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二話
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お母上が死んだのは十三の時。
貴方は天涯孤独になりました。もはやキャラバンに居場所はありません。
そこで産婆に教えられたキャラバンの軌跡を、遡ってみることにしたのです。
ゾラさんの波乱万丈な人生を辿ろうとしたのでしょうか?
もしくは……野暮な詮索はやめておきましょうか。いずれわかることです。
ツィゴイネルの孤児に宿を貸してくれる物好きはおらず、大抵は野宿でした。
母の形見のヴァイオリンを弾いて日銭を稼ぎ、それでも足りない時は盗みや物乞いをし、どうにかこうにか食い繋いでいたものの、限界は刻々と近付いていました。
その日、貴方は逃げていました。
全身生傷と擦り傷だらけな上、空腹で力が出ません。
空からは冷たい雨が降り注ぎ、残り少ない体力を奪っていきます。持ち物は母の形見のヴァイオリンだけ、それさえ弦が切れて使い物になりません。
不協和音しか奏でないヴァイオリンなど無用の長物。
ですか貴方はひしと抱いて離さず、鬱蒼とした森へ続く道をひた走りました。
「追え!」
「逃がすな!」
「あっちへ行ったぞ!」
よろめく足を血が伝います。すぐそこまで追手が迫っています。
万事休すと思われたその時、森の中に石垣を巡らせた、素朴な小屋が見えてきました。
考えるより先に裏手に回り、石垣を乗り越え、敷地に侵入しました。
ふと足元を見れば、地下室の木戸が少しだけ開いています。
貯蔵庫でしょうか。
しめたと階段を駆け下り、まんまと忍び込みました。
襤褸切れと化したシャツの下で心臓が跳ね回ります。悪寒と火照りに同時に襲われ、体の震えが止まりません。
ヴァイオリンを抱いて蹲る頭上で扉を開け閉めする音が立ち、怒号が駆け抜けていきました。
どうにか無事やり過ごしたのも束の間、立ち上がりしな膝が泳ぎ、また蹲ってしまいました。
まずい事になった。すぐ出ていく予定だったのに……これでは家主にばれるのも時間の問題。
固い靴音が石段を下りてきました。
誰か来る。
慌てて奥へ退き、闇に慣れた目が戸惑います。
地下室というより工房でした。
部屋中に珍しい薬草や香草が干され、机には分厚い本と羽ペン、羊皮紙やインク壺がのっています。調合用の窯と鍋もありました。
「誰?」
「……」
穏やかなノックに次いで、柔和な声が誰何しました。貴方は口を覆い、だんまりを決め込みます。
「開けるよ」
咄嗟の判断で薬草を吊るしたロープを回収し、それをドアの手前に張り渡しました。
次の瞬間ドアが開き、一歩踏み出した男がロープに蹴っ躓き、見事に転倒しました。
「……ええと、大丈夫?顔面から行ったっぽいけど」
靴の爪先でちょんちょん脇腹を突けば、青年がかすかにもぞ付き、情けない顔で笑いました。
「珍しいお客様だな」
肌の色の事を言われてるのかと早合点しましたが、違いました。
鼻の頭を擦り剥いた青年は、貴方の腕の中のヴァイオリンを興味津々覗き込みました。
「楽士さんが来てくれるなんて、当分退屈せずにすみそうだ」
変なヤツ。
第一印象はそれに尽きます。
貴方を笑って迎えてくれた人は、ゾラさんと産婆以外で初めてでした。
次に目覚めた時、木製のベッドに寝かされていました。
「気付いた?丸一日寝込んでたんだよ」
怪我には湿布が貼られており、青年は乳鉢で木の実と薬草をすり潰している所でした。
既に雨は上がり、窓の外には陽が射してツグミが囀っています。
「アンタは?」
不躾な問いに気分を害さず、青年は答えました。
「名前を聞いてるならダミアン。職業は薬師」
「森で一人暮らししてんの?変人」
「薬草を採るにはこっちの方が都合良いのさ。君の名前は」
口を噤みました。赤の他人にロマの名前を打ち明ける気にはなれません。
ダミアンは風変わりな男でした。
年の頃は二十代後半でしょうか、光の加減で金褐色にも見える茶髪の下に地味に整った温和な風貌を備えています。
見た目は若いのに世捨て人に通じる老成した雰囲気を漂わせており、夜明けの空に似た紫の眼差しは、知性と包容力を感じさせました。
「地下室の草は」
「乾燥させてるんだよ」
「……あちこちスースーする」
「特製軟膏の効能」
得意げに声が弾みます。
こぢんまりした外観に違わず、ダミアンが暮らす家は質素に片付いていました。
見た所ベッドは一台きり、それを貴方が占領しています。
「丸一日寝てたって言ったっけ」
「そうだけど」
「その間どこにいたの」
「机で徹夜仕事」
「なんで」
「煎じ薬を作ってた。塗るより治りが早いから」
ダミアンが傾けた乳鉢の底には、緑色のペーストがこびり付いていました。
ぎょっと身を引く貴方の口元へ、木匙でこそいだペーストをさしだし、ダミアンが微笑みました。
「食べて」
「いいよ」
「死ぬほどまずいけど死なないから大丈夫。むしろ良くなる」
「絶対嫌だ」
「体の内側から治すのが回復の近道なのに」
ダミアンは哀しげに眉を下げ、いきなり匙を咥えました。
「……何やってんの」
「毒見」
今すぐ吐き戻したげな涙目で嚥下し、表情筋がだいぶ無理した笑顔を繕います。
「ほら、大丈夫だろ。ちょっと舌が痺れる位で死にはしないさ、僕の薬はよく効くんだ。一昨日は靴屋の奥さんに悪阻止めを都合した、八人目が生まれるんだって、すごいよねえ。家族がたくさんで羨ましいなあ、僕は長いこと独りだから。先週は皮鞣し職人のアウグストに水虫薬を処方したよ、足裏が酷い有様で歩くのが辛そうだった。ほっといたら自分の足の皮まで鞣しちゃいそうであせったあせった」
なんだコイツ。
ごねる気力が萎えて口を開けるや、待ちかねたように木匙が突っ込まれます。
「う゛ッ」
クソまずいのを我慢し飲み下せば、ダミアンが嬉しげに目を細めていました。
「……貸せ」
すかさず乳鉢をひったくり、一気に口に流し込みます。死ぬほどまずい。
空っぽの鉢を突っ返し、手の甲で無造作に口を拭き、謎の男を睨み付けます。
「お前、ダミアンとか言ったか。何が目当てだ?」
「ん?」
「見返りもねえのに人助けなんかしねえだろ。特に……」
俺みてえな奴のと続けようとして止めたのは、机に寝かされたヴァイオリンが目に入ったから。
「返せ!」
素早くヴァイオリンを奪い、そこで力尽きました。
「駄目だよ安静にしてないと、まだ回復しきってないんだ。ご飯は?兎肉のスープ食べるだろ」
「何企んで……」
「ちょうど毒見役兼実験台兼助手が欲しかったんだ。文句は受け付けないよ、地下工房に転がり込んだのは君の方だ。あそこに保管されてるのは僕が採取した薬の原料、即ち君もその一部、煮るなり焼くなり煎じるなり好きにしていいって事だろ」
「砕いて磨って塗って呷んの?」
「右足の小指の爪を煎じて……冗談だよ」
「畜生、確認しちまった!」
毛布を剥いで慌てる様子に吹き出し、ダミアンがちゃっかり付け足します。
「宿代は後々働いて返してもらおうかな」
貴方の腹が鳴ったのを合図に腰を上げ、暖炉に掛けた鍋からスープをすくい、椀に注ぎました。
「食べなよ」
奇妙な共同生活が始まりました。
怪我は三日もすれば快方に向かいました。もとより育ちざかりで自然治癒力が高いのです。
貴方が自力で歩けるようになるのを待ち、ダミアンはこまごました手伝いを頼みました。
「この花を摘んできてほしい。森の西側、泉のほとりに咲いてる」
「何これ?」
「右からカモミール、ラベンダー、ローズマリー、ベラドンナ、マンドラゴラ。ハーブの薬用酒は二日酔いや冷え性に効く」
「こっちの葉っぱがギザギザに尖ったのは?黒い実がなってる」
「食べられない」
「焼いても駄目?」
「弾けて大変、熱に反応する性質を持ってるんだ。体内に取り入れたらめまいや幻覚を引き起こす」
「まずい草は摘む気起きねえ」
「臭いから食欲失せるよ」
「毒草なんて物騒だ」
「使い方次第で薬になる」
字が読めない貴方の為にダミアンは写実的な図解を描き、それぞれの特徴を説明しました。
薬草は動かないのでまだ楽ですが、小動物の捕獲を命じられた時は手こずりました。
「ヤモリ、カエル、蛇……牡鹿の角?落ちてるわけねー」
「手に入る分だけでかまわない。すばしっこさには自信あるだろ?僕は鈍くさくて」
「家畜の鶏にも逃げられちまいそうだもんな」
「手懐けたら余裕だよ、多分」
ほんの少し心外そうな顔をします。
「カエルはどうすんの」
「村長さんの希望でね。干して煎じて精力剤にするのさ」
「老いぼれのくせにおさかんだな」
「しー」
貴方一人を行かせる事もあれば二人で出かける事もありました。一緒の時、ダミアンはよく喋りました。貴方はツンと無視し、矢継ぎ早の質問に知らぬ存ぜぬを通します。
この男が命の恩人なのは不承不承認めますが、まだ心を許していません。
ダミアンは一人で森に住み、乳鉢や鍋で薬草を調合し、近在の村人にそれを商い生計としていまた。
今日も今日とて村人が戸を叩きます。
「代わりに出て」
「しかたねえな」
乳鉢で薬草を練っているダミアンに促され、渋々戸を開けた所、腰を不自然に曲げた髭面の男が立っていました。
目が合った瞬間、眉宇に嫌悪が過ぎります。
「なんだお前は」
「……ここで世話んなってる」
「ツィゴイネルの浮浪児が?」
非友好的な髭男と少年の対峙に、作業を中断したダミアンが割り込みました。
「助手ですよ。おかげさまで村の人たちに贔屓してもらって、僕一人じゃ手に余るんで、家の事をお願いしてるんです」
髭男が顰め面で値踏みします。
「ちょっと前に変なガキが迷い込んだって聞いたが、おまえさんが匿ってたのか。どうせ盗みたかりを働いて逃げてきたんだろ、とっとと叩き出せよ」
「!ッ、」
泥棒や掏摸をしたのは事実、悔しいかな否定できません。それでも屈辱でした。
拳を握り固める貴方を下がらせ、前掛けで手を拭いたダミアンが仕切り直します。
「本日のご用件はなんでしょうか、エルマー親方」
「腰痛の特効薬をもらいにきたんだが」
「長時間座りっぱなしの作業が原因でしょうね。塗り薬を処方しますんで、毎日ちゃんと塗ってくださいね」
「恩に着る」
瓶を手渡す間際ダミアンが止まり、エルマーが不審げに催促します。
「どうした?早く」
「原料を摘んだのは助手です。調合も手伝ってもらいました」
きっぱり前置きして微笑みます。
「お礼なら彼に」
「……効いたらな」
やりこめられて憮然とし、銅貨を詰めた小袋を差し出すエルマーに耳打ち。
「お代はいりません。かわりに」
余っ程意外な申し出だったのか、相手は目を丸くしました。
「そんなんでいいのか」
「ええ。日を改めて出向きますので、お体を労ってください」
エルマーの退散後。
「手伝ったって少しだけじゃん」
「役に立ったよ、君がいなけりゃ乳鉢の中身を練り続けて手首が炎症起こすところだった」
ダミアンが気さくにはにかみ、扉に凭れてふてくされる貴方の肩を叩きます。
訂正、ふてくされたんじゃありませんね。面映ゆかったんですよね。お母上以外の大人に庇ってもらうなんて経験、殆どなかったですもんね。
まだ納得できず、調合を再開するダミアンに食い下がります。
「がっぽりふんだくってやりゃよかったのに」
「屋根の修繕中で物入りなのさ」
「関係ねェじゃんお前には。薬代とりっぱぐれて馬鹿みてえ」
「もっと大事なことを頼んだ」
「意味わかんねえ」
清貧の美徳といえば聞こえはいいですが、生まれてこのかた世間の荒波に揉まれてきた貴方にとって、採算度外視で村人に尽くすダミアンの無欲さは理解不能でした。
かようにダミアンは善良で献身的、奉仕精神の権化といえる人物だったのです。
貴方は天涯孤独になりました。もはやキャラバンに居場所はありません。
そこで産婆に教えられたキャラバンの軌跡を、遡ってみることにしたのです。
ゾラさんの波乱万丈な人生を辿ろうとしたのでしょうか?
もしくは……野暮な詮索はやめておきましょうか。いずれわかることです。
ツィゴイネルの孤児に宿を貸してくれる物好きはおらず、大抵は野宿でした。
母の形見のヴァイオリンを弾いて日銭を稼ぎ、それでも足りない時は盗みや物乞いをし、どうにかこうにか食い繋いでいたものの、限界は刻々と近付いていました。
その日、貴方は逃げていました。
全身生傷と擦り傷だらけな上、空腹で力が出ません。
空からは冷たい雨が降り注ぎ、残り少ない体力を奪っていきます。持ち物は母の形見のヴァイオリンだけ、それさえ弦が切れて使い物になりません。
不協和音しか奏でないヴァイオリンなど無用の長物。
ですか貴方はひしと抱いて離さず、鬱蒼とした森へ続く道をひた走りました。
「追え!」
「逃がすな!」
「あっちへ行ったぞ!」
よろめく足を血が伝います。すぐそこまで追手が迫っています。
万事休すと思われたその時、森の中に石垣を巡らせた、素朴な小屋が見えてきました。
考えるより先に裏手に回り、石垣を乗り越え、敷地に侵入しました。
ふと足元を見れば、地下室の木戸が少しだけ開いています。
貯蔵庫でしょうか。
しめたと階段を駆け下り、まんまと忍び込みました。
襤褸切れと化したシャツの下で心臓が跳ね回ります。悪寒と火照りに同時に襲われ、体の震えが止まりません。
ヴァイオリンを抱いて蹲る頭上で扉を開け閉めする音が立ち、怒号が駆け抜けていきました。
どうにか無事やり過ごしたのも束の間、立ち上がりしな膝が泳ぎ、また蹲ってしまいました。
まずい事になった。すぐ出ていく予定だったのに……これでは家主にばれるのも時間の問題。
固い靴音が石段を下りてきました。
誰か来る。
慌てて奥へ退き、闇に慣れた目が戸惑います。
地下室というより工房でした。
部屋中に珍しい薬草や香草が干され、机には分厚い本と羽ペン、羊皮紙やインク壺がのっています。調合用の窯と鍋もありました。
「誰?」
「……」
穏やかなノックに次いで、柔和な声が誰何しました。貴方は口を覆い、だんまりを決め込みます。
「開けるよ」
咄嗟の判断で薬草を吊るしたロープを回収し、それをドアの手前に張り渡しました。
次の瞬間ドアが開き、一歩踏み出した男がロープに蹴っ躓き、見事に転倒しました。
「……ええと、大丈夫?顔面から行ったっぽいけど」
靴の爪先でちょんちょん脇腹を突けば、青年がかすかにもぞ付き、情けない顔で笑いました。
「珍しいお客様だな」
肌の色の事を言われてるのかと早合点しましたが、違いました。
鼻の頭を擦り剥いた青年は、貴方の腕の中のヴァイオリンを興味津々覗き込みました。
「楽士さんが来てくれるなんて、当分退屈せずにすみそうだ」
変なヤツ。
第一印象はそれに尽きます。
貴方を笑って迎えてくれた人は、ゾラさんと産婆以外で初めてでした。
次に目覚めた時、木製のベッドに寝かされていました。
「気付いた?丸一日寝込んでたんだよ」
怪我には湿布が貼られており、青年は乳鉢で木の実と薬草をすり潰している所でした。
既に雨は上がり、窓の外には陽が射してツグミが囀っています。
「アンタは?」
不躾な問いに気分を害さず、青年は答えました。
「名前を聞いてるならダミアン。職業は薬師」
「森で一人暮らししてんの?変人」
「薬草を採るにはこっちの方が都合良いのさ。君の名前は」
口を噤みました。赤の他人にロマの名前を打ち明ける気にはなれません。
ダミアンは風変わりな男でした。
年の頃は二十代後半でしょうか、光の加減で金褐色にも見える茶髪の下に地味に整った温和な風貌を備えています。
見た目は若いのに世捨て人に通じる老成した雰囲気を漂わせており、夜明けの空に似た紫の眼差しは、知性と包容力を感じさせました。
「地下室の草は」
「乾燥させてるんだよ」
「……あちこちスースーする」
「特製軟膏の効能」
得意げに声が弾みます。
こぢんまりした外観に違わず、ダミアンが暮らす家は質素に片付いていました。
見た所ベッドは一台きり、それを貴方が占領しています。
「丸一日寝てたって言ったっけ」
「そうだけど」
「その間どこにいたの」
「机で徹夜仕事」
「なんで」
「煎じ薬を作ってた。塗るより治りが早いから」
ダミアンが傾けた乳鉢の底には、緑色のペーストがこびり付いていました。
ぎょっと身を引く貴方の口元へ、木匙でこそいだペーストをさしだし、ダミアンが微笑みました。
「食べて」
「いいよ」
「死ぬほどまずいけど死なないから大丈夫。むしろ良くなる」
「絶対嫌だ」
「体の内側から治すのが回復の近道なのに」
ダミアンは哀しげに眉を下げ、いきなり匙を咥えました。
「……何やってんの」
「毒見」
今すぐ吐き戻したげな涙目で嚥下し、表情筋がだいぶ無理した笑顔を繕います。
「ほら、大丈夫だろ。ちょっと舌が痺れる位で死にはしないさ、僕の薬はよく効くんだ。一昨日は靴屋の奥さんに悪阻止めを都合した、八人目が生まれるんだって、すごいよねえ。家族がたくさんで羨ましいなあ、僕は長いこと独りだから。先週は皮鞣し職人のアウグストに水虫薬を処方したよ、足裏が酷い有様で歩くのが辛そうだった。ほっといたら自分の足の皮まで鞣しちゃいそうであせったあせった」
なんだコイツ。
ごねる気力が萎えて口を開けるや、待ちかねたように木匙が突っ込まれます。
「う゛ッ」
クソまずいのを我慢し飲み下せば、ダミアンが嬉しげに目を細めていました。
「……貸せ」
すかさず乳鉢をひったくり、一気に口に流し込みます。死ぬほどまずい。
空っぽの鉢を突っ返し、手の甲で無造作に口を拭き、謎の男を睨み付けます。
「お前、ダミアンとか言ったか。何が目当てだ?」
「ん?」
「見返りもねえのに人助けなんかしねえだろ。特に……」
俺みてえな奴のと続けようとして止めたのは、机に寝かされたヴァイオリンが目に入ったから。
「返せ!」
素早くヴァイオリンを奪い、そこで力尽きました。
「駄目だよ安静にしてないと、まだ回復しきってないんだ。ご飯は?兎肉のスープ食べるだろ」
「何企んで……」
「ちょうど毒見役兼実験台兼助手が欲しかったんだ。文句は受け付けないよ、地下工房に転がり込んだのは君の方だ。あそこに保管されてるのは僕が採取した薬の原料、即ち君もその一部、煮るなり焼くなり煎じるなり好きにしていいって事だろ」
「砕いて磨って塗って呷んの?」
「右足の小指の爪を煎じて……冗談だよ」
「畜生、確認しちまった!」
毛布を剥いで慌てる様子に吹き出し、ダミアンがちゃっかり付け足します。
「宿代は後々働いて返してもらおうかな」
貴方の腹が鳴ったのを合図に腰を上げ、暖炉に掛けた鍋からスープをすくい、椀に注ぎました。
「食べなよ」
奇妙な共同生活が始まりました。
怪我は三日もすれば快方に向かいました。もとより育ちざかりで自然治癒力が高いのです。
貴方が自力で歩けるようになるのを待ち、ダミアンはこまごました手伝いを頼みました。
「この花を摘んできてほしい。森の西側、泉のほとりに咲いてる」
「何これ?」
「右からカモミール、ラベンダー、ローズマリー、ベラドンナ、マンドラゴラ。ハーブの薬用酒は二日酔いや冷え性に効く」
「こっちの葉っぱがギザギザに尖ったのは?黒い実がなってる」
「食べられない」
「焼いても駄目?」
「弾けて大変、熱に反応する性質を持ってるんだ。体内に取り入れたらめまいや幻覚を引き起こす」
「まずい草は摘む気起きねえ」
「臭いから食欲失せるよ」
「毒草なんて物騒だ」
「使い方次第で薬になる」
字が読めない貴方の為にダミアンは写実的な図解を描き、それぞれの特徴を説明しました。
薬草は動かないのでまだ楽ですが、小動物の捕獲を命じられた時は手こずりました。
「ヤモリ、カエル、蛇……牡鹿の角?落ちてるわけねー」
「手に入る分だけでかまわない。すばしっこさには自信あるだろ?僕は鈍くさくて」
「家畜の鶏にも逃げられちまいそうだもんな」
「手懐けたら余裕だよ、多分」
ほんの少し心外そうな顔をします。
「カエルはどうすんの」
「村長さんの希望でね。干して煎じて精力剤にするのさ」
「老いぼれのくせにおさかんだな」
「しー」
貴方一人を行かせる事もあれば二人で出かける事もありました。一緒の時、ダミアンはよく喋りました。貴方はツンと無視し、矢継ぎ早の質問に知らぬ存ぜぬを通します。
この男が命の恩人なのは不承不承認めますが、まだ心を許していません。
ダミアンは一人で森に住み、乳鉢や鍋で薬草を調合し、近在の村人にそれを商い生計としていまた。
今日も今日とて村人が戸を叩きます。
「代わりに出て」
「しかたねえな」
乳鉢で薬草を練っているダミアンに促され、渋々戸を開けた所、腰を不自然に曲げた髭面の男が立っていました。
目が合った瞬間、眉宇に嫌悪が過ぎります。
「なんだお前は」
「……ここで世話んなってる」
「ツィゴイネルの浮浪児が?」
非友好的な髭男と少年の対峙に、作業を中断したダミアンが割り込みました。
「助手ですよ。おかげさまで村の人たちに贔屓してもらって、僕一人じゃ手に余るんで、家の事をお願いしてるんです」
髭男が顰め面で値踏みします。
「ちょっと前に変なガキが迷い込んだって聞いたが、おまえさんが匿ってたのか。どうせ盗みたかりを働いて逃げてきたんだろ、とっとと叩き出せよ」
「!ッ、」
泥棒や掏摸をしたのは事実、悔しいかな否定できません。それでも屈辱でした。
拳を握り固める貴方を下がらせ、前掛けで手を拭いたダミアンが仕切り直します。
「本日のご用件はなんでしょうか、エルマー親方」
「腰痛の特効薬をもらいにきたんだが」
「長時間座りっぱなしの作業が原因でしょうね。塗り薬を処方しますんで、毎日ちゃんと塗ってくださいね」
「恩に着る」
瓶を手渡す間際ダミアンが止まり、エルマーが不審げに催促します。
「どうした?早く」
「原料を摘んだのは助手です。調合も手伝ってもらいました」
きっぱり前置きして微笑みます。
「お礼なら彼に」
「……効いたらな」
やりこめられて憮然とし、銅貨を詰めた小袋を差し出すエルマーに耳打ち。
「お代はいりません。かわりに」
余っ程意外な申し出だったのか、相手は目を丸くしました。
「そんなんでいいのか」
「ええ。日を改めて出向きますので、お体を労ってください」
エルマーの退散後。
「手伝ったって少しだけじゃん」
「役に立ったよ、君がいなけりゃ乳鉢の中身を練り続けて手首が炎症起こすところだった」
ダミアンが気さくにはにかみ、扉に凭れてふてくされる貴方の肩を叩きます。
訂正、ふてくされたんじゃありませんね。面映ゆかったんですよね。お母上以外の大人に庇ってもらうなんて経験、殆どなかったですもんね。
まだ納得できず、調合を再開するダミアンに食い下がります。
「がっぽりふんだくってやりゃよかったのに」
「屋根の修繕中で物入りなのさ」
「関係ねェじゃんお前には。薬代とりっぱぐれて馬鹿みてえ」
「もっと大事なことを頼んだ」
「意味わかんねえ」
清貧の美徳といえば聞こえはいいですが、生まれてこのかた世間の荒波に揉まれてきた貴方にとって、採算度外視で村人に尽くすダミアンの無欲さは理解不能でした。
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