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火遊び

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 ホテルの最上階にある高級レストラン。ドレスコードはないがジーンズとTシャツで来るには勇気がいる雰囲気だ。
 久崎慧也くざきけいや梅井亜弥うめいあやは会社の帰り。二人ともスーツを着ているから問題ない。
「いらっしゃいませ梅井様」
 老紳士風のグリーターが彼女に挨拶する。
「いつものお席をご用意しておりますが宜しいでしょうか」
「お願いします」
 夜景が一望できる席へ案内される。
 席と席の間は十分な距離があり会話を聞かれることはないだろう。
 暗めの証明はムーディーで、落ち着いた雰囲気で食事ができそうだ。
「食前酒はどうなさいますか?」
「正直言って俺は詳しくない。注文は任せていいだろうか」
 梅井はクスクスと軽く笑うとシャンパンを注文する。
 グリーターは軽く会釈をし、ウエイターを呼びに行く。
「店は任せると言ったが、まさかこんな高級レストランに連れてこられるとは思っても見なかったよ」
「怖気づいた?」
「緊張はするが逃げ出したいほどじゃないよ」
「正直なのね」
 ウエイターがメニューを持って来る。
 梅井はおすすめ料理を聞くと、久崎に苦手な物がないか確認し、良さそうなコース料理を注文した。
「入口にいた男性、君の名前を知っていたようだけど」
「私の唯一の趣味はね、月に一度、この店に来て料理を食べることなの」
「いい趣味だね」
 彼女は久崎の顔をじっと見つめる。
「久崎さんって本当に変わっているのね」
「自分が変人のたぐいだとは自覚しているよ」
「良い意味なんだけどね。男性ってプライドの高い人が多いわ。こういう店に来るとね、男性がリートしなくちゃダメって思っているらしくて、メニューを渡されると仕切り始めるものなの。勝手に料理を注文したり、ね」
「憧れじゃないかな。女性に良い印象を持たれたい。カッコよく注文したい。慣れている風を装いたい。レストランで食事を共にする相手なら少なくとも好意を抱いているだろうからね」
「私に注文を丸投げしたわね」
「下心がないからね、どう思われても気にならない」

 オードブルが運ばれた。
 久崎はテーブルマナーなど気にせずに近くにあったフォークを使い食事を始める。
 それを見て注意も嫌な顔もせずマナーに従い食べる梅井。
「女性っていうのはね、少しぐらい下心を見せてくれるほうが嬉しいのよ。無関心ほど寂しいことはないわ」
「それは好きな男性に対してだろ。嫌いな男性の下心は嫌悪感を覚えるだろう」
「そりゃあね」
「まさか、俺に下心を出せとか無理な注文しないだろうな」
「期待してないわよ。久崎さん修行僧みたいだもの」
「俗世間に染まってないという意味ならそうかもね」
「違うわよ、性欲が無さそうって意味」
「人を枯れた老人みたいに言うなよ」
「なら、小井戸さんの誘いに乗らないのはナゼ? 普通の男性なら喜んで交際するでしょ」
「俺は普通じゃないからな」
「誤魔化さないで」
 久崎が腕組みしているとスープが運ばれてくる。
 それを飲み喉を潤すと渋々語り始めた。
「心の中にいくつか箱がある。その箱にはラベルが貼ってあるんだ。知人、友人、親友、恋人みたいにね。小井戸さんは恋愛対象の箱じゃなくてアイドルの箱に入っているんだ。一旦分類してしまうと箱から移動させることが難しくなる」
「少しわかるわ。それ、第一印象って言わない?」
「人によってはそうかもしれない。小井戸さんの第一印象は妹だけどね。それが分類によってアイドルに昇格したんだよ」
「それは社員の評価で?」
「いや、俺の価値基準で。彼女には触れられない壁を感じたんだと思う」
「へぇ~面白いわね……。ん? ちょっと待って小井戸さんには触れてないの?」
「彼女の片思いと言ったはずだ」
「私はてっきり肉欲の虜にしたんだと思っていたわ」
 久崎はスープを飲んでいたがむせてしまう。
「凄いことを言うね、君は」
「だって、そうじゃなきゃあんな可愛い子が久崎さんを好きになるとは思えないもの」
「その意見には同意する。それに、期待を裏切るようだが性交渉の回数は数えるほどしかない」
「な~んだ、つまらない。久崎さんがどれほどのテクニックを持っているのか興味があったのに」

 魚料理が運ばれてくる。
 ウエイターに聞かせられる話じゃないので配膳が終わるまで久崎は黙っていた。
「心の箱。私はどこに入っているのかしら」
「まだどこにも入っていないよ。それほど深い関係じゃないだろ」
「なら第一印象は?」
「綺麗な人だな、と」
「あらっ、興味がないくせにお世辞は言うのね」
「君に対してお世辞を言うほど気を使っていないよ」
「わかってる? それ口説き文句よ」
「恋愛脳は単なる感想を好意的に受け取るんだな。それにこの手の言葉は聴き慣れているだろ」
素面しらふの状態で女性に面と向かって綺麗だなんて言う男性は少ないわ。普通はキザと思われたくないから黙っているものよ」
「なるほど、俺は綺麗な花を見て綺麗と言った。その行為がキザだとは思わないから平気なんだよ」
「私が綺麗な花?」
「ワインに酔ったのか? 頬が赤いぞ」
「バカッ照れてるのよ」
「肉欲の虜とか言うわりに初心うぶなんだな」

 肉料理が運ばれてくる。
 梅井はウエイターにワインのおかわりを追加注文する。
 久崎は飲まないのでミネラルウォーターだった。
「小井戸さんが久崎さんを好きになった理由、少しわかったわ」
「へぇ、教えて欲しいね」
「久崎さんは言動が真直ぐなのよ。良い意味なら素直に感情を表現する人。悪い意味なら相手を気にせず善意も悪意もオブラートに包まない。裏表がないと言ってもいい」
「他人が俺をどう思っているか、ちゃんと聞いたのは初めてかもしれない。なるほどね、確かに俺は他人に気を遣うのが苦手だ」
「久崎さんに好意を持つ人は、その言動を男らしいと感じるかもしれないわ。逆に敵意を持つ人は嫌味なやつだと思うわね。だって、久崎さんの第一印象は嫌なことを言う人だもの」
「この席は謝罪の埋め合わせだろ、水に流してくれると嬉しい」
「安心して、もう怒ってないわ。私の心にもあなたの入る箱ができたもの」
「ラベルにはなんて書いてあるんだ」
「好きな人」
「冗談にしてはセンスが無いな。今までの会話のどこに君に気に入られる要素があったんだ?」
「私は自分が綺麗だと思っている。あなたも同意見でしょ。それなのに、私に対して無関心を貫く態度が気に入らない。私の内面に魅力が無いと言っているのと同じだもの」
「その理屈なら俺のラベルは気に入らないヤツだろ」
「そうね、好きな人は間違いだわ、力づくで落とす男にしとく」
「はぁ?」
「私に惚れさせてやるわ。小井戸なんて目に入らないくらい虜にするの。それから酷い台詞を吐いてフッてあげる。あなたの泣き顔が拝めるし、小井戸にも勝てる。私は自尊心が満たされ幸福感が味わえるのよ」
 残っているワインをくいっと全て飲み干してしまう。
 とても愉快そうに彼女が笑っているとデザートが運ばれた。
 ワインと高揚で熱く火照った体には冷たいアイスが美味しく感じる。
 対して久崎は少し寒気を感じていた。
「君と小井戸さんが疑わしい。美女二人が俺を好きになるなんて三流漫画だ。モテない俺を罠に嵌めようとしてるんじゃないだろうな」
「私は経理部。あなたの収入は手に取るようにわかるわ。わざわざ騙し取るほど資産があるとは思えないけど」
 久崎は納得できない表情だ。
「フフッ、男性の魅力は株価と同じかも。買い注文が増加すれば値上がりするの」
「君らしい価値観だね」
「市場経済じゃあたりまえよ」
「俺の価値は俺が決める」
「あなたに値段を付けるのは私たち女よ」

 最後にコーヒーが運ばれてくると、梅井はそれに手を付けず、
「化粧直しに行ってくるわ」と言い席を離れる。
 久崎はウエイターを呼び支払いを済ませておく。

 戻った梅井は席に座らず立ったまま、
「おまたせ。行きましょうか」と言うと彼の返事を聞かずに出入り口へ向かう。
 久崎はコーヒーを飲み干すと梅井の後を追うのだった。

 帰り客の様子に注意をはらっているグリーターは、客が待たなくて良いようにエレベーターを呼んでくれる。
 二人がエレベータホールにつくのと同じころににエレベーターが到着した。
 久崎が操作盤の一階を押すと、横にいた梅井が十八回のボタンを押す。
 驚いた久崎が梅井を見る。
 彼女のしなやかな両手は久崎の首の後ろで組まれ、頭をぐいっと引き寄せ、不意打ちで唇を奪う。
「部屋を取ったわ」
 エレベータの壁と彼女の肢体に挟まれる久崎。顔は鼻がつきそうなほど接近したままだ。
「強引過ぎないか?」
「そお? 気持ちは伝えたはずよ」
「返事はしていない」
「今はいらないわ。安心して、責任取ってとか、交際してとか言わないわ、体の火照りを冷ましてくれるだけでいいの。私はアイドルの箱には入っていないんでしょ、なら触れるのに抵抗はないはずだわ」
 梅井の体からは、ワインと、香水と、女性特有の甘い香りが漂ってくる。
「こんなシチュエーションは初めてだ。社会人としてどう返事をしたら正解だろうか」
 その生真面目な返事におかしくなった梅井はクスクスと笑う。
「据え膳は頂くのが礼儀よ。そして今夜のことは忘れるの、それが大人よ」


△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼


 翌日、ホテルで久崎が目を覚ますと梅井はもういなかった。
 小さなテーブルの上には『先に帰ります』と書置きがしてある。
 自宅に戻り着替えてから出社するために早く出たのだ。
 久崎はシャワーを浴びるといつものように出社する。

「おはようございます」
 小井戸が明るい笑顔で挨拶してくる。
「おはよう」
 久崎は不愛想に挨拶して席についた。



 久崎さん、昨日と同じシャツ!
 それにいつもと違うボディーソープの匂い!
 あぁ~~~そんなぁ~~~~。
 やっぱり子供っぽい私は眼中になかったのね。
 フラれた……。
 完全にフラれたわ~~。



 小井戸は休憩室に行くと一時間ほど出てこなかった。


△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼


 天白商事の応接室。ノミと小井戸が向かい合わせで座っている。
 今日は打ち合わせの日だったのだ。
 体調不良を理由に帰りたい気分だったが、ノミはVIP待遇、帰ることはできない。

「小井戸さん大丈夫? 顔が酷いわよ」
「そうです、私なんて酷い顔なんですぅ~」
「ごめんなさい、そうじゃなくて目の腫れが酷いわ、体調が悪いなら打ち合わせは後日で構わないわよ」
「すみません、大丈夫ですぅ~」
 涙声。大丈夫のはずがない。
「私でいいなら話を聞くわ、いったいどうしたの?」
 ダムが決壊したかのように泣き出してしまう。
「久崎さんが~同じ匂いで~子供っぽくて~――」
 支離滅裂しりめつれつで何を言っているのか理解できない。
 ノミは小井戸の隣に座り抱きしめた。
「そっか~辛い思いしたのね~」
 彼女が泣き止むまでずっと頭をなでてあげる。

 数分後、彼女は少し落ち着きを取り戻した。
「すみません~」
「いいのよ気にしないで」
「私、フラれたんです。昨日、好きな人が他の女性と食事に行ったんです。そして昨日と同じ服を着て、いつもと違う匂いで出社してきたんです」
「なんですって!」
 ノミは久崎と梅井が食事に行ったのは知っていた。しかしホテルに泊まったのは知らない。久崎はホテルの部屋では思念伝達できるイヤーカフを外していたのだ。
『主殿!!』
『なんだようるさいなぁ』
『昨夜はどこに泊まったのじゃ!』
『黙秘権を行使する』
『ホテルじゃろ、小井戸ちゃんがワシの腕の中で泣いておるわ』
『なぜ知っている?!』
『女のカンを舐めるでないわ!』
『ああそうだよホテルに泊まったさ、それが何だ?』
『やったのか? ワシより先にやったのか? 小井戸ちゃんでもなく?』
『据え膳は出されたら頂くのが礼儀だと、社会人としてそれが正解だと言われた』
『まんまと騙されたわけじゃな』
『騙された?』
『据え膳食わぬは男の恥、それは女が用意した言葉じゃ。男の警戒心や罪悪感を溶きほぐし、篭絡ろうらくし、既成事実を作るためのな』
『まじか……』
『責任を取れと言ってくるじゃろうなあ』
『それは言わないと――』
『甘いわ! もしその女に冷たい態度をとれば襲われたと言いふらされるじゃろう』
『合意の上なんだが……』
『証拠はあるのかね? 綺麗な女性と普通の男性、どちらの証言を信じる?』
『怖っ、女怖っ!』
『確認じゃが、その女のことは好きなのか?』
『いいや、まったく』
『主殿、サイテ~』
『なんで浮気したみたいに責められないといけない』
『愛のないSEXはしない主義なんだ、って言っておったじゃろうが!』
『昨夜まではその信念だった。だけど女性の誘惑があれほど強烈とは想定外だったんだよ』
『それは興味深いな、ちょっと教えるのじゃ』
『言えるかバカが』
『ケチじゃのう。で、小井戸ちゃんはどうするんじゃ?』
『どうもしない。交際は断っているだろ』
『冷たい男じゃ』
『好かれたら交際しないといけないルールでもあるのか?』
『それはないが……』
『とにかく、昨夜は一回遊ばれただけだ。ノミが小井戸のかたを持つのはかまわないが、無理に押し付けるのは彼女のためにもならないと思うぞ』
『ぐぬぬ。とりあえずフォローしとくから、主殿もフォローするのじゃぞ』
『わかったよ』

 下を向いていた小井戸が顔を上げる。
「ノミさん顔が怖いです。どうしたんですか?」
「小井戸ちゃんを泣かせた男が許せなくてね」
「私が勝手に片思いしてフラれただけですから彼は悪くありません! 社長に言って何とかしてもらうとかやめてくださいね」
「そんな真似しないわよ。ねえ小井戸ちゃん、好きな男性が他の女性と一夜を共にしたら嫌いになる?」
「えっ……。正式に交際した後なら許せません。でも今の彼はフリーですから、嫌ですけど嫌いにはなれません」
「なら少し様子を見ない? もしかしたら一晩だけのアバンチュールかもしれないし」
「でも、相手の女性はとても綺麗で色気のある素敵な女性なんですよ」
「その色香に騙されただけかもしれないわ」
「そうかなあ……」
「もし色気で落ちるなら小井戸ちゃんも色気で攻めればいいのよ」
「わたし子供っぽいし、彼の趣味じゃないかも」
「そう言われたの?」
 小井戸は首を振る。
「なら試してみる価値はあるわ」
「そうですね……、もう少し頑張ってみます。すみません打ち合わせを始めましょう」


△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼


 屋上へ続く階段。小井戸は打ち合わせを終えノミを送り出した後だ。
 階段を下りていくと会いたくない人がいた。
「やあ小井戸さん」
「あなたは……、渋皮さん」
杉沢すぎさわです」
 間違えて呼んだのはわざとだ。
「何のご用でしょうか?」
「九十九女王はお帰りになられたのかな」
「いらしていたのですか、知りませんでした」
「とぼけても無駄ですよ、あなたが九十九女王の専属担当なのでしょう」
「さあ、なんのことですか?」
「あなたの上司、たしか高羽たかば部長でしたよね。九十九女王との取引内容を雑誌記者に漏らして懲戒処分になった。もし専属担当なのがマスコミに漏れたら」
 小井戸は深い溜息をつく。
「私を脅して何の得があるんですか?」
「脅すなんてとんでもない! 僕は君の身を案じているんだ」
「あらそうですか。なら特に話すこともないですし、お仕事に戻られたらいかがです?」
「冷たいなあ。そうそう、今日は用事があって来たんだ」
 彼はスーツの内ポケットから細長い箱を取り出すと、彼女の前に差し出す。
「プレゼント、受け取ってくれるよね」
「いりません」
「受け取ってくれないとマスコミにリークしちゃうかもね」
 彼女は杉沢を鋭い視線で睨みつける。
「そんなに怖い顔しないで。僕はプレゼントを受け取って欲しいだけなんだ。脅すような真似はしなくないんだよ、でも、そのくらい僕は本気なんだ。その気持ちは汲んで欲しいな」
 彼女は無言で拒絶し続ける。
「マスコミに情報が漏れて困るのは君じゃないんだよ。機密情報の管理に問題があると判断されれば九十九女王は天白商事との取引を中断するだろう。そうなれば信用は失われ古株の顧客まで取引を敬遠。最悪、会社が潰れるかもね」
「卑怯者。プレゼントを渡したい相手を不快にして何が得られるというの」
「よく言うだろ、嫌よ嫌よも好きのうちってね。存在すら認識してもらえない無関心よりは、嫌われても僕を意識してくれていたほうが良いよ。いずれ好きにしてみせるからさ」
「ゼロをプラスにするのって意外と簡単なんですよ。その反面、マイナスをゼロにするのは凄く難しいの、ご存知?」
「僕はまだゼロだろ」
 呆れてものが言えない小井戸。
「そろそろ仕事に戻ります」
「受け取らないとここを通さないよ」
 プレゼントを持っていない腕を広げ階段を塞ぐ。
「いいわ、受け取ればいいんでしょ」
「ゴミ箱には捨てないでくれよ」
 箱を受け取ると杉沢が腕を下げたので、小井戸は小走りでその場から去ったのだった。
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