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白い結婚
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◆
「アリシア。君の事は愛している、だが暫くの間は白い結婚となるかもしれない事を赦して欲しい」
その言葉を聞いた時──私は急に視界が狭まり、足元がまるで頼りない柔らかい何かに変わってしまったような気がした。
ふらりと崩れ落ちそうになる私を、ファレン様が優しく抱きとめる。
「大丈夫かい? アリシア。本当に済まない……だが、駄目なんだ。君と結ばれる事はできない」
ファレン様はそう言いながら、私をソファに座らせてくれた。
「だが、事情を説明しなければ君も納得はしないだろう。僕の恥を晒すように済まないが、聞いてくれるかい」
断る理由はない──でも、その前に。
「ファレン様、もしファレン様が他の女性と不義密通を交わしてしまったのなら仰ってください。暫くというのは、その女性との関係を清算するための時間稼ぎ──」
話しているうちに、私は自分の感情がコントロールできなくなりつつあることをどこか俯瞰した視点から眺めていた。
手が震え、その震えが体にも伝わり。
目の奥が熱くなって、胸が締め付けられる様な感覚。
裏切りだ、裏切りだ、と叫ぶ声が私の頭の中で木霊する。
でも──
「そんなわけがない! 僕は! 君を愛している!! 不実な事などした覚えはないし、これからもするつもりなどないッ!」
普段決して怒鳴ったりしないファレン様が、怒りをあらわにして大声をあげた。
私はびっくりしてしまって、でもだからこそ何か不実以外の深い事情があるに違いないと確信する。
「では、なぜ……」
私が恐る恐る問うと、ファレン様は唇を噛みしめ……やがてこんな事を言った。
「僕は……自慰をしすぎて、君の姿を以てしてもぴくりとも反応しなくなってしまったのだッ……!」
ガガン、と雷が落ちたような気がした。
「この際だからはっきりと言う」
ファレン様は向かいのソファからおもむろに立ち上がって、拳を固めて震えている。
「ファ、ファレン様……まさか泣いているのですか……?」
またガガン、だ。
男性が人前で涙を流す時は、家族やそれに準じる深い関係の相手が亡くなった時のみで、それ以外の時に流す涙は嘲笑の対象となってしまう事もある。
だのに──
「ああ、泣いている」
ファレン様が顔をあげ、私の事を見つめた。
初めて見てしまったファレン様の涙は、不謹慎かもしれないけれどとても美しかった。
「自分が情けなくて泣いている。そう、この際だから言おう。僕は君が抱きたくて抱きたくて仕方がなかった。君の全てが僕を魅了した。君が僕の腕に触れた時、手に触れた時──精を放ってしまったこともあるッ! 性欲だけでこんな事は言っていない! こんな事にはならない! 心と体が高い次元で相手を求めていなければ、こんな様は晒さないんだ! ……君は僕を不気味に思い、恐れるかもしれないがここまで話してしまったからには全てを話そう」
ファレン様は一旦言葉を切り、再び唇を噛みしめ、そして──
「ある日、僕は君を求める気持ちが大きくなりすぎている事に気付いた。よくいるだろう、どうせ婚約しているのだから、と婚前交渉を強いる貴族が。僕はそういう事はしたくはない。順序と準備だ。相手に対する尊重の念があってこそ愛は成る。しかし頭ではそう思っていても、体は正直だった。やがて我慢の限界を迎えた時、僕は想像の中の君に、君に……君をッ! ……そんな日々が続き、ある日突然その日は来た」
「君に触れられても体がぴくりとも反応しない。燃え盛る情欲の炎が心を炙り、叫び出したくなる衝動が訪れない。それもそうだろう! 僕は想像の中の君に、手で触れられるよりももっととんでもない真似をさせていたのだから! ……どうだい、アリシア。これが事の真相だ」
私は何といっていいのか分からなかった。
ただ、何かを言わないといけないと思い、頭の中で言葉を紡いでいく。
しか、折角なにかしら形になろうかという時に、ファレン様がこんな事を言った。
「僕は死ぬ。済まなかった、アリシア」
「なぜ!?」
「頭の中とはいえ、君を穢したからだ。そして不快な思いをさせてしまったからだ。話せば話すほど自分が薄汚い下郎であることを自覚した思いだ。後のことは家令のジョージに任せておく。君に非は一切無い。さよなら、愛している……アリシア」
ちょっと待ってください、と私は去ろうとするファレン様を引き留めてソファに座らせた。
私は必死で状況を整理する。
──つまり、ファレン様は
──だから、私を……
──白い結婚というのは……
「ファレン様、なぜ最初に暫くと付け加えたのですか?」
それがどうにも気になった。
暫くということは、つまり時間があればファレン様が治るという事ではないのか?
果たして、その言葉の意図は私が思った通りだった。
「ああ……それは……さる高名な医者に尋ねた所、ある程度長い期間自慰を止め、リハビリに努めれば治ると……だから私は……」
「なるほど。つまりファレン様が狂乱してしまった理由は、事情を話しているうちに恥ずかしくなって、死んで解決しようと短絡的に考えたからなのですね。ご自分の情けない部分、恥ずかしい部分を私に知られて失望されることが怖かったからなのですね」
私は言ってやった。
正直な所少し怒っていたのである。
「先ほどから聞いていれば、ファレン様のご都合ばかりではありませんか。私の事を考え、結婚前に手をだすまいとしてくれたことは嬉しく思います。しかしそれ以外はすべてご自分の都合です……ファレン様はなぜ自分で何もかも結論付けてしまうのですか? それに──」
私はぐわっとこみ上げるような怒りを覚え、ファレン様を睨みつけた。
「私を見くびっておいでなのですか。生涯を共にする人があらゆる意味で完璧ではなく、瑕もあるということをしって失望するような女だと! 私たちは貴族です、当然子供を成す義務があります。ファレン様の状態は決して軽く考えていいような状態ではありませんが、お医者様によれば治る見込みがあるとのことではありませんか!」
「ぐッ……! その通りだ、本当にすまないアリシア。僕は情けない男だ……しかしここで逃げては男ですらなくなる。本当にすまない、君にきちんと相談するべきだった。そして自身の闇と向かい合うべきだったのだ!」
ファレン様が頭をさげ、そして私を見た。
その両眼には力強い光が宿っている。
私の好きなファレン様の目だ。
「でしたら治しましょう! まずは自慰をやめ、生身の私を求めていただけるように精神を改革するのです! そのためならどんな事でも協力致します!」
「ど、どんなことでも……!?」
ファレン様がごくりと息を呑んだ。
私もごくりと息を呑んだ。
自分がとんでもない言質を与えた事に気付いたからだ。
ファレン様は一体私に何をさせるつもりなのか……少し心配になってしまった。
◆
私たちの決意表明後、私たちの間に不穏の波風が立つことはなかった。
どんなことでも協力すると言った手前、どんな事でもするつもりだったけれども。
ファレン様と私はとりあえずは結婚の日を迎えるまではお互い励まし合ってなんとか頑張っていこう、という事になった。
・
・
ファレン様は伯爵家嫡男として着々と必要な知識を積み重ね、貴族としての品格もまた日に日に磨きをかけている。
私も貴族の淑女として教育を受けており、時には辛いと思うこともあるが、今のところ何とか頑張ることができていた。
ファレン様が弱音を漏らした時には私が励まし、私が弱音を漏らした時はファレン様が励ましてくださり──我ながらこんなこと言うのは恥ずかしいが理想的な恋人同士だと言えるだろう。
先日とんでもない告白をしたファレン様だが、それ以降特に私に対しての接し方が変わってしまった様子もない。
ただ、私は私で少し大変だった。
ファレン様が私に対してどういう感情を抱いているかを知ってしまったからだ。
そういった感情に嫌悪感を抱く人もいるかもしれないが、嫌悪感というのは何を言ったよりは誰が言ったかが問題だったりする。
私はファレン様に対して嫌悪感を抱く事はなかった。
ただ、ファレン様の中にそういう強い欲求があることは手放しで喜べる事ではない。
それが私に向いているだけならともかく、他の人に向いてしまったら? という不安がある──いや、あった。
とある出来事が切っ掛けで、私はファレン様の欲求が他に向く事はないと確信できたのだ。
そのとある出来事というのは──
「アリシア。君の事は愛している、だが暫くの間は白い結婚となるかもしれない事を赦して欲しい」
その言葉を聞いた時──私は急に視界が狭まり、足元がまるで頼りない柔らかい何かに変わってしまったような気がした。
ふらりと崩れ落ちそうになる私を、ファレン様が優しく抱きとめる。
「大丈夫かい? アリシア。本当に済まない……だが、駄目なんだ。君と結ばれる事はできない」
ファレン様はそう言いながら、私をソファに座らせてくれた。
「だが、事情を説明しなければ君も納得はしないだろう。僕の恥を晒すように済まないが、聞いてくれるかい」
断る理由はない──でも、その前に。
「ファレン様、もしファレン様が他の女性と不義密通を交わしてしまったのなら仰ってください。暫くというのは、その女性との関係を清算するための時間稼ぎ──」
話しているうちに、私は自分の感情がコントロールできなくなりつつあることをどこか俯瞰した視点から眺めていた。
手が震え、その震えが体にも伝わり。
目の奥が熱くなって、胸が締め付けられる様な感覚。
裏切りだ、裏切りだ、と叫ぶ声が私の頭の中で木霊する。
でも──
「そんなわけがない! 僕は! 君を愛している!! 不実な事などした覚えはないし、これからもするつもりなどないッ!」
普段決して怒鳴ったりしないファレン様が、怒りをあらわにして大声をあげた。
私はびっくりしてしまって、でもだからこそ何か不実以外の深い事情があるに違いないと確信する。
「では、なぜ……」
私が恐る恐る問うと、ファレン様は唇を噛みしめ……やがてこんな事を言った。
「僕は……自慰をしすぎて、君の姿を以てしてもぴくりとも反応しなくなってしまったのだッ……!」
ガガン、と雷が落ちたような気がした。
「この際だからはっきりと言う」
ファレン様は向かいのソファからおもむろに立ち上がって、拳を固めて震えている。
「ファ、ファレン様……まさか泣いているのですか……?」
またガガン、だ。
男性が人前で涙を流す時は、家族やそれに準じる深い関係の相手が亡くなった時のみで、それ以外の時に流す涙は嘲笑の対象となってしまう事もある。
だのに──
「ああ、泣いている」
ファレン様が顔をあげ、私の事を見つめた。
初めて見てしまったファレン様の涙は、不謹慎かもしれないけれどとても美しかった。
「自分が情けなくて泣いている。そう、この際だから言おう。僕は君が抱きたくて抱きたくて仕方がなかった。君の全てが僕を魅了した。君が僕の腕に触れた時、手に触れた時──精を放ってしまったこともあるッ! 性欲だけでこんな事は言っていない! こんな事にはならない! 心と体が高い次元で相手を求めていなければ、こんな様は晒さないんだ! ……君は僕を不気味に思い、恐れるかもしれないがここまで話してしまったからには全てを話そう」
ファレン様は一旦言葉を切り、再び唇を噛みしめ、そして──
「ある日、僕は君を求める気持ちが大きくなりすぎている事に気付いた。よくいるだろう、どうせ婚約しているのだから、と婚前交渉を強いる貴族が。僕はそういう事はしたくはない。順序と準備だ。相手に対する尊重の念があってこそ愛は成る。しかし頭ではそう思っていても、体は正直だった。やがて我慢の限界を迎えた時、僕は想像の中の君に、君に……君をッ! ……そんな日々が続き、ある日突然その日は来た」
「君に触れられても体がぴくりとも反応しない。燃え盛る情欲の炎が心を炙り、叫び出したくなる衝動が訪れない。それもそうだろう! 僕は想像の中の君に、手で触れられるよりももっととんでもない真似をさせていたのだから! ……どうだい、アリシア。これが事の真相だ」
私は何といっていいのか分からなかった。
ただ、何かを言わないといけないと思い、頭の中で言葉を紡いでいく。
しか、折角なにかしら形になろうかという時に、ファレン様がこんな事を言った。
「僕は死ぬ。済まなかった、アリシア」
「なぜ!?」
「頭の中とはいえ、君を穢したからだ。そして不快な思いをさせてしまったからだ。話せば話すほど自分が薄汚い下郎であることを自覚した思いだ。後のことは家令のジョージに任せておく。君に非は一切無い。さよなら、愛している……アリシア」
ちょっと待ってください、と私は去ろうとするファレン様を引き留めてソファに座らせた。
私は必死で状況を整理する。
──つまり、ファレン様は
──だから、私を……
──白い結婚というのは……
「ファレン様、なぜ最初に暫くと付け加えたのですか?」
それがどうにも気になった。
暫くということは、つまり時間があればファレン様が治るという事ではないのか?
果たして、その言葉の意図は私が思った通りだった。
「ああ……それは……さる高名な医者に尋ねた所、ある程度長い期間自慰を止め、リハビリに努めれば治ると……だから私は……」
「なるほど。つまりファレン様が狂乱してしまった理由は、事情を話しているうちに恥ずかしくなって、死んで解決しようと短絡的に考えたからなのですね。ご自分の情けない部分、恥ずかしい部分を私に知られて失望されることが怖かったからなのですね」
私は言ってやった。
正直な所少し怒っていたのである。
「先ほどから聞いていれば、ファレン様のご都合ばかりではありませんか。私の事を考え、結婚前に手をだすまいとしてくれたことは嬉しく思います。しかしそれ以外はすべてご自分の都合です……ファレン様はなぜ自分で何もかも結論付けてしまうのですか? それに──」
私はぐわっとこみ上げるような怒りを覚え、ファレン様を睨みつけた。
「私を見くびっておいでなのですか。生涯を共にする人があらゆる意味で完璧ではなく、瑕もあるということをしって失望するような女だと! 私たちは貴族です、当然子供を成す義務があります。ファレン様の状態は決して軽く考えていいような状態ではありませんが、お医者様によれば治る見込みがあるとのことではありませんか!」
「ぐッ……! その通りだ、本当にすまないアリシア。僕は情けない男だ……しかしここで逃げては男ですらなくなる。本当にすまない、君にきちんと相談するべきだった。そして自身の闇と向かい合うべきだったのだ!」
ファレン様が頭をさげ、そして私を見た。
その両眼には力強い光が宿っている。
私の好きなファレン様の目だ。
「でしたら治しましょう! まずは自慰をやめ、生身の私を求めていただけるように精神を改革するのです! そのためならどんな事でも協力致します!」
「ど、どんなことでも……!?」
ファレン様がごくりと息を呑んだ。
私もごくりと息を呑んだ。
自分がとんでもない言質を与えた事に気付いたからだ。
ファレン様は一体私に何をさせるつもりなのか……少し心配になってしまった。
◆
私たちの決意表明後、私たちの間に不穏の波風が立つことはなかった。
どんなことでも協力すると言った手前、どんな事でもするつもりだったけれども。
ファレン様と私はとりあえずは結婚の日を迎えるまではお互い励まし合ってなんとか頑張っていこう、という事になった。
・
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ファレン様は伯爵家嫡男として着々と必要な知識を積み重ね、貴族としての品格もまた日に日に磨きをかけている。
私も貴族の淑女として教育を受けており、時には辛いと思うこともあるが、今のところ何とか頑張ることができていた。
ファレン様が弱音を漏らした時には私が励まし、私が弱音を漏らした時はファレン様が励ましてくださり──我ながらこんなこと言うのは恥ずかしいが理想的な恋人同士だと言えるだろう。
先日とんでもない告白をしたファレン様だが、それ以降特に私に対しての接し方が変わってしまった様子もない。
ただ、私は私で少し大変だった。
ファレン様が私に対してどういう感情を抱いているかを知ってしまったからだ。
そういった感情に嫌悪感を抱く人もいるかもしれないが、嫌悪感というのは何を言ったよりは誰が言ったかが問題だったりする。
私はファレン様に対して嫌悪感を抱く事はなかった。
ただ、ファレン様の中にそういう強い欲求があることは手放しで喜べる事ではない。
それが私に向いているだけならともかく、他の人に向いてしまったら? という不安がある──いや、あった。
とある出来事が切っ掛けで、私はファレン様の欲求が他に向く事はないと確信できたのだ。
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