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第1話:探偵には向いてない

兄の脱線(2)

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 小夜乃さよのがベッドにも入らず、床で眠り込むような不覚を取るのは珍しいことだ。相当疲れがたまっていたらしい。

 無理もない。昼に卒業式を済ませてきたばかりだ。生真面目な性分だから、随分張り詰めていたことだろう。帰宅して神経が緩み、自室に下がった処でとうとう睡魔に押し負けた、といった塩梅だろうか。

 それでなくともこの処、妹は4月から始まる高校生活の準備に追われていた。中学卒業前から授業の予習やら必要になる物品の準備やら、余念がなかった。傍からは必要以上に力が入っているようにも見えた。

 小夜乃が受けたのは俺が通っているのと同じ、近所の市立高校だった。中学時代の妹は学年でもトップクラスの成績を収めていたので、もっと偏差値が上の私立も狙えたはずだ。実際担任の教師からはそちらを受けるよう勧められたらしいが、妹は頑として首を縦に振らなかった。

「私立なんてどこも家から遠いし、余計なお金もかかるじゃないですか」

 妹はそう理由を説明したが、それが本心のすべてかはわからない。

 ……ひとつ、気にかかっていることがある。

 俺が所属する探偵小説研究会は、昨年は俺を含めて部員が3人いた。"ミステリ"でも"推理小説"でもなく"探偵小説"なんて前時代的な呼称を冠していることからも、相当年季の入った部だと察してもらえると思う。しかしそんな古式然とした名称が足を引っ張るせいか若者の読書離れの影響か、部員数は年々減少傾向にあるらしい。現に昨年の入部者は俺だけだった。尚これによって3年連続新入部員1名、という不名誉なのかある意味貴重なのか判断に困る記録が更新されたそうな。そして3月を迎え、部員3名のうち1人は卒業、1人は転校し、2年生以上の部員としては俺のみが残された、という事情は既に記した通りである。

 うちの高校では4月の部活動申請の時点で部員を2人確保していないと部の成立・存続は認められない。つまり今年の新入生から1人以上新入部員を確保しないと探研の廃部が決定してしまうのだが、現在の処その懸念は払しょくされていた。我が妹が、入学と同時に俺が部長を務める探研に入部すると、受験前から宣言しているからだ。おそらくこれで4年連続新入部員1名となり、珍記録はまたも更新されることだろう。

 今年度は部員が俺1人で廃部になるかもしれない、ということは大分以前から小夜乃にも話してはいた。だからといってまさか、俺の所属する部を存続させる為に受験先を選んだわけでもないだろう。ないだろう、とは思うのだが……もしそうなら俺の都合で妹の進路を捻じ曲げてしまったようで、なんだか申し訳ない気がしてくる。本人に直接尋ねたわけではないので、真偽のほどは依然わからないのだが。仮に尋ねたとしても、内心の本音がいずれであれ妹は口に出しては否定することだろう。

 何はともあれ、俺は室内に足を踏み入れた。世間一般の認識ではもう冬は明けているのかもしれないが、この地方ではまだまだ夜は冷える。パジャマにカーディガンだけの恰好で、上に何も掛けず寝てしまっては風邪を引きかねない。疲労が蓄積している状態なら猶更だ。

 ベッドの上から布団か毛布を引っ張り出してやろうと思い、そろそろと歩を進めた。もちろん眠っている小夜乃を起こすのは本意ではない。まずは左手を空にする為に手前の小卓に文庫本を置き、まだ瞼が閉じているか確認しようと再度妹の寝顔に一瞥を投げ……目眩に似た感覚に襲われたのは、その時である。

 間近に来ていたので、先ほど入口で見た時より小夜乃の様子が詳細にわかった。入浴を済ませたばかりだったのだろう、その頬は薄く紅色に上気していた。辺りには微かに石鹸の香りも漂っていた。幾筋かの乱れた髪が無防備な寝顔にかかり、普段は姿勢を正したイメージしかない妹が妙にあどけなく映った。それでいて閉じた瞼の間から伸びた睫毛の長さがやたらと目に留まり、落ち着かない。

 繰り返すようだが、うちの妹は美人である。白皙の肌に肩先まで伸びる濡烏の黒髪。やや丸みを帯びた細面に、唇は薄く、目鼻立ちは精緻なまでに整っている。若干痩せ気味のきらいもあるが、黙って立っていれば日本人形と見違えかねない風貌である。道端で男性とすれ違えば、10人中9人は振り返るだろう。世の1割は同性愛者だと聞いたことがあるから、まあそんなものだろう。

 俺は「小夜乃の容姿にだけ惹かれたわけではない」とは言ったが……決して、その容色に無関心なわけではないのだ。

 視界の中で、段々と小夜乃の寝顔が拡大されていった。俺が自分から接近しているのだと理解できたのは、鼻と鼻が触れ合わんばかりに迫った頃だった。石鹸の香りが一段と強くなり、咽そうだった。頭の奥が痺れていた。自分が何をしようとしているのかも把握できぬまま、なおも小夜乃に吸い寄せられ……

 気が付いたら、薄い唇の感触が、自分の唇に生まれていた。

 それは一瞬だったかも知れないし、何十秒かは続いたような気もする。

 我に帰り、慌てて顔を上げ、小夜乃から身を離した。そこで凍り付いた。

 妹と目があった。小夜乃の閉じていた瞼は、いつの間にか薄く開いていたのだ。まだ意識が十分に覚醒していないのか、瞳の輝きは鈍くその表情からは如何なる心理も読み取ることはできなかったが、視線が俺の顔に注がれていることだけははっきりわかった。

「兄さん……?」

 小夜乃の口から洩れたやや掠れ気味の小さな声が、俺に電気ショックを与えた。弾かれたように立ち上がった。

「か、勝手に部屋に入ってごめんな! 借りていた『毒チョコ』、そこの卓上に置いといたから。うん、面白かった! ホウフクゼットウ、キソウテンガイ、ケイミョウシャダツ、ラッカロウゼキ! あれを100年近く前に書いたバークリーってヤツは、よっぽど性格悪かったんだな。じゃ、ジャアソレダケダカラ、オヤスミ!」

 呂律の回らない早口でそうまくし立てると、足をもつれさせながら小夜乃の部屋を後にした。当然、振り返って妹がどんな顔をしているのか、確認する余裕も度胸もなかった。

 廊下に出て、隣の自室に駆け込み、ベッドにダイブして、枕で頭を抱えた。

 言うまでもなくパニック状態である。頭の中で“!”と“?”が手を取り合ってタンゴを踊っている。「とにかく落ち着け!」という内なる声で余計落ち着かなくなり、心拍数は一向に下降する気配がない。

 小夜乃は何をされたか気が付いただろうか、とまず思った。目を覚ましたのは俺が唇をつけている最中なのか、それとも離した後なのか。仮に最中だったとしても、寝起きで思考が朦朧としていたようだから、状況を把握してなかったかもしれない……

 いや、そういう問題ではないだろう! 俺は自分を殴りたくなった。実際、こめかみにグーを喰らわせてみた。痛かった。

 気づかれなければ済む話ではない。俺は何ということをしでかしたのだろう。身体が勝手に動いてしまった、魔が射したとしか言いようがない。身勝手で陋劣で醜悪。まして俺と小夜乃は相思相愛の恋人同士などでは決してなく、実の兄妹なのだ。

 そう、小夜乃の立場にしてみれば「血の繋がった肉親に寝込みを襲われた」ことになる。これはれっきとした“家庭内虐待”というやつではないか!? 下手をしたら一生もののトラウマを与えてしまったかもしれない……考えれば考える程自分のしでかした行為が恐ろしく思え、血の気が引いた。

 俺は片想い中の道化ピエロである以前に、小夜乃の兄である。妹のことは守らねばならない立場にある。それなのに。

「明日から、どの面下げて会えばいいんだ……」

 同じ屋根の下で暮らしている以上、まったく顔を合わせないというわけには当然いかない。もし自分のされたことに気づいていたとして、次に対面した時、小夜乃は俺に対してどんな態度を取るだろう。痛烈に罵られるならまだいい。白眼視されるのもこの際仕方ない。もしかしたら、一生口を聞いてくれないかもしれない。そうされたとして文句も言えないが、何と虚しい余生になることだろう……

 ことここに至っても自分を心配してしまうあたり、やはり俺はロクな人間ではないらしかった。

 後悔と不安と罪悪感がブレンドされた精神状態のまま、悶々とした思考がとりとめもなく続いた。結局、この夜は一睡もできなかった。
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