イマジナリーライン

あずま

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一輪の花だけが春をつくるのではない

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 一年前の春。外はうららかな陽気に包まれていたのに、栞の部屋のカーテンはぴっちりと閉じられ、ベッドは絶望の涙だけを染み込ませていた。大体一時間おきほどの間隔で扉を叩く母のお陰か、不器用に声をかける父のお陰か。自責と溢れる罪悪感にしか突き動かされなかったが、一週間後には家族と食卓を囲めるようになった。
 最初は林檎ひと切れだとか、うどん数口ほどしか食べられなかったけれど、そんな姿ですらみんな肯定してくれた。隣に座る弟も、言葉はほとんどなかったが、気を遣っていることは感じ取れた。
 だから甘えたのだろうか。ひとりの身体になってから初めてゼリーをまるまるひとつ完食した栞は、何度目かの謝罪を呟いた。「ごめんなさい……。」意図してはいなかったが、視線は弟の方を向いていた。
 そのせいか、弟は食べていたからあげをうまく飲み込めなかったらしく、驚いた表情で胸をどんどんと叩いていた。「ごめんなさい……赤ちゃん、もう産めない……。お母さんとお父さんから孫を奪って、あんたからも……家族をひとり……! 」いいんだよ、と言ってほしかった。栞は悪くないよ、と言ってほしかった。嘘でもその言葉を信じていたかった。
「栞ッ! そんなこと言わないで……! 」駆け寄ってきたのは、母だった。父はうろたえ、弟は言葉を失っていた。「栞は悪くない。お母さんたちのことは気にしないで? ね? 大丈夫。言ったでしょう? うちには海里もいるの。でしょ? 海里? 」
 項垂れる栞の頭を抱き寄せた母は、いつものように言葉を綴り、弟の方を見たようだった。栞からすれば、もう繰り返し聴いた文言だったが、弟は初めて聴いた言葉だったのかもしれない。「……え、」
 弟の漏れ出た声が聞こえた気がして、栞は嗚咽の音量を上げた。意図的だった。それに気付いたのはきっと弟だけで、言葉と共に挙動も失っていた弟の腕が栞の視界の端で少し上がったのが、わかった。
「う、うん! おれ、今好きな子もいるし。ちゃ、ちゃんと頑張るし。」浮いた右手は行き場を探すように右往左往すると、そのままジャージのポケットに突っ込まれた。

『ちゃんと頑張る』。当時の栞は、その台詞にとにかく引っ掛かった。だから深夜、弟の寝室の扉を叩いた。
「海里、開けるよ。」言った瞬間、扉の奥でがたがたと音がする。「い、いいよ! 」もとより返事を待つつもりなどなかったため、返事と同じくらいのタイミングでその姿が栞の目に映った。
「……なにしてんの? 」呆気に取られた声が宙に浮かぶ。栞の目に映った弟は、ベッドの上で必死こいて身体中を下手くそに掻きむしっている途中らしかった。身体は胎児のように丸め込まれ、そこまで長くはない腕は肩のあたりに伸ばされ、爪を立てていた。その体勢で硬直した姿は、ひどく歪だったのを覚えている。
「あ、いや、なんか、痒くて? 」なぜか疑問形で答えた弟は、しばらく硬直していたが、目を転々と泳がせた後、ようやく電源が入ったみたくベッドから立ち上がった。
「痒い? なんで? 」あんたアレルギーとか持ってたっけ? よそよそしく空けられたベッドのスペースに遠慮なく座り、栞は訊ねる。「いや、ないはず……? 」また疑問符がつく。
 栞は息を吐き、横に座り直した弟の肩がびくりと跳ねたのにも気付いていた。「ね、姉ちゃんさぁ! 」機嫌を損ねたと、本能から話題を提供しようと思ったのだろう。弟の声は、やや上擦っていた。
「カレー、好きだったよな? 」「……は? 」なんでこいつはこんなにも会話が下手なのだろう。栞は眉をひそめた。「で、ハンバーグも好き。でしょ? 」だが弟はへこたれず、栞に向き直り、なおも身体を乗り出してきた。
「ま、まぁ……。」子ども舌だと笑われようと、栞の好物のツートップはそのふたつだった。正確に言うならば、母の作った、が、頭につくのだけれど。
「ハンバーグカレーも、好き……? 」「当然。」栞は強く言い切りながら、後ろにぼすんっと倒れた。倒れてから、これ自分のベッドじゃなかったな、と気付くが、まぁ弟ならいいだろう、と体勢をそのままに、視線だけ弟の方へやった。
 弟はこちらを見てすらおらず、「そりゃそうだよな……。」と呟きながら、宙を眺めていた。「なに? なんの話? 」あくびを殺さず、興味のなさを隠すことなく、栞は取り留めのない話の続きを雑に促す。
「いや、なんでもな……、」振り返りながら言いかけて、やめた。「……話して、いい……? 」おれ、変なんだよ。そんなこと、とっくに知っているという言葉は飲み込み、栞は身体を起こした。

 弟の口から傷が零れそうなのは、初めてのことだったから。だからと言って自分の傷が消えるはずも無かったけれど、それよりも好奇心に似た姉心の方が強かった。母性の代替かと言われれば、そうかもしれない。
「……友だちの、話なんだけどさ。」こういうとき、本当にそんな前置きをするやつがいるのか、と、口をあんぐりと開きそうになった。「高校生になって、初めて好きな女の子ができたんだよ。一目惚れだった。」
 弟は栞の呆れや動揺には気付かなかったらしく、ぽつぽつと話を続けた。なによりも他人の機微を気にするやつなのに、珍しい。よほど悩んでいるのかもしれない。栞は座り直した。
「初めて会ったときから、視界が明るくなるみたいな。その子のことを見たら、もうその子のこと以外考えられなくなるって、本気で思った。」そこまで心情について話しておいて、本気で『友だちの話』で済ませるつもりなのだろうか。
「本気の本気で恋をしたら、隠せないんだなってわかった。好きって言いたくなるし、おれの言葉で笑ってほしいって思った。」おれって言っちゃったよ。栞は頬杖をついて弟の必死な表情を眺めた。
「……でも、その子はおれの『好き』を受け取ってくれないんだ。それだけじゃなくて、おれの大好きな人と、たくさん喋ってる。」弟の表情に、影が差す。「おれは馬鹿だし、ふたりの話には入れない。入りたくもない。好きな人と好きな人が、おれといるときよりも楽しそうにしていて、おれは嬉しいのに、嬉しい、のに。痒い……。」

 途中までは、まぁ、理解できた。いや、正確に言えば理解はできない。でも要は友情と恋愛感情の狭間に揺れ動いているだけだと、察することはできた。
 ただ、どう考えても途中からおかしい。いくら友人が大切だったとしても、恋愛的に好きな人と一緒にいて、自分よりも和気あいあいとしていれば悔しさと怒りしかないだろう。嫉妬に駆られ、友人関係が破綻したっておかしくはない。
 親友であればあるほど、だ。少なくとも、栞にとってはそうだった。仲のいい友人ならば、こちらの恋愛感情に気付いてくれるに決まっている。気付いた上で友情を裏切るのは、マナー違反だ。
 そして極めつけは、『痒い』? 辛い、や、苦しい、ではなく、痒い? なんで? どうしてそこで精神的な負荷ではなく、身体的な異変が表れる?
「……どう、痒いの。」弟の告白に水を向けながら、栞は視線の端っこだけで弟の肌を観察した。蕁麻疹のような発疹は見受けられない。袖から覗いた腕には、掻きむしった赤い跡こそあれど、ぽつぽつとした炎症はなかった。
「……どう、って? 」せっかく話を促したのに、弟にはぴんときていないようだった。「痒いんでしょ? そんな掻きむしって、血が出るくらい。」血が出る、と言った途端、なぜか海里の目はびくりと見開かれた。
 呆れた、気付いていなかったらしい。栞は立ち上がり、学習机の上に置かれたティッシュに手を伸ばした。「ごめん、おれ……! 」ただそれだけの行動を、海里は怒りだとでも思ったのだろうか。
 ばかにしないでほしい。栞は息を吐きながら、きっ、と弟を睨みつけた。理解できないし、好きでもないけれど、初めて悩みを言語化しようとしている弟を見捨てるほど非情でもない。

 栞は右手で海里の腕を取り上げ、ぷつ、と浮かぶ小さな血の球を押さえてやった。
 大学時代、授業で教わった気がする。幼少期を無傷のまま過ごした子どもは、むしろ危険らしい。現代の親は、子どもが歩む道の障害物は、できる限り排除しようと躍起になる。それがどんなに小さな石ころでも、子どもが痛みで泣かないようにと奔走する。
 まぁ、そんな人が多いと言うに過ぎないが。でも、子どもは痛みを知ることで学ぶ。前を見ずに走ったから転んで、痛かった。もう痛い思いはしたくない。それなら、今度からはちゃんと前を見よう。前を見ていても、不慮の事故はある。それならば、公共の場で無闇矢鱈に走ることは控えよう。
 痛みは恐ろしい。その恐ろしさは、身体からの危険信号だ。
 痛みを感じる機会を失われれば、痛みを感じたときの方法を学べない。 方法を知らなければ、痛みの存在すら知り得ないかもしれない。
 痛みを感じなければ、身体の異変にも気付けない。身体の異変に気付かなければ、きっと人はじわりじわりと人間を辞め、死んでいくのだろう。

 心の臓が冷える。実際に冷えるはずもなく、ただの勘違いなのだが、そう勘違いしてしまうほど、ひどい鳥肌だった。ぱさついた口内に水分を含ませるため、栞はごくりと生唾を飲んだ。

 とにかく自分の感情に鈍感な子だとは思っていた。そのくせ、他人の感情の機微にはすぐに気付く。塾にもそういう子はいたし、珍しいわけではないのだろう。でも、ここまでいくとそうも言っていられない。
 栞は止血の手に力をこめると、海里の目を真っ直ぐ見た。そんな海里の目は、自分の傷には一瞥すらせず、眉を下げ、うわ言のように何度も何度も謝罪を繰り返していた。
 イライラするし、やっぱりこいつのことは好きになれない。姉ではなく、ただの同級生だったならば、栞はきっとこいつをいじめていた側だ。栞はため息を飲み込むためにと唇を口内に含め、真一文字に口を結んだ。

「あんたさ……その幼なじみくんのこと、好きなんじゃないの。」言いたくはなかったし、認めたくはなかったが、言うしかなかった。そうでもしないと、この化け物に見える弟は、自分の身体を襲う痒みの正体にすら一生気付けないだろう。
「っ、え!? 」寝耳に水。母親に似て大きい黒目が、恐ろしいくらいぎょろりと動く。「そんなわけないじゃん! 絶対ありえない! 」海里は勢いよく立ち上がり、そのせいで傷口を押さえていた栞の腕が跳ね除けられた。「……あっ、ご、ごめん。」珍しく、謝罪がワンテンポ遅れる。

 そんな、まるで全く考えすらしていなかったとでも言うような新鮮な反応は、かえって栞の調子を狂わせた。「でも、だって、ありえない。かおは男だし、そんなのじゃないよ。だって、かおだって言ってた。かおは『兄ちゃん』なんだよ。おれがばかだから、『兄ちゃん』だから目をかけてくれているだけで……」「……は? 」

 栞がそんな低い声を出したのは、生まれて初めてのことだった。「あれが? 『兄ちゃん』? 」姉である自分はこんなにも疎外感を覚えているのに、あれが兄なんて濃い名前で済まされていいはずがないだろう。
 お湯が沸騰するみたいな、嘲笑だった。「笑わせないで。そうやって気付かないふりして、泳がせてきたの? 」「姉ちゃん、なんか勘違いしてるよ。」動揺しているくせに、海里は薄ら笑った。それが栞の苛立ちを怒りに変えた。
「かおは優しいの。かおといると、安心できる。ずっと見てるって、そばにいるって言ってくれた。おれはずっと視界がぐらぐらしていて、どこが前なのか後ろなのかもわからなかったけど、かおの顔を見たら前も後ろも左も右もわかる。ちょっと不安になっても、かおが同じ場所にいるってわかったら安心する。明るいふりして、クラスの人気者みたいに笑うことだってできる。」
 こいつはこんなに長い言葉を話せたのか。栞にとって、一生知りたくはない発見だった。
「……かおの目を見たら、全身が喜ぶ感じがする。でも、稲垣の顔を見たら稲垣のことしか考えられなくなる。頭の中全部稲垣に支配される。かおは男で、幼なじみで、『兄ちゃん』。稲垣は女子で、クラスメイトで、初恋の相手。どっちが恋愛なのか、姉ちゃんだってわかるでしょ? 」
 切々とそう語る海里の目は、惨めなほどに潤んでいた。その水膜を見ると、優しい言葉のひとつでもかけてやろうなんて姉らしい情けは、蒸発して消えていった。「……私、『幼なじみくんに恋してる』とは一言も言ってないんだけど。」


 リアルだった海里の輪郭が、下手くそな漫画みたいにがたつく。なによりも強い肯定だった。
「……あんた、わかってるよね? 」感情の硬直により、無駄に輪郭の線が太くなった海里を前にすると、栞の中から姉心という優しさは消えて無くなった。「母さんたち、悲しませたらゆるさないから。」

 なんで、どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。こっちの不幸に目もくれず、自分の不幸に酔いしれているように見えたから? なんにせよ、自分勝手な理由だ。酢谷海里という人間にとって、周囲の幸せ以上の優先事項など存在しないだろうに。
「うん、わかってる。」身勝手な怒りに対しても、海里は聖母のような微笑を見せただけだった。今ならば、栞でもわかる。あれは扉を閉ざされたのだ。諦観から、高い高い城壁を築かれたのだ。この人には話してはいけないと、十六年かけてようやくちらりと覗かせた海里の感情の全てを、その細い喉に飲み込まれてしまったのだ。

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