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第二部 天魔界編
伍、水に燃え立つ蛍―其の壱―
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あれから、若菜はぐっすりと眠り続けていたが着物を買ってきた由衛と、薬師から塗り薬を買ってきた白露が帰ってくると目を覚まし、可愛らしい桜色の着物を着付けた。
そして白露に促されるまま、足裏の傷を見せる。由衛が手当を申し出ると、悪狐の膝に向けて足を伸ばした。
由衛はガラス細工を扱うようにうやうやしく足首を掴んで丁寧に薬を塗る。
「みんな、ありがとうね。晴明様のお屋敷は焼けてしまったの? っ、いたた……っ」
『ええ、半壊していますし天狗共に場所が知れていますから、あの場所に姫をお連れするのは反対です。ああ、姫……大丈夫ですか? 姫の愛らしい足の裏がこんなに傷ついてしまって……お可哀想に』
『てめぇはいちいち行動が気持ち悪ぃな、おい』
由衛は頬を染め、足の指を撫でながらうっとりと悩ましく吐息を漏らす。その様子にぞっとして吉良が自分の腕を擦りながら文句を言った。若菜は、今にも足の裏を頬擦りされそうな気がしてゆっくりと足を引っ込めると愛想笑いをする。
「う、うん……。由衛、もう大丈夫だよ。ありがとう」
『もう宜しいのですか? もっと丹念に塗りこまねば……』
「――――若菜。ここにおったか」
山小屋の戸が開かれ、神木のように澄んだ声が響くと四人は顔を上げた。安倍晴明、その人である。
怪我をしている様子もない晴明を見て、安堵しにっこりと若菜が微笑むと、彼は式神達には目もくれず最愛の少女の元へと向かい華奢な体を抱きしめた。突然の抱擁に、若菜は驚きつつも、答えるように彼の背中を抱きしめる。
「晴明様、ご無事で良かった……あっ」
『裸足で歩いていたので、少し足の裏に怪我を負われましたが治療しました』
「そうか。他に痛む所はないか? 元の場所には戻れぬが、私の式神達が安全な場所に、新しい寝殿造を作るまでの間旅籠を取っておる。そこに向かおう」
晴明は、まるで他の男に若菜を触れさせる事を拒むように彼女を抱き上げ、勢い良く戸口に向った。由衛と吉良、そして白露は少々荒っぽい行動に、互いに顔を見あわせ晴明の後をついていく。
誰もが何かしらの違和感を感じていたが、口にする事は無かった。法眼に囚われた若菜を救出する最中、天から凄まじい光を感じたがあれは天界の使いでは無かったのか。
そして、どうやって晴明は切り抜けたのだろうかと言う疑問が出てくる。この山一つを揺るがすほどの半神の力を使っていたのだから、天界は黙っていないだろう。
「お、お宿ですか? 皆も泊まれますか」
「心配には及ばぬ。高級旅籠だ、十分に金は払っておるのでな……だが、私とお主は夫婦と言う事で相部屋だ」
いざとなれば、どこででも寝床にできる式神達だったが、若菜が心配するように言うと、いつものように優しく神木のように凛とした表情で答えた。しかし、なんの躊躇も無く夫婦と言う言葉を口にする若菜は頬を染めて項垂れる。
晴明の事は大切に想い慕っているし、前世の詩乃も喜びを感じているのに、若菜は夫婦という言葉に戸惑いを覚えていた。そんな若菜を青空のような澄んだ瞳で見つめると、晴明は目を細める。
三日後、天界からの迎えが来る前に天狗につけられた穢れを落とさなければならない。あの男が若菜の玉のように美しい柔肌を撫で、舌で触れたかと思うと気が狂いそうなほど嫉妬が渦巻く。
そして、吉良の霊力の輝きを見れば彼女が霊力を分け与えた事も見て取れた。それは生きている妖魔を式神にする以上、仕方が無い事とはいえ、天界に向かう直前の晴明にとっては嫉妬の引き金となってしまった。
詩乃の魂が転生し、より良い人生を送り、死を迎えるその瞬間まで、彼女に気付かれず守護するだけで良かったはずが若菜に触れた瞬間、綺麗事は崩れ去ってしまった事を心の中で自嘲気味に笑った。
(朔は若菜を護る為に世界を滅ぼす魔王となっても良いと決意した。私はどうだ……、彼女の護る為ならば天界の犬にでもなってやろうか。それとも天界を滅ぼすか? お前ならばどう言うだろうな、朔よ……)
いかなる時も若菜の心の中心にある、血を分けた義弟の朔に嫉妬心を持ちつつ、不思議な事に、どこか若菜を愛する同士として親しみを持っていた。それは朔が、晴明を信頼し若菜を預けた事が原因かも知れない。
自身が天界に囚われ戻れなくなったら、朔に彼女を預けたいとさえ思っていた。だが、互いに一歩も引く気は無いのだろう。
頼りが無いのは元気な証拠というが、魔王はどうしているのかと懐かしくさえ思ってしまう。
「晴明様……?」
「すまぬ、早くお前を抱きたい」
晴明の言葉に若菜は指先まで真っ赤になった。
✤✤✤
兄はとにかく酒癖が悪かった。
俺が生まれる以前の事は知らないが、長女の話によれば若菜が誕生し、彼女が天鬼として霊力を開花させて西園寺家の財が潤いだしてからだという。
その長女も義姉さんの稼ぐ金を目当てに櫛や反物を買い漁って女形の役者にのめり込んでいる。
母と言えばそんな兄でも長男と言う事で特別に溺愛し、我儘放題に育ててしまった。末っ子の俺をそれなりに可愛がったが、義姉さんに懐く俺を、どうやら気味悪がっていたようだ。若菜の事は仕事をさせる以外ではほとんど無関心。
父と言えば、義姉を生んだ母と喧嘩の度に浮気をしたと責めていたが、若菜が金のなる木だと知るやいなや手の平を返したようにありがたがった。
だが、俺はあの男が成長していく血の繋がりの無い若菜を、だんだん女を見るようないやらしい目で見ていた事を覚えている。髪に触れられたり膝の上に座らせる事を、幼いながら義姉は何かを感じていたのか、本能的なのか、怖がり嫌がっていた事を覚えている。
俺は毎度、父の前に立って若菜におかしな事をしないように、居心地が悪くなるまで凝視をしていたので、どこかに俺を奉公させろと口癖のように言っていた。
西園寺家は、土御門光明がいる陰陽寮よりも息苦しく、俺達は肥溜めのような最低な場所で育った。
あの日、兄は遊郭を追い出されご機嫌斜めで提灯片手に帰ってきた。番頭も困り果てたような顔をして、ふらつく足で部屋に上がろうとする兄を支えている。
眠れない夜は、まいど若菜の部屋までいって布団の中に入れて貰う事が日課になっていた俺は、その日運悪く兄と鉢合わせをした。
俺は、酒を飲んでは暴れ他人や家族に暴力を振るうこの男が大嫌いだった。
「ひっく、よう……兄ちゃんに挨拶しろよ朔、しょうべんか?」
「ちがうよ。ねれないからねねのおへやにいく」
「へっ、母ちゃんじゃなくてねぇちゃんか。色気づきやがって。まぁ、あのバケモンのおかげでこうして酒も飲めるからなぁ~~!」
「ねねは、おばけじゃない!」
俺は、若菜を化け物と呼んだこの男が許せず反射的に叫んだ。この家族の中で唯一、まともで、優しくまるで泥の中に咲く蓮の花のような義姉の稼いた金で、遊女や博打、酒に溺れている男が、若菜を化け物呼ばわりするのが許せなかった。
反抗すれば酒乱のこの男が逆上するのは経験からして分かっていたが、もう遅い。
「なんだぁ、こいつ……生意気な目ぇしてんだよなぁ、俺を馬鹿にしてるんだろ? 殴られてぇのか? あん?」
「若旦那さま、お、お止めください!」
間に入ってきた番頭を、兄は殴りつけた。そして俺に向って拳を振り上げようとする。たとえ殴られたとしても、この世で一番慕っている若菜を馬鹿にされるのだけは許せなかった。だから、俺は痛みに耐える覚悟を決めて、震えながら目を閉じた。
「だめ!!」
叱りつけるような声がして、誰かが走ってくる足音がした。うっすらと目を開けると両手を広げた若菜が自分の目の前に庇うように立っていた。
兄の騒がしい声に気付いて、目を覚ました若菜が駆けつけたのだろう。拳を振り上げていた兄は焦点の定まらない目で若菜を見下ろした。
「おい、どけよ、若菜。おめぇを殴っちまったら俺はこの家から追い出されちまうだろ?」
「朔ちゃんをなぐらないで!」
「はぁ? お前も痛い目にあいてぇのかよ!」
「やめて! 朔ちゃんをなぐるなら、おしごとしないもん!」
義姉さんの体は小さく震えていた。俺は情けないことに彼女の小さな背中に隠れて兄を見上げることしか出来なかった。
反抗する若菜に舌打ちし、腕を下ろすとその隙を見て殴られた番頭が立ち上がり、すぐさま駆けつけ、そして子供たちから引き離し兄の機嫌を取るように部屋へと案内する。
若菜は安心したように手を降ろすと、涙を浮かべた目で振り返り俺を力一杯抱きしめた。
「ねね」
「お兄ちゃんにさからっちゃだめだよ。わたしの事はだいじょうぶだよ。なにいわれても、気にしないから」
「ねね……ごめんなさい……ねね」
俺は若菜に抱きついて、心の中で初めて強く願った。必ず、俺が義姉さんを護る。どんな時でも自分の身を顧みず俺を庇ってくれた最愛の人を、今度は俺が護る番だ。その為ならこの命も身体も、器も惜しくない。
――――だから、俺は。
「……ったく。なぁ、朔。俺にこんなもん見せてどうすんの? 俺が寝る度にお前とあの女の紙芝居を見せられるのは、正直ごめんだぞ」
魔王はそう呟くと寝具から体を起こした。片膝をついてあくびをしながら、幼い少女を抱きしめた感触が蘇ってきた手を見つめる。連日、封印された間に溜まりに溜まった第六天魔王の職務に追われ、天魔の民の要望を聞き、ぬるいやり方が気に食わない過激派を武力で抑え込む。
さらには、第六天魔王の恩恵を受ける為に迫ってくる女を退けるのに疲れていた。それでも霧雨が、ある程度統率していたおかげでこうして伏魔殿に戻る事ができた。
「また、例の独り言か。うなされていたぞ……サク様はお疲れのようですな」
「当たり前だ。揃いも揃って役人が無能だと俺の負担が減らねぇんだよ。つーか、お前さ。幼馴染とはいえ臣下なんだし、マジでノックくらいしろよ」
「何度も戸を叩いたが、我の声は聞こえなかったようだ」
霧雨の背後には、婚約者の藍雅がもじもじしながら立っていた。こんなに朝早くに訪れると言う事は何か約束をしていたのだろうが、正直全く覚えてない。花が咲くような可愛らしい笑顔を浮かべた藍雅が言う。
「サク様! 今日は私のお誕生日ですの。って……お着替え中ですのねっっ。申し訳ありません……そ、それで、先日サク様に私と一日中、一緒に過ごして下さいませとお頼みしたら、ああ、とおっしゃいましたの。覚えてませんこと?」
何となく返事をしたような気もするが、赤面しながら目を輝かせ、上半身を凝視する藍雅に溜息をつきながら用意をする。
「しゃーねぇな。息抜きに相手でもしてやるか。とりあえず外で待ってろよ藍雅」
「はいっ、お待ちしておりますわ!」
鼻歌まじりにそう言ってさっさと出ていく彼女の後を追い、霧雨とすれ違う寸前にふと、目を伏せた彼が言った。
「あの娘は我が無事に逃し、晴明に引き渡した。あの娘から伝言がある。貴方が元気なのか、会いたい……会いに行くと」
その瞬間、朔の溶岩のように燃える目が見開かれた。頭を殴られたような衝撃と共に、魔王は霧雨を見つめるとばつが悪そうに目を伏せると舌打ちする。
「――――そうか」
一言、そう返事をすると自分を見つめる臣下の視線を振り払うかのように歩き始めた。
そして白露に促されるまま、足裏の傷を見せる。由衛が手当を申し出ると、悪狐の膝に向けて足を伸ばした。
由衛はガラス細工を扱うようにうやうやしく足首を掴んで丁寧に薬を塗る。
「みんな、ありがとうね。晴明様のお屋敷は焼けてしまったの? っ、いたた……っ」
『ええ、半壊していますし天狗共に場所が知れていますから、あの場所に姫をお連れするのは反対です。ああ、姫……大丈夫ですか? 姫の愛らしい足の裏がこんなに傷ついてしまって……お可哀想に』
『てめぇはいちいち行動が気持ち悪ぃな、おい』
由衛は頬を染め、足の指を撫でながらうっとりと悩ましく吐息を漏らす。その様子にぞっとして吉良が自分の腕を擦りながら文句を言った。若菜は、今にも足の裏を頬擦りされそうな気がしてゆっくりと足を引っ込めると愛想笑いをする。
「う、うん……。由衛、もう大丈夫だよ。ありがとう」
『もう宜しいのですか? もっと丹念に塗りこまねば……』
「――――若菜。ここにおったか」
山小屋の戸が開かれ、神木のように澄んだ声が響くと四人は顔を上げた。安倍晴明、その人である。
怪我をしている様子もない晴明を見て、安堵しにっこりと若菜が微笑むと、彼は式神達には目もくれず最愛の少女の元へと向かい華奢な体を抱きしめた。突然の抱擁に、若菜は驚きつつも、答えるように彼の背中を抱きしめる。
「晴明様、ご無事で良かった……あっ」
『裸足で歩いていたので、少し足の裏に怪我を負われましたが治療しました』
「そうか。他に痛む所はないか? 元の場所には戻れぬが、私の式神達が安全な場所に、新しい寝殿造を作るまでの間旅籠を取っておる。そこに向かおう」
晴明は、まるで他の男に若菜を触れさせる事を拒むように彼女を抱き上げ、勢い良く戸口に向った。由衛と吉良、そして白露は少々荒っぽい行動に、互いに顔を見あわせ晴明の後をついていく。
誰もが何かしらの違和感を感じていたが、口にする事は無かった。法眼に囚われた若菜を救出する最中、天から凄まじい光を感じたがあれは天界の使いでは無かったのか。
そして、どうやって晴明は切り抜けたのだろうかと言う疑問が出てくる。この山一つを揺るがすほどの半神の力を使っていたのだから、天界は黙っていないだろう。
「お、お宿ですか? 皆も泊まれますか」
「心配には及ばぬ。高級旅籠だ、十分に金は払っておるのでな……だが、私とお主は夫婦と言う事で相部屋だ」
いざとなれば、どこででも寝床にできる式神達だったが、若菜が心配するように言うと、いつものように優しく神木のように凛とした表情で答えた。しかし、なんの躊躇も無く夫婦と言う言葉を口にする若菜は頬を染めて項垂れる。
晴明の事は大切に想い慕っているし、前世の詩乃も喜びを感じているのに、若菜は夫婦という言葉に戸惑いを覚えていた。そんな若菜を青空のような澄んだ瞳で見つめると、晴明は目を細める。
三日後、天界からの迎えが来る前に天狗につけられた穢れを落とさなければならない。あの男が若菜の玉のように美しい柔肌を撫で、舌で触れたかと思うと気が狂いそうなほど嫉妬が渦巻く。
そして、吉良の霊力の輝きを見れば彼女が霊力を分け与えた事も見て取れた。それは生きている妖魔を式神にする以上、仕方が無い事とはいえ、天界に向かう直前の晴明にとっては嫉妬の引き金となってしまった。
詩乃の魂が転生し、より良い人生を送り、死を迎えるその瞬間まで、彼女に気付かれず守護するだけで良かったはずが若菜に触れた瞬間、綺麗事は崩れ去ってしまった事を心の中で自嘲気味に笑った。
(朔は若菜を護る為に世界を滅ぼす魔王となっても良いと決意した。私はどうだ……、彼女の護る為ならば天界の犬にでもなってやろうか。それとも天界を滅ぼすか? お前ならばどう言うだろうな、朔よ……)
いかなる時も若菜の心の中心にある、血を分けた義弟の朔に嫉妬心を持ちつつ、不思議な事に、どこか若菜を愛する同士として親しみを持っていた。それは朔が、晴明を信頼し若菜を預けた事が原因かも知れない。
自身が天界に囚われ戻れなくなったら、朔に彼女を預けたいとさえ思っていた。だが、互いに一歩も引く気は無いのだろう。
頼りが無いのは元気な証拠というが、魔王はどうしているのかと懐かしくさえ思ってしまう。
「晴明様……?」
「すまぬ、早くお前を抱きたい」
晴明の言葉に若菜は指先まで真っ赤になった。
✤✤✤
兄はとにかく酒癖が悪かった。
俺が生まれる以前の事は知らないが、長女の話によれば若菜が誕生し、彼女が天鬼として霊力を開花させて西園寺家の財が潤いだしてからだという。
その長女も義姉さんの稼ぐ金を目当てに櫛や反物を買い漁って女形の役者にのめり込んでいる。
母と言えばそんな兄でも長男と言う事で特別に溺愛し、我儘放題に育ててしまった。末っ子の俺をそれなりに可愛がったが、義姉さんに懐く俺を、どうやら気味悪がっていたようだ。若菜の事は仕事をさせる以外ではほとんど無関心。
父と言えば、義姉を生んだ母と喧嘩の度に浮気をしたと責めていたが、若菜が金のなる木だと知るやいなや手の平を返したようにありがたがった。
だが、俺はあの男が成長していく血の繋がりの無い若菜を、だんだん女を見るようないやらしい目で見ていた事を覚えている。髪に触れられたり膝の上に座らせる事を、幼いながら義姉は何かを感じていたのか、本能的なのか、怖がり嫌がっていた事を覚えている。
俺は毎度、父の前に立って若菜におかしな事をしないように、居心地が悪くなるまで凝視をしていたので、どこかに俺を奉公させろと口癖のように言っていた。
西園寺家は、土御門光明がいる陰陽寮よりも息苦しく、俺達は肥溜めのような最低な場所で育った。
あの日、兄は遊郭を追い出されご機嫌斜めで提灯片手に帰ってきた。番頭も困り果てたような顔をして、ふらつく足で部屋に上がろうとする兄を支えている。
眠れない夜は、まいど若菜の部屋までいって布団の中に入れて貰う事が日課になっていた俺は、その日運悪く兄と鉢合わせをした。
俺は、酒を飲んでは暴れ他人や家族に暴力を振るうこの男が大嫌いだった。
「ひっく、よう……兄ちゃんに挨拶しろよ朔、しょうべんか?」
「ちがうよ。ねれないからねねのおへやにいく」
「へっ、母ちゃんじゃなくてねぇちゃんか。色気づきやがって。まぁ、あのバケモンのおかげでこうして酒も飲めるからなぁ~~!」
「ねねは、おばけじゃない!」
俺は、若菜を化け物と呼んだこの男が許せず反射的に叫んだ。この家族の中で唯一、まともで、優しくまるで泥の中に咲く蓮の花のような義姉の稼いた金で、遊女や博打、酒に溺れている男が、若菜を化け物呼ばわりするのが許せなかった。
反抗すれば酒乱のこの男が逆上するのは経験からして分かっていたが、もう遅い。
「なんだぁ、こいつ……生意気な目ぇしてんだよなぁ、俺を馬鹿にしてるんだろ? 殴られてぇのか? あん?」
「若旦那さま、お、お止めください!」
間に入ってきた番頭を、兄は殴りつけた。そして俺に向って拳を振り上げようとする。たとえ殴られたとしても、この世で一番慕っている若菜を馬鹿にされるのだけは許せなかった。だから、俺は痛みに耐える覚悟を決めて、震えながら目を閉じた。
「だめ!!」
叱りつけるような声がして、誰かが走ってくる足音がした。うっすらと目を開けると両手を広げた若菜が自分の目の前に庇うように立っていた。
兄の騒がしい声に気付いて、目を覚ました若菜が駆けつけたのだろう。拳を振り上げていた兄は焦点の定まらない目で若菜を見下ろした。
「おい、どけよ、若菜。おめぇを殴っちまったら俺はこの家から追い出されちまうだろ?」
「朔ちゃんをなぐらないで!」
「はぁ? お前も痛い目にあいてぇのかよ!」
「やめて! 朔ちゃんをなぐるなら、おしごとしないもん!」
義姉さんの体は小さく震えていた。俺は情けないことに彼女の小さな背中に隠れて兄を見上げることしか出来なかった。
反抗する若菜に舌打ちし、腕を下ろすとその隙を見て殴られた番頭が立ち上がり、すぐさま駆けつけ、そして子供たちから引き離し兄の機嫌を取るように部屋へと案内する。
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俺は若菜に抱きついて、心の中で初めて強く願った。必ず、俺が義姉さんを護る。どんな時でも自分の身を顧みず俺を庇ってくれた最愛の人を、今度は俺が護る番だ。その為ならこの命も身体も、器も惜しくない。
――――だから、俺は。
「……ったく。なぁ、朔。俺にこんなもん見せてどうすんの? 俺が寝る度にお前とあの女の紙芝居を見せられるのは、正直ごめんだぞ」
魔王はそう呟くと寝具から体を起こした。片膝をついてあくびをしながら、幼い少女を抱きしめた感触が蘇ってきた手を見つめる。連日、封印された間に溜まりに溜まった第六天魔王の職務に追われ、天魔の民の要望を聞き、ぬるいやり方が気に食わない過激派を武力で抑え込む。
さらには、第六天魔王の恩恵を受ける為に迫ってくる女を退けるのに疲れていた。それでも霧雨が、ある程度統率していたおかげでこうして伏魔殿に戻る事ができた。
「また、例の独り言か。うなされていたぞ……サク様はお疲れのようですな」
「当たり前だ。揃いも揃って役人が無能だと俺の負担が減らねぇんだよ。つーか、お前さ。幼馴染とはいえ臣下なんだし、マジでノックくらいしろよ」
「何度も戸を叩いたが、我の声は聞こえなかったようだ」
霧雨の背後には、婚約者の藍雅がもじもじしながら立っていた。こんなに朝早くに訪れると言う事は何か約束をしていたのだろうが、正直全く覚えてない。花が咲くような可愛らしい笑顔を浮かべた藍雅が言う。
「サク様! 今日は私のお誕生日ですの。って……お着替え中ですのねっっ。申し訳ありません……そ、それで、先日サク様に私と一日中、一緒に過ごして下さいませとお頼みしたら、ああ、とおっしゃいましたの。覚えてませんこと?」
何となく返事をしたような気もするが、赤面しながら目を輝かせ、上半身を凝視する藍雅に溜息をつきながら用意をする。
「しゃーねぇな。息抜きに相手でもしてやるか。とりあえず外で待ってろよ藍雅」
「はいっ、お待ちしておりますわ!」
鼻歌まじりにそう言ってさっさと出ていく彼女の後を追い、霧雨とすれ違う寸前にふと、目を伏せた彼が言った。
「あの娘は我が無事に逃し、晴明に引き渡した。あの娘から伝言がある。貴方が元気なのか、会いたい……会いに行くと」
その瞬間、朔の溶岩のように燃える目が見開かれた。頭を殴られたような衝撃と共に、魔王は霧雨を見つめるとばつが悪そうに目を伏せると舌打ちする。
「――――そうか」
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