イマジナリーライン

あずま

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今日も象が部屋にいる

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 その日はただ、明日の入学式の準備をするため、夏生が海里の家を訪れただけだった。それでも、夏生と対面しただけで楽しみとか高揚とは違うそわつきを浮かべた海里の顔がやや綻ぶ。海里は、自室でぶかぶかの学ランに身を包み、夏生に向かって不器用ながらにもあたたかく笑いかけた。
 幼なじみで、同性で。それでも夏生は、ただの一度だって自分の感情が間違いだと思ったことはなかった。それなのにやっぱり毎日こうして答え合わせをしてしまうのは、もはや癖だった。
 これまた夏生の記憶にはもうないが、幼稚園の頃から夏生は身だしなみに気を使うタイプだったらしい。同じ幼稚園に通う酢谷海里が好きだと言っていた色の服を好んで選び、髪の毛も寝癖がないか母に何度も何度も確認し、歯磨きもうがいもしっかりしてから、家を出て幼稚園のバスを待っていた。
 このときから海里は寝坊魔で、彼はいつも母親に寝癖だらけの髪を黄色い帽子で押さえつけられながら、寝ぼけまなこを擦って外に出ていた。夏生はいつもそんな海里の手を引き、まだ半分寝ているらしい海里をバスに押し込んでいた。
 そんな様子を見て、大人たちはよく言っていた。「夏生くんの方がお兄ちゃんみたいね」。たった一ヶ月ではあっても、早く産まれたのは夏生ではなくて海里の方だったけれど、そんなことは些末な問題だった。早く産まれようと遅く産まれようと、夏生はただの一度だってその言葉を嬉しく感じたことなんか、無かったのだから。

 かいのお兄ちゃんになんか、なりたくなった。他人からそう見られることにすら、嫌悪感に身の毛がよだったほどだ。だって、もうずっと、夏生がなりたいのは。

「あぁ……いやだな、中学校……。」夏生がいつものように蕩けたような暗い目で海里を見ていたら、色素の薄い口唇がため息と共にひっそりと尖っていた。「嫌? 」夏生の呼応は、ほぼ反射的なものだった。「大丈夫だろ、もうあいつらもいないし。」不安げに目を伏せ、眉をぐぐっとひそめる幼なじみに対し、夏生はぶっきらぼうに、でも努めて柔らかい声色で言った。
 海里のちょっとした眉の動きにすら気を使ってしまう自分は、どう考えても気味が悪い。わざわざ他所から言われずとも、夏生だってそれくらいのことは自覚しているのだ。
 そうは言っても、夏生の視線が海里から離れることはない。「今から気を揉んだって、仕方ないだろ。」「いやぁ……わかってるけどさぁ……。」唸りながら目をぎゅっと瞑り、海里は天を仰ぐ。いちいち挙動が大きいのは、酢谷海里の癖だった。わざとなんかじゃあないし、頭を使って考えることが苦手だからこそ、思ったことを全部口に出してしまう。
 でも、そんな癖をいじらしいと思ってしまうのは、どうやら夏生くらいらしい。少なくとも幼稚園や小学校の同級生たちの大半は、酢谷のこんな姿をうざったいと感じていた。
 気が抜けていて、身長も低くて、運動もできなくて。思考や判断基準が短絡的な小学生にとって、海里は『いじめ』の標的として、格好の的だった、らしい。というのも、夏生がそのことを知ったのは、つい最近のことだからだ。
「……俺が、もっと早く気付いていれば。」自分の情けなさに苦々しくそう零せば、海里は慌ててしゃがみこみ、夏生の両手首を掴んだ。「か、かおのせいじゃない! かおは全然、全ッ然悪くない! 」吸い込まれそうなほどの大きな目で覗き込み、必死にそう弁解する海里の表情を見ながらも、夏生は思ってはいけないことを思ってしまっていた。
 そんな汚い感情を追い出すため、海里のまっすぐな目を見つめ返し、ゆるりとその手をほどく。「でも、毎日一緒にいたのに気付けなかったのは事実だろ。」そう、毎日一緒にいた。六年間、なぜかただの一度も同じクラスにはならなかったけれど、委員会やクラブ活動も同じものになるために示し合わせていたし、お隣さんだからというもっともらしい言い訳じみた理由で、当然のように毎日登下校は一緒だった。
 なにかと要領の悪い海里は、居残りになることも多々あったけれど、夏生は大体待っていたし、それも当たり前のことだった。高学年になると、塾に通わされるようになったから一緒に帰れないことも増えたけれど、それでも朝はいつも一緒だった。寝ぼけまなこを擦る海里を呼び鈴で起こし、朝陽に目を細める海里に笑いかける。それが夏生の日常で、そうやって毎日を始めていた、のに。
 そんな、誰よりも愛おしい人がいじめられていて、怯えていることに夏生が気付いたのは、小学六年生の修学旅行のときだった。修学旅行、と言っても、ちょっと自然を感じる小さな山の宿泊施設で、肝試しや登山や釣りなんかの体験をする、簡単なお泊まりみたいなものだったが、宿泊型の校外学習ではあった。

 愚鈍で子どもだった夏生がようやく気づいたのは、二日目の夜の肝試しのときだった。一緒に出発したグループの中でただ一人だけ泥だらけになって帰ってきた海里を、同じクラスの奴らはくすくすと笑っていた。
 海里のクラスの副担任が急いで歩み寄り、何があったか訊ねても周囲は意地悪く笑うばかりだった。むしろ泥のせいで服や髪がぐずぐずになった海里を臭いと言い、鼻をつまんで距離を置いていた。小学生の夏生は、自分の目がぱさぱさに渇くのと身体が沸騰するように熱くなるのを、感じていた。
「かおは悪くない、ていうか、関係ないよ! おれがかおに気付かれたくなくて、隠してたんだもん……。だって、もともとおれがみんなをイラつかせちゃうから……! 」夏生がほどいた手で、海里はまたその手首を掴んだ。今度は、さっきよりも強く。

 かおは悪くない、と言う海里の目は、やっぱり丸くて。いや、丸くない目なんてこの世に存在しないだろうけど、そういう物質的なことではなく、海里の目は本当に丸いのだ。飴玉のように丸く、光を吸収する。それなのに真っ暗で、光が当たっているような様子はない。目のことをガラス玉やビー玉で表す方法は、小説などでよく目にするけれど、海里のそれは飴玉のように甘い暗さを宿していた。
 あのときも、泥にまみれた海里も、そうだった。

 広い体育館のような部屋で、プロジェクターに照らされた怖い話を見ながら、肝試しの出発を待っていた夏生は、海里が属するグループが帰ってきたことに気付き、視線を背後へとずらした。あいつ、怖い話とか嫌いだから。たぶん泣いているだろうな、それをからかわれているかもしれない、なんて。甘い想像をしながら身体を背後にひねった。
 でも実際はそんなかわいいものじゃなかった。そこにいたのは、泥だらけになりながら、涙を零さないようにと唇を噛み、みんなから隠れるように小さく身体を丸める海里だった。夏生は細い目をかっ開き、信じられないものを見るように海里を見た。その表情が、海里の目にどう映ったのかは未だにわからない。
 でも、ばちりと目が合った瞬間、海里の大きな目からぼたり、と涙が落ちた。飴玉みたいな大きな目から、音が鳴ったかと錯覚するくらい大粒の涙が、滾々と。
 視覚情報に理解が追いつかず、おかしい、信じられないといった感情は、あの瞬間はっきりとした輪郭を帯び、夏生の頭を殴った。
 母が面倒で周りに目をやれなかったから、とか、映画の中のカップルがみんな異性同士ばっかりでイラついていたから、とか。夏生が海里の内情に気付けなかった理由は山のように浮かんだけれど、どれもこれもそんなことは全部が全部言い訳でしかなかった。気付いたら、夏生は海里の周りで笑っていた奴らを殴っていた。

「……ねぇ、かおは? 夏生はおれにイラついてない? 」夏生の無言が気になったのか、海里は手首から手を離さないまま、そう訊いてきた。下から見上げるように、黒い丸い目を上まぶたに寄せて、口を半開きにしたまま、不安げに訊ねた。
「おれ、毎朝寝坊するし、歩くのだって遅いし、そ、そのせいで学校遅刻しかけたことだってあったろ? い、家が近いし、幼なじみだから気にかけてくれたんだろうけど、お、おれ中学生になったらちゃんと起きるし、学校もひとりで行くよ、だから、その、」読点いっぱいにそう言ったはいいものの、それに続く言葉は紡げないらしい。海里は重い瞼に目を伏せると、薄い唇を尖らせ、あわあわと沈黙の中で言葉を選び続けていた。

 あぁ、そうだ。夏生は隠れた海里の黒い目に吸い込まれながら、ぼんやりと思った。こいつは昔から、そういうやつなんだ。他人の感情とか、他人にどう思われるかとか、とにかく周囲からの視線を気にし『すぎる』。その性質は、少々異常だと思うほどですらあった。


 夏生が酢谷海里の目に飴玉を思うのは、十中八九海里自身のせいだった。まだお互いに幼稚園児だった頃、何度目かのお漏らしをしてしまった海里が、なかなか泣き止まなかったことがある。恥ずかしくて、また他の園児にからかわれて。夏生の服の裾を掴みながら、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
 かなり長い時間泣いていたから、先生も手を焼いていたのだろう。『ほら、かいりくん。あめちゃんあげるから、もう泣かないの! 』先生の声には、隠しきれない呆れが滲んでいた。
 言葉とともに差し出された飴玉を、涙でとろんとした目で見た後、海里は夏生の方をちらりと見た。それを合図と捉えた夏生が飴玉を受け取り、包装紙を剥がして中身の飴を海里に渡すと、海里はゆるゆるとした動作でそれを口に放り込んだ。
 その一連の動作にほっとしたのか、先生は海里の顔を覗き込みながら訊く。『ふふっ、どう? かいりくん、あめちゃんおいしい? 』

 あのとき、覗き込まなきゃここまで溺れることはなかったのだろうか。そう思うほど、海里の目はゾッとするほど暗かった。
 服の裾を掴まれているのに、海里の心は夏生のそばになかった。一点を見つめ、なにかを必死に考えている。色素の薄い眉は微動だにせず、唇はきゅっと結ばれたまま徐々に色をなくしていった。
 かい? 思わず呼びかければ。ごきゅっ。嫌な音が響いた。続いて渇いた咳が空気を切り、海里の小さな背中がぐるりと丸まった。ずっと掴まれていた夏生の服の裾から手が離される。汗とシワだけがスモックの端に残り、さっきまでそれを掴んでいた小さくて桃色に染まった海里の両手は、喉を押さえていた。ひゅーひゅー、と聞いたことのない音が海里の喉から漏れ出続け、幼い夏生は必死に海里の身体を抱き締めた。
 なんで、どうして、なにがあったんだ、って。足りない頭をフル回転させて、大人たちの慌てふためいた声を尻目に、この小さな男の子から目を離しちゃいけないと、子どもながらに誓ったのだ。


 はずなのに。「嫌だ。」目を伏せたまま、こちらの様子をうかがっているらしい幼なじみに、夏生は短くはっきりと返事をした。その声に、海里はぱっと顔を上げる。その目はふるふると震えており、眉間には諦めが滲んでいた。
 あぁほら、またそうやって他人の感情を優先する。あのときの海里はきっと、貰った飴玉の味よりも、相手がどういう反応を求めているのかを考えてしまったのだ。味を楽しむ余裕なんてなかったのに、「あめちゃんおいしい? 」と訊かれたから、困ってる先生のために泣き止まなきゃと必死になってしまったから、焦って飴玉を飲み込んでしまったのだろう。
 優しいなんて言葉が霞むほどの利他心。俺がお前から離れるなんて、ありえないのに。
「俺、かいにイラついたことなんか一度も無いから。」言いながら、相も変わらず暗い海里の目を覗き返した。なにも映っていないと思うほど暗い目に、自分の姿が映る。夏生はこの瞬間がたまらなく好きだった。「……ほんと? 」「ほんと。」
 間髪入れずに答えれば、海里の目尻がふにゃりと弛緩し、黒目が見えなくなるほど柔らかく笑った。「よかったぁ……。」そんな笑顔に、夏生は思わず目を細めた。
「じゃあ、中学も一緒に通ってくれる? 」そんなの、本当ならば夏生から頼みたいくらいだった。「……寝坊は克服しろよ。」海里より幾分か低い夏生の声に対し、いひ、と歯を見せて海里は笑う。「かおが一緒なら、中学も怖くないかも。」
 本気でそう思っているのかは、わからないけれど。なによりも大好きな、太陽が溶けるみたいな笑顔でそう言われれば、夏生が決断をするのはそう難しいことじゃあなかった。

「かい。」返事に満足したのか、立ち上がって学ランを脱ごうと背を向ける海里を、夏生は短く呼び止めた。「んー? 」生返事で振り向くことなく返されることすら、優越感を覚えてしまう。他人からどう思われるかを気にしすぎる酢谷海里という人間が、夏生の評価だけは気にしていないとでも言うような、そんな安心感であった。
「これからは、ずっと見てるから。」独り言のように宣誓すると、やっと海里はこちらを振り返った。「ん? どういうこと? 」首をかしげ、目に見えるかと思うくらいわかりやすくクエスチョンマークを浮かべる海里に、夏生は軽く噴き出す。
 そして噴き出したまま海里の部屋の床に俯きながら、にんまりと口角で弧を描いた。大丈夫、もう絶対間違えない。「俺が、かいを守るから。」自分の都合で海里の傷に気付かないなんてヘマをしたり、自暴自棄になってただ暴力を振るうことで海里を泣かせたりはしない。
 覚悟を決めた夏生は、顔を上げて、あえて使いたくなかった単語を使った。「俺はかいの、『にいちゃん』だからな。」
 それを聞いた海里は、ぽかんとした顔から一変し、ほにゃと蕩けたように表情を崩した。「ありがと、『にいちゃん』。」窓を後ろに立っているからか、海里はひどく眩しくて、その姿に思わず夏生は静かに願った。

 どうかこの、俺にだけ許された彼の距離感が、一生涯続いてくれるようにと。いつの日か全てを諦めて、俺のそばを居場所にしてくれますように。
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