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三話
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数週間後。
貴方が目を覚ますと、弦が綺麗に張り直されたヴァイオリンが枕元に置かれていました。
驚きに息を止め、すぐ理解しました。
修理がすんだヴァイオリンをひっさげ厨房へ赴けば、ダミアンがミルク粥を煮ていました。
「これお前が?」
「エルマー親方が。さすが腕利きヴァイオリン職人の仕上げ、生まれ変わったね」
薬を譲る条件はヴァイオリンの修理でした。
壊れて音が出ず、折れた魂柱や切れた弦を見るのが忍びなく、ダミアンと暮らし始めてからは放置していたのに……。
「余計な事すんな」
「お気に召さなかった?」
「直してくれなんて頼んでねえ」
「君の為じゃない。僕の為」
「あん?」
「介抱したお代まだなの忘れた?一曲弾いてよ」
ダミアンが悪戯っぽく含み笑い、貴方はいよいよ困り果て、「飯がすんだらな」と降参代わりに呟きました。
その日の昼下がり、貴方はダミアンと共に森にでかけ、懐かしい曲を演奏しました。
生前母が愛した曲です。
魂柱を支え持ち、深呼吸ののち弓を滑らします。
鮮やかに翻り滑走する弓と震える弦が紡ぐのは、情感が乗った蠱惑的旋律。
豊穣に膨らむ低音に呼応し、蒼穹へと昇天する清冽な高音。
木漏れ日が斑に落ち、木の葉がさざめき、過去の祝祭の残響が甦ります。
ダミアンは倒木に掛けて陶然と耳を傾け、貴方が弾き終わると同時に温かい拍手を贈りました。
「故郷を思い出した」
「ロマじゃねえだろ」
このように、ダミアンは皆に分け隔てなく親切でした。
急病人や怪我人が出れば夜中だろうと労を惜しまず問診し、癒えれば我が事のように喜び、亡くなればとても落ち込みました。
さらには田舎の薬師にしては学があり、貴方が頼んでないにもかかわらず、字の読み書きを教えてくれます。
「アインス、ツヴァイ、ドライ……いい調子だ」
夜寝る前に机に向かい、ダミアンお手製の薬草図鑑や調合レシピを写本するのが新しい習慣になりました。
ランプの薄明かりのもと、貴方が握る羽ペンに手を添え綴りの誤りを正し、ダミアンが言い聞かせます。
「君の名前はこう書く。覚えといて」
「お前の国の言葉なんか知らない。俺はロマだ」
「でもさ、名前がたくさんあるのはお得じゃないかな。それだけ祝福されてるみたいで」
「誰に?」
ダミアンは束の間沈黙し、気恥ずかしげに告白しました。
「神様に、かな」
ほんの一瞬、ランプに映える横顔の静謐さに見とれました。「神様」と呟いた瞬間のダミアンが、聖なる祈りを捧げてるように見えたからでしょうか。
名前の表記の数だけ祝福されてる。
そんな発想、終ぞした事がありませんでした。
ロマとして産まれロマとして生きてきた貴方に、ダミアンの考えはとても新鮮に感じられました。
胸の内に激情が吹きこぼれ、知らず声が尖ります。
「お前たちが信じる神様ってイエス・キリスト一人じゃないの?祝福の大盤振る舞いだな」
露骨な当てこすりにダミアンは唇を噛み、慎重に言葉を選んで、羊皮紙に目を落としました。
「カトリックの見解ではそうなっている。でも僕は……神様っていうのは、むしろこの世界そのものじゃないかって思うんだ」
こんなこと言ったら捕まっちゃうかもしれないけど、と口元に人さし指を立て。
「収穫祭に行ったことは」
「……あるよ。ガキの頃、村に呼ばれて楽器を弾いた。母さんと一緒に」
昔を懐かしんで呟けば、ダミアンが遠くを見詰める目をします。
「豊穣を祝い踊るひとびと。咲き零れる笑顔。黄金の麦穂。高らかに囀るツグミ。果てしなく続くエリカの荒野。丘を駆ける幌馬車のキャラバン。そんな地上の営みこそ、神の御業と結び付いてるように感じないかい」
「わかんねえよ」
「難しいか。ごめん、人に物を教えるのが下手だね」
「じゃなくて。俺が馬鹿なんだ、きっと」
「違うよ。そうじゃない。そうじゃなくて……」
もどかしげに否定し、貴方の手を強く握り締めます。
「神様はね、熱を出した子の背を一晩中さする母親の手に宿る」
「……」
彼が言おうとしてる事、伝えたがっている事が漠然とわかりました。嘗てそのぬくもりを体験したから、実感として腑に落ちたのです。
「学びは無駄じゃない。勉強を疎かにしちゃいけない。君は賢い、きっともっと賢くなれる。僕の図鑑の写しで満ち足りず、より広い知識を身に付け、世界を切り開いて行ってほしい」
理解に苦しむ貴方の肩を掴み、ダミアンは熱心にかきくどきました。
「言葉はね、人の心が訳した世界なんだ」
……思い出しましたか。
ご自分で気付いてません?今、すごく優しい顔をしてましたよ。
ダミアンはロマンチックな人でした。
空想家、とでも呼びましょうか。
詩的な表現を多用し、その言葉はまるで音楽のように響きました。
貴方がたは十四歳離れていた。世間的には師弟で通ります。
実際貴方にとって、ダミアンは唯一無二の師といえる存在でした。
あるいはお母上が与えたもうた以上のものを、ダミアンは授けました。
森で採れる薬草の名前や種類、調合の仕方、さらには各種ジャムやピクルスをはじめとする保存食の作り方。
もとより聡明な貴方は学ぶ機会を得たことで、あらゆる知識を貪欲に吸収していきました。
「収穫したハーブは軽く水洗いしたあと水分を拭きとり、少量ごと束ねて逆さに吊るす。大量にまとめちゃうと中まで空気が通らずカビが発生するから注意してね。天日干しは香りが飛ぶから避けて、風通しが良い日陰に保管するんだ」
「小姑かよ。言われなくてもわかってるって」
「さすが僕の弟子、飲み込みが早い」
正直、ダミアンに褒められるのはくすぐったい。胸の内がざわざわして落ち着きません。
数か月経過する頃にはひと通りの家事を覚え、捻挫の処置程度なら楽にこなせるようになりました。
貴方はダミアンに用事を言付かり、村にでかけるようになります。
「おかえり。って、どうしたの」
「転んだ」
「誰にやられたんだ」
「人の話聞いてた?」
「手当するから来て」
行き帰り、悪ガキどもに石を投げられました。ダミアンは案の定しょげ返り、包帯を巻きながら詫びました。
「気が回らなくてすまない」
「別に。慣れてっから」
ツィゴイネルはどこへ行こうと嫌われもの。
村外れの森に住み着いた孤児の噂はあっというまに広まり、今もって白眼視されています。
ダミアンは貴方の答えに胸を痛め、次からは自分が村に行く、と断言しました。
「そういうのやめろよ、かえって迷惑だ。ただでおいてもらってるだけで居心地悪ィのに」
「助手を住みこませるのは普通だろ」
「変な気遣うなってば、ガキに石投げられたりこそこそ言われる位へっちゃらだ」
「僕が嫌だ」
ダミアンは案外頑固でした。貴方は途方に暮れ、妥協案を閃きました。
「……じゃあさ、一緒に行くってのは」
「え?」
顔が熱くなります。
「どのみち荷物持ちは要るだろ。盾になってくれりゃその、有難てェし。無理にたァ言わねえけど」
ああ、何言ってんだ俺。
遂には耳たぶまで火照りだします。
ダミアンはきょとんとし、次いで晴れ晴れと笑い、貴方を抱き締めました。
「名案だね」
その夜、物凄い勢いで小屋の戸が叩かれました。眠い目を擦って扉を開けるや、息を切らしたハンスが転がり込んできて面食らいました。
「助けてくれダミアン、女房が産気付いた!」
「え……」
当惑します。
「八人目だろ?ンな慌てなくても」
「前と違って血がたくさん出て止まんねえんだよ、今までこんな事なかったのに」
「村の産婆は」
「グレーテル婆は先月コロッと逝っちまった、四の五のぬかさず血止めに利く薬草あんならくれよ、お代はあとで必ず払うから……くそっ、てめえじゃ話になんねえ!ツィゴイネルの小僧は引っ込んでろ!」
怒り狂ったハンスに呼ばれ、ランプを下げたダミアンが出てきました。
「話は聞かせてもらいました」
「知り合いの産婆を呼んでくれ、今すぐ紹介状書いて、ああ畜生間に合わねえ今夜が山なんだ、アドルフの嫁さんみてえに赤ん坊ともども死んじまったら」
靴職人のハンスは子煩悩な愛妻家で知られていました。すっかり思い詰め、頭を掻きむしる醜態にはさすがに同情を禁じ得ず、おそるおそるダミアンの顔色を窺います。
薬師の決断は迅速でした。
「来い」
「え?」
「人手は一人でも多い方がいい。いい加減血に慣れて欲しいし」
「お産の手伝いに行くのか?」
「そうだよ」
「アンタ男だろ、出産に立ち会うなんて聞いたこと」
「僕たちしかいないんだ」
ダミアンは「たち」と言いました。
まだ半人前の助手にすぎない貴方を、現場を支える即戦力と見込んだのです。
キリスト教的価値観が根付いた中世欧州にて、産婆は異端の類縁と見なされていました。
曰く産婆は異教の母権制社会や女神崇拝に結び付いており、カトリック教会は彼女たちを許し難い信仰の敵と定めたのです。前述した『魔女に与える鉄槌』にも魔女の代表例として産婆が挙げられ、台所で新生児に魔術的洗礼を施す他、悪魔の生贄に捧げると信じられていました。
あんまり大きな声じゃ言えませんが、内緒で通ってくる女たちに、子堕ろしの薬草を都合していたのも無関係ではないでしょうね。
ダミアンはタブーを破りました。
難産に苦しむ患者を見捨てられず、男の身でありながら産婆を代行し、夜道をひたすら駆けてハンスの家に向かったのです。
グレーテル婆さんが死んだ今、村外れの森に住む薬師の青年だけが村人たちの拠り所でした。
「ハンスさんはありったけお湯を沸かしてください」
「よしきた」
あたふたする旦那に命じ、颯爽と歩くダミアンに追いすがります。
「俺は何すりゃいい」
「付いてきて」
寝室ではハンスの女房が壁に手を付き、近所の主婦の立ち合いのもと、大股開きで息んでいました。
床には羊水と血が溜まっています。
「ダミアン!?」
「非常識じゃない、出てって!」
寝室に踏み込んだ青年と少年に女たちは色めき立ち、激烈な拒絶反応を示しました。
「ぐっ」
「失神するなら外でね」
一瞬が気が遠のきかけるも、辛うじて踏みこたえます。ダミアンは壁を支えに踏ん張る女房の腰に手を回し、注意深くベッドに導きました。
「横になった方が負担が少ないでしょ」
ここで注釈を加えますが、当時は立産……立ったままお産するのがスタンダードだったんですよね。
「お湯を持ってきて!」
「わかった!」
ダミアンの指示で部屋から飛び出すなり、ハンスと隣人の会話が聞こえました。
「……しかしなあ、いくら腕利きでも野郎にお産を頼むのは……」
「背に腹は代えられねえ」
「教会にばれたら事だぞ」
「隣村から呼んでくるにしたって今から峠越えは……」
「こないだも旅人が狼に食われたっけ」
「うちの女房はやっこさんにぞっこんなんだ。悪阻止めがばっちり利いたもんで、頭っから信頼してんのさ」
「人のカミさんの股ぐらただで見れて、全くツイてるよな」
何故真夜中に叩き起こされ、文句も言わず飛んできたダミアンが蔑まれなければいけないのでしょうか。
猛烈な怒りがこみ上げ、強く強く拳を握ります。
殴りかかろうとした矢先、力強く肩を掴まれました。背後にダミアンがいました。
「吹きこぼれるよ」
直後、優先順位を思い出しました。
貴方は暖炉へ駆け寄り、沸騰したお湯を盥に移し替え、それを抱えて寝室に急ぎました。
ベッドでは女房が唸っていました。
「布を消毒して!」
的確な指示に従い、大急ぎでシーツを煮沸します。
ダミアンは女房の足元に回り、両膝を大きく開かせ、彼女が今からひりだそうとする赤ん坊に呼びかけていました。
「頑張れ。もうすぐだ。いいぞ、その調子」
「師匠、俺は!?」
「手を握って」
もちろんそうしました。陣痛に喘ぐ女房の手を包み、顔に滴る汗を拭い、「頑張れ」「その調子」「ひっひっふー」と応援しました。
神様どうか、この人と赤ん坊を助けてください。
無事に産ませてやってください。
二時間後、産声が響き渡りました。
「おめでとうございます、元気な男の子ですよ」
「ああ……ありがとうございます」
分娩を終えた女房が泣き崩れ、貴方に向き直ります。
「アンタもありがとね」
初めて村人にお礼を言われました。
「臍の緒の処置は任せた」
夜通しお産にかかりきり、窓の外には夜明けが訪れていました。死んだ母と産婆の面影が脳裏を過ぎり、自分もこうして産まれたのだと悟り、哀しくもないのに何故だか涙が滲み、髪の毛をかき回す師匠の手の優しさにまた泣けてきました。
臍の緒を断ち切る頃には手の震えもおさまりました。
ダミアンは産湯に浸けた嬰児を清潔な布にくるみ、小さな額に接吻しました。
「新しい命に祝福を」
父を知らずに育った貴方は、赤子を慈しむ青年の横顔に父性の上澄みを見ました。
「抱いてみる?」
「……いいの?」
ベッドに仰向けた女房とダミアンを見比べれば、両者に笑顔で促されました。
おずおず嬰児を抱き取り、薄毛の生え際をそっと撫で、小さな手のひらを人さし指で擦ります。
次の瞬間、赤子が指を掴みました。
「嬰児は産声で世界を訳す。赤ん坊が泣いて生まれてくるのは、まだ見えない目の代わりに、声で世界を手探りしてるからなんだよ」
「それって……」
「生きようとする意志そのものじゃないか」
一生懸命、がむしゃらに。
希望を掴むために。
貴方がダミアンを師と認め、慕うようになったきっかけの出来事です。
貴方が目を覚ますと、弦が綺麗に張り直されたヴァイオリンが枕元に置かれていました。
驚きに息を止め、すぐ理解しました。
修理がすんだヴァイオリンをひっさげ厨房へ赴けば、ダミアンがミルク粥を煮ていました。
「これお前が?」
「エルマー親方が。さすが腕利きヴァイオリン職人の仕上げ、生まれ変わったね」
薬を譲る条件はヴァイオリンの修理でした。
壊れて音が出ず、折れた魂柱や切れた弦を見るのが忍びなく、ダミアンと暮らし始めてからは放置していたのに……。
「余計な事すんな」
「お気に召さなかった?」
「直してくれなんて頼んでねえ」
「君の為じゃない。僕の為」
「あん?」
「介抱したお代まだなの忘れた?一曲弾いてよ」
ダミアンが悪戯っぽく含み笑い、貴方はいよいよ困り果て、「飯がすんだらな」と降参代わりに呟きました。
その日の昼下がり、貴方はダミアンと共に森にでかけ、懐かしい曲を演奏しました。
生前母が愛した曲です。
魂柱を支え持ち、深呼吸ののち弓を滑らします。
鮮やかに翻り滑走する弓と震える弦が紡ぐのは、情感が乗った蠱惑的旋律。
豊穣に膨らむ低音に呼応し、蒼穹へと昇天する清冽な高音。
木漏れ日が斑に落ち、木の葉がさざめき、過去の祝祭の残響が甦ります。
ダミアンは倒木に掛けて陶然と耳を傾け、貴方が弾き終わると同時に温かい拍手を贈りました。
「故郷を思い出した」
「ロマじゃねえだろ」
このように、ダミアンは皆に分け隔てなく親切でした。
急病人や怪我人が出れば夜中だろうと労を惜しまず問診し、癒えれば我が事のように喜び、亡くなればとても落ち込みました。
さらには田舎の薬師にしては学があり、貴方が頼んでないにもかかわらず、字の読み書きを教えてくれます。
「アインス、ツヴァイ、ドライ……いい調子だ」
夜寝る前に机に向かい、ダミアンお手製の薬草図鑑や調合レシピを写本するのが新しい習慣になりました。
ランプの薄明かりのもと、貴方が握る羽ペンに手を添え綴りの誤りを正し、ダミアンが言い聞かせます。
「君の名前はこう書く。覚えといて」
「お前の国の言葉なんか知らない。俺はロマだ」
「でもさ、名前がたくさんあるのはお得じゃないかな。それだけ祝福されてるみたいで」
「誰に?」
ダミアンは束の間沈黙し、気恥ずかしげに告白しました。
「神様に、かな」
ほんの一瞬、ランプに映える横顔の静謐さに見とれました。「神様」と呟いた瞬間のダミアンが、聖なる祈りを捧げてるように見えたからでしょうか。
名前の表記の数だけ祝福されてる。
そんな発想、終ぞした事がありませんでした。
ロマとして産まれロマとして生きてきた貴方に、ダミアンの考えはとても新鮮に感じられました。
胸の内に激情が吹きこぼれ、知らず声が尖ります。
「お前たちが信じる神様ってイエス・キリスト一人じゃないの?祝福の大盤振る舞いだな」
露骨な当てこすりにダミアンは唇を噛み、慎重に言葉を選んで、羊皮紙に目を落としました。
「カトリックの見解ではそうなっている。でも僕は……神様っていうのは、むしろこの世界そのものじゃないかって思うんだ」
こんなこと言ったら捕まっちゃうかもしれないけど、と口元に人さし指を立て。
「収穫祭に行ったことは」
「……あるよ。ガキの頃、村に呼ばれて楽器を弾いた。母さんと一緒に」
昔を懐かしんで呟けば、ダミアンが遠くを見詰める目をします。
「豊穣を祝い踊るひとびと。咲き零れる笑顔。黄金の麦穂。高らかに囀るツグミ。果てしなく続くエリカの荒野。丘を駆ける幌馬車のキャラバン。そんな地上の営みこそ、神の御業と結び付いてるように感じないかい」
「わかんねえよ」
「難しいか。ごめん、人に物を教えるのが下手だね」
「じゃなくて。俺が馬鹿なんだ、きっと」
「違うよ。そうじゃない。そうじゃなくて……」
もどかしげに否定し、貴方の手を強く握り締めます。
「神様はね、熱を出した子の背を一晩中さする母親の手に宿る」
「……」
彼が言おうとしてる事、伝えたがっている事が漠然とわかりました。嘗てそのぬくもりを体験したから、実感として腑に落ちたのです。
「学びは無駄じゃない。勉強を疎かにしちゃいけない。君は賢い、きっともっと賢くなれる。僕の図鑑の写しで満ち足りず、より広い知識を身に付け、世界を切り開いて行ってほしい」
理解に苦しむ貴方の肩を掴み、ダミアンは熱心にかきくどきました。
「言葉はね、人の心が訳した世界なんだ」
……思い出しましたか。
ご自分で気付いてません?今、すごく優しい顔をしてましたよ。
ダミアンはロマンチックな人でした。
空想家、とでも呼びましょうか。
詩的な表現を多用し、その言葉はまるで音楽のように響きました。
貴方がたは十四歳離れていた。世間的には師弟で通ります。
実際貴方にとって、ダミアンは唯一無二の師といえる存在でした。
あるいはお母上が与えたもうた以上のものを、ダミアンは授けました。
森で採れる薬草の名前や種類、調合の仕方、さらには各種ジャムやピクルスをはじめとする保存食の作り方。
もとより聡明な貴方は学ぶ機会を得たことで、あらゆる知識を貪欲に吸収していきました。
「収穫したハーブは軽く水洗いしたあと水分を拭きとり、少量ごと束ねて逆さに吊るす。大量にまとめちゃうと中まで空気が通らずカビが発生するから注意してね。天日干しは香りが飛ぶから避けて、風通しが良い日陰に保管するんだ」
「小姑かよ。言われなくてもわかってるって」
「さすが僕の弟子、飲み込みが早い」
正直、ダミアンに褒められるのはくすぐったい。胸の内がざわざわして落ち着きません。
数か月経過する頃にはひと通りの家事を覚え、捻挫の処置程度なら楽にこなせるようになりました。
貴方はダミアンに用事を言付かり、村にでかけるようになります。
「おかえり。って、どうしたの」
「転んだ」
「誰にやられたんだ」
「人の話聞いてた?」
「手当するから来て」
行き帰り、悪ガキどもに石を投げられました。ダミアンは案の定しょげ返り、包帯を巻きながら詫びました。
「気が回らなくてすまない」
「別に。慣れてっから」
ツィゴイネルはどこへ行こうと嫌われもの。
村外れの森に住み着いた孤児の噂はあっというまに広まり、今もって白眼視されています。
ダミアンは貴方の答えに胸を痛め、次からは自分が村に行く、と断言しました。
「そういうのやめろよ、かえって迷惑だ。ただでおいてもらってるだけで居心地悪ィのに」
「助手を住みこませるのは普通だろ」
「変な気遣うなってば、ガキに石投げられたりこそこそ言われる位へっちゃらだ」
「僕が嫌だ」
ダミアンは案外頑固でした。貴方は途方に暮れ、妥協案を閃きました。
「……じゃあさ、一緒に行くってのは」
「え?」
顔が熱くなります。
「どのみち荷物持ちは要るだろ。盾になってくれりゃその、有難てェし。無理にたァ言わねえけど」
ああ、何言ってんだ俺。
遂には耳たぶまで火照りだします。
ダミアンはきょとんとし、次いで晴れ晴れと笑い、貴方を抱き締めました。
「名案だね」
その夜、物凄い勢いで小屋の戸が叩かれました。眠い目を擦って扉を開けるや、息を切らしたハンスが転がり込んできて面食らいました。
「助けてくれダミアン、女房が産気付いた!」
「え……」
当惑します。
「八人目だろ?ンな慌てなくても」
「前と違って血がたくさん出て止まんねえんだよ、今までこんな事なかったのに」
「村の産婆は」
「グレーテル婆は先月コロッと逝っちまった、四の五のぬかさず血止めに利く薬草あんならくれよ、お代はあとで必ず払うから……くそっ、てめえじゃ話になんねえ!ツィゴイネルの小僧は引っ込んでろ!」
怒り狂ったハンスに呼ばれ、ランプを下げたダミアンが出てきました。
「話は聞かせてもらいました」
「知り合いの産婆を呼んでくれ、今すぐ紹介状書いて、ああ畜生間に合わねえ今夜が山なんだ、アドルフの嫁さんみてえに赤ん坊ともども死んじまったら」
靴職人のハンスは子煩悩な愛妻家で知られていました。すっかり思い詰め、頭を掻きむしる醜態にはさすがに同情を禁じ得ず、おそるおそるダミアンの顔色を窺います。
薬師の決断は迅速でした。
「来い」
「え?」
「人手は一人でも多い方がいい。いい加減血に慣れて欲しいし」
「お産の手伝いに行くのか?」
「そうだよ」
「アンタ男だろ、出産に立ち会うなんて聞いたこと」
「僕たちしかいないんだ」
ダミアンは「たち」と言いました。
まだ半人前の助手にすぎない貴方を、現場を支える即戦力と見込んだのです。
キリスト教的価値観が根付いた中世欧州にて、産婆は異端の類縁と見なされていました。
曰く産婆は異教の母権制社会や女神崇拝に結び付いており、カトリック教会は彼女たちを許し難い信仰の敵と定めたのです。前述した『魔女に与える鉄槌』にも魔女の代表例として産婆が挙げられ、台所で新生児に魔術的洗礼を施す他、悪魔の生贄に捧げると信じられていました。
あんまり大きな声じゃ言えませんが、内緒で通ってくる女たちに、子堕ろしの薬草を都合していたのも無関係ではないでしょうね。
ダミアンはタブーを破りました。
難産に苦しむ患者を見捨てられず、男の身でありながら産婆を代行し、夜道をひたすら駆けてハンスの家に向かったのです。
グレーテル婆さんが死んだ今、村外れの森に住む薬師の青年だけが村人たちの拠り所でした。
「ハンスさんはありったけお湯を沸かしてください」
「よしきた」
あたふたする旦那に命じ、颯爽と歩くダミアンに追いすがります。
「俺は何すりゃいい」
「付いてきて」
寝室ではハンスの女房が壁に手を付き、近所の主婦の立ち合いのもと、大股開きで息んでいました。
床には羊水と血が溜まっています。
「ダミアン!?」
「非常識じゃない、出てって!」
寝室に踏み込んだ青年と少年に女たちは色めき立ち、激烈な拒絶反応を示しました。
「ぐっ」
「失神するなら外でね」
一瞬が気が遠のきかけるも、辛うじて踏みこたえます。ダミアンは壁を支えに踏ん張る女房の腰に手を回し、注意深くベッドに導きました。
「横になった方が負担が少ないでしょ」
ここで注釈を加えますが、当時は立産……立ったままお産するのがスタンダードだったんですよね。
「お湯を持ってきて!」
「わかった!」
ダミアンの指示で部屋から飛び出すなり、ハンスと隣人の会話が聞こえました。
「……しかしなあ、いくら腕利きでも野郎にお産を頼むのは……」
「背に腹は代えられねえ」
「教会にばれたら事だぞ」
「隣村から呼んでくるにしたって今から峠越えは……」
「こないだも旅人が狼に食われたっけ」
「うちの女房はやっこさんにぞっこんなんだ。悪阻止めがばっちり利いたもんで、頭っから信頼してんのさ」
「人のカミさんの股ぐらただで見れて、全くツイてるよな」
何故真夜中に叩き起こされ、文句も言わず飛んできたダミアンが蔑まれなければいけないのでしょうか。
猛烈な怒りがこみ上げ、強く強く拳を握ります。
殴りかかろうとした矢先、力強く肩を掴まれました。背後にダミアンがいました。
「吹きこぼれるよ」
直後、優先順位を思い出しました。
貴方は暖炉へ駆け寄り、沸騰したお湯を盥に移し替え、それを抱えて寝室に急ぎました。
ベッドでは女房が唸っていました。
「布を消毒して!」
的確な指示に従い、大急ぎでシーツを煮沸します。
ダミアンは女房の足元に回り、両膝を大きく開かせ、彼女が今からひりだそうとする赤ん坊に呼びかけていました。
「頑張れ。もうすぐだ。いいぞ、その調子」
「師匠、俺は!?」
「手を握って」
もちろんそうしました。陣痛に喘ぐ女房の手を包み、顔に滴る汗を拭い、「頑張れ」「その調子」「ひっひっふー」と応援しました。
神様どうか、この人と赤ん坊を助けてください。
無事に産ませてやってください。
二時間後、産声が響き渡りました。
「おめでとうございます、元気な男の子ですよ」
「ああ……ありがとうございます」
分娩を終えた女房が泣き崩れ、貴方に向き直ります。
「アンタもありがとね」
初めて村人にお礼を言われました。
「臍の緒の処置は任せた」
夜通しお産にかかりきり、窓の外には夜明けが訪れていました。死んだ母と産婆の面影が脳裏を過ぎり、自分もこうして産まれたのだと悟り、哀しくもないのに何故だか涙が滲み、髪の毛をかき回す師匠の手の優しさにまた泣けてきました。
臍の緒を断ち切る頃には手の震えもおさまりました。
ダミアンは産湯に浸けた嬰児を清潔な布にくるみ、小さな額に接吻しました。
「新しい命に祝福を」
父を知らずに育った貴方は、赤子を慈しむ青年の横顔に父性の上澄みを見ました。
「抱いてみる?」
「……いいの?」
ベッドに仰向けた女房とダミアンを見比べれば、両者に笑顔で促されました。
おずおず嬰児を抱き取り、薄毛の生え際をそっと撫で、小さな手のひらを人さし指で擦ります。
次の瞬間、赤子が指を掴みました。
「嬰児は産声で世界を訳す。赤ん坊が泣いて生まれてくるのは、まだ見えない目の代わりに、声で世界を手探りしてるからなんだよ」
「それって……」
「生きようとする意志そのものじゃないか」
一生懸命、がむしゃらに。
希望を掴むために。
貴方がダミアンを師と認め、慕うようになったきっかけの出来事です。
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高二の夏。ある出来事をきっかけに、フェロモン発達障害と診断された雨笠 紺(あまがさ こん)は、自分には一生、パートナーも、子供も望めないのだと絶望するも、その後も前向きであろうと、日々を重ね、無事大学を出て、就職を果たす。ところが、そんな新社会人になった紺の前に、高校の同級生、日浦 竜慈(ひうら りゅうじ)が現れ、紺に自分の息子、青磁(せいじ)を預け(押し付け)ていく。——これは、始まり。ひとりと、ひとりの人間が、ゆっくりと、激しく、家族になっていくための…。
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