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第22話:刺客の魔女は微笑みながらこの国を終わらせた件
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この国には、刺客の魔女と呼ばれる者がいる。
その中では王妃シュイが最も有名な伝説の魔女だが、国の名前が変わるたび、王が変わるたび、支配者が変わるたび、そっとその権力者の側に忍び寄っていた女たちがいた。
それは何年も、何十年も、何世紀も続いてきたこの国の秩序の要だった。
彼女たちの役目は、国の支配者が正しく国を治めているかを見極めること。
正しく、の定義は人それぞれだし、恣意的に判断する権利はもちろん持たない。
彼女たちは、王の素行や国の行く末の情報をつぶさに魔女たちに共有し、王を生かすべきか、殺すべきかを魔女たちに判断させる。そして、その判断のもと『魔女の粉』を使う、つまり王に飲ませる役目を追っていた。
もちろん先日没したハンブル国王にも、刺客の魔女がついていた。
名前は、クレイ。
***
クレイは、ランヴィール家の近縁の家の娘だった。
大きな瞳は優しさを象徴しているようで、自分を主張しすぎず、かといってむやみに屈する娘ではなかった。
そしてなによりも、運命を受け入れる強かさを持っていた。
ヴェルサが手塩にかけて育て、12歳のころ、王宮付召使として城に上がった。
王を監視する役目に従事するために、彼女はよく働いた。可愛らしく、従順なクレイは慕われ、14歳になるころには王室での仕事を任されるほどになっていた。
それまでに魔女たちに届いた手紙は、およそ300通を超えていた。
「その頃は、まだお前の父が魔女頭だったな。」
ミケルが年を数えるように、指を折ってそう言った。子爵は黙って頷いた。
「その頃はまだ良かった。あの王も早くに両親を亡くしていて、摂政の操り人形じみたところはあっても、無茶苦茶をすることはなかった。狂い始めたのは、20代中ごろ以降。婚礼の話が舞い込んだあたりだ。」
王は女に狂い始めた。
王はアマリナという18歳の貴族の娘と結婚した。女を知ってしまったためか、何かの反動かのはわからない。
その頃から、王の素行が悪くなってしまった。色欲狂いの権力者だ。当然、そのことは魔女たちの耳に入った。
権力者たちが一時的に女に溺れることなど、そう珍しくもない。
誰だって恋はするだろうし、そういう時期は誰にでもあるものだ。
けれど、傾国に惑わされ、いつしか国を滅ぼした権力者もまた存在した。
魔女たちはそれがさほど珍しくないということを、よく知っていた。
アマリナは世間知らずの令嬢で、なんでも王に強請った。そして心から王を愛していた。
束縛じみた愛情は、いっそ恐ろしくもあった。クレイはそう言っていた。
王もまたアマリナを溺愛し、甘やかした。時には、正しい判断を行えないほど。
「そんな王の婚礼から1年ほどたったある日。俺は彼女に会ったんだ。」
柔らかい風が、2人の髪の揺らす。
ミケルは少し目を細めた。
「俺の父親が、亡くなった年だ。覚えてるか?」
子爵は黙って頷いた。
よく覚えていた。5歳という年齢だったが、いつもは聞き分けよくニコニコしてばかりのミケルがあんなに泣いたのを初めて見たからだ。他のことはぼんやりとしか覚えていないが、その記憶が消えることはなかった。
「魔女たちに口頭で色々と報告をするためだったのだろうか。理由はよくわからないが、彼女は城からブロイニュに戻ってきていた。」
「……里帰りだと、言っていた。」
ヴェルサがそう言っていたのを子爵は思い出して言った。
「そう……。そうだったんだ。」
ミケルはふふっと笑った。
子爵はきっと、自分がクレイと昔会っていたことも、ずっと自分が抱えていた思いも、本当は全てわかっているんだと理解した。
そして遠くでこちらを見つめる彼の従者の有能さを、心の内で褒め称えた。
「彼女は俺にとって、ずっと、太陽だった。」
鮮烈に。
強烈に。
それは心に刻まれた。
もしかしてあれは、呪いだったのかもしれない。
***
父が亡くなったのは、突然のことだった。
ずっと病気がちだった母は、そのショックで気がふれてしまった。
今でこそ少し回復してはいるが、その当時は本当にひどかった。
発作的に暴れるので、部屋に軟禁して魔女たちがまじないを施したが、あまり効果はなかった。
俺はそれからしばらく、ラウルの家に厄介になることなった。
そんな折、王宮への潜入を手配したラウルと懇意にしていたのか、クレイが俺の世話係として数日間ラウルの家にやってきた。それは今思えば、すべて、周りの魔女たちが俺を気遣ってやってくれたことだと思う。
「はじめまして。」
初めて会った時、そう言ってクレイは微笑んだ。
「……うん。」
年上の女性に甘えるには、少しの勇気がいる。そういう年齢だった俺は初め、うまく話すことができなかった。
そんな子供に、クレイは一切容赦しなかった。
俺の手を取り、もう一度。
「はじめまして。ミケル。」
「……は、はじめまして。」
彼女は短く笑って、褒めるように俺の頭を撫ぜてくれた。
「良い子。」
それは、それまで受けたことがない母親の愛のようなものだった。
「おいでミケル。庭を散歩しましょう。」
そして手を握り、俺を引っ張って庭のあちこちを散策した。
ラウルの家の庭園も、自分の家の庭園と同じくらい凝っていて、色々な種類の花や木が植えてあった。
彼女はその一つ一つの名前や特徴を教えて回ってくれた。
そして夜は空を見て、星の名前を教えてくれた。
「今の時期なら、スピカが見えるよ。」
彼女は青白い星を指さして、にっこり笑った。
「スピカ?」
「星の名前。この幾億もの星々にはね、名前があるのよ。正確には全てに名前を与えられているわけじゃないけれど。」
彼女は星が好きだと言った。
夜を照らすものは、美しい。
月も、星も。時々宙を舞う蛍も。
そう言った。
特別なことなんてなかった。
だけれど、自分に対して無為に甘やかしたり、腫物を扱うようにしたり、同情したりしないその存在は、特別だった。
たった数日間の出会いだったけれど、その後もずっとクレイのことは忘れられなかった。
手紙を交わすようなことはなかった。姿を見ることもなかった。
それでも、気づいたら自分にとって最も大切な存在になっていた。
こんな些細な出会いがこんなに輝くほど、俺の幼少期は思ったよりも愛情が欠落したものだったのだと思う。
そんな彼女が18歳になった頃。
彼女が王の子供を産んだ、と魔女が言っているのを聞いてしまった。
そんな公の発表など、どこにもなかった。
王宮付召使が第二王妃になったなど、そんな話はどこにもなかった。
ラウルにそれとなく聞いたら、2年ほど前から彼女は一度もブロイニュには戻っていなかった。
それどころか、王に目をかけられ秘密の愛人として国のあちこちを連れまわされているということが分かった。
一気に彼女が穢されてしまったような、衝撃を受けた。
そして国王が彼女の存在をひた隠しにして、孕ませてもなお、公にしないという歪さに嫌悪した。
その理由として、アマリナの嫉妬深さがあったのだけれど、それではあまりにも不誠実だ。
アマリナにも。クレイにも。民に対しても。
その時も魔女の間で波紋が起きた。
刺客の魔女が国王の懐に入り込んだことにおいては、彼女の功績は大きかった。
だが、刺客の魔女が王の子を孕むなど前代未聞だった。
彼女はその存在を隠すためかほとんど軟禁されているようで、手紙の数はかなり減ってしまっていた。
めったなこともかけないため、暗号めいた詩が送られてくることが多かったようだ。
その詩の一つを読んだことがある。
彼女が教えてくれた星の名前や草木の名前がたくさんちりばめられていた。
そして、そこには真実が書かれていた。
『青い星は 王の 子供では ない』
だけどこれは、俺の話したいことの本筋ではない。
また、別の話だ。
***
少し日が陰ってきたので肌寒くなっていた。
「……クレイのことを愛していたんだな。」
子爵はぽつりと言った。
「恋慕かといわれると。それは違う気がする。」
ミケルは遠くを見つめて言い切った。
「それから5年後。あのスキャンダルがあった。」
――あのスキャンダル。
クレイの存在に気が付いたアマリナが、発狂して王を殺そうとした。
これまでの妃の束縛から逃れたかったのかもしれない。王は激高し、ある夜、アマリナと王女を着の身着のまま森の中に捨てた。
「それで、『魔女の粉』を使うかを決める裁判が行われた。……それは、ウィルが初めて魔女頭として立ち会った『魔女の粉』に関する魔女裁判だった。」
子爵は目を閉じて、頷いた。
「12歳だ。それでもお前は、考えのない行動はとらなかった。分別があった。軽率ではなかった。」
声が、次第に大きくなる。それは、ミケルの感情の高ぶりだろう。
「でも、だからこそ……彼女は死んだ。」
ミケルは泣きそうな顔をした。だけれど、もうとっくの昔に涙は枯れていて、目からは何も零れやしなかった。
「いや、言いがかりだな……。あの時粉を使い始めたとしても、彼女はあの決断をしていたかもしれない。」
首を振る。
刺客の魔女は、いよいよ自分の存在が公にされ、自分の息子の存在が公にされるとなった時、ある決断をした。
それは意地のようなものであり、息子を守るための行為だったと思う。
『玉座の間』と呼ばれる古代から伝わる正統なる王の儀式の間の鍵を隠し、王の怒りを買って投獄されたのだ。
そして同時に、息子が城から姿を消した。確かなことは分かっていないが、十中八九彼女が城から逃がしたのだろう。
それは、明らかにこの国を滅ぼすための行動だった。
『玉座の間』の鍵は、王や権力者が変わってもずっと受け継がれてきた、いわば統治者の証だった。王家が代々守り続けており、ハンブル国初代国王の宣誓によると、鍵の放棄は、王位の放棄とまであった。
その鍵を失わせた。また、世継ぎである息子も失わせた。
『魔女の粉』が届くのを待つのではなく、彼女は彼女の判断で王を裁こうとしたのだ。
自分の身を滅ぼすことになっても。
「いつかヴェルサ様が、あの娘は強情で頑固なところが玉にキズと言っていたのを思い出したよ。だってあの行為は、魔女達への裏切りでもあった。だけど、助けもなく、魔女との疎通が叶わなくなった彼女は、自分の信念で動いた。迷いなく。」
そう言ったミケルは彼女を誇っているように見えた。
「この国は、滅ぶべきだと。」
だけど、とても悲しんでいる。そんな表情をした。
「そして。彼女は牢の中でひっそりと死んだ。」
***
それは2度目の、ハンブル王に対して『魔女の粉』を使うかを決める裁判。
刺客の魔女を失った魔女たちは、この裁判で大いに荒れた。
「使うべきだ!今こそ魔女の粉を!」
「あの愚かな王に!裁きを……!」
喧々囂々。
怒号がこだまする。
子爵は目を閉じてそれを聞いていた。
ミケルはクレイが死んだということがいまだに信じられず、ただただ呆然とするだけだった。
――殺してほしい。殺してやりたい。
感情だけが凶暴に脳内を吹き荒れていた。
他の魔女たちの怒りもすさまじく、場内は収まりがつかない状態だった。
そんな中、ヴェルサたちランヴィール家の人間と子爵だけは、ただただ口を閉ざしていた。
「子爵……!ご決断を!!!」
誰かが、14歳になったばかりの子爵にすがるような声を吐きかけた。
長い沈黙の後、子爵は難しい顔をして話し出した。
「……あの王についてだが。」
ひとり、円の中心に立つ少年はひどく凛としていた。
「確かに民には、ひどく嫌われている。1年前に妃と王女を無慈悲にも捨てたこと。それまでの、妃を優先するあまり国庫を食い荒らし、国を財政難に近づけたこと。そのせいで失業者がたくさん出て、治安が悪くなったこと。それらの面で愚かしい王であることには間違いない。」
そうだ!と周りからヤジが飛ぶ。
「だが、ここ数年の政治は摂政の力もあり、安定している。出した損失を巻き返すことについては少なからず成果を上げている。今、王が死んだら次に王になるのは誰だ?世継ぎは一人もいない。兄弟も。王家の血を引いた者たちはいるにはいるが、おそらく玉座争いになり、さらに国が荒れるだろう。」
「……でも!」
誰かが叫ぶ。
「でも、クレイは!」
「クレイのことは。」
子爵の語気が強まる。
「本当に残念に思っている。刺客の魔女との連携がうまく取れない状態になってしまったのは、クレイひとりに頼りすぎていたからだ。それは我々の落ち度だ。」
ヴェルサはすっと立ち上がった。
「子爵のおっしゃる通りです。城に送った魔女が、クレイだけだったことは私の判断ミスですわ。」
そして頭を下げた。
「国王は愚かだ。だが、殺すデメリットが大きい。意趣返しのために、『魔女の粉』を使うことに賛成する者が、いるということか?」
子爵がじっとあたりを見渡すと、それまで殺気立っていた魔女たちは各々顔を見合わせてからうなだれた。
「現時点での粉の使用は不適切だと判断する。ランヴィール夫人。次の刺客の魔女についての人選は任せます。お願いできますか。」
「……もちろんです。ヴァーテンホール。」
ヴェルサは頷いた。
「異論がある者は?」
あたりが静まり返る。
どうして。
ミケルは叫びそうになった。
どうして、こうなってしまうんだ。
魔女は愚かな決断はしない。だから、国の行く末を左右する力を持っていても、無理に介入することはしない。
支配者にとっても、優秀な者たちだろう。
でも、心がないわけじゃない。
刺客の魔女が身を呈して国王に立ち向かったことに、心打たれないわけにはいかなかった。
彼女の無念を晴らしたいという気持ちを芽生えさせないわけにはいかなかった。
だから。
***
「だから、『魔女の粉』を模造したんだな。」
夕日が山間に沈みかけていた。
「お前と、ラウルで。」
ミケルは何も言わなかった。頷かないし、首も振らない。相変わらず穏やかな顔で伸びる自分の影を見つめていた。
「ラウル殿は……俺の父代わりだったんだ。お前にとってのアーノルド侯みたいなものだよ。」
「……あぁ。そうだな。」
「俺のことを尊重して、協力をしてくれただけだ。あの人が主導したんじゃない。」
「同じことだ。どちらでも。」
そうか、とミケルは呟いた。
「お前ほどではないけれど、俺も薬学は好きだったんだ。あの人が教えてくれた草木の話は、思い出すと本当に眩しくて。あの人みたいに詳しくなりたいと思ってた。」
「クレイは魔女の中でも、賢しかったと聞くからな。」
「そうだね。でもそれを押し付けたりはしない。優しくて穏やかで、平凡で。本当に、尊い人だったよ。」
子爵は黙った。
クレイのことをミケルほど知らない。知らないからこそ、あの判断を行えたのだ。
クレイは人に愛される才能があったのだろう。あの裁判の時以外で、あんなにあらぶった魔女たちは今まで見たことがない。ミケルと同じで、皆クレイを愛していて、だからこそ納得がいかなかったのだ。
「だから、『魔女の粉』のレシピがなくても紛い物くらいは作れた。」
「あぁ、よく出来た紛い物だった。」
「……ああそっか。マリットから回収したんだったね。……何点だった?」
「57点だ。成分の半分が正しかったと思う。それは称賛に値する。」
「……あははっ。さすがだよ。敵わないなぁ。」
ミケルは困ったように笑った。
「俺さ、正直魔女というものはよくわからない。武力を使ったって、粉を使ったってどっちでもいいと思う。正しいと思うことをするための手段は、どっちだっていいんだ。」
「そうだな、お前は簡単に武力を使う。魔女らしからぬ奴だ。」
「はは、それで一度ラピスを助けたんだから、その点は褒めてほしい。」
「礼を言う。恩は買いたくなかったがな。」
そう言ってすっと背筋を伸ばした子爵は、やっとまっすぐミケルを見つめた。
ベンチに座ってから一度も目を合わせなかった2人が、ようやっと目を合わせた瞬間だった。
「『魔女の粉』も紛い物も、魔女も、どうでも良かった。ただ、ハンブルを殺したかった。それだけだよ。」
子爵は深いため息をつき。意を決したように話し出した。
これは、宣言だった。
「……お前の家に出入りしている商人、薬師。ラウルの家も同様、すべて調べ上げた。証拠はそろっている。お前のこの庭園に魔女の粉の原料の薬草たちが植えてあることも。全部調べた。」
「さすが。ブレトンは優秀だからね。」
「それから、お前の従者の一人、あれは口が軽すぎる。恋人に対して何でも話しすぎだ。」
「あぁ……、カイのことかな。君のところの使用人と恋人なんだったね。」
ミケルはしかたないなぁ、という顔をした。
「ミケル。お前やラウルは魔女の社会において、重要な地位を持った存在だ。失いたくない。」
ミケルは黙ったまま微笑んだ。
「それでもお前たちを殺さないといけない。これは、ルールだ。」
「……俺を殺したら、魔女の世界は二分されることになるよ。ウィル。少なくとも、やはりハンブルを殺すべきだったと考えている魔女は少なくない。それはよくわかってるだろう?」
「脅しか?」
子爵が眉をひそめると、ミケルは肩をすくめた。
「まさか。忠告だよ、親愛なるウィル。これは友人として。」
「……解っているさ。」
ため息をついて子爵が立ち上がり、そして剣に手をかけスラリと引き抜いた。
「俺みたいな考えを持った魔女は増えている。そして、俺たちは『リブレリーア』を非難しないよ、ウィル。彼らは武器ではなく筆で間違った王政を裁こうとしたのだ。どうして彼らを裁こうと思える?鍵を隠したクレイや、魔女の粉を使うお前たちと何が違った?」
子爵はゆっくりとその剣をミケルの喉元に近づける。
それでもミケルは微笑んでいた。
「それすらも認められない『魔女』とはなんだろう?」
「……ミケル。」
もう黙れ、と言わんばかりに子爵はミケルを睨んだ。
掲げた剣は、少しだけ震えていた。
「もっとうまく隠すこともできただろう。ミケル。」
ミケルはそう言った子爵の顔を見上げてふっと笑った。子爵は今にも泣きそうな顔をして、歯を食いしばっている。口角が震えているのが見て取れた。
――甘いなぁ。
ミケルは微笑みながら、そんなことをぼんやり考えた。だけど、ウィルらしいな、とも思った。
「隠すつもりなんてなかったよ。お前なら真実に辿り着くとも思ってた。」
「……だろうな。」
最初から。
全て覚悟していることなんて分かっていた。
ミケルは隠れるつもりがなかったし、逃げるつもりもなかった。それは、彼の態度や、これまでの彼の生き方から理解できていた。
「ウィル。俺が最初に言ったこと。あれは絶対に忘れないで。」
「……もう忘れた。」
子爵はぎゅうっと柄を握りしめ、剣を振り上げた。
そして、ミケルはすうっと目を閉じたのだった。
***
ドシャっ。
剣が振りおろされた瞬間。
すっかり日が暮れて紫色に染まった空が照らす暗色の砂の上に倒れこんだ。
ただし、子爵が。
「……は?」
ミケルは目を開けてその惨状を目の当たりにする。
そこには、地面に押し倒された友人と、吹っ飛んで地面に突き刺さった剣と、友人を押し倒した女の子の姿があった。
「……ちょ、え、何。」
ミケルは思わず立ち上がる。
そしてその少女は間違いなく。
「ラピス……?!」
ラピスだった。
「ど、どうし……――」
ミケルがラピスを起こそうとすると、子爵がラピスをはねのけて起き上った。
「どうして君がいる!?」
子爵が叫んだ。怒声だ。
「なぜ君が飛び出してくるんだ!」
ラピスを怒鳴りつける子爵は、彼を生まれたときから知っているミケルも見たことがないほど感情を高ぶらせていた。
ラピスは無言のまま、むくりと身を起こした。
ミケルは困惑してラピスを見やる。
ラピスは泥がついている顔を乱暴にぐいっと拭うと、ばっと顔を上げて子爵を睨んだ。
「あなたが泣いているからでしょう!!」
はっと子爵の方を見ると、確かに子爵の鋭い目からは涙が零れ落ちていた。
さっきまでは流れ落ちていなかった綺麗な滴が、頬を伝って顎もとから地面に落ちる。
「事情はよく……解りませんが。」
ラピスはぐらりと立ち上がった。思いっきりタックルをかましたのか、足が擦り剥けて血が流れていた。
「ミケルさんを殺すなんて……ダメに決まってるじゃないですか!」
「君には関係ないことだろう!!」
子爵もぐらっと起き上がり、吠えた。
「関係ないに決まってんでしょうが!」
――ええ……?
ミケルは無茶苦茶なことを言うラピスを見つめた。
「誰も関係ありませんよ!魔女も!子爵も!!何もかも!」
気が付けばラピスの瞳からも大粒の涙が零れ落ちていた。
「心にもないことをしようとしているあなたを止めるのは!私がそれを間違っていると思うからです!」
「君は何も知らない!知らないなら口を出すな!!!」
地面に刺さった剣を掴んで叫ぶ。その瞬間滴が宙を舞った。
「知ってますよ!!あなたが彼を殺したくないって思ってることくらい!」
ラピスの声は震えながらも真に迫り、心に迫った。
「友人も切る覚悟があるなんて、そんなの嘘に決まってる!!子爵は、そんな人じゃない!!」
「私は……――ッ!」
子爵は言葉を詰まらせた。どっと、さらに涙が溢れて声が出ないのだ。
「どうしてもこの人を切るというのなら、私も切りなさい!」
ラピスはがばっと子爵の右腕と、左手の剣に掴みかかった。
「ちょ……ラピ――」
ミケルは慌てた。このままではラピスも切られてしまう。
「私は!」
だけど怯むことなく、ラピスは叫んだ。
「あなたが傷つくなんて許さない!」
――あぁ。
なんて綺麗な涙なんだろう。と、ミケルはぼんやりと考えた。
自分の瞳からは一滴たりとも涙は出なかった。
死ぬのは怖くなかった。当り前だと思っていた。
だって自分も、魔女の世界のひとりなのだから。
***
本当は、すごく怖かった。
子爵がミケルに剣を向けた瞬間、怖くて怖くて動けないと思った。
でも気が付いたら、私は子爵に体当たりをかましていた。
そうしたいと思ったことに、理由などなかった。
しばらく沈黙が続いた。どちらも言葉を次げなかったのだ。
子爵と私は、互いに見つめあったまま膠着した。
数分間そのままだったと思うが、ふと子爵は剣から腕を離した。バランスを崩した剣はそのまま地面にカランと落ちた。
「…………言ったじゃないか……。私は、友人も、家族も……誰でも殺すと。」
そして弱々しく、そう呟いた。
もうこちらを見ていない。目を逸らしてそう言った。
「言いました。でも、それは子爵の意思じゃない。そんなの、嘘です。」
私は逸らさない。絶対に逸らさない。
今、目を逸らしたら、もう取り返しがつかないと思った。
「ミケルがどんな裏切り者でも。あなたがそれを悲しまないわけがない。私は、そう信じます。」
だって彼は、あの日、泣き崩れそうな顔をしていた。
魔女の裁判から帰ってきた時。
あれは、魔女頭としての子爵じゃなかった。
「……では君は。魔女の掟を私に敗れというのか?」
「言います。」
子爵は、はっと笑った。嘲笑ったようだった。
「君は無責任だ。」
「ごめんなさい。」
「……謝ればいいというものではない……。」
「でも、他の道を探すのは手伝います。」
子爵はピクリと、前髪を揺らした。
「そもそも、魔女の世界のルールはあなたに負担をかけすぎです。そこんとこが私は気に喰わないんです。」
「…………はぁ?」
子爵は呆れて、やっと私の顔を見た。もう涙は消えていた。
「魔女は知的です。分別がある人たちです。話し合って、決めるべきです。それができる人達のはずです。」
勝手なことを言っていると、本当は分かっていた。
だけど、代案もなく止めろだなんて、誰にも言う資格はない。
だから、でっち上げたような馬鹿な代案でも、私は言わなくてはならない。
「その結果、ミケルを殺すという結論になったら?」
「……私は、彼が何をしたかを知りません。裁かれるべきなのであれば、そうなのでしょう。その時はミケルに死んでもらいましょう。」
「……はぁ?!」
子爵は本当に呆れたようだった。意味不明なのだろう。
「本当に罪人なんだったら、役人に突き出せばいい。」
それは人の法でさばけばいい。
「でも、そうじゃないなら、その時は私がミケルを助けます。あなたが殺さなくて済むように。魔女の外の世界から、私が手を伸ばします!」
「…………。」
子爵はポカンとした。
「どうしますか。」
私はもう一度、子爵を睨む。
「……はぁ……。」
子爵は空を見上げ、ため息をついた。
そして、私の手を腕からはがし、ゆっくりとミケルに近づいた。私はすかさず地面に転がった剣を取り、3歩下がった。
「……ミケル。」
「うん。」
ミケルは相変わらず微笑んでいた。
「お前を魔女裁判にかける。ラウルもだ。私はお前たちの魔女の世界での地位を剥奪を命ずる。」
「…………それでいいの?魔女の長としては。」
ミケルが挑発するようなことをいうので、私の肝はまた冷えた。
「良いことはない。けれども、お前の言う新しい考えを持った魔女が少なからずいることは、私も理解している。そしてそれは今後も大きな火種になりかねない。だから、魔女の世界のルールのほうを変える。」
ミケルは少し驚いたように目を見開くと、呆れたように笑った。
「……大きくでるなぁ……ウィル。」
「この問題もちょうど片づけなければならないと思っていたところだった……。」
子爵は首を小さく振った。
「お前はその礎になれ、ミケル。それが贖いだ。」
ミケルは口を小さく開いて、何か言おうとしたが、何も言葉を発することはなかった。
代わりに、ようやっとその綺麗な瞳から涙が溢れ出した。
「時間はかかると思うけれど。」
子爵はそう小さく言って微笑んだ。
その中では王妃シュイが最も有名な伝説の魔女だが、国の名前が変わるたび、王が変わるたび、支配者が変わるたび、そっとその権力者の側に忍び寄っていた女たちがいた。
それは何年も、何十年も、何世紀も続いてきたこの国の秩序の要だった。
彼女たちの役目は、国の支配者が正しく国を治めているかを見極めること。
正しく、の定義は人それぞれだし、恣意的に判断する権利はもちろん持たない。
彼女たちは、王の素行や国の行く末の情報をつぶさに魔女たちに共有し、王を生かすべきか、殺すべきかを魔女たちに判断させる。そして、その判断のもと『魔女の粉』を使う、つまり王に飲ませる役目を追っていた。
もちろん先日没したハンブル国王にも、刺客の魔女がついていた。
名前は、クレイ。
***
クレイは、ランヴィール家の近縁の家の娘だった。
大きな瞳は優しさを象徴しているようで、自分を主張しすぎず、かといってむやみに屈する娘ではなかった。
そしてなによりも、運命を受け入れる強かさを持っていた。
ヴェルサが手塩にかけて育て、12歳のころ、王宮付召使として城に上がった。
王を監視する役目に従事するために、彼女はよく働いた。可愛らしく、従順なクレイは慕われ、14歳になるころには王室での仕事を任されるほどになっていた。
それまでに魔女たちに届いた手紙は、およそ300通を超えていた。
「その頃は、まだお前の父が魔女頭だったな。」
ミケルが年を数えるように、指を折ってそう言った。子爵は黙って頷いた。
「その頃はまだ良かった。あの王も早くに両親を亡くしていて、摂政の操り人形じみたところはあっても、無茶苦茶をすることはなかった。狂い始めたのは、20代中ごろ以降。婚礼の話が舞い込んだあたりだ。」
王は女に狂い始めた。
王はアマリナという18歳の貴族の娘と結婚した。女を知ってしまったためか、何かの反動かのはわからない。
その頃から、王の素行が悪くなってしまった。色欲狂いの権力者だ。当然、そのことは魔女たちの耳に入った。
権力者たちが一時的に女に溺れることなど、そう珍しくもない。
誰だって恋はするだろうし、そういう時期は誰にでもあるものだ。
けれど、傾国に惑わされ、いつしか国を滅ぼした権力者もまた存在した。
魔女たちはそれがさほど珍しくないということを、よく知っていた。
アマリナは世間知らずの令嬢で、なんでも王に強請った。そして心から王を愛していた。
束縛じみた愛情は、いっそ恐ろしくもあった。クレイはそう言っていた。
王もまたアマリナを溺愛し、甘やかした。時には、正しい判断を行えないほど。
「そんな王の婚礼から1年ほどたったある日。俺は彼女に会ったんだ。」
柔らかい風が、2人の髪の揺らす。
ミケルは少し目を細めた。
「俺の父親が、亡くなった年だ。覚えてるか?」
子爵は黙って頷いた。
よく覚えていた。5歳という年齢だったが、いつもは聞き分けよくニコニコしてばかりのミケルがあんなに泣いたのを初めて見たからだ。他のことはぼんやりとしか覚えていないが、その記憶が消えることはなかった。
「魔女たちに口頭で色々と報告をするためだったのだろうか。理由はよくわからないが、彼女は城からブロイニュに戻ってきていた。」
「……里帰りだと、言っていた。」
ヴェルサがそう言っていたのを子爵は思い出して言った。
「そう……。そうだったんだ。」
ミケルはふふっと笑った。
子爵はきっと、自分がクレイと昔会っていたことも、ずっと自分が抱えていた思いも、本当は全てわかっているんだと理解した。
そして遠くでこちらを見つめる彼の従者の有能さを、心の内で褒め称えた。
「彼女は俺にとって、ずっと、太陽だった。」
鮮烈に。
強烈に。
それは心に刻まれた。
もしかしてあれは、呪いだったのかもしれない。
***
父が亡くなったのは、突然のことだった。
ずっと病気がちだった母は、そのショックで気がふれてしまった。
今でこそ少し回復してはいるが、その当時は本当にひどかった。
発作的に暴れるので、部屋に軟禁して魔女たちがまじないを施したが、あまり効果はなかった。
俺はそれからしばらく、ラウルの家に厄介になることなった。
そんな折、王宮への潜入を手配したラウルと懇意にしていたのか、クレイが俺の世話係として数日間ラウルの家にやってきた。それは今思えば、すべて、周りの魔女たちが俺を気遣ってやってくれたことだと思う。
「はじめまして。」
初めて会った時、そう言ってクレイは微笑んだ。
「……うん。」
年上の女性に甘えるには、少しの勇気がいる。そういう年齢だった俺は初め、うまく話すことができなかった。
そんな子供に、クレイは一切容赦しなかった。
俺の手を取り、もう一度。
「はじめまして。ミケル。」
「……は、はじめまして。」
彼女は短く笑って、褒めるように俺の頭を撫ぜてくれた。
「良い子。」
それは、それまで受けたことがない母親の愛のようなものだった。
「おいでミケル。庭を散歩しましょう。」
そして手を握り、俺を引っ張って庭のあちこちを散策した。
ラウルの家の庭園も、自分の家の庭園と同じくらい凝っていて、色々な種類の花や木が植えてあった。
彼女はその一つ一つの名前や特徴を教えて回ってくれた。
そして夜は空を見て、星の名前を教えてくれた。
「今の時期なら、スピカが見えるよ。」
彼女は青白い星を指さして、にっこり笑った。
「スピカ?」
「星の名前。この幾億もの星々にはね、名前があるのよ。正確には全てに名前を与えられているわけじゃないけれど。」
彼女は星が好きだと言った。
夜を照らすものは、美しい。
月も、星も。時々宙を舞う蛍も。
そう言った。
特別なことなんてなかった。
だけれど、自分に対して無為に甘やかしたり、腫物を扱うようにしたり、同情したりしないその存在は、特別だった。
たった数日間の出会いだったけれど、その後もずっとクレイのことは忘れられなかった。
手紙を交わすようなことはなかった。姿を見ることもなかった。
それでも、気づいたら自分にとって最も大切な存在になっていた。
こんな些細な出会いがこんなに輝くほど、俺の幼少期は思ったよりも愛情が欠落したものだったのだと思う。
そんな彼女が18歳になった頃。
彼女が王の子供を産んだ、と魔女が言っているのを聞いてしまった。
そんな公の発表など、どこにもなかった。
王宮付召使が第二王妃になったなど、そんな話はどこにもなかった。
ラウルにそれとなく聞いたら、2年ほど前から彼女は一度もブロイニュには戻っていなかった。
それどころか、王に目をかけられ秘密の愛人として国のあちこちを連れまわされているということが分かった。
一気に彼女が穢されてしまったような、衝撃を受けた。
そして国王が彼女の存在をひた隠しにして、孕ませてもなお、公にしないという歪さに嫌悪した。
その理由として、アマリナの嫉妬深さがあったのだけれど、それではあまりにも不誠実だ。
アマリナにも。クレイにも。民に対しても。
その時も魔女の間で波紋が起きた。
刺客の魔女が国王の懐に入り込んだことにおいては、彼女の功績は大きかった。
だが、刺客の魔女が王の子を孕むなど前代未聞だった。
彼女はその存在を隠すためかほとんど軟禁されているようで、手紙の数はかなり減ってしまっていた。
めったなこともかけないため、暗号めいた詩が送られてくることが多かったようだ。
その詩の一つを読んだことがある。
彼女が教えてくれた星の名前や草木の名前がたくさんちりばめられていた。
そして、そこには真実が書かれていた。
『青い星は 王の 子供では ない』
だけどこれは、俺の話したいことの本筋ではない。
また、別の話だ。
***
少し日が陰ってきたので肌寒くなっていた。
「……クレイのことを愛していたんだな。」
子爵はぽつりと言った。
「恋慕かといわれると。それは違う気がする。」
ミケルは遠くを見つめて言い切った。
「それから5年後。あのスキャンダルがあった。」
――あのスキャンダル。
クレイの存在に気が付いたアマリナが、発狂して王を殺そうとした。
これまでの妃の束縛から逃れたかったのかもしれない。王は激高し、ある夜、アマリナと王女を着の身着のまま森の中に捨てた。
「それで、『魔女の粉』を使うかを決める裁判が行われた。……それは、ウィルが初めて魔女頭として立ち会った『魔女の粉』に関する魔女裁判だった。」
子爵は目を閉じて、頷いた。
「12歳だ。それでもお前は、考えのない行動はとらなかった。分別があった。軽率ではなかった。」
声が、次第に大きくなる。それは、ミケルの感情の高ぶりだろう。
「でも、だからこそ……彼女は死んだ。」
ミケルは泣きそうな顔をした。だけれど、もうとっくの昔に涙は枯れていて、目からは何も零れやしなかった。
「いや、言いがかりだな……。あの時粉を使い始めたとしても、彼女はあの決断をしていたかもしれない。」
首を振る。
刺客の魔女は、いよいよ自分の存在が公にされ、自分の息子の存在が公にされるとなった時、ある決断をした。
それは意地のようなものであり、息子を守るための行為だったと思う。
『玉座の間』と呼ばれる古代から伝わる正統なる王の儀式の間の鍵を隠し、王の怒りを買って投獄されたのだ。
そして同時に、息子が城から姿を消した。確かなことは分かっていないが、十中八九彼女が城から逃がしたのだろう。
それは、明らかにこの国を滅ぼすための行動だった。
『玉座の間』の鍵は、王や権力者が変わってもずっと受け継がれてきた、いわば統治者の証だった。王家が代々守り続けており、ハンブル国初代国王の宣誓によると、鍵の放棄は、王位の放棄とまであった。
その鍵を失わせた。また、世継ぎである息子も失わせた。
『魔女の粉』が届くのを待つのではなく、彼女は彼女の判断で王を裁こうとしたのだ。
自分の身を滅ぼすことになっても。
「いつかヴェルサ様が、あの娘は強情で頑固なところが玉にキズと言っていたのを思い出したよ。だってあの行為は、魔女達への裏切りでもあった。だけど、助けもなく、魔女との疎通が叶わなくなった彼女は、自分の信念で動いた。迷いなく。」
そう言ったミケルは彼女を誇っているように見えた。
「この国は、滅ぶべきだと。」
だけど、とても悲しんでいる。そんな表情をした。
「そして。彼女は牢の中でひっそりと死んだ。」
***
それは2度目の、ハンブル王に対して『魔女の粉』を使うかを決める裁判。
刺客の魔女を失った魔女たちは、この裁判で大いに荒れた。
「使うべきだ!今こそ魔女の粉を!」
「あの愚かな王に!裁きを……!」
喧々囂々。
怒号がこだまする。
子爵は目を閉じてそれを聞いていた。
ミケルはクレイが死んだということがいまだに信じられず、ただただ呆然とするだけだった。
――殺してほしい。殺してやりたい。
感情だけが凶暴に脳内を吹き荒れていた。
他の魔女たちの怒りもすさまじく、場内は収まりがつかない状態だった。
そんな中、ヴェルサたちランヴィール家の人間と子爵だけは、ただただ口を閉ざしていた。
「子爵……!ご決断を!!!」
誰かが、14歳になったばかりの子爵にすがるような声を吐きかけた。
長い沈黙の後、子爵は難しい顔をして話し出した。
「……あの王についてだが。」
ひとり、円の中心に立つ少年はひどく凛としていた。
「確かに民には、ひどく嫌われている。1年前に妃と王女を無慈悲にも捨てたこと。それまでの、妃を優先するあまり国庫を食い荒らし、国を財政難に近づけたこと。そのせいで失業者がたくさん出て、治安が悪くなったこと。それらの面で愚かしい王であることには間違いない。」
そうだ!と周りからヤジが飛ぶ。
「だが、ここ数年の政治は摂政の力もあり、安定している。出した損失を巻き返すことについては少なからず成果を上げている。今、王が死んだら次に王になるのは誰だ?世継ぎは一人もいない。兄弟も。王家の血を引いた者たちはいるにはいるが、おそらく玉座争いになり、さらに国が荒れるだろう。」
「……でも!」
誰かが叫ぶ。
「でも、クレイは!」
「クレイのことは。」
子爵の語気が強まる。
「本当に残念に思っている。刺客の魔女との連携がうまく取れない状態になってしまったのは、クレイひとりに頼りすぎていたからだ。それは我々の落ち度だ。」
ヴェルサはすっと立ち上がった。
「子爵のおっしゃる通りです。城に送った魔女が、クレイだけだったことは私の判断ミスですわ。」
そして頭を下げた。
「国王は愚かだ。だが、殺すデメリットが大きい。意趣返しのために、『魔女の粉』を使うことに賛成する者が、いるということか?」
子爵がじっとあたりを見渡すと、それまで殺気立っていた魔女たちは各々顔を見合わせてからうなだれた。
「現時点での粉の使用は不適切だと判断する。ランヴィール夫人。次の刺客の魔女についての人選は任せます。お願いできますか。」
「……もちろんです。ヴァーテンホール。」
ヴェルサは頷いた。
「異論がある者は?」
あたりが静まり返る。
どうして。
ミケルは叫びそうになった。
どうして、こうなってしまうんだ。
魔女は愚かな決断はしない。だから、国の行く末を左右する力を持っていても、無理に介入することはしない。
支配者にとっても、優秀な者たちだろう。
でも、心がないわけじゃない。
刺客の魔女が身を呈して国王に立ち向かったことに、心打たれないわけにはいかなかった。
彼女の無念を晴らしたいという気持ちを芽生えさせないわけにはいかなかった。
だから。
***
「だから、『魔女の粉』を模造したんだな。」
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ミケルは何も言わなかった。頷かないし、首も振らない。相変わらず穏やかな顔で伸びる自分の影を見つめていた。
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ミケルは困ったように笑った。
「俺さ、正直魔女というものはよくわからない。武力を使ったって、粉を使ったってどっちでもいいと思う。正しいと思うことをするための手段は、どっちだっていいんだ。」
「そうだな、お前は簡単に武力を使う。魔女らしからぬ奴だ。」
「はは、それで一度ラピスを助けたんだから、その点は褒めてほしい。」
「礼を言う。恩は買いたくなかったがな。」
そう言ってすっと背筋を伸ばした子爵は、やっとまっすぐミケルを見つめた。
ベンチに座ってから一度も目を合わせなかった2人が、ようやっと目を合わせた瞬間だった。
「『魔女の粉』も紛い物も、魔女も、どうでも良かった。ただ、ハンブルを殺したかった。それだけだよ。」
子爵は深いため息をつき。意を決したように話し出した。
これは、宣言だった。
「……お前の家に出入りしている商人、薬師。ラウルの家も同様、すべて調べ上げた。証拠はそろっている。お前のこの庭園に魔女の粉の原料の薬草たちが植えてあることも。全部調べた。」
「さすが。ブレトンは優秀だからね。」
「それから、お前の従者の一人、あれは口が軽すぎる。恋人に対して何でも話しすぎだ。」
「あぁ……、カイのことかな。君のところの使用人と恋人なんだったね。」
ミケルはしかたないなぁ、という顔をした。
「ミケル。お前やラウルは魔女の社会において、重要な地位を持った存在だ。失いたくない。」
ミケルは黙ったまま微笑んだ。
「それでもお前たちを殺さないといけない。これは、ルールだ。」
「……俺を殺したら、魔女の世界は二分されることになるよ。ウィル。少なくとも、やはりハンブルを殺すべきだったと考えている魔女は少なくない。それはよくわかってるだろう?」
「脅しか?」
子爵が眉をひそめると、ミケルは肩をすくめた。
「まさか。忠告だよ、親愛なるウィル。これは友人として。」
「……解っているさ。」
ため息をついて子爵が立ち上がり、そして剣に手をかけスラリと引き抜いた。
「俺みたいな考えを持った魔女は増えている。そして、俺たちは『リブレリーア』を非難しないよ、ウィル。彼らは武器ではなく筆で間違った王政を裁こうとしたのだ。どうして彼らを裁こうと思える?鍵を隠したクレイや、魔女の粉を使うお前たちと何が違った?」
子爵はゆっくりとその剣をミケルの喉元に近づける。
それでもミケルは微笑んでいた。
「それすらも認められない『魔女』とはなんだろう?」
「……ミケル。」
もう黙れ、と言わんばかりに子爵はミケルを睨んだ。
掲げた剣は、少しだけ震えていた。
「もっとうまく隠すこともできただろう。ミケル。」
ミケルはそう言った子爵の顔を見上げてふっと笑った。子爵は今にも泣きそうな顔をして、歯を食いしばっている。口角が震えているのが見て取れた。
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子爵はぎゅうっと柄を握りしめ、剣を振り上げた。
そして、ミケルはすうっと目を閉じたのだった。
***
ドシャっ。
剣が振りおろされた瞬間。
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ただし、子爵が。
「……は?」
ミケルは目を開けてその惨状を目の当たりにする。
そこには、地面に押し倒された友人と、吹っ飛んで地面に突き刺さった剣と、友人を押し倒した女の子の姿があった。
「……ちょ、え、何。」
ミケルは思わず立ち上がる。
そしてその少女は間違いなく。
「ラピス……?!」
ラピスだった。
「ど、どうし……――」
ミケルがラピスを起こそうとすると、子爵がラピスをはねのけて起き上った。
「どうして君がいる!?」
子爵が叫んだ。怒声だ。
「なぜ君が飛び出してくるんだ!」
ラピスを怒鳴りつける子爵は、彼を生まれたときから知っているミケルも見たことがないほど感情を高ぶらせていた。
ラピスは無言のまま、むくりと身を起こした。
ミケルは困惑してラピスを見やる。
ラピスは泥がついている顔を乱暴にぐいっと拭うと、ばっと顔を上げて子爵を睨んだ。
「あなたが泣いているからでしょう!!」
はっと子爵の方を見ると、確かに子爵の鋭い目からは涙が零れ落ちていた。
さっきまでは流れ落ちていなかった綺麗な滴が、頬を伝って顎もとから地面に落ちる。
「事情はよく……解りませんが。」
ラピスはぐらりと立ち上がった。思いっきりタックルをかましたのか、足が擦り剥けて血が流れていた。
「ミケルさんを殺すなんて……ダメに決まってるじゃないですか!」
「君には関係ないことだろう!!」
子爵もぐらっと起き上がり、吠えた。
「関係ないに決まってんでしょうが!」
――ええ……?
ミケルは無茶苦茶なことを言うラピスを見つめた。
「誰も関係ありませんよ!魔女も!子爵も!!何もかも!」
気が付けばラピスの瞳からも大粒の涙が零れ落ちていた。
「心にもないことをしようとしているあなたを止めるのは!私がそれを間違っていると思うからです!」
「君は何も知らない!知らないなら口を出すな!!!」
地面に刺さった剣を掴んで叫ぶ。その瞬間滴が宙を舞った。
「知ってますよ!!あなたが彼を殺したくないって思ってることくらい!」
ラピスの声は震えながらも真に迫り、心に迫った。
「友人も切る覚悟があるなんて、そんなの嘘に決まってる!!子爵は、そんな人じゃない!!」
「私は……――ッ!」
子爵は言葉を詰まらせた。どっと、さらに涙が溢れて声が出ないのだ。
「どうしてもこの人を切るというのなら、私も切りなさい!」
ラピスはがばっと子爵の右腕と、左手の剣に掴みかかった。
「ちょ……ラピ――」
ミケルは慌てた。このままではラピスも切られてしまう。
「私は!」
だけど怯むことなく、ラピスは叫んだ。
「あなたが傷つくなんて許さない!」
――あぁ。
なんて綺麗な涙なんだろう。と、ミケルはぼんやりと考えた。
自分の瞳からは一滴たりとも涙は出なかった。
死ぬのは怖くなかった。当り前だと思っていた。
だって自分も、魔女の世界のひとりなのだから。
***
本当は、すごく怖かった。
子爵がミケルに剣を向けた瞬間、怖くて怖くて動けないと思った。
でも気が付いたら、私は子爵に体当たりをかましていた。
そうしたいと思ったことに、理由などなかった。
しばらく沈黙が続いた。どちらも言葉を次げなかったのだ。
子爵と私は、互いに見つめあったまま膠着した。
数分間そのままだったと思うが、ふと子爵は剣から腕を離した。バランスを崩した剣はそのまま地面にカランと落ちた。
「…………言ったじゃないか……。私は、友人も、家族も……誰でも殺すと。」
そして弱々しく、そう呟いた。
もうこちらを見ていない。目を逸らしてそう言った。
「言いました。でも、それは子爵の意思じゃない。そんなの、嘘です。」
私は逸らさない。絶対に逸らさない。
今、目を逸らしたら、もう取り返しがつかないと思った。
「ミケルがどんな裏切り者でも。あなたがそれを悲しまないわけがない。私は、そう信じます。」
だって彼は、あの日、泣き崩れそうな顔をしていた。
魔女の裁判から帰ってきた時。
あれは、魔女頭としての子爵じゃなかった。
「……では君は。魔女の掟を私に敗れというのか?」
「言います。」
子爵は、はっと笑った。嘲笑ったようだった。
「君は無責任だ。」
「ごめんなさい。」
「……謝ればいいというものではない……。」
「でも、他の道を探すのは手伝います。」
子爵はピクリと、前髪を揺らした。
「そもそも、魔女の世界のルールはあなたに負担をかけすぎです。そこんとこが私は気に喰わないんです。」
「…………はぁ?」
子爵は呆れて、やっと私の顔を見た。もう涙は消えていた。
「魔女は知的です。分別がある人たちです。話し合って、決めるべきです。それができる人達のはずです。」
勝手なことを言っていると、本当は分かっていた。
だけど、代案もなく止めろだなんて、誰にも言う資格はない。
だから、でっち上げたような馬鹿な代案でも、私は言わなくてはならない。
「その結果、ミケルを殺すという結論になったら?」
「……私は、彼が何をしたかを知りません。裁かれるべきなのであれば、そうなのでしょう。その時はミケルに死んでもらいましょう。」
「……はぁ?!」
子爵は本当に呆れたようだった。意味不明なのだろう。
「本当に罪人なんだったら、役人に突き出せばいい。」
それは人の法でさばけばいい。
「でも、そうじゃないなら、その時は私がミケルを助けます。あなたが殺さなくて済むように。魔女の外の世界から、私が手を伸ばします!」
「…………。」
子爵はポカンとした。
「どうしますか。」
私はもう一度、子爵を睨む。
「……はぁ……。」
子爵は空を見上げ、ため息をついた。
そして、私の手を腕からはがし、ゆっくりとミケルに近づいた。私はすかさず地面に転がった剣を取り、3歩下がった。
「……ミケル。」
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ミケルは相変わらず微笑んでいた。
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ミケルは少し驚いたように目を見開くと、呆れたように笑った。
「……大きくでるなぁ……ウィル。」
「この問題もちょうど片づけなければならないと思っていたところだった……。」
子爵は首を小さく振った。
「お前はその礎になれ、ミケル。それが贖いだ。」
ミケルは口を小さく開いて、何か言おうとしたが、何も言葉を発することはなかった。
代わりに、ようやっとその綺麗な瞳から涙が溢れ出した。
「時間はかかると思うけれど。」
子爵はそう小さく言って微笑んだ。
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