イマジナリーライン

あずま

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目が遠ざかれば心からも……?

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 一週間振りに登校した夏生を待ち構えていたのは、好奇に溢れた目たちだった。想像はしていたが、覚悟を決めていたわけではない。夏生は視線から逃れるように長身を屈め、足早に教室へと急いだ。
 教室に行って会いたいのは、酢谷なのか稲垣なのか、その辺りは自分でもよくわかっていなかったが、この居心地の悪さにもとっとと慣れた気になってしまいたかった。稲垣も酢谷も、言うなればそのための命綱であった。

 命綱は、突然視界に飛び込んできた。
「だから、そんなんじゃねぇってば! 」聞き慣れた声が体重を乗せて胸もとへ突撃してくる。「っ、ぶわっ! 」あまりにも勢いよく突進してきたのか、男性にしては少々高い声がくぐもったように夏生の胸で埋もれた。
 そいつが顔を上げるより早く、想像する。きっとその黒いふたつの目はこちらを視認するやいなや、驚きと感嘆のこもった声で歓迎してくれるのだろう。周囲に溢れた好奇の目も忘れ、夏生は柔らかい表情で酢谷が顔を上げるのを待った。
「……かお? 」聞き慣れた声が名前を呼び、黒い目に自身の姿が映る。だが表情に喜びはなかった。飴玉のような暗さもなかったが、その目はどこか湿っていた。飴のような甘さも感じられない。言うなればビー玉。無機質で、安っぽくて、光の全てを吸収していた。
 その目に捉えられた瞬間、体内の空気が逆流したような感覚に襲われた。自棄の飴玉でも、恋をしたときの星屑でもない。それこそ幼い頃はよく見たが、最近はあまり対峙しなかった目だ。
 お泊まり保育で寝られないからと手を引いてきたときの目。トイレに間に合わなくて漏らしてしまったときの目。体操着や宿題を忘れてきたときの目。テストで悪い点を取ったから勉強を教えてほしいと言ってきたときの目。そうだ、これは諦めや自棄よりは『まだ』程度が低いときの、『縋る』ときの目だ。こいつに縋られるなんて本望なはずなのに、なぜか夏生はこの目に捉えられるといつも、愛おしさよりも焦燥が勝つ。
「かお! おはよ、かお! 」「ほら、彼氏と感動のご対面じゃねぇか! 」火照り光る目は、思い出したように喜びを宿し、がばりと身体を起こしながら夏生の腕を擦り、何度も何度も挨拶と呼称を繰り返した。
 が、それに頬を綻ばせられるような状況ではないことは、さすがの夏生でも察していた。ひとりのお調子者の台詞を皮切りに、続々と下卑た言葉が増え、同調するように教室中が下劣な空気に包まれる。
「ち、ちげぇって言ってんだろ!? かおは、ただの幼なじみだって! 」「まぁまぁ落ち着けって。お前最近、稲垣に告ってねぇもんなぁ? 稲垣が全然振り向いてくれねぇから、手近なオトコに走ったんだろ? 」冬なのに学ランを脱いでシャツ姿だった酢谷は、季節外れにも大量の汗をかきながら、裸足に上靴だけの足でばたばたと駆け回り、クラス中に聴こえるよく響く声で反論した。
 そんな酢谷の肩をひとりの男子が組み、下品な笑いを浮かべながら有無も言わさずに絡む。下世話は更なる下世話を呼び、渦のようにだんだん大きくなっていった。「いやぁ、でもまさかすーやんがホモだとはなぁ? 」「まじそれな? 文化祭でもあれだけガチなラブソング歌ってたくせに、玉砕したん? あ、だから伊藤の方に行ったってわけ? 」「なぁなぁ、お前らどこまでやったん? 男同士ってどうやんの? 」「そういえば、文化祭終わりくらいからすーやんと伊藤、放課後コソコソしてなかったっけ? 」「えぇ、まじぃ? 学校でソウイウコトしてたってことぉ? 」
 男子だけではなく、女子もこそこそと同調を始める。女子にまであだ名で呼ばれるようになるとは、中学生までの酢谷なら思いもしなかっただろう。こればっかりは酢谷個人の努力がなし得た結果だが、今それが皮肉となって降り掛かっている。
 渦中の酢谷は目をかっ開き、書いてあるはずもない打開策になり得る言葉を探すように、ぐるぐると周囲を見渡した。ばちり。火花が舞ったと思うほどの威力で、視線が交わる。
 酢谷の目はもう限界だと訴えていた。助けてという言葉はこの瞬間のこの感情のためにあるのだろうとすら思えるほど、切実だった。

 だからといって、どうしろと言うんだ。夏生は、自分の表情がわからなかった。たとえ今鏡を前に出されたとしても、わからないだろう。ただただ一刻も早く時間が過ぎ去ることだけを願っている自分がいる。
 否定すればいいのか? 今まで、どれだけ頑張っても打ち消せなかった感情を、当の本人の前で完全に否定すればいいのか? 違う、そうじゃあない。あぁなんで今ここに稲垣がいないんだ。いや、そうじゃなくて、あんな女に頼るんじゃなくて。そうだ、俺は『兄ちゃん』なんだ。『兄ちゃん』ならこういうとき、真っ先に手を伸ばして助けてやるはずだ。でも本当に俺が『兄ちゃん』なら、こんな状況に陥るはずが無い。じゃあ、じゃあ俺はなんだ? 俺はどうしたらいい? 俺は。

 答えのない逡巡の渦に呑まれ、重たくなった頭を上げた。視線の先には、こちらを見たままの酢谷がいた。でもその目は、さっきまでのものとは違っていた。
 飴玉、俺の大嫌いで愛おしくて、憎らしくて手を伸ばしてしまう、真っ暗な飴玉。でもその口もとには聖母と見紛うほどの微笑が上品に座しており、眉は柔らかく垂れ下がっていた。
『しょうがねぇなぁ』。そんな言葉が、テレパシーのように聞こえてきた。

 そう思った途端、酢谷の視線は夏生から離れた。いや、正確に言うならば、身体を翻したのだ。
 スローモーションがかかっていたふたりだけの時間は酢谷によって唐突に終わり、彼の明朗な声という衝撃が、教室内に滞っていた空気による膨らんだ風船を割る。「なぁ聴けって! おれホモとか無理だから! 」酢谷の溌剌とした声になぞられる言葉が、風船や鼓膜のみならず心の臓までをびりびりと破り裂いた。
「大体、かおは理想が高ぇんだよ? おれみたいなチビでバカなやつが好かれるわけねぇじゃん。」周囲の目が、一斉に酢谷へと向く。それらの視線は、奇異の目というたった一種類のものではなかった。信じられないものを見るような、驚愕のサイズに見開かれた目がいくつか、視線となって酢谷へと注がれる。
「は? お前それ本気で……? 」からかっていた奴とは違う男子生徒が、零れるように声を上げる。今度は酢谷が笑う番だった。酢谷の顔に見合わず案外大きな手が、男子生徒の肩を叩く。
「なにお前! その辺はおれの方が詳しいからな!? 幼なじみ舐めんなよ? 」なぜこの状況で、そんな自信ありげな顔ができるのか。酢谷の肩越しにその横顔から見られる感情は、全く読み取れなかった。
 幼なじみだから詳しい、わかると豪語するが、俺はなにもわからないよ。唇を噛み、正体不明の畏怖と絶望に、視界が音を立ててぐらついた。

 肯定されるとも思っていなかったが、どこかで期待していた。自分がずっと否定してきて、それなのに殺すことができなかったこの醜い感情を、酢谷ならば優しい微笑で全部全部肯定して抱擁してくれるんじゃあないか、って。そんな淡すぎる期待を、どこかで抱いていた。
 保証なんかない。それこそ、幼なじみだからこその慢心だと言われればそれまでだ。でも、だって、俺はそれに見合うだけのことをしてきた。
 同級生を殴って周囲から恐れられても、教師に歯向かって推薦が取り消しになっても、同じ高校に行くと我を通したせいで母親の精神が崩壊しても、どうだってよかった。だってそれらは、いつかのハッピーエンドのための布石に過ぎない。適切な勉強をそれなりの量こなせばテストでいい点数を取られるように、ステージをクリアすれば次の段階に進めるように、酢谷のために耳を選択していろんなものを犠牲にすれば、いつかご褒美が貰えると信じてきた。
 もちろん、人間関係は勉強やゲームと違う。頭ではわかっている。でも本当は、ずっとずっと心の奥底では見返りを求めていた。なんだ、理性的な振りをして、しっかり見返りを求めているじゃあないか。頭が割れるほどの頭痛と共に、自嘲が湧き上がった。
 その事実に気付いた瞬間、どうしようもない嘔吐感も迫り上がる。と同時に、瞼の裏に母の姿が浮かんだ。あの人が手塩をかけて育ててきた見返りに、思い通りの人生を歩ませたかったという身勝手さと、自分の中にあった醜い感情の本質が酷似しているように感じられて仕方がなかった。針が刺すような痛痒感が、全身を掻きむしった。

 結局、人は愛されたようにしか愛せないのか。嘔吐感に堪えながら酢谷の方を見るが、未だにこちらを向いているのはその背中で、もう彼の表情すら見えなかった。
 こうやって、視界の外にいるくせに心配して欲しがるところも、母親そっくりじゃあないか。思わず漏れた嘆息に、堪えていた嘔吐感が再び襲ってくる。
 思わずよろめいた膝は教室の床に汚れ、左手は扉のへりに掴まる。酢谷ではなくこちらを見ていた何人かの生徒は声をかけようとしたようだが、全員夏生のただならぬ重厚な雰囲気に手を引っ込め、むしろ後ずさっている生徒もいた。
 夏生は口もとを押さえながら、慌ててトイレへと駆け込んだ。もうただの一瞬でさえも、この場に居たくはなかった。自分の醜さの正体に耐えられなかったし、そんな自分が今酢谷のような綺麗な目に映ったら、隠してきた感情も全部吐き出してしまいそうだった。
 そこそこ大きな音が立ったが、酢谷の目がこちらに向くことはなかった。

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