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転校生は風の如く(後編)

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 その日も化学の授業が終了して、教室に帰ろうとした時、
「ああ、神崎。準備室に前の授業で使った試薬がそのままになっているから、済まないが片付けてくれないか」
 と、化学の津田つだ先生から声をかけられた。
「わかりました」
 そう言って準備室に向かおうとした私に、
「神崎さん、僕も手伝うよ」
 例によって、三城君が声をかけてきた。
「純、私は今日、ピアノだから手伝えないけどいい?」
 お杏が横目で三城君を軽く睨みながら、そう言った。
「大丈夫」
「じゃあ、また明日ね」
「ばいばい」

 そして、私は三城君と二人で、化学準備室のテーブルに置きっぱなしの試薬の瓶を片付け始めた。
「えーと。これは……こっちの棚でいいのよね」
 ひとつひとつ薬品名を確かめながら、慎重に片付けていた。……つもりだった。

 ところが。
 ふとしたはずみで、私は瓶を落としてしまったのだ。
 その瞬間!
 薬品が足元で小さく発火した。
 その火をとっさによけようとして、バランスを崩した私は、床に背面から転倒したのだ。

「神崎さん!!」

 三城君が即座に足先で鎮火して、私を抱き起こした。私は頭を打っていて意識がおぼつかない。彼は、そのまま私を両腕で抱え上げようとする。
「だい……じょう、ぶ……」
 そう呟き、必死で姿勢を保つ。
「大丈夫じゃないだろ!」
 いつも穏やかな彼が気色ばんでいる。
 でも、お姫様だっこだなんて……。二年生の時、守屋君にされてどれほどいたたまれない想いをしたか。
「大丈夫、だから……」
 私の拒絶の意思が固いのを察してか、
「じゃあ。ゆっくり。力を抜いて」
 彼は落ち着いてそう言うと、床に倒れている私を胸に抱いたまま、じっと私の意識が正常に戻るのを待っていてくれている。

 三城君……。
 守屋君じゃない。
 彼は『守屋君』じゃないのに……。
 どうして私はこんな気持ちになるんだろう。

 混濁した意識の中で、私は脳髄のどこかひそやかに冷めた一点から自分の想いを見つめていた。


 どのくらいそうしていただろう────── 


「三城君。もう本当に大丈夫だから」
 ようやく落ち着いてきて、私は彼の胸元から離れようとした。
「三城、君……?」
 しかし、彼は依然私を胸に抱いたまま、じっと私の瞳を見つめている。

 そして。 

「純……」

 確かに彼はそう呟いた。
 そして次の瞬間、折れんばかりに息が止まるほど強く私を抱き締めたのだ。

 何も考えられない。躰が動かない……。
 ただ、彼と私だけが在る。そんな時間が流れていく。

 しかし、その時。

「神崎……!!」

 ドアの方から大きく声を張り上げ、誰かが駆け込んできた。

「三城っ! 神崎から離れろ!!」

 そう言って私を三城君から強引に奪ったのは、守屋君だった。 

「この野郎……!!」
 守屋君は激しい憎悪に満ちた形相で、三城君の左頬に右の鉄拳をふるった!
 三城君は床に倒れ込んだ。しかし、その上に守屋君が馬乗りになり、尚、三城君に殴りかかる。
 三城君は抵抗しなかった。守屋君に殴られるまま、身を任せている。
「やめて! 守屋君!!」
 私は泣きながら、必死で守屋君の右腕に縋っていた。

「やめなさいっ!!」

 その場に、津田先生が入ってきた。
 いつの間にか生徒の人だかりができていて、好奇心に満ち満ちて私達三人を見ている。
「守屋、三城、神崎! 三人とも職員室に来るように。他の生徒は解散!」
 津田先生が一喝した。

 それで、ようやくその場は終息したのだった。


 ***


 翌朝。

 職員室前の掲示板に生徒が集まっていることを私は、教室に居ながら知っていた。

 守屋君、三城君ともに三日間の停学処分──────

 守屋君とは今朝も携帯でんわで少し話した。意外と落ち着いていて、ショックはさほど受けていないようだった。
『思い切り三城の野郎を殴ったんだ。せいせいしたよ』
 そんなことを言っていて、それが彼の本心だと思った。

 でも。
 三城君へ送ったLINEは既読がついただけで、レスがなかった。
 これ以上、彼の心配をするのはお門違い。私の彼氏カレは守屋君で、三城君は単なるクラスメート。
 ……そう思うのに。
 何故、こうも胸騒ぎがするんだろう。
 私はわけのわからない焦燥感のような想いをずっと心のどこかで感じていた。


 ***


 その翌日。

 やはり、三城君からLINEはない。
 停学処分が堪えているんだろうか。そんなことを朝から考えていた。

 しかし、お昼のショートホームルームの時間。
 本多先生が教室に入ってくるなり、難しい顔をして皆に話を始めた。
「あー、三城は昨日から三日間の停学処分中だったが」
 そこで、先生はいったん言葉を切った。
 そして、言ったのだ。
「彼は家の事情で転校することになった。今日、引っ越すそうだ。皆に世話になってありがとうと言っていた」
 教室が一気にざわめいた。
「家の事情て、何」
「停学処分と何か関係ないの」
 そんな囁き声があちこちで聞こえる。

「お杏」
 ショートホームルームが終わると同時に私は、お杏に言った。
「私……早退する」
「早退って、どうして?!」
「帰らなきゃ。私……」
「純?!」
「後は頼むわ」

 そう言うと私は、鞄を持って教室を飛び出した。

 三城君。
 三城君。
 三城君。

 これは『恋』とは違う。

 でも。
 私は彼を放っておけない。
 何故。
 わからない……。
 けれど、それは誤魔化しようのない想いだった。


 そして────── 


 彼の家の前まで来ると、

「三城君!」

 彼が門の前に一人立っていた。

「神崎さん?!」
 驚いたように彼は私を見た。
「どうしたの。まだ授業中ガッコウだろ」
「だって……。転校するって……」
「ああ。親父にシンガポールへの転勤辞令が出たんだ。考えたけどついて行くことにした」
 彼はさばけたようにそう言った。
「でも……」
「停学処分は関係ないよ。むしろ、君を巻き込んでしまって悪かったと思ってる」
 彼は軽く頭を下げた。
 けれど再び顔を上げると、遠くを見つめるように視線を泳がせた。
  
 暫しの沈黙。

「ここからは僕の独り語りだ」

 そして、彼はおもむろに滔々と語り始めたのだ。

「僕には高校に上がった頃からつきあっている彼女カノジョがいてね。どうしようもないくらいお互い好きだった。順調につきあっているつもりだった。でも……。僕達は……」

 そこで、彼は一息吐いた。

「この夏、彼女がその……女の子の微妙なあれ、が来なくてね。僕が付き添って病院を受診したんだ。結局、遅れてただけだったんだけど、受診したことが親にばれて、交際を強硬に反対されて。……彼女は。泣く泣く親に従った。僕は腑抜けになって、勉強にも身が入らなくなった。見かねた僕の母が、環境を変えた方がいいだろうと言って、僕をおばに預けて済陵への編入を手配した。僕の転校理由はそういう情けない理由だよ」 

 そう言うと彼は依然遠くの方を見つめたまま、ふっつりと言葉を途切らせてしまった。
 しかし、改めて私の方に視線を変えるとゆっくり呟いたのだ。

「純」

 え……?!
 何故。
 何故、彼は私をそう呼ぶの。
 そんな懐かしそうな瞳をして……。

「君の名前はつまり、僕の彼女と同じなんだよ」

 彼はしかし、あっさりとその種を明かした。

「僕は彼女のことを『純』て呼んでた。それはたまらないほど愛おしくね。でも、彼女と別れてから、その名前を呼ぶことが出来なくなった。それは酷く淋しくて。胸に堪えて……。そして、危うく僕は君を彼女の身代わりにするところだった。君と彼女は別の人間だと嫌って程よくわかっていながら……。彼女を失った喪失感を埋める為だけに君を利用した。卑劣な奴だよ、僕って男は」

 乾いた声で自嘲わらう彼の目には何かが光って、流れ落ちた。

 ”身代わり”……。

 ここでも、この言葉を聞くなんて。
 私は何という因果な女なんだろう。

「迎えの車が来たようだ。僕はもう行くよ。君には本当に済まなかったと思ってる。でも、感謝している。ひとときでも安らぎを与えてくれて」
 彼はその時、はっきりと”私の瞳”を見つめて言った。
「ありがとう」
 やはり華やかな笑みを湛えてそう言うと、彼は門の前に停まった車に乗り込んだ。滑るように車は発車して、そしてあっという間に消えて見えなくなった。

 行ってしまった……。

 高三の二学期、突然私の前に現れた彼は、まるで秋に吹く爽やかな一陣の風のように、鮮やかなまでにさりげなく去って行ってしまった。
 振り返ることをしなかったのは、彼の矜持であり、そして私に対する最後の優しさだったのだと思う。

 そして。                            
 私は何故、ああも彼に心揺さぶられたのかを初めて理解していた。
 彼は。
 彼の瞳は……。
 あの、”高二の冬の夜”の守屋君の瞳と同じ色をしていたのだ。
 どうして今まで気づかなかったのか不思議なくらいに、あの時の守屋君とあの三城君は同じだった。

「神崎!」
 その声にハッと振り返る。
「守屋君」
 そこには、息せき切って駆け付けて来た守屋君が立っていた。
「お杏さんがLINEくれて。お前が早退したって」
「守屋君……」
 私は自然に彼の胸にそっと縋りついた。
「私は。私はずっと守屋君の側にいるわ」
 そう噛みしめるように呟いた。
「神崎……」
 彼は私の存在を確かめるように、ぎゅっと私を抱き締めた。

 あの冬の夜とは違う。
 守屋君は確かに私に触れ、私を抱き締めていてくれる。
 彼の逞しい胸の中で、彼の暖かい腕の温もりを感じながら私は、泣いた。

 その涙の一雫は、三城君へのせめてもの餞だったのかもしれない。
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