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スケープゴート
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箱守防衛大臣の私設秘書が民家を訪問していた。
ノミのモデルとなった藍川瑠子の伯母である倉原佳代の自宅だ。
和室の客間には座卓が置かれており、倉原と私設秘書が向かい合って座っている。
五十代だがとてもしっかりしたご婦人で背筋もピンと伸びていた。
藍川の血縁らしく、目鼻立ちの整った顔をしている。
「九十九ノミという女性はご存知ですか」
「もちろん知っていますよ、姪にそっくりなんですから。最近はニュースでよく見かけますね」
「どの程度似ているのでしょう」
「お電話を頂いてから写真を探しましたのよ。もう十年以上前ですから残っていて良かったわ」
倉原は立ち上がると用意しておいた写真をタンスから取り出した。
「大学の入学式です」
座卓に置かれた写真には袴を着た瑠子と両親が写っている。
「私ども夫婦は子宝に恵まれませんでしたから、弟の娘は我が子同然に思っていました。それが弟と一緒に亡くなるだなんて……。あの頃の私は希望の光が消えたような気分で、それはもう落ち込みましたよ」
「確かに似てますね」
「九十九さんのほうが少し若いようですわ。もしかしたら生まれ変わりかもと淡い夢を見てしまいますね」
「生まれ変わりではなく、ご本人かもしれません」
「なにをご冗談を」
機嫌を悪くしたのか声のトーンが硬くなる。
「彼女が優れた科学者なのはご存知ですよね。ですが年端も行かない女子があのようなロボットを作れると思いますか?」
「私は機械音痴ですからわかりませんよ。自動車メーカーだってロボットを作っているじゃありませんか」
「せいぜい人の大きさまでです。あのような巨大なロボットは日本では作れません。私どもは彼女の背後に大きな組織があり、瑠子さんはその組織によって事故から救われたと考えています」
「夢物語も甚だしいですわ」
「夢か、真実か、はっきりさせたいと思いませんか?」
「思いませんね。今までも雑誌記者たちが何人か訪ねて来ましたよ。どの人も瑠子と同一人物じゃないかと。そんなバカな話があってたまりますか。政府の人と言うから違う話かと耳を傾けてみれば同じことを。もう帰ってください!」
「私をゴシップ記者と同様に扱わないで頂きたい。ここへ来たのは日本政府として確認するためです。仮に九十九氏が瑠子さんと同一人物であった場合、彼女は日本人となり、彼女が発明した技術は日本の財産となるのです。簡単に国外に持ち出されては困るのです」
「もし同一人物だとしても、あの子が国外に出たいと、そう決断したのなら私はあの子の意思を尊重します。日本へ連れ戻す手助けなんてしませんよ」
「彼女が得た収益であなたも楽な暮らしができます」
「夫が残してくれた貯金があります。姪のお金をあてにするほど落ちぶれちゃいませんよ」
双方一歩も譲らず相手の目をじっと睨んでいた。
私設秘書は出されていたお茶を一気に飲むと、
「今日はこれにて引きあげますが、後日またお伺いさせていただきます」
「何度来られても返事はかわりませんから」
「あ、すみません……、おトイレお借りして宜しいですか?」
彼女は鼻でため息をつくと、
「出て右ですよ」と、トイレの場所を教えてあげる。
私設秘書はトイレのドアを開くと中には入らずにドアを閉め、あたかも入ったように偽装する。
忍び足で隣の洗面所へ入ると、背広のポケットからビニール袋を取り出し、歯ブラシと髪の毛の付いた櫛をビニール袋へ入れる。
彼は老婆愛好者ではないし、使用済み歯ブラシを収集する性癖の持ち主でもない。DNA検査をするための検体を盗んだのだ。
トイレに戻ると音を出さずにドアを開き、中へ入り、水を流して出てくる。
客間の入口に戻ると、
「お借りします。それでは」と声をかけ家を後にしたのだった。
彼女は『トイレお借りしました』の間違いでは、と一瞬思ったがそれ程気にはしなかった。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
週刊雑誌の出版社にフリーカメラマンの樽野公哉が訪れていた。
応接室に通され、牛革の高級ソファーに座らされ、スキンヘッドの越前明彦編集長に背後から肩を揉まれていた。
「――で樽野ちゃん、その後の取材はどうよ。そろそろ報告が聞きたいなぁ~」
久崎と小井戸が誘拐される現場の写真を見せ、これは博士に関係がある人たちだと嘘をついていた。その後、取材費を貰ったが何の成果も出していない。
「実はですね、九十九のバックにいると思われる企業が海外に拠点を持っていることがわかったんですよ」
「おぉ~、それからそれから?」
「取材に行きたいのは山々ですが、海外に行こうにも旅費が工面できませんし、息子の面倒を見てくれる者がいなくてですね」
「おっけ~おっけ~じゃあこっちで取材班を都合するよ、場所はどこ?」
「それは言えません、特級のネタですからね他人は信用できませんよ」
「なるほどなるほど~」
優しく肩を揉んでいた手に力が入り、上から押さえつけらえれ尻がソファーにめり込む。
「樽野ちゃんさあ、カメラどした?」
「今日は家に置いてきましたよ」
「ハッハッハ! バカかてめぇ」
編集長は樽野の頭を掴むと無理やり上を向かせ至近距離で睨みつける。
「年がら年中特ダネを渇望してるフリーカメラマンがカメラを置いて出歩くわけね~だろ。オマエ、カメラ売ったな? カメラマン辞めるつもりだろ。それで最後に俺から金を搾り取ろうって魂胆だろぅが。俺を甘く見るなよ。オマエみたいなうだつの上がらないフリーカメラマンなんぞ腐るほど見て来たんだ。そんなヤツはな目が死んでるんだよ、プンプン腐臭がするんだよ、ファインダーを覗く目じゃないんだよ」
樽野は何も言い返せなかった。
カメラは久崎に握り潰され、新しいカメラを買う金も気力もなく、ただ毎日何もせず時間だけ浪費していた。
貯金も底をつき、息子にご飯を買うこともできなくなり、最後の手段として編集長の金を騙し取りに来たのだ。
一眼レフのデジタルカメラを素手で握り潰せる人間などいるわけがない。久崎が九十九の関係者で、何かしらの強化がされていたと予想をした。そのネタで久崎をゆすることもできたが、あの力が息子に及ぶ可能性を考えたら何もできなかった。
「すみません、すみません、すみません」と、蚊の鳴くような声で謝罪を続ける。
頭を掴んでいた手を放すと、樽野の正面のソファーに乱暴に腰を下ろす。
「で、どこから嘘だぁ? 海外の拠点わぁ~?」
「嘘です」
「バックの企業わぁ~?」
「嘘です」
「誘拐と九十九の関係わぁ~?」
「嘘です」
「全部じゃね~かっ!!」
編集長が応接セットのテーブルを蹴ると、それが樽野の膝に当たる。
樽野は痛みを我慢しつつ、
「誘拐は、本当です」と、声を絞り出すと低く呻き声をあげた。
「なぜ誘拐の現場にお前がいたんだ?」
樽野は銀行強盗からの経緯を説明するが、女性を尾行して久崎にカメラを壊された件は黙っていた。
「警察がマークしていた男と、その男を尾行した女ねぇ……」
編集長は腕組みをして暫く考えると、
「その話は本当なんだな?」
「神に誓って」
「てめえの安い神なんぞ知るか。その二人の写真とプロフィールをよこせ、それで前に渡した取材費をチャラにしてやるよ」
「えっ……でも……」
「警察に突き出されないだけマシだと思え」
後日、樽野は編集長の命令を聞き写真と情報を渡したのだった。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
編集長の越前明彦は自分の席から窓の外を眺めながら考え込んでいた。
机の上には樽野から奪った写真と、久崎と小井戸の名前、住所、勤務先が書かれたメモが置かれている。
天白商事に勤める久崎慧也と小井戸沙来か……。
なぜ警察は銀行強盗と久崎に関連があると思ったんだ?
考えられるのは銀行が襲われた時の客に久崎がいたケース。しかし単なる客を尾行するなどありえない。
ならば犯人? いや、あの事件は犯人が捕まり解決した。
残る可能性は犯人を捕らえた不審者……。
黒いタイツを着た女性だったな。もしや小井戸が?
なるほど、黒タイツを開発したのが天白商事で、実験モニターが小井戸、監督役が久崎、開発チームのマスコットが九十九。
見えてきたぞ!
情報を盗もうとしたライバル企業が久崎と小井戸を拉致したんだ。
おそらく天白商事にはスパイが紛れ込んでいるだろう、そこから久崎と小井戸の情報が漏れたんだ。
繋がった!!
これ以上隠しきれないと判断した天白商事は、謝罪と言う場を作り九十九との関係性をオープンにした。九十九をスケープゴートにし、天白商事は商談相手というポジションをキープした。
これが真相か、なるほどな。
九十九、久崎、小井戸は末端だな。攻めるなら役員以上、社長の天白幸之助か……。
編集長は緊急会議を開き天白商事の取材チームを編成したのだった。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
総務部は会社の何でも屋と呼ばれるほど業務の内容が多岐に渡るのだ。
例えば会社で使われるボールペンなどは備品と呼ばれ会社から支給されている。
各部署には備品保管棚が設置されており、社員はそこから備品を取っていくのだ。
総務部は定期的に備品保管棚をチェックし不足している備品を補充していく。この仕事も新人が担当することが多い。
産業スパイの杉沢秀一も備品が積まれた台車を押しながら各部署を廻っていた。
備品の補充を終え部署内をチェックし目当ての子を見つける。小井戸沙来だ。
都合よく横を通り過ぎようとした小井戸に、
「こんにちは」と声をかけた。
彼女は突然声をかけられびくっと反応する。
「何か?」
どうやら彼を覚えていないようだ。
「この前、封筒と落としたのを拾ってくれましたよね」
「……? ああ! あの時の」
「その節は助かったよ、ありがとう」
「いいえ。それじゃ」と、そそくさと去ってしまう。
最近は減ったが、社内でも声をかけられることが多い彼女はなるべく異性と話をしないよう心掛けていた。久崎に見られ変に誤解されるのも都合が悪い。
男性社員に睨まれていることに気がついた杉沢は慌てて台車を押してその場から去ったのだった。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
社内で声をかけるのは悪目立ちするので外で声をかけることにした杉沢は、会社の出口で小井戸が出てくるのを待っていた。
会社前の歩道にはカメラを小脇にかかえた男性が何人かいた。マスコミはノミに取材しようと待ち構えているのだ。
会社から小井戸が出てくる。しかし、ここで声をかけるのは人目が多いし、何かとマズイと思った杉沢は少し後をつけ人が減るのを待つことにした。
会社から人気の少ない方へと歩くと常連しか通わない喫茶店ルマンドがある。
小井戸がその店に入るのを見ていた杉沢は、外から中の様子をうかがう。
店にはマスターと小井戸の二人しかいなかった。
絶好のチェンス到来。彼は店に入り、
「おや、偶然だね」と、彼女に声をかけたのだ。
「……? ああ、総務部の」
「杉沢と言いますよろしく」と言い、彼女の前に座る。
「あのっ――」
小井戸が何か言おうとしたところへマスターが紅茶を運んできた。
「ブレンドあるかな?」
「はい」とマスターが答える。
「それ1つね」
明らかに不機嫌そうな顔の小井戸。
「あの、何か御用ですか?」
「君と話がしたくてね。あ、今、迷惑って思ってるでしょ。でもそれは君が可愛すぎるからさ」
歯の浮くセリフも十年前なら通用したかもしれない、しかしオッサンが若い子に何を言っても迷惑なだけだった。
「私ここで待ち合わせしてるんですけど」
「ありがとう。待ち人が来るまで話をしても良いってことだね」
「そんなこと言ってません」
「そんなに怒らないで。強引なのは僕だって理解してる。でも君と話がしたいのは本当なんだ。無下にされると僕も傷つくよ。せめてコーヒーを飲み終えるまでは話しをさせてくれないか」
小井戸は自他共に認める美少女だ。この手の強引な男は今回が初めてではない。厳しく突き放すと報復されるし、甘い態度だとしつこく付きまとわれる。なので柔らかな物腰で相手に興味が無いことを淡々と説明するしかないと考えていた。
「今から来る男性は私が好意を寄せている相手です。他の男性と話をしているのを見られ、もし誤解されるようなことがあれば、私はあなたを許さないでしょう。もしナンパ以外の目的で私の前に座ったのなら早く用件を言ってください。彼が来る前に話を済ませましょう」
まるでニュース原稿でも読んでいるかのように感情を乗せず淡々と言葉を吐いた。
「あなたのような素敵な女性にそこまで思われる男性が羨ましい。いったいその人の何が君を魅了しているのか聞きたいね」
「ほぼ初対面のあなたにのろけ話を聞かせるほど私は恥知らずじゃありませんけど」
「それは残念だ。僕を好きになってもらうためのヒントになるかと期待したんだけどな」
「お客様」と、マスターが近くに来ていた。
「コーヒーを切らしておりまして本日はお出しすることができません」
「なら紅茶でいいよ」
「あいにくと紅茶も切らしてしまいました」
「なるほど、マスターは君の味方のようだね。これ以上ここにいると水をかけられそうだ。また会社で声をかけさせてもらうよ」
杉沢は笑顔で店から去って行った。
「マスターありがとう」
「紅茶冷めてしまったね、新しいの持って来るよ」と、テーブルの紅茶を持って下がったのだった。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
ホワイトハウスの執務室。
首席補佐官のヨッセル・デシャノンは中央情報局からの報告をミラード・メレンデス大統領へ伝えていた。
「――と、天白商事で九十九女王とコンタクトを取っているのは小井戸沙来と言う女性社員とのことです。連絡方法はいぜんとして不明。少なくとも携帯電話や固定電話などの一般回線は使用していません。憶測ですが何らかの専用回線を使用している可能が高いとの報告です。九十九女王は屋上から秘密裏に訪問。社長を含む全ての社員はその事を知らないようです」
杉沢秀一を含め、日本の企業スパイたちが全く情報を掴めていない状況にもかかわらず、中央情報局は小井戸とノミの動向を掴んでいた。
「その女性社員から聞き出すことは不可能なのかね」
「九十九女王の担当となる前に、ロシア連邦軍参謀本部情報総局の構成員によって拉致されたようですが、日本の警察により保護されております」
「ロシアの諜報機関は品がないからな」
「その構成員ですが、別件で日本の警察に拘留されております」
「ほぅ? ロシア連邦軍参謀本部情報総局を捕まえるとは日本の警察も優秀だな」
「いえ、日本の警察は拘束されていた諜報員を拘留しているに過ぎません。九十九女王と女性社員は親密な関係らしく、ロシア連邦軍参謀本部情報総局は女性社員に危害を加えたため九十九女王に拘束された可能性が高いと報告を受けております」
「九十九女王に守られているわけか……」
「我が国の諜報局員が女性社員に関与すれば友好関係を築くのは難しくなるでしょう」
「ふむ……。ならば正攻法だな。在日大使に連絡をいれてくれ。天白商事へ圧力をかけ九十九女王との連絡手段を聞き出すのだ」
「他国の企業に圧力をかけるのは問題だと存じますが」
「構わん。日本など『遺憾の意』ぐらいしか囀ることができぬのだ」
ノミのモデルとなった藍川瑠子の伯母である倉原佳代の自宅だ。
和室の客間には座卓が置かれており、倉原と私設秘書が向かい合って座っている。
五十代だがとてもしっかりしたご婦人で背筋もピンと伸びていた。
藍川の血縁らしく、目鼻立ちの整った顔をしている。
「九十九ノミという女性はご存知ですか」
「もちろん知っていますよ、姪にそっくりなんですから。最近はニュースでよく見かけますね」
「どの程度似ているのでしょう」
「お電話を頂いてから写真を探しましたのよ。もう十年以上前ですから残っていて良かったわ」
倉原は立ち上がると用意しておいた写真をタンスから取り出した。
「大学の入学式です」
座卓に置かれた写真には袴を着た瑠子と両親が写っている。
「私ども夫婦は子宝に恵まれませんでしたから、弟の娘は我が子同然に思っていました。それが弟と一緒に亡くなるだなんて……。あの頃の私は希望の光が消えたような気分で、それはもう落ち込みましたよ」
「確かに似てますね」
「九十九さんのほうが少し若いようですわ。もしかしたら生まれ変わりかもと淡い夢を見てしまいますね」
「生まれ変わりではなく、ご本人かもしれません」
「なにをご冗談を」
機嫌を悪くしたのか声のトーンが硬くなる。
「彼女が優れた科学者なのはご存知ですよね。ですが年端も行かない女子があのようなロボットを作れると思いますか?」
「私は機械音痴ですからわかりませんよ。自動車メーカーだってロボットを作っているじゃありませんか」
「せいぜい人の大きさまでです。あのような巨大なロボットは日本では作れません。私どもは彼女の背後に大きな組織があり、瑠子さんはその組織によって事故から救われたと考えています」
「夢物語も甚だしいですわ」
「夢か、真実か、はっきりさせたいと思いませんか?」
「思いませんね。今までも雑誌記者たちが何人か訪ねて来ましたよ。どの人も瑠子と同一人物じゃないかと。そんなバカな話があってたまりますか。政府の人と言うから違う話かと耳を傾けてみれば同じことを。もう帰ってください!」
「私をゴシップ記者と同様に扱わないで頂きたい。ここへ来たのは日本政府として確認するためです。仮に九十九氏が瑠子さんと同一人物であった場合、彼女は日本人となり、彼女が発明した技術は日本の財産となるのです。簡単に国外に持ち出されては困るのです」
「もし同一人物だとしても、あの子が国外に出たいと、そう決断したのなら私はあの子の意思を尊重します。日本へ連れ戻す手助けなんてしませんよ」
「彼女が得た収益であなたも楽な暮らしができます」
「夫が残してくれた貯金があります。姪のお金をあてにするほど落ちぶれちゃいませんよ」
双方一歩も譲らず相手の目をじっと睨んでいた。
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「何度来られても返事はかわりませんから」
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「出て右ですよ」と、トイレの場所を教えてあげる。
私設秘書はトイレのドアを開くと中には入らずにドアを閉め、あたかも入ったように偽装する。
忍び足で隣の洗面所へ入ると、背広のポケットからビニール袋を取り出し、歯ブラシと髪の毛の付いた櫛をビニール袋へ入れる。
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「お借りします。それでは」と声をかけ家を後にしたのだった。
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週刊雑誌の出版社にフリーカメラマンの樽野公哉が訪れていた。
応接室に通され、牛革の高級ソファーに座らされ、スキンヘッドの越前明彦編集長に背後から肩を揉まれていた。
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「実はですね、九十九のバックにいると思われる企業が海外に拠点を持っていることがわかったんですよ」
「おぉ~、それからそれから?」
「取材に行きたいのは山々ですが、海外に行こうにも旅費が工面できませんし、息子の面倒を見てくれる者がいなくてですね」
「おっけ~おっけ~じゃあこっちで取材班を都合するよ、場所はどこ?」
「それは言えません、特級のネタですからね他人は信用できませんよ」
「なるほどなるほど~」
優しく肩を揉んでいた手に力が入り、上から押さえつけらえれ尻がソファーにめり込む。
「樽野ちゃんさあ、カメラどした?」
「今日は家に置いてきましたよ」
「ハッハッハ! バカかてめぇ」
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樽野は何も言い返せなかった。
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貯金も底をつき、息子にご飯を買うこともできなくなり、最後の手段として編集長の金を騙し取りに来たのだ。
一眼レフのデジタルカメラを素手で握り潰せる人間などいるわけがない。久崎が九十九の関係者で、何かしらの強化がされていたと予想をした。そのネタで久崎をゆすることもできたが、あの力が息子に及ぶ可能性を考えたら何もできなかった。
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「全部じゃね~かっ!!」
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樽野は銀行強盗からの経緯を説明するが、女性を尾行して久崎にカメラを壊された件は黙っていた。
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これが真相か、なるほどな。
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「ありがとう。待ち人が来るまで話をしても良いってことだね」
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「あなたのような素敵な女性にそこまで思われる男性が羨ましい。いったいその人の何が君を魅了しているのか聞きたいね」
「ほぼ初対面のあなたにのろけ話を聞かせるほど私は恥知らずじゃありませんけど」
「それは残念だ。僕を好きになってもらうためのヒントになるかと期待したんだけどな」
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「コーヒーを切らしておりまして本日はお出しすることができません」
「なら紅茶でいいよ」
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「なるほど、マスターは君の味方のようだね。これ以上ここにいると水をかけられそうだ。また会社で声をかけさせてもらうよ」
杉沢は笑顔で店から去って行った。
「マスターありがとう」
「紅茶冷めてしまったね、新しいの持って来るよ」と、テーブルの紅茶を持って下がったのだった。
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杉沢秀一を含め、日本の企業スパイたちが全く情報を掴めていない状況にもかかわらず、中央情報局は小井戸とノミの動向を掴んでいた。
「その女性社員から聞き出すことは不可能なのかね」
「九十九女王の担当となる前に、ロシア連邦軍参謀本部情報総局の構成員によって拉致されたようですが、日本の警察により保護されております」
「ロシアの諜報機関は品がないからな」
「その構成員ですが、別件で日本の警察に拘留されております」
「ほぅ? ロシア連邦軍参謀本部情報総局を捕まえるとは日本の警察も優秀だな」
「いえ、日本の警察は拘束されていた諜報員を拘留しているに過ぎません。九十九女王と女性社員は親密な関係らしく、ロシア連邦軍参謀本部情報総局は女性社員に危害を加えたため九十九女王に拘束された可能性が高いと報告を受けております」
「九十九女王に守られているわけか……」
「我が国の諜報局員が女性社員に関与すれば友好関係を築くのは難しくなるでしょう」
「ふむ……。ならば正攻法だな。在日大使に連絡をいれてくれ。天白商事へ圧力をかけ九十九女王との連絡手段を聞き出すのだ」
「他国の企業に圧力をかけるのは問題だと存じますが」
「構わん。日本など『遺憾の意』ぐらいしか囀ることができぬのだ」
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大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。
学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。
その業務ストレスのせいだろうか。
ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。
良心的AI搭載 人生ナビゲーションシステム
まんまるムーン
ライト文芸
人生の岐路に立たされた時、どん詰まり時、正しい方向へナビゲーションしてもらいたいと思ったことはありませんか? このナビゲーションは最新式AIシステムで、間違った選択をし続けているあなたを本来の道へと軌道修正してくれる夢のような商品となっております。多少手荒な指示もあろうかと思いますが、全てはあなたの未来の為、ご理解とご協力をお願い申し上げます。では、あなたの人生が素晴らしいドライブになりますように!
※本作はオムニバスとなっており、一章ごとに話が独立していて完結しています。どの章から読んでも大丈夫です!
※この作品は、小説家になろうでも連載しています。
後悔と快感の中で
なつき
エッセイ・ノンフィクション
後悔してる私
快感に溺れてしまってる私
なつきの体験談かも知れないです
もしもあの人達がこれを読んだらどうしよう
もっと後悔して
もっと溺れてしまうかも
※感想を聞かせてもらえたらうれしいです
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