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悪魔
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■
月影昏く、二つの影が迷宮へと向かっていた。
冷たい風がリラの脇を通り抜けてゆく。
彼女の視線は前方に見える背に固定されている。
背の主はサイラス。
リラにとって頼れる師であり、決して自分を捨てない親でもある。
やっぱり、とリラの心は不安に揺れ動いた。
"この方向にはもう迷宮しか行くような場所がない…"
サイラスが迷宮へ向かっている事を確信した彼女は、ぐっと歯を食いしばり、必死で気配を消そうと努める。
この場で声を掛けるという手もあった。
だが、それでは恐らくサイラスは適当に誤魔化し、日を置いて今度こそリラに気付かれないように迷宮へと向かってしまうだろうという確信があり、声を掛ける事が憚られたのだ。
サイラスは前を進み続ける。
リラの存在に気付かぬまま、足を一歩一歩進めていく。
リラはそんなサイラスの様子に内心で首を捻った。
彼の普段の動きは俊敏で、まるで猛獣のように周囲の状況を敏感に察知する。しかし今日は違った。
彼の動きには重さがあり、まるで石像が進んでいるかのように感じられた。
そしてリラの尾行にも気付いていない。
平時のサイラスであるなら、如何にリラが業前を磨いた所でたちまちに気配を察知してしまう筈なのに、この時ばかりは全くリラの存在に気付いていない様だった。
リラはバエルの言葉を思い出し、確信する。
"やっぱりサイラスは、その石像というモノに心を囚われているのかも" と、そう推測した。
同時に、心に名状しがたい痛みがチクリと走った。
それは彼がいまだに家族の事を吹っ切れておらず、現在、そして未来ではなく過去の方を向いていると気付いたからだ。
リラはサイラスの事を家族だと思っている。
だが、サイラスはそうではないのだろうか?
彼の目には自分は迷宮で拾った薄汚い女児としか映っていないのだろうか?
理不尽な事だとは知りながらも、リラはサイラスの亡き妻子へと嫉妬をしてしまう。
それは理不尽で、とても醜い事だとリラには分かってはいたのだが、理解と納得は似て非なるものであった。
■
サイラスは昏い一本道を歩いていた。
それは彼の精神世界においても現実世界においても同じ事が言える。
彼の前には何もない、ただ闇だけが広がっている。
しかし彼の耳には時折、優しく懐かしい声が響いていた。
それは彼の亡き妻と娘の声だ。
──いままで良く頑張ったね
──お疲れ様、お父さん
──あなたをお迎えできる準備ができたの
──だから、こちらへいらっしゃい
サイラスの生存本能が大音量で警鐘を鳴らすが、それはどこか遠い世界で鳴り響いているように彼には思えた。
・
・
・
迷宮の第6層、密林層に到達したサイラスとリラ。
その層は、普段であれば獣型の魔物がうろつく危険な場所だ。
しかし、この時ばかりは何も出てこなかった。
周囲は静寂に包まれ、風の音さえもが聞こえない。
リラもすぐにその異常さに気付く。
"ここは、多くの生き物の息吹で溢れているはずの森なのに…。何故、こんなにも静かなのだろう?"
魔獣も、そして風さえもが何か恐ろしいモノに怯えているかのような。
不穏の波動が不安の水面に吹き付け、煽りたて、リラはざわつく心を宥めながらも賢明にサイラスの後を追った。
■
獣道をいくつか抜け、サイラスとリラの目の前に古びた寺院が姿を現す。
リラはその寺院がビエッタから聞いていた寺院だと気付いた。
だから第六層に寺院が隠されていた事自体には驚いたりはしない。
しかし、寺院から放出される異様な気配は彼女も無視することはできなかった。
まるで寺院そのものが生きているような。
大型の肉食動物が大きな口を開けて、餌が飛び込んでくるのを待っているような、そんな想像がリラの脳裏を過ぎる。
リラは自身の腕を見た。
視線の先、ぶつりぶつりとした鳥肌が腕全体に広がっていた。
・
・
・
寺院の内部へ足を踏み入れたサイラスとリラ。
そこは言葉にすることができない何かで満たされていた。
リラはそれが何か、正確に表現する事は出来なかった。
ただ一つ、根拠のない確信がある。
何かが待っている。
奥で何かが待っている。
そしてそれは良くない何かだ、恐ろしい何かだ、と。
寺院の最奥部には一つの石像がたっていた。
サイラスはその前に立ち、何かを呟いている。
リラは彼が何に向かって話しかけているのかを確認しようとしたが、それが何なのかは判然としなかった。
リラの耳朶を打つサイラスの声色には喜色が混じっている。
リラはサイラスの頭がおかしくなってしまったのかと不安になったが、やはり石像が何か関係しているのだろうと意識を集中させた。
だがいくら集中したところで、石像…らしきナニカの姿は判然としない。
──何か頭の中で響く声がする
リラは僅かな煩わしさを覚え、頭を振った。
これは石像の力がリラに力を及ぼそうとしている証左である。
しかし結論から言えば、それは無駄足に終わった。
なぜなら彼女が現在と未来を見つめ、過去に囚われていないからだ。死してなお心を占める人物など、リラには一人もいない。
リラの大切だと思っている者達は死者達の中にはなく、今を生きる者達の中に在った。
・
・
・
ぐちゅり、ぐちゅり
異音が響く。
リラの視線の前で空間が波打ち、歪んでいく。
歪みは大きくなり、やがてその歪みの中心部から大きく太い腕が突き出された。
腕が一本、そして二本。
この世界ではないどこかから、赤黒い肌の巨大な悪魔が顕現しようとしていた。
それを押しとどめる手段はリラにはない。
やがて悪魔がその全容を見せるが、余りにも醜い姿にリラは嘔吐してしまうそうになった。
その腹部には女性器を模した醜悪な口が開き、その周囲には牙が数え切れないほど生えている。
ぐぱり、と腹が開き、死と穢れに満ちた膣口がサイラスへと近づいていくが、サイラスは気付かない。
蕩けた視線、望郷の、懐郷の、家族を見る目で石像を見続けていた。
びくりとリラの肩が震え、しかし逃げたりはしない。
リラが一人きりなら脱兎のごとく駆け出していただろう。
しかし…
──サイラス!
サイラスへの思慕の念が恐怖に勝り、リラは駆け出した。
後方…出口ではなく、前方へ。
■
迷宮とは一般的に古代王国の権力者たちの墳墓として知られている。
だがそれは表向きのものに過ぎない。
その本当の存在理由は、悪魔たちを封印することにあった。
遥か昔、神々の時代に世界は悪魔からの侵略戦争に勝利した。
しかし、それでも悪魔たちを完全にこの世界から追放することはできなかった。
そこで古代王国の王や神官たちは、自身の肉体を封印の要として悪魔たちを地の底に封じ込める儀式を行った。
迷宮は彼らの封印の要となる聖骸を護るための防衛施設だ。
外敵から封印を護るため、そして悪魔達を外の世界へ逃がさない為の。
この寺院自体は決して邪悪なモノではない。
古代王国の遺跡であり、石像自体も邪悪なモノではない。勿論扱いを誤れば危険ではあるが…。
しかし、迷宮に封じられた無数の悪魔達がそれらを利用して、何をするかというのはまた別の話であった。
要するに、遺物の力を利用しようとするのは、何も人間たちばかりではないということだ。
つまるところ、石像は餌である。
愚かで哀しい人間たちを呼び寄せるための。
月影昏く、二つの影が迷宮へと向かっていた。
冷たい風がリラの脇を通り抜けてゆく。
彼女の視線は前方に見える背に固定されている。
背の主はサイラス。
リラにとって頼れる師であり、決して自分を捨てない親でもある。
やっぱり、とリラの心は不安に揺れ動いた。
"この方向にはもう迷宮しか行くような場所がない…"
サイラスが迷宮へ向かっている事を確信した彼女は、ぐっと歯を食いしばり、必死で気配を消そうと努める。
この場で声を掛けるという手もあった。
だが、それでは恐らくサイラスは適当に誤魔化し、日を置いて今度こそリラに気付かれないように迷宮へと向かってしまうだろうという確信があり、声を掛ける事が憚られたのだ。
サイラスは前を進み続ける。
リラの存在に気付かぬまま、足を一歩一歩進めていく。
リラはそんなサイラスの様子に内心で首を捻った。
彼の普段の動きは俊敏で、まるで猛獣のように周囲の状況を敏感に察知する。しかし今日は違った。
彼の動きには重さがあり、まるで石像が進んでいるかのように感じられた。
そしてリラの尾行にも気付いていない。
平時のサイラスであるなら、如何にリラが業前を磨いた所でたちまちに気配を察知してしまう筈なのに、この時ばかりは全くリラの存在に気付いていない様だった。
リラはバエルの言葉を思い出し、確信する。
"やっぱりサイラスは、その石像というモノに心を囚われているのかも" と、そう推測した。
同時に、心に名状しがたい痛みがチクリと走った。
それは彼がいまだに家族の事を吹っ切れておらず、現在、そして未来ではなく過去の方を向いていると気付いたからだ。
リラはサイラスの事を家族だと思っている。
だが、サイラスはそうではないのだろうか?
彼の目には自分は迷宮で拾った薄汚い女児としか映っていないのだろうか?
理不尽な事だとは知りながらも、リラはサイラスの亡き妻子へと嫉妬をしてしまう。
それは理不尽で、とても醜い事だとリラには分かってはいたのだが、理解と納得は似て非なるものであった。
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サイラスは昏い一本道を歩いていた。
それは彼の精神世界においても現実世界においても同じ事が言える。
彼の前には何もない、ただ闇だけが広がっている。
しかし彼の耳には時折、優しく懐かしい声が響いていた。
それは彼の亡き妻と娘の声だ。
──いままで良く頑張ったね
──お疲れ様、お父さん
──あなたをお迎えできる準備ができたの
──だから、こちらへいらっしゃい
サイラスの生存本能が大音量で警鐘を鳴らすが、それはどこか遠い世界で鳴り響いているように彼には思えた。
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迷宮の第6層、密林層に到達したサイラスとリラ。
その層は、普段であれば獣型の魔物がうろつく危険な場所だ。
しかし、この時ばかりは何も出てこなかった。
周囲は静寂に包まれ、風の音さえもが聞こえない。
リラもすぐにその異常さに気付く。
"ここは、多くの生き物の息吹で溢れているはずの森なのに…。何故、こんなにも静かなのだろう?"
魔獣も、そして風さえもが何か恐ろしいモノに怯えているかのような。
不穏の波動が不安の水面に吹き付け、煽りたて、リラはざわつく心を宥めながらも賢明にサイラスの後を追った。
■
獣道をいくつか抜け、サイラスとリラの目の前に古びた寺院が姿を現す。
リラはその寺院がビエッタから聞いていた寺院だと気付いた。
だから第六層に寺院が隠されていた事自体には驚いたりはしない。
しかし、寺院から放出される異様な気配は彼女も無視することはできなかった。
まるで寺院そのものが生きているような。
大型の肉食動物が大きな口を開けて、餌が飛び込んでくるのを待っているような、そんな想像がリラの脳裏を過ぎる。
リラは自身の腕を見た。
視線の先、ぶつりぶつりとした鳥肌が腕全体に広がっていた。
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寺院の内部へ足を踏み入れたサイラスとリラ。
そこは言葉にすることができない何かで満たされていた。
リラはそれが何か、正確に表現する事は出来なかった。
ただ一つ、根拠のない確信がある。
何かが待っている。
奥で何かが待っている。
そしてそれは良くない何かだ、恐ろしい何かだ、と。
寺院の最奥部には一つの石像がたっていた。
サイラスはその前に立ち、何かを呟いている。
リラは彼が何に向かって話しかけているのかを確認しようとしたが、それが何なのかは判然としなかった。
リラの耳朶を打つサイラスの声色には喜色が混じっている。
リラはサイラスの頭がおかしくなってしまったのかと不安になったが、やはり石像が何か関係しているのだろうと意識を集中させた。
だがいくら集中したところで、石像…らしきナニカの姿は判然としない。
──何か頭の中で響く声がする
リラは僅かな煩わしさを覚え、頭を振った。
これは石像の力がリラに力を及ぼそうとしている証左である。
しかし結論から言えば、それは無駄足に終わった。
なぜなら彼女が現在と未来を見つめ、過去に囚われていないからだ。死してなお心を占める人物など、リラには一人もいない。
リラの大切だと思っている者達は死者達の中にはなく、今を生きる者達の中に在った。
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ぐちゅり、ぐちゅり
異音が響く。
リラの視線の前で空間が波打ち、歪んでいく。
歪みは大きくなり、やがてその歪みの中心部から大きく太い腕が突き出された。
腕が一本、そして二本。
この世界ではないどこかから、赤黒い肌の巨大な悪魔が顕現しようとしていた。
それを押しとどめる手段はリラにはない。
やがて悪魔がその全容を見せるが、余りにも醜い姿にリラは嘔吐してしまうそうになった。
その腹部には女性器を模した醜悪な口が開き、その周囲には牙が数え切れないほど生えている。
ぐぱり、と腹が開き、死と穢れに満ちた膣口がサイラスへと近づいていくが、サイラスは気付かない。
蕩けた視線、望郷の、懐郷の、家族を見る目で石像を見続けていた。
びくりとリラの肩が震え、しかし逃げたりはしない。
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しかし…
──サイラス!
サイラスへの思慕の念が恐怖に勝り、リラは駆け出した。
後方…出口ではなく、前方へ。
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迷宮とは一般的に古代王国の権力者たちの墳墓として知られている。
だがそれは表向きのものに過ぎない。
その本当の存在理由は、悪魔たちを封印することにあった。
遥か昔、神々の時代に世界は悪魔からの侵略戦争に勝利した。
しかし、それでも悪魔たちを完全にこの世界から追放することはできなかった。
そこで古代王国の王や神官たちは、自身の肉体を封印の要として悪魔たちを地の底に封じ込める儀式を行った。
迷宮は彼らの封印の要となる聖骸を護るための防衛施設だ。
外敵から封印を護るため、そして悪魔達を外の世界へ逃がさない為の。
この寺院自体は決して邪悪なモノではない。
古代王国の遺跡であり、石像自体も邪悪なモノではない。勿論扱いを誤れば危険ではあるが…。
しかし、迷宮に封じられた無数の悪魔達がそれらを利用して、何をするかというのはまた別の話であった。
要するに、遺物の力を利用しようとするのは、何も人間たちばかりではないということだ。
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