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五話 全ては壊れて
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ザビーネに、グレーテルを追い出したと告げられた時、ヘンゼルの中でかろうじて保っていた理性や道徳、社会性という、一本の細い線はプツリと切れた。
「ヘンゼル、これも貴方のためなのよ。貴方はいずれベルケル伯爵の嫡男として、クラム家を継ぐの。おかしな噂を立てられでもしたら大変だわ。安心して頂戴、グレーテルはミハエル教会で、一生面倒を見て頂けるのよ」
ザビーネは、ヘンゼルの顔色を伺うようにして息子に縋りつき、訴え掛けた。高級娼婦の息子として産まれたヘンゼルは、劣悪な環境の中でも、利口で手が掛からず、大人びていて分別のつく少年だった。
父親の分からないヘンゼルだったが、将来性のある息子を、ザビーネは溺愛し、彼が領主になる事を切望していた。
それと同時に、気に入った美しい蝶や鳥達に執着し、檻に閉じ込め、かいがいしく世話を焼き、亡骸を標本にして秘密の部屋で眺める、という遊びを繰り返す息子を、不気味に思って心配していた。
「お母様、グレーテルを決して外に出さないと、僕と約束しましたね?」
「し、仕方がないわ。お父様と決めた事ですもの。いくら血が繋がらないとはいえ、家族として、共に過ごした義妹なのよ。許されない事だわ」
「————分かりました、お母様」
ヘンゼルの金色の瞳は、冷たく鈍い光を放っていた。
母が、グレーテルにつらく当たっていた事を、ヘンゼルが見逃してきたのは、継母の虐めに打ちひしがれれば、唯一彼女にとって、信頼出来る存在になれるからだ。
ザビーネは、年々美しくなる若い娘に嫉妬していた。どこか前妻の面影を宿すグレーテルが、自分の自慢の息子を誘惑する、憎たらしい悪女に見えたのだろうと、ヘンゼルは思った。
(————ならば、もう利用価値はないな)
明確に、自分の邪魔になると判断したヘンゼルは、父母が寝酒として愛用していた、ワインに毒を仕込んだ。
母に愛情がない訳ではないが、グレーテルを自分から引き離すという、大罪を犯したのだから、死に値する。
使用人達は、二人の死を怪しんだが結局ヘンゼルの人柄もあり、心中として片付けられてしまった。
ヘンゼルは好青年で、内外共に評判も良く、使用人達からも、家族を殺すような残酷な人物とは、結びつかなかったからだ。
(全ての準備は揃った。後は、僕のたんぽぽ姫を取り戻すだけ。ああ! これでグレーテルを、僕の檻に永遠に閉じ込めてあげられる)
葬儀を終え、ベルケル伯爵として家督を継いだヘンゼルは、ミハエル教会に預けられた、最愛のグレーテルを迎えに行くべく、愛馬に跨った。
「お待ち下さい、ヘンゼル様。貴方様に話しておかねばならない事があるのです」
「お前は……御者のエドガーか。私は急いでいるんだ。大事な妹を迎えに行かねばならないのだよ。手短にしてくれ」
愛馬に跨るヘンゼルに、慌てた様子で近寄ってきたのは、御者のエドガーだった。
ベルケル伯爵が再婚する以前より、この城で働いている、寡黙な使用人だ。ヘンゼルは馬上の上から彼を見下ろすと、髭面の男は、恭しくヘンゼルを見上げる。
「グレーテルお嬢様は、ミハエル教会にはおられません。私は奥様のご命令で、グレーテルお嬢様を昏き森に連れて行き、そこで手に掛けるように申し付けられました。しかし、そのようなむごい事は、私には出来ませんでした」
御者はハンカチを取り出して開き、光る指輪を差し出す。間違いなくそれは、グレーテルの誕生日に、ヘンゼルが彼女に贈った物だった。
「グレーテルお嬢様を殺した証拠に、これを献上したのですが、褒美として頂いたのです」
それを奪い取ると、ヘンゼルは今まで使用人に見せた事のないような、厳しい表情で彼を睨みつ声を荒らげた。
「何故、それを早く私に告げなかった!」
「も、申し訳ございません。奥様に口止めをされていたのです。グレーテルお嬢様は昏き森を抜けて、先にある小さな村に辿り着いている事でしょう。ですが、あの森には……魔法使いに化けた、恐ろしい悪魔が住んでいるという噂です。どうかお気を付け下さい」
城から出た事がないグレーテルが、はたして昏き森を抜け、小さな村に辿りつけるだろうか。あれからもう数日は経っている。もし、森の中で迷子になってしまっていたら……。ヘンゼルは最悪な想像を振り払う。
御者に返事をする間もなく、彼は馬を走らせた。
(なんて事だ! 今頃グレーテルはさぞ恐ろしい思いをしているだろう。必ず、グレーテルは連れて帰らなくちゃ。僕のグレーテル、待っていて)
✤✤✤✤
ヘンゼルは愛馬と共に昏き森を駆け抜けていた。
この森は暗く鬱蒼としていて、魔物や狼達がいると噂されている。時には、犯罪者や流れ者の住処になっている場所もあるというから、グレーテルの身が心配である。
しかし、ヘンゼルは自分の腕に自信があったので、単独であっても愛する妹を取り返せると信じていた。
「あれは……?」
鬱蒼とした森の中で、ヘンゼルは七色に光る物を見つける。
馬から降りてそれを手に取ると、その石はどうやら、不思議な魔力を帯びているようで、内側から光っている。
ふと、ヘンゼルが視線を移すと、鬱蒼とした森の中で、この魔法の石は道標のように、点々と東に続いていた。
自然に転がった石というより、誰かが故意に落としていったという方が正しいだろう。
「ああ、これはきっとグレーテルが僕のために用意した印だ。そうだ……そうに違いない。この先に僕の大事なたんぽぽ姫がいるんだ!」
ヘンゼルは、少年のように目を輝かせて歓喜すると、自分の直感に従う事にした。
彼にとって、義妹のグレーテルと結婚し、夫婦になる事はもはや神に決められた運命だと確信していたし、二人の関係を邪魔する者など、現れるはずもないと思っていた。
早る気持を押さえ、愛馬の手綱を持つと、ヘンゼルはグレーテルの軌跡を辿る。
やがて石がなくなると、今度は泥濘にグレーテルと思わしき女性の、小さな靴跡を見つけ、それを頼りにヘンゼルは薄暗い森を進む。
(ふふふ。まるで鬼ごっこだな。あの頃を思い出す。僕は鬼になってグレーテルを捕まえ、叢に押し倒したんだ)
幼い少女の甘い笑顔を思い出した。
それから、蘇る彼女へのわずかな欲情も。
ヘンゼルは、あの頃からグレーテルを、自分だけの物にしたいと願っていた。
突然、開けた場所に出ると獅子に乗った乙女像の城門に、薔薇と荊棘に覆われた荘厳な古城が現れた。
「こんな所に城が……? そういえばあの御者はこの昏き森に、魔法使いに化けた悪魔がいると話していたな」
ヘンゼルは鼻で笑う。
知性の低い魔物と呼べるような化物や、魔獣とは戦った事はあるものの、どれも恐れるに値しない個体ばかりだった。
悪魔という上位魔族の存在に、いまだかつて彼も周りの人間も出逢った事はなく、そんなものはただの迷信だと思っていた。
せいぜい、悪魔を名乗って人を惑わし、詐欺師のような悪知恵の働く魔法使いが、この森に住んでいるのだろうと考えた。
「グレーテルは、この城へ向かったのだろうか……? 下手にあの危険な森を彷徨うより、安全だろうけど」
荊棘の城は、薔薇に覆われていて、全く人の気配を感じないが、隅々まで管理されているように見えた。城門を潜ろうとすると、愛馬は怯えてこの先を歩く事を、拒否するように踏ん張る。
ヘンゼルは、仕方なく城門の前で愛馬を待たせる事にした。
「誰もいないのか? 不気味な城だな」
ヘンゼルは嫌な胸騒ぎがした。
一羽のカラスが、侵入者を監視するようにじっとこちらを見ている。この怪しい城にグレーテルが迷い込んでしまったのなら、一刻も早く救い出さなければならない。
そもそも、いくら鬱蒼とした昏き森とはいえ、こんな大きな古城が貴族社会で噂にならない事の方が、おかしいのだ。
本能的にそう感じたヘンゼルは、覚悟を決めて足を踏み入れる。
「失礼いたします。どなたかいらっしゃいませんか! 私は、ヘンゼル・クラム・フォン・ベルケルと申します。昏き森でいなくなった私の妹を探しているのですが」
大声を出しても執事はおろか、メイドさえも、来客に気付いて出て来る様子はない。
それとも住人がいると思ったのは、ヘンゼルの思い込みだろうか。
彼は、仕方なく無人の城を歩き回る。
「グレーテル、ここにいるのかい。いるなら返事をしてくれ!」
不意に、どこからかクスクスと聞き覚えのある愛らしい娘の笑い声が聞こえた。ヘンゼルはそれを頼りに、薔薇の庭園に出る。
見た事もない不思議な蒼い薔薇や、赤薔薇、白薔薇が咲き乱れる庭園は高貴な香りがする。
その中で誰かが立っていた。
高貴な純白のドレスを纏った黄金の髪を揺らすグレーテルは、薔薇の花に触れながら、楽しそうに笑っていた。
まるで誰かと会話でもしているように声を潜め、耳打ちしている。
「グレーテル!」
突然、名前を呼ばれたグレーテルは驚いて振り返ると、愛らしく首を傾げて笑った。その無垢な瑠璃色の瞳は、どこか憂いを秘めていて、ぞっとするほど艶やかだ。
「ヘンゼルお兄様?」
しかし、そんな事はお構いなしに、ヘンゼルは満面の笑みを浮かべて、両手を広げる。
彼の黄金の瞳は、以前よりも狂気の色を宿しており、優しい笑顔を彼女に向けながら、近付いて行く。
「グレーテル、もう大丈夫だ、なんの心配もない。僕と一緒に城に帰ろう。僕達の愛を引き裂こうとする、お母様や、お父様はもういないんだよ。僕らの城で、二人で永遠に幸せに暮らそう。僕とお前で家族を作るんだ!」
「お父様もお母様も……お城からいなくなってしまったの?」
「残念だがあれから、二人共流行り病に掛かってしまってね。あっという間に亡くなってしまったんだよ。でも、心配する事はない。今は僕がベルケル伯爵だ。ああ、そうだ。グレーテルを虐めていた使用人も、僕が全員排除したんだ」
ヘンゼルの微笑みに嘘はなく、両親が亡くなった事は、本当なのだろう。あまりのショックに、グレーテルは目が覚めたように絶句して涙を流す。
しかし、流行り病の話など初耳であるし、こんな短期間で、両親が相次いで急死するなんて、グレーテルにはとても信じられなかった。
なにより、両親が死んだばかりだと言うのに、ヘンゼルは輝く太陽のように、キラキラとした美しい笑みを浮かべている。
「グレーテル、どうして泣いているんだい?」
歩み寄ったヘンゼルが、グレーテルの手首を掴もうとした瞬間、彼女はそれを避けるように、自分の胸元に両手を引き寄せた。
そして、震える声を絞り出す。
「ヘンゼルお兄様、どうしてここに来たの。貴方は、来るべきじゃなかったわ。だって私は—————」
思わぬグレーテルの拒絶の言葉に、ヘンゼルが目を見開く。周囲が無音になり瞬きした瞬間、彼女の背後に、黒衣を纏った端正な男が立っている。
彼は、背後からグレーテルの肩に触れ、もう片方の手で彼女の顎を掴むと、挑発的にヘンゼルを見て微笑む。
「そう、彼女は私の花嫁なのです。ようこそ、ベルケル伯爵。お待ちしておりましたよ」
ググ、と男の顔が近寄るとヘンゼルは目の前の光景が信じられず、呻きながら二、三歩後退する。
この男から放たれる異様な威圧感に、ヘンゼルは怯んだ。グレーテルは、メフィストの胸板に甘えるように寄り添うと、義兄から目を伏せる。
外の世界から彼女を隔離するように仕向けたグレーテルが、見知らぬ男と抱き合っているだけで、ヘンゼルは気が狂いそうになり、絶叫した。
「グレーテルから離れろ! お前は一体何者なんだ。なんの権利があって、穢らわしい手で僕の妹に触れる!」
ヘンゼルは、声を荒らげて言った。
「これはこれは、ずいぶんと威勢がよろしいですねぇ。勘違いなさっているようですが、この娘は最初から私の所有物です」
剣の柄に触れ叫ぶヘンゼルをよそ目に、メフィストは、グレーテルの顎を再び掴んだ。この黒衣の悪魔から与えられる、至高の快楽は、蜜のように甘く、抗えない。
義兄が見ている前で、メフィストはグレーテルに口付けると、口腔内を犯すように舌を絡ませた。腰が抜けそうなほど、快感に打ち震え、グレーテルは彼の背中に腕を回す。
唾液を絡ませる音と、グレーテルの甘い声、そしてメフィストの低い吐息がヘンゼルの心をズタズタに引き裂いた。
「はぁ……ん……メフィスト様……」
「あぁ……あぁ、そんな……そんな、嘘だ。僕のたんぽぽ姫が淫売婦のような真似事をするはずがない! お前は母さんとは違うだろ!」
ヘンゼルはその場に崩れ落ち、両手で頭を抱えた。ベルケル伯爵と知り合うまでザビーネは、何人もの上流階級の男相手に寝ていた。
教養と気品を兼ね備え、男達から恵んで貰った金で、豪邸を建てた母が浅ましく、恥ずかしく、獣のように善がる淫靡な姿を、ヘンゼルはじっと扉の隙間から盗見み、興奮していた。
————全ての女はあんなふうに淫らで穢らわしいのか。
グレーテルだけは違う、彼女だけは、無垢な存在だと思っていたのに。
「口の聞き方に気を付けなさい」
「くっ……ぁ」
地面にうずくまるヘンゼルの頭を、メフィストがブーツで踏みつけると首を傾げて言った。まるで強力な魔力に押さえつけられたかのように、顔を上げる事すら出来ない。そして剣は、見えない力で弾き飛ばされて、地面を滑る。
ヘンゼルは背中に冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。
「おやおや、ヘンゼル。嘘はいけませんね。私は何でも知っているのですよ。お前の本当の欲望も、グレーテルのために両親を殺した事も」
楽しそうに囁いたメフィストは、ようやく踏みつける足を退け、見えない力でヘンゼルの顔を上げさせた。
いつの間にかそこは、薔薇が咲き乱れる庭園ではなく、ワインレッドと黒で統一された寝室に様変わりしていた。
「なんだ、どうして……ここは?」
薔薇の装飾が施された燭台にボウッと炎が宿る。先程まで昼間だと思っていたのに、いつの間にか辺りは夜に様変わりしていた。
メフィストに背後から抱きしめられていたグレーテルの格好が、炎に彩られると、ヘンゼルは息を呑んだ。
「グレーテル……っ」
美しいドレスに身を纏っているが、乳房と陰部があらわになっている。
メフィストの掌に収まる、控えめで形の良い乳房も、無垢な陰裂も、息を呑むほど美しい。
レースのガーターを纏う柔らかな太腿は官能的で、ヘンゼルを欲情させた。
淫らで、美しく、清楚な淑女。
その言葉がぴったりと合う。
ヘンゼルは思わずうっとりとしてグレーテルに見惚れた。
(綺麗だ……愛してる……)
彼の体は、いつの間にか椅子に拘束され、目を逸らす事も許されない。
彼は恍惚としながらグレーテルを見た。
義妹は赤面しながら、メフィストの掌が、乳房を這うのに身を任せている。
「お前からもきちんと、お兄様にご報告なさい」
「ヘンゼルお兄様……ごめんなさい。はぁっ……はっ……私は、メフィスト様の花嫁になります……はぁっ……んっ……あっ……」
グレーテルは甘い吐息を吐きながら、そう言って柔らかく微笑んだ。
「ヘンゼル、これも貴方のためなのよ。貴方はいずれベルケル伯爵の嫡男として、クラム家を継ぐの。おかしな噂を立てられでもしたら大変だわ。安心して頂戴、グレーテルはミハエル教会で、一生面倒を見て頂けるのよ」
ザビーネは、ヘンゼルの顔色を伺うようにして息子に縋りつき、訴え掛けた。高級娼婦の息子として産まれたヘンゼルは、劣悪な環境の中でも、利口で手が掛からず、大人びていて分別のつく少年だった。
父親の分からないヘンゼルだったが、将来性のある息子を、ザビーネは溺愛し、彼が領主になる事を切望していた。
それと同時に、気に入った美しい蝶や鳥達に執着し、檻に閉じ込め、かいがいしく世話を焼き、亡骸を標本にして秘密の部屋で眺める、という遊びを繰り返す息子を、不気味に思って心配していた。
「お母様、グレーテルを決して外に出さないと、僕と約束しましたね?」
「し、仕方がないわ。お父様と決めた事ですもの。いくら血が繋がらないとはいえ、家族として、共に過ごした義妹なのよ。許されない事だわ」
「————分かりました、お母様」
ヘンゼルの金色の瞳は、冷たく鈍い光を放っていた。
母が、グレーテルにつらく当たっていた事を、ヘンゼルが見逃してきたのは、継母の虐めに打ちひしがれれば、唯一彼女にとって、信頼出来る存在になれるからだ。
ザビーネは、年々美しくなる若い娘に嫉妬していた。どこか前妻の面影を宿すグレーテルが、自分の自慢の息子を誘惑する、憎たらしい悪女に見えたのだろうと、ヘンゼルは思った。
(————ならば、もう利用価値はないな)
明確に、自分の邪魔になると判断したヘンゼルは、父母が寝酒として愛用していた、ワインに毒を仕込んだ。
母に愛情がない訳ではないが、グレーテルを自分から引き離すという、大罪を犯したのだから、死に値する。
使用人達は、二人の死を怪しんだが結局ヘンゼルの人柄もあり、心中として片付けられてしまった。
ヘンゼルは好青年で、内外共に評判も良く、使用人達からも、家族を殺すような残酷な人物とは、結びつかなかったからだ。
(全ての準備は揃った。後は、僕のたんぽぽ姫を取り戻すだけ。ああ! これでグレーテルを、僕の檻に永遠に閉じ込めてあげられる)
葬儀を終え、ベルケル伯爵として家督を継いだヘンゼルは、ミハエル教会に預けられた、最愛のグレーテルを迎えに行くべく、愛馬に跨った。
「お待ち下さい、ヘンゼル様。貴方様に話しておかねばならない事があるのです」
「お前は……御者のエドガーか。私は急いでいるんだ。大事な妹を迎えに行かねばならないのだよ。手短にしてくれ」
愛馬に跨るヘンゼルに、慌てた様子で近寄ってきたのは、御者のエドガーだった。
ベルケル伯爵が再婚する以前より、この城で働いている、寡黙な使用人だ。ヘンゼルは馬上の上から彼を見下ろすと、髭面の男は、恭しくヘンゼルを見上げる。
「グレーテルお嬢様は、ミハエル教会にはおられません。私は奥様のご命令で、グレーテルお嬢様を昏き森に連れて行き、そこで手に掛けるように申し付けられました。しかし、そのようなむごい事は、私には出来ませんでした」
御者はハンカチを取り出して開き、光る指輪を差し出す。間違いなくそれは、グレーテルの誕生日に、ヘンゼルが彼女に贈った物だった。
「グレーテルお嬢様を殺した証拠に、これを献上したのですが、褒美として頂いたのです」
それを奪い取ると、ヘンゼルは今まで使用人に見せた事のないような、厳しい表情で彼を睨みつ声を荒らげた。
「何故、それを早く私に告げなかった!」
「も、申し訳ございません。奥様に口止めをされていたのです。グレーテルお嬢様は昏き森を抜けて、先にある小さな村に辿り着いている事でしょう。ですが、あの森には……魔法使いに化けた、恐ろしい悪魔が住んでいるという噂です。どうかお気を付け下さい」
城から出た事がないグレーテルが、はたして昏き森を抜け、小さな村に辿りつけるだろうか。あれからもう数日は経っている。もし、森の中で迷子になってしまっていたら……。ヘンゼルは最悪な想像を振り払う。
御者に返事をする間もなく、彼は馬を走らせた。
(なんて事だ! 今頃グレーテルはさぞ恐ろしい思いをしているだろう。必ず、グレーテルは連れて帰らなくちゃ。僕のグレーテル、待っていて)
✤✤✤✤
ヘンゼルは愛馬と共に昏き森を駆け抜けていた。
この森は暗く鬱蒼としていて、魔物や狼達がいると噂されている。時には、犯罪者や流れ者の住処になっている場所もあるというから、グレーテルの身が心配である。
しかし、ヘンゼルは自分の腕に自信があったので、単独であっても愛する妹を取り返せると信じていた。
「あれは……?」
鬱蒼とした森の中で、ヘンゼルは七色に光る物を見つける。
馬から降りてそれを手に取ると、その石はどうやら、不思議な魔力を帯びているようで、内側から光っている。
ふと、ヘンゼルが視線を移すと、鬱蒼とした森の中で、この魔法の石は道標のように、点々と東に続いていた。
自然に転がった石というより、誰かが故意に落としていったという方が正しいだろう。
「ああ、これはきっとグレーテルが僕のために用意した印だ。そうだ……そうに違いない。この先に僕の大事なたんぽぽ姫がいるんだ!」
ヘンゼルは、少年のように目を輝かせて歓喜すると、自分の直感に従う事にした。
彼にとって、義妹のグレーテルと結婚し、夫婦になる事はもはや神に決められた運命だと確信していたし、二人の関係を邪魔する者など、現れるはずもないと思っていた。
早る気持を押さえ、愛馬の手綱を持つと、ヘンゼルはグレーテルの軌跡を辿る。
やがて石がなくなると、今度は泥濘にグレーテルと思わしき女性の、小さな靴跡を見つけ、それを頼りにヘンゼルは薄暗い森を進む。
(ふふふ。まるで鬼ごっこだな。あの頃を思い出す。僕は鬼になってグレーテルを捕まえ、叢に押し倒したんだ)
幼い少女の甘い笑顔を思い出した。
それから、蘇る彼女へのわずかな欲情も。
ヘンゼルは、あの頃からグレーテルを、自分だけの物にしたいと願っていた。
突然、開けた場所に出ると獅子に乗った乙女像の城門に、薔薇と荊棘に覆われた荘厳な古城が現れた。
「こんな所に城が……? そういえばあの御者はこの昏き森に、魔法使いに化けた悪魔がいると話していたな」
ヘンゼルは鼻で笑う。
知性の低い魔物と呼べるような化物や、魔獣とは戦った事はあるものの、どれも恐れるに値しない個体ばかりだった。
悪魔という上位魔族の存在に、いまだかつて彼も周りの人間も出逢った事はなく、そんなものはただの迷信だと思っていた。
せいぜい、悪魔を名乗って人を惑わし、詐欺師のような悪知恵の働く魔法使いが、この森に住んでいるのだろうと考えた。
「グレーテルは、この城へ向かったのだろうか……? 下手にあの危険な森を彷徨うより、安全だろうけど」
荊棘の城は、薔薇に覆われていて、全く人の気配を感じないが、隅々まで管理されているように見えた。城門を潜ろうとすると、愛馬は怯えてこの先を歩く事を、拒否するように踏ん張る。
ヘンゼルは、仕方なく城門の前で愛馬を待たせる事にした。
「誰もいないのか? 不気味な城だな」
ヘンゼルは嫌な胸騒ぎがした。
一羽のカラスが、侵入者を監視するようにじっとこちらを見ている。この怪しい城にグレーテルが迷い込んでしまったのなら、一刻も早く救い出さなければならない。
そもそも、いくら鬱蒼とした昏き森とはいえ、こんな大きな古城が貴族社会で噂にならない事の方が、おかしいのだ。
本能的にそう感じたヘンゼルは、覚悟を決めて足を踏み入れる。
「失礼いたします。どなたかいらっしゃいませんか! 私は、ヘンゼル・クラム・フォン・ベルケルと申します。昏き森でいなくなった私の妹を探しているのですが」
大声を出しても執事はおろか、メイドさえも、来客に気付いて出て来る様子はない。
それとも住人がいると思ったのは、ヘンゼルの思い込みだろうか。
彼は、仕方なく無人の城を歩き回る。
「グレーテル、ここにいるのかい。いるなら返事をしてくれ!」
不意に、どこからかクスクスと聞き覚えのある愛らしい娘の笑い声が聞こえた。ヘンゼルはそれを頼りに、薔薇の庭園に出る。
見た事もない不思議な蒼い薔薇や、赤薔薇、白薔薇が咲き乱れる庭園は高貴な香りがする。
その中で誰かが立っていた。
高貴な純白のドレスを纏った黄金の髪を揺らすグレーテルは、薔薇の花に触れながら、楽しそうに笑っていた。
まるで誰かと会話でもしているように声を潜め、耳打ちしている。
「グレーテル!」
突然、名前を呼ばれたグレーテルは驚いて振り返ると、愛らしく首を傾げて笑った。その無垢な瑠璃色の瞳は、どこか憂いを秘めていて、ぞっとするほど艶やかだ。
「ヘンゼルお兄様?」
しかし、そんな事はお構いなしに、ヘンゼルは満面の笑みを浮かべて、両手を広げる。
彼の黄金の瞳は、以前よりも狂気の色を宿しており、優しい笑顔を彼女に向けながら、近付いて行く。
「グレーテル、もう大丈夫だ、なんの心配もない。僕と一緒に城に帰ろう。僕達の愛を引き裂こうとする、お母様や、お父様はもういないんだよ。僕らの城で、二人で永遠に幸せに暮らそう。僕とお前で家族を作るんだ!」
「お父様もお母様も……お城からいなくなってしまったの?」
「残念だがあれから、二人共流行り病に掛かってしまってね。あっという間に亡くなってしまったんだよ。でも、心配する事はない。今は僕がベルケル伯爵だ。ああ、そうだ。グレーテルを虐めていた使用人も、僕が全員排除したんだ」
ヘンゼルの微笑みに嘘はなく、両親が亡くなった事は、本当なのだろう。あまりのショックに、グレーテルは目が覚めたように絶句して涙を流す。
しかし、流行り病の話など初耳であるし、こんな短期間で、両親が相次いで急死するなんて、グレーテルにはとても信じられなかった。
なにより、両親が死んだばかりだと言うのに、ヘンゼルは輝く太陽のように、キラキラとした美しい笑みを浮かべている。
「グレーテル、どうして泣いているんだい?」
歩み寄ったヘンゼルが、グレーテルの手首を掴もうとした瞬間、彼女はそれを避けるように、自分の胸元に両手を引き寄せた。
そして、震える声を絞り出す。
「ヘンゼルお兄様、どうしてここに来たの。貴方は、来るべきじゃなかったわ。だって私は—————」
思わぬグレーテルの拒絶の言葉に、ヘンゼルが目を見開く。周囲が無音になり瞬きした瞬間、彼女の背後に、黒衣を纏った端正な男が立っている。
彼は、背後からグレーテルの肩に触れ、もう片方の手で彼女の顎を掴むと、挑発的にヘンゼルを見て微笑む。
「そう、彼女は私の花嫁なのです。ようこそ、ベルケル伯爵。お待ちしておりましたよ」
ググ、と男の顔が近寄るとヘンゼルは目の前の光景が信じられず、呻きながら二、三歩後退する。
この男から放たれる異様な威圧感に、ヘンゼルは怯んだ。グレーテルは、メフィストの胸板に甘えるように寄り添うと、義兄から目を伏せる。
外の世界から彼女を隔離するように仕向けたグレーテルが、見知らぬ男と抱き合っているだけで、ヘンゼルは気が狂いそうになり、絶叫した。
「グレーテルから離れろ! お前は一体何者なんだ。なんの権利があって、穢らわしい手で僕の妹に触れる!」
ヘンゼルは、声を荒らげて言った。
「これはこれは、ずいぶんと威勢がよろしいですねぇ。勘違いなさっているようですが、この娘は最初から私の所有物です」
剣の柄に触れ叫ぶヘンゼルをよそ目に、メフィストは、グレーテルの顎を再び掴んだ。この黒衣の悪魔から与えられる、至高の快楽は、蜜のように甘く、抗えない。
義兄が見ている前で、メフィストはグレーテルに口付けると、口腔内を犯すように舌を絡ませた。腰が抜けそうなほど、快感に打ち震え、グレーテルは彼の背中に腕を回す。
唾液を絡ませる音と、グレーテルの甘い声、そしてメフィストの低い吐息がヘンゼルの心をズタズタに引き裂いた。
「はぁ……ん……メフィスト様……」
「あぁ……あぁ、そんな……そんな、嘘だ。僕のたんぽぽ姫が淫売婦のような真似事をするはずがない! お前は母さんとは違うだろ!」
ヘンゼルはその場に崩れ落ち、両手で頭を抱えた。ベルケル伯爵と知り合うまでザビーネは、何人もの上流階級の男相手に寝ていた。
教養と気品を兼ね備え、男達から恵んで貰った金で、豪邸を建てた母が浅ましく、恥ずかしく、獣のように善がる淫靡な姿を、ヘンゼルはじっと扉の隙間から盗見み、興奮していた。
————全ての女はあんなふうに淫らで穢らわしいのか。
グレーテルだけは違う、彼女だけは、無垢な存在だと思っていたのに。
「口の聞き方に気を付けなさい」
「くっ……ぁ」
地面にうずくまるヘンゼルの頭を、メフィストがブーツで踏みつけると首を傾げて言った。まるで強力な魔力に押さえつけられたかのように、顔を上げる事すら出来ない。そして剣は、見えない力で弾き飛ばされて、地面を滑る。
ヘンゼルは背中に冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。
「おやおや、ヘンゼル。嘘はいけませんね。私は何でも知っているのですよ。お前の本当の欲望も、グレーテルのために両親を殺した事も」
楽しそうに囁いたメフィストは、ようやく踏みつける足を退け、見えない力でヘンゼルの顔を上げさせた。
いつの間にかそこは、薔薇が咲き乱れる庭園ではなく、ワインレッドと黒で統一された寝室に様変わりしていた。
「なんだ、どうして……ここは?」
薔薇の装飾が施された燭台にボウッと炎が宿る。先程まで昼間だと思っていたのに、いつの間にか辺りは夜に様変わりしていた。
メフィストに背後から抱きしめられていたグレーテルの格好が、炎に彩られると、ヘンゼルは息を呑んだ。
「グレーテル……っ」
美しいドレスに身を纏っているが、乳房と陰部があらわになっている。
メフィストの掌に収まる、控えめで形の良い乳房も、無垢な陰裂も、息を呑むほど美しい。
レースのガーターを纏う柔らかな太腿は官能的で、ヘンゼルを欲情させた。
淫らで、美しく、清楚な淑女。
その言葉がぴったりと合う。
ヘンゼルは思わずうっとりとしてグレーテルに見惚れた。
(綺麗だ……愛してる……)
彼の体は、いつの間にか椅子に拘束され、目を逸らす事も許されない。
彼は恍惚としながらグレーテルを見た。
義妹は赤面しながら、メフィストの掌が、乳房を這うのに身を任せている。
「お前からもきちんと、お兄様にご報告なさい」
「ヘンゼルお兄様……ごめんなさい。はぁっ……はっ……私は、メフィスト様の花嫁になります……はぁっ……んっ……あっ……」
グレーテルは甘い吐息を吐きながら、そう言って柔らかく微笑んだ。
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