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アラベスク

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「ねえ、佐伯君はどう思った?」
「あ、ああ。勿論良かったよ」
 僕は、そう曖昧に返事をする。
 演奏会の間中、実は演奏よりも僕は内心、薄暗いホールの僕の隣の席に碧衣がいることにドキドキしていた。
 手を重ねても良いだろうか。でも、そんなことをすれば、せっかく演奏に聴き入っている碧衣を驚かせ、怯えさせてしまう。
 そんなことばかりに気を取られていて、曲を追いながら、音はほとんど耳に入っていなかった。

「……あ。『RAMラム』……ここよ」
 碧衣は、黒塗りのコンクリート壁の大きな建物の前で立ち止まった。鉄製の重い扉を開けると、
「いらっしゃいませ」
 白い長袖ブラウスにスタイリッシュな黒いカマーエプロン姿のウエイトレスが数人、声をかける。
 僕達は、大きなガラス越しに南から陽が差し込む、メインストリートに面している窓際の奥の席に通された。
 広い店内は英国風アンティークのウッドチェアとテーブルが印象的な落ち着いた大人の空間で、このお洒落な雰囲気は女の子なら誰でも憧れるだろうと思った。

 お水とおしぼり、メニューが運ばれてきて、
「何にする?」
 と、僕は碧衣に尋ねた。
「私、ホットのラテがいい」
 メニューをチラリと見ただけで碧衣がそう言った。
「ラテ……カフェラテが好きなの? 碧衣」
「うん。それにケーキも大好き」
「じゃあ、ケーキも頼めば?」
「そうね。うーん、ガトーショコラもメロンタルトも捨てがたいし……あ、それに紅茶のシフォンケーキも」

 実に難しそうな顔をしながら碧衣はメニューに載っている美味しそうなケーキの写真に見入っている。
 その様子はなんだか酷く愛らしくて、思わず笑いそうになったけれど、勿論そんなことはしない。
 彼女にとって、『好きなケーキを選ぶ』ということは、物理の難題を解くくらい難しいことなんだろう。

「やっぱりここは定番の苺のショートケーキにする」
 ようやく碧衣のメニューが決まった一方で、こんなカフェに慣れていない僕はオーダーをまだ決めかねている。大体、ドリンクメニューだけでも何種類もあって、僕にはよくわからない。 
「カフェラテってカフェオレとどう違うんだろう」
 そう独りごちた僕に碧衣が言った。
「ラテはベースがエスプレッソで、オーレは珈琲。ミルクと珈琲の比率はオーレが一対一でラテより少ないの」
「随分詳しいんだね、碧衣」
「私、珈琲紅茶にはうるさいのよ」
 エヘンと芝居がかったように碧衣は、鼻梁の通った鼻をツンと上に向けて見せた。
「じゃあ、僕も同じメニューにするよ」
 僕は片手を挙げ、ウエィトレスにたどたどしくオーダーを告げた。

 そんな僕は碧衣に内心笑われていないか一瞬、気になったが、碧衣はこのカフェの雰囲気を楽しんでいるようで、にこにこと機嫌がいい。

「それにしてもこのカフェ、随分広いなあ」
 改めて店内を見回すと、沢山のテーブル席があるだけでなく、テーブルとテーブル間も充分なスペースがとってある。入り口から入った正面奥には長いカウンター席もあり、その前には十六人掛けのかなり大きなテーブルも位置している。
「ここ、欧州料理中心のダイニングカフェなの。貸し切りで少人数パーティーとか、結婚式の二次会にも使えるんだって」
『結婚式』という単語を口にしたとき、気のせいだろうか。碧衣は少し顔を赤らめた。

 結婚……いつか、僕も……。
 僕が碧衣と……?

 そんなことは遠い、遠い夢のようだ。
 碧衣も俯いてなんとなく黙っている。
 純白のウエディングドレス姿の碧衣を思い浮かべる。
 ほっそりとした美しい碧衣なら、どんなデザインのドレスだって綺麗に着こなすだろう。

「お待たせしました」
 そんなことを考えている内にウェイトレスの明るい声が響き、メニューが僕達の目の前に並んだ。
 早速、光沢つやのあるシンプルなブラウンの珈琲カップに口をつける。淹れ立てのカフェラテは舌を火傷しそうなくらい熱々だった。
「ここのカフェラテ、すごく美味しい。ケーキも甘くなくてすいすい入っちゃう」
 碧衣は嬉しそうに白い生クリームと柔らかいスポンジにフォークを入れ、それは上品に赤い苺を口元へと運ぶ。
 咀嚼している時の表情さえ艶やかで、そして座って話していても彼女の姿勢は非常に良い。
 僕は知っている。
 体育の時間、体操着で碧衣が何気なく立っているその姿勢。それは天界と地軸を結ぶ一本の線のようにすっと背筋が伸び腹筋は引き締まっていて、白く長い脚はプロのダンサーのように美しい。
 他の女子達の中に何気なく佇んでいるだけなのに、その光景(すがた)は僕の目を奪って離さない。

「碧衣。君はもしかして、バレエも習っている?」
 僕は彼女の立ち姿に見とれている自分を知られたくなくて、今までその問いを口にしたことがなかったが、遂にそう尋ねてみた。
「ええ、習ってたわ。小学校卒業するまではね」
 碧衣は、さらりと零れ落ちる髪の毛を左手で何気なく耳にかけながら答えた。そんなさりげない仕草にも彼女には華がある。
「どうして辞めたの?」
「ええと。時間の調整が必要になったから。中学に入ると勉強も大変になるし、でも読書に割く時間は削りたくなかったし。ピアノとバレエ、どちらか習い事を選ぶならピアノかな、て」
「君は音楽クラシツクが本当に好きだよね。一番、好きな音楽家は?」
「ショパンもラヴェルもドビュッシーも好きよ。でも」

 彼女はラテをテーブルの上に置きながら言った。

「シャミナーデが一番好き」
「シャミナーデ?」
 僕はその名前に心覚えがなかった。
「セシル・シャミナーデ。十九世紀フランスの女流ピアニストで、それは美しいピアノ小品を残しているの」
 碧衣はその時、ふわりと笑んだ。
 とても柔らかな優しい微笑みだった。
「私。シャミナーデの『アラベスク』がこの世の音楽で一番好き」

 その一言は、その日何故か一番僕の心の中に残った。


 その晩、僕は動画サイトでそのシャミナーデの『アラベスク』を初めて聴いた。
 それは切なくも切り裂くように激しく、美しいピアノ曲。 
 長い秋の透明な月夜の晩に相応しい一曲だった。
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