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十七話 無名の小説家①

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 悪樓の屋敷に戻ると、八重が風呂を沸かし、妙子が布団を敷いてくれていた。彼女の話によると、小嶌神楽が行われた夜は、決まって悪樓が夜分遅くに出て行くという。
 なにがあるのかと、美雨が妙子に訪ねてみると『きっと、今夜に限っては美雨様との婚礼の準備でしょう』と笑って答えられた。
 一般的に中学生くらいの女の子が、夜の大人の行動を、把握している方が珍しいと思うが、なんとなく美雨は、彼女にはぐらかされたような気がする。

「美雨様。お茶か、お冷が必要になりましたら、お婆ちゃんか、私を呼んで下さいね」
「ありがとう、妙子ちゃん。でも、もう21時になったら、私のことは気にせず休んでくれていいからね」

 お嬢様のような扱いをされるのに、まったく慣れていない美雨は、あまり遅い時間まで彼女に働いて貰うのが申し訳なくて、そう伝えた。
 蛇口さえひねれば、綺麗な水は出てくるのだから、自分一人でなんとかなる。美雨の労いの言葉に彼女は少しはにかんだように可愛らしく微笑むと、畳に三つ指をついて、深々と頭を下げた。

「悪樓さん、今日は帰ってこないのかな」

 寝る時には一緒に居てほしい、なんてまるで子供のようだと美雨は思う。けれど長身の悪樓に寄り添って布団に入ると、彼の体はひんやりとしているのに、心から安心して眠れる。悪樓のゆっくりとした心音は、海の中にいるようで、いつまでも聞いていたくなる。
 できれば早く帰ってきて欲しい、美雨はそんなことを考えながら『水底から君に愛をこめて花束を』という、小説のページを改めて開いた。作者は萩原薫はぎわらかおるという人で、文体は少しばかり小難しい。

「大正時代の人なんだ。冒頭を読むと、やっぱりこの島のことみたい」

 冒頭は、とある島の伝承から始まる。
 岡山県南部に、瀬戸内海に面して吉備の穴海と呼ばれていた場所があった。そこは幻の海と言われ、本土とその当時の児島半島を繋ぐ朝海だった。今はもう干拓地になっていて、その辺りは岡山平野と呼ばれている。

『昔々、この吉備の穴海に恐ろしい怪魚が住んでいた。それは悪樓あくると呼ばれ、人々から恐れられていた。私も、そのような我が国の伝説を、面白おかしく研究していた身であるが、思うに悪樓に関しては東夷あずまえびすのような、先住民の王族だったように思う。日本書紀では、皇族の日本武命ヤマトタケルノミコト熊襲征伐くまそとうばつの帰りに悪樓と戦ったと書かれていた。つまり彼は、おそらく最後まで大和朝廷に逆らった者で、八百万の神には仲間入りを拒まれた『まつろわぬ神』なのだ。そしていつのまにか、悪神と恐れられる存在として伝えられたのだ』

 その文面を目で追うと、美雨は心臓が高鳴っていくのを感じた。出てくる言葉は難しいけれど、簡単にいえば、悪樓は時の政府と皇族に逆らった、この地に住んでいた王族だと言うことになる。
 最後まで大和朝廷に屈しなかった悪樓は、神社で祀られず、祟り神や悪神だと言われて、恐れられてしまうようになった。それとも、日本書紀に記されたように、彼は本当は船を飲み込む恐ろしい魔物だったのだろうか。

「悪樓さんと同じ名前なんて、絶対偶然じゃないよね。悪樓さんは本当は神様……なの? でも、悪い神様なんかじゃない。だって、あんなに優しいもの」

 そう呟き、萩原薫の著書を読み続ける。この主人公の『私』は、どうも彼自身のようにも思える。リアリティのある部分を含めて、自伝のようにも読めたが、本当のところは分からない。
 この物語に登場する『私』は汽船きせんで彼岸入りをする日に、岡山方面を旅していて酷い嵐にあった。そして彼が目を覚ますと、不思議な島に流れ着いていた。
 その島はかつては地図に存在し、今は消えてしまった幻の島。自然豊かでどこか現実離れしていて、まるで神々が棲むような美しい場所だ。

『不思議な島民たちだ。人はいいがモダンじゃあない。田舎特有の『夜這い』の文化もある。島民たちは外から、私のような人がやってくると淫習を行う。これはよその人間を神として扱う、マレビト信仰から来ているのだろう。私は、彼らにもてなされ、睦み合った。閉鎖された島では、近親交配で血が濃くなるものだ。私には妻も子もいたが、もうこの島から出られないと腹を括り、女を抱いた』

 そして『私』が、この島の出来事、発展、日常を日記のように記しながら、村人たちと暖かな交流をする様子が書かれていた。
 この物語の主人公は、恋愛に関しては軽薄さを感じたけれど、性格は明るい。作風としては、大正時代にありがちな、作家自身の恋愛を描いたインモラルさがある。
 そんな中で物語は、この島の網元である美青年と『私』との交流が描かれていた。彼への神秘性や親しみやすさや、信頼関係などが綴られていた。

「この主人公、この島で色んな人と恋に落ちてるなぁ。最後は誰に落ち着くんだろ。網元の美青年は、すごく悪樓さんの雰囲気に似てる。他の村人たちより親しくて……親友なんだ」
『島の女たちは美しく、天真爛漫な女から艶やかな女に至るまで、私を飽きさせなかった。まるでここは恋の楽園島かしら。けれども私は、次第に彼と過ごす時間の方が長くなっていた。断っておくが、私は男色家ではない。彼は竹馬の友である。彼との時間は女と過ごすより、あっという間に過ぎていく』

 不思議な小嶌を舞台にした、恋愛小説と思っていたが、網元の美青年と『私』が親しくなっていくにつれて、強く惹かれ島の歴史や彼についての謎が紐解かれていき、耽美小説にも思えてきた。

『この島に辿り着く前に、彼岸入りには船を出すなと言われた。穴戸神、つまり悪樓が海に現れて連れて行かれ、戻ってこれなくなるという迷信があったからだ。実際には、海に飲まれてここに辿り着いた人間たちは、網元の青年に助けられ、共に生きているのだ。それもいい、外の世界は戦争の足音がしていた。時が止まったような世界は、私のような物書きや、忘れ去られた人々の安住の地だ』

 美雨は、食い入るように読み進めた。間違いなく網元の美青年は、過去の悪樓なのだろう。飾らない二人の会話を読むたびに、知らない彼の姿を垣間見ることが出来て嬉しい。
 萩原薫から見た悪樓は、美雨には新鮮だった。

『彼から不思議な話を聞いた。魚が採れなくなると、本土の人間たちは海に棲む穴戸神のために贄として花嫁を鎮める。その多くは海に飲まれて死ぬ運命にあるが、もう何百年も前のこと。偶然、彼岸入りの日に一人の美しい姫君が贄にされた。なぜ彼女が選ばれたのか理由は分からないが。花嫁衣装を来た彼女が、船に乗せられやってきたという』

 その一行を読んだ瞬間、あの神楽殿で見た自分そっくりの女性が頭に浮かび、まるで映像を見ているかのように過去へと場面が切り替わった。
 穏やかな凪の夜の海、大きな満月。波の音に琵琶法師の悲しい旋律。先頭の船にはうなだれた黒髪の美しい姫君と、船頭、そしてお付きの武士がついていた。
 彼女の周りには三そうの船が居て、それぞれ松明を持った、沈痛な面持ちをした武士や船頭、琵琶法師が乗っている。


 ――――お許し下され。姫君。
 ――――このまま尼寺へと向かい、貴女様を逃がすつもりでした。
 ――――いいえ。もう決まったこと。民の為ならば恐ろしくはありません。けれど、せめて妾の首を持って帰って、お寺で供養して頂きたいのです。

 入水するのが恐ろしい。化物に喰われるのはもっと恐ろしい。
 ひと思いに首を斬って、せめて首は持ち帰り、海に体を沈めて欲しいと懇願する姫君に、共に船に乗っていた武士の一人が彼女に刀を持って近付いた瞬間。静かだった海が急に荒れ、波が大きく下から三艘の船を突き上げたかと思うと、姫君の周りにいた船が転覆した。
 突然のことで、刀を持って立っていた武士も船頭も、悲鳴を上げる間もなく、大海原に体を投げ出されて、波に飲まれていく。
 悲鳴を上げ、目を瞑り、船にしがみついていた姫君だったが、気が付けばいつのまにか海は元の静かな海に戻っていた。何かが水面から顔を出す音がして、姫君が目を開けると、穏やかな声がした。

 ――――華姫。贄に選ばれた哀れな娘か。
 ――――貴方様は……?
 ――――私は、穴戸神。悪樓とも呼ばれる。

 月光で光る銀の髪が海の中を漂い、先端は赤いヒレのように揺れている。まるで人魚のように船に手を掛けると、水に濡れた透き通るような白い裸体を見せた悪樓が、姫君を見ていた。
 彼女は、怯える様子もなくじっと美しい悪樓を見つめていた。いつのまにか美雨の視点は華姫と呼ばれた彼女と重なり、悪樓を見つめ返し名前を呼んでいた。

『悪樓……様……』

 船に乗った彼の鱗は、みるみる間に無くなり髪は結われ、気品のある礼服を着込んでいた。今の紋付袴とは異なるけれど、間違いなく園姿は彼だった。

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