はじまる季節  ──十七歳、僕は初めて人を愛した 

香月よう子

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海辺の出来事

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そして早くも夏休み。

 言うまでもなく受験生にとっての天王山を迎えた。
 僕と碧衣は学校の課外授業を受け、同じ予備校に通い、受験勉強に励んだ。

 しかし、課外も予備校の講義も終了し、夏休みも終わりに近づいたある日。
 海が好きだと呟いた碧衣の何気ない一言で僕達は、気分転換に近場の海水浴場に遊びに来た。


「佐伯君、お待たせ」
 海の家の更衣室で着替えた後、入り口で先に待っていた僕の背後から碧衣の声がした。
 振り返った僕は、思わずつばを飲み込んだ。
 初めて見る碧衣のスク水以外の水着姿。
 バックフリルの赤いギンガムチェックのビスチェに切り替えフリル付きショートパンツのそのビキニは、露出こそ控えめだが、だからこそ碧衣らしくて、それは愛らしい。
 ほっそりとした体つき。長くすらっと伸びた脚。
 そして、小さなふたつの胸のふくらみ……。
「もう、そんなに見ないで」
 碧衣は恥ずかしそうに華奢な胸を両手で庇う。
 その両腕をぐいとこじ開けそうになる妄想を、僕は必死になって理性で打ち消す。

 海に入り躰に海水をバシャバシャと浴びた。時期の割に海水温は高い。くらげの心配もなさそうだ。
 僕達は暫く波打ち際で海水みずを掛け合ってふざけあいっこしたり、ビーチボールで遊んだりしていたが、
「ねえ佐伯君。あの赤旗まで泳いでみない?」
 と、碧衣が遠くの遊泳禁止区域を示す赤旗の目印の棒を指した。
「そんなに遠泳して大丈夫?  それに危ないよ」
「それ以上は行かないから大丈夫」
 それで、僕達はゆっくり平泳ぎでそこまで泳いでいった。赤旗印の棒までは結構距離がある。けれど、碧衣はすいすいと泳いでいく。僕も彼女に沿って泳ぐ。
 そして、どのくらい泳いだろうか。ようやくそこへとたどり着いた。

 さすがに泳ぎ疲れて僕達は、赤旗の棒に掴まりひと息つきながら、更に先へと続く海の水平線を眺める。
「碧衣は怖くないの? こんなとこまで来て」
「そうね。ここから先は離岸流に巻き込まれたりして、大変なことになると思うけど。そんな無茶ことはしないから平気」
 碧衣は特段変わりない様子だ。普段は可愛く泣き虫の碧衣だけど、血を見る外科医を目指すだけのことはあり、結構肝が据わっているのかも知れない。
 しかし、
「この海の彼方には何があるのかしらね……」
 そう何気なく呟いた碧衣の瞳の中に、僕は何か憂いのようなものを感じた。
 そんな碧衣はアンデルセンの『人魚姫』のように、海の泡に消えてしまわないかと不安になるほど美しい。
 碧衣はこの水平線の彼方に、亡き小さな妹の幻を見ているような気が何故か一瞬した。

 それから、また海岸へと引き返し、僕達は海で気持ち良く過ごした。
 泳いで遊ぶだけ遊んだ後に、海の家でおでんと焼きとうもろこしを買い、ビーチで食べた。
「夏なのに、なんで熱いおでんなのかしらね」
 厚切り大根に箸を入れ、おでんをはふはふと食べながら碧衣が言う。
「暑い海で熱い物ってのがいいんじゃないか?」
 おでんも美味しいし、香ばしい匂いの焼きとうもろこしもすごく美味しい。

「碧衣。かき氷も食べるだろ? 僕はレモンにするけど、碧衣はシロップ、何味がいい?」
「ブルーハワイ!」
 僕はまた海の家に行って、粗く削られたかき氷を買ってきた。
「碧衣、舌が青くなってるよ」
「佐伯君だって。真っ黄色よ」
 炎天下の海辺のパラソルの下で、そう言って笑う水着姿(ビキニ)の碧衣と一緒に食べる食後のかき氷は最高だった。
「碧衣は肌を焼いたりしないの?」
「肌を焼くのは好きじゃないの。全身日焼け止めでばっちり陽射しガードしてるのよ」
「だから、そんなに肌が白いんだね」
 僕は、砂浜に寝そべる美女(あおい)の背中にオイルを塗るという『男のロマン』が潰えたことを知って、少しがっかりしたことは碧衣には内緒だ。

「これからまた一泳ぎする?」
「ちょっともう疲れちゃった。あっちの岩場の方に行ってみない?」
「そうだな」
 人気ひとけのない岩場のテトラポットに二人座って海を眺めるのも悪くない。
 僕達はさりげなく手を繋いで、遠くの岩場の方へと歩いて行った。

「痛っ……!」
 その時。
 碧衣がそう鋭い悲鳴を上げ、その場にうずくまった。
「大丈夫?! 碧衣?!」
 僕は血相を変えて、碧衣に寄り添った。
「足、見せて」
「え…い、いい……!」
「恥ずかしがってる場合じゃないだろう。破傷風にでもなったら大変だ。立てる? 肩を貸すから頑張ってあの岩場まで歩いて」
 碧衣は、貝殻の破片を踏んで足を切ったらしい。

「ああ、結構深くいっちゃってるな」
 なんとか碧衣を座れるテトラポットまで連れて行き、彼女の足の裏を見た僕はそう言った。
 思ったよりざっくりと傷が深く、出血している。碧衣は気分が悪くなってきたようで真っ青な顔をしている。
 僕は着ていた薄いTシャツを脱ぐと、それを大胆に裂いた。
「さ、佐伯君……!?」
「いいから。止血するよ」
「い、いいわ。そんな。海の家戻ればタオルもあるし、救護室へ行けば……」
 慌てる碧衣に、
「その足じゃ歩けないだろう。それにタオルじゃ生地が厚くて上手く巻けない」
 そう言うと僕は、碧衣の傷口にそのTシャツの切れ端を巻きつけてゆく。

「佐伯君……。上手なのね。手当てするの」
「ああ、僕の母と姉は芸術家肌だけど、父はアウトドア派でね。父のサバイバルな趣味で、こういうの小さい頃からよく仕込まれたんだ」
 冷静に手当てをしながらもしかし、僕は内心ドキドキしている。不埒な気持ちは決してないのだが、碧衣の素足に触れているかと思うと……。 
 けれど、乙女の碧衣はもっと恥ずかしいのだろう。居たたまれなさそうに真っ赤な顔で俯いて、無言のまま僕の処置を見守っている。
 碧衣の生足……それは小さくて透き通るように白く、すべすべとしている。

 やっと一通りの処置を終え、僕は碧衣の隣に座った。
「足、痛くない?」
「うん……。もう平気。ありがと」
 碧衣を見つめると、彼女は思わず視線を逸らした。
 やはり、水着姿で思いがけず僕に素足を触れられたことが碧衣は死ぬほど恥ずかしかったんだろう。

 ふと気がつけば、いつの間にか西の海に大きなオレンジ色の真っ赤な夕陽が沈もうとしている。
 海辺の夕暮れ。今日も快晴だった。
 空が青色から次第と黄金色になり、そして最も赤い色へと変わっていくロマンティックなトワイライトタイム。そして、いずれぼんやりとした薄明へと移り変わってゆくだろう。

「夏も終わりね……」
「ああ」
 頬を撫でる潮風が心地いい。
 寄せては返す波を数えながら僕は気付く。
 いつの間にか、ほんの少しだけ陽が短くなっている。

 碧衣とふたりきりで過ごした初めての夏が行く……。

「あ……」 
 その時、碧衣は吐息を漏らした。
 僕の口唇くちびるが彼女の口唇を掠め取った瞬間だった。
 碧衣はそのまま僕の広い胸に顔を寄せる。
 海辺に落ちる夕陽に照らされながら、碧衣の肩に手を回す。
 僕達はそっと寄り添い、忘れられない夏の想い出を噛みしめた。
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