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愛情は適量で
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「ぐりとぐらのカステラが食べたいです」
みはなが突然そんなことを言い出した。
キッチンで洗い物をしていた悦巳は蛇口をひねり、フキンで手を拭き拭き振り返る。
「え~……ぐりとぐらのカステラってアレっすか」
「そのアレです」
「ちょっと待っててください」と断って部屋に駆け戻るみはな。ごそごそと本棚をあさる音に続き、キッチンに取って返した彼女の手にはあの有名な絵本が掲げられていた。
赤い帽子と青い帽子をかぶった仲良し野ねずみが、バスケットを持って歩いてる表紙。誰でも一度は見たことあるかもしれない。
忙しげにページをめくり、まんまるに膨らんだカステラの挿絵を指さす。
「これです、これが食べたいです」
香ばしいキツネ色に焼けたカステラは、なるほどよだれがでそうにおいしそうだ。悦巳はほのぼのと目を細める。
「懐かしいなあ、子供の頃好きで読んでたっけ」
「えっちゃんちにもありましたか?」
「施設の本棚に。大志によく作ってってねだりました、昔っから料理好きだったんすよアイツ、先生たち手伝ってよくゼリーとか作ってたし」
「えっちゃんは昔から食いしんぼだったんですね」
「したらアイツなんて言ったと思います、ちゃっかり手ェだして『一万円な』って。金とんのかよしかもボリすぎだろ!って突っ込んじゃいました」
「大志さんのごはんはおいしいから仕方ないですね」
思い出しキレる悦巳をみはながおっとり宥める。
えっちゃんこと瑞原悦巳は児玉家の家政夫にして、貿易会社を経営する若社長・児玉誠一のパートナーだ。誠一の一人娘であるみはなの面倒は大抵彼が見ている。
悦巳が居候してから児玉家のキッチンには物が増えた。
以前はほぼ自炊の形跡なく片付いていたのだが、現在はマグカップやパステルカラーの皿、ファンシーな電気ケトルが仲間入りし、戸棚や水切りで賑やかに団欒している。実に家庭的な雰囲気だ。
縁に上品な青を入れたウェッジウッドのティーカップは普段使いにはもったいなくて、リビングの棚に観賞用として飾ってある。
「今日のおやつはこれがいいです」
口をへの字に結び、一歩も引かない気構えを見せるみはな。食い意地が張ってんのは誰に似たのか……まさか俺?
「つっても作れっかな……難易度高くねっす?」
スウェットから出したスマホをぽちぽち操作、ネットで検索をかける。
するとネットのレシピや動画が大量ヒット、でるわでるわで「おお」と感嘆符を漏らす。
さすがぐりとぐら、国民的絵本に登場するカステラは料理好きの挑戦心をくすぐるらしい。
「んー……でもカステラはなあ……」
渋い顔で失敗を懸念する。カステラは作ったことがない、万一焦がしたら材料がもったいない。
「ちょっと待っててください」
行儀よくステイするみはなの前に片手を立て、スマホの短縮にかける。さほど待たせず相手がでた。
『ンだよ今手ェはなせねーのに』
無愛想な声。
同じ施設出身であり、現在は調理師めざして勉強中の親友・大志だ。
「わりぃ大志、ぐりとぐらのカステラの作り方教えて。なんならスマホ繋ぎっぱにしとくから実況で」
『やぶからぼうに何言いだ……ははあ、ちっこいののリクエストだな?』
悦巳の足元ではその「ちっこいの」が聞き耳を立てている。
「お前ならできんだろ?」
『できねえよ』
「嘘吐け、前に何回かホットケーキ焼いてくれたじゃん」
『ホットケーキとカステラはちげェっての、見た目は似てっけど』
「材料と見た目は大体おんなじじゃん。カステラの方がじゃりじゃりしてっか?」
『お前カステラの上と下の薄紙が好物だったよな、毎回キレイになめとっててドン引きした』
「ガキん頃の話蒸し返すなよ」
『いい年いってからもやってたろ』
大志が心底あきれる。いい加減水に流してほしい。
「なーいいだろ大志、頼むこのとーり一生のお願い」
『一生のお願い大安売りだな。言ったろ、いま忙しいの』
「何してんだよ?」
『洗車』
なるほど、さっきから聞こえてた放水の音はホースか。大志は調理の専門学校生兼、誠一の部下であるアンディの洗車係を務めている。
正確には洗車係兼雑用として働くのを条件に、アンディの部屋に住まわせてもらっているのだ。
『早いとこ泥ハネぴかぴかにしねーとデカいのにまたどやされる』
「ツレねえこと言うなよ、お前だけが頼りなんだって!」
『YouTube検索すりゃ作ってみた動画ザクザク出てくんだろ』
「お前の教え方のがスッと入ってくんだよ』
『サボるなよ』
『わかってるっての、いちいちうっせーな』
大志の背後からアンディの注意が割り込んでくる。居候が手抜きしないか見張っているらしい。
『じゃあな。健闘祈る』
「!待て」
『完成後においしくなあれの魔法かけんの忘れんなよ』
ピッ。
笑いを含んだひやかしを最後に、無情にも通話は切られてしまった。
「ケチ」
途切れたスマホに舌打ちするもわがままは言えないと考え直す。
頼みの綱の大志には断られてしまった。動画を参照しながら焼くのはいまいち心もとない、自慢じゃないが悦巳は並列作業が苦手だ。あっちを見てこっちを見て大忙しでパニクるのは明らか、おかげで味噌汁をよく吹きこぼし焼き魚を炭にする。一方で期待に目を輝かせるみはなを裏切るのが忍びなく、脳味噌フル回転で妥協案をさぐる。
閃いた。
「だったらみはなちゃん、ホットケーキはどっすか」
「カステラは?」
「残念だけど俺にはまだカステラは早いっす、アレは大志のような上級者向けっす。ホットケーキなら何回かやったことあるしみはなちゃんが手伝ってくれたら楽勝っす、戸棚に粉もあるし冷蔵庫にゃ牛乳とたまごも」
みはなが目をぱちくり。
「みはながお手伝いするんですか?」
「お料理助手お願いできますか?俺一人じゃ自信なくって……その点みはなちゃんがお手伝いしてくれたらカイリキーヒャクニンリキっす、最高においしいホットケーキができあがるに決まってるっす。ぐりとぐらのカステラはまた今度、修行を積んでからとりかかるっす。まずはホットケーキで腕試しっすよ、両方似たようなもんだし」
「カステラとホットケーキは違いますよ」
「でもどっちもおいしいっしょ」
みはなが返しに詰まる。
してやったりと悦巳がにんまりする。
「材料は大体おなじっしょ?小麦粉にたまごに牛乳に砂糖に……スマホにも書いてあるっす」
水戸黄門の印籠のごとく、「ばばーん!」と頭の悪い効果音付きでスマホに呼び出した材料表をみはなに見せる。
説得に手ごたえを感じ目線の高さを調節、微笑む。みはなは未練がましく挿絵のカステラを見詰めていたが、やがて静かに絵本を閉じ、「しかたないですね」と呟く。
「やりー」
丸めこむのに成功するや小声で快哉、指を弾こうとして慌てて引っ込める。
「じゃ準備してこなきゃっすね」
「あいあいさー」
どこで覚えたのか(アンディの影響?)みはながビシッと敬礼してエプロンを取りに行く。よくできた子だ。きっと俺の育て方がいいんだなと自惚れる。
みはなの譲歩を勝ち取った悦巳は、ふと思い付いて誠一と共用の寝室へ引っ込む。机の上にはノートパソコンが出ていた。
それをキッチンカウンターへ移し電源を入れる。こないだインストールしたビデオ電話を起動、回線を繋ぐ。
「やっほー誠一さん、見えてるっすかー」
『仕事中だ』
繋がると同時にむすっとした声。社長室のデスクにふんぞり返り、書類から顔を上げた誠一が不機嫌そうに睨んでくる。
液晶にむかって朗らかに手を振る悦巳に、椅子を回して向き直る。
『何の用だ』
「これからみはなちゃんとホットケーキ焼くんすよ、誠一さんにも音と映像お裾分けしてあげよって思って。仲間外れはかわいそっすもんね、働くお父さんご褒美っす」
さすがに匂いと味は無理っすけど、と笑って付け加える。本音を言えば新しく入れたアプリを使ってみたかったのだ。
誠一が悠然と長い足を組み替える。
『切るぞ』
「ちょちょちょい待ち、たんまっす切らないで!?」
『くだらない用事でいちいちかけてくるんじゃない』
「オンラインクッキングに付き合ってくださいよ」
『仕事の邪魔をするな』
「お父さんに応援してもらったほうがみはなちゃんも絶対やる気でますって」
通話を切って仕事に戻りかけた誠一がピクリとする。もう一押しだ。
悦巳は勇を鼓し、拳を握り込んで訴える。
「かわいい娘がはじめてホットケーキ作るんすよ、フライパンであっちっちーあっちっちーしちまわねーか小麦粉でブフォッてしねーか心配じゃないんすか?オンラインで見守り隊したくないんすか」
『まだやらなきゃいけない仕事が残ってるんだ』
「接待とか取引とか?」
『午後に外出の予定はないが』
「社長室にこもってるんならちょうどいいじゃないっすか、BGМ代わりにふたりでできるもん流しといてください」
誠一はしばし考え込む。後に残っているのは書類への判押しだけ、オンライン通話を繋いでおいても邪魔にはならない。
それに一人娘に万一の事があったら心配だ。
家政夫は頼りないし、画面越しでも自分が目を光らせておく方が賢明だと思い直す。
よって、誠一は保険をかけることにした。
『……わかった。くれぐれも騒ぐなよ』
「それでこそ誠一さん!」
悦巳が指を弾いて喜ぶ。そこへみはなが走ってきて、悦巳とおそろいで買ったエプロンを渡す。
みはなをターンさせ鼻歌まじりにエプロン紐を結ぶ悦巳を一瞥、書類仕事へ戻る。
働きすぎのアンディには休暇をやった。代理の秘書は遅い昼食をとりに出かけている。
オフィス街のビル上階、高価な調度を整えた広い社長室にひとりきり。パソコンの向こうから賑やかしが入るのも悪くない。
『たまごを割る時はコツンっすよ、ゴツンはだめです』
『やさしくですね、わかってます』
みはながシンクの角にたまごをぶつけ、ボウルに黄身を投入する。
専用の踏み台をちゃっかり持ってきて、悦巳と並んで調理する背中は、どことなく別れた妻に似ていた。
誠一は並列作業が得意だ。一度に複数の作業をこなせなければ社長は務まらない。
別窓を開いてメールを送り、また別窓を開いて契約書を読み、直接捺印が必要な資料はデスクに積み上げておく。
誠一が複窓でノルマを消化する間も、オンラインクッキングは着々と進行していた。
『バニラエッセンスは適量か』
『適量ってなんですか』
『好きなだけってことっす』
「ちょっと待て、適量は適切な量の略で適当な量じゃないぞ」
『こまかいっすね誠一さんは』
思わず口を挟めば、頭でっかちな舅に対するリアクションのように悦巳が鼻白む。
『適量っていい言葉っすね、俺大好きっす』
「お前の料理は概ね適量で成り立ってるからな。今のは適当な量の略だぞ」
『履歴書の座右の銘欄に書きてえくらい』
「転職の予定があるとは知らなかった」
『雇用主のオーボーに耐えかねて』
「たっぷりサービスしてやってるだろ」
『ボーナスもらってねっすけど』
「永久就職したんだと思ってたが」
可愛げない憎まれ口を鼻で一蹴すれば、悔しげに顔を赤らめる。
『えっちゃん、どっかいっちゃうんですか……?』
『へ?嘘うそ、今のジョーダンっすこ~んなかわいいみはなちゃんおいて出てくわけないじゃねっすか!』
悦巳の姿が画面から見切れる。その場にしゃがんでハグしてやってるのか、とんだ茶番劇だ。
悦巳はみはなに対し過保護のきらいがある、ホットケーキにシロップとハチミツとバターを塗りたくったような甘やかしぶりだ。
『次はしゃかしゃかっす』
『了解です』
どうでもいいが、悦巳の説明はやたら擬音が多い。
映像を見ず会話だけ聞き流していると、何の作業にとりりかるのかまったくわからない。
きっと頭が悪いからだな、と誠一は納得する。俺が料理できないせいでは断じてない。
『じゃーん!みんなを幸せにする合法の粉の登場っす』
「おい」
一旦手を止めて窓を切り替える。
スウェットを腕まくりした悦巳がボウルに注ぐ、白い粉末に目がいく。
「ただのホットケーキミックスじゃないか、まぎらわしい言い方をするな」
『非合法の白い粉とでも思ったんすか』
みはなはちんぷんかんぷんな顔をしている。ホットケーキ作りは攪拌の段階にきたようだ。悦巳が戸棚からハンドミキサーを取り出し、『ぎゅいーん、がしゃん!』と先端をセット。いちいち効果音が大袈裟だ、子供の頃はロボットアニメにハマってたのだろか……誠一も人のことは言えないが。
『もったりするまでよーく泡立てるんすよ』
『いえっさーです』
みはながアンディのまねっこをする。
「子供の手には余るんじゃないか?」
『心配性だなー誠一さんは、しっかり支えてるから大丈夫っすって』
お前にだけは言われたくないと腹の中で返す。
カウンターに置かれたノートパソコンの液晶が、青年と幼女がこまごま立ち働くキッチンを映す。
みはなの後ろに回るや二人羽織りの要領で彼女の手をボウルに導き、しっかりとハンドミキサーを握らす悦巳。
『スイッチゴー』
ハンドミキサーが稼働、ボウルの中の材料をよく攪拌。みはなは至って真剣な表情、反対に悦巳はどこまでも楽しげだ。
『ふんふんふふーん、ふんふんふふーん』
「…………」
気にしまいと努めても気になってしかたない、下手くそな鼻歌が集中を削ぐ。
いっそミュートにするか迷うが、悦巳の朗らかな笑顔とみはなの一生懸命さが思いとどまらせる。
「…………」
代わりに音量を絞り、別窓に移ってメールを送信。
『あっ』
「どうした?」
みはなが怪我したのか。
あせって窓を切り替えれば、みはなをちょこんと抱っこした悦巳が、反省の表情でしおたれていた。
『すいません、鼻歌うるさかったっすよね。配慮が足りませんでした』
「くだらないことで呼び戻すな」
『不条理な!?』
「問題ない、音は小さくしてある」
別段誠一へのいやがらせではなく、料理中は自然にでてしまうらしい。
『えっちゃんは悪くありません、唄ってほうが楽しいですよ』
『でも仕事の邪魔だし……唾入っちまったらばっちいし』
『じゃあもうすこし小さく唄いましょ』
『らじゃっす』
みはなに慰められ気を取り直し、今度はやや小さく唄いだす。誠一はボリュームをやや上げ、二人の歌に合わせてリズムをとる。
でこぼこな歌声を聞いてると、靴の先と膝がひとりでに動いてしまうのだ。
『いよいよオンラインクッキングの山場、フライパンで焼き入れるっす』
「報告はいらん。おまけに言い回しが物騒だ」
仕事をあらかた片付け、手持無沙汰の誠一が頬杖を付く。
フライパンは既にバターを引き、弱火であたためてある。
『ここにタネを入れるっすよみはなちゃ』
悦巳が振り向く。
ボウルを抱え込み、スイッチを切ったハンドミキサーの先をちびちびなめていたみはなが硬直。
『「こらっ!」』
画面のあちらとこちらで悦巳と誠一がユニゾンする。
『なにしてるんすかみはなちゃん、だめっすよ!』
『ご、ごめんなさい。おいしそうだったんでちょっとだけ』
悦巳が血相変え、ボウルとハンドミキサーをひったくる。
すっかり縮こまり、しおらしく謝罪するみはな。優しい家政夫の剣幕に、涙ぐんで怯えている。
「意地汚いぞみはな、まったく誰に似たんだか」
『ハンドミキサーはちゃんと分解してからじゃねーと危ないっしょ!』
そっちか。
怒るのも馬鹿馬鹿しく脱力する誠一をよそに、悦巳はピーターを本体からすっぽぬき、きょとんとするみはなに手渡す。
『しっぽ抜いたのに……』
ハンドミキサーの電気コードはコンセント入れから抜けていた。
『ま、万一ってことがあるっす。みはなちゃんが実は超能力者で突然念動力に覚醒するとも限んねーし』
「念には念をか。念動力だけに」
見落としていたらしい悦巳が慌てて言い張る。誠一は苦笑を禁じ得ない。
悦巳がノートパソコンに歩み寄り、誠一にだけ聞こえる声で内緒話。
『気持ちはわかるっす、なんで焼く前のホットケーキミックスってあんなうまそうなんすかね?』
「さあな」
『誠一さんはしたことないんすか』
「お前と違って行儀のいいガキだったんだ」
画面の端っこ、ピーターの先端に絡んだ液体をなめてうっとりするみはな。恍惚たる至福の表情。
「食い尽くされる前に焼いたほうがいいんじゃないか、アレじゃ腹を壊すぞ」
『わかってますって』
誠一の催促をうけた悦巳がみはなの所へ戻っていき、『一口ください』とねだる。みはなはピーターを悦巳の口元へ持っていき、彼はそれを食べる。
『ごちそうさんっす。それじゃ今度こそ本番』
『みはながやります』
『もちろんっす』
踏み台に爪先立ったみはなに場所を譲る。
みはなはフライパンの柄を両手で握り、悦巳はボウルをゆっくり傾け、中身を注いでいく。中央にたまったホットケーキミックスがうす平べったく伸びて、フライパンのふちで止まる。じゅわあああっ、火が通り弾ける音。
『わ、わ、じゅわああって言ってます』
『焦げ目が付かねーようにまんべんなく焼くんすよ』
悦巳がさりげなく後ろに回り込み、みはなの手ごと柄を握り直す。仲睦まじい二人の姿に、誠一は祖母と過ごした時間を思い出す。
男を作って出ていった母のかわりに、誠一の面倒を見てくれた祖母もまた、ああしてホットケーキを焼いてくれたのだ。
なんでもひとりでやりたがる誠一を立て、自分はしっかりサポートし、されど危ない時はフォローを欠かさず。
『そうそこ、フライ返しを入れてひっくり返す!』
『で、できました!』
『よっしゃ、一回目でコツをマスターするとは筋がいいっすねみはなちゃん』
『えへへ……いい匂いがしてきましたね』
悦巳とみはなはどちらも楽しそうだった。心の底からホットケーキ作りを楽しんでいた。
音と映像だけでも幸福感が伝わってきて、日々に忙殺され乾いた心が満たされていく。
『できあがりっす』
『できあがりました』
『お皿とってきてくれますか』
『赤いの?青いの?』
『みはなちゃんの好きなので』
『わかりました』
悦巳がコンロの火をとめる。カウンターにやってきて、コルクの鍋敷にフライパンをおろす。
みはなが持ってきた皿にフライ返しにのっけたホットケーキをよそり、バターをひとかけてっぺんにのせ、冷蔵庫から出したハチミツでひたひたにする。黄金色のハチミツがバターと溶け混ざり、滝のように表面を流れ落ちていく。
『わあ……』
みはなが目を輝かせて感動する。頬は興奮に上気し、食べるのが待ちきれないといった様子だ。
『どうぞ召し上がれ』
『いただきます!』
みはなが両手で皿を捧げ持ち、慎重な足取りで画面から離脱していく。
改めて画面に向き直り、茶目っけたっぷりに微笑む悦巳。
『口ン中よだれの洪水ですごいっしょ』
「お預けか」
『帰ったら誠一さんの分焼きますよ、今作ったんじゃ冷めちまうし……どーせなら焼きたて食べてほしっすもん』
悦巳がくすぐったげにのろけ、誠一の目をまっすぐ見詰める。
『……実はホットケーキって憧れてたんすよね』
「パンケーキのほうが流行ってないか」
『パンケーキはほら、インスタ映えとかフルーツたくさんのっけてオシャレな感じっしょ?俺はもっとこー、フツーのが食べたかったんす。親がうちで子どもに作るような』
悦巳には両親がいない。
子供の頃施設の前に捨てられたのだ。
『……夢が叶ったかな?なんちって』
言ってから頬をかいて照れる悦巳へと、ささやかな悪戯心を起こして微笑みかける。
「愛情は何グラム入れたんだ」
『適量っす』
「適当な量の略か」
調子にのってからかえば、画面の向こうの青年が降参して口を尖らす。
『意地悪っすね、「好きなだけ」に決まってんでしょ』
拗ねた表情にこめられた不器用さが愛しさをかきたてる。
「こっちを向け」
『何っすか』
低く指図してから自分の唇に触れ、その人さし指を液晶に映る、悦巳の唇へ着地させる。
「……画面に指紋が付いた。切るぞ」
ぽかんとする悦巳。
やらかした恥ずかしさに耐えかね、そそくさ通話を切る誠一。
ホットケーキをきれいにたいらげたみはなが、画面の外で『ごちそうさまです』と言った。
みはなが突然そんなことを言い出した。
キッチンで洗い物をしていた悦巳は蛇口をひねり、フキンで手を拭き拭き振り返る。
「え~……ぐりとぐらのカステラってアレっすか」
「そのアレです」
「ちょっと待っててください」と断って部屋に駆け戻るみはな。ごそごそと本棚をあさる音に続き、キッチンに取って返した彼女の手にはあの有名な絵本が掲げられていた。
赤い帽子と青い帽子をかぶった仲良し野ねずみが、バスケットを持って歩いてる表紙。誰でも一度は見たことあるかもしれない。
忙しげにページをめくり、まんまるに膨らんだカステラの挿絵を指さす。
「これです、これが食べたいです」
香ばしいキツネ色に焼けたカステラは、なるほどよだれがでそうにおいしそうだ。悦巳はほのぼのと目を細める。
「懐かしいなあ、子供の頃好きで読んでたっけ」
「えっちゃんちにもありましたか?」
「施設の本棚に。大志によく作ってってねだりました、昔っから料理好きだったんすよアイツ、先生たち手伝ってよくゼリーとか作ってたし」
「えっちゃんは昔から食いしんぼだったんですね」
「したらアイツなんて言ったと思います、ちゃっかり手ェだして『一万円な』って。金とんのかよしかもボリすぎだろ!って突っ込んじゃいました」
「大志さんのごはんはおいしいから仕方ないですね」
思い出しキレる悦巳をみはながおっとり宥める。
えっちゃんこと瑞原悦巳は児玉家の家政夫にして、貿易会社を経営する若社長・児玉誠一のパートナーだ。誠一の一人娘であるみはなの面倒は大抵彼が見ている。
悦巳が居候してから児玉家のキッチンには物が増えた。
以前はほぼ自炊の形跡なく片付いていたのだが、現在はマグカップやパステルカラーの皿、ファンシーな電気ケトルが仲間入りし、戸棚や水切りで賑やかに団欒している。実に家庭的な雰囲気だ。
縁に上品な青を入れたウェッジウッドのティーカップは普段使いにはもったいなくて、リビングの棚に観賞用として飾ってある。
「今日のおやつはこれがいいです」
口をへの字に結び、一歩も引かない気構えを見せるみはな。食い意地が張ってんのは誰に似たのか……まさか俺?
「つっても作れっかな……難易度高くねっす?」
スウェットから出したスマホをぽちぽち操作、ネットで検索をかける。
するとネットのレシピや動画が大量ヒット、でるわでるわで「おお」と感嘆符を漏らす。
さすがぐりとぐら、国民的絵本に登場するカステラは料理好きの挑戦心をくすぐるらしい。
「んー……でもカステラはなあ……」
渋い顔で失敗を懸念する。カステラは作ったことがない、万一焦がしたら材料がもったいない。
「ちょっと待っててください」
行儀よくステイするみはなの前に片手を立て、スマホの短縮にかける。さほど待たせず相手がでた。
『ンだよ今手ェはなせねーのに』
無愛想な声。
同じ施設出身であり、現在は調理師めざして勉強中の親友・大志だ。
「わりぃ大志、ぐりとぐらのカステラの作り方教えて。なんならスマホ繋ぎっぱにしとくから実況で」
『やぶからぼうに何言いだ……ははあ、ちっこいののリクエストだな?』
悦巳の足元ではその「ちっこいの」が聞き耳を立てている。
「お前ならできんだろ?」
『できねえよ』
「嘘吐け、前に何回かホットケーキ焼いてくれたじゃん」
『ホットケーキとカステラはちげェっての、見た目は似てっけど』
「材料と見た目は大体おんなじじゃん。カステラの方がじゃりじゃりしてっか?」
『お前カステラの上と下の薄紙が好物だったよな、毎回キレイになめとっててドン引きした』
「ガキん頃の話蒸し返すなよ」
『いい年いってからもやってたろ』
大志が心底あきれる。いい加減水に流してほしい。
「なーいいだろ大志、頼むこのとーり一生のお願い」
『一生のお願い大安売りだな。言ったろ、いま忙しいの』
「何してんだよ?」
『洗車』
なるほど、さっきから聞こえてた放水の音はホースか。大志は調理の専門学校生兼、誠一の部下であるアンディの洗車係を務めている。
正確には洗車係兼雑用として働くのを条件に、アンディの部屋に住まわせてもらっているのだ。
『早いとこ泥ハネぴかぴかにしねーとデカいのにまたどやされる』
「ツレねえこと言うなよ、お前だけが頼りなんだって!」
『YouTube検索すりゃ作ってみた動画ザクザク出てくんだろ』
「お前の教え方のがスッと入ってくんだよ』
『サボるなよ』
『わかってるっての、いちいちうっせーな』
大志の背後からアンディの注意が割り込んでくる。居候が手抜きしないか見張っているらしい。
『じゃあな。健闘祈る』
「!待て」
『完成後においしくなあれの魔法かけんの忘れんなよ』
ピッ。
笑いを含んだひやかしを最後に、無情にも通話は切られてしまった。
「ケチ」
途切れたスマホに舌打ちするもわがままは言えないと考え直す。
頼みの綱の大志には断られてしまった。動画を参照しながら焼くのはいまいち心もとない、自慢じゃないが悦巳は並列作業が苦手だ。あっちを見てこっちを見て大忙しでパニクるのは明らか、おかげで味噌汁をよく吹きこぼし焼き魚を炭にする。一方で期待に目を輝かせるみはなを裏切るのが忍びなく、脳味噌フル回転で妥協案をさぐる。
閃いた。
「だったらみはなちゃん、ホットケーキはどっすか」
「カステラは?」
「残念だけど俺にはまだカステラは早いっす、アレは大志のような上級者向けっす。ホットケーキなら何回かやったことあるしみはなちゃんが手伝ってくれたら楽勝っす、戸棚に粉もあるし冷蔵庫にゃ牛乳とたまごも」
みはなが目をぱちくり。
「みはながお手伝いするんですか?」
「お料理助手お願いできますか?俺一人じゃ自信なくって……その点みはなちゃんがお手伝いしてくれたらカイリキーヒャクニンリキっす、最高においしいホットケーキができあがるに決まってるっす。ぐりとぐらのカステラはまた今度、修行を積んでからとりかかるっす。まずはホットケーキで腕試しっすよ、両方似たようなもんだし」
「カステラとホットケーキは違いますよ」
「でもどっちもおいしいっしょ」
みはなが返しに詰まる。
してやったりと悦巳がにんまりする。
「材料は大体おなじっしょ?小麦粉にたまごに牛乳に砂糖に……スマホにも書いてあるっす」
水戸黄門の印籠のごとく、「ばばーん!」と頭の悪い効果音付きでスマホに呼び出した材料表をみはなに見せる。
説得に手ごたえを感じ目線の高さを調節、微笑む。みはなは未練がましく挿絵のカステラを見詰めていたが、やがて静かに絵本を閉じ、「しかたないですね」と呟く。
「やりー」
丸めこむのに成功するや小声で快哉、指を弾こうとして慌てて引っ込める。
「じゃ準備してこなきゃっすね」
「あいあいさー」
どこで覚えたのか(アンディの影響?)みはながビシッと敬礼してエプロンを取りに行く。よくできた子だ。きっと俺の育て方がいいんだなと自惚れる。
みはなの譲歩を勝ち取った悦巳は、ふと思い付いて誠一と共用の寝室へ引っ込む。机の上にはノートパソコンが出ていた。
それをキッチンカウンターへ移し電源を入れる。こないだインストールしたビデオ電話を起動、回線を繋ぐ。
「やっほー誠一さん、見えてるっすかー」
『仕事中だ』
繋がると同時にむすっとした声。社長室のデスクにふんぞり返り、書類から顔を上げた誠一が不機嫌そうに睨んでくる。
液晶にむかって朗らかに手を振る悦巳に、椅子を回して向き直る。
『何の用だ』
「これからみはなちゃんとホットケーキ焼くんすよ、誠一さんにも音と映像お裾分けしてあげよって思って。仲間外れはかわいそっすもんね、働くお父さんご褒美っす」
さすがに匂いと味は無理っすけど、と笑って付け加える。本音を言えば新しく入れたアプリを使ってみたかったのだ。
誠一が悠然と長い足を組み替える。
『切るぞ』
「ちょちょちょい待ち、たんまっす切らないで!?」
『くだらない用事でいちいちかけてくるんじゃない』
「オンラインクッキングに付き合ってくださいよ」
『仕事の邪魔をするな』
「お父さんに応援してもらったほうがみはなちゃんも絶対やる気でますって」
通話を切って仕事に戻りかけた誠一がピクリとする。もう一押しだ。
悦巳は勇を鼓し、拳を握り込んで訴える。
「かわいい娘がはじめてホットケーキ作るんすよ、フライパンであっちっちーあっちっちーしちまわねーか小麦粉でブフォッてしねーか心配じゃないんすか?オンラインで見守り隊したくないんすか」
『まだやらなきゃいけない仕事が残ってるんだ』
「接待とか取引とか?」
『午後に外出の予定はないが』
「社長室にこもってるんならちょうどいいじゃないっすか、BGМ代わりにふたりでできるもん流しといてください」
誠一はしばし考え込む。後に残っているのは書類への判押しだけ、オンライン通話を繋いでおいても邪魔にはならない。
それに一人娘に万一の事があったら心配だ。
家政夫は頼りないし、画面越しでも自分が目を光らせておく方が賢明だと思い直す。
よって、誠一は保険をかけることにした。
『……わかった。くれぐれも騒ぐなよ』
「それでこそ誠一さん!」
悦巳が指を弾いて喜ぶ。そこへみはなが走ってきて、悦巳とおそろいで買ったエプロンを渡す。
みはなをターンさせ鼻歌まじりにエプロン紐を結ぶ悦巳を一瞥、書類仕事へ戻る。
働きすぎのアンディには休暇をやった。代理の秘書は遅い昼食をとりに出かけている。
オフィス街のビル上階、高価な調度を整えた広い社長室にひとりきり。パソコンの向こうから賑やかしが入るのも悪くない。
『たまごを割る時はコツンっすよ、ゴツンはだめです』
『やさしくですね、わかってます』
みはながシンクの角にたまごをぶつけ、ボウルに黄身を投入する。
専用の踏み台をちゃっかり持ってきて、悦巳と並んで調理する背中は、どことなく別れた妻に似ていた。
誠一は並列作業が得意だ。一度に複数の作業をこなせなければ社長は務まらない。
別窓を開いてメールを送り、また別窓を開いて契約書を読み、直接捺印が必要な資料はデスクに積み上げておく。
誠一が複窓でノルマを消化する間も、オンラインクッキングは着々と進行していた。
『バニラエッセンスは適量か』
『適量ってなんですか』
『好きなだけってことっす』
「ちょっと待て、適量は適切な量の略で適当な量じゃないぞ」
『こまかいっすね誠一さんは』
思わず口を挟めば、頭でっかちな舅に対するリアクションのように悦巳が鼻白む。
『適量っていい言葉っすね、俺大好きっす』
「お前の料理は概ね適量で成り立ってるからな。今のは適当な量の略だぞ」
『履歴書の座右の銘欄に書きてえくらい』
「転職の予定があるとは知らなかった」
『雇用主のオーボーに耐えかねて』
「たっぷりサービスしてやってるだろ」
『ボーナスもらってねっすけど』
「永久就職したんだと思ってたが」
可愛げない憎まれ口を鼻で一蹴すれば、悔しげに顔を赤らめる。
『えっちゃん、どっかいっちゃうんですか……?』
『へ?嘘うそ、今のジョーダンっすこ~んなかわいいみはなちゃんおいて出てくわけないじゃねっすか!』
悦巳の姿が画面から見切れる。その場にしゃがんでハグしてやってるのか、とんだ茶番劇だ。
悦巳はみはなに対し過保護のきらいがある、ホットケーキにシロップとハチミツとバターを塗りたくったような甘やかしぶりだ。
『次はしゃかしゃかっす』
『了解です』
どうでもいいが、悦巳の説明はやたら擬音が多い。
映像を見ず会話だけ聞き流していると、何の作業にとりりかるのかまったくわからない。
きっと頭が悪いからだな、と誠一は納得する。俺が料理できないせいでは断じてない。
『じゃーん!みんなを幸せにする合法の粉の登場っす』
「おい」
一旦手を止めて窓を切り替える。
スウェットを腕まくりした悦巳がボウルに注ぐ、白い粉末に目がいく。
「ただのホットケーキミックスじゃないか、まぎらわしい言い方をするな」
『非合法の白い粉とでも思ったんすか』
みはなはちんぷんかんぷんな顔をしている。ホットケーキ作りは攪拌の段階にきたようだ。悦巳が戸棚からハンドミキサーを取り出し、『ぎゅいーん、がしゃん!』と先端をセット。いちいち効果音が大袈裟だ、子供の頃はロボットアニメにハマってたのだろか……誠一も人のことは言えないが。
『もったりするまでよーく泡立てるんすよ』
『いえっさーです』
みはながアンディのまねっこをする。
「子供の手には余るんじゃないか?」
『心配性だなー誠一さんは、しっかり支えてるから大丈夫っすって』
お前にだけは言われたくないと腹の中で返す。
カウンターに置かれたノートパソコンの液晶が、青年と幼女がこまごま立ち働くキッチンを映す。
みはなの後ろに回るや二人羽織りの要領で彼女の手をボウルに導き、しっかりとハンドミキサーを握らす悦巳。
『スイッチゴー』
ハンドミキサーが稼働、ボウルの中の材料をよく攪拌。みはなは至って真剣な表情、反対に悦巳はどこまでも楽しげだ。
『ふんふんふふーん、ふんふんふふーん』
「…………」
気にしまいと努めても気になってしかたない、下手くそな鼻歌が集中を削ぐ。
いっそミュートにするか迷うが、悦巳の朗らかな笑顔とみはなの一生懸命さが思いとどまらせる。
「…………」
代わりに音量を絞り、別窓に移ってメールを送信。
『あっ』
「どうした?」
みはなが怪我したのか。
あせって窓を切り替えれば、みはなをちょこんと抱っこした悦巳が、反省の表情でしおたれていた。
『すいません、鼻歌うるさかったっすよね。配慮が足りませんでした』
「くだらないことで呼び戻すな」
『不条理な!?』
「問題ない、音は小さくしてある」
別段誠一へのいやがらせではなく、料理中は自然にでてしまうらしい。
『えっちゃんは悪くありません、唄ってほうが楽しいですよ』
『でも仕事の邪魔だし……唾入っちまったらばっちいし』
『じゃあもうすこし小さく唄いましょ』
『らじゃっす』
みはなに慰められ気を取り直し、今度はやや小さく唄いだす。誠一はボリュームをやや上げ、二人の歌に合わせてリズムをとる。
でこぼこな歌声を聞いてると、靴の先と膝がひとりでに動いてしまうのだ。
『いよいよオンラインクッキングの山場、フライパンで焼き入れるっす』
「報告はいらん。おまけに言い回しが物騒だ」
仕事をあらかた片付け、手持無沙汰の誠一が頬杖を付く。
フライパンは既にバターを引き、弱火であたためてある。
『ここにタネを入れるっすよみはなちゃ』
悦巳が振り向く。
ボウルを抱え込み、スイッチを切ったハンドミキサーの先をちびちびなめていたみはなが硬直。
『「こらっ!」』
画面のあちらとこちらで悦巳と誠一がユニゾンする。
『なにしてるんすかみはなちゃん、だめっすよ!』
『ご、ごめんなさい。おいしそうだったんでちょっとだけ』
悦巳が血相変え、ボウルとハンドミキサーをひったくる。
すっかり縮こまり、しおらしく謝罪するみはな。優しい家政夫の剣幕に、涙ぐんで怯えている。
「意地汚いぞみはな、まったく誰に似たんだか」
『ハンドミキサーはちゃんと分解してからじゃねーと危ないっしょ!』
そっちか。
怒るのも馬鹿馬鹿しく脱力する誠一をよそに、悦巳はピーターを本体からすっぽぬき、きょとんとするみはなに手渡す。
『しっぽ抜いたのに……』
ハンドミキサーの電気コードはコンセント入れから抜けていた。
『ま、万一ってことがあるっす。みはなちゃんが実は超能力者で突然念動力に覚醒するとも限んねーし』
「念には念をか。念動力だけに」
見落としていたらしい悦巳が慌てて言い張る。誠一は苦笑を禁じ得ない。
悦巳がノートパソコンに歩み寄り、誠一にだけ聞こえる声で内緒話。
『気持ちはわかるっす、なんで焼く前のホットケーキミックスってあんなうまそうなんすかね?』
「さあな」
『誠一さんはしたことないんすか』
「お前と違って行儀のいいガキだったんだ」
画面の端っこ、ピーターの先端に絡んだ液体をなめてうっとりするみはな。恍惚たる至福の表情。
「食い尽くされる前に焼いたほうがいいんじゃないか、アレじゃ腹を壊すぞ」
『わかってますって』
誠一の催促をうけた悦巳がみはなの所へ戻っていき、『一口ください』とねだる。みはなはピーターを悦巳の口元へ持っていき、彼はそれを食べる。
『ごちそうさんっす。それじゃ今度こそ本番』
『みはながやります』
『もちろんっす』
踏み台に爪先立ったみはなに場所を譲る。
みはなはフライパンの柄を両手で握り、悦巳はボウルをゆっくり傾け、中身を注いでいく。中央にたまったホットケーキミックスがうす平べったく伸びて、フライパンのふちで止まる。じゅわあああっ、火が通り弾ける音。
『わ、わ、じゅわああって言ってます』
『焦げ目が付かねーようにまんべんなく焼くんすよ』
悦巳がさりげなく後ろに回り込み、みはなの手ごと柄を握り直す。仲睦まじい二人の姿に、誠一は祖母と過ごした時間を思い出す。
男を作って出ていった母のかわりに、誠一の面倒を見てくれた祖母もまた、ああしてホットケーキを焼いてくれたのだ。
なんでもひとりでやりたがる誠一を立て、自分はしっかりサポートし、されど危ない時はフォローを欠かさず。
『そうそこ、フライ返しを入れてひっくり返す!』
『で、できました!』
『よっしゃ、一回目でコツをマスターするとは筋がいいっすねみはなちゃん』
『えへへ……いい匂いがしてきましたね』
悦巳とみはなはどちらも楽しそうだった。心の底からホットケーキ作りを楽しんでいた。
音と映像だけでも幸福感が伝わってきて、日々に忙殺され乾いた心が満たされていく。
『できあがりっす』
『できあがりました』
『お皿とってきてくれますか』
『赤いの?青いの?』
『みはなちゃんの好きなので』
『わかりました』
悦巳がコンロの火をとめる。カウンターにやってきて、コルクの鍋敷にフライパンをおろす。
みはなが持ってきた皿にフライ返しにのっけたホットケーキをよそり、バターをひとかけてっぺんにのせ、冷蔵庫から出したハチミツでひたひたにする。黄金色のハチミツがバターと溶け混ざり、滝のように表面を流れ落ちていく。
『わあ……』
みはなが目を輝かせて感動する。頬は興奮に上気し、食べるのが待ちきれないといった様子だ。
『どうぞ召し上がれ』
『いただきます!』
みはなが両手で皿を捧げ持ち、慎重な足取りで画面から離脱していく。
改めて画面に向き直り、茶目っけたっぷりに微笑む悦巳。
『口ン中よだれの洪水ですごいっしょ』
「お預けか」
『帰ったら誠一さんの分焼きますよ、今作ったんじゃ冷めちまうし……どーせなら焼きたて食べてほしっすもん』
悦巳がくすぐったげにのろけ、誠一の目をまっすぐ見詰める。
『……実はホットケーキって憧れてたんすよね』
「パンケーキのほうが流行ってないか」
『パンケーキはほら、インスタ映えとかフルーツたくさんのっけてオシャレな感じっしょ?俺はもっとこー、フツーのが食べたかったんす。親がうちで子どもに作るような』
悦巳には両親がいない。
子供の頃施設の前に捨てられたのだ。
『……夢が叶ったかな?なんちって』
言ってから頬をかいて照れる悦巳へと、ささやかな悪戯心を起こして微笑みかける。
「愛情は何グラム入れたんだ」
『適量っす』
「適当な量の略か」
調子にのってからかえば、画面の向こうの青年が降参して口を尖らす。
『意地悪っすね、「好きなだけ」に決まってんでしょ』
拗ねた表情にこめられた不器用さが愛しさをかきたてる。
「こっちを向け」
『何っすか』
低く指図してから自分の唇に触れ、その人さし指を液晶に映る、悦巳の唇へ着地させる。
「……画面に指紋が付いた。切るぞ」
ぽかんとする悦巳。
やらかした恥ずかしさに耐えかね、そそくさ通話を切る誠一。
ホットケーキをきれいにたいらげたみはなが、画面の外で『ごちそうさまです』と言った。
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