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第一部
俺だけの大天使様3
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その日に限って仕事が忙しく、翌朝、伯爵邸を訪れた俺はダヴィド・ルグラン伯爵に「解雇する予定の使用人は何処だ?」と聞いた。しかし、何時まで経っても答えが返ってこない。真っ青な顔をして「いや」とか「その」とか言葉を濁すだけ。俺の質問に答えられないのか? 無能め。
「えっと、昨日の夕方から、姿を見て、いなくて」
「は? 姿を見ていない? 雇い主が部下の居場所を把握していないとはどういうことだ?」
「い、いえ。その……」
この男、自分が当主である自覚があるのか? 人を雇う以上、教育指導を徹底するのは常識中の常識であり、部下の体調や健康を維持するのも当主としての役目の筈。その役目を放棄しておきなら、此奴が伯爵家の当主? あまりにも非常識すぎて笑いすら出てこない。
「旦那様。ジャノです」
ダヴィドが俺の質問に答えず固まっていると、扉をノックする音と、まるで小鳥の囀りのような美しく落ち着いた声がした。この声。間違いない! 伯父さんに裏切られ、変態に襲われ、魔力が暴発しかけていた俺を助けてくれた大天使様のお声だ! 十年間ずっと聴き続けていたんだ。絶対に間違いない! あの二人が言っていたことは本当だったんだ! あぁ、やっと会える。俺の、俺だけの大天使様に!
「何をボケッとしている? 彼を中に入れろ」
「え? で、ですが……」
「俺に逆らうのか?」
「ヒィ! わ、分かりました。い、言う通りにします!」
怯えながらも、貴族としてのプライドが許さないのか、偉そうに「入れ」とダヴィドが告げると、ガチャと扉を開く音が聞こえた。
「失礼しま……」
ぁあ! 俺の、俺のすぐ後ろに! 大天使様が! 待て、落ち着け。ここで間違った判断をすれば、大天使様に二度と会えなくなってしまう! 絶対に大天使様を俺の家にお持ち帰り、ごほん、保護して安心して暮らしていただかなければ! その為にはやはり第一印象は大事! 落ち着け。ユベール・ベルトラン。優しく、スマートに大天使様をお連れ……
「お前の噂は聞いていたが。公爵家のご子息であるユベール・ベルトラン様にも手を出していたとはな」
は?
「女性だけでなく、男性にも横恋慕するとは本当に見境がないな。これだから平民は嫌いなんだ」
はあ? 何を言っているんだ? 此奴は。俺の大天使様に向かってなんだ? その偉そうな態度は。万死に値する。今すぐ此処で断罪されたいのか?
「ユベール様。考え直してください。彼は貴族の女性であれば誰でもいいのです」
そんな訳あるか。その噂は既に嘘だと把握している。後でちゃんと調査はするが、そんなことをせずとも大天使様が清廉潔白であることは間違いない。それを、この女は……あぁ、苛々するなあ。
「私も彼に好かれてとても怖い思いをしました。ユベール様には私のような思いをしてほしくないのです。それに、彼の就職先は既に決まっていて……」
「誰が喋れと言った? その耳障りな声をどうにかしろ。不愉快だ」
「え?」
彼に好かれて、だと? 被害妄想も程々にしろ。気持ち悪い。チラッと大天使様を見たが、彼は困惑しているだけで、恋愛感情など抱いていない。それを、あたかも自分は被害者ですとでも言いたげな表情をしやがって。少し注意しただけで泣き出して旦那に縋って。それなのに俺に好意の目を向けてきて。不誠実なのは貴様の方だろう。愛する旦那がいるなら、俺に対してそんな期待の眼差しを向けるな。お前如きがこの俺に見初められるとでも? 天地がひっくり返ってもあり得ないから安心しろ。
「ユベール様! ニナはその男に襲われた直後で怯えているのです! ですから」
「下らない恋愛劇場は他所でやれ。それに、これは依頼ではない。命令だ。伯爵如きが公爵家に逆らうのか?」
「そ、そんな! ですが、彼は貴族界では本当に評判が悪く! どうせ、昨日だって都合のいい女のところに上がり込んで……」
だから、それこそが嘘だと言っているだろうが! この馬鹿二人はどれだけ俺の大天使様を侮辱すれば気が済むんだ!
「何度も言わせるな。彼を俺に渡せ」
「で、ですが」
時間の無駄だ。下品なこの二人を見て苛々するより、大天使様の美しいご尊顔を拝んで癒される方がいいに決まっている。
「人を見る目がない無能だらけの屋敷に、彼を置いておく訳にはいかない。これからは俺が彼を大切にする。辛い思いなんて絶対にさせない。だから、もう我慢しないでください」
「へ?」
困惑する大天使様の腕をそっと掴み、細い腰に手を添えて優しく抱き寄せる。あぁ、近くで見ると更に美しい。流石は俺だけの大天使様。我慢できず、俺は大天使様の頬に口付けた。大天使様の頬はとても柔らかくて弾力もあった。何時までも吸い付いていた……ダメだ。それは家に帰ってからだ。名残惜しいが、大天使様の頬から唇を離す。
大きく目を見開いて俺を見上げる彼は、間違いなく俺が探し続けていた大天使様だ。この柔らかなハニーブロンドの髪。蜂蜜とチョコレートを混ぜ合わせて固めた飴のような美しい瞳。小柄で細っそりとした身体。この馬鹿どもに殴られたのか、大天使様の頬は赤黒く変色していた。誰かが応急処置をしたのだろう。痣はそれほど大きくなっていないが、見ていて気持ちのいいものではない。俺の大天使様にこんな傷を付けるとは、覚悟しておけ。ダヴィド・ルグラン。ニナ・ルグラン。公爵家の全ての権力を用いてでも、貴様らの悪事を白日の元に晒して、この世界から抹消してやる。だが、今優先すべきは大天使様だ。大天使様を保護することには成功した。後は、大天使様を俺の家へ連れて帰って、快適に過ごしていただくだけだ! おっと、その前に、大天使様の怪我を治さなければ。
「やっと見付けました。ジャノ。もう、絶対に逃がしませんから」
素早く大天使様を横抱きにするのと同時に、彼の怪我をした頬に治癒魔法を施す。大天使様は突然の出来事に呆然としているが、そんなお姿も美しい。後ろで二人が何やら喚いているが、俺の目的は大天使様を見付け出して保護すること。もう此処に用はない為、俺は大天使様を連れて実家へと戻った。
ああああああああああ! 今! 俺の! 腕の! 中に! だ、だだだ、大天使様ががががぁあああああああああ! これから毎日、本物の大天使様と一つ屋根の下で……ぐ! た、耐えろ! 大天使様を穢すなど万死に値す……
『ぁ、ユベール、さま。そこ、だめ……きも、ち、いから、ぁあ!』
『ユベール、さまの、おっきぃ。はや、く、おれのなかに、ちょおだい?』
「は!」
な、何を考えているんだ! 俺は! いや、いずれはそういう関係にもなりたいし、大天使様の裸体を舐め回すようにじっくり観察したいが、一番に考えなければならないのは大天使様の心のケアと安心して快適に過ごせる環境だろう! 自分の欲望に負けるな! ユベール・ベルトラン! ほっぺにちゅー? アレは挨拶のようなものだから問題ない。
大天使様であるジャノを見付けて早一週間。貴族の令嬢や夫人達が流していた悪趣味な噂は全て嘘だと公爵家に仕える者達には周知徹底している。俺が十年も想い続けた最愛をやっと見付けることができたのだ。ジャノは年齢差や身分差をとても気にしていたが、それも既に解決済みだ。お父様とお母様は最初こそ反対していたが、俺が本気であること、俺の命の恩人であること、何年経っても俺が大天使様のことを想っている姿を見続け、二人は「ユベールが好きな人なら身分は問わない」と認めてくださった。お父様とお母様もジャノには心から感謝しているのだ。
ジャノの為に用意した部屋も、ドレスや宝石も、俺が思っていた通り彼によく似合っていた。他の貴族令嬢達ならそれを当然とでもいうかのようにアレもコレもと高価なドレスや宝石を求める。飢えた獣同然だ。けれど、ジャノは違った。ドレスや宝石の価格を聞いて、落ち着かない様子だった。それでも、食事を運んできた使用人達に「ありがとうございます」とお礼を言うから、顔には出さなかったが俺も使用人達も驚いた。使用人達にお礼を言う貴族は少ないからだ。彼は自分のことを「平民だ、孤児だ」と言うが、彼の生い立ちや身分を気にする者はこの家には一人も居ない。むしろ……
「あの、ユベール様」
「君は、さっき食事を運んでくれた」
「はい。突然お声がけして申し訳ありません。本当は許されないことだと分かっているのですが、どうしてもお伝えしたいことがあって」
「急ぎの用事か?」
「いえ! 用事ではなく……あの、ユベール様。私、応援しています! 必ず、必ず若奥様の心を射抜いてください! ユベール様の深い愛情で、若奥様をメロメロにしてください!」
「ん?」
「い、言いたいことはそれだけですので! し、失礼します!」
お父様が雇っている人は皆優秀だ。礼儀作法も、仕える上での常識と非常識、仕事内容、彼女達はその全てを熟知している。にも関わらず、その常識を破ってでも俺に伝えたかったことが「若奥様の心を射止めて」だなんて。こんなことを言われて、彼女を怒る訳にはいかない。俺だけでなく、他の人をも虜にしてしまうとは、流石は俺だけの大天使様。ジャノをこの家に連れて来てまだそんなに日は経っていないのに、もう「若奥様」呼びか。俺も頑張らなくては。必ず、大天使様の心を射止めてみせる!
日が経つに連れ、ジャノを褒め称える声があちこちで聞こえてくるようになった。ジャノは誰に対しても平等に接し、何かをしてもらうと必ずお礼の言葉を述べる。仕事に行かなくていいのかと俺のことを心配してくれて、感動のあまり涙を流しそうになった。必要最低限の仕事はしていると伝えたが、ジャノは「ユベール様にしか出来ない仕事もある筈です。職場の人を困らせるのはダメです」と注意してくれた。やはりジャノは心優しい人だ。俺と同じ職場の人の心配までするなんて。ジャノに関する悪い噂が広まる可能性もあると言われ、俺は渋々職場へ行くことにした。俺が居ない間はステラにジャノのお世話をするよう命じているから安心だ。だが……
「此処か。ジャノが言っていたカフェは……」
午前中に全ての仕事を終わらせ、俺は白いレンガ造りの建物を見上げる。二階建ての洒落た店だ。看板も店主が拘っているだけあってお洒落だ。文字は読めないが……
「へえ。此処がそうなの? 君の恋敵くんが経営するカフェ」
仕事帰り、俺に声をかけ、勝手に付いて来た友人が、楽しそうに目を細める。王太子殿下ともあろう方が、王宮を抜け出して大丈夫なのかと疑問に思うが、昔からこの方は人の話を聞かず、かなりマイペースで他者を振り回す天才だ。後々の面倒事は殿下に責任を取ってもらうとして、俺は敵地へと乗り込んだ。
「えっと、昨日の夕方から、姿を見て、いなくて」
「は? 姿を見ていない? 雇い主が部下の居場所を把握していないとはどういうことだ?」
「い、いえ。その……」
この男、自分が当主である自覚があるのか? 人を雇う以上、教育指導を徹底するのは常識中の常識であり、部下の体調や健康を維持するのも当主としての役目の筈。その役目を放棄しておきなら、此奴が伯爵家の当主? あまりにも非常識すぎて笑いすら出てこない。
「旦那様。ジャノです」
ダヴィドが俺の質問に答えず固まっていると、扉をノックする音と、まるで小鳥の囀りのような美しく落ち着いた声がした。この声。間違いない! 伯父さんに裏切られ、変態に襲われ、魔力が暴発しかけていた俺を助けてくれた大天使様のお声だ! 十年間ずっと聴き続けていたんだ。絶対に間違いない! あの二人が言っていたことは本当だったんだ! あぁ、やっと会える。俺の、俺だけの大天使様に!
「何をボケッとしている? 彼を中に入れろ」
「え? で、ですが……」
「俺に逆らうのか?」
「ヒィ! わ、分かりました。い、言う通りにします!」
怯えながらも、貴族としてのプライドが許さないのか、偉そうに「入れ」とダヴィドが告げると、ガチャと扉を開く音が聞こえた。
「失礼しま……」
ぁあ! 俺の、俺のすぐ後ろに! 大天使様が! 待て、落ち着け。ここで間違った判断をすれば、大天使様に二度と会えなくなってしまう! 絶対に大天使様を俺の家にお持ち帰り、ごほん、保護して安心して暮らしていただかなければ! その為にはやはり第一印象は大事! 落ち着け。ユベール・ベルトラン。優しく、スマートに大天使様をお連れ……
「お前の噂は聞いていたが。公爵家のご子息であるユベール・ベルトラン様にも手を出していたとはな」
は?
「女性だけでなく、男性にも横恋慕するとは本当に見境がないな。これだから平民は嫌いなんだ」
はあ? 何を言っているんだ? 此奴は。俺の大天使様に向かってなんだ? その偉そうな態度は。万死に値する。今すぐ此処で断罪されたいのか?
「ユベール様。考え直してください。彼は貴族の女性であれば誰でもいいのです」
そんな訳あるか。その噂は既に嘘だと把握している。後でちゃんと調査はするが、そんなことをせずとも大天使様が清廉潔白であることは間違いない。それを、この女は……あぁ、苛々するなあ。
「私も彼に好かれてとても怖い思いをしました。ユベール様には私のような思いをしてほしくないのです。それに、彼の就職先は既に決まっていて……」
「誰が喋れと言った? その耳障りな声をどうにかしろ。不愉快だ」
「え?」
彼に好かれて、だと? 被害妄想も程々にしろ。気持ち悪い。チラッと大天使様を見たが、彼は困惑しているだけで、恋愛感情など抱いていない。それを、あたかも自分は被害者ですとでも言いたげな表情をしやがって。少し注意しただけで泣き出して旦那に縋って。それなのに俺に好意の目を向けてきて。不誠実なのは貴様の方だろう。愛する旦那がいるなら、俺に対してそんな期待の眼差しを向けるな。お前如きがこの俺に見初められるとでも? 天地がひっくり返ってもあり得ないから安心しろ。
「ユベール様! ニナはその男に襲われた直後で怯えているのです! ですから」
「下らない恋愛劇場は他所でやれ。それに、これは依頼ではない。命令だ。伯爵如きが公爵家に逆らうのか?」
「そ、そんな! ですが、彼は貴族界では本当に評判が悪く! どうせ、昨日だって都合のいい女のところに上がり込んで……」
だから、それこそが嘘だと言っているだろうが! この馬鹿二人はどれだけ俺の大天使様を侮辱すれば気が済むんだ!
「何度も言わせるな。彼を俺に渡せ」
「で、ですが」
時間の無駄だ。下品なこの二人を見て苛々するより、大天使様の美しいご尊顔を拝んで癒される方がいいに決まっている。
「人を見る目がない無能だらけの屋敷に、彼を置いておく訳にはいかない。これからは俺が彼を大切にする。辛い思いなんて絶対にさせない。だから、もう我慢しないでください」
「へ?」
困惑する大天使様の腕をそっと掴み、細い腰に手を添えて優しく抱き寄せる。あぁ、近くで見ると更に美しい。流石は俺だけの大天使様。我慢できず、俺は大天使様の頬に口付けた。大天使様の頬はとても柔らかくて弾力もあった。何時までも吸い付いていた……ダメだ。それは家に帰ってからだ。名残惜しいが、大天使様の頬から唇を離す。
大きく目を見開いて俺を見上げる彼は、間違いなく俺が探し続けていた大天使様だ。この柔らかなハニーブロンドの髪。蜂蜜とチョコレートを混ぜ合わせて固めた飴のような美しい瞳。小柄で細っそりとした身体。この馬鹿どもに殴られたのか、大天使様の頬は赤黒く変色していた。誰かが応急処置をしたのだろう。痣はそれほど大きくなっていないが、見ていて気持ちのいいものではない。俺の大天使様にこんな傷を付けるとは、覚悟しておけ。ダヴィド・ルグラン。ニナ・ルグラン。公爵家の全ての権力を用いてでも、貴様らの悪事を白日の元に晒して、この世界から抹消してやる。だが、今優先すべきは大天使様だ。大天使様を保護することには成功した。後は、大天使様を俺の家へ連れて帰って、快適に過ごしていただくだけだ! おっと、その前に、大天使様の怪我を治さなければ。
「やっと見付けました。ジャノ。もう、絶対に逃がしませんから」
素早く大天使様を横抱きにするのと同時に、彼の怪我をした頬に治癒魔法を施す。大天使様は突然の出来事に呆然としているが、そんなお姿も美しい。後ろで二人が何やら喚いているが、俺の目的は大天使様を見付け出して保護すること。もう此処に用はない為、俺は大天使様を連れて実家へと戻った。
ああああああああああ! 今! 俺の! 腕の! 中に! だ、だだだ、大天使様ががががぁあああああああああ! これから毎日、本物の大天使様と一つ屋根の下で……ぐ! た、耐えろ! 大天使様を穢すなど万死に値す……
『ぁ、ユベール、さま。そこ、だめ……きも、ち、いから、ぁあ!』
『ユベール、さまの、おっきぃ。はや、く、おれのなかに、ちょおだい?』
「は!」
な、何を考えているんだ! 俺は! いや、いずれはそういう関係にもなりたいし、大天使様の裸体を舐め回すようにじっくり観察したいが、一番に考えなければならないのは大天使様の心のケアと安心して快適に過ごせる環境だろう! 自分の欲望に負けるな! ユベール・ベルトラン! ほっぺにちゅー? アレは挨拶のようなものだから問題ない。
大天使様であるジャノを見付けて早一週間。貴族の令嬢や夫人達が流していた悪趣味な噂は全て嘘だと公爵家に仕える者達には周知徹底している。俺が十年も想い続けた最愛をやっと見付けることができたのだ。ジャノは年齢差や身分差をとても気にしていたが、それも既に解決済みだ。お父様とお母様は最初こそ反対していたが、俺が本気であること、俺の命の恩人であること、何年経っても俺が大天使様のことを想っている姿を見続け、二人は「ユベールが好きな人なら身分は問わない」と認めてくださった。お父様とお母様もジャノには心から感謝しているのだ。
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「あの、ユベール様」
「君は、さっき食事を運んでくれた」
「はい。突然お声がけして申し訳ありません。本当は許されないことだと分かっているのですが、どうしてもお伝えしたいことがあって」
「急ぎの用事か?」
「いえ! 用事ではなく……あの、ユベール様。私、応援しています! 必ず、必ず若奥様の心を射抜いてください! ユベール様の深い愛情で、若奥様をメロメロにしてください!」
「ん?」
「い、言いたいことはそれだけですので! し、失礼します!」
お父様が雇っている人は皆優秀だ。礼儀作法も、仕える上での常識と非常識、仕事内容、彼女達はその全てを熟知している。にも関わらず、その常識を破ってでも俺に伝えたかったことが「若奥様の心を射止めて」だなんて。こんなことを言われて、彼女を怒る訳にはいかない。俺だけでなく、他の人をも虜にしてしまうとは、流石は俺だけの大天使様。ジャノをこの家に連れて来てまだそんなに日は経っていないのに、もう「若奥様」呼びか。俺も頑張らなくては。必ず、大天使様の心を射止めてみせる!
日が経つに連れ、ジャノを褒め称える声があちこちで聞こえてくるようになった。ジャノは誰に対しても平等に接し、何かをしてもらうと必ずお礼の言葉を述べる。仕事に行かなくていいのかと俺のことを心配してくれて、感動のあまり涙を流しそうになった。必要最低限の仕事はしていると伝えたが、ジャノは「ユベール様にしか出来ない仕事もある筈です。職場の人を困らせるのはダメです」と注意してくれた。やはりジャノは心優しい人だ。俺と同じ職場の人の心配までするなんて。ジャノに関する悪い噂が広まる可能性もあると言われ、俺は渋々職場へ行くことにした。俺が居ない間はステラにジャノのお世話をするよう命じているから安心だ。だが……
「此処か。ジャノが言っていたカフェは……」
午前中に全ての仕事を終わらせ、俺は白いレンガ造りの建物を見上げる。二階建ての洒落た店だ。看板も店主が拘っているだけあってお洒落だ。文字は読めないが……
「へえ。此処がそうなの? 君の恋敵くんが経営するカフェ」
仕事帰り、俺に声をかけ、勝手に付いて来た友人が、楽しそうに目を細める。王太子殿下ともあろう方が、王宮を抜け出して大丈夫なのかと疑問に思うが、昔からこの方は人の話を聞かず、かなりマイペースで他者を振り回す天才だ。後々の面倒事は殿下に責任を取ってもらうとして、俺は敵地へと乗り込んだ。
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