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2巻

2-10

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 ◆


 あの日以来、ティルレインはせっせとドーベルマン邸へと足を運んでいるそうだ。時折聞く話から察するに、婚約者のヴィクトリアにかなりイビられているようだ。
 シンとしてはちょっとお手柔らかにしてもいい気がしたが、翌日にはティルレインも復活しているから大丈夫だろう。
 むしろ、どことなく嬉しそうというか、楽しげなのは気のせいだろうか。
 この馬鹿犬殿下はドMの才能があるのかと、シンは疑いはじめた。
 違う、ドMじゃなくてお馬鹿である。
 昨日はおさかなクッキーを貰ったと自慢していたが、お魚型のクッキーではなく、魚のすり身がガチで主成分の魚のクッキーだ。それって猫用? と思ったものの、頑張って食べたと胸を張るお馬鹿王子を見て、シンは沈黙した。
 むしろ色々なもので板挟みのルクスが可哀かわいそうだった。優秀な侍従は様々な事情と感情を一生懸命に呑み込んで耐えていた。
 ティルレインは阿呆だが、馬鹿は馬鹿なりに一生懸命に婚約者に尽くしているのだ。
 その日、シンは出かける用事があったので、あまり構っている暇がなかった。

「じゃあ、ちょっと騎獣屋にバイトしに行ってきます。ティル殿下、グラスゴーの絵を描くのは良いですけど、あまり近づきすぎないでくださいね?」
「ああ、わかった!」
「パンもあげすぎないでくださいね?」

 ティルレインのウェストポーチに入っている、絵画で使う消しゴム代わりのパンは、しょっちゅう狙われている。

「頑張る」

 シンの忠告に神妙な顔をしてこくりと頷くティルレイン。どっちが年上かわからない。
 ちなみに昨日だけで、絵画用パンをダース単位で食われていた。
 接近戦では間違いなく負けるのだから、近づくなと忠告しているのだが、絵を描いているうちに夢中になって距離が縮まっていくのだ。
 ティルレインから離れたシンが、小声でルクスに話しかける。

「あの、ルクス様。例の騎獣のお話の件ですが……」
「ああ、後見ですね? 父に話も通しておきましたし、大丈夫ですよ」
「ご当主!?」

 さらに上の人が出てきて声がひっくり返るシン。ルクスはなんでもないように、むしろ当然といった様子で頷いた。

「はい。普通の馬であれば私でも問題ないと思ったのですが、デュラハンギャロップならばサモエド伯爵である父の方が安泰あんたいかと。今は殿下の絵のモデルもしてくれていますし、念には念をで」
「アリガトウゴザイマス……」

 大ごとになってないといいな……と、シンはぎこちなくお礼を言った。
 ルクスはシンのひきつった顔から察して、苦笑する。

「この手の依頼は最近増えているんです。そう硬くならなくていいですよ。解決に向けて全力で取り掛かっているのですが……何せ、被害の多くが平民ということもあって、イマイチ乗り気でない者も一部おりまして」

 そのための権力なのに、と言外の心境が聞こえてきそうだった。
 人のよいルクスは、貴族であっても、その乗り気でない連中とは違って気にしているのだろう。


 シンが騎獣屋に着くと、店の前が何やら騒がしかった。わらわらと人集ひとだかりができている。
 しかもその人垣の層は分厚く、隙間からも中の騒動が見えやしない。背の低いシンはぴょこぴょこと飛び跳ねて様子を窺おうとしたが、全く見えない。
 ポジション的に、騒動の中心がシンの行きつけの騎獣屋だと思われ、余計に気になる。
 シンは人垣をかき分けてなんとか前に出ることができた。
 そこでは、騎獣屋の店主と柄の悪そうな男たちが睨み合っていた。

「お前らに売る騎獣はねえって言ってんだろうが!」
「この! 獣売り風情ふぜいが生意気な! こっちはサギール伯爵の使いだぞ! とにかくこの店の騎獣を寄越よこせ! 抵抗するなら、営業許可証を取り消すぞ!」

 貴族の使いとおぼしき男が、なんともわかりやすい小悪党じみた態度でふんぞり返っている。
 その両サイドにはTHEゴロツキといったいかつい顔の男たちが控えている。片方はビキニアーマーをまとったメタボ気味中年のおっさん。シンはビキニアーマーなるものを初めて見たが、こんなおっさんが身につけているのでは微塵も嬉しくない。もう片方は盗賊のようなチンピラ風の、やせぎすで目つきの悪い男だ。
 とても邪魔だなぁ……と思ったシンが、気配を消してそろそろと近づいていくが、ヒートアップしまくりの周りは気づかない。

「やれるもんならやってみな! 俺がここで何十年商売していると思ってやがる!」

 空気を読まない隣の店主が「そういえばそろそろ仕入れのために一度引き払うって言ってたな」とのたまっている。もともとこの場所に長居する予定ではなかったようだ。

「生意気な! こんな店燃やしてやれ!」

 小悪党のこの発言には、さすがに騎獣屋のおじさんも焦った。

「馬鹿野郎! 何を考えてやがる!?」

 相手が動揺したことでさらに増長したのか、ゴロツキたちは液体の入った瓶をぶちまける。独特のねっとりとした臭いからして油だろう。
 彼らは立場の優位性にニヤニヤしながら、松明たいまつをチラつかせる。人の腕ほどの太さの枝に古布を巻いた簡易な作りの物だ。
 シンはふと気づく。乱暴にぶん投げた油壷はそこら中に飛び散っている。

「あの……」

 シンがそろーっと松明を手にした男の一人に声をかけると、彼は露骨に馬鹿にした目で「なんだこのガキ」と吐き捨てた。
 ちょっとムカついたものの、一応言いたいことは言わせてもらう。

「多分その火を投げたらこの店どころか周囲一帯に燃え広がりますよ。この辺の店舗は布や木材を使った建物が多いですから。役所や貴族の邸宅のような石造りやレンガ造りの方が少ないです。貴方がたやサギール伯爵様とやらは、この露店街を焼き払って、その賠償ばいしょうができますか?」

 その場の空気が変わったが、シンは構わず続ける。

「建物・商品物損だけでも相当ですが、火だけでなく大量の煙が発生すれば、死亡者も出ます。ただでさえ野次馬やじうまつどっていますし、いくら口封じしようとしても、必ずサギール伯爵様の名前の出どころはバレますよ。貴方がたが延焼の末に一緒に煙や炎に巻かれて死のうが、雇い主に不始末として処刑されようが、どちらでも構いません。当然ですが、その覚悟はできているんですよね?」

 ゴロツキと一緒に、貴族の使いらしい男もまとめて動きが止まった。
 忠告したシンは「やっぱり考えてなかったんだ」と半眼になりかけた。
 考えのない人間は時々――悪い意味で――行動力が凄い。

「万が一、生きていても、油を投げたのも火を投げたのも貴方たちです。サギール伯爵様とやらは、貴方たちのために露店街を燃やした責任を負ってくれますか? かばってくれる方ですか? ご自分の顔に泥を塗られ、多大な金銭的な負担を強いられ、悪評を甘んじてまで貴方たちを守ってくださる方ですか?」

 こんな阿漕あこぎな真似をする人間に、そんなもんあるわけないとわかっている。
 真っ当な人であれば、そもそも地上げ屋のような人間を雇わない。そういうろくでなしなら、考える間もなく切り捨てそうな気配がプンプンする。
 ますます顔色を悪くした地上げ屋紛いの連中に、シンは嘆息たんそくする。

「ちなみに、僕がさっき言ったのは最小限の被害です。もし露店街だけでなく近隣の繁華街や商店街、宿泊街、市民区域や貴族街まで燃え移ったら、サギール伯爵様でも手に負えませんよ」

 この世界に防火システムなんて期待できないだろう。王侯貴族の暮らす宮殿や邸宅ならともかく、一般市民が主な利用者であればなおさらだ。
 いくら魔法があるとはいえ、そこら中が燃えてしまったら怪我人や死亡者の発生は防げない。
 煙によって一酸化炭素中毒をはじめとした様々な被害も出る。燃えることによって有毒化する植物だってあるのだ。そうすれば、煙はまさに毒ガスである。 

「覚悟はおありですか? 貴方は今目の前にいる無辜むこの人々を焼き殺し、生活を灰燼かいじんに変え、王都をおびやかし、大罪人の謗りを受けると腹を決めていらっしゃるのなら止めません。貴方の未来は、その火をどこに落とすかによって決まります。まだ間に合いますよ?」

 シンは淡々と、ありのままの予想と事実を織り交ぜて伝える。
 声高こわだかに正義や感情を訴えかけても、この手のやからには通じないだろう。
 薄氷のような立場の優位性に驕って、加害者側の優越感のまま仕出かす可能性だってある。
 だが、自分の命も社会的な立場も徹底的に追いやられることを噛み砕いて説明してやれば、覿面てきめんに効く。
 貴族の使いはもう真っ青だ。対して、周囲の群衆は既に殺意一歩手前の憎しみが籠もった敵意を向けている。
 男は手にした松明をどうしていいかわからない様子でギュッと握りしめている。落としたら自分も全てを失うとわかっているのか、手が真っ白になるほど力が入っていた。
 この男が自爆するのは構わないが、シンとしては視界に入らないところでやってほしかった。まして、巻き込まれるのは御免こうむる。
 ぶるぶると震えて今にも失禁しそうな男をあわれみはしない。自業自得だ。
 もっとやりようはあったはずなのに、安易な考えで脅迫きょうはくなどするのが悪いのだ。
 松明は着実に燃えているため、いずれ持ち手の部分まで火が回るのは時間の問題だ。それだけでなく、何かの拍子ひょうしが飛んで引火したら大惨事だ。
 溜息をついたシンは、水入りの桶を持ってきた。

「どうぞ」
「あ、ああ……」

 松明の火が水の中に呑み込まれたのと同時に、周囲から押し寄せる圧は消えた。
 シンは足元に広がる油を見る。騎獣屋の軒先のきさきの幌にも掛かっているし、それ以外にもだいぶ飛び散っている。

「あと油の掃除してくださいね。これでは通行の邪魔です」
「なんでそんなこと!」
「貴方がたがやったからです。周り、見えていますか? 周囲に顔を覚えられていますよ。恨みと憎しみの矛先ほこさきを少しでも減らしたいと思わないなら結構です。僕がやります。でも、今にも貴方がたを殺したそうに見ている方々のお相手するのは避けられませんよ」
「ぐぬぬぬぬ」

 ここまで言っても、彼らは掃除をしたくないらしい。意固地いこじな大人に、シンは溜息をつく。
 はっきり言って、仕事の邪魔だから、早々にどこかへ行ってほしかった。

「……はぁ、わかりました。帰っていいです。僕が掃除します」
「ふ、ふん! わかればいいんだ――ん?」

 使いの男が威張り散らすように啖呵たんかを切ると、とんとんとその肩を叩く者がいた。
 シンは同情していなかったが、呆れてはいた。忠告をしたのに聞かなかったのが悪い。
 何せ、彼の背を叩いていたのは明らかに彼より身分の高そうな、立派な仕立ての服を着た紳士だったからだ。お世辞にも友好的ではない表情。シンにはちゃんとそれが見えていた。

「貴様だな? 私の予約していた『ジャンボピヨリン』の雛を油まみれにしたのは」

 地獄から鳴り響いてきたような重低音である。おおよそ人の声とは思えないような威圧感に、使いの男が息を呑む。

「ひぃえ!?」

 騎獣屋のおじさんも「やべ、大旦那……」と、いつになく消え入りそうな声でつぶやいた。
 シンはジャンボピヨリンという言葉に首を傾げたが、店先にある綺麗なリボンのついた銀色の鳥籠に雛鳥たちが入っているのを見つけた。だが、彼の言葉通り油を被っており、ふわふわの毛並みがぺしょぺしょだ。見た目の体積が半分くらいになっている。
 目に油が入ったのか、目をしょぼくれさせているのもいた。鳴き声もかなり控えめで、元気がない。
 変わり果てて弱っているジャンボピヨリンの雛たちを改めて見た『大旦那』は、さらに露骨に機嫌を降下させた。

「騒ぎがあると思えば、サギール伯爵家の使いか。貴様も貴族の使いであれば、商売は信頼で成り立つということを知らんのか。この店は、ある一定以上の価値のある騎獣の販売は一見いちげんお断りで、即日購入を望むなら紹介制だ」

 怒れる『大旦那』と目が合ってしまった店主のおじさんは、肩を落としながら対応する。

「バラダインの大旦那じゃありませんか。お孫さんのお祝いに元気のいいのを揃えたんですが、見ての通りで……」

 シンはとりあえず弱っている雛鳥たちに洗浄と治癒の魔法を交互に重ね掛けした。
 何度か繰り返すと、もとのふわっふわのヒヨコフォルムが戻ってきた。仕上げに一匹一匹にポーションを飲ませれば、やかましいほどぴよぴよと騒ぎはじめる。
 とりあえず黙らせようと鳥の餌を置いたところ、鳥籠の中で奪い合いのおしくらまんじゅう状態に。せっかく綺麗にした毛並みがあっという間に餌まみれだ。
 周囲に散らばった油も洗浄魔法で綺麗にしたシンは、店主に尋ねる。

「他のジャンボピヨリンの雛っています?」
「ああ、いくつか候補がある。水桶の傍にいるから、籠ごといくつか持ってきてくれ」

 言われた通りの場所に行くと、ふわふわの毛玉がぴよぴよしていた。
 シンが籠を持って戻ってくると、放火未遂犯のサギール伯爵の使いはすっかり縮こまっていた。

「貴族の威を借り暴れておいて……無事で済むと思うなよ?」

 恐らく一角ひとかどの人物であり、貴族だろうバラダインに冷徹に見下され、男は震え上がっている。

「ひぃいい!? 失礼しましたー!」

 権力を振りかざした結果、より強い権力に押し潰されたのだ。
 へっぴり腰で平謝りしたまま、彼らは衛兵に連れていかれた。
 サギール伯爵も馬鹿な使いを放ったものである。あの男の独断だとしたら可哀想だが、伯爵の指示なら自業自得だ。
 ふんと鼻を鳴らしたバラダイン卿は、シンが持ってきた籠に気づくと片眉を上げる。

「失礼します。バラダイン様。他の雛もお持ちしました。いかがいたしましょう」

 現在シンの周囲には、もともと店先にあった鳥籠の他に、追加で出した籠が二つある。その中でそれぞれ活きのいい雛鳥がぴよぴよ大合唱している。
 バラダインは威圧感を消し、ぴよぴよリサイタルを見つめる。どっちもやかましく元気にぴよっている。もはやどっちが油を被っていた方かわからないくらいだ。
 バラダインはそれぞれの籠を見比べたが、なんとも微妙な顔になる。

「……どれも元気で甲乙つけがたいな」
「当たり前ですぜ。旦那に卸すんだから、農場まで買い付けに行った雛鳥ですよ! 騎獣用の最高の交配をした走り屋の雛鳥だ! 貰った分はちゃんとやる! それが商売ってもんです!」

 ぴよぴよぴよぴよぴよぴよ……
 騎獣屋のおじさん自慢の商品はとても元気である。せわしなく動き、よく鳴き、どれもこれも毛艶よくふわふわだ。
 籠の傍に立つシンは、うるさくて耳がおかしくなりそうだった。
 確かバラダインは、孫のための騎獣と言っていたので、わざわざ店まで取りに来たのだろう。
 先ほど小悪党を成敗したダンディな紳士は、かなり真面目に雛鳥たちを吟味しているが、その視線は忙しなくぴよぴよ動き回る雛鳥たちに翻弄ほんそうさせられている。
 じっくりしっかり悩んだ結果、五羽までに絞られたが、そこからがまた一段と進まない。

僭越せんえつながら、提案させていただいてよろしいでしょうか?」
「ん?」
「それほどお悩みになるのでしたら、一度お持ち帰りいただき、この中からお孫様に選んでいただくのはいかがでしょうか?」

 しばらく悩んだものの、シンとジャンボピヨリンの雛鳥たちを見比べたバラダインは「そうさせてもらう」と頷いた。
 数時間後、「全部買い取りになった」と、凄く良い笑顔で騎獣屋のおじさんから報告があった。
 商談は大成功に終わったようである。


 ◆


 その日、ドーベルマン邸に帰ったシンは、グラスゴーに「知らない匂いがする……」と、亭主の浮気を疑う妻のような目で見られた。
 基本、シンには懐こいグラスゴーが、いつになくよそよそしい態度である。
 じっとりと猜疑心さいぎしん溢れる眼差まなざしで、いつになく不機嫌そうに嘶く。

「グラスゴー? いつもの騎獣屋だよ? ほら、お前のいたところだよ?」

 つれないグラスゴーの態度に、よくわからないが機嫌を取る夫のようなムーブをかましてしまうシンだった。

「浮気は良くないぞ、シン!」
「鏡を見て仰ってください、馬鹿犬殿下」
「なんでグラスゴーより僕に冷たいんだぁ!」
「え……日頃の行い」

 他所での顔は知らないが、少なくともシンにとっては頼れる相棒である。
 ティルレインは「僕にも優しくしてよぉ!」と抱きつこうとしたが、あっさりとシンに避けられて芝生の上に転がった。
 それを助け起こそうとするルクスも「駄々こねちゃだめですよ」と子供扱いである。

「絵は進んでいるんですか?」
「もちろんだぞぅ!!」

 シンに話を振られてすぐさま復活したティルレインは、インビジブル尻尾を激しく振りながら、小走りに大きなキャンバスの前に行くと、手招きしてきた。
 忙しないお方である。
 ちょっと気になっていたので、シンは呼ばれるがままに行く。

「まだ下絵の状態だ。油絵は臭いが強いからな。水彩画にする予定だ」

 そこには精巧せいこうに描かれたグラスゴーの姿があった。
 ルクスたちから聞いてはいたが、本当に絵が上手い。ただ写実的な技術が高いだけでなく、描かれている被写体から躍動感やくどうかんや鼓動、息遣いすら感じるような迫力がある。
 未完成どころか、色を入れていない状態でこれだけ凄いのだから、あっぱれである。
 芸術にも疎いシンでも、この絵からは才能というものを感じる。

「凄く上手ですね、グラスゴーがいます」
「ふふ~ん! そうだろう、そうだろう!」

 ティルレインが鼻高々にエッヘンと胸を張るが、こればかりは手放しに褒めていい。

「出来上がりが楽しみですね」

 シンがキャンバスに描かれたグラスゴーに魅入みいられたように呟くと、だんだんと照れてきたらしいティルレインが「んふふふふ! えへへへ!」と不気味な笑いを始める。
 手をもじもじとさせながら、顔を赤らめて体をくねくねさせている。

「うっわ。ティル殿下、気持ち悪いです。近寄らないでください」
「ねえ、酷くない! なんでいつも上げてから落とすの!? どうしてそう力いっぱい叩き落とすの!?」

 シンにののしられたティルレインが、すっかり洟垂はなたれ状態で泣き出した。
 目からびゃっと勢いよく涙が流れる。毎度のことながら、機動力が高い非常に活きのいい涙腺るいせんである。
 シンに手を伸ばすが、すーっと音もなく離れるものだから、ティルレインはますます泣き喚き、それを見たルクスがなだめはじめる。
 最近では慌てることもなく、もはや菩薩顔ぼさつがおの苦笑だった。



 第四章 騎獣泥棒



 ドーベルマン伯爵家の生活は悪くない。快適だと言っていいだろう。
 出てくる食事は美味しいし、服は着心地がいいし、住まいも広くて清潔だ。虫が出てくることや隙間風もない。自分で家事や身の回りのことをせずに済むのは快適である。
 屋敷の人たちも優しくて、なんの不便もない。
 周囲を気にせずグラスゴーに乗れないのは残念だが、騒がしいティルレインも絵に没頭している間は静かだし、勉強はルクスに教えてもらえた。
 しかし事件解決までずるずる待ってはいられない。
 最近は少し涼しいというより、肌寒い日も増えてきた。ずっとお世話になっているわけにもいかないし、さすがに雪がちらつく前に帰った方がいい。
 あくまでシンがいたい場所は、あの長閑のどかなタニキ村だった。

「あの、ミリア様。お話があります」
「どうしたの、改まって?」
「僕、そろそろタニキ村に帰ります。お世話になってばかりで恐縮なのですが、寒くなる前に村に戻らないと、春まで戻れなくなってしまいます」
「……そう、残念ね。なら旅立つ前に神殿や教会でお祈りしていらっしゃい。災いが少なく、幸多いことを願っていくものなのよ。チェスターやティルレイン殿下は私がなんとかしましょう。と言っても、絵のこともあるし、殿下は遅かれ早かれ追いかけていくでしょうけれど」

 くすくすと笑いながら、ミリアは伏せていた目を上げる。
 そして優しい眼差しでシンを見ると、手を伸ばしてゆっくり頭を撫でた。


 ◆


 一国の都だけあって、王都には大小様々な教会や神殿がある。
 あくまでシンが感じた雰囲気ではあるが、この世界では、教会は民間団体寄り、神殿は宗教団体寄りのようである。
 教会は孤児院という側面が強く出ているから、余計にそう感じるのかもしれない。

(あんまガチガチ宗教系は好きじゃないんだよなぁ……)

 シンは年末にはクリスマスを祝い、一週間後には初詣はつもうでに行く典型的な日本人だ。お墓的な意味では実家に属する宗派があった気がするが、実質無宗教系ちゃんぽんである。
 シンの生きた時代の日本はそれほど激しくないが、日本史や世界史を紐解けば、宗教は権力や侵略と密接な関わりがあり、それが原因で血みどろの争いが幾度も繰り広げられていた。
 八百万やおよろずの神様を大らかに温かくおまつりしている国の出身のシンには、ちょっとひなびた過疎気味の場所くらいがちょうどいい。

(そういえば、最近フォルミアルカ様から泣き言メールが来ないけど、元気かな?)

 この世界に来たばかりの頃は人間に過干渉・中保護気味で、しょっちゅうあくせく動いて疲労困憊ひろうこんぱいしていたし、迷走していた。おまけにスキルなどの集り屋であるバロスに怯える日々を過ごしていたようだが、今は平気なのだろか。

(ファウラルジット様の様子からして、容赦なく仕掛けそうな雰囲気はしたけどな)

 ティンパイン王国にも戦神バロスを祀る場所はあるが、国を挙げて擁立ようりつしているわけでない。様々な神様を信仰している傾向がある。
 テイラン王国がバロス単推しだとしたら、ティンパイン王国は神々箱推しである。

(主神だから、フォルミアルカ様の神殿はありそうだよな。うん、一番縁があるし、そこに行こう)

 ローブデコルテより、幼稚園児用のスモックが似合いそうな金髪碧眼きんぱつへきがん幼女女神フォルミアルカ。
 タニキ村にいた頃にちょっとおやしろや女神像を作って、花を奉納ほうのうしたきりである。
 シンは改まった参拝の仕方はあまり知らないが「要は気持ちだ」と、とりあえず寄ってみることにした。
 教会はよくある孤児院併設タイプで、中庭のような場所で子供がわぁわぁと騒いでいる。小さな畑のようなものがあるから、収穫をしているのかもしれない。
 グラスゴーはあの浮気(レンタル)未遂事件以降、露骨に機嫌が悪くなったので、騎乗リースは諦めた。
 掃除や手入れのブラッシングと騎乗は匂いの付き方が若干違うのか、何故かバレる。
 採取の遠乗りどころか、ちょっと荷物運びに乗っただけでもバレてしまう。
 そのたびに「おや……? 知らない騎獣の匂いがしますね」と言わんばかりの〝浮気されムーブ〟がシンを襲うのだ。
 円滑な相棒ライフのためにも、シンはグラスゴー一筋ひとすじ余儀よぎなくされている。
 最近思い切り走らせてないので、ストレスが溜まっていたこともあり、グラスゴーとしては余計に面白くないのだろう。
 というわけで、今日はグラスゴーがお供である。ご機嫌に歩いている。
 いくらグラスゴーが狙われているといっても、屋敷に閉じ込めっぱなしでは可哀想だ。
 もともとは軍馬として登用されるほど戦闘力が高い肉体派の魔馬であるため、引き籠もり隠遁いんとん生活せいかつよりも、魔物を屠りながら草原や山岳を駆け回っていた方がよほど健康的に過ごせる。
 それに、騎獣泥棒が教会にせっせと足を運ぶ敬虔けいけんな心を持ち合わせているとは思えない。
 騎獣泥棒と関係があるかはわからないが、先日サギール伯爵の使いとやらを正論で張り倒したこともあり、シンは念のためしばらく騎獣屋に来ない方がいいと言われた。
 簡単にお祈りを済ませ、さくっと街の外に出たいところだ。


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