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1巻
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しおりを挟む第三章 王子様とシン君
シンにはストーカーがいる。
その名もティルレイン・エヴァンジェリン・バルザーヤ・ティンパイン。
控えめに言っても長いお名前である。
その仰々しい名前に相応しく、ティルレイン以下省略はとても高貴な身分のお方である。
ずばり言えば、王子である。ティンパイン王国第三王子というとてもやんごとなきお方だ。
だが、王家で決められた婚約を一方的に破棄し、とても可愛らしいが色々と問題ありな女の子を妃にしたいと騒いだそうだ。
結果、ど田舎に蟄居(療養)を言い渡された。
「馬鹿か?」
ハレッシュは呆れ果てている。人のよさそうな顔にわかりやすい呆れが滲んでいる。
シンもそれに即座に頷く。
「ええ、馬鹿です」
しかしその馬鹿は、シンディードなる心友に似ているという理由で、一方的にシンを気に入っていた。冷たい態度がさらに旧友に似ているそうだ。その友人が既にお亡くなりになっているのが、余計にティルレインに執着させたのだろう。
この王子は、シンを付けておけばだいたい機嫌がいい。ポメラニアン準男爵に頭を下げられ、どうか相手をしてやってくれと頼まれてしまうと、シンに断れるわけがない。
腰が低くても、相手は領主。対してシンはただの流れ着いた領民。
準男爵にしても、やんごとなきお方すぎてティルレインを持て余していることは明らかだ。
詳しいことを知っているだろう前領主ボーマンは、王子を勝手に置いていたことが露見すると、しれっとした顔で厄介事を押し付けて、知らぬ存ぜぬを貫いている。
「……シン、そういや、殿下はちゃんと馬車に乗ってきたんだよな?」
「ええ、豪華な馬車だったので、一時期噂になりましたね」
「なら、支度金というか、世話してもらうために多少の金子をもらっているはずだ。いくらやらかしたとはいえ、まだ平然と王子と名乗れるくらいには酷い目にあってないのだろうし」
「ですけど、結構な勢いの馬鹿ですよ?」
ティルレインにやらかした自覚が薄い。今の境遇に不服そうだが反省の色はない。
今も狩りについていきたいと駄々をこねるが、シンが馬に乗れるかと聞くと横に首を横に振る。
だが、意外なことに練習はしているようだ。脚や体幹の筋力が落ちているのか、現状は馬に普通に乗っているだけでもふらふらしている。
果たして、わかりやすくボンクラ王子であるあれに対して、金子を用意するだろうか。さすがに王族はそこまで吝嗇ではないはずだが、流された原因が原因だけに、微妙なところだ。
「国王陛下の第三王子への甘ちゃんぶりは有名だからな。できない子こそ可愛いらしく、上に二人いるのを差し置いて溺愛してるって聞いたことがある」
「じゃあ、その金子は前領主のノーマン様が?」
「ボーマン様だな。着服している可能性が高い。金子じゃなくて、何か物資や貴金属という形で下賜されているかもしれない」
「パウエル様にお伝えした方がいいですよね……」
「だな、子供のお前からだとさすがにアレだろうから、俺から言うぞ」
「あんなに領主様嫌がってたのに」
「俺が嫌いなのはボーマン様であって、パウエル様じゃないからな!」
鼻息荒くドヤ顔で言うことではない。
シンからの若干じっとりとした視線をものともせず、ハレッシュは手土産をどうしようかと物色しはじめる。
「そうだ! この前のアウルベアの頭部の剥製を!」
「それをやったら村を追い出されるかもしれませんね。息子のジャック様はまだ子供ですよ」
パウエルの息子のジャックは幼い。アウルベアの頭部なんぞ屋敷内に飾られたら恐怖だろう。
ちょっぴり残念そうなハレッシュに、剥製はやめるように念を押しておく。
結局のところ、手土産はグミの実ジャムになった。隣家のジーナ作である。
「よし、じゃあ行くぞ、シン!」
出し抜けにハレッシュが誘ってきて、シンはきょとんと首を傾げる。
「僕もですか?」
「どうせ今日もとれたものを届けに行くんだろう? 俺もその馬鹿王子とやらを遠くから見てみたいからな!」
酷い言い草であるが、ティルレインが残念な馬鹿王子なのは事実だし、定期的に会いに行かないと次に見つかった時にしつこく駄々をこねる。
シンは精神年齢がアラサーだからあの十七歳児に耐えられるが、なかなかキツいものがあった。
正直、ティルレインの駄々に散々付き合わされた後に、毎回ポメラニアン準男爵からのお食事のお誘い及び慰労がなかったら、やってられない。
シンは料理を作れるが、後片付けなど、料理に付帯する色々を考えると、作ってもらえるならそちらにありつきたい派だった。
山でとってきた山菜やキノコや木の実、そして肉や魚。それらが合わされば、かなり豪勢な食事が食べられる。
別に食材を持ち込まなくてもいいのだが、貧相な食事より豊かな食事が良い。
「シ~~~~ン~~~~!」
両手を広げ、その眩いほどの美貌を喜び一色に染め上げたティルレイン。
その馬鹿王子を否応なしに視界に入れることになったシンは、スンと乾いた目を向ける。
そして、抱きつかんばかりに近寄ってきたのを真顔でさっと避ける。後ろにいたハレッシュに熱烈なハグをすることになったティルレインは、びゃっと双眸から激しい涙を流す。
「なんで逃げるんだぁ!? 僕はシンに会えるのを楽しみにしていたんだぞー!」
「おべっか抜きで、正直に答えていいですか?」
「ああ!」
「不敬罪とか言いませんか?」
「もちろんだ、僕とシンの仲じゃないか!!」
人はそれをフラグと言う。既に毒舌の気配を察知したハレッシュは、ポメラニアン準男爵に手土産を渡してそろーっと距離を取る。
察しのいい大人だ。逆に察しが悪いティルレインはワクワクしている。
「では、言質も頂きましたし、言いましょうか」
シンは淡々と続ける。
「ウザイし、べたべたされたくないからです。気持ち悪い」
「あああああああ! 酷い! なんてこと言うんだ! 確かに薔薇湯じゃないけど、ちゃんと毎日お風呂に入ってるんだぞ? そりゃ王都にいたころに比べれば質素な生活で、服も新品じゃないし地味になったさ! でも酷いじゃないかー! アイリにも、ヴィーにも、兄様たちや父様たちにだってそんな酷い言葉を言われたことないぞー!」
「では、さようなら」
付き纏ってくる手をぺっと払うシン。その目は死んでいる。
夏の蝉しぐれよりうるさく、劈くように喚くやんごとなきクソガキに、心底メンドクセェという態度を隠しもしない。
五歳のジャックはシンの塩対応よりも、大人げない十七歳に引いている。普段、真っ先にシンに纏わりついて「お肉!」と騒いでいる少年ですら、あまりの変態王子にドン引きである。
十七歳の全力の駄々はインパクトが強すぎた。
「ヤダヤダヤーダアアアアー! シンは僕と遊ぶの! お喋りしてお茶を飲んで楽しく過ごすの!」
「僕、領主様を手伝うので、それを一緒にやってくれるなら会話はします」
「僕に地面に這いつくばれと!?」
ポメラニアン準男爵は、自ら畑を耕したり狩りに出たりしている。
タニキには豊かな森はあるが、特に目ぼしい産業がない。地産地消で、よく言えば慎ましく、悪く言えば原始的な生活だ。
「イヤなら部屋にいてください。僕は日々の糧を得るためにも働かなくてはならないんです」
「待って! 手伝うからー! 一人にしないで、シンー!」
シンにどれだけ素気なくされても、ティルレインは諦めない。
逆に領主のパウエルや、保護者役のハレッシュの方が、シンのスーパドラァアアアアイな対応に居心地悪そうにしている。
ぎゃあぎゃあと喚きながら「構って!」「遊べ!」と、小さなシンに付き纏う十七歳児。
酷い絵面だが、これが現実である。
やんごとなき馬鹿王子の相手を日頃しなくてはいけないポメラニアン準男爵も、大層困っていることは容易に想像がつく。
だから、シンは午前中狩りをして、午後に時間があればなるべく領主宅に顔を出すようにしていた。彼が狩りに出ると大なり小なり必ず獲物を仕留めてくるので、誰も止める人はいない。
むしろ、やんごとなき馬鹿の相手をする少年に、同情する者も多い。
「シン、僕は何をすればいい?」
だが、そのやんごとなき馬鹿は、シンの前では割とマイルドな性格になる。
やかましいことは確かだが、身分を考えればびっくりするほど丸くなるのだ。
「麦の脱穀作業です。ついでにパン作りでもしますか?」
「シンも一緒か?」
「ええ」
「ではやるぞ! 楽しみだな!」
ふんふんと鼻息荒くシンの後ろをついて回る雛鳥殿下。
勝手に心の友認定をされた可哀想なシンである。
シンとしては「こんなの使用人がやることだ」とそっぽ向けばいいと思ったのだが、意外とティルレインは何にでも興味を示すし、割と理解力もあった。目の前で説明して実践してやれば、ちゃんとできる。
稀に思い出したように傲慢にしか見えない高貴ムーブをかますが、シンに睨まれるとすぐさま萎れる。
たまにジャックと一緒に遊んで脱線するが、大抵はちゃんとやった。
少し大きな昆虫を見かけたり見たことのないモノを見つけたりすると、シンに「見てくれ!」と持ってくる。まるで犬だ。
しかし、一度犬だと思ってしまえば、シンは苛立ちが急に消えた。
これは血統書付きだが躾のなっていない馬鹿犬である。ドッグショーを総舐めしそうな勢いの毛並みとスタイルを持っているが、ステイもゴーもできないような駄犬だ。由緒正しき御犬様だと思えばいい。
「シン、見てくれ! 僕が焼いたパンだぞ! 柔らかい!」
当然それは焼き立てだし、ボーマンに軟禁されていた頃はティルレインのところに運ばれてくる冷え切ったガチガチのパンとは比べモノにならない。
「良かったですね」
一種の悟り顔となったシンは、小麦粉まみれで調理場から飛び出してきたティルレインに菩薩のような微笑を向ける。駄犬を躾けるには、まずシンが大人にならなければならない。
「~~~~っ! パウエル! パーティだ! シンが笑ったぞー! お祝いだー!」
「ステイです、駄犬殿下」
パウエルのところに駆けていこうとする馬鹿王子の首根っこを掴むシン。
パウエルは領主の仕事の傍ら畑仕事や猟や開墾に勤しんでいる多忙な人だ。この放逐されたバカボンとは違う。手を煩わせてはいけない。
「ティルレイン殿下に少々お伺いしたいことがあるのですが」
「……ティルって呼んでくれなきゃイヤだ」
ティルレインはいじけた様子で頬を膨らませる。
「馬鹿犬殿下、それは美少女にのみ許される言動であって、僕より頭二つは大きいあなたがやると、押さえている怒りが静かに倍増するのでやめてください」
「ごめんなさい」
とても殊勝な態度できゅっとお口にチャックした馬鹿王子に、シンはため息をつく。
「謝らないでください。ただ、二度とやらないでくださいよ」
不敬罪と言われたくないので、殿下と呼びたいシンVSフレンドリーを望む馬鹿王子の静かな攻防は毎回シンが折れているが、言い負かされているのはティルレインだ。
なんやかんやと言い合いながらも、グミの実ジャムを塗りたくったパンを口に運び、ティルレインはご満悦だ。
「うん! 微妙な渋さはあるが、これもまた田舎ならではの乙なものだ!」
「あ、僕ちょっと川に行ってきます。仕掛けた罠に何か掛かっているかもしれないので」
「僕も行くぞー!」
反射的に立ち上がるティルレインを、シンが制止する。
「ティル殿下、ハウス」
「山や森じゃなくて川だろう? ならそう遠くないはずだ!」
「川辺なんて上流から流れてきた石がごろごろしているんですよ。足場も悪く、たまに獣も出ますし」
「僕は狩りが得意なんだ! 弓さえ持っていれば問題ない!」
シンは限りなく胡散臭い目でティルレインを見る。
よく言えば細身で華奢、はっきり言ってひょろっひょろのボンボンが、弓を引けるとは思えない。
全く信用できないものの、悪気なく作業の邪魔をするこの高貴な駄犬を放置してはならないだろう。唯一といっていい手綱を握れる役目を自覚してしまったシンは、仕方なくお荷物王子を連れて行くことにした。
道すがら、ティルレインはあっちへちょろちょろこっちへうろうろと忙しなく動き回る。
こいつは成犬と思ってはいけない。お散歩デビューしたばかりのパピーだと思わなくてはならない。
「知らないものをつついたり、拾い食いしないでくださいね」
「シン、君は僕を何だと思って………あーっ! 何だあれは! 見たことのないおっきなバッタだぞ! 凄く飛んでいる!」
「アレはトンボです」
馬で追いかけようとするので、シンは慌てて止める。
あれに機動力を与えてはならないと初日に痛感したシンは、今度から二人乗りしようと決めた。
軟禁がなくなり、食事事情が少し改善されるや否や、ティルレインは無駄にパワフルになった。
やたら楽しそうにいろいろ指さしてはシンに聞いてくる。シンは生粋のこの世界出身ではないので、時折こっそりスマホで確認しながら名前を教えていた。
そんな彼の様子を見て、ティルレインが首を傾げる。
「シン、その四角い板はなんだ?」
「故郷の形見です。僕の祖国はこの世界にはないので」
嘘はない。百パーセント真実だ。そう言い切ってしまえば、お気楽トンボ野郎でもシリアスさを感じ取ったらしく、しゅんと黙る。
近年、ティンパイン王国では町村が滅ぶほどの戦争や、大きな災害は起こっていない。それでも、運悪く魔物が増殖して小さな村が多大な被害を受けることは年に何回かあった。
ふと、メールボックスを見ると駄女神からの泣き言メールが鬼通知で来ていた。
シンは内心ぎょっとしたが、ティルレインの目がある今は堂々と操作できない。最近、駄犬のお守りにかかりきりで、こっちを放置していた。
一旦スマホを仕舞って、森の中の未舗装路をしばらく歩いていると、急に視界が開けて明るくなる。
草木が生い茂る森を抜けた先に、罠を仕掛けた川があった。
目に入るのは、日の光に照らされて輝いて見えるほど真っ白な、川辺の石たち。その真ん中を流れる真っ青な清流と、川の向こうの木々の鮮烈な緑が、自然の美しいコントラストを生み出している。
「おお! 川だな!」
「魚が逃げるんで、静かになさってください、ティルレイン殿下」
シンはお気に入りの場所にこのやかましい駄犬を連れてこなければならなかったことに、ちょっと機嫌が悪かった。
「今なんか、盛大に貶されなかった?」
「うっかり本音と建前が逆になったかもしれません。糞野郎殿下」
「僕と君との仲じゃないか! なんでそんなにつれないんだよ!」
ティルレインが一方的に好意的なだけであって、シンは微塵も親愛など抱いていない。
シンは黙々と馬具に括り付けた籠や釣り道具を降ろす。もし罠に魚がいなかったら釣るしかないので、持ってきたのだ。
ティルレインは始終川とシンの間をうろちょろしている。そわそわとしていて、非常に落ち着きがない。
「ティルさん、僕が罠を確認しますか?」
「僕も罠にかかっているのを見たい」
「そうですか」
先日、魚が好んで隠れそうな場所――といっても、生い茂った木の枝をいくつか蔓で括りつけて川に投げ入れた簡易的なもの――を作って、籠罠を設置した。
そういった場所には小魚が好んで隠れるし、それを探しに大きな魚も寄ってくる。
罠を回収すると、そのうちのいくつかに魚が掛かっていた。
「おお! こんなのに本当に入るんだな!」
ティルレインは馬鹿正直な感想なのか、賞賛なのかわからない声を上げる。
罠を全て仕掛け直した後で、シンは魚の内臓を抜いて棒に刺し、焚き火で焼く。
近くの木から酸っぱい柑橘系の小さな果実を数個とって、味付けにした。
種が多く、かなりパンチの効いた酸味だが、少し使う分にはちょうどいい。
「食べないんですか?」
魅入られたように魚と火を大人しく見ていたティルレインは、差し出された魚に首を傾げる。
「食べていいのか?」
「この汁をかけて食べると美味しいですよ」
ティルレインは恐る恐る魚の丸焼きを受け取り、感動した様子で見ている。
よくわからないが静かにしているのでシンは黙って見守った。もし我儘を言ったら、容赦なく自分の腹に納めるつもりだ。
シンが先に魚に齧りつくと、それを見たティルレインがようやく魚を口に運んだ。
(カトラリーがなくて驚いていたのか。そういえば、これは王子だった)
外見はともかく中身が残念なので、失念しがちだ。
魚を一口食べたティルレインは、その勢いで二口目三口目と立て続けに齧りつきはじめた。だが、熱かったのか、口を押さえている。
「ふふ、焼き立ては美味しいな。毒見をされていない食べ物は初めてだ」
そう言った顔は、思いのほか無邪気だった。
ティルレインは子供のように破顔して、はふはふ言いながら食べている。
それでも行儀の良さというか、品の良さが滲み出るあたりは、育ちが良い証拠だろう。
(こんな腐れボンボンでも、れっきとした王子なんだな)
ついさっきも思ったが、二度目である。
普段は馬鹿さが全面に押し出ているものの、黙っていればその端整な顔立ちと、優雅な所作が際立つ。
シンにはわからないティルレインの人生。毒見が必要ということは、暗殺が危惧される環境にいたということだ。
たくさんの部屋がある大きな城で、絢爛豪華な調度品や美術品に囲まれているティルレインを想像する。
今の彼からなら、何となく想像ができた。
「シン、弓を貸してくれ! 大物をとってきてやるぞ!」
「あ、壊したらケツに蹴り入れますよ」
「気軽に暴力で脅さないで! 僕、そういうの慣れてないからー!」
シンから受け取った粗末な木製の弓を構え「やるぞー」と勇むティルレイン。意外と様になっている。そのままこんもりとした森の灌木めがけて矢を放つ。
一応、矢はへろへろながらも放物線状を描いて飛んだ。放った本人は、ふふんと満足げに胸を張っている。
「これでよし!」
「よしじゃありませんよ。矢は貴重品なんですから、回収してきてください」
「え?」
「え、じゃないですよ。ゴー! ティルさんの二匹目の魚、なしにしますよ」
シンの態度に危機感を覚えたのか、ティルレインは慌てて矢を回収しに行く。
しばしして、ティルレインはちゃんと矢を持って戻ってきたが、当然の如く、何かを捕らえた気配はない。しかし、何も刺さっていない矢を持って、何故か腑に落ちない様子だ。
「おかしい。いつもは必ず何かしら獲物に刺さっているのに。なんで今日はないんだ」
心底不思議そうなロイヤルクソ野郎に、中身はアラサーで酸いも甘いも知り尽くしたシンが現実を告げる。
「それ、きっと接待ですよ。予め用意していた動物の死体に、王子が放った矢と同じのを刺して、あたかも今命中したかのように持ってきたんでしょうね」
「え!?」
「そもそも、あんなに弱い矢では小鳥一匹仕留められませんよ」
シンは奪い取るようにしてティルレインから弓と矢筒を受け取ると、素早く点検する。
スッと意識を集中させ、周囲の気配を窺う。
静かに移動して、少し離れた灌木の向こうで鹿によく似た魔物が木の実を食んでいるのを見つけた。
シンの動きについて来ようとして、ティルレインが小石を蹴ってしまった。魔物はその音を捉えてぴくぴく耳を動かし、素早く周囲を見回す。
シンは落ち着いて弓を構え、素早く矢を放ってその首を撃ち抜いた。
「あれはスリープディアーですね。至近距離で鳴き声を聞いてしまうと、眠らされます」
角は睡眠薬になるそうで、ギルドや薬屋や道具屋で買い取ってくれる。
少々癖はあるものの、肉もジューシーで美味しい。
振り向くと、ティルレインが宵を思わせる紫の瞳に、満天の星を瞬かせていた。
「凄い! 凄いぞー! シン! 僕も貴族たちとの遊興で狩りをやったが、あんなに見事に仕留めるのは初めて見た! 大抵の奴は魔法で周囲を巻きこんで消し炭や肉片にしてしまうからな!」
それは狩猟ではなく無意味な虐待か殺戮ではなかろうか。
シンの中では狩りとは食を得るための行動で、生活の糧を得るための仕事である。
一方、貴族は狩りという行為自体を楽しんでいて、趣味や道楽感覚で行なっているのだろう。庶民とは目的が違う。
「貴族の趣味で行う遊びと、生活がかかっている僕たちとでは、本質が違うからでは?」
「む……それもそうだな、僕たちは失敗しても食事の心配はない。社交がメインで、ただの見栄のために動物や魔物を追い回しているだけだしな」
何やら思うところがあったのか、ティルレインが苦笑する。
シンは仕留めたスリープディアーを馬に括り付けて持って帰り、領主への差し入れにした。
その日以来、ティルの訓練に乗馬だけでなく弓も加わったそうだ。
◆
「こんばんは! シンさん!」
「女神様……こんばんは?」
気が付くと、シンは異世界転移直前に連れて来られた場所にいた。
白い異質な作りの広場。そこで、床に転がっているシンを見下ろしているのは女神フォルミアルカだ。
なんでここへ、と疑問を抱きながら、記憶を掘り起こす。
覚えているのは、フォルミアルカからの鬼通知を見ようとして、ベッドでスマホを手に持っていたところまで。そこで途絶えている。
「ふふふーっ! シンさんがちょうど寝るところだったので、引っ張ちゃいましたー!」
ドヤっている幼女だが、軽率に精神か魂かわからんものを引き抜くのは如何なものか。
シンは異世界転移者だが、超人ではない。常識基準のメンタルに対して、殺意の高い行いだ。
「次からは事前に連絡してほしい」
「ふえ?」
「野営中とかだったら、うっかりそのまま魔物に殺されかねない。村の中でも絶対に安心とは言えないしな……」
バス事故で異世界転移をくらったシンは、世の中本当に何が起こるかわからないと骨身に染みている。割と洒落にならない現実だ。
「ああああ! えーと、じゃあ、今度から世界の時間を止めている状態で持ってきますね!」
「そうしてくれ」
あっさりとかなり凄まじいことをしようとしているが、見た目は幼女でも、この女神は主神や創造主に当たる高位な存在なのだ。……多分。そう、多分。
今のところ、シンは彼女が第三者に創造主扱いされている姿を見たことがない。
「で、どうしたんだ? テイラン王国がまたなんか騒いでいるのか?」
起き上がりながらシンが聞くと、女神はびゃっと噴水の如く涙を盛大にスプラッシュさせる。
どうやら正解らしく、また厄介事や無茶振りをされているようだ。
この幼女女神は一応、この世界のトップのはずなのに。
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