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1巻

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 ◆


「こんばんは。ティルさん」
「……もう来ないかと思ってた……」

 夜中にはるばる人目を忍んで訪ねてきたシンを、ティルは呆然ぼうぜんとした様子で出迎えた。

「そうですか。先日の質問ですが、ここの領主の準男爵は、パウエル・フォン・ポメラニアン様だそうです。王都から東の僻地へきちですね。どんなにかっ飛ばしても、馬で二週間はかかりますよ。では、質問に答えたので帰りますね。さようなら」

 そう言い残すと、シンはすちゃっと手を上げてロープを降りようとする。
 ティルはこれを止めようと、慌てて窓に張り付く。

「ま、待って! 行かないで! もう少し話そう? それで、たまにでいいからこれからも話し相手になってくれないか? ここには愛想の悪い使用人が食事の時に来るだけで、凄く退屈なんだ」

 シンは渋々ながら応対する。

「普通に来るのが大変です」
「そ、そうだな」
「ティルさんは何でこんな場所に?」
「……好きな子がいて、結婚しようとしたら、連れてこられた」
「すきなこ」
「ああ、運命の人だ!」
(なんだ、脳味噌湧きすぎて脳漿のうしょうが爆散してそうなレベルのお花畑は!? そんなお花畑、今すぐ除草剤をいてれたあとに火を放ちたい。芝刈しばかでは手ぬるい!)

 ティルのあまりにバカげた物言いに、シンは呆れて絶句する。
 シンの考えでは、このティルという男は絶対平民ではない。顔立ちはしゅっとしているし、着ている服も、仕草や喋り方も品がある。それなのに、発言が残念すぎる。
 凍土のごとき冷たい視線を向けられているとは気づいていないのだろう。ティルはその『運命の人』とやらを思い浮かべて、うっとりしている。

「……実はその女性、平民とかとしだねの類で、本来王侯貴族しか通わないような場所に飛び入りというか特別枠とかで入ってきた人なんでしょ? で、その子に高貴なお友達と一緒にげた挙句、自分の婚約者が邪魔になって、結婚破棄とかやらかした、と。『お前の罪の数を数えろ』って具合で婚約者を集団で吊るし上げて、『お前みたいな性悪しょうわるいらねーよ、ぺっ』みたいに捨てたけど、実は世間から見てそうでもなかったりして。最終的には逆に『テメーがねーよ、ペっ』みたいに自分が追い出された口ですか?」
「まるで見てきたように言うね!?」
「そういうお話が少し前に流行ったので(大嘘です)」

 シンが言った内容は、よくあるインターネット小説とかの鉄板ネタだ。
 ついでに、この手のネタは庶民の歌劇などの題材にもなりやすい。
 ティルが「僕の大恋愛が大衆娯楽たいしゅうごらくになってる!?」と真っ青な顔で項垂れた。
 だが、ドンピシャすぎて驚いているのはシンの方だ。そして、なごませようとしたはずのジョークが、地雷原でタップダンスしてしまったことに気づいた。

「どうせプロムとか、卒業式のお祝いの席で盛大にやろうとしたのでは?」
「やめて」

 シンの容赦ない追い打ちに次ぐ追い打ちを受け、ついにティルが頭を抱えて項垂れた。

(当たりかよ。死ね。主に周囲に五体投地ごたいとうちで謝れ)

 シンは庶民だし、人並みのモラルはあった。
 この馬鹿ボンボンは加害者であり、被害者面をするのは間違っている。

「一生に一回しかない卒業式かもしれないのに、下らない脳内お花畑の茶番に付き合わされた他の人にとっては物凄く迷惑だし、可哀想だと思いますよ」
「シン、何かうらみでもある?」
「ハイソサエティーな方々には自覚がないかもしれませんが、上が大騒ぎすると、下はもっと大騒ぎになるんですよ」
(唐突な仕様変更とか、規格変更とか、糞喰らえ。……おっと、社畜社畜ぅ!)

 社畜の戦国時代で足軽クラスだったシンは、御上おかみの横暴に散々血反吐ちへどを吐かされた覚えがある。
 すん、と目からハイライトが消えたシンが、たじろぎながら頭を抱えるティルを冷たく睥睨へいげいする。

「ぼ、僕のアイリーンを虐めたヴィクトリアが悪いんだ! 元は平民でも、アイリはとても魅力的な伯爵はくしゃく令嬢れいじょうで、僕以外にもたくさんの信望者がいたんだ。それにヴィーはみにくい嫉妬から彼女に酷いことをしたんだ! 数々の貴公子たちを魅了みりょうしたアイリーンは、素直で愛らしい天使のような――」
「天使は婚約者がいる男の人にちょっかいかけないし、相手の女性がいるって気づいたら引き下がるし、すじを通すし、そもそも、そんな男の人たちを何人もはべらせないよ。知ってる? ティルさん。そういう人は世の中ではアバズレって呼ばれるんだ。娼婦しょうふのお姉さんたちだって、仕事だからたくさん男の人の相手をするだけだよ。でも、そのアイリーンさんっていうのは、趣味で相手のいる男性を引っかけてみつがせているよね? 男の人も、婚約者も、その人たちの家も馬鹿にしてたんじゃない?」
「だからって、ヴィーはネチネチと僕のアイリを虐めたんだ! 庶民だったアイリが貴族の作法に慣れていないのは仕方がな――」
「アイリーンさんって、いつから貴族だったの? もしかして礼儀作法も習わないで貴族様の世界に入ったの? それってヴィクトリア様がルール違反とか、マナー違反だよって教えてあげたんじゃない? むしろティルさんと結婚したいなら率先して教えをうべきでしょ? 貴族を名乗るなら、貴族のマナーを守るのが当然だよ。無理ならすっこんでなって感じ」
「でも、アイリは泣いていたんだぞ!?」
「貴族なのに貴族としてのマナーを守らず男に泣きつくって、最低じゃん。つーか、それなら貴族辞めて庶民に戻った方がいいね。でも、ティルさん。わかっていて筋を通さなかったアンタが一番悪いと思います」
「シンは僕のこと嫌い?」
「とりあえず好感度は今駄々下がりしています」

 シンはスッと視線を下げて地面を確認した。
 いつでも降りられる。ちょっと手を緩めるだけで、重力が地面にご案内してくれる。

「ごめんなさい。まだ行かないで」
「素直でよろしい。なんでアイリさんにそこまでこだわるんですか?」
「か、彼女とはその、深い仲で……男なら、責任を取るべきだろう!?」
「アイリさんのが、ティルさんだけじゃないといいですね」
「………へ? イヤイヤイヤ、そりゃアイリはモテたけど、僕だけだって……」
「アウトー。それって男を貢がせる女の典型的な手口ですよ。何貢いだんですか?」
「……ドレスと宝石とか、他にも色々」
「ティルさんのお家の先祖代々の大事な物とか、形見とか、ご両親からもらった貴金属を渡してませんよね?」

 ズバッと問いただすシン。手加減などは存在しない。
 すすーっとわかりやすく目をらしたティルは、それっきりかたくなにシンの方を見なかった。
 真っ青な顔で、物凄く居心地悪そうに手をもじもじさせている。だが、やたら瞬きが多い上、視線がさっきからあっちこっちに散乱して定まらない。

「………アイリは僕を裏切らないもん」
「馬鹿ですか、アンタ」

 こんな辺境にぶち込まれるはずである。
 このやんごとなきボンボンは、青春が行き過ぎてやらかしたらしい。アオハルがオーバーキルだ。もうすでに極大の暗黒点クラスの黒歴史だろう。
 恐らく「根性叩きなおせ」と、こんな田舎としかいいようのない僻地にぶん投げられたのだろう。そうでなければ、お役御免やくごめんで見放されたかのどちらかだ。そして、借金があるという前ポメラニアン準男爵は、立場上断れなかったのかもしれない。

「嘘じゃないもん!」

 明らかに自分より年下の、十歳ちょっとの子供に盛大に抗議しはじめたティル。
 精神年齢が幼児レベルだ。

「駄々っ子か! ないもんとか言うな、キモイ。両親兄弟使用人全てに謝りなさい。一番に婚約者本人とそのご実家に。元婚約者かもしれないですけど」
「こんな牢獄ろうごくみたいな場所に入れられたのにか!? 毎日野菜のスープと固いパンだぞ!」
「ここは極貧なので、領主様もそれが標準です。肉が欲しかったら自分で確保するしかありませんよ」
「……嘘だろ!?」

 愕然がくぜんとするティルだが、シンは真顔で首を振った。
 このノーブルボンボンは、庶民と末端貴族の現実を全く知らないようだ。

「事実です。貴族もピンキリですよ。とりあえず全員に手紙で謝罪しなさい」
「ヤダ」
くずに関わる趣味はないので、ではさよなら」
「え、待って待って待って! せっかく話し相手を見つけたのに!!」

 面倒になってきたシンは、必死に引き留めようとするティルを無視してさっさと帰った。
 ノーブル美形がとんでもない屑男だった。ちょっと面白い話でも聞けると思ったら、とんだ地雷男だったのだ。


 ◆


 その後、シンが領主宅に行くたびに、鏡のモールス信号みたいなのが飛んできたが、しばらくこれを無視した。
 シンはあの手の人間が嫌いだった。自分のしでかしたことを理解しない奴は嫌いだし、反省しない奴はもっと嫌いだ。糞クライアントを思い出す。
 その後、シンはソープナッツ探しに山や森に入ったり、ハレッシュと狩りをしたり、ドライフルーツや干し肉、燻製などを作るのに熱中して過ごした。
 隣家のご主人――ガランテに家具を作ってもらえることになったので、家もグレードアップした。地道な差し入れ作戦がこうそうしたようだ。
 ハレッシュに貰った住居は少し年季が入っているので、手伝いがてら修理の仕方を教わった。簡単なところでもやはり素人の作業では不格好になるので、最後は修復魔法でサクッと修理した。
 どういう原理かわからないが、修理魔法を使う際に素材を足すと、そのまま魔法を使うよりも綺麗に直る。どこかの錬金術のように、老朽化ろうきゅうか欠損けっそんした部分は何かしらおぎなった方が良い結果になるようだ。
 そんな日々を過ごしていたシンが、久々にティルのもとを訪れると、彼は滂沱ぼうだなみだを流しながら怒っていた。

「ひどいじゃないかああ!」

 幼児のようにわかりやすくぷんすかしているティル。窓にガタガタと縋り付きながらべえべえ泣いている。

「僕はずっと待ってたんだぞおおお! ひと月近く放置したなーっ!」
「反省する時間が必要かと思って」

 シンはできれば来たくなかったが、あまりに反応がないのに苛立いらだったのか、ティルは鏡でチラチラ作戦をやめて、窓をバンバン叩いてギャーギャー訴えはじめたのだ。
 これでは無視するわけにはいかない。
 当然、周囲にバレた。
 しかも、あまりに暴れるので、大した造りではない離れの窓が外れた。

「わぁ!?」
「あ」

 パッカンパリンと景気よくいった。
 窓にガンガン当たり散らしていたティルは、そのまま落下寸前だ。

「お、落ちるううう!」

 そこからは大変だった。
 落ちかけたティルは何とか窓枠につかまって事なきを得たものの、散乱する割れた窓ガラスと窓枠のせいで引っ張り上げられない。救出するためにポメラニアン準男爵邸宅にいた人たちを慌てて集めることになった。
 結局、シンが丈夫なロープで窓のそばまで登って、自分よりデカい人間をサポートしながら降りる羽目になった。
 なんとしてでも助けろと前領主とその執事らしい壮年の男たちが騒ぐ。しかし、彼らは終始文句を言うだけで結局何もしなかった。
 ようやく地面の上に立って、ほっとするティル。
 手当てを受けるために、屋敷の一室に案内された彼は、念のためベッドに押し込まれる。
 訪問が遅かったことにぶつくさ文句を言うティルに対し、シンが反論する。

「あなたがアイリさんに夢中になってる間、放っておかれたヴィクトリア様は、もっともっと待たされて悲しい思いをしたんでしょうね」
「ヴィーは関係ないだろう!」
「親に、家に決められた婚約者。もしかしたら、ヴィクトリア様も他に愛する方がいたかもしれない……なのに、婚約者ときたら他の女に入れ込んでいる。可哀想なヴィクトリア様。ドレスも宝石もアイリ様には贈られるのに、エスコートもされずにほったらかし。おびの花や言葉どころか、カード一枚来やしない」
「………それはちょっと悪いと思ってる」
「ちょっとですか。本当に屑ですね。そんなんだから振るつもりが振られてアバズレビッチアイリーンにも逃げられるんですよ」
「ねえ、ほんとに見てないの!? シンは実は王家の密偵とか? そうだな! そうなんだろー!? 言っとくが、僕は兄上や父上のように好きでもない女とは結婚しないからな!」
「そんなだから不良在庫扱いされてこんなど田舎に入れられたんじゃないですか? 労働がないだけマシですが、ここは魔物が出る森もありますし、都会のボンボンがうっかり飛び出したら、獣か魔物に襲われて内臓からすすられますよ」
「言葉がキッツイ! こっわ! 表現も怖い!」
「動物にとって、内臓は栄養価が高い御馳走なんです。腐りやすい部位でもあるので、一番に食べるんですよ」
「ひぇ……自然のリアリティ……」
「あと、僕はただのしがない冒険者兼猟師なので、密偵とか護衛ではないです。暇潰ひまつぶしに見に来ただけで、飽きたり嫌になったりしたらすぐ逃げるんで、アテにしないでください」
「いやああああ! シン君待って! うそうそ! 行かないでよーっ! 行くな!」
「命令しないでください」
「ごめんなさい」

 素直だか我儘だかわからないお坊ちゃんである。
 先ほど王家だなんだと嫌なワードが聞こえてきて、シンはリアルに椅子を動かして距離をとった。
 シンがリンゴをいて渡すと、ティルは「すっぱ」と顔をくちゃっとさせながらも、シャリシャリ食べはじめる。
 この馬鹿ボンが本当に王族とか、できる気がしない。というか、既にやらかして左遷させんされているようなものだ。

「シン、改めて自己紹介をしよう」
「あ、面倒そうなので、そういうのイラナイです」

 シンに拒絶されたティルが駄々をこねる。

「聞いてよーっ! 聞こうよーっ! ヤダヤダ、聞いてくんないといやだー!」
「糞して寝てろ」
「ぴぇん」
「何がぴぇんだ」
「アイリがこうやると凄く可愛かったから、真似してみた」
「こうしてやりたいくらいムカつきます」

 シンはまだ皮をむいてなかったリンゴを、ギュッと握りしめて粉砕ふんさいする。ちゃんと皿の上で。
 ちなみに、砕けたリンゴはシンがちゃんと美味しくいただいた。
 ティルはガタガタと震えて黙った。

「シン、お前ちっこいのに凶暴すぎやしないか? 子供はもっと可愛くのびのびしてた方がいいぞ?」
「僕をいくつだと思ってるんですか」
「え? うーん、八歳くらいじゃないか?」
「十一歳です」
「ええ! 小さい! シン、小さいぞ、お前!」

 その小さい奴に助けられたくせに――シンがこめかみをヒクつかせる。

「誰も彼も満足に幼少期から食べられるとは思わないでください。あと、僕はもともと小柄なんです(多分)」

 何か思うところがあるのか、ティルは黙った。
 彼はずっと軟禁生活で喋り足りないのか、痩せこけて血色が悪いのにやたら喋る。黙っていればかなり端整な容貌ようぼうもあって、ちゃんとやんごとなきお方に見えるのに。
 そばに近づけるようになったのをいいことに、ティルはやたらシンに触れようとする。
 頭を撫でようとして、ペしっと弾かれたティルは肩を落としたが……すぐに復活して微笑みを浮かべた。

ひかえめに言って、気持ち悪い」
「シン、なんでそんなに直球に僕をののしるんだい」
性分しょうぶんです」

 存在がやかましいティルの気配に、シンの口調からオブラートがログアウトしてしまう。
 二人がわちゃわちゃと騒いでいる後ろで、領主邸宅の使用人たちは大慌てでパウエルを呼びに行っていた。
 領主は少し遠出して森林沿いを開墾しに行っていたのだ。
 前領主は騒ぎすぎてぎっくり腰になったのか、老執事に付き添われて離れに戻った。

「じゃあ、ティルさんも元気そうなので、僕は帰ります」
「よし、じゃあついていく」

 どういうわけか、ティルはシンを気に入っているようだ。
 結構辛辣に対応しているのに、めげずに付き纏う。

「よしじゃない。お戻りください」
「いーやーだー! 僕はシンと行くんだ!」
「何故?」
「シンが僕の心友しんゆうのシンディードに似ているからだ! 愛称と名前も一緒! これは運命に違いない!」

 非常に余計な運命だ。
 その友人とやらは、このボンボンの性格を何故矯正しなかったのか。身分差か。それとも、挑戦したが挫折ざせつしたのか。あるいは、ティルが根っからこの鬱陶うっとうしい性格だったからか。

「つれないツンツンしたところと、大きな黒目がシンディードにそっくりなんだ」
「はあ」
「シンは――あ、旧友のシン、シンディード・キャンベルスター男爵は、ずーっと僕と一緒だったんだぞ。嬉しい時も、哀しい時も! 僕が病弱だった時も、王子として色々揉めていた時も、シンだけはずっとそばにいてくれたんだ!」

 別に頼んでもいないのに、ティルは過去に思いをせながら滔々とうとうと語りはじめる。
 男爵というのだから、爵位を継いでいたのか。護衛や従僕、家庭教師の類だろうか。

「だが、僕が十歳くらいの時に亡くなってしまった。急に食欲がなくなって、ベッドに寝たきりになって……あっという間だった。シンディードには恋人や奥さんもいなかったし、爵位を継ぐ親戚はいなかった。そういう関係の者がいるのかわからなかった。元は貴族ではなく、彼の代で貴族になったからな。だから、シンの大好きな別荘地の一画に埋葬まいそうすることになったんだ。彼の命日には毎年、大好きだった向日葵ひまわり手向たむけている」

 心友とやらを思い出しているのか、ティルの表情が哀愁あいしゅうびている。目を伏せ、長い睫毛まつげが頬に影を落とす。

(こんなクソ野郎にも友達なんていたんだな、そしてそれをいたむ気持ちがあるのか)

 シンはちょっとティルを見直したが、本当に家までついてきそうなので部屋に押し戻す。
 嫌な予感がするので、とっとと帰りたかった。
 既にいくつかヤバいワードを拾ってしまったシンは、早急に逃げにかかる。
 その時、外からバタバタと音がしたと思ったら、ノックもなくドアが開け放たれた。
 入ってきたのは、赤茶色のふわふわとした頭に麦わら帽子をかぶった農夫だった。
 ちょっと垂れたくりっとした目といい、ちょっと緩そうな口元がどことなくデフォルトで笑っているような形に見えて、犬っぽい。
 どこか愛嬌のある顔立ちを、緊張で強張こわばらせている。

「し、失礼します! ティルレイン殿下、ご無事ですか!?」
「おお、シンのおかげで問題ない!」
「申しわけありません、殿下。まさか父があなた様のような高貴な方をお預かりしていたなどと、当主でありながら存じ上げませんでした!」

 きゅんきゅんと鳴き声の聞こえてきそうなほど恐縮しきった農夫は、ベッドサイドに駆け寄ると、すぐさま膝をついてティル――ティルレインの前にこうべれた。


 シンはドン引きしたが、ティルレインにしてみれば慣れたものなのか、鷹揚おうように頷く。

「うむ、まあよい。ボーマンやその執事の態度は頂けなかったが、なかなかに良い出会いがあった。気の置けない小さな友人もできたしな」
「そ、それは良かったです」

 シンが農夫だと思っていたこの男がポメラニアン準男爵のようだ。
 確かパウエル・フォン・ポメラニアン。割と糞な親を持ってしまったせいで、借金まで背負わされた可哀想な領主である。
 パウエルは、小さな友人と示されてようやく部屋から逃げようとしたシンに気づいたようだ。

「君は? あれ、前に会ったよね?」
「~~~~~~~~っ!!」

 シンの喉から声にならない悲鳴が漏れた。パウエルはしっかりシンを見ている。

「シンです。タニキ村に住んでいる冒険者です。狩人の真似事をしています」
「ああ、よく肉や山菜を差し入れてくれる子だね!」

 ここでも通じる肉の人。
 よそから転がり込んできた彼が人間関係を円滑えんかつにするために使ったそでしたが、悪い意味で作用した。一村人で、しかも子供のシンを、しっかりとパウエルは認識していた。

「ジャックがよくお土産をくれると話していたからね。弓の名手だと聞いているよ」
「いえいえ、それほどでも……」

 きらっとティルレインの目が光った。嫌な予感に、シンの肌が粟立あわだつ。

「シンの狩りを見てみたいな!」

 その提案に、血相を変えたのはパウエルだ。大慌てで止めにかかる。

「で、殿下。しかし先ほどの騒ぎもありましたし、まだお休みになられていた方が!」
「なーに、問題ない! ずっと籠もりっぱなしで体もなまっていたところだ!」

 外に出る気満々のティルレインであるが、ベッドからぶらぶら揺れる足は細い。頬もこけているし、声は明るいが張りがない。空元気なのか、興奮こうふんして空ぶかし状態なのかはわからないが、いずれにせよ体調がかんばしいとは思えない。

「ティルレイン殿下」
「シン、そんな他人行儀じゃなくてさっきみたいにティルさんと呼んでくれ!」
「殿下と呼ばれるのは、大雑把おおざっぱに言えば王族に属す方です。しがない平民の子供が迂闊うかつな口を叩けば、僕の首が飛ぶので、遠慮させていただきます」
「ケチだなぁ。僕は気にしないのに! もっとフレンドリーになってくれ!」
「では、率直に申し上げて大変迷惑なので来ないでください。そうしていただければ、シケた硬いパンと野菜が浮いている塩スープの食事に、魚か肉といういろどりが加わります」
「に、肉とな……? そういえば、王都から出て以来ずいぶんと口にしていない……」
「あと、僕の狩りについてきたかったら、その痩せ細った手足を何とかしてください。まるで枯れ木ですよ。僕にあなたを背負えというのですか? 無理があります。山を舐めたら死にますよ」

 率直に言って、足手まといだ。獣も魔物も出る自然の山はそんなに甘いものではない。
 子供に大人とまではいかないが、自分よりデカい奴の世話をさせようとしてはいけない。
 パウエルはシンとティルに挟まれてずっとオロオロしている。
 シンの舌鋒ぜっぽうは容赦ない。

「せめて馬に乗れるくらい体力つけてください。一人で、ですよ? 誰かの手伝いも、誰かの補助もなしで乗れるようになってください」

 この明らかにどちゃくそボンボンな殿下にはかなり難しいだろうと踏んで、シンは言った。
 だが、ぱっと表情を変えた現実の見えていないティルレイン。

「わかった! では、今日は大人しくしていよう!」

 パウエルがほっと胸を撫で下ろす一方で、自分の置かれている状況を理解していない王子様は嬉しそうだった。


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