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4巻
4-3
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「シン君の未来絵図はいっぱい素敵なことがあるのね。じゃあ、ますますむさくるしい騎士に囲まれて豪華な調度品と一緒に閉じ込められている時間なんてないじゃない」
「僕は、縛られたくありません。自分のために生きたいし、自由でいたい」
「そう、それがシン君の望みなのね」
すとんと落ちた言葉と共に、シンの目から涙がこぼれる。
こんなことは初めてだった。
この世界に落ちて、いらないと言われ、テイランの城から追い出されたシン。
右も左もわからないところから自分で動いて、稼いで、生活した。
だんだんと地道な努力が実を結んで強くなった彼は、獣や魔物を狩り、自分の糧を得た。
その糧を周りと分け合えると、感謝され、笑顔が返される。
そして、騒がしい王族がやってきた。
やかましく、鬱陶しくもあるが、賑やかな彼との出会いが、シンの世界を広げていった。
新しいことを学ぶのも、知るのも、面白い。
王都での生活が楽しくなかったと言えば嘘になる。
でも、タニキ村に必ず戻るというシンの決意は変わらなかった。
緩やかに過ぎた時間は愛おしく、優しかった。
そんな時、シンは急に神子様と祭り上げられてしまう。
わけがわからなかった。
第三者の欲望で、急激に自分の世界を害される気配を感じた。
放っておいてほしい。静かに生きていたいだけなのに。
もし、本当に貪欲な連中が来たら、シンの意思など無視して、生活を脅かすだろう。
キカたちの来訪をきっかけに、どの世の中にもどす黒い連中がいると思い知らされた。
流されるままだと、全部失う。知らなければ、動かなければ、味方を作らねばならないと、頭ではわかっている。
「シン君が勝手にティンパインを出ないと約束してくれるなら、ある程度の自由は保証できるわ。権力が大好物なコメツキバッタの退治なら任せて。やり込めてみせるわ! あのね、シン君。『神子』というのは、かなり強い加護持ちに与えられる誉とも言えるの」
「僕の許可、必要ですか?」
「あったりまえでしょ! まだ十二か十三のお子様が何を言っているの!! 神子とかじゃなくて、自分の年齢をよーっく考えて!!」
ミリアの言葉はあまりにも正論だった。
この国では十歳から冒険者登録が可能とはいえ、だいたい十六から十八が成年の基準となることが多い。一般常識の観点から見て、シンは容赦なくお子様判定だった。
腰に両手を当てて眉を吊り上げたミリアは、声を張り上げて一気にお説教モードだ。
「確かに! 冒険者カードがあればどこへでも移動できるわ! 孤児や流民の子供たちも、自分の生活できる場所を目指して国境を越えることはあるわ……。で、も! 保護者もなしに旅はダメよ! ティンパインは治安が良い方なのよ! 他所は違うの! ホイホイ旅行に行ったら危ないんだから!!」
怨嗟というか悲嘆というか、何か思うところがあるのか、凄く顔がぎゅっとして、我慢している様子のミリア。珍しく感情が暴走しているようだ。
チェスターはなんとか落ち着かせようと宥めているが、彼女はカンカンに怒っている。
「シン君までうちの馬鹿息子たちみたいなこと言わないでちょうだい! あのお馬鹿たち、武者修行とか言って授業をサボって失踪したあげく、奴隷商の馬車に詰められた状態で見つかったのよ!? あの時は心臓が止まるかと思ったわ!」
悪夢よ! と頭を抱えるミリア・フォン・ドーベルマン伯爵夫人。
彼女にとってそれは、思い出すだけで頭痛がする黒歴史級のトラウマなのだろう。
ご子息が二人いることは、シンも知っていた。ドーベルマン邸にお世話になった時に、なかなかに愉快なお話は聞いていたが、まだまだ引き出しはいっぱいありそうだ。
伯爵の、しかも現役の宰相の子息が奴隷商の馬車で見つかる。しかも積み荷ポジションで。
少し遅ければ、ドナドナの仔牛のごとく出荷されていたのだ。普通に危なすぎる。
その時のミリアの心労は、推して知るべしだ。社交界で鍛えた鉄の心臓を持っていても、息子をいっぺんに二人も失う恐怖に動じないほど、冷徹で無神経なわけがない。
「……ごめんなさい、思わずかっとなってしまったわ。お願いだから、ちゃんと行先は伝えて……ティンパインを出たいなら、せめて成人の年齢になってからにして」
「治安の良い場所を調べて行くんだぞ。間違っても魔物の大暴走を覗き見しに行くなんて、阿呆なことはしないでくれ!!」
悲愴なミリアと血を吐くようなチェスターの言葉からは、嘘偽りのない本音が感じ取れる。
この頭脳派二人でも、行動力あるやんちゃボーイたちの考えは理解できないようだ。お馬鹿には「普通ならやらない」とか「常識」といった言葉は通用しないのだ。
シンは自分の将来より、彼らのことに興味が湧いて、思わず聞いてしまう。
「行ったんですか……?」
「行ったのよ……よりによって、第二王子のトラディス殿下まで連れて!」
「全員纏めて大公妃様にお尻を引っぱたかれていたぞ。マリアベル王妃殿下が、外交でご不在だからといって羽目を外しすぎだったからな……! 人間の尻があれほどに真っ赤でモッコモコに腫れるのを初めて目にした……」
とても凪いだ、非常に遠い目をして言う宰相夫妻。
なんでこんなにまともで聡明なお二人の遺伝子から、とっても愉快なアッパラパーができたのか、極めて謎である。
しかも仕えるべき王族まで巻き込んだ挙句のドナドナ未遂事件だったそうだ。
「次やったら、聖女様のタイキックが唸るだろうな」
「曇りない眼で何を言っているんですか、チェスター様」
(そして聖女様、アンタも何しているんですか。むしろ聖女に何をさせるんだ。というか、こっちにもタイキックがあるのか。どこの異世界人が伝えたんだ……?)
シンは思わず色々突っ込んだ。
「ちゃんと悪いことをしたら叱って、注意して、きちんとした家庭教師を付けて、礼儀作法やマナーや一般常識を教えていたはずなんだ。我が子ながらどうしてああも猪突猛進というか、考えなしなんだ? 私もミリアも頭脳派なはずなのに……」
懊悩するチェスターは、宰相ではなく父親の顔をしていた。
愛情はあるけれど理解の及ばない、ある意味スーパー頭脳(属性:筋肉)に散々手を焼いていたのだろう。
悩ましい親心というやつなのか、ミリアも深い溜息と共に同意する。
「手を離れて嬉しいような、でも何かやらかさないか、いつも不安なのよね」
チェスターはこほんと小さな咳払いをすると、気を取り直すように姿勢を正す。
「君は子供なんだ。いくらしっかりしていても。だから大人を、周りを頼ってもいいんだ」
真摯な眼差しに、シンは思わず言葉を失う。
僕、実はアラサーです――と、実年齢(精神)をカミングアウトする空気では全くなかったので、彼は曖昧に微笑むのだった。
◆
シンは知らないことだが、確かに各権力の中枢は加護持ちを求めていた。同時に、神罰執行により、さらなる神の怒りを買うことを恐れている。
中でも神殿は、バロスの加護を失った影響が強く、その傾向が顕著だ。
強い加護持ちへの虐待は、神の怒りに直結しやすい。
また、一部の『寵児』や『愛し子』や『神子』と呼ばれる者が機嫌を損ねただけで、それらの者を寵愛する力ある神や精霊といった存在まで不愉快になることも稀にある。
チェスターは、余程筋の通らないことをしなければシンは大人しくしてくれるはずだと考えていた。
黄金の神殿をブチ立てて現人神として崇め奉れとか、国中の美女を召し上げろとか、神に選ばれた神子は国王より偉いんだから王宮を譲れとか。
そんなとんでもねぇゴミ発言系な我儘を、シンは言わないと確信している。
ちなみに、神殿や国家は実際に、加護持ち様と崇められまくって増長した〝メンタル汚物や産廃モドキ〟を幾度となく量産してきた。
残念ながら、権力に呑み込まれて堕落し、加護を失った者も少なくない。
シンの望みは、小さく、あくまで人間らしいものだ。
故郷のような存在であるタニキ村を失いたくない。
何も知らないのに変わっていく状況が怖い。
今の生活をなくしたくない。
彼は心の拠り所を望んでいた。
寂しさを物欲や軽薄な感情で埋めようとすると、大抵碌でもないことになる。
今回、チェスターがタニキ村にミリアを連れてきたのは、シンが以前と変わっていないか確認のためだった。何しろ、あの性質の悪い聖騎士たちと関わってしまったのだから。
王都の屋敷にシンが滞在していた時、ミリアは積極的に彼と交流を持っていた。
人を見る目のあるミリアが、シンをいたく気に入っていたし、親もきょうだいもない少年をとても気にかけていた。
シンは聡明で堅実で、欲も少ない。人に対して礼儀正しく、動物にも優しい。
出生が不明瞭ではあったが、流民の冒険者なので、些細なことだった。
シンは懇意にしているティルレインやルクス、チェスターらの家の力を、今まで一度として振りかざそうとはしなかった。
このまま育てば、神子として申し分のない青年になるだろう。
かといって、純粋無垢で疑いの精神ゼロのツルツル脳味噌のままでは困るし、ある程度人との関わり合い方は覚えておいた方がいい。
シンは勉学に意欲的だとの報告は聞いていたので、チェスターは良い影響を期待していた。
学校には幅広い種類の人間がいるし、色々な社会勉強にもなる。
たくさんの出会いを重ね、喜び、学び、悲しみ、悩み、自らで答えを探し、世界を広げ――どうか実り多き時間を送ってほしい。
そう願うチェスターだった。
◆
遥か遠い高みから、春と美の女神が小さく笑う。
「――あら、わかっているじゃない。あの子を閉じ込めて虐めたら、許さないんだから」
極彩色の花と水の幻想郷。神々の領域から、芳しい程の美声がこぼれ落ちる。
美の極致を体現する存在が、揺蕩う。
青いルージュの唇が、遠くで緩やかに弧を描いた。
◆
急に溢れ出した感情と涙に戸惑って、結局声を上げてわんわん泣き出してしまったシン。
涙が止まらず、年甲斐なくミリアとチェスターに慰められた。
ミリアに至っては、豊満な胸を貸すほどの太っ腹ぶりである。
ひとしきり泣き終わると、シンは猛烈な羞恥心にかられたが、二人は穏やかに見守ってくれた。
シンが落ち着いたところで話を纏め、二人はティルレインにも挨拶してから帰ると言った。
シンはすっかり熱を持って腫れぼったくなった瞼に、雪を詰めた手ぬぐいを押し付けて冷やす。
真っ白で綺麗な雪だったから、多分汚くないはずだ。
(はー……泣いた泣いた。こんな泣き方したのは何年ぶりだ? この世界に来てからはないよな。前の世界で号泣したのなんて、アニメの最終回くらいだな。もしや情緒面も肉体年齢に引っ張られて年相応になっているんだろうか?)
シンは首を傾げるが、それは変化の一端でしかない。
心の拠り所、やりたいこと、そういったものを見つめ直した結果、シンの中でずっと固まっていた感情が動き出したのだ。
ブラック社畜戦士だった時、シンは辛い、苦しい、疲れたといくら思っていても、その感情の出し方も気づき方もわからずに、心をすり減らしていた。
それは魂にも影響していたが、色々な経験を積む間に、すり減った感情は新たな感情で上書きされていった。正常に戻るにつれて、今まで溜め込んでいた感情が溶け出してくる。
それらが今回、決め手になってドパッと決壊した。
堰き止められていた分、一気に流れ出て、シン本人も酷く混乱してしまったのだ。
(まあいいか、なんか、らしくもなく悩んでたし。スッキリした)
すり減った魂をなんとかコンパクトにまとめて、スキルと創造主のパワーでぐるぐる巻きに修繕された、シンの社畜経験系ソウル。
魂の不摂生極まれりな社畜が、ちょっぴり一皮むけた。
ここでようやく肉体と魂の釣り合いがとれただけ。
知らぬは本人ばかりなり。
シンは赤い目元のまま、気分はすっきり大満足で家に帰った。
ひんやりよく冷えた風が、腫れぼったい目に気持ちいい。
だがその途中、ベッキー家の庭先で駄弁っていたジーナとハレッシュに目撃されてしまう。
「どうしたんだい、シン! お貴族様に泣かされたのかい!?」
「あれか! あの怖い顔の陰険そうな宰相か!?」
勘違いして目をひん剥く二人を、シンは慌てて宥める。
「違います! ちーがーいーまーす!!」
ハレッシュはベジトレントを伐採した斧を持っていくし、ジーナは牛を解体できるような大鉈を持って領主宅に乗り込まんばかりだった。
シンは必死に止めるが、火事場の馬鹿力なのか、ずるずると半ば引きずられてしまう。
(あっれぇええ? 僕、下手な大人より力が強いはずなんだけどなあああ!?)
ハレッシュとジーナは雪が残っていようが、ぬかるんでようがなんそのと、ズンドコ進んでいく。「カチコミです、この野郎」と言わんばかりだ。
だが、凶器でカチこまれるのは宰相の頭だと思うと、止めないわけにはいかない。
普段大らかなハレッシュと、気風のいい肝っ玉オカンが、鬼も逃げ出すような形相でシンを引きずって歩いていく姿は目を引く。
「待って待って! 本当にチェスター様もミリア様も悪くないんです!!」
領主宅まであと百メートルを切ったところで、村の外からカンカンと金属を打ち鳴らす音が響いた。
馬の嘶きと蹄の音が、猛烈な速度で近づいてくる。
シンが何事かと振り返ると、防寒具に身を包んで馬に跨ったアンジェリカが走ってきた。
彼女は長い髪を靡かせ、颯爽と騎乗しながら、村全体に伝えるために、声を張り上げる。
「ベジトレントが出ました!」
「え、マジで?」
シンが思わずぱっと手を放すと、勢い余ったハレッシュとジーナが雪に突っ込んだ。
その場所には見事な魚拓ならぬ人拓がとれた。
「どこで出たんですか?」
「二本杉の大岩付近です! 早く仕留めねば、隣村に取られてしまいます!」
少し離れ場所からシンに返事をするアンジェリカ。
ベジトレントと聞いて、他の村人もわらわら集まってくる。
この前のベジトレント収穫祭は盛大に行われた。
アンジェリカもだんだんこの村に染まってきたのか、この村における優先順位を理解している。
シンに至っては、既に走り出していた。
目指すは村で一番足の速い騎獣、頼りになる相棒のグラスゴー。
雪からはい出てきたハレッシュとジーナも、重要事項をカチコミから、冬場のご馳走確保へ変更した。
「それはマズいな!」
「鍋の準備は任せときな!」
ちなみに、彼らがベジトレントを狩って戻ってきた頃には、宰相夫妻は王都に帰り、ティルレインは進んでいない宿題をコテンパンに怒られてヘコんでいた。
第二章 学園入試
シンは学校――正式名称ティンパイン国立学園王都エルビア校舎への入学を目指すことにした。
受験はこれからだが、ルクスの見立てだと十分合格圏内だと太鼓判を押されている。
学園は主に十二歳以上十八歳以下が入学可能。最大六年間在学できる。日本で言えば、中学~高校くらいの生徒たちが主に在籍している。
ちなみに学園はキーファン校舎とズロスト校舎もあるが、一番競争率が熾烈なのは王都エルビア校舎で、他国からの留学生も多数いた。
キーファンは商業都市、ズロストは港町としてそれぞれ発展している。
一番人気が高いエルビア校舎の生徒は、割と簡単にキーファン校舎とズロスト校舎に移籍できるものの、逆は難しい。
学園に入学する方法は、特定の推薦状を出してもらうか、実力真っ向勝負で試験を受けるかの二通り。ただ金を積めばいいというわけではない。
とはいえ、学費はそれなりにかかるうえ、最低限のベースは求められるため、平民にはハードルが高いのは事実だ。
上級貴族や、才能が知れ渡っているごく一部の者には、学園直々にオファーが来る。当然、その場合、試験はパスだ。
八割以上の生徒は、各校舎のある都市で行われる大規模な試験を通過して入学する。この時の成績上位者は志望の校舎を指定できる。
シンとしては、真っ当に受験に臨むつもりだった。第一志望はエルビアで、無理なら他の校舎で構わないと考えていたが、万一の時に護衛部隊をすぐに出せるよう、王都の校舎でないとダメだという条件が出された。
確実にエルビア校舎を狙うのであれば、合格者上位三分の一がギリギリのライン。できれば四分の一以内に収まりたいところだ。
幸い、シンは勉学に積極的であり、この世界の共用語の読み書きには苦労しなかった。数学においては優秀と言っても差し支えがない。
この世界の識字率は高くないし、簡単な計算ができるだけでも褒められる。
その他の受験科目は、一般教養や地理など、浅く広くという感じで、学力試験のレベルは、日本で言うと小学校中学年くらいだ。
時折、傾向が変わることがあるが、合計点数で合格点を算出するらしいので、苦手教科で酷い点を取っても、他でカバーできる。
また、学力試験の他に技能試験もあって、剣術、魔術、芸術など、自分の得意分野を披露することで、さらに加算される。
そこでどでかい点数を取れれば、学力試験の挽回もできる。
技能試験は面接も兼ねている可能性があり、稀に酷い試験態度で退出になった受験者は、学力試験の方でマイナスを食らうこともあるという。
これはルクスだけでなく、貴族や騎士家出身の次男坊以下であるティルレインの護衛騎士たちからの情報だ。
ちなみにティルレインが受験した際は、推薦状が来たそうだ。しかし彼は、面白そうという理由で試験を受けた。そこで技能試験で得意の絵を描いて提出したところ、高得点を叩き出し、かなりの上位に食い込んだそうだ。
そんなティルレインは今、ドリルをやりつつ大公妃に贈る絵を仕上げている。筆が乗っていて、制作意欲が漲っているらしい。
◆
数日後、シンは一応ティンパインの公式神子という扱いなので、重鎮たちと顔合わせをすることになった。
(お披露目かぁ……めんどくさー)
明らかにげんなりしているシン。
そんな彼の意向もあり、謁見の間で国王陛下のご挨拶という形で、かなり略式にしてもらった。
タニキ村に迎えに来た飛竜たちを視界に捉えた途端、グラスゴーが目の色変えて殺意のギャロップを始めた。激しい殺気と敵意を剥き出しにされ、飛竜たちは着陸を躊躇い、怯えながら小一時間ほど上空を大きく旋回している。
シンは荒ぶるグラスゴーをなだめるために賄賂のポーションを七本も渡す羽目になった。さらに「ゴンドラには乗るけど、飛竜の背中には乗らない」と、離婚されたくない浮気夫さながらに言い訳をして、なんとか落ち着かせる。
最後には子犬のように心細げな嘶きで訴えていたグラスゴーだったが、折れた――というより、折った。
しかし、やはり気になるのか、グラスゴーはずっとシンのことを見ていた。
非常に気まずい出発になったのは言うまでもない。
そうして嫉妬に荒ぶるグラスゴーを抑え、飛竜便に乗ってやってきた王都エルビア。
とりあえず、ドーベルマン邸で簡単な流れの確認と、下準備をすることとなった。
「病弱設定なので、面会は一時間程が限度ってことにしておきました」
ニヤリと悪い笑顔がよく似合う宰相閣下。シンはそのお言葉に甘えた。
国家権力の乱用と言えなくもないが、なんでもお歳を召した重鎮の何人かは頻尿や腰痛持ちで、割とすんなり通ったという。
シンもデスマーチと残業で膀胱炎になったことがあるので、その気持ちがわかる。利尿作用のある薬を服用していたが、用足しのたびにつらかった。頻尿は集中力を著しく阻害する。寒い時期は地獄だった。
基本、公式神子様は脆弱な引き籠りという設定で、神殿には影武者を置いておくことになっている。居室には聖女や王族クラスの人間じゃないと出入りできないらしい。
シンはバレやしないかとひやひやしているが、どうやら聖女がバイタリティ溢れ、常にエネルギーが炸裂している系なので、問題ないそうだ。
何しろ彼女は、護衛を振り切って人でごった返す大安売りの日やのタイムバーゲンに突っ込んでいく猛者らしい。
そんな目立つ聖女がいるので、シンはそれほど注目を集めないのだ。
シンはドーベルマン邸で準備をした。
ここには以前宿泊したことがあり、着替えを手伝うメイドも顔見知りで、チェスターやミリアの直轄である。
(厳戒態勢というやつか……まあ、普段の自由を許されるための禊みたいなものだと思っておこう)
まずは顔を隠すために羅紗のヴェールと帽子を被る。ヴェールは長く、正面と左右三枚が、少しずつ重なるようになっているため、多少の風では捲れない。
しかも、一見すると帽子と重なっているように見えるが、分離した構造なので、帽子を取られても問題ない。
衣装も全体的に羽織るような大きめのフォルムだ。高貴さと神聖さをイメージし、紫と白を基調としている。ゆったりとしていて窮屈さはないが、裾が長いので素早く動けない。体形カバーの意味もあり、影武者をやりやすくするためでもある。
神子の顏は情勢が落ち着くまで極秘とされた。万が一のために化粧が施され、シンの今の顏は劇的に変化している。
魔法で髪と瞳の色を変え、アイラインやアイシャドウで目力を強めにした。
顔は見えないし、帽子をかぶっているので、大袈裟にも思えるが、神子様ムーブをすると、どうしても世話役が付く。そこから顔割れしないための配慮らしい。
毎日こんな準備が必要だったら、間違いなくシンはグレていただろう。
世の中の女性はすごいと思い知らされる。出勤や外出のたびに色々と塗って、描いて白粉を叩いて、顔を作り上げる。男性である『相良真一』は、せいぜい顔を洗って髭を剃って、髪を整えておしまいだった。トータル十分弱。
シンにとっては億劫だったが、手伝うメイドたちは楽しそうだった。
そのメイドたちよりもウキウキしているのがミリアだ。
「シン君、女の子だったらフリフリのドレスとか着せられたのに……残念ね」
「気を付けてください、シン君。ミリアは四回ほど幼き日のティルレインを餌食にしました」
チェスターに素早く耳打ちされ、シンは震え上がった。
屋敷のどこかに、まだそのドレスが眠っている可能性がある。
「ティルレイン殿下だけじゃないわよ? フェルディナンド殿下もトラディス殿下も、平等におめかししたわ!」
この暴露は、もっと安心できない事実だった。
わきわきと怪しい手の動きのミリアから、シンは神子様スタイルのまま、すすーっと音もなく遠のいた。
ちなみに、シンのお付きはアンジェリカとレニである。謁見時の盛装は後ろの裾が長めなので、場合によっては持ってもらうことになる。
この二人は神殿側への最低限の配慮だ。完全に神殿側の人間を叩き出すかはチェスターたちの間でも意見が分かれたところだ。今はキカたちのこともあって黙っているが、一切シャットアウトされたことを理由に教会が不満を出し、過干渉になるのは避けたいという結論になった。
そこで、教会の中ではまだマシらしい枢機卿と繋がりのある二人を残しておこうという形になった。アンジェリカもレニも、侍従の心得をルクスに教わっている。
同時に、シンと年齢が近いレニは、一緒に入試を受け、学園に潜り込む算段となっていた。
最初は戸惑っていたが、最終的にはレニも嬉しそうに頷いた。
一方、偽装要員として、シンの影武者の護衛をメインですることになったアンジェリカは、ちょっと複雑だ。
アンジェリカの実家であるスコティッシュフォールド家は貴族である。印象的な美人である彼女を覚えている人は、多くいる可能性が高い。彼女が学園の近くにいると、不自然で目立つ可能性が憂慮された。
その結果、適材適所で、アンジェリカとレニは仕事が分かれることとなった。
二人は神殿に改めて報告し、神殿の出方によっては、ティンパイン王国の騎士になるのも考えているそうだ。
シンの意思を軽んじ、正しく庇護をしない組織にはいたくないのだ。
「僕は、縛られたくありません。自分のために生きたいし、自由でいたい」
「そう、それがシン君の望みなのね」
すとんと落ちた言葉と共に、シンの目から涙がこぼれる。
こんなことは初めてだった。
この世界に落ちて、いらないと言われ、テイランの城から追い出されたシン。
右も左もわからないところから自分で動いて、稼いで、生活した。
だんだんと地道な努力が実を結んで強くなった彼は、獣や魔物を狩り、自分の糧を得た。
その糧を周りと分け合えると、感謝され、笑顔が返される。
そして、騒がしい王族がやってきた。
やかましく、鬱陶しくもあるが、賑やかな彼との出会いが、シンの世界を広げていった。
新しいことを学ぶのも、知るのも、面白い。
王都での生活が楽しくなかったと言えば嘘になる。
でも、タニキ村に必ず戻るというシンの決意は変わらなかった。
緩やかに過ぎた時間は愛おしく、優しかった。
そんな時、シンは急に神子様と祭り上げられてしまう。
わけがわからなかった。
第三者の欲望で、急激に自分の世界を害される気配を感じた。
放っておいてほしい。静かに生きていたいだけなのに。
もし、本当に貪欲な連中が来たら、シンの意思など無視して、生活を脅かすだろう。
キカたちの来訪をきっかけに、どの世の中にもどす黒い連中がいると思い知らされた。
流されるままだと、全部失う。知らなければ、動かなければ、味方を作らねばならないと、頭ではわかっている。
「シン君が勝手にティンパインを出ないと約束してくれるなら、ある程度の自由は保証できるわ。権力が大好物なコメツキバッタの退治なら任せて。やり込めてみせるわ! あのね、シン君。『神子』というのは、かなり強い加護持ちに与えられる誉とも言えるの」
「僕の許可、必要ですか?」
「あったりまえでしょ! まだ十二か十三のお子様が何を言っているの!! 神子とかじゃなくて、自分の年齢をよーっく考えて!!」
ミリアの言葉はあまりにも正論だった。
この国では十歳から冒険者登録が可能とはいえ、だいたい十六から十八が成年の基準となることが多い。一般常識の観点から見て、シンは容赦なくお子様判定だった。
腰に両手を当てて眉を吊り上げたミリアは、声を張り上げて一気にお説教モードだ。
「確かに! 冒険者カードがあればどこへでも移動できるわ! 孤児や流民の子供たちも、自分の生活できる場所を目指して国境を越えることはあるわ……。で、も! 保護者もなしに旅はダメよ! ティンパインは治安が良い方なのよ! 他所は違うの! ホイホイ旅行に行ったら危ないんだから!!」
怨嗟というか悲嘆というか、何か思うところがあるのか、凄く顔がぎゅっとして、我慢している様子のミリア。珍しく感情が暴走しているようだ。
チェスターはなんとか落ち着かせようと宥めているが、彼女はカンカンに怒っている。
「シン君までうちの馬鹿息子たちみたいなこと言わないでちょうだい! あのお馬鹿たち、武者修行とか言って授業をサボって失踪したあげく、奴隷商の馬車に詰められた状態で見つかったのよ!? あの時は心臓が止まるかと思ったわ!」
悪夢よ! と頭を抱えるミリア・フォン・ドーベルマン伯爵夫人。
彼女にとってそれは、思い出すだけで頭痛がする黒歴史級のトラウマなのだろう。
ご子息が二人いることは、シンも知っていた。ドーベルマン邸にお世話になった時に、なかなかに愉快なお話は聞いていたが、まだまだ引き出しはいっぱいありそうだ。
伯爵の、しかも現役の宰相の子息が奴隷商の馬車で見つかる。しかも積み荷ポジションで。
少し遅ければ、ドナドナの仔牛のごとく出荷されていたのだ。普通に危なすぎる。
その時のミリアの心労は、推して知るべしだ。社交界で鍛えた鉄の心臓を持っていても、息子をいっぺんに二人も失う恐怖に動じないほど、冷徹で無神経なわけがない。
「……ごめんなさい、思わずかっとなってしまったわ。お願いだから、ちゃんと行先は伝えて……ティンパインを出たいなら、せめて成人の年齢になってからにして」
「治安の良い場所を調べて行くんだぞ。間違っても魔物の大暴走を覗き見しに行くなんて、阿呆なことはしないでくれ!!」
悲愴なミリアと血を吐くようなチェスターの言葉からは、嘘偽りのない本音が感じ取れる。
この頭脳派二人でも、行動力あるやんちゃボーイたちの考えは理解できないようだ。お馬鹿には「普通ならやらない」とか「常識」といった言葉は通用しないのだ。
シンは自分の将来より、彼らのことに興味が湧いて、思わず聞いてしまう。
「行ったんですか……?」
「行ったのよ……よりによって、第二王子のトラディス殿下まで連れて!」
「全員纏めて大公妃様にお尻を引っぱたかれていたぞ。マリアベル王妃殿下が、外交でご不在だからといって羽目を外しすぎだったからな……! 人間の尻があれほどに真っ赤でモッコモコに腫れるのを初めて目にした……」
とても凪いだ、非常に遠い目をして言う宰相夫妻。
なんでこんなにまともで聡明なお二人の遺伝子から、とっても愉快なアッパラパーができたのか、極めて謎である。
しかも仕えるべき王族まで巻き込んだ挙句のドナドナ未遂事件だったそうだ。
「次やったら、聖女様のタイキックが唸るだろうな」
「曇りない眼で何を言っているんですか、チェスター様」
(そして聖女様、アンタも何しているんですか。むしろ聖女に何をさせるんだ。というか、こっちにもタイキックがあるのか。どこの異世界人が伝えたんだ……?)
シンは思わず色々突っ込んだ。
「ちゃんと悪いことをしたら叱って、注意して、きちんとした家庭教師を付けて、礼儀作法やマナーや一般常識を教えていたはずなんだ。我が子ながらどうしてああも猪突猛進というか、考えなしなんだ? 私もミリアも頭脳派なはずなのに……」
懊悩するチェスターは、宰相ではなく父親の顔をしていた。
愛情はあるけれど理解の及ばない、ある意味スーパー頭脳(属性:筋肉)に散々手を焼いていたのだろう。
悩ましい親心というやつなのか、ミリアも深い溜息と共に同意する。
「手を離れて嬉しいような、でも何かやらかさないか、いつも不安なのよね」
チェスターはこほんと小さな咳払いをすると、気を取り直すように姿勢を正す。
「君は子供なんだ。いくらしっかりしていても。だから大人を、周りを頼ってもいいんだ」
真摯な眼差しに、シンは思わず言葉を失う。
僕、実はアラサーです――と、実年齢(精神)をカミングアウトする空気では全くなかったので、彼は曖昧に微笑むのだった。
◆
シンは知らないことだが、確かに各権力の中枢は加護持ちを求めていた。同時に、神罰執行により、さらなる神の怒りを買うことを恐れている。
中でも神殿は、バロスの加護を失った影響が強く、その傾向が顕著だ。
強い加護持ちへの虐待は、神の怒りに直結しやすい。
また、一部の『寵児』や『愛し子』や『神子』と呼ばれる者が機嫌を損ねただけで、それらの者を寵愛する力ある神や精霊といった存在まで不愉快になることも稀にある。
チェスターは、余程筋の通らないことをしなければシンは大人しくしてくれるはずだと考えていた。
黄金の神殿をブチ立てて現人神として崇め奉れとか、国中の美女を召し上げろとか、神に選ばれた神子は国王より偉いんだから王宮を譲れとか。
そんなとんでもねぇゴミ発言系な我儘を、シンは言わないと確信している。
ちなみに、神殿や国家は実際に、加護持ち様と崇められまくって増長した〝メンタル汚物や産廃モドキ〟を幾度となく量産してきた。
残念ながら、権力に呑み込まれて堕落し、加護を失った者も少なくない。
シンの望みは、小さく、あくまで人間らしいものだ。
故郷のような存在であるタニキ村を失いたくない。
何も知らないのに変わっていく状況が怖い。
今の生活をなくしたくない。
彼は心の拠り所を望んでいた。
寂しさを物欲や軽薄な感情で埋めようとすると、大抵碌でもないことになる。
今回、チェスターがタニキ村にミリアを連れてきたのは、シンが以前と変わっていないか確認のためだった。何しろ、あの性質の悪い聖騎士たちと関わってしまったのだから。
王都の屋敷にシンが滞在していた時、ミリアは積極的に彼と交流を持っていた。
人を見る目のあるミリアが、シンをいたく気に入っていたし、親もきょうだいもない少年をとても気にかけていた。
シンは聡明で堅実で、欲も少ない。人に対して礼儀正しく、動物にも優しい。
出生が不明瞭ではあったが、流民の冒険者なので、些細なことだった。
シンは懇意にしているティルレインやルクス、チェスターらの家の力を、今まで一度として振りかざそうとはしなかった。
このまま育てば、神子として申し分のない青年になるだろう。
かといって、純粋無垢で疑いの精神ゼロのツルツル脳味噌のままでは困るし、ある程度人との関わり合い方は覚えておいた方がいい。
シンは勉学に意欲的だとの報告は聞いていたので、チェスターは良い影響を期待していた。
学校には幅広い種類の人間がいるし、色々な社会勉強にもなる。
たくさんの出会いを重ね、喜び、学び、悲しみ、悩み、自らで答えを探し、世界を広げ――どうか実り多き時間を送ってほしい。
そう願うチェスターだった。
◆
遥か遠い高みから、春と美の女神が小さく笑う。
「――あら、わかっているじゃない。あの子を閉じ込めて虐めたら、許さないんだから」
極彩色の花と水の幻想郷。神々の領域から、芳しい程の美声がこぼれ落ちる。
美の極致を体現する存在が、揺蕩う。
青いルージュの唇が、遠くで緩やかに弧を描いた。
◆
急に溢れ出した感情と涙に戸惑って、結局声を上げてわんわん泣き出してしまったシン。
涙が止まらず、年甲斐なくミリアとチェスターに慰められた。
ミリアに至っては、豊満な胸を貸すほどの太っ腹ぶりである。
ひとしきり泣き終わると、シンは猛烈な羞恥心にかられたが、二人は穏やかに見守ってくれた。
シンが落ち着いたところで話を纏め、二人はティルレインにも挨拶してから帰ると言った。
シンはすっかり熱を持って腫れぼったくなった瞼に、雪を詰めた手ぬぐいを押し付けて冷やす。
真っ白で綺麗な雪だったから、多分汚くないはずだ。
(はー……泣いた泣いた。こんな泣き方したのは何年ぶりだ? この世界に来てからはないよな。前の世界で号泣したのなんて、アニメの最終回くらいだな。もしや情緒面も肉体年齢に引っ張られて年相応になっているんだろうか?)
シンは首を傾げるが、それは変化の一端でしかない。
心の拠り所、やりたいこと、そういったものを見つめ直した結果、シンの中でずっと固まっていた感情が動き出したのだ。
ブラック社畜戦士だった時、シンは辛い、苦しい、疲れたといくら思っていても、その感情の出し方も気づき方もわからずに、心をすり減らしていた。
それは魂にも影響していたが、色々な経験を積む間に、すり減った感情は新たな感情で上書きされていった。正常に戻るにつれて、今まで溜め込んでいた感情が溶け出してくる。
それらが今回、決め手になってドパッと決壊した。
堰き止められていた分、一気に流れ出て、シン本人も酷く混乱してしまったのだ。
(まあいいか、なんか、らしくもなく悩んでたし。スッキリした)
すり減った魂をなんとかコンパクトにまとめて、スキルと創造主のパワーでぐるぐる巻きに修繕された、シンの社畜経験系ソウル。
魂の不摂生極まれりな社畜が、ちょっぴり一皮むけた。
ここでようやく肉体と魂の釣り合いがとれただけ。
知らぬは本人ばかりなり。
シンは赤い目元のまま、気分はすっきり大満足で家に帰った。
ひんやりよく冷えた風が、腫れぼったい目に気持ちいい。
だがその途中、ベッキー家の庭先で駄弁っていたジーナとハレッシュに目撃されてしまう。
「どうしたんだい、シン! お貴族様に泣かされたのかい!?」
「あれか! あの怖い顔の陰険そうな宰相か!?」
勘違いして目をひん剥く二人を、シンは慌てて宥める。
「違います! ちーがーいーまーす!!」
ハレッシュはベジトレントを伐採した斧を持っていくし、ジーナは牛を解体できるような大鉈を持って領主宅に乗り込まんばかりだった。
シンは必死に止めるが、火事場の馬鹿力なのか、ずるずると半ば引きずられてしまう。
(あっれぇええ? 僕、下手な大人より力が強いはずなんだけどなあああ!?)
ハレッシュとジーナは雪が残っていようが、ぬかるんでようがなんそのと、ズンドコ進んでいく。「カチコミです、この野郎」と言わんばかりだ。
だが、凶器でカチこまれるのは宰相の頭だと思うと、止めないわけにはいかない。
普段大らかなハレッシュと、気風のいい肝っ玉オカンが、鬼も逃げ出すような形相でシンを引きずって歩いていく姿は目を引く。
「待って待って! 本当にチェスター様もミリア様も悪くないんです!!」
領主宅まであと百メートルを切ったところで、村の外からカンカンと金属を打ち鳴らす音が響いた。
馬の嘶きと蹄の音が、猛烈な速度で近づいてくる。
シンが何事かと振り返ると、防寒具に身を包んで馬に跨ったアンジェリカが走ってきた。
彼女は長い髪を靡かせ、颯爽と騎乗しながら、村全体に伝えるために、声を張り上げる。
「ベジトレントが出ました!」
「え、マジで?」
シンが思わずぱっと手を放すと、勢い余ったハレッシュとジーナが雪に突っ込んだ。
その場所には見事な魚拓ならぬ人拓がとれた。
「どこで出たんですか?」
「二本杉の大岩付近です! 早く仕留めねば、隣村に取られてしまいます!」
少し離れ場所からシンに返事をするアンジェリカ。
ベジトレントと聞いて、他の村人もわらわら集まってくる。
この前のベジトレント収穫祭は盛大に行われた。
アンジェリカもだんだんこの村に染まってきたのか、この村における優先順位を理解している。
シンに至っては、既に走り出していた。
目指すは村で一番足の速い騎獣、頼りになる相棒のグラスゴー。
雪からはい出てきたハレッシュとジーナも、重要事項をカチコミから、冬場のご馳走確保へ変更した。
「それはマズいな!」
「鍋の準備は任せときな!」
ちなみに、彼らがベジトレントを狩って戻ってきた頃には、宰相夫妻は王都に帰り、ティルレインは進んでいない宿題をコテンパンに怒られてヘコんでいた。
第二章 学園入試
シンは学校――正式名称ティンパイン国立学園王都エルビア校舎への入学を目指すことにした。
受験はこれからだが、ルクスの見立てだと十分合格圏内だと太鼓判を押されている。
学園は主に十二歳以上十八歳以下が入学可能。最大六年間在学できる。日本で言えば、中学~高校くらいの生徒たちが主に在籍している。
ちなみに学園はキーファン校舎とズロスト校舎もあるが、一番競争率が熾烈なのは王都エルビア校舎で、他国からの留学生も多数いた。
キーファンは商業都市、ズロストは港町としてそれぞれ発展している。
一番人気が高いエルビア校舎の生徒は、割と簡単にキーファン校舎とズロスト校舎に移籍できるものの、逆は難しい。
学園に入学する方法は、特定の推薦状を出してもらうか、実力真っ向勝負で試験を受けるかの二通り。ただ金を積めばいいというわけではない。
とはいえ、学費はそれなりにかかるうえ、最低限のベースは求められるため、平民にはハードルが高いのは事実だ。
上級貴族や、才能が知れ渡っているごく一部の者には、学園直々にオファーが来る。当然、その場合、試験はパスだ。
八割以上の生徒は、各校舎のある都市で行われる大規模な試験を通過して入学する。この時の成績上位者は志望の校舎を指定できる。
シンとしては、真っ当に受験に臨むつもりだった。第一志望はエルビアで、無理なら他の校舎で構わないと考えていたが、万一の時に護衛部隊をすぐに出せるよう、王都の校舎でないとダメだという条件が出された。
確実にエルビア校舎を狙うのであれば、合格者上位三分の一がギリギリのライン。できれば四分の一以内に収まりたいところだ。
幸い、シンは勉学に積極的であり、この世界の共用語の読み書きには苦労しなかった。数学においては優秀と言っても差し支えがない。
この世界の識字率は高くないし、簡単な計算ができるだけでも褒められる。
その他の受験科目は、一般教養や地理など、浅く広くという感じで、学力試験のレベルは、日本で言うと小学校中学年くらいだ。
時折、傾向が変わることがあるが、合計点数で合格点を算出するらしいので、苦手教科で酷い点を取っても、他でカバーできる。
また、学力試験の他に技能試験もあって、剣術、魔術、芸術など、自分の得意分野を披露することで、さらに加算される。
そこでどでかい点数を取れれば、学力試験の挽回もできる。
技能試験は面接も兼ねている可能性があり、稀に酷い試験態度で退出になった受験者は、学力試験の方でマイナスを食らうこともあるという。
これはルクスだけでなく、貴族や騎士家出身の次男坊以下であるティルレインの護衛騎士たちからの情報だ。
ちなみにティルレインが受験した際は、推薦状が来たそうだ。しかし彼は、面白そうという理由で試験を受けた。そこで技能試験で得意の絵を描いて提出したところ、高得点を叩き出し、かなりの上位に食い込んだそうだ。
そんなティルレインは今、ドリルをやりつつ大公妃に贈る絵を仕上げている。筆が乗っていて、制作意欲が漲っているらしい。
◆
数日後、シンは一応ティンパインの公式神子という扱いなので、重鎮たちと顔合わせをすることになった。
(お披露目かぁ……めんどくさー)
明らかにげんなりしているシン。
そんな彼の意向もあり、謁見の間で国王陛下のご挨拶という形で、かなり略式にしてもらった。
タニキ村に迎えに来た飛竜たちを視界に捉えた途端、グラスゴーが目の色変えて殺意のギャロップを始めた。激しい殺気と敵意を剥き出しにされ、飛竜たちは着陸を躊躇い、怯えながら小一時間ほど上空を大きく旋回している。
シンは荒ぶるグラスゴーをなだめるために賄賂のポーションを七本も渡す羽目になった。さらに「ゴンドラには乗るけど、飛竜の背中には乗らない」と、離婚されたくない浮気夫さながらに言い訳をして、なんとか落ち着かせる。
最後には子犬のように心細げな嘶きで訴えていたグラスゴーだったが、折れた――というより、折った。
しかし、やはり気になるのか、グラスゴーはずっとシンのことを見ていた。
非常に気まずい出発になったのは言うまでもない。
そうして嫉妬に荒ぶるグラスゴーを抑え、飛竜便に乗ってやってきた王都エルビア。
とりあえず、ドーベルマン邸で簡単な流れの確認と、下準備をすることとなった。
「病弱設定なので、面会は一時間程が限度ってことにしておきました」
ニヤリと悪い笑顔がよく似合う宰相閣下。シンはそのお言葉に甘えた。
国家権力の乱用と言えなくもないが、なんでもお歳を召した重鎮の何人かは頻尿や腰痛持ちで、割とすんなり通ったという。
シンもデスマーチと残業で膀胱炎になったことがあるので、その気持ちがわかる。利尿作用のある薬を服用していたが、用足しのたびにつらかった。頻尿は集中力を著しく阻害する。寒い時期は地獄だった。
基本、公式神子様は脆弱な引き籠りという設定で、神殿には影武者を置いておくことになっている。居室には聖女や王族クラスの人間じゃないと出入りできないらしい。
シンはバレやしないかとひやひやしているが、どうやら聖女がバイタリティ溢れ、常にエネルギーが炸裂している系なので、問題ないそうだ。
何しろ彼女は、護衛を振り切って人でごった返す大安売りの日やのタイムバーゲンに突っ込んでいく猛者らしい。
そんな目立つ聖女がいるので、シンはそれほど注目を集めないのだ。
シンはドーベルマン邸で準備をした。
ここには以前宿泊したことがあり、着替えを手伝うメイドも顔見知りで、チェスターやミリアの直轄である。
(厳戒態勢というやつか……まあ、普段の自由を許されるための禊みたいなものだと思っておこう)
まずは顔を隠すために羅紗のヴェールと帽子を被る。ヴェールは長く、正面と左右三枚が、少しずつ重なるようになっているため、多少の風では捲れない。
しかも、一見すると帽子と重なっているように見えるが、分離した構造なので、帽子を取られても問題ない。
衣装も全体的に羽織るような大きめのフォルムだ。高貴さと神聖さをイメージし、紫と白を基調としている。ゆったりとしていて窮屈さはないが、裾が長いので素早く動けない。体形カバーの意味もあり、影武者をやりやすくするためでもある。
神子の顏は情勢が落ち着くまで極秘とされた。万が一のために化粧が施され、シンの今の顏は劇的に変化している。
魔法で髪と瞳の色を変え、アイラインやアイシャドウで目力を強めにした。
顔は見えないし、帽子をかぶっているので、大袈裟にも思えるが、神子様ムーブをすると、どうしても世話役が付く。そこから顔割れしないための配慮らしい。
毎日こんな準備が必要だったら、間違いなくシンはグレていただろう。
世の中の女性はすごいと思い知らされる。出勤や外出のたびに色々と塗って、描いて白粉を叩いて、顔を作り上げる。男性である『相良真一』は、せいぜい顔を洗って髭を剃って、髪を整えておしまいだった。トータル十分弱。
シンにとっては億劫だったが、手伝うメイドたちは楽しそうだった。
そのメイドたちよりもウキウキしているのがミリアだ。
「シン君、女の子だったらフリフリのドレスとか着せられたのに……残念ね」
「気を付けてください、シン君。ミリアは四回ほど幼き日のティルレインを餌食にしました」
チェスターに素早く耳打ちされ、シンは震え上がった。
屋敷のどこかに、まだそのドレスが眠っている可能性がある。
「ティルレイン殿下だけじゃないわよ? フェルディナンド殿下もトラディス殿下も、平等におめかししたわ!」
この暴露は、もっと安心できない事実だった。
わきわきと怪しい手の動きのミリアから、シンは神子様スタイルのまま、すすーっと音もなく遠のいた。
ちなみに、シンのお付きはアンジェリカとレニである。謁見時の盛装は後ろの裾が長めなので、場合によっては持ってもらうことになる。
この二人は神殿側への最低限の配慮だ。完全に神殿側の人間を叩き出すかはチェスターたちの間でも意見が分かれたところだ。今はキカたちのこともあって黙っているが、一切シャットアウトされたことを理由に教会が不満を出し、過干渉になるのは避けたいという結論になった。
そこで、教会の中ではまだマシらしい枢機卿と繋がりのある二人を残しておこうという形になった。アンジェリカもレニも、侍従の心得をルクスに教わっている。
同時に、シンと年齢が近いレニは、一緒に入試を受け、学園に潜り込む算段となっていた。
最初は戸惑っていたが、最終的にはレニも嬉しそうに頷いた。
一方、偽装要員として、シンの影武者の護衛をメインですることになったアンジェリカは、ちょっと複雑だ。
アンジェリカの実家であるスコティッシュフォールド家は貴族である。印象的な美人である彼女を覚えている人は、多くいる可能性が高い。彼女が学園の近くにいると、不自然で目立つ可能性が憂慮された。
その結果、適材適所で、アンジェリカとレニは仕事が分かれることとなった。
二人は神殿に改めて報告し、神殿の出方によっては、ティンパイン王国の騎士になるのも考えているそうだ。
シンの意思を軽んじ、正しく庇護をしない組織にはいたくないのだ。
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