イマジナリーライン

あずま

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オレンジの片割れへ

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 よく言われる言葉がある。恐らくそんなものは誰にだってあって、同時にそれはその人の本質でもある。伊藤夏生にとってそれは、名前によるものだった。
「せっかく『かお』って名前なんだから、もっといい顔してればいいのに。」こんな揶揄を受けたのは、正直一度や二度ではない。この女もそうなのか、と夏生は短く嘆息した。「気安く呼ぶな。」「いや呼んでないし。」
 なぜこの女はわざわざ自分にかまってくるのだろう。伊藤、稲垣、という苗字の順番であるからか、夏生が振り向かなければ目が合うことすらない。この女はそれを知りながらも、夏生の顔を見ようとはせず、それでもなお一方的に夏生の背中へと言葉を投げかけ続けた。
「ねえ、伊藤が言ってた映画観たよ。レオ様のやつ。」「『シャッターアイランド』? 」いつも通り、夏生は女の言葉に振り向きもせず答えた。「そうそれ。なんかすごいね、ゾクゾクした。」「あれを観てそんな薄っぺらい感想で終われるのがすげぇよ。」そう返す夏生の顔は表情すら変わらず、視線だけが無心に文庫本の文字を追っていた。
「もちろんそれだけじゃないけど、最初に感じたのは鳥肌とか、そういう感動だったって話じゃん。」女が口を尖らせながら言っているのが、見なくてもわかる。「ほんっと、伊藤って口悪いよねぇ。」後に続いたそんな言葉は、恐らくただの独り言だろう。返事も相槌もせずにぺらりとページをめくると、背後からため息が聞こえた。

 だが次の瞬間、女は漏らしたため息を勢いよく吸った。「りお! ……じゃなかった、稲垣! おはよ! 今日も好きッ! 」理由なんかわかりきってる。暴力的なほどに眩しい声が、眼前から投げられてきたからだ。
 太陽に近付いてはいけないなんて、小学生でも知っている理屈なのに、夏生は今日も目を細めながら、自分の前に立って笑う男を見つめた。どれだけ見つめても、その視線の先には自分の影すら映らないと知りながらも、見つめられずにはいられなかった。
「酢谷。手はちゃんと洗ったのかよ。」意地悪を言えばその眩しい声が振り向いてくれるかも、だなんて馬鹿げた思考、愛想を尽かされてもおかしくない。それなのに酢谷は、夏生の呟くような苦言にくしゃりと表情を和らげてみせた。
「か、かおぉ……そんな母ちゃんみたいなこと言うなよ! トイレ行ったんだからちゃんと洗ったに決まってるだろ!? 」羞恥に顔を真っ赤に染め上げた幼なじみの視線が、ようやっと夏生に向いた。
「り、稲垣、ちがうからね!? おれ、ちゃんと毎回手洗ってるからね!? 」弁明すればするほど坩堝に嵌っていると知ってか知らずか、酢谷は躊躇なく床に膝を擦り合わせると、稲垣の机に顎をのせ、媚びるように弁解した。
 そんな酢谷の無垢な挙動に合わせ、夏生も身体を背後へとねじ曲げると、今日初めてばっちりと稲垣と目が合った。酢谷の視線を浴びていながら余所見できるだなんて、羨ましくて仕方がない。
 稲垣はばちりと合った視線を逸らし、左下方にある酢谷をちらりと見て、わかりやすくつくり笑いを浮かべた。「そんなのわかってるよ。」口から出た言葉が、思ったよりも突き放すような意味合いを帯びているとでも感じたのか、言い終わってすぐに稲垣は口を噤んだ。
 だがしかし、そんな稲垣に想い焦がれている酢谷からすれば、そんなことは関係なかったらしい。自分の言葉に返事が返ってきた、と、酢谷はその顔をぱあっと晴らし、にんまりと口角を頬ごと上げて目を細めた。
「へへ、よかったぁ……! 」そんな安堵の声に合わせて、厳かなチャイムが学校中に鳴り響く。「あ……! 」たったひとつの無慈悲な音で、酢谷の表情はあっけなく色を変える。
 形のいい眉は垂れ下がり、緩んでいた頬は口を結ぶためにやや硬くなり、視線は意味もなくこちらに注がれる。そんな名残惜しそうな目で見られようと、いくら夏生でも酢谷のために時間を止めることなんかできるはずもないのに。
 まぁたとえできたとしても、この女の前では絶対に止めてやらないけど。

「ほら、チャイム鳴ってる。早く座れよ。」稲垣の柔らかいながらも冷たい色を隠した言葉には毛ほども気付かなかったのに、この言葉に優しさ以外の嫉妬という不純物が混入していることには気付いたらしい。酢谷は小さく声を漏らしながら、「おれの名前も、伊藤だったらよかったのに」なんて、残酷すぎる独り言で夏生の心を強く引っ掻くと、すごすごと自分の席へと歩いて行った。
 姿勢を前に戻しながら、夏生はただひたすら自分に言い聞かせた。ゆるせ、ゆるさなければならないだろう、と。『兄ちゃん』という意味の軽い単語を、幾度となく胸に刻みつけるように、学ランからはみ出た手の甲を節操なく引っ掻き続けた。

 酢谷海里という人間の言動は、子どものようにあけすけであった。感情の放出に躊躇がないが、同時にどこかぎこちない。それはきっと、自分の感情について考えることを放棄しているからこその違和感だと、夏生は考えていた。
 わかりやすく溢れ出る感情には飛びつき、考えなければ答えまで辿り着けない複雑な心境には蓋をする。だから会話をしているだけで顔が硬直したり、答えが辿々しくなったりする。
 それが愛おしい。そんな酢谷が、唯一時間や相手の反応を気にせず、必死に言葉を紡ぎ、感情の上澄みだけなら余すことなく見せてくれる。さらさらとほこりをはらうように、拙くも懸命に感情を伝えてくれようとする姿は、思わず太陽に喩えてしまう笑顔よりも、よっぽど人間らしくて、どうしようもなく愛おしかった。
 夏生の視線はちらりと後ろへと走り、隣の列の最後尾に座る幼なじみの姿を追う。その表情は、にやにやと湧き出る喜びを隠しきれていないながらも、眉尻はどこか寂しそうに垂れ下がっていた。
 そんな酢谷の表情を見ていると、自分の中に暗い感情がむくむくと沸き起こるのを感じてしまい、慌てて顔を前に戻した。嫉妬、安堵、独占欲。そんなものは『兄ちゃん』にふさわしい感情ではない。沸き起こった感情を否定するために口内の薄皮を強く噛み締めると、浅く血の味がした。


 反抗期の延長線上のような暴挙で、念願の高校入学を果たしたはずなのに、入学してから毎日強い否定に苛まれている。それもこれもすべて、自身の後ろに座る稲垣莉央とかいう女のせいだった。
 いや、正確に言えば、稲垣当人がなにかしたわけではない。感情が揺れ動き、行動を起こしているのはむしろ酢谷だ。だが夏生が酢谷を恨めるはずもなく、行き場のない感情は延々と背後へと強く向いていたのだった。
 酢谷の感情は、わかりやすくてわかりにくい。目を向けなくとも眩しさが伝わるような燦然たる感情はすぐに行動へと移すのに、考えなければならない負の感情に対してはぴったりと蓋をする。そんな特性を知っていたはずなのに、こと恋愛感情に関しては完全にノーマークだった。
 なぜ策を練っていなかったのか。答えは簡単で、ただ単に過信していたからに他ならない。自分の中にある感情の一パーセントも出していないであろう酢谷が、他人に心を許さない酢谷が、自分以外の誰かに感情の舵を明け渡すなんて、考えたくもなかった。
 なんとかしなければ、なんて思ったときにはもう、なにもかもが後の祭り。そう現実に打ちひしがれてしまうほど、酢谷の初恋は残酷で鮮烈で真っ直ぐで、網膜に焼き付くくらい美しかった。
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