イマジナリーライン

あずま

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一輪の花だけが春をつくるのではない

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 青春って、傷付くものなんだよ。どういう流れだったか、栞はしたり顔でそう言った。自分の学生時代を回顧し、今まで誰にも話したことがなかった初恋の話だってした。
 悦に浸っていると言われれば、そうなのかもしれない。飲んだ覚えはないが、アルコールを二三杯ほど含んだ高揚すらあった。ただ、それくらいあけすけで饒舌でなければ、この硬い鍵は開きそうにもないとも感じていた。
「青春……。」それまでただ黙って耳を傾けていただけの海里の口が、ようやくやんわりと開く。「ん? 」努めて柔らかく、海里の言葉を促す。「……青くないよ、おれのは。」海里の言い方は、ひどく自嘲的だった。
「……どういうこと? 」今更ながら、部屋主を床のクッションの上に座らせて、自分はベッドに腰掛けているというこの状況は、だいぶおかしいな、と感じる。一年前はそんなこと思わなかったのに。必然的に海里を見下ろす状況下にいると、相談を聴く状況をつくったはずなのに、相談する側になっているかのようにすら思えた。
「青春は青で、恋愛は赤。なんで赤青鉛筆みたいに、真逆の色なんだろう。」頻繁なまばたきで、不自然に視界が覆われる。これは本当に海里の口から這い出た言葉なのだろうか?
「……わかんないけど、おれの中は全部黒なんだよ。真っ黒で怖くて、飲み込まれる感じがする。……なんだっけ、ブラックホール、あれみたいな。」溜め息のような切なさで呟く海里の目は、彼が言うように真っ黒で。栞は身震いするのを感じた。
「違う。」反射的に、否定が出た。「違うから、黒なんかじゃない。」理由はわからなかったけれど、海里の感情の色を黒だと認めてしまったら、取り返しのつかないことになるんじゃないかという不安があった。
 瞳孔は開き、手はすがりつくように海里の手を掴んだ。「あんたは、考えすぎちゃってるだけ。ほら、あれだよ、群青とか藍色とか、すごく深い青。ごちゃごちゃ考えて頭痛くなって、青がすっごい濃厚で深くなっちゃっただけ。」自分でも、なにを言っているのかよくわからなかった。でも忙しなく動く口を止めてはいけないという強迫観念だけが、栞を突き動かしていた。「ちゃんと青だよ。」

 だからなんだと言うのだろう。海里の目をまっすぐ見ていると、なんだか小っ恥ずかしくなり、はたと我に返った栞は慌てて海里から手を離そうとした。
「……ほんとに? 」でも実際には、握る手が強くなっただけだった。「おれ、ちゃんと青春できてた? おかしくない? 好きな人がふたりいて、そこにおれがいらないって思っちゃうのはおかしくなかった? 」海里の目は、溢れんばかりの自己否定という無垢なクレヨンで塗り潰されていた。

 栞は、何も言えなかった。「かおの目だけは気にならなくて、かおと話してると、ずっと温かい風呂に入ってるみたいで、ぽやぽやできた。稲垣とはちがう。稲垣は、会えるだけで嬉しいし、ぐわぁってテンションが上がる。それに、恋って落ちるものって言うから、かおと一緒にいて落ちた記憶なんかなかったから、だからおれが好きなのは稲垣だ、って思って。」海里の話し方は、ものが見つからなくて部屋をめちゃくちゃにしていく子どものようだった。
「でも、かおがいなくなって。いきなりいなくなって、どうしたらいいかわかんねぇの。ずっとずっと、なにもわからないまんま。突然風呂から出たらめっちゃ寒くて、なんかずっとちくちくする。おれ、」定まらなかった視点が、栞の眼前で止まる。「おれ、おかしいんだよ。」

 その揺らいだ目に捕らえられた瞬間、なぜだか窓を強く打ち付ける雨の音がした。ふと、栞は窓の外を確認する。さっきまで秋晴れの名にふさわしい木漏れ日を通していた窓は、滂沱の雨に悲鳴を上げていた。
「あ……。」視線に釣られたらしい海里が、窓を見ながら声をあげる。「今日、母ちゃん洗濯物干してなかったよね。」
 それはこちらに問い掛けるというよりも、ぽつりと確認する独り言の呟きでしかなくて。その横顔は、ついさっきまで自分のままならない感情に苦しんでいた人間とはまるで別人で、感情の全てが抜け落ちたような角度をしていた。

 悪寒で鳥肌が立つ。あくまでも、弟がまず感情を動かすのは『他人への心配』なのか、それはどんなときでも変わらないのか。栞は思わず、掴んでいたままの手を離しそうになった。
 だが、理性がそれを止める。栞は弟の手を今一度しっかりと掴み直すと、「キスは!? 」強く叱責するかのような声色で訊いた。どこかでの受け売りが、栞を強く押したのだ。
「……きす? 」ややイントネーションの異なるひらがなが、宙に舞う。「キス、K、I、S、S! さすがにわかるよね? 」こちらへと戻ってきた視線を逃してなるものかと、躍起になったせいか、栞の声は少し裏返った。なんだか完全にこいつの空気に呑まれてしまっていることが、悔しくも心地よかった。
「なっ……! 」海里の顔が真っ赤に染め上がり、顔に見合わず大きい手が頬に当てられる。が、その手も同じくらい紅潮しており、項垂れたうなじまでやや赤くなっていた。

 こいつは本当に男子高校生か? 栞が息を吐いたのは、言うまでもない。思春期の弟がここまで初心だと、逆に気持ち悪い。
「キスすると、さ、感情がこぼれるって言うじゃん。」出た声がどこか拗ねていたとしても、致し方ないだろう。栞はいつの間にか離れていた自分の手を呆然と眺めながら、逃げられた体温を思い返すように何度か握って開いてを繰り返した。口から出た声は、さっきりより随分と落ち着いていた。
「だから、たぶんキスしたらわかるよ。幼なじみくんに対しても、その女の子に対しても、海里はキスしたいとか思ったことないの? ていうか、キスできるの? 」いや、結局少々矢継ぎ早な質問になってしまった。キスという単語ひとつで赤面している弟にとっては、ショートしてしまいかねない訊き方ではなかっただろうか。そんな心配からちらりと顔を上げ、弟の顔を見る。
「……かおと? 」なのに、弟の顔には先程までの熱は残滓も無かった。
 ころころ変わる表情、と言えば聞こえはいいが、少なくとも弟のそれに愛らしさはない。人によれば愛らしいと感じるのかもしれないが、こと栞においては畏怖しか感じられなかった。
「できるよ。」けろっとした表情で、弟は答える。疑いも迷いも一切なく、むしろなぜそんな決まりきったことを訊くの? とでも言いたげな、あっけらかんとした渇きがあった。
「で、」自分でも聞いたことのない声だった。「できるの? 」「うん、できる。」即答。同性の幼なじみとキスできる。それならなにを迷うことがあるのか。
 栞がそんな疑問を口にするよりも早く、海里は持論を呈した。「だって、キスなんてある程度の信頼関係があればできるじゃん。」無垢で偽りのない素っ頓狂な言葉に、栞は自分の口が固まり、瞼が下がり、視界が細まるのを感じた。
「えっ、そういう話じゃなかった? 」栞が無意識的に自身の額へと伸ばした手を見たのか、海里は慌てふためく。その、本気でなにもわかっていない声色を聴いていると、頭痛で頭が割れるようだった。

『したい』じゃなくて、『できる』か。こちらが訊き方を間違えたと言われればそうかもしれないが、それ以前に、あぁこれじゃあ幼なじみくんも手を焼くだろうな、と頭を抱えた。こいつの中には、自分の欲や意思なんて存在しないのか。そんなの、本当に人間なのか?
 もはやため息を噛み殺す余裕もなかった。ただの弟との会話に、こんなにも体力を消耗させられるとは思っていなかった。
「本気で、わからないの? 」軽く本質を突けば、海里の目の奥に潜む陽炎がゆらりと揺れた。あぁ、栞は思う。本当の愚鈍というわけでは、ないのだな。怪物の振りをした、人間なのかもしれない、と。
「できるとしたいは違うでしょ。周りの反応は置いといてさ、あんたはどうしたいの。自分の感情を二の次にするのも、いい加減にしなよ。」怒りたいわけじゃあないのに、なぜか栞は怒っていた。いつの間にか降りていたベッドに肘をつき、頭痛が響く額を押さえながら、言葉に詰まる弟の、次の手を待つ。
 弟の中に、感情がないわけじゃない。よくよく考えればわかることだ。感情がないのならば、感覚として身体に違和感が表出することすらない。きっとこいつは他人の感情と同じように自分の感情にも敏感で、その上で自分の感情の優先順位を最後尾に回し、蓋をしてなかったことにしているだけなのだろう。
 なんでそんなことをするのかは、理解できないけれど。

「……かおは、」聞き慣れない名前が発された頃には、雨足も少し弱まり、栞の意識も眠気の方へと向かっていた。「かおは、ずっとパーを出してくれるんだよ。」「……えっ? 」そのせいか、やや反応が遅れる。
「じゃんけん。」暴れ馬のごとく、栞の反応も構わず海里は虚ろな目をしたまま、取り留めなく独り言を続けた。「じゃんけんで、ずっとパーを出し続けてくれる。」
 肘を離し、俯き気味のその目を覗き込めば、自分の姿は映らなかった。「おれが出す手によって変えるんじゃねぇの。チョキを出してもグーを出しても、ずっとパーなの。なにも持ってないよ、お前の好きにしていいよ、って。でかくて細い手を、だるそうに開いてんの。」
 仮にも元文学部、仮にも現塾講師。文学賞の端にもかからないであろうこいつの物語の、唯一の読者になってやらなければ。そんな変な義務感が、栞の背中を正した。
「けど、おれはじゃんけんがしたい。じゃんけんして、勝ち負けに笑ったりとか、あっち向いてホイとかしたい。でもかおはさせてくんねぇんだよ。おれはパーを出しておくから、お前の好きにしなね、って。」
 海里は唐突に黙った。だからと言って栞の答えを待っているわけでもないらしく、そのがらんどうな目は床に穴が空くのを待っているようにすら見えた。

 先に音を上げたのは、栞だった。「だめだ、わかんない。」再びベッドに肘をつき、視線をベッドの向こう側の窓にやった。「つまりどういうこと? あんたはだれのことが好きなの? それくらいはわかるでしょ? 」
 その女の子にキスしたいと思えるのなら、恋をしているのはそっち。そうじゃないならどちらも勘違い。そう割り切ればいいのに。
 いや、割り切れなくさせた責任は、私にもあるのか。栞は目だけをぐるりと海里の方へと流した。海里はまだ俯いていた。


「……わかんない。」どれくらい、栞の目にその項垂れたつむじが映っていたのか。時計のない部屋では時間もわからないが、栞の手が痺れるほどの時間を要した後、海里はようやく零した。
「おれ、なんでこんなんなんだろ……。」うつろな手で、床をノックするような体勢のまま動かない弟に対し、かける言葉は見当たらなかった。
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