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第1話 捧げられる供物
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彼にとって、その日は大して変わり映えの無い、木曜日の一日になるはずだった。
東京から朝一で来て、趣味のラーメンの食べ歩きをするために、4軒ハシゴした。3軒はあらかじめ目星を付けていた店だったが、残り1軒は利用したタクシーの運転手から教えてもらった店で、ここがまた格別だった。
とても満足だった。
逆に不満なこともあった。
ラーメン店をハシゴしたあとに、この地域を任せているパシリに会ったのだが、ダメダメだった。最近、上納金が減っていたからハッパをかけるつもりだったのだが、売り物の薬に手を出していやがった。こうなると全く使い物にならない。
だから、知り合いに処分を任せた。今月が終わる頃には、パシリはコンクリートに詰められて海の底か、魚の餌になっている。
珍しいことではない。良心の呵責は欠片も感じない。
それよりも、折角作り上げた売買チャンネルの1つがパーになってしまった。またゼロからのスタートだ。
――面倒くせ。
気分転換のために、5軒目のラーメンを食べに行くことにした。
先程まで降っていた通り雨もやんだ。やまなければ東京に帰っていた。
帰るべきだった。
隠れ家的なその店に行くために、夜の闇に包まれたビルの谷間の路地に入った。
その時、
ビリリ
首の後ろに嫌な予感が強く走った。
予感に従って、歩く。歩く。歩く。
店の看板を避ける。
ラーメンを食べることはもう頭になかった。
角を曲がる。歩くスピードは変えない。
「第六感」と呼んでいるこの予感に従って、今まで生き延びてきた。警察はもちろん、ヤの付くヤツら、グレーゾーンのヤツらに海外のヤツら、彼らの面倒くさい暴力の手から逃げてきた。
群れるのは嫌いだ。他人は信用できない。信用できるのは自分の「第六感」だけ。
この「第六感」があったから、今のポジションを築き上げることができた。
だから、奥へ。奥へ。奥へ。
ビルからはみ出して置かれているゴミ箱を避ける。
闇雲に歩いているわけではない。
この辺りの地図は頭に叩き込んである。
角を曲がる。水たまりを避ける。
この辺りの路地は必ずどこかの道に出る。
人目のある道に出てしまえば、彼の勝ち。人目があっても狭い道はダメだ。車に引きずり込まれにくい広い歩道がある大通りがベスト。
追ってくる気配を感じる。水たまりを踏む足音が聞こえた。
――追手は1人。
1人だからと言って油断はしない。逆に油断ができない。単独で獲物を追い詰める能力がある証だから。
さらに、歩く。歩く。歩く。
ビルからはみ出して置かれているゴミ箱を避ける。
嫌な予感は強くなる一方。
気づいたことを追手に気取られないように、歩くスピードは必死で抑える。
けれど、歩いても、歩いても、歩いても、路地を抜けだすことが出来ない。
――とっくの昔に大通りに出ているはずなんだが。
頭の中の地図は役に立たなくなっている。
どこを歩いているのか分からない。
気がつくと、早足になっていた。
角を曲がる。水たまりを踏んでしま……。
足が止まる。
先程、通ったところだった。
冷たい汗が流れる。
いつの間にか、ぐるりと一周していた。でも、道に出ることなく一周することはありえない。
ゴクリ
思わず、生唾を飲み込んでしまう。
その時、後ろから、耳にしたことがない奇妙な節回しの言葉が聞こえてきた。
「あなたが私の望むモノを供えるならば、私はあなたの望むモノを授けましょう」
声には聞き覚えがあった。タクシーの運転手に教えられたラーメン店から外に出た時に、その店があった商店街でビラ配りをしていた男の声。未解決の殺人事件の情報提供を呼びかけるビラを一人で配っていた。男の声としては甲高く、そして不快感を抱かせる独特の声だったから、覚えていた。
恐る恐る後ろを振り返る。
その男が立っていた。右目は眼帯で覆われ、服のシルエットから見ても、華奢でひ弱に見える。
口の中がひどく乾く。
首の後ろに走る嫌な予感はもう痛いほどだった。
――くそっ! こいつに会った時にさっさとこの街から離れなければならなかったんだ。
ビラを受け取った時にも、ビリリと首の後ろに走った。でも、その一瞬だけだったから、無視した。よくあることだったから。
華奢でひ弱で簡単にひねりつぶせそうに見えるのだが、圧倒されるほどの恐怖を感じる。
かつて、香港に行った時に、筋骨隆々の戦場帰りのヒットマンに命を狙われた時よりも怖い。
膝が震え始めた。
むしろ、今日パシリの処理を依頼した知り合いに近いものを感じた。
否、その知り合いよりもはるかに恐ろしい。
その手で、直接、人の命を数限りなく奪ってきた空気。
同じく命を奪ってきたが、間接的である彼とは違う。
カタカタカタ
気がつくと、歯が震えていた。
キュッと歯を噛み締める。
「な、なあ、何が望みだ?」
思ったよりも自分の声が震える。でも、恥とは思わない。生き残るためにはなんだってする。泥だってなんだって啜る。
「く、薬か? 何が欲しい? Sか? エックスか? マリファナか? なんだって揃えるぞ。量も用意できる」
違法薬物の日本国内での流通を仕切る彼にとって、種類も量も揃えることは造作もない。だから、
――生き残れば勝ちだ。
自分に言い聞かせる。自分がこれまで犯してきた罪を清算する時が刻々と近づいてくる、その恐怖に押しつぶされそうになりながら。
「それとも、金か? 女か? 言ってくれたら、言われただけ用意する。見逃してくれたら、なんだってする」
これまでに破滅させた人の数は軽く千を超える。万に達しているかもしれない。でも、後悔とか後ろめたさとかはこれまで一度も感じたことはなかった。
なのに、今日だけは、今だけは、自分が破滅させてきた数多の亡者たちがすぐ後ろに迫ってきているように感じた。
――無視しろ。錯覚だ。
代わりに、生き残る手段を、逃げ出せる隙を必死になって探す。
――生き残れば勝ちだ。
生き残れば、薬漬けにして破滅させるも良し。金や女で懐柔できるなら、それも良し。諦めず命を狙ってくるなら、逆に殺し屋を用意して差し向ければ良し。
「私が求めているのは、私の家族を殺した人への復讐」
その言葉に思わずギョッとする。
――俺ではないぞ! 全く関係ない!
本当に心当たりはなかった。直接、人を殺した経験はない。
だが、間接的に影響を及ぼした可能性ならある。自分が扱っている商品を使った中毒患者が殺ってしまった、とか。
「復讐するためには力が必要。だから、私の神に捧げる。捧げて力を得る」
男の胸にぶら下がっていたペンダントトップが光った。逆様になった天秤、という奇妙な意匠。
「私の神が求めているのは罪で汚れた魂」
男の手に2mを超える薙刀が現れた。長柄の先の刃は細く、反りが浅い。
ビルの窓から漏れた灯りで煌めいた、その刃がひどく妖しく見えた。
血を吸いつくしてきた妖しさ。
そして、悟ってしまう。自分が提供できるものでは懐柔なんかできやしないことを。
――まるで死神のようだ。
――こんなヤツから逃げられるわけがない。
薙刀が振るわれた。
――俺は地獄に堕ちるんだろうな。
命は刈り取られる。
魂は輪廻転生の輪に戻らない。異世界の神の供物となる。
*
同じころ、別の場所で、堂坂正雄はとあるチェーン系列の居酒屋の暖簾をくぐろうとしていたが、
♪~
くたびれたスーツの内ポケットに入れていたスマホの着信音で動きを止めた。
入口から身体をずらし、着信を確認する。
思わず、溜息を吐きそうになった。
――覚えているって。
送ってきた相手は、弁護士。内容は妻との離婚協議の次回の日程の確認。明後日の土曜日だ。
参加できるように、上司に相談して、必ず休みになるようにお願いしている。幸い、今の上司は捜査至上主義者ではなく、ワークライフバランスを重視するタイプだったから、理解を得られた。
手早く返信を送る。
気を取り直して、居酒屋の暖簾をくぐると、
「ぃらっしゃいませー!」
元気のいい店員の明るい声に迎えられた。
店の様子をうかがって、先に来ているはずの知り合いの姿を探す。見つからなければ、店員に聞かなければならないが、
「堂坂さん! こっちです!」
奥の座敷席にいた男から声を掛けられた。
足を向ける。
「遅くなりました。申し訳ありません」
座敷に上がる前に、頭を深く下げる。
「いやいやいや。頭を上げてください!」
「こちらこそ、お忙しい中、申し訳ありません」
「そうです。さ、こちらにどうぞ」
誘いに従って、座敷に上がる。
「何か飲まれますか? ビールにしますか?」
先に来ていたのは男4人。その顔は皆、アルコールによって、すでにほんのり赤くなっている。手元のグラスも半分以下。
「すみません。烏龍茶でお願いします。もしかすると、緊急の呼び出しがあるかもしれませんので」
手元のタブレットで注文しようとする動きを制する。
「あ、そうなんですか。刑事の仕事、お忙しいんですね」
「……いえ、今は一段落付けているんですが、事件はいつ何時起きるか分かりませんので」
男たちの目が変わる。くたびれたスーツを着るうだつの上がらない中年男を見る目から、月渓警察署刑事課で働く正雄の仕事熱心さを讃える目に。
でも、正雄の横に、彼が「影」と呼ぶ存在が現れて、囁きながら罵ってくる。
(なーに、偉ぶってんだよ! このクソ刑事!)
(先週起きた殺人事件だって、まだ未解決だろ。この無能!)
他人には見えない。正雄にしか見えない。普段は、正雄の形をまとっているが、時々姿を変える。同僚、妻、両親、そして、行方不明の長男に。
もう7年以上の付き合いになる。ある日、突然現れた時には驚いたが、今ではもう慣れた。
「では、お水を。……どうぞ」
「ありがとうございます」
自動車メーカーの新車販売店で働く男がピッチャーから空きのグラスに水を注いで差し出してきたから、素直に礼を言って受け取る。
他の3人は元中学校教師のスーパーのパート店員、県の中核病院で働く医師、商店街の入口に店を構える不動産会社の社長。
年齢も社会属性も全く違う。けれど、正雄も含めて彼らには1つの共通点がある。
子供が高校の同級生で、今は行方不明である、ということ。
「県立月渓高校1年B組集団失踪事件」。
10年前、校外学習のために山道を走っていたバスがカーブを曲がり損ねて崖下に転落した。バスに乗っていたのは、運転手と県立月渓高校1年B組の生徒35人、引率する教師2人の計38人。他のクラスの生徒を乗せて後ろを走っていたバスから、直ちに救急に通報が行われたが、転落の衝撃でグチャグチャに破壊されたバスの車体の様子から生存は絶望視された。実際、運転手と教師2人は遺体で発見された。
だが、残りの生徒35人は発見されなかった。遺体はおろか、所持していたはずのバッグなどの遺留品もなにも見つからなかった。崖の下には川が流れていたが、事件の1カ月前からまとまった雨は降っていなかった。だから、増水した川の流れで海まで流された、ということもない。
生徒だけバスに乗っていなかった、ということもない。他のバスに乗っていた教師や生徒からの証言もある。
なのに、何ひとつ見つからなかった。
消防、警察、自衛隊、家族、現場付近に住む住民やボランティアが必死になって探した。
身体の一部すら、ペン1本さえ、見つからなかった。
半年後、捜索は打ち切られた。何ひとつ得るものはなく。
正雄の長男大志も行方不明となった生徒35人の1人。年頃の男の子らしく、少し自己中心的なところもあってヤンチャなところもあった。けれど、正雄にとっては、
「将来は親父と同じ警察官になるんだ!」
と言ってくれた、正義感があってリーダーシップもある自慢の息子。
ある日の捜索の時、隣県から応援として派遣されて参加していた定年間際の警察官が正雄に話しかけてきたことがあった。
「まるで、神隠しにあったみたいだな」
「……神隠し、ですか」
「そうだ。昔は結構、よくあったわけではないが、珍しい話ではなかったそうだぞ」
「……」
「俺も先輩から聞いた話なんだがな。懸命に探しても手掛かりは見当たらないときに、『神隠しにあったのだから仕方がない』と言い訳にしたケースがほとんどだったらしい」
その警察官は正雄が自分と同じように仕事で来ている仲間と思って話しかけてきていた。
「だが、時たま手掛かりが見つからないことが絶対にありえないのに見つからない、そんなケースもあったらしい。俺の孫に言わせると、今だったら神隠しじゃなくて異世界に召喚された、と言うらしい。異世界に召喚されたなんて、神隠しよりバカバカしい話だな」
声を上げて笑った。
彼と正雄の間に空気のギャップが生まれる。それで、何かを察したのか、
「まあ、愚痴だ愚痴。聞き流してくれ。これだけ懸命に探して、手掛かりひとつ見つからないから、余計なことを口走ってしまった。忘れてくれ」
最後は早口でそう言って離れていった。
あれから10年。
何ひとつ手掛かりが見つからない10年の月日は事件を忘却の彼方に押しやる。子供は死んだ、と生存を諦める家族が大多数になる。中には、心の折り合いをつけることが出来ず、バラバラになってしまった家族も、最初からいなかったとする家族も。
今でも、諦めずに探し続けている家族は少数派。正雄もその少数派に含まれる。
(嘘をつけ、偽善者!)
(だったら、なんで他の家族と距離を取る?)
(現場に捜しに行かないのはなぜだ? 他の家族と会いたくないからだろ)
「影」の囁きに、正雄は耳を貸さない。
ところが、3か月前、10年間全く手掛かりがなかった事件に動きが生まれた。
行方不明になっていた35人のうちの1人が保護されたのだ。保護された少年、10年が経過しているため青年、の名前は光村智尋。
ただし、保護されたことは公にされていない。その理由がある。
「それで! 光村君から何か話は聞けたんですか?」
社長が身を乗り出して聞いてきた。
「まだ、なにも」
と正雄が否定すれば、どんな反応が返ってくるかは簡単に想像できる。そして、予想通りの反応が返ってきた。
「何を悠長な! 子供たちは私たちが助けに来るのを今も待っているかもしれないんですよ!」
(きったねーな! 唾が飛んできやがった!)
「影」の囁きは無視する。
「今すぐ、光村君から話を聞くべきです!」
(話を聞く? 尋問の間違いじゃねーの? それとも、拷問か?)
囁きを無視する代わりに、正雄は視線を医師の方に向ける。
「光村君の今の状態は聞いていないのですか?」
「……あ、いや。今は光村君の担当を外れまして」
医師が挙動不審になりながら小さな声で答えた。
(だよなー。守秘義務を破って、ここにいる連中に情報を漏らしたんだから、当然だわな)
溜息を吐きたくなるのを必死で抑える。
保護された智尋が入院した病院で担当になったのが彼。彼がここにいる他の3人に漏らしたから、社長たちが病院まで押しかけて騒動を引き起こしたのだ。今度、智尋と直接接触しようとしたら、逮捕すると警告されている。
ただ、彼らの事情も分かる。10年間、彼らは諦めることなく行方不明の子供たちを探し続けてきたのだから。
だから、正雄がここに来たのも、彼らの不満のガス抜き。
というのは表向きの名目。結局、もっと重要なのは、彼らが暴走しないか観察と、場合によってはさらに強い警告あるいは対策をすること。もちろん、このことは上司には報告している。
「彼は先月病院を退院して、市営住宅に入りました。現在は通院しながら、リハビリ中です」
身体の治療はほぼ終えている。リハビリはむしろメンタル面であり、さらには社会生活への適合が主。10年間、彼は完全に社会から隔離されていたと見られているから。
「リハビリ? 彼は今日もビラ配りをしていたぞ。そんな余裕があるなら、さっさと話を聞くべきだ」
(お! 見はしたが接触はしなかったんだ。偉い偉い。それとも、警察に逮捕されるのが怖いのかなー?)
社長を嘲笑う「影」が、次は正雄の方を向く。
(怖いよな。怖いよなー。逮捕されてムショにぶち込まれたら、子供たちを探せなくなるからなー)
無視する。
「光村君から話は既に聞いています」
「『分からない』『覚えていない』だろ! そんなわけあるか!」
「極度のストレス環境下に置かれたことによる解離性健忘、と診断されたと聞いています。皆さんは聞いていませんか?」
解離性健忘。辛いこと悲しいこと嫌なことの記憶を無意識に封をして思い出させなくする。全ては、自分の心を守るために。
封をしているだけだから、上手くすれば思い出すことが出来る。でも、無理して思い出すと、フラッシュバックとなって心に襲い掛かってくる。
再び、医師の方に視線を向ける。
「……あ、いや。その診断の話はしたのですが」
語気が強かった社長も含めて、4人の態度が一斉にバツの悪そうなものに変わる。
(社長だけでなく、全員、あいつのこと、見に行ったんだな。そうか、そうか。見てしまったら、人間の心が少しでもあるなら、矛先をあいつに向けられないよなー)
矛先を向けられない、智尋に同情する理由がある。
服の上から見ただけで分かる、細くやつれた彼の身体を思い出す。声を聞けば、成人男性の低い声とは違う高い声が身体的な異常によるものだと察することが出来る。
診断書に目を通した正雄は、今の智尋のさらに詳しい状態を知っている。高い声は性器を切除されたことによるもの。眼帯に覆われた右目は失われて、他にも身体中傷だらけ。その傷が医療機関で治療を受けた、どころか、まともな医療行為を受けた形跡が全く無いことも。
どれだけ過酷な環境に置かれていたのか、想像は難しくない。
それゆえ、事情を知っている捜査関係者は、残りの34人の生徒の生存を完全に絶望視している。
もっとも、
(お前は諦めていないよなー)
――当然だ!
徒労を嘲笑うかのような「影」に向かって、正雄は心の中で言い返す。
だが、唐突にパート店員がポツリと零した言葉に、思わず表情が動いてしまいそうになった。
「光村さん一家が生きてらっしゃったら、喜ばれたでしょうね」
(あひゃひゃひゃっ!! 生きてたら喜んだ?)
笑い転げる「影」の言葉が正雄の心を傷つけてくる。
(逆だろ! 生きてたら、お前らが嫉妬で殺すだろ? 「俺たちの子供は帰ってきていないのに、なんでお前だけ!」って!)
智尋の家族はいない。
殺された。
「光村家一家殺人事件」。
失踪事件の2年後に起きた事件。智尋の両親と妹が自宅で殺された。犯人はまだ捕まっていない。
失踪事件の生徒たちの家族にとって、この事件は大きな影響をもたらした。智尋の両親が残された家族たちが結束するまとめ役になっていたからだ。公的機関による捜索が終わった後も、行政への追加捜索の働きかけをした。家族だけで捜索活動もした。市内で情報提供を求めるビラ配りをして、世間の人々から失踪事件の記憶が風化しないように活動も行った。心が折れかかった他の家族の支えにもなっていた。
そんな一家の殺害は、失踪事件に遭った生徒の家族たちが一塊になっていたのを容赦なくバラバラに突き崩した。
ある家族は活動から距離を置いた。ある家族は遠くへ引っ越した。そうした家族を口汚く非難した家族もいた。
だから、世間から忘れ去られた。集団失踪事件も、一家殺人事件も。
(まあ、一家殺人事件が忘れ去られるのは、お前にとって好都合だよなあ)
「影」がニタリと嗤って囁いてくる。
正雄の心を深くえぐれるチャンスは決して見逃さない。
(なあ、そうだよな。……光村一家の殺人犯さんよう!)
東京から朝一で来て、趣味のラーメンの食べ歩きをするために、4軒ハシゴした。3軒はあらかじめ目星を付けていた店だったが、残り1軒は利用したタクシーの運転手から教えてもらった店で、ここがまた格別だった。
とても満足だった。
逆に不満なこともあった。
ラーメン店をハシゴしたあとに、この地域を任せているパシリに会ったのだが、ダメダメだった。最近、上納金が減っていたからハッパをかけるつもりだったのだが、売り物の薬に手を出していやがった。こうなると全く使い物にならない。
だから、知り合いに処分を任せた。今月が終わる頃には、パシリはコンクリートに詰められて海の底か、魚の餌になっている。
珍しいことではない。良心の呵責は欠片も感じない。
それよりも、折角作り上げた売買チャンネルの1つがパーになってしまった。またゼロからのスタートだ。
――面倒くせ。
気分転換のために、5軒目のラーメンを食べに行くことにした。
先程まで降っていた通り雨もやんだ。やまなければ東京に帰っていた。
帰るべきだった。
隠れ家的なその店に行くために、夜の闇に包まれたビルの谷間の路地に入った。
その時、
ビリリ
首の後ろに嫌な予感が強く走った。
予感に従って、歩く。歩く。歩く。
店の看板を避ける。
ラーメンを食べることはもう頭になかった。
角を曲がる。歩くスピードは変えない。
「第六感」と呼んでいるこの予感に従って、今まで生き延びてきた。警察はもちろん、ヤの付くヤツら、グレーゾーンのヤツらに海外のヤツら、彼らの面倒くさい暴力の手から逃げてきた。
群れるのは嫌いだ。他人は信用できない。信用できるのは自分の「第六感」だけ。
この「第六感」があったから、今のポジションを築き上げることができた。
だから、奥へ。奥へ。奥へ。
ビルからはみ出して置かれているゴミ箱を避ける。
闇雲に歩いているわけではない。
この辺りの地図は頭に叩き込んである。
角を曲がる。水たまりを避ける。
この辺りの路地は必ずどこかの道に出る。
人目のある道に出てしまえば、彼の勝ち。人目があっても狭い道はダメだ。車に引きずり込まれにくい広い歩道がある大通りがベスト。
追ってくる気配を感じる。水たまりを踏む足音が聞こえた。
――追手は1人。
1人だからと言って油断はしない。逆に油断ができない。単独で獲物を追い詰める能力がある証だから。
さらに、歩く。歩く。歩く。
ビルからはみ出して置かれているゴミ箱を避ける。
嫌な予感は強くなる一方。
気づいたことを追手に気取られないように、歩くスピードは必死で抑える。
けれど、歩いても、歩いても、歩いても、路地を抜けだすことが出来ない。
――とっくの昔に大通りに出ているはずなんだが。
頭の中の地図は役に立たなくなっている。
どこを歩いているのか分からない。
気がつくと、早足になっていた。
角を曲がる。水たまりを踏んでしま……。
足が止まる。
先程、通ったところだった。
冷たい汗が流れる。
いつの間にか、ぐるりと一周していた。でも、道に出ることなく一周することはありえない。
ゴクリ
思わず、生唾を飲み込んでしまう。
その時、後ろから、耳にしたことがない奇妙な節回しの言葉が聞こえてきた。
「あなたが私の望むモノを供えるならば、私はあなたの望むモノを授けましょう」
声には聞き覚えがあった。タクシーの運転手に教えられたラーメン店から外に出た時に、その店があった商店街でビラ配りをしていた男の声。未解決の殺人事件の情報提供を呼びかけるビラを一人で配っていた。男の声としては甲高く、そして不快感を抱かせる独特の声だったから、覚えていた。
恐る恐る後ろを振り返る。
その男が立っていた。右目は眼帯で覆われ、服のシルエットから見ても、華奢でひ弱に見える。
口の中がひどく乾く。
首の後ろに走る嫌な予感はもう痛いほどだった。
――くそっ! こいつに会った時にさっさとこの街から離れなければならなかったんだ。
ビラを受け取った時にも、ビリリと首の後ろに走った。でも、その一瞬だけだったから、無視した。よくあることだったから。
華奢でひ弱で簡単にひねりつぶせそうに見えるのだが、圧倒されるほどの恐怖を感じる。
かつて、香港に行った時に、筋骨隆々の戦場帰りのヒットマンに命を狙われた時よりも怖い。
膝が震え始めた。
むしろ、今日パシリの処理を依頼した知り合いに近いものを感じた。
否、その知り合いよりもはるかに恐ろしい。
その手で、直接、人の命を数限りなく奪ってきた空気。
同じく命を奪ってきたが、間接的である彼とは違う。
カタカタカタ
気がつくと、歯が震えていた。
キュッと歯を噛み締める。
「な、なあ、何が望みだ?」
思ったよりも自分の声が震える。でも、恥とは思わない。生き残るためにはなんだってする。泥だってなんだって啜る。
「く、薬か? 何が欲しい? Sか? エックスか? マリファナか? なんだって揃えるぞ。量も用意できる」
違法薬物の日本国内での流通を仕切る彼にとって、種類も量も揃えることは造作もない。だから、
――生き残れば勝ちだ。
自分に言い聞かせる。自分がこれまで犯してきた罪を清算する時が刻々と近づいてくる、その恐怖に押しつぶされそうになりながら。
「それとも、金か? 女か? 言ってくれたら、言われただけ用意する。見逃してくれたら、なんだってする」
これまでに破滅させた人の数は軽く千を超える。万に達しているかもしれない。でも、後悔とか後ろめたさとかはこれまで一度も感じたことはなかった。
なのに、今日だけは、今だけは、自分が破滅させてきた数多の亡者たちがすぐ後ろに迫ってきているように感じた。
――無視しろ。錯覚だ。
代わりに、生き残る手段を、逃げ出せる隙を必死になって探す。
――生き残れば勝ちだ。
生き残れば、薬漬けにして破滅させるも良し。金や女で懐柔できるなら、それも良し。諦めず命を狙ってくるなら、逆に殺し屋を用意して差し向ければ良し。
「私が求めているのは、私の家族を殺した人への復讐」
その言葉に思わずギョッとする。
――俺ではないぞ! 全く関係ない!
本当に心当たりはなかった。直接、人を殺した経験はない。
だが、間接的に影響を及ぼした可能性ならある。自分が扱っている商品を使った中毒患者が殺ってしまった、とか。
「復讐するためには力が必要。だから、私の神に捧げる。捧げて力を得る」
男の胸にぶら下がっていたペンダントトップが光った。逆様になった天秤、という奇妙な意匠。
「私の神が求めているのは罪で汚れた魂」
男の手に2mを超える薙刀が現れた。長柄の先の刃は細く、反りが浅い。
ビルの窓から漏れた灯りで煌めいた、その刃がひどく妖しく見えた。
血を吸いつくしてきた妖しさ。
そして、悟ってしまう。自分が提供できるものでは懐柔なんかできやしないことを。
――まるで死神のようだ。
――こんなヤツから逃げられるわけがない。
薙刀が振るわれた。
――俺は地獄に堕ちるんだろうな。
命は刈り取られる。
魂は輪廻転生の輪に戻らない。異世界の神の供物となる。
*
同じころ、別の場所で、堂坂正雄はとあるチェーン系列の居酒屋の暖簾をくぐろうとしていたが、
♪~
くたびれたスーツの内ポケットに入れていたスマホの着信音で動きを止めた。
入口から身体をずらし、着信を確認する。
思わず、溜息を吐きそうになった。
――覚えているって。
送ってきた相手は、弁護士。内容は妻との離婚協議の次回の日程の確認。明後日の土曜日だ。
参加できるように、上司に相談して、必ず休みになるようにお願いしている。幸い、今の上司は捜査至上主義者ではなく、ワークライフバランスを重視するタイプだったから、理解を得られた。
手早く返信を送る。
気を取り直して、居酒屋の暖簾をくぐると、
「ぃらっしゃいませー!」
元気のいい店員の明るい声に迎えられた。
店の様子をうかがって、先に来ているはずの知り合いの姿を探す。見つからなければ、店員に聞かなければならないが、
「堂坂さん! こっちです!」
奥の座敷席にいた男から声を掛けられた。
足を向ける。
「遅くなりました。申し訳ありません」
座敷に上がる前に、頭を深く下げる。
「いやいやいや。頭を上げてください!」
「こちらこそ、お忙しい中、申し訳ありません」
「そうです。さ、こちらにどうぞ」
誘いに従って、座敷に上がる。
「何か飲まれますか? ビールにしますか?」
先に来ていたのは男4人。その顔は皆、アルコールによって、すでにほんのり赤くなっている。手元のグラスも半分以下。
「すみません。烏龍茶でお願いします。もしかすると、緊急の呼び出しがあるかもしれませんので」
手元のタブレットで注文しようとする動きを制する。
「あ、そうなんですか。刑事の仕事、お忙しいんですね」
「……いえ、今は一段落付けているんですが、事件はいつ何時起きるか分かりませんので」
男たちの目が変わる。くたびれたスーツを着るうだつの上がらない中年男を見る目から、月渓警察署刑事課で働く正雄の仕事熱心さを讃える目に。
でも、正雄の横に、彼が「影」と呼ぶ存在が現れて、囁きながら罵ってくる。
(なーに、偉ぶってんだよ! このクソ刑事!)
(先週起きた殺人事件だって、まだ未解決だろ。この無能!)
他人には見えない。正雄にしか見えない。普段は、正雄の形をまとっているが、時々姿を変える。同僚、妻、両親、そして、行方不明の長男に。
もう7年以上の付き合いになる。ある日、突然現れた時には驚いたが、今ではもう慣れた。
「では、お水を。……どうぞ」
「ありがとうございます」
自動車メーカーの新車販売店で働く男がピッチャーから空きのグラスに水を注いで差し出してきたから、素直に礼を言って受け取る。
他の3人は元中学校教師のスーパーのパート店員、県の中核病院で働く医師、商店街の入口に店を構える不動産会社の社長。
年齢も社会属性も全く違う。けれど、正雄も含めて彼らには1つの共通点がある。
子供が高校の同級生で、今は行方不明である、ということ。
「県立月渓高校1年B組集団失踪事件」。
10年前、校外学習のために山道を走っていたバスがカーブを曲がり損ねて崖下に転落した。バスに乗っていたのは、運転手と県立月渓高校1年B組の生徒35人、引率する教師2人の計38人。他のクラスの生徒を乗せて後ろを走っていたバスから、直ちに救急に通報が行われたが、転落の衝撃でグチャグチャに破壊されたバスの車体の様子から生存は絶望視された。実際、運転手と教師2人は遺体で発見された。
だが、残りの生徒35人は発見されなかった。遺体はおろか、所持していたはずのバッグなどの遺留品もなにも見つからなかった。崖の下には川が流れていたが、事件の1カ月前からまとまった雨は降っていなかった。だから、増水した川の流れで海まで流された、ということもない。
生徒だけバスに乗っていなかった、ということもない。他のバスに乗っていた教師や生徒からの証言もある。
なのに、何ひとつ見つからなかった。
消防、警察、自衛隊、家族、現場付近に住む住民やボランティアが必死になって探した。
身体の一部すら、ペン1本さえ、見つからなかった。
半年後、捜索は打ち切られた。何ひとつ得るものはなく。
正雄の長男大志も行方不明となった生徒35人の1人。年頃の男の子らしく、少し自己中心的なところもあってヤンチャなところもあった。けれど、正雄にとっては、
「将来は親父と同じ警察官になるんだ!」
と言ってくれた、正義感があってリーダーシップもある自慢の息子。
ある日の捜索の時、隣県から応援として派遣されて参加していた定年間際の警察官が正雄に話しかけてきたことがあった。
「まるで、神隠しにあったみたいだな」
「……神隠し、ですか」
「そうだ。昔は結構、よくあったわけではないが、珍しい話ではなかったそうだぞ」
「……」
「俺も先輩から聞いた話なんだがな。懸命に探しても手掛かりは見当たらないときに、『神隠しにあったのだから仕方がない』と言い訳にしたケースがほとんどだったらしい」
その警察官は正雄が自分と同じように仕事で来ている仲間と思って話しかけてきていた。
「だが、時たま手掛かりが見つからないことが絶対にありえないのに見つからない、そんなケースもあったらしい。俺の孫に言わせると、今だったら神隠しじゃなくて異世界に召喚された、と言うらしい。異世界に召喚されたなんて、神隠しよりバカバカしい話だな」
声を上げて笑った。
彼と正雄の間に空気のギャップが生まれる。それで、何かを察したのか、
「まあ、愚痴だ愚痴。聞き流してくれ。これだけ懸命に探して、手掛かりひとつ見つからないから、余計なことを口走ってしまった。忘れてくれ」
最後は早口でそう言って離れていった。
あれから10年。
何ひとつ手掛かりが見つからない10年の月日は事件を忘却の彼方に押しやる。子供は死んだ、と生存を諦める家族が大多数になる。中には、心の折り合いをつけることが出来ず、バラバラになってしまった家族も、最初からいなかったとする家族も。
今でも、諦めずに探し続けている家族は少数派。正雄もその少数派に含まれる。
(嘘をつけ、偽善者!)
(だったら、なんで他の家族と距離を取る?)
(現場に捜しに行かないのはなぜだ? 他の家族と会いたくないからだろ)
「影」の囁きに、正雄は耳を貸さない。
ところが、3か月前、10年間全く手掛かりがなかった事件に動きが生まれた。
行方不明になっていた35人のうちの1人が保護されたのだ。保護された少年、10年が経過しているため青年、の名前は光村智尋。
ただし、保護されたことは公にされていない。その理由がある。
「それで! 光村君から何か話は聞けたんですか?」
社長が身を乗り出して聞いてきた。
「まだ、なにも」
と正雄が否定すれば、どんな反応が返ってくるかは簡単に想像できる。そして、予想通りの反応が返ってきた。
「何を悠長な! 子供たちは私たちが助けに来るのを今も待っているかもしれないんですよ!」
(きったねーな! 唾が飛んできやがった!)
「影」の囁きは無視する。
「今すぐ、光村君から話を聞くべきです!」
(話を聞く? 尋問の間違いじゃねーの? それとも、拷問か?)
囁きを無視する代わりに、正雄は視線を医師の方に向ける。
「光村君の今の状態は聞いていないのですか?」
「……あ、いや。今は光村君の担当を外れまして」
医師が挙動不審になりながら小さな声で答えた。
(だよなー。守秘義務を破って、ここにいる連中に情報を漏らしたんだから、当然だわな)
溜息を吐きたくなるのを必死で抑える。
保護された智尋が入院した病院で担当になったのが彼。彼がここにいる他の3人に漏らしたから、社長たちが病院まで押しかけて騒動を引き起こしたのだ。今度、智尋と直接接触しようとしたら、逮捕すると警告されている。
ただ、彼らの事情も分かる。10年間、彼らは諦めることなく行方不明の子供たちを探し続けてきたのだから。
だから、正雄がここに来たのも、彼らの不満のガス抜き。
というのは表向きの名目。結局、もっと重要なのは、彼らが暴走しないか観察と、場合によってはさらに強い警告あるいは対策をすること。もちろん、このことは上司には報告している。
「彼は先月病院を退院して、市営住宅に入りました。現在は通院しながら、リハビリ中です」
身体の治療はほぼ終えている。リハビリはむしろメンタル面であり、さらには社会生活への適合が主。10年間、彼は完全に社会から隔離されていたと見られているから。
「リハビリ? 彼は今日もビラ配りをしていたぞ。そんな余裕があるなら、さっさと話を聞くべきだ」
(お! 見はしたが接触はしなかったんだ。偉い偉い。それとも、警察に逮捕されるのが怖いのかなー?)
社長を嘲笑う「影」が、次は正雄の方を向く。
(怖いよな。怖いよなー。逮捕されてムショにぶち込まれたら、子供たちを探せなくなるからなー)
無視する。
「光村君から話は既に聞いています」
「『分からない』『覚えていない』だろ! そんなわけあるか!」
「極度のストレス環境下に置かれたことによる解離性健忘、と診断されたと聞いています。皆さんは聞いていませんか?」
解離性健忘。辛いこと悲しいこと嫌なことの記憶を無意識に封をして思い出させなくする。全ては、自分の心を守るために。
封をしているだけだから、上手くすれば思い出すことが出来る。でも、無理して思い出すと、フラッシュバックとなって心に襲い掛かってくる。
再び、医師の方に視線を向ける。
「……あ、いや。その診断の話はしたのですが」
語気が強かった社長も含めて、4人の態度が一斉にバツの悪そうなものに変わる。
(社長だけでなく、全員、あいつのこと、見に行ったんだな。そうか、そうか。見てしまったら、人間の心が少しでもあるなら、矛先をあいつに向けられないよなー)
矛先を向けられない、智尋に同情する理由がある。
服の上から見ただけで分かる、細くやつれた彼の身体を思い出す。声を聞けば、成人男性の低い声とは違う高い声が身体的な異常によるものだと察することが出来る。
診断書に目を通した正雄は、今の智尋のさらに詳しい状態を知っている。高い声は性器を切除されたことによるもの。眼帯に覆われた右目は失われて、他にも身体中傷だらけ。その傷が医療機関で治療を受けた、どころか、まともな医療行為を受けた形跡が全く無いことも。
どれだけ過酷な環境に置かれていたのか、想像は難しくない。
それゆえ、事情を知っている捜査関係者は、残りの34人の生徒の生存を完全に絶望視している。
もっとも、
(お前は諦めていないよなー)
――当然だ!
徒労を嘲笑うかのような「影」に向かって、正雄は心の中で言い返す。
だが、唐突にパート店員がポツリと零した言葉に、思わず表情が動いてしまいそうになった。
「光村さん一家が生きてらっしゃったら、喜ばれたでしょうね」
(あひゃひゃひゃっ!! 生きてたら喜んだ?)
笑い転げる「影」の言葉が正雄の心を傷つけてくる。
(逆だろ! 生きてたら、お前らが嫉妬で殺すだろ? 「俺たちの子供は帰ってきていないのに、なんでお前だけ!」って!)
智尋の家族はいない。
殺された。
「光村家一家殺人事件」。
失踪事件の2年後に起きた事件。智尋の両親と妹が自宅で殺された。犯人はまだ捕まっていない。
失踪事件の生徒たちの家族にとって、この事件は大きな影響をもたらした。智尋の両親が残された家族たちが結束するまとめ役になっていたからだ。公的機関による捜索が終わった後も、行政への追加捜索の働きかけをした。家族だけで捜索活動もした。市内で情報提供を求めるビラ配りをして、世間の人々から失踪事件の記憶が風化しないように活動も行った。心が折れかかった他の家族の支えにもなっていた。
そんな一家の殺害は、失踪事件に遭った生徒の家族たちが一塊になっていたのを容赦なくバラバラに突き崩した。
ある家族は活動から距離を置いた。ある家族は遠くへ引っ越した。そうした家族を口汚く非難した家族もいた。
だから、世間から忘れ去られた。集団失踪事件も、一家殺人事件も。
(まあ、一家殺人事件が忘れ去られるのは、お前にとって好都合だよなあ)
「影」がニタリと嗤って囁いてくる。
正雄の心を深くえぐれるチャンスは決して見逃さない。
(なあ、そうだよな。……光村一家の殺人犯さんよう!)
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