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第六話 回想―一也・前編―

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 妃咲宅が燃え、地方官をしていた父上と母上は焼け死んだ。
 火事によって屋敷と財産を失った私は、国庫から特別に援助を受ける事となる。
 私は3カ国の言語を習得、陸軍士官学校を出て歩兵連帯に所属し、日露戦争でも活躍した経緯けいいもあるが、薫が帝国の為に秘密裏ひみつりに仕事をしている事もあげられるだろう。
 そして、この私もその一端いったんを担っている。
 ――――ここは有楽町にある日比谷赤煉瓦庁舎ひびやあかれんがちょうしゃ。内務省管轄かんかつの警視庁になる。


「妃咲くん、災難だったな。正直、君もあの火事で命を落としたのではないかと思っていたが、助かって良かったよ。ご葬儀はどうするのかね」
「叔母が喪主になるでしょう。実質、私はあの火事で死んだ事になっておりますので」


 ひげを蓄えた貫禄かんろくのある男、警視総監だ。軍人の格好をした私を満足気に見ると笑って頷いた。
 不謹慎ふきんしんにも思えるが、政府にとって私たちが死んだ事になっている方が、彼らにとっては都合つごうが良い。
 
「――――今夜の仕事はくれぐれも抜かりないように頼むと薫くんに伝えてくれるかね。そう言えば鷹司たかつかさ氏の細君さいくんが、君たちの叔母だそうだな。火事現場から、君たちの遺体が見つからず血眼ちまなこになって探しているようだ、気を付けたまえ」
「――――まだ、諦めておりませんか。往生際おうじょうぎわの悪い人なのです」

 叔母の梅子うめこは、華族の家に嫁いだ。実業家の娘が華族と結婚すると言うのはあまり無いが、後ろ盾があるという事は、華族の生活を安定させることができる。
 義理の叔父は貴族院の議員で、東京に在住していた。
 火事で両親と甥を失い、事実上妃咲家は滅びたようなものだが、叔母はそれを信じていないのだろう。
 ――――執念深い女だからな。

 メアリーを心配させないためにも、私は妃咲家の長男として家督をついたと嘘をついた。政府によりこれからの新生活は今より保証されるだろうが、私たちの仕事への関心を抱かせないためである。
 鹿鳴館ろくめいかん……華族会館へと向かうと告げたのも偽りだ。

 叔母の梅子は、私が士官学校の寮生となるまで肉体関係を迫ってきた。
 年齢のわりには若作りで、美醜でいえば整った造形をしている女だ。
 あの女との関係は穢れた快楽と共に昔から抗えぬ威圧感をともなっていて私たちの神経が、次々と死んでいくようなおぞましさを感じていた。
 私は、叔母の呪縛から逃れるように帝国軍人として道を歩む事を選ぶ。
 そんな叔母が、何を思ったのか日露戦争が終わり、七年が経とうとした頃娘の小春こはるとの縁談を父上に持ちかけてたのだ。


 従兄妹の小春はようやく十八となり、メアリーと同い年になる。


 派手な梅子とは異なり、いとこの小春は大和撫子やまとなでしこで、私を慕っていたようだが、梅子の思惑おもわくを考えると今でも吐き気がする。
 娘を嫁がせ、私との関係修復を迫ろうと言うのだろう。
 おそらく純粋に娘の幸せを望んでいるのではあるまい、煮えたぎるような女の欲をあの肉の塊の中で持て余しているのだ。

「美人だが、気の強そうな細君だったな。では、横浜の邸の事は任せておいてくれたまえ、綾斗あやとくん」
「――――私の名は、一也だ」

 私がそう言った瞬間、パキパキと乾いた音がして、テーブルに置いてあったグラスにヒビが入り硝子の破片がハラリと剥がれ落ちた。その様子を見ると、警視総監は青ざめるようにして額の汗をハンカチーフで拭う。

「す、すまん。まだ君たちを見分けられないのだ。妃咲くんで統一するべきであるな」
「我々に気遣いは無用です。妃咲と呼んでいただければ」

 私は謝罪する警視総監を無視して部屋から出た。
 よりにもよって書生と間違えるとはな。
 あの男は私たちを化け物だと思い、恐れているのだ。

『ふふふ……やっぱり貴方は帝国軍人の制服がよく似合うわ』

 家長の期待に答えるように私は帝国陸軍の軍人として日本男児として、使命を果たす。
 絡みつくような女の声と肩に触れる指先、南蛮崩れの化粧。あの頃になると和装から洋服に変わって、まるで西洋の魔女のようだった。
 鼻にこびりついたスミレの香水の匂いを思い出して、私は壁に手を付き口元を抑えた。
 座り込みそうになるのを、必死にメアリーの柔らかな肌の香りを思い出して壊れそうな自我を保とうとする。
 私は汚れている。
 吐き気がするほど醜い。
 発作を起こすように叔母を何度も思い出し、あの女や遊女をよがらせることで、おぞましい支配欲を満たしていた。
 メアリー、お前は私が汚れていても愛していると口にするか?
 ああ、知っているさ。
 お前は優しい書生を好いているのだろう。
 私は人の愛し方など知らないが、初めて見た時から私にとってお前は特別だった。
 だから、書生がお前を奪う前に私が――――。


✤✤✤

『書生さん。このご本とても面白かったよ。こんな不思議な事って本当にあるのかしら? 私のお部屋にも来てくれないかなぁ』

 妖精が出てくる物語を、メアリーは現実の話だと信じていた。外の世界から断絶された少女は、架空の物語だけが彼女の生きる世界。
 書生は、実に上手く無垢な魂を手懐けこの箱庭の中で作り上げていたのだ。
 書生の、メアリーに対する執着は私たち以上だと感じる。
 相変わらず、小鳥のような綺麗な声と綺麗な青い瞳は澄んで輝いていた。
 自分の容姿も、まともに見たことが無いだろうが、目の色と髪の色が女中たちと異なることは理解しているようだった。
 だが、彼女はそれを差別された事も非難された事もまだない。
 メアリーを世話する女たちは、座敷牢に異国の少女が監禁されている事を、生涯口外することを禁止する代わりに、通常より多額の金を受け取っていたのでかいがいしく世話をしていたようだ。
 何不自由なく籠の中の鳥でいたのだろう。

『メアリーが良い子にしていたら、来てくれるかも知れないよ。こんどはどんな本がいいの』
『んー………。動物が出てくるご本がいいな』
『そう、分かったよ。何冊か見繕みつくろってあげる。ねぇ、メアリー……僕のこと、好き?』
『? うん、好き。書生さん好き』

 書生はそう言うと、格子越しにメアリーの指先に触れた。その瞬間、ようやく実った無垢な果実を書生がもぎ取ろうとしている事を感じて私は焦った。
 私はずっと、書生越しにメアリーを見て何度も触れてみたいと思っていたからだ。書生や薫がメアリーを手に入れる前に、私の手でこの果実をもぎ取り穢してしまえば良い。
 醜い私のもとに堕ちてもお前は、私とは異なり無垢なままなのだろうか。
 分からない。
 だが私はそのような方法でしか、お前を愛する事が出来ないのだ。

『……だぁれ? 書生さん?』

 中秋の名月を見上げ出ていたメアリーは、人の気配を感じて肩越しに私を振り返った。
 僅かな灯りに照らされた彼女は、ラプンツェルのようだった。軍服姿の自分を不思議そうに見つめている。
 夜分に男が訪れれば、世間の婦女子たちはみんな警戒するだろうが、メアリーは子供の時以来まともに異性を見たことが無い。
 父上も当然この場所には近寄らず、書生だけが異性だった。
 生涯ここで生活し限られた人間としか接することを許されなかったメアリーにとって、私の訪問は珍しく、またその時は喜ばしいものだったかも知れない。
 私は鍵を開けると、座敷牢の中へと入る。

『――――私の名は一也だ、メアリー』
『かずや……? 私を知っているの?』

 足を崩したメアリーが不思議そうに首を傾げて私を見上げた。青空のような蒼玉サファイアの澄んだ瞳の前で跪くと、小さな顎を掴んで引き寄せる。

『一也様と呼べ。私は妃咲家の長男だ』
『んっ……んんっ……??』

 唇に触れ、不思議そうに見つめるメアリーに私は唇を這わせた。何が起こったかわからず目を見開くメアリーの呼吸を奪うように口付けると、舌を挿入した。
 愛らしい甘い悲鳴に、私は初めて心の底から欲情する。
 混乱し、両手で胸板を押そうとするメアリーの手首を拘束すると、銀糸を引きながら唇を離した。
 突然押し入ってきた男に口付けをされたのだから、恐怖で混乱するのも無理はない。メアリーは不安そうに私を見ている。

『はぁっ……はぁっ、苦しい……なぁに? 一也様』
『――――接吻せっぷんだ。お前の国の言葉ではキスか。メアリー……お前は私のものだ。私が女のイロハを叩き込んでやろう。心配するな書生には内緒で、少しずつ慣らしてやる』
『書生さんを知ってるの?』

 その問いには答えなかった。
 メアリーを抱き寄せ、布団に押し倒すとそれでもまだ不思議そうに綺麗な、球体関節人形ビスクドールのように大きな瞳で私を見ている。
 私は再び、メアリーの瑞々しく柔らかな苺の唇に触れ、角度を変えながら舌を絡めた。ちゅく、と舌が馴れ合う淫らな音が響いて、メアリーの呼吸が乱れる。
 拙い舌先を導き、口腔内を荒らすと頬がほんのりと桜色に染まった。

『はぁ、んっ、ゃ、これ、んんっ、はふっ……んーっ……』
『はぁっ……私に任せておけ。抵抗すればするほど苦しくなるぞ』

 舌を離して、接吻で涙ぐんだメアリーに再び唇を重ねた。柔らかな舌先を絡め取り徐々にゆっくりとほだすように愛撫すると、押し退ける力もなくなったメアリーが肩にしがみつく。
 ようやく、口付けから開放すると初めての事に切なく眉を下げて呼吸を乱しているメアリーの頬を手の甲で撫でた。


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