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第四話 玉響の楽園―書生・前編―

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 ぐずぐずのヘドロのような黒い水溜りの中から、肉絨毯にくじゅうたんのような女が生まれる。見慣れたような部屋、けれど全ての家具や壁がぐにゃぐにゃと歪んで距離感がつかめない。
 ひさし髪に高価な着物を着付けた巨大な女は自分を覗き込むようにしてこう話しかけてきた。

『あなた、ヤッパリ兄さんの幼い時にそっくりね。ウフフフ、本当に勤勉デ優秀デ美男子……妃咲家の立派な跡継ぎになるワ。叔母サンが、貴方を立派な男子にしてあげるワネ』

 女の目が淫靡な色をして、股間をまさぐると押し倒し大きな裂けた口でピクリとも反応しないそれを舐めた。おぞましい行為が終わって女が同じように強要する。
 従わなければ罵られ、殴られた。
 いつの間にか卑猥ひわいで穢れた肉人形がズブズブと溶けると背後から別の女の囁きが聞こえた。

『坊ちゃんもやっぱり男子なんですネ。梅子サマはお綺麗デスカラ仕方ないデスワ。興味があるんですネ。ンフフ、イイんですよほら私のを触っても』

 厚化粧の芸者上がりの年増女が、手を掴むと肉絨毯の奥にある穴へと指を導くと喉の奥から悲鳴が上がった。獣のような匂いと快楽に反応する異常な艷声に吐き気がして、胃液があがってくるのを感じた。
 自分の体を支配する抗えない快楽と、嫌悪感に頭の中がぐるぐるとかき混ぜられるようだ。


 ――――やめて。やめてよ!
 ――――やめろ、やめてくれ。
 ――――穢らわしい売女ばいため!


 その瞬間、女中の着物に火がついたかと思うとあっと言う間に火だるまになる。
 やがて場面は移り変わり、目の前に広がる『妃咲家』の屋敷が、炎の龍に飲まれるかのように硝子を突き破って屋根まで炎上する。
 これはあの日の光景だ、メアリーと引き離そうとした罰だ。
 残念な事に今日は叔母はいなかったが、女中も父上も母上も浄化の炎に焼かれている。


 ――――穢らわしい。
 ――――全部燃えろ、燃えろ!


「一也様、大丈夫?」

 あどけない鈴音のような声が聞こえ、瞼を開けると思わずメアリーの手首を握った。着物は来ておらず、陶磁器のような白い肌が浮び上がっていた。
 白桃のような胸元に『一也』と『薫』が付けた口付けの痕がついている。魘されていたのを心配するように、覗き込む美しい硝子玉のような青い澄んだ瞳に引き寄せられるようにして、僕は名を呼んだ。

「メアリー……メアリーだよね……僕は、書生だよ」
「書生……さん?」

 メアリーはとても驚いた様子で僕を見た。
 実を言うと座敷牢から彼女を連れ出したのは、僕を真似た薫だったのでこうして対面するのは初めてだ。
 あの日、薫は奥様と旦那様そして女中の一人を『発火』させて殺害し、屋敷を燃やした。
 週に一度、僕は目が覚めてメアリーが好む本を届けてあげるのが日課になっている。
 メアリーは僕が書生だと名乗ると、とても嬉しそうに、恥ずかしそうにシーツを胸元に寄せいじらしい姿を見せた。

「恥ずかしいの?」
「ん、その……書生さんはこれからアレをするの?」
「あれ……て? ああ、いや……朝ごはんを食べて散歩しよう。昼間には一也が、夜は多分薫の仕事があると思うから」

 優しくメアリーに言うと、頬を染めてこくんと頷いた。まるで少女の球体関節人形のようなメアリーは着物も満足に一人では着れないようで、着付けてあげると澄んだ声で礼を言った。
 世話役の女中が、メアリーの身の回りの世話を何から何までしていたのだろう。
 僕も和装に着替えると、ルームサービスを頼むことにする。

「書生さん……さっき、怖い夢をみていたの? 私も時々見るんだよ、とてもうなされてたから心配したの。大丈夫?」
「メアリーは優しいね。もう、過ぎた事だから君が心配する事はないよ」

 僕の言う事に、メアリーは素直にうなずくと食事を取り始めた。外交の為に訪れる異国人のために洋食が主だが、僕とメアリーは和食に慣れているので大根の味噌汁に浅草海苔あさくさのりを用意して貰った。
 座敷牢越しではなく、初めて落ち着いて対面して話をするので、少し緊張した様子だったがメアリーは嬉しそうに読んだ本の話題を振ってくる。
 僕はふと、大連ダイレンに行くことは二人に拒否されたが、異国人が住む横浜ならば彼女にとっても悪い環境では無いだろうと思った。

「横浜に行く前に、帝国図書館に行ってみようか。メアリーが想像する以上に沢山の本があそこにはあるらしいから、一日中読んでみたいだろ?」
「沢山の本があるの? 読みたいっっ」

 朗らかに微笑むメアリーは愛らしく、なんの曇もなく無垢で純粋な喜びを僕に伝える。今まで座敷牢で移り変わる季節を眺め、本を読むだけの生活だったのだから、少しはまともな事をさせてやりたい。 


 ――――あくまで、僕の手の届く範囲はんいで。


 食事を終えると、僕とメアリーは帝国ホテルの桜並木を見ながらゆっくりと散歩する。
 着物を着ている西洋人は珍しいが、表立って指をさすような人間は当然ながらここにはいない。
 僕が先頭を歩き、メアリーが遅れて歩くと強い風が吹いて、彼女を振り返った。
 綺麗な金色こんじきのくせ毛が風になびき、桜の花びらがひらひらと舞いメアリーの髪に止まると、ゆっくりとそれを取ってあげる。
 はにかむように頬を染めたメアリーを抱き寄せると、不良のように彼女の唇を奪った。
 こんな如何いかがわしい事をすれば、家族ともども常識知らずと陰口を叩かれるだろがもう叔母以外の家族はあの火事で死亡している。
 ふしだらな男と思われても構いやしない。
 唇を離すと、メアリーは恥ずかしそうに頬を染めた。世間知らずでも口吸いや性交は座敷牢や、室内でのみ許された行為であるという事を本能的に悟っているのかも知れない。

「んっ……? お外でしたら、だめなんだよ」
「ごめんね、メアリー。あんまり君が愛らしいから、まるで不良のような真似事まねごとをしてしまったよ」
「う、うん。……ねぇ、書生さん。書生さんのお名前は何ていうの?」

 躊躇ためらいがちに、僕に聞くメアリーを見つめにっこりと微笑むと、少し残念そうにして耳元で答えた。

「――――僕の名前はね、言えないんだ。いつかメアリーが知る時が来るかも知れないけれど、僕のことはその時まで『書生』さんと呼んで欲しい」
「え……? それってどう言う意味なの?」
内緒ないしょ

 硝子玉のような青い目を何度も瞬きさせて、メアリーは不思議そうな表情をした後に頬を膨らませた。メアリーの頬に触れると、昨晩の一也との『情交じょうこう』が目の前に浮かび上がる。

 ――――いつの頃からか『僕達』にはそれぞれ超心理的な能力が備わっていた。

 明治に、御船千鶴子みふねちづこという女性が千里眼せんりがんを持つということで福来友吉ふくらいともきち博士に紹介された事があったが、僕は透視能力というより人や物から記憶を辿る事が出来る。

「書生さん……どうしたの?」
「そろそろ、ホテルに戻ろうかメアリー」

 僕は彼らの意識を共有している部分もあるが、細部はこの記憶を読み取る力で補っている事が多い。
 だからこそ、情けない事に僕は彼らに嫉妬していたのだ。
 長い間、座敷牢越しに雑談し本をやり取りしていたのに、僕はあの綺麗な華に触れることすら叶わなかったのだから。
 本当は、このまま穏やかに話を終えて愉しく過ごすつもりだったのだが、また深い眠りに付く前に彼女と結ばれたいと願ってしまった。
 だけど、薫や一也のようにメアリーに無理をさせたくないと思っている。

 仮初かりそめの自由を手に入れた小鳥が鳥籠とりかごに戻るように、ホテルに帰ると僕はメアリーを優しく抱き寄せた。
 突然の事で驚いた彼女は僕の腕の中でそのまま不思議そうに頬を染めていたが、額に口付けそのまま唇に落ちると、抵抗する様子もなく僕の背中の着物を握りしめる。

「んっ……んんっ……はぁっ……んっ、んぅ……書生さ……」

 苺色の可愛い隙間から舌を差し入れ、絡めるとメアリーは甘い吐息を漏らした。ずっと触れたかった柔らかな瑞々しい唇は甘く、温かい舌の感触が僕の脳を刺激する。
 酸素を求めるように角度を変えると、唾液を絡ませてようやく唇を離した。呼吸を乱したメアリーの口端に垂れた銀糸を指の腹で拭うと言う。

「メアリー、僕は君の事を好いている」
「っ、わ、私も書生さんが優しくて好き」
「君にもっときちんと教えてあげないといけないな……薫も一也も強引だからね」
「アレ、するの? 書生さん、朝からなんて恥ずかしい」
「まぐわい、だよメアリー。僕は起きていられる時間は限られているから……君の存在を他の誰でものない『自分の記憶』として刻みつけておきたいんだ」

 メアリーは『まぐわい』という言葉を初めて聞いたようで何度も繰り返していた。彼女はおそらく自分の体の仕組みについても良く理解していない。
 知っているとすれば『月のもの』が月に一度来るというくらいだろう。
 メアリーの首筋をおもむろに指で撫で口付けの痕に触れると、その動きに感じるように体を震わせ吐息を漏らした。
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