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第5話 堕ちた正義。下される断罪

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 街灯の灯りの下で、赤信号の横断歩道を待っていた真辺健矢は脳内メモリーから飼っている「奴隷」の痴態を思い出す。 

「……イヒ。イヒヒヒ」 

 思わず、笑い声が出てしまった。

 近くにいて耳にした女性が一瞬だけ健矢の方に視線を向け顔を歪めるが、健矢は気に留めない。 

 信号が青に変わり、歩き始める。 

 横断歩道を渡り終えると、正面にある公園の中に入っていく。 

 夜月神社の隣にあるこの公園の敷地を通り抜けるのが、家族が待つ自宅にたどり着く近道だから。 

 毎日へとへとになって通り抜ける。今日なんか、正雄によって足が棒になるまで歩かされた。 

 ――あのヘボ刑事が! 防犯カメラのデータを回収するために、一軒一軒回る? バカか? 
 ――そんな下らなくて労力ばかりかかる仕事を割り振られやがって。俺まで振り回されるじゃねえか。 
 ――もっと楽な仕事を持ってこい! 

 面と向かって罵りたいが、刑事の指導役である正雄の方が立場が上だから我慢する。 

 我慢するストレスは「奴隷」に向けて発散する。 

 特に、明日は土曜日で休み。殺人事件が起きたばかりだが、ヘボ刑事正雄と違って、優秀で部下想いの上司のおかげで、休み。明後日の日曜日は出なければならない休日返上が、それでも明日は、丸一日「奴隷」と「遊ぶ」ことが出来る。 

「イヒヒ。イヒッ」 

 本来なら、その痴態をスマホに入れて、いつでもどこでも見たいのだが、それは出来ない。 

 もしも、仕事の同僚に何かの拍子に見られたらしたら、警察官人生と社会人生が終了してしまう。 

 オンラインストレージにデータを保存していても、いつ利用アカウントが停止されてしまうか、分からない。このご時世、サービス提供業者がAI検出技術を導入したら、一発BANだ。親が録った子供の成長記録であっても、AIは違いを認識できないんだから、健矢の真っ黒なデータは言わずもがな。 

 だから、自宅のオフラインストレージにだけデータは保存している。 

 健矢が児童ポルノ、児童買春といった犯罪に巻き込まれた子供を守る部署への配属を希望しているのは、関わった事件捜査で押収したデータをコピーしたいから。 

 ――別にいいだろ。ネットの海にばら撒くんじゃねーし。私的に使うだけだから。役得だよ。役得。 

 コピーしたデータは「奴隷」の調教のマンネリ化防止に役立てる。 

「子供の頃、いじめられたことがありました。だから、その時の経験を活かして、弱い立場に置かれて犯罪に巻き込まれてしまった子供たちの味方になりたいんです。彼らのヒーローになりたい、と言ったら格好つけすぎですよね」 

 このことを事あるごとに口にしているのは、周りの受けがいいから。 

 いじめられた経験が有るのは本当のことだ。 

 誰からも救いの手を差し伸べられることはなかった。 

 小学校を卒業して隣町の中学校に進学したら、イジメてきた連中と縁が切れると思った。でも、別の連中にいじめられた。 

 高校に進学して、ようやく解放された。 

 得た教訓は「強いことが正義。弱いことは悪」「強者は弱者を虐げる権利を持っている」。 

 でも、虐げる権利はいたずらに振るわない。より強い強者に目を付けられるから。 

 より強い強者。身近であれば、刑事の正雄。あるいは組織としての警察もそうだ。 

 だから、権利は隠れて行使する。 

 ――さあて、今晩はどんな調教をしようか。 

 妄想が膨らむ。 

「イヒッ。イヒヒヒ」 

 笑い声が夜の公園の闇の中に消えていく。 

 この公園は、日中は子供たちの楽し気な声が響き、人々が憩う場所なのだが、夜になると一変する。設置されている照明が少ないために薄暗く、生い茂った木々が周囲のネオンの光を遮り、普通の人々の足を遠ざけている。代わりに、変質者の出没ポイント、不良のたまり場、違法薬物の取引所、と化している。 

 警察がしばしば近隣の防犯協会とともにパトロールをしているが、効果は一時だけ。 

 そんな公園の中を、健矢は通り抜ける。 

 怖いとは思わない。 

 一度だけ不良にからまれたことがあったのだが、その不良が一人だけだったから、警察学校で叩き込まれた逮捕術を使って逆に徹底的に叩きのめした。 

 以来、からまれることは無くなった。遠巻きにされるだけ。 

 「警察の皮を被ったヤバいヤツ」という評判が、この公園にたむろする輩に広まっていることは、もちろん健矢は知らない。 

 むしろ、今でもその時のことを思い出すだけで自尊心が満たされる。性的快楽を覚えるほどに。

 警察学校でのスパルタ教育を完遂した自分を褒めたたえる。 

 そして、自信になった。 

 ――自分はもう虐められていた時の弱い人間ではない。強者なんだ。 

「イヒッ。イヒヒヒッ」 

 再び笑い声が夜の公園の闇の中に消えていく。 

 ザッ 

 健矢のものではない足跡が響く。 

 数少ない公園内に設置された照明の灯りの下に、人影が現れた。 

 目の前に現れたのが何者か、見定めるために、健矢は目を細める。次いで、辺りを見回す。そして、再び、人影に視線を送る。 

 目が見開かれる。歓喜と欲望を浮かべて。 

「……イヒッ」 

 浮かんだ歓喜と欲望は目から溢れ出て、笑い声となってしまう。 

 辺りに人影はない。つまり、頭に思い浮かんだことを実行しても、誰にも咎められることも、見られることもない。 

 再び漏れ出そうになった笑い声は噛み殺して、代わりに声を上げる。親切な人間の仮面をかぶって。 

「やあ、やあ。確か、光村智尋君だったね。どうしたんだい? こんな暗い夜の公園で」 

 ――たまには「奴隷」以外を嬲るのも楽しそうだ。 

「道に迷ったのかい? それだったら、家まで送り届けるよ」 

 ――あの細い手足を痛めつけたら、どんな声で泣くだろう。 
 ――あの気持ち悪い声だからこそ、逆に泣き声が楽しみだ。 

 嗜虐心が刺激される。 

 でも、 

「気持ち悪い」 

 向けられた智尋の目によって、近寄ろうとした足が止まってしまう。日中に見た時にあった憂いや悲しみは、今、その目には全く浮かんでいない。 

「ああ、気持ち悪い。なんて、汚れた魂なんだ」 

 全てを見透かされそうな彼の目によって、逆に足が一歩後ろに下がってしまう。 

 ――なんだ? なんだ? なんだ? 
 ――なぜ、後ろに下がる? 

 気圧されていることに健矢は気づいていない。 

「我が神も本当に情け深い。こんな汚れた魂を所望するとは。これほど汚れ切っているなら、逆にこの世界の神に任せてしまえばいいのに。……真に憐れみ深い我が神に心からの感謝を捧げる。異世界に渡った後も使徒として私の願いを聞き届けることに」 

 祈りを捧げるために閉じられた目と彼の甲高い特徴的な声による不快感が、健矢に口を開かせる。怯えてしまっていた自分を鼓舞するように。 

「なんだ? なんなんだ、お前は?」 

「……死に行く人間に告げる言葉はない」 

 再び開かれた智尋の目によって、健矢の口は閉ざされる。足が震えている。 

「あなたが私の望むモノを供えるならば、私はあなたの望むモノを授けましょう」 

 耳にしたことがない奇妙な節回しは、健矢に「魔法の呪文のようだ」と連想させる。 

 智尋が唱え終わると、彼の首から下がった逆様になった天秤を意匠としたペンダントトップが光った。 

 同時に、智尋の右手に2mを超える薙刀が現れた。 

 そして、上段に構えられた薙刀が振り下ろされる。 

 躊躇いの無い一閃が自分の命を刈り取るものであるのは、すぐに分かった。 

 ――死んでたまるか! 

 警察官として鍛えられた肉体と、警察学校のスパルタ教育を完遂した自信が、健矢の生への渇望を後押しする。 

 薙刀が振り下ろされた瞬間に、一歩前に出た身体をさらに前に突進させる。 

 一閃を潜り抜け、智尋の脇を通り抜けることに成功する。 

 ――よし! このまま逃げるぞ! 

 屈辱とか恥とかは感じない。灯の光に煌めく薙刀に対抗できる防具も武器も手元にはないから。 

 ただただ、生き残ることだけを考える。 

 でも、逃げられない。 

 空を切った一閃は、そのまま流れる。身体を振り返りざま、さらに薙刀が振り払われる。 

 ギャッ!! 

 健矢は足に走った激痛によって頭から地面に転んでしまう。 

 ――逃げなくちゃ! 

 再び立ち上がろうとしても、立ち上がれない。右足に力が入らない。 

 見てみれば、右足のふくらはぎがパックリと切れていた。傷口からドクドクと血が流れ出ていく。 

 思わず、後ろを振り返って、智尋に懇願してしまう。 

「なあ、なあ。救急車、呼んでくれ。このままだと死んでしまう」 

 ――死にたくない。死にたくない! 

「死にたくない! 殺さないでくれ! 助けてくれよ、本当に!」 

 必死の懇願に対して返ってきたのは、氷のように冷たい言葉。 

「なぜ? なぜ、お前を助けなければならない?」 

 無慈悲な言葉はさらに続く。 

「助けてくれ、止めてくれ。そう言った相手にお前はどうした? 何をしてきた?」 

 でも、この言葉は健矢に怒りに火をつける。 

 ――弱者は強者に歯向かうな! 

 「奴隷」に手を噛まれた時のことを思い出して。 

「本気で俺を殺すのか! 俺を殺したら、警察が本気になるぞ! 日本の警察官30万人がお前を捕まえようと躍起になるぞ!」 

 ――俺は警察官だ。 
 ――警察が俺を守ってくれる。誰も俺に手を出すことは出来ない。 
 ――俺はこいつより強い! 

 けれど、その優越感は鼻で笑われ、 

「本気になるなら本気になってみせろ。捕まえられるなら捕まえてみせろ」 

 煽られる。 

 智尋が見せる自信に、健矢は何か理由が隠されているようにも感じたが、認めるわけにはいかなかった。 

 認めたら、自分の死につながる。 

 だから、吼える。 

「日本の警察を舐めるな! 絶対に、お前を捕まえてみせる!」 

 その言葉は智尋の顔色を変えさせた。彼の顔に浮かんだ激情は地雷を踏んでしまったことを語る。

「だったら、私の家族を殺した犯人を見つけてみせろ! 逮捕しろ! 出来ない無能のお前たちが吠えるな!」

 激情が火山の大噴火のように一気に噴き出す。

「必死になってこの世界に帰ってきて、家族を殺されていた私の気持ちが分かるか! 身体をボロボロにして、血反吐を吐いて、泥水を啜ってでも生きて、この世界に帰ってきたのは家族に会いたかったからだ! それなのに。それなのに。……本当に優秀だったら、今すぐ犯人を逮捕してみせろ! それ以前に事件を起こすな! 私の家族を生き返らせろ!」 

 ――無茶なことを言うな! 理不尽なことを言うな! 

 智尋の叫びに、健矢はそう思うが、口に出すことは出来ない。 

 逆に、虐められていた理不尽な自分の過去を思い出してしまい、 

 ――なんでこんな理不尽にあわないといけないのか。 

 と心の中で嘆いてしまう。 

 その嘆きが見透かされたのか、智尋の顔から激情は消え、冷たい無慈悲なものに変わり、 

「大体、悪者のあんたを殺した犯人を警察は本気になって探すのか?」 

 健矢の心を追い詰める。 

「捜査に本気になれば、メディアも人々の目も集中するよな。その中には、警察が大嫌いなヤツもいるし、足を引っ張りたいヤツもいる。そいつらによって、お前がこれまでにしてきたことにも暴露されるだろうな。だったら、最初から、警察官の恥のあんたのことなんか、ひた隠しにするんじゃないのか?」 

 健矢に小学中学で虐められていた自分を見て見ぬふりをしていた教師たちのことを思い出させる。 

 そのことが、自分を切り捨てて組織防衛に走る警察の姿と重なり合う。 

 心が絶望に覆いつくされる。 

「だけど、本当にどっちでもいい。警察が本気になろうが、なるまいが」 

 健矢の耳に死刑宣告が届く。 

「私はあんたを私の神に捧げる。捧げて、私は力を得る。その力で私は復讐を果たす。私の家族を殺した犯人に復讐を果たす。絶対に。絶対にだ」 

 薙刀が構えられ、刃が冷たく煌めく。 

「だから、あんたは死ね」 

  
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