲げる。影村は八神のラケットの振りだしからボールのどの面を捉えるのかを見て、彼がフォアハンドのセンターへとフラットサーブを打ち込むと見た。ラケットを振る。当りはフラット。影村の予想が外れた。ボールは彼のバックハンド側へと飛んで行った。しかし影村は体一つ分反応して動いてしまった。ボールが影村のバックハンド側を通過しようとした。この時、東越大の面々はいつものアレを試合でやりやがったといった表情で影村を見た。観客席にいた皆がそれを目撃し衝撃を受けた。

 「.....。」

 影村はラケットを持った腕を背中に回して手首を裏返す。ラケット面がそのまま飛んできたボールにクリーンヒットすると、それはストレートに飛んで行った。八神はサーブを打った直後に猛烈な勢いで走った。影村の意表を突いた背中回しのラケットによるリターンはそこまで速度は早くないため、天才といわれる八神のコートカバーで拾うことができた。

 「...!?(野郎!今何しやがった!間に合う!)」

 八神はフォアハンドでボールを捉えると、ラケットを体一杯振り切って影村のコート上のがら空きになったフォアハンド側へと打ち返した。影村は既にベースラインの真中にステップしており、すぐにボールへと追いつくと今度は八神のがら空きになったバックハンド側のベースラインへとストレートにボールを打ち込んだ。コンパクトなフォームから繰り出されるあり得ないほどのパンチ力があるフォアハンドストロークのダウンザライン。ボールが八神のコート際へと飛んで行った。

 八神はまた全力でバックハンド側へと走って、バックハンドのスライスショットを影村のいないバックハンド側へと打ち返そうとした。速度は遅いが体勢は立て直せる。彼はそう判断しての事だった。

 「......!?(なっ!)」

 ラケットがボールに当たった瞬間だった。ボールが重い。関節にびりびりと衝撃が走るほどだった。ボールは影村の正面ネット前へと高く上がった。影村は大股で三歩助走をつけると足を踏みきって飛び上がり、まるでバスケット選手がダンクを決める様にスマッシュを決めた。

 「.........!(ダンク!)」

 ボールは八神の目の前を通過してバウンドすると、八神が届かないところまで高くバウンドして、コートの外へと出て行った。信行は開いた口が塞がらなかった。

 「ハハハハ。」
 「あいつ本当にやりやがった。」

 鈴子と山口は笑った。審判は影村のダンクスマッシュに見とれてしまったが、直ぐ我へと返った。

 「0-30」

 「ヒャー。ダンクスマッシュかよ。」
 「あれだけ身長デカかったら、さぞ気持ちよくスマッシュできんだろうな。」
 「東越大生のチームみたいだが、界隈じゃ見ない顔だな。」

 「八神君頑張ってぇ―!」
 「八神くーん!」
 「負けないでぇぇ!勝ってぇぇ!」 
 「せーの!いっけーいけいけいけいけ 八神!」
 「いっけーいけいけいけいけ 八神!」
 「押っせー押せ押せ押せ押せ 八神!」
 「押っせー押せ押せ押せ押せ 八神!」

 八神ファンの女子達が手拍子をしながら八神を応援するためのコールを送った。影村の動きが止まる。瞳がぐらつく。視界が歪む。コートの外が真っ白になり、そして音がまるで水の中に入っている時ように聞こえる。中高生女子達のコールは止まらない。敏孝は立ち上がる。森野も何かに気が付き慌てて立ち上がった。信行はあたふたしていた。

 「まずい!影ちゃん。」
 「あぁ、すっかり忘れてたぜ。あいつのアレは...」
 「...っく!」

 黄色い声援と応援は、会場にいる八神ファンの中高生女子達を中心に徐々に大きくヒートアップしていく。八神のメンタリティを盛り上げようとする中高生女子達の若々しい高い声による声援は、対戦相手である影村のU-12予選でのトラウマを呼び起こした。

 「いっけーいけいけいけいけ 八神!」
 「いっけーいけいけいけいけ 八神!」
 「押っせー押せ押せ押せ押せ 八神!」
 「押っせー押せ押せ押せ押せ 八神!」
 「いっけーいけいけいけいけ 八神!」
 「いっけーいけいけいけいけ 八神!」
 「押っせー押せ押せ押せ押せ 八神!」
 「押っせー押せ押せ押せ押せ 八神!」

 影村から見たコートの周りにあるベンチの情景が、U-12トーナメント予選の風景が重なった。影村の事情を知る敏孝、森野の2人は焦った表情となる。影村本人はコート面にラケットを立てて下を向いてしゃがんでいた。審判が彼の方を注視する。何か体調が悪くなったのかと審判台から乗り出して影村の方を見た。影村はしゃがんだままコート面を見て震えていた。中高生女子らの高い声が彼の記憶の中、罵詈雑言を送って来た少年少女達の声と重なる。

 「おぇおぇ!ミスれミスれよぉ!」
 「2年上の先輩に道開けろって、お前帰れよ!」
 「サーブはいらな―――い!帰れ~!」
 「いいぞいいぞ前橋!押せ押せ前橋!」
 「ヘイ!ラッキーラッキーラッキラッキー!相手打てねぇぞ!」
 「今アウトだろ!審判何やってんだ!」
 「うわ何あいつキッモ!前橋君頑張ってぇ~!」

 「    死    ね    」

 影村は堪えようとするも断続的に聞こえてくる声援がそれを許さなかった。彼は精神の中で、正体不明の存在に手足を取り押さえられ、一方的な相手のエゴを突きつけられる状況と同じものに襲われていた。彼はふと日本に帰ってきたばかりの事を思い出す。

 部活動の面々との打ち合わせが終わり、夜に家族が迎えに来た日。車の中で父親と交わした会話を思い出す影村。その時の会話の内容が頭の中に薄っすらと響き始めた。

 ”日本の学校はどうだ...。!“
 ”あぁ、あっちに比べれば大したことはない。“
 ”そうか...母さんから聞いたよ。部活、テニスにしたそうだな。止めはしないさ。お前はあの時よりも格段に強くなった。コートの上で思いっきり暴れな。“
 ”そうするさ。“


 ”......もし、あの時と同じことが起きたらお前どうする気だ?“



 影村の中に何かがこみあげてくる。彼はU-12予選会場で怯えながら試合をしていた状況を客観的に自分という存在から離れた状態で見ていた。あの時もっと強かったら、あの時アンディの言った様に馬耳東風を貫いていたら、圧倒的な力で観客の上級生を黙らせられたら。情けない。影村のトラウマの中の世界で感じた恐怖は、次第に込み上げてくる何かに変換され始めた。そして彼の「~だったら」がその赤黒く燃え上がってくる何かに変換されてゆく。答えを出せと提示してくる。


 ”......もし、あの時と同じことが起きたらお前どうする気だ?“


 父親が質問した内容に対し、彼の記憶の中での回答はこれだった。


 ”圧倒的な実力差でねじ伏せるさ。“

 ”実力差でねじ伏せるさ。“

 ”ねじ伏せるさ。“

 
 影村の中でエコーのように響くその回答と共に込み上げたのは只々”静寂な激怒“だった。彼は立ち上がって大きく深呼吸する。東越大の面々は安堵するのも束の間。八神は次のサーブ位置で構えに入る。影村は怒りに支配され、八神ファンである中高生女子達の声援が耳に入らなくなっていた。八神がトスを上げる。影村は八神の焦った表情や体の動きから既にコースを読んでいた。

 「.........フゥ。」

 影村は小さく呼吸を整える。八神がサーブを打った。ボールはバックハンド側へのスピンサーブ。影村はボールがバウンドする位置が自分のバックハンド側だとわかると一気にステップを踏んだ。横へ飛ぶように大きく2歩移動しながら左手を前に出し、重心を前気味にボールに対して斜め前に倒しながら、バウンドして上がってくるボールに対して体を回り込ませた。それと同時に彼はコンパクトなフォームというリミッターを解除したかのように、ラケットを思いっきり後ろいっぱいにまで真直ぐテイクバックする。そしてバウンドして上がる途中のボールに対して、憤怒の籠った全力の力でラケットをコート面と平行に振り、そのまま体に巻き付けるようにフォロースルーした。最早比喩の出来ない程の打音が会場中に響いた。

 会場にいる誰しもがそれを初めて見る。我々のいる世界歴代のテニスプレーヤー達の中でバコラーと呼ばれる者達や、世界の上位にいる選手達が打つウィナー級のフォアハンドストロークと同じ速度。フェルナンド・ゴンザレス、ジェームズ・ブレイク、フアン・マルティン・デル・ポトロ、ガエル・モンフィス。錚々たる化け物のフォアハンドストロークに匹敵する威力は、この物語の世界で起きた、吉岡昭三が活躍して以来、日本テニスは氷河期でもう突出した選手は出てこない。日本人は弱いという彼らの中で構築されてしまった、硬く凝り固まった常識を貫いて破壊していった。

 ボールは激烈な速度で、八神のコートのバックハンド側ベースラインいっぱいへと撃ち込まれた。砂煙が上がる。そしてボールがベンチ前の壁に当たってそれに驚く悲鳴も上がった。会場にいた全員が影村の怒りの全力で打たれたフォアハンドを見て暫く放心状態となる。まさか日本人選手から195㎞/h程度の速度でフォアハンドが飛んでくると誰が思うだろうか。5人の天才と呼ばれる八神ですらこの経験は初めてだった。審判は意外と冷静にボールの行方を追っていたが全く見えなかった。しかしベースラインの砂煙が起きた場所を見て、ライン上に痕が残っていることを確認する。彼は思考に口が追い付かなったが、何とか声を絞り出した。

 「ら...0-40!」


 「うわぁぁぁぁぁ!」

 「なんだ今の!」
 「マジかよ!今のフォアだぞ!?」
 「やべぇ...あいつ...あいつやべぇ...!」

 どよめいた後の爆発的な歓声。影村の放った一本のフォアハンドが自身のトラウマをぶち壊し、そしてファン達による八神への声援も黙らせた。八神はラケットを持つ手が震えていた。そして、自分の目指す頂迄の場所がまだまだ遠いのだと痛感させられたことにその表情を歪ませた。
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