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忍び寄る罠

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 罅と蔦の蔓延る外壁、雑な修繕で不ぞろいの屋根。室内の床や壁もタバコや調理の油の後で薄汚れている。
下町の老朽化が目立つおんぼろ酒屋。バーと言うより、場末のパブというのがぴったりだ。
 洒落たカクテルや高級ワインより、安酒が似合う。
 王都のとある酒場で、一人の男が管を巻いていた。
 泥酔してもなお大きなジョッキを手から離さず、半分以上残っていた中身を煽ると割れそうな勢いで机に落とす。

「ちっくしょう……マリスめ、あのアバズレぇ……俺をコケにしやがって。親父たちが俺を追い出したのは、アイツが俺を騙したせいだ……!」

 そこで小汚い男が酒に溺れている。見るからに厄介そうな酔っ払いに、皆は視線を合わせないようにしていた。
 彼の名はグライド・ブル。貴族の子息だ――もうすぐ、だったになる。
 優秀ではない彼は、その短気な性格でたびたび問題を起こしていた。小競り合いはしょっちゅうで、最近だと浮気からの婚約破棄。しかもその新しい婚約者が本当は貴族籍を持たない娘だと判明した。
 父親は多くの詐欺や偽造による家督簒奪といい加減な領地経営で、各方面から突き上げを食らっている。
 彼が子爵当主でいられるのは時間の問題だ。
 要するにグライドはとんだ偽物を掴まされた馬鹿者で、そんなグライドを実家は勘当した。
 元婚約者のアンジェリカはティンパイン公式神子の護衛という栄誉ある地位だけでなく次期当主に返り咲き、伯爵家の子息と縁談が纏まっている。
 逃がした魚が大きすぎたのも、ブル家からの見放された原因だろう。

「アイツが誘惑してこなければ、俺が当主だったのに!」

 そんなわけない。グライドは当主教育を受けていないし、頭が悪い。
 婿養子として補佐と言う名の添え物がいいところだろう。
 しかし、とことん都合の良い彼は泥酔していたこともあり、自分の妄想と混同していた。

「聖騎士になったのも俺だったし! そうすれば王宮マダムの愛人にだって……!」

 彼はこの状態においても、脳みそがお花畑だった。ティルレインとは違う意味で大変おめでたかった――すごく悪い意味で。
 この性格も周囲から見限られた原因だが、グライドは自己憐憫に忙しくて気づきもしない。
 貴族の自分がこんな場所で安酒を煽るなんて間違っていると言い始めた頃には、客だけでなく店員からの視線も冷たくなっていた。
 一夜の客を探す娼婦や、店の酌婦すら近づこうとしない。
 グライドは最初に一度だけ飲食代を支払ったが、それ以降はツケばかりだ。
 いいとこ坊ちゃんの身なりだったので黙認していたが、日を追うごとに薄汚れている。今後の支払いが怪しかった。
 そんな彼に、旅人らしいマント姿の女性が近づいた。

「本当に可哀想。貴方は悪くないわ」

 目深にかぶったフードから見える白く細い顎と、真っ赤な唇が印象的だった。
 吊り上がる口角が蠱惑的で、グライドは目が離せない。
 華奢な手がジョッキを持つ手と重なる。

「こんな結末、相応しくないわ」

 その言葉はグライドの求めていたものだった。
 自分は悪くない。この状況は正しくない。間違っているのは、グライド以外。
 自分にそう言い聞かせながら、誰かにそう言ってもらいたかった。
 もっとその言葉を聞きたくて、グライドはマントの人物に身を寄せる。それは無意識の行動だった。


 小一時間もしないうちに、マントの人物だけパブから出てきた。
 自分の出てきた店をちらりと一瞥し、舌打ちする。

「汚い店」

 こんな場所で働く人間も、ここに来る人間も、全部下賤だ。
 でも、王宮で接触したら必ずティンパインの関係者に見つかる。神子を抱えているからか、今年はやけに厳重な警備になっている。
 だからグライドが寂れた場所で一人になるまで待ったのだ。

「アンジェリカ……だったかしら。そこそこ綺麗な娘だったわね」

 なにか思いついたように、笑みを深めた。路地の風に吹かれて、ローブのフードがずれる。
 一瞬見えたのは美しいが驕慢そうな顔立ちの女だった。
 彼女が歩みを進めると、その後ろにするりと大柄な男たちが付いてくる。
 女は気にするそぶりもなく、路地の闇に消えていった。



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