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6巻

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 第二章 夏休みに向けて



 シンは寮室で少しずつ掃除と荷造りをしつつ、タニキ村へのお土産を色々考えていた。
 菓子類は好評だったので、今回も違う物を購入した。
 また、タニキ村では割高になる調味料や香辛料も購入しておく。山村なので、そういう物を手に入れる際は行商頼りになるのだ。

(白マンドレイクや豆も結構お金になったよな。でも、異空間バッグにしこたま残っている)

 劣化したら商品価値は下がるし、美味しくなくなってしまう。シンが育てた野菜は美味しいと評判だし、できるだけ良い状態で持って帰りたかった。
 そしてシンは、タニキ村でも引き続き調合レシピを色々開発したいと考えていた。

(あ、そうだ。高くて諦めていたガラス器具、買おうかな)

 だが、こういった需要が限られている品はどこに売っているのか、シンは知らなかった。
 繁華街には、食品・衣類・日用雑貨をはじめ、冒険者御用達のものまで幅広く揃っている。しかし、ティーカップやマグカップはあっても、ビーカーやフラスコなどは見たことがない。
 学園は御用達の工房や商店から仕入れているのだろう。
 翌日、シンは授業終わりに聞いてみたが、やはり信用ある贔屓ひいきの専門店に発注しているとのことだった。基本、教師たちも足りなくなったら、学園の事務方や補助の人に頼むだけであって、詳しくは知らないようだ。
 学生窓口で尋ねようにも、試験で赤点を取った生徒の対応や、補講のスケジュール調整、留年の瀬戸際せとぎわのフォローなどに忙しくて、地獄の混み具合である。
 たまに、泣き落としの土下座で単位をくれと駄々をこねている上級生を見掛ける。
 中には家を勘当されると、成人間近の青少年の本気の駄々を見せつけられることすらあった。女子生徒の場合は比較的静かに訴えるが、基本泣き落としがセオリーである。思い通りにいかないと、後半ヒステリーを起こす。

「いやあああ! 卒業できなかったら、せっかくの婚約もナシになる! アタクシがお嫁に行き遅れていいというの!? 人でなし!」

 せっかくセットしたであろう髪を振り乱し、貴族令嬢らしき女生徒が窓口のデスクに突っ伏しているが、毎年恒例なのか、窓口の事務員は全く顔色が変わっていない。
 温度差が酷い。もはや闇というか、ごうを感じる。
 先日は騎士科の生徒が暴れていたが、今日もまた酷い修羅場しゅらば愁嘆場しゅうたんばが繰り広げられていた。
 シンは十分ほど泣き叫ぶ女子生徒を見ていた。
 小耳に挟んだ情報によると、あの女子生徒はかれこれ一時間は粘っているそうだ。
 しかも、ヤバそうなのは彼女だけではない。その二人後ろには、先日暴れていた騎士科の生徒がいた。絶対長期戦になるだろう。
 高身長ゴリマッチョが「買ってくれなきゃヤダヤダ」と駄々だだをこねる幼児のごとく「単位くれなきゃヤダヤダ」とごねる姿など、シンは見たくなかった。
 しかも決めセリフは「お母様ママンに言いつけてやる!」だ。見ている方が羞恥心しゅうちしんを覚える。
 周囲にいた友人らしき男子生徒は、波が引くように距離を取っている。
 一向に列が進む気配がないので、その日は学生窓口で聞くのを諦めることにした。
 他人の修羅場を目撃し、何かごっそりと減った気分になりながら、シンは窓口を後にしたのだった。

(うん、タイミングが悪かった。窓口で聞くのはやめよう)

 結局、調合器具関係は、急ぎではないと後回しにすることにした。
 新学期明けでもいいし、別のところから入手してもいいのだ。


 ◆


 気持ちを新たにしたシンは、次にドーベルマン夫妻に面会を申し入れることにした。
 いつものように差し入れだけの用事ではないので、先触さきぶれの手紙を出してからの方が良い。
 チェスターは辣腕をとどろかせる現役宰相だし、宰相夫人のミリアは社交界のはなと呼ばれる貴婦人だ。すぐに時間をとってもらうのはちょっと難しいかもしれない。
 だからといって、いきなり訪ねるなどしては礼を欠くので論外だ。
 その日の早朝、シンが門番に面会依頼の手紙を渡すと、お昼には返事が来ていた。
 たまたま半日の授業だったので寮に戻ったら、ぴしりと執事服を着こなした老齢の男性が待っていたのには驚いた。
 下男などのしたではなく、わざわざ執事を寄越よこしてくれたのだ。
 執事の話によると、直近だと今日の夕方以降と、三日後の午前中なら時間があるとのことだった。

旦那様だんなさまも奥様も大変楽しみにしていらっしゃいます。ご都合が悪いのであれば、別の日に改めてという形になりますが……旦那様が忙しく、少し時間が空いてしまうかと」
「ありがとうございます。では今日の夕方おうかがいいたします」

 善は急げと言うし、いつ行くか早めに報告した方がいいだろう。
 入学当初から、長期休みにはタニキ村に戻りたいと伝えてはあるが、出立前しゅったつまえに挨拶もしたい。

「それでしたら、ぜひ晩餐ばんさんをお召し上がりください。シェフが腕によりをかけて白マンドレイク料理を用意すると張り切っております」
「それはとても楽しみです」

 白マンドレイクは普通にスープやサラダにしても美味しいけれど、プロの手によって調理されたものはまた別格だろう。美味しいは正義なのだ。
 言葉通り嬉しそうなシンを見て、メッセンジャーの執事も顔を綻ばせた。


 こまごまとした用事を済ませると、あっという間に夕方になっていた。
 シンは魔馬ジュエルホーンのピコに乗って、ドーベルマン邸に向かう。
 まだ陽が落ちるまで時間はあるので、道は明るい。
 ピコは軽やかな足並みで、快調に進んでいく。
 普段シンは、能力は高いが嫉妬深いところがあるデュラハンギャロップのグラスゴーを主に重用している。だが、今回は危険の多い討伐や狩りに行くわけではないし、街中を静かに移動したい気分だったので、ピコを選んだ。
 グラスゴーはずば抜けた体躯たいく威風堂々いふうどうどうたる雰囲気ふんいきで、街中だと滅茶苦茶目立つのだ。そこにちょこんと小柄なシンが乗っていると、二度見される。
 見られるくらいならいいが、中にはグラスゴーを売ってくれと引き留めてくる人もいる。
 その点、ピコであればぱっと見は普通の馬サイズだし、時々「きれいな馬だね」と褒められる程度で済む。
 今でこそそんな美馬なピコだが、出会った時は酷い有様だった。
 額の角は折れて、骨折をしており、体は変な染色をされた挙句、謎の病気やのみ、シラミなどの寄生虫にやられて、毛艶けづやも最悪だった。
 今では艶々の明るい鹿毛かげである。光に当たるとオレンジ色にも輝く。角も伸びたし、骨折も治ったので、健康そのものである。
 ピコの良いところは、非常に温厚な性格だ。初めての人でも安全に騎乗できるし、賢い馬でもある。一番懐いているのはシンだが、レニやカミーユ、ビャクヤが乗ってもちゃんと言うことを聞く。
 一方グラスゴーは、シンの前では相当かわい子ぶっているが、かなり暴れん坊だ。
 シン以外の者が下手に近づけば、「ぉおん? やんのかオルァ」と、バチバチに殺気を飛ばしてくる。
 グラスゴーの性能は素晴らしいが、騎手を極めて選ぶ。その点、ピコは大らかに気持ちよく人を乗せてくれる。

(なんだかんだいっても、二頭持ちだと便利なんだよな。成り行きというか、なし崩しの引き取りだったけど、結果オーライだな)

 そんなことを考えている間に、ドーベルマン伯爵邸の門が見えてきた。
 門番はシンの姿を認めると、軽く手を挙げる。シンもそれに手を挙げて応えた。
 顔馴染かおなじみの中年男性のおじさん門番である。ドーベル伯爵邸は門番だけでも数人いるが、彼は一番ベテランの門番でもある。
 ちらりとピコを見て、おじさんが少し首を傾げた。

「今日はあの黒馬じゃないんだな」
「ええ、魔物と戦うわけじゃないですし、この子で十分です」
「あれは良い馬だから、ちょっと期待していたんだが。この子も別嬪べっぴんさんだけどな」
「ありがとうございます」

 シンは二匹とも可愛がっているので、こうして褒められると素直すなおに嬉しい。
 グラスゴーのあの堂々たる姿は、勇壮である。力強い足並みや気性の荒さも、軍馬らしくて男のロマンをくすぐる。
 ピコも綺麗きれいな馬なのだが、女の子が王子様のオプションとしてあこがれる系の美麗びれいさである。
 どっちも違って、どっちも良い――自慢のウチの子だ。
 挨拶もそこそこに、ピコを使用人に預けて屋敷の中に入った。
 玄関扉を開けると、使用人が左右にずらりと並んでいた。軽く引くくらい、豪勢なお出迎えである。洗練された所作で一斉に頭を下げる姿は壮観だった。
 一流の家には、一流の使用人がいるというのを体現していた。
 その一番奥に、チェスターとミリアがおり、ゆったりとした足取りでシンの方へ近づいてくる。
 シンは少し緊張したが、二人が割とラフな服装なので安堵あんどする。
 チェスターはカッターシャツに薄茶色のベストと揃いのトラウザーズ。ベストには光沢のある黒い糸でアカンサスの刺繍ししゅうが脇に施されているのが洒落しゃれている。
 ミリアはすずしげな青色のエンパイアドレスだった。艶やかな光沢の布地や、たっぷりとしたドレープのデザインは美しいが、宝石はついていないし、金糸銀糸で刺繍を施してはいない。装飾品もシンプルなものである。
 割とラフといっても、平民視点では十分ゴージャスだ。だが、シンは一時期ドーベルマン邸に滞在した時に、色々な装いの二人の姿を見ているため、このスタイルはかなりラフな部類だとわかる。
 これでばっちり盛装だったら、回れ右をしたくなるところだった。小市民は貴族仕様をいっぱい見せつけられると、場違いに感じて無性に逃げ出したくなるのだ。
 シンがぺこりと頭を下げて挨拶をするより早く、スカートを軽くまんで、ミリアが小走りにやってきた。

「いらっしゃい、シン君。久しぶりね! ちょっと日に焼けた? それに大きくなったかしら? 子供の成長って早いから、少し目を離すとあっという間に変わっちゃうのよねー」

 少女のような無邪気さで、矢継ぎ早に言葉がポンポン飛んでくる。シンの訪問を喜んでいるのが、弾んだ声と笑みでわかる。彼女は手を伸ばし、シンをハグする。
 愛する妻が楽しそうで、チェスターもうんうんと頷いて満足げだ。

「外で動くことが多いので、日焼けはしているかもしれませんね。身長はまだ測っていませんけど、伸びていたら嬉しいです」

 とりあえず、シンが目指すのは脱百五十センチ台である。少なくとも、抱きしめやすいサイズとばかりに、ミリアにぎゅうぎゅうされるのは、卒業したい。

「シン君ったら、お手紙や化粧水けしょうすいや美容液はまめに届けるのに、本人はなかなか顔を出さないんですもの」
「顔、出していましたよ?」
「たまにでしょう? 同じ王都にいるっていうのに!」

 可愛らしく怒るミリアだが、ちょっとねているという感じで、迫力はほとんどない。少し言っておきたいだけなのだろう。
 だが、シンが直接顔を出しても、ミリアやチェスターがいない日だって多い。わざわざ二人の日程を割いてもらうほどの用事でもなかったので、自然と顔を見せる機会が少なくなっていたのだ。
 それに、シンが学園に入学したのは春。貴族の社交も始まる時期であり、都合が合わないことが多かった。
 この世界の学校は、欧米式に夏から秋あたりが入学シーズンではなく、日本式の春スタートだ。これは、もしかしたら異世界人が関係しているのかもしれない。

(ビャクヤとかカミーユもそうだけど、日本から召喚された人が多いのかな?)

 真田サナダ日本ヒノモト白夜ビャクヤ――この漢字が正解かはわからないが、明らかにシンの故郷である日本を思い出させる名前だ。
 狐の獣人のビャクヤがお揚げ系に執着する辺りにも、日本と同系統のセンスを感じる。
 この世界のベースは中世~近代ヨーロッパあたりに見えるし、メジャーな名前も欧米系に近い。もし、そちらの文化圏の地球人がこっちに来ても、彼らの名前は埋没するだろう。
 シンが思考に没頭しかけた時、ミリアの声が降ってきた。

「どうしたの? シン君?」
「あ。はい! ちょっと考え事を!」
「そう? あ、もしかして、好きな子ができた? 青春ねー」

 きゃっきゃとミリアは一人で盛り上がる。
 だが、シンの目は熱もなければ動揺もない。うつろだった。

「スキナコ」

 何か理解しがたい宇宙語で話しかけられたように、シンがハニワになる。
 シンの脳裏に、たま輿こしを夢見まくって仕出かしたゲロゲリテロリストのタバサや、レニの気を引きたくて盛大な自爆テロをかましたシフルトの姿が過る。
 タニキ村で好き放題やったキカたちもそうだったが、シンの周囲で起きたれたれたの出来事は、大抵ろくでもなかった。
 そのせいで、シンとレニはそういった関連の話題に非常に淡白たんぱくだった。
 現在は色気より食い気で、勉強に忙しい学生業である。
 期待したミリアと、げんなりしたシンの温度差に気づいたチェスターは、こほんと咳払いして話題を変える。

「晩餐の用意はできている。まあ、晩餐といっても、テーブルマナーは気にせず、シェフ自慢の料理を味わいながら、団欒だんらんを楽しんでくれ。積もる話だってあるだろうから、そこでゆっくりすればいいだろう?」

 ドーベルマン家の料理が美味しいことは、シンもよくわかっている。
 ここに滞在していた時はいつも楽しみで、ついつい食べすぎてしまうくらいだった。

「そうね! あ、そうだわ、シン君は先にお着替えよ! 似合いそうなものを、仕立ててみたのよ」
「え? ええ?」

 そういえば、ミリアが人を呼んで、色々と仕立てていたと、レニが言っていた。
 チェスターはシンに悪いという気持ちはあったものの、「これも人生経験と思って」と、ミリアを止めはしなかった。
 シンはあれよあれよという間にメイドたちに囲まれて、衣装替えをすることになった。
 ミリアが用意したのは、柔らかな白絹の半袖のフリルシャツに、空色のベスト、シルバーグレイの膝丈パンツ。黒のソックスはソックスガーターで吊り、ぴかぴかの新品の靴はモノクロのサドルシューズだった。
 フリルシャツはタイの部分に、カメオのブローチがついている。それを触りながら、手の平に収まるこれ一つでいくらかと聞くのすら、シンには怖かった。
 髪は簡単にくしけずられ、少しでつける程度だったが、顔に色々塗られた。恐らく化粧品のたぐいだろう。
 化粧ついでにシンのほっぺたをもいもいと力強く触ってくるメイドも何人かいた。若い肌がうらやましいらしい。シンは化粧水や美容液のパッチテストを自分の肌でやっているので、自然とぷるぷる艶々のもち肌になっている。そのせいか、美にシビアな一部の者に火をつけてしまったようだった。
 カジュアルさは残っているが、すっかりおめかしスタイルになったシンに、ミリアはご満悦だ。

「シン君はいい子ね。ソックスガーターをつけさせても、うちの子みたいに振り回して遊んで壊さないし、邪魔くさいって投げ捨てないもの」

 ミリアは思わずと言ったようにこぼす。
 またポロリとまろび出る、ドーベルマン夫妻のご子息たちのやんちゃ伝説。
 止めるどころか、周囲のメイドたちはウンウンと深く頷く。彼女たちもそのアクティブさに散々苦労させられた口なのだろう。

「坊ちゃまたちは靴も飛ばし合いっこして、すぐに庭に落としていましたからね」
「お庭ならまだいいですけど、池に落ちたり、木に引っかかったりすると、取るのが大変でしたよね」
「一回、暖炉の煙突の中に落ちて、新品の靴が即日おじゃんになったことがありましたよね」

 遠い目になる女性陣。未だに〝良い思い出〟にはなっていないようだった。
 とてもじゃないけれど、シンにはそんな真似はできない。主に値段とかを気にして、絶対に踏み留まるだろう。

馬子まごにも衣裳? やっぱり着慣れないな)

 シンは真っ白なシャツのえりを少し引っ張る。季節柄もあってジャケットやコートがないだけ身軽だったが、やはり違和感がつきまとう。
 学園の制服もフォーマルに該当するが、着慣れたそれとはまた違ったものだ。
 そんなシンの様子に苦笑したミリアは、案内をしながら話しだす。

「あのね、シン君。これらは少し改まった席に行くことも増えるかもしれない。場所もそうだけれど、服もそう」
「……ミリア様」

 ミリアの優しい声音こわねで、少しだけ気分が上がったが、それは一瞬にして打ちのめされる。

「というより、王宮魔術師や神殿がティンパイン王国の久々の公式神子様の出現に、かなり沸き立っているの。お披露目ひろめの時は、内輪であってもロイヤルウェディング並みに豪華絢爛ごうかけんらんな衣装を用意する可能性があるわ。さすがにコルセットやクリノリンはないでしょうけれど、長裾は覚悟して。盛装と言えば、グラディウス陛下とマリアベル王妃殿下の結婚式なんて、ドレスの後ろの裾は三メートルだけど、ヴェールは十メートル近いロングトレーンデザインだったわ」

 シンの脳裏に、かつての同僚の結婚式がダイジェストで流れた。
 セレモニー用の瀟洒しょうしゃなチャペルで見た、真っ白で美しいが間違いなく動きを阻害しそうな長いヴェールやドレスの裾。
 女性は憧れると惚れ惚れしていたが、男のシンはちっとも憧れるはずもなく、動きにくいし、鬱陶うっとうしそうだとしか思わない。
 だが、神子としておおやけの場に立つ際は顔を出したくないので、顔布や頭からすっぽりかぶるヴェールは必須である。
 小柄な姿を少しでも威厳いげんがありそうに見せるために、服装で盛る可能性は十分あった。
 シンは青い顔でぶんぶんと首を横に振るが、諦めろと言わんばかりに肩を叩かれた。
 前にも神子様仕様になったことはあるが、あれとは比較にならないほど飾り立てられる可能性が出てくる。
 そういえば、『天狼祭てんろうさい』だけは欠席不可と念を押されていた。
 天狼祭はティンパイン王国で一番のお祭りである。国の威信をかけて盛り上げていく。
 祭りを楽しみに国内外から王都に人が集まるため、その盛況ぶりは毎年すさまじい。
 シンも神子として唯一といえる露出なのだから、きっとここぞとばかりに周りが気合を入れるはずだ。
 軽くて薄い素材でできているヴェールくらいならまだいいが、もしベルベットのマントなんて身につけることになったら地獄だ。重さはもちろんのこと、引きずった時の摩擦まさつがすごいと聞いたことがある。
 想像だけでえる。途端に目が虚ろになった。

「あー、えーあー、ハイ……ワカッテイマス」

 歯切れの悪いシンだった。全く乗り気でない。
 スポットライトに当てられることが大好きな人種は一定数存在するが、それと同じくらいか、あるいはそれ以上に注目を浴びたくない人種も存在する。シンは後者だった。
 正直、神子という自覚も薄いし、周りが自由にさせてくれていたので、すっかり自分の立場を忘れていた。
 えないシンの表情から心情を察したのか、ミリアは頬に手を当てて、可憐かれんに小首を傾げた。

「シン君は王都育ちではないからあまり知らないでしょうけど、大事なお祭りなのよ?」

 仕方ないと言わんばかりにミリアが笑う。
 そんな雑談をしている間に移動も終わり、ダイニングホールのある部屋に辿たどり着いた。
 先に待っていたチェスターは、妻の手を取って食卓の席までの短いエスコートをする。シンも従僕に席へと案内された。
 晩餐はなごやかに進んだ。
 最初に言っていた通り、ガチガチなテーブルマナーではないので、シンもリラックスして食事を楽しめた。
 だが、真っ白なクロスの上に並ぶ磨き抜かれたカトラリーや、繊細せんさいな絵の描かれた食器類は、普段シンの使う物とは大きく違う。こちらの世界は電気が通っていないが、魔石のシャンデリアが煌々こうこうと部屋を照らしているので、明かりが足りないとは思わなかった。
 全体的に派手すぎず、地味すぎずの絶妙なラインで、実に良い仕事をしていた。
 ドーベルマン伯爵邸のシェフは相変わらず腕が良く、シンは美味しい料理に舌鼓したつづみを打つ。
 一見大根にしか見えない白マンドレイクが、色とりどりのベビーリーフやクルトンとえられている。白いポタージュスープにも白マンドレイクが使われており、あっさりとしていると思ったら、ミルクの中にわずかにチーズの風味がして、意外と濃厚で美味しい。
 スープと一緒に運ばれてきた三種のパンは、シンの好きな胡桃くるみ入りの丸いテーブルロールと、ふわふわした柔らかいバターロール、バターの香るサックサクのミニクロワッサンだ。

(あ、このパン好きなんだよな。もしかして、こちらでお世話になっていた時の好物を覚えていてくれたのかな)

 その後には、子供のこぶしくらいある肉厚な貝柱のソテー。それだけでも美味しいが、緑色のソースをつけると、さらに美味しい。数種類の香草をブレンドしたソースは、やや酸味があるものの、コクのあるバターとよく合うのだ。
 多くは語らないが、普段はドライなシンがわかりやすく顔を綻ばせているのを見て、チェスターとミリアもそっと目配めくばせして微笑む。
 続いて運ばれてきたのは、レモンの氷菓子。口直し用なので甘味は少なめだが、口の中がサッパリする。甘さを足すシロップや蜂蜜はちみつはあったが、シンはそのままで頂いた。
 ここで、本日の功労者のシェフがやってくる。一緒に運んできたのは、ででんと赤く大きな肉塊だった。

「お次はメインディッシュの、クリムゾンブルのステーキでございます。焼き加減はいかがいたしましょう?」

 シンはレアもミディアムもウェルダンも好きだった。みんな違ってみんな良い。
 若い肉体は今宵こよいだけでなく、いつでもお肉を欲している。何せ、育ち盛りである。
 チェスターは「ウェルダンで」と迷わず頼み、次にミリアが「レアで」と頼む。
 シンが一人悩んでいる姿を見て、チェスターは微笑ましそうに目を細めた。

(うちの馬鹿息子だと、焼き加減じゃなくて量で喧嘩けんかするからなー)

 お馬鹿な割には高級肉には目敏めざとい息子たちは、シェフが焼き加減を聞く傍から、カトラリーで焼く前の肉を狙いはじめる。そしてすぐさま場外乱闘コースで、チェスターの雷が落ちるのだ。ミリアのもう吹雪ふぶきの時もある。
 シンが甲乙こうおつつけがたいとうんうん悩む姿をながめながら「うちの子にしたいなー」と、こっそり思うチェスターだった。それを言葉や行動にすればアウトだが、内心に秘めるだけなら自由だ。
 とはいえ、現在ティンパインでも唯一の公式神子様であるシンの身柄は、嫌でも政治的思惑おもわくが絡み合う。
 後見人の話でも、悶着もんちゃくが起こったのだ。
 だが、シンの警戒心の強さと聡明さを考え、顔見知りであるチェスターと、上手く空気を読みつつ相手ができるミリアがいる点が評価され、ドーベルマン家が後見人に選ばれた。
 もしこれが正式に引き取るとなると、もっと周りが荒れるだろう。
 とりあえず、今は頼りになる大人ポジションで満足しておく。チェスターは、悩めるシンに助言をした。

「シン君、とりあえず一通り、少しずつ頼んでみてはどうかな? 追加で焼くこともできるから」
「いいんですか?」
「もちろん」
「では、それでお願いします」

 そう言ってキラキラと目を輝かせるシンの姿を見ると、チェスターとしても色々と用意した甲斐かいがあったというものだ。

(大人びていると思ったけれど、こうしてみるとやはり年相応だな)

 実に心が和む姿である。
 焼けた肉を受け取ったシンは嬉しそうだ。
 だが、さらに岩塩、レモン、三種のソースと実に悩ましい選択を迫られて、また硬直していた。
 ずっと悩めば肉が冷めるが、一通り試すには一度焼いた分だけのステーキでは足りない。
 小分けにするにはもったいない。ある程度は質量たっぷりの肉を頬張りたい。
 そんなシンの葛藤かっとうに気づいたのか、デキるシェフは素知らぬ顔をして追加で焼いた肉をシンの皿に置く。
 じっくり観察されているとは知らず、シンは「おにくおいしい」としか言わない生き物になっていた。幸せな美味しさに思考が溶けていたのだった。
 ドーベルマン夫妻だけでなく、シェフや給仕たちにまでほっこりとした視線で見つめられていることに気づかないほど、シンはお肉様に魅了みりょうされていた。


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