オレオレ御曹司

まさみ

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四十五話

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 「案内してください」
 動く密室と化したエレベーターの中で謎の幼女と対峙する。
 「な、なんだよお前!」
 外見はフリルで飾り立てたワンピースがよく似合う、子供好きならずとも抱きしめ頬擦りしたくなるようなやんごとなき幼女。
 ちんまり整った目鼻立ちときりりと結ぶ蕾の唇がなんとも愛くるしいが、よろめくようにあとずさる大志をもたげた銃口で追尾し、半歩ひけば半歩詰め、二歩さがれば二歩にじり、ジリジリと神経を削って間合いを量る気迫はスナイパーさながらだ。
 「ガキは水鉄砲で遊んでろ、んな危ねえもん持ってんじゃねえ!よこせ、ほら!」
 苛立たしげに催促するも幼女はうんともすんとも言わない。
 両手でしっかりと銃把を持ち抱え、聡明そうに澄んだ瞳に大志を映す。
 随分と利発な子だ。度胸もある。
 怒鳴られても怯えるでもべそかくでもなく、ひたと小揺るぎもせぬ目で大志の醜態を観察する佇まいにはどっしりした貫禄さえ漂い、将来の大物ぶりを予感させる。
 「~ひとの話聞いてんのかよ、よこせよほら、お前がいま手に持ってるもんこっち放れ!ガキが持ってちゃ危ねえだろ、変なとこいじくったらドン!て爆発しちまうぞ」
 脅しもハッタリも通じず調子が狂う。
 銃の危険性をいくら訴えたところで従う素振りはなく、幼女の姿をした刺客が核心に切り込む。 
 「えっちゃんのおともだちなんですよね」
 「…………っ」
 即答できなかったのは罪悪感が生むうしろめたさのせい。
 幼女の口からでた「えっちゃん」がだれをさすのかは既にわかっていた。
 苦渋に顔を歪めあとじさる大志にひそやかに詰め寄る。靴の踵が床にぶつかり甲高い音を立てる。
 「えっちゃんのところへつれてってください。おねがいします」 
 「お願いするなら銃をさげろ」
 眉間に皺を刻み考え込むや、ほんの僅か銃口を下げ、代わって深々頭をさげる。
 お願いの仕方を素直に改めた幼女に毒気をぬかれる。
 しかし銃口はまだ大志へと向けられている、安心はできない。噛み合わないやりとりを繰り広げる間にもエレベーターは着々と上昇していく。もうすぐ目的階に到着してしまう。
 銃弾の軌道から逸れるよう壁伝いに移動しつつ、不審げに問う。
 「ガキ、名前は」
 「ガキじゃありません。児玉みはなです」
 やっぱり。心のどこかで予想していたから驚きは最小限で済んだ。
 児玉みはな。児玉誠一の一人娘。
 家政夫に化けた悦巳が数ヶ月間ともに暮らし面倒を見ていた子供だ。
 どういう経緯で悦巳が監禁されてるマンションを突き止めたか定かではないが、おそらく父親のあとを追ってきたのだろう。
 「親父の名前は?」
 「……児玉誠一」
 一瞬口ごもり、不満そうに呟く。
 互いに警戒し、一定の距離をとりながらエレベーターの中をぐるぐる回る。
 大志が動けばみはなが動き、みはなが動けば大志も動く。
 付かず離れず何周もする二人の姿はちびくろサンボにでてくる虎に似て、あと五分も経てば美味しいバターになったろうあたりで目を回し蹴っ躓き、銃の自重に引っ張られ転びかけ慌てて体勢を立て直す。
 「なんでここに?」
 「えっちゃんをむかえにきたんです」
 「意味わかんねえよ、悦巳は自分から追ンでてきたんだぜ。無理矢理連れ戻すってのかお前みたいなチビが。どどやって?俺にしたみたく銃でおどして歩かせるのかよ」
 語尾を上げて揶揄すれば顔が葛藤に歪み、銃を握り締める手に力がこもる。
 大人げなさを自覚し口に出してから後悔が襲うも、一度堰を切った言葉は止まらない。
 「親父は知ってんのかよ。バレたらお尻ぺんぺんされるぜ」
 「いっしょにおうちに帰るんです」
 「その年から夜遊びなんてとんだ不良娘だ、末おそろしいぜ」
 「えっちゃんといっしょに帰るんです」
 銃をつきつけられてるのも忘れ、毅然と前を向くみはなを叱り飛ばす。
 「~わっかんねーガキだなあ、言ったろ悦巳は自分から追ンでてきたって!悦巳はもうお前らと一緒に住まねえの、最初ッからお芝居だったんだよ、期間限定のお芝居。親父から聞かなかったのかよ、そういう交換条件だったんだ。匿う代わりに家政夫として働くって条件で、だからあいつはいやいや」 

 本当にそうか?
 そう言い切れるのか?

 『そんでさ、そのみはなちゃんてのがすっげえいい子なんだ。素直で可愛くてお行儀よくて、全然手えかからねえの』
 はにかむように笑いながらみはながいかに可愛くいい子かのろける悦巳。
 『無表情なんだけどよーく注意して見ると嬉しいとか哀しいとか怒ってるとかぴくぴくする頬の動きや目の色でわかるようになってさ。ホントいい子なんだ、優しくて。俺が誠一さんに叱られてがっくりしてるとどうしたんですかって声かけてくれっし』
 『度胸のよさは誠一さん譲りかな?男の子と喧嘩しても一歩もひかねえの』

 誠一のマンションを追い出され再びアパートに転がり込んだ悦巳は、大志が望む望まないに関わらず、毎日のようにみはなの話をした。
 新しく得た家族がどんなに素晴らしいものか、新しく手に入れた居場所がどんなに心地いいか、それを持たない大志につまびらかに語って聞かせた。
 大志にとっては悦巳の隣こそが唯一安らげる居場所だったのに、悪気がないからこそいっそうその無神経さと鈍感さとに苛立った。

 話でしか知らない誠一とみはなに嫉妬していた。
 悦巳が楽しげに嬉しげにみはなや誠一にまつわるエピソードを語り聞かせるたび、笑い、ときに野次を入れ相槌を打ちつつ、彼らに唯一の居場所を奪われてしまうかもしれぬ焦燥と遠からずそれが現実になるだろう予感に怯えていた。

 「………えっちゃんに会わせてください」
 ガラスのように脆く尖った無表情でこいねがう。
 父について飛び出してきたものの手詰まりで、マンションの入り口で会った大志を頼るしかないのだろう。

 手をひねりあげるのは簡単だ。
 その気になれば銃をとりあげるのもたやすい。

 今は銃口がこちらを向いているから困難だが、よそ見した隙に体当たりをかまし銃を奪うことだってできなくはない。銃を持つ手つきはいかにも危なっかしく、扱い慣れてないのは明白だ。
 当たり前だ。幼稚園児が銃を持ち歩いてたら世も末だ。
 危険を犯すデメリットとメリットを天秤にかけたら後者に比重が傾く。
 生唾を呑み、体をずらし、いつでも飛びかかれるよう膝を撓める。
 が、どうしてか体が動かない。
 切迫した色を宿す眼差しに縛りつけられ、その場に立ち尽くす。
 涼やかな鈴の音とともにエレベーターが停止、自動的にに扉が開く。
 銃口が腰に沈む。歩けの合図。先導を命じられ渋々エレベーターを後にする。
 背中に押し当てた銃で早く歩けと急かす。かちゃつく銃口が恐怖を呑んだ手の震えを伝える。
 「ここだ」
 ブザーを押す。
 「遅かったな。随分かかったじゃねえか」
 チェーンを開錠する音に続き無防備に開け放たれたドアのむこうから上機嫌の御影が顔を出す。何故だか知らないが服装が乱れ、顔に擦り傷を作っていた。
 背広の襟元を寛げた御影が奇妙に強張った大志の顔を見、軽口を叩こうとし―
 「あアん?」 
 大志と御影の間に素早く躍り出た小さな影が、すかさず銃口を跳ね上げる。
 「……なんだこいつ。お前の隠し子か」
 「そこで拾ったんです」
 詳しく説明する気力も失せる。
 大志はぐったり疲れていた。早く中に入りたい。殴る蹴るの暴行を受け、節々が熱を持って疼くのだ。
 御影が愉快そうに口の端をめくり目を細める。
 タチの悪い企み顔。トラブルを面白がるのは修羅場をくりぐぬけ鍛えた柔軟性のなせる技か。
 物騒な凶器を手に飛び込できた珍客にしゃがんで目の高さをあわせ、猫なで声で尋ねる。
 「お嬢ちゃん、お名前は」
 「児玉みはなです」
 「―ってことは、児玉誠一の可愛い可愛い一人娘か」
 みはなは答えない。
 きゅっと唇を窄め、爪先からてっぺんまで不躾に眺め渡す男を負けじと睨みつける。
 「おい大志ィ、いつのまに誘拐してきた」
 「……ちがいますって、入り口でバッタリ会ったんです。親父にくっついてきたんじゃないっすかね」
 「残念、社長さんはたった今お帰りあそばされたとこだぜ。パパにナイショで夜遊びはいけねえなあ、そこらを徘徊してるオオカミさんにぱくっと頭から食われちまうぜ」
 喉の奥で卑屈に笑い、屈んだ姿勢から手を伸ばして頭髪をくしゃくしゃなでまわす。
 みはなは嫌がり身をよじりなれなれしい手を振り払う。
 まるで手が触れた場所から汚れてしまうと思い込んでるかのような拒絶反応に大志を見上げ苦笑する。
 「俺はバイキンか?傷つくぜ」
 「中に入れてください」
 通せんぼする御影越しに中を覗きこむよう背伸びをする。
 「その前に二・三質問だ。どうしてここがわかった?パパについてきたのか?車できたのか、歩きできたのか、それとも」
 矢継ぎ早に問う御影を見上げ、答えようと息を吸い込んだ拍子に腹が鳴る。
 「…………あ」
 ワンピースの腹を見下ろしきょとんとする。
 御影と大志はぽかんとするが、気まずい沈黙ののち御影が弾けるように笑いだす。
 「そうか、腹が空いてんのか。そりゃ気付かなくて悪かったな。積もる話は後回しだ、おい大志、遠路はるばるお忍びで参ったお姫様になにかご馳走してやれ!」
 腹の前で銃を構え恥ずかしげに赤面する。
 御影がドアに沿って体をどかすや大志の横をスッとすり抜け、待ちかねたようにトタトタ廊下を走り出す。
 無我夢中で走り出したみはなを追って上がりこんだ大志の肩を御影が強く掴む。
 肩に走った激痛に思わず顔を顰める大志へとすりより、耳元で囁く。
 「飛んで火にいるゆすりのネタだ。せいぜいご機嫌損ねないよう扱ってやれ」
 「ゆすりのネタって……御影さん、まさか」
 「まあ見とけって」
 俺に任せておけと大志の肩をぽんぽん叩き鼻歌まじりに歩き出す。
 曇りガラスを嵌めたドアのむこうからどたばた家捜しするような盛大な騒音が聞こえてくる。 
 「どこですかえっちゃん、かくれんぼですか、いるならお返事してください」
 ドアを開けて中へ入れば、みはなは小さい体に目一杯バイタリティを漲らせ、慌ただしく部屋中を走り回っていた。ガラステーブルの下をひょいと覗きこみソファーをうんしょうんしょと持ち上げ御影のデスクの下にもぐりこみ引き出しを一つずつ検めていく。いくら悦巳だってそんなところには隠れられないだろうという閉所や隙間までくまなく捜し尽くし、必死に叫ぶ。
 「お返事してください!」
 「来て早々ガサ入れたあ行儀が悪いな。親はどういう躾してるのかね。座ってお話しようや嬢ちゃん」
 爪先立って一番上の引き出しを覗き込んでいたみはなが勢い良く振り向き、悠々ソファーに腰掛けた御影の方へ警戒しつつ寄っていく。
 向かいのソファーにぽすんと膝をそろえて着席。
 裾をはだけるようなまねはせず、至ってお行儀よく振る舞うあたりさすがお嬢様だ。
 意地悪くにやつく御影をつぶらな目で見つめ、深呼吸を挟み、訊く。
 「……えっちゃ、みずはらさんはどこですか」
 慌てて言い直す。御影は足を組む。
 「世の中ギブ&テイクで成り立ってる。お嬢ちゃんはまだこっちの質問に答えてねえな。どうやってここに来た?」
 難しい顔で黙り込み。揃えた膝の上に銃を乗せ、心を落ち着けるようしきりにいじくり回す。
 傍で見ている大志は暴発しまいかヒヤヒヤする。
 「……目が覚めたら廊下がドタバタうるさくて、アンディさんとあの人がどこかへ出かける相談をしてて、えっちゃんの名前が聞こえて。えっちゃんを迎えにいくって。みはな、えっちゃ、みずはらさんに会いたくて、おいてけぼりにされたくなくて、みはなにだまってえっちゃんむかえにいくなんてずるいってこっそりあとをつけたんです」
 「その銃は?」
 「かくれんぼしてるときに見つけました。ゴシンヨウに持ってきました」 
 「子供の手が届くとこに銃があんのかよ。物騒な家だな」
 家を抜け出る時の様子を回想してるのだろう、罪悪感に翳った瞳を伏せる。
 「おうちをでたら下に車がとまってて、運転席のそばで話してるあいだに後ろに回りこんで、こっそりトランクに入りました」
 夜中目覚めたみはなは父親と秘書の外出の気配に勘付き、盗み聞いた会話から用向きを察し、悦巳に会いたい一心で車のトランクに潜り込んだ。
 たどたどしい話を整理し、御影は素朴な疑問を挟む。
 「嬢ちゃんがついてきたのにも気付かねえたあ案外マヌケだな、社長さんも」
 自宅からここまで子供の足で歩ける距離じゃない。
 説明には合点がいったが、誠一はともかくあの強面の秘書がそんなミスを犯すとは考えにくい。
 馬鹿にするような感想を述べる御影を睨み、みはなは言う。
 「……ふたりともすごく怖い顔してました」
 「えっちゃんの安否が気がかりでガキ一匹トランクにもぐりこんだのも気付かなかったってワケか」
 御影は笑うが、大志にはその気持ちが理解できる。
 悦巳が捕らわれ一刻を争う状況下で、トランクの施錠にまで気が回らなかった可能性は十分ありうる。ましてや中に子供が潜んでいるなど思い至らない。誠一もアンディもトランクの点検を見落としていたのだ。
 「車がとまって、ふたりがおりたあと出ようとして、でも重くて持ち上がらなくて。やっと出れたと思ったらもういなくなってて、どこへ行ったかわからなくて、マンションのまわりをうろうろしてたんです」
 「そこにこいつが通りかかって迷子を保護した、と」
 「迷子じゃありません。お部屋がわからなかっただけです」
 「それを迷子っていうんだよ」
 あくまで否定するみはなに突っ込み、うってかわって優しい顔で聞きなおす。
 「で、行き違いでおいてかれちまったと」
 こくんと頷く。
 「ちょっと待ってな。このおにーさんが美味いもん作ってくれっから」
 御影に顎をしゃくられ、怪我のせいで極端に動きが鈍くなった大志が台所へ行く。
 冷蔵庫を開けるも炭酸飲料のペットボトルがまばらに並ぶだけで目ぼしいものが見当たらず、仕方なく戸棚をあさり夜食のカップラーメンを取り出す。
 ガスの元栓を開きコンロの摘みを調節、水を汲んだ薬缶を火にかける。
 大志の働きぶりを悦巳のそれと比較でもしてるのか、ぱちくりと目を瞬いて追うみはなに居心地の悪さを味わいつつ、フタをめくったカップラーメンに沸騰した湯を注ぎ、割り箸を添えて持っていく。
 「……なんですか、これ」
 「何って……カップラーメンだけど。食ったことねえか」
 「おうちにはありません。テレビで見ましたけど」
 「イマドキカップラーメンもおいてねえなんてどういう家だよ。ちょっと前まで悦巳の主食だったぜ」
 「えっちゃんのですか?」
 小首をかしげて聞き返す様子が可愛らしく、大志は頷く。
 「メシ作るから待ってろって言っても聞かねーでやんの。待ちきれずに台所あさってさ……意地汚えんだよ、アイツ」

 少し前まで悦巳はカップラーメンしか作れなかった。
 今では色んな料理を作れるまでに成長した。
 それは大志のためではなく、目の前にいるこの子の為で。

 ほろ苦い思い出に浸る大志と容器を見比べ、ちょっとだけフタの端を摘む。
 「三分たってから」
 ビクッと背を伸ばし手を膝の上におく。
 やがて秒針が三周、頃合と見た大志と神妙に頷き合う。
 「よし、いいぜ」
 紙のフタを剥がすにつれ食欲そそる湯気が立ち、よく動くつぶらな目がはちきれんばかりの好奇心に輝く。
 はしゃぎたいのを我慢し畏まり、早速割り箸を割ろうとして、子供の力では足りず顔を真っ赤にし奮闘する。
 見かねた大志が横から手をだし箸をひったくる。
 「あ」
 顔に抗議の色を浮かべたみはなの前で、あっけなく箸を割って突き返す。
 「ほら。とっとと食っちまえ、冷めねえうちに」
 「…………」
 促され、小さな手に握った箸の先端でぶきっちょに麺を掴み、湯気に巻かれながらずるずると啜る。
 「…………おいひい、へふ」
 麺を頬張り咀嚼しながら、とろんと夢見る目つきで呟く。
 よほど空腹だったのだろう、カップラーメンを夢中でかっこむ姿につい顔が綻ぶ。
 小動物の食事風景と似通う愛くるしさで麺を啜りつつ、表情を和らげた大志を横目で窺う。
 「なんだよ」
 「大志さんですか」
 御影がそう呼ぶのを聞いたのだろう、つるりと滑って逃げる麺を慣れない箸でつかまえようと悪戦苦闘しつつ無邪気に続ける。
 「みずはらさんが言ってました、一番のお友達だって。なんでもできるすごい奴だって」
 虚をつかれる。
 「お料理がとっても上手なんですよね」

 一方的にのろけを聞かされる立場だと思い込んでたのに、悦巳は新しい家族に自分の事を話していた。
 頼り甲斐のある、最高の友達だと自慢していた。

 「小さい頃からずっと一緒で、困ったときには必ず助けに来てくれたって言ってました。大志の作るカレーが大好きだって、大志は自分と違ってすごくかっこいいヤツなんだって、俺もああなりたいって」

 やめろ、

 「大志さんのお話するとき、にこにこ笑っていつもすごく嬉しそうでした。みはな、大志さんのこと沢山聞きました。みずはらさんの大事な人だって。いちばんつらいときそばにいてくれたって、手をひっぱって一緒に逃げてくれたって。あいつがいなけりゃどうなってたかわからないって。大志さんのこと話し出すと止まらなくて、にっこにっこで、顔中笑顔になってました」

 やめろ。
 俺は違うそんなんじゃない友達なんかじゃない友達があんなことするか、お前はいつもそうだ悦巳、自分の都合のいいことしか見やがらねえ。俺の本当の気持ちに気付かず蔑ろにして気付きそうになっても誤魔化してあげくのはてにゃ勝手に理想化して勝手に幻滅して絶交ときた『そんな……俺たちダチで、だって聞いてねえよそんなの、どうして言わなかったんだよ!?』いわなかったんじゃない、いえなかったんだ。拒絶されるのが軽蔑されるのが十数年かかって築き上げた信頼を失うのが怖くて、いなくなっちまうのがいやで

 「大志さんは強くて優しくてかっこいい俺のヒーローだって」

 俺は。 

 「みはなはみずはらさんが作るカレー大好きです。でもみずはらさんは大志がつくるカレーのほうがもっとおいしいって言ってました。まだまだ追いつけないって、もっともっとがんばらなきゃって」

 そんなことを今さら聞かされたって、遅い。
 
 「はやくあいつみたいなほっぺたおちるカレーをつくれるようになりたいって、いつも言ってました」


 追い越すのではなく並ぶために
 対等に向き合うために


 なんで。
 どうして。

 今さら。

 無邪気すぎるみはなの顔を直視できず、ベタ褒めする言葉を聞くのが苦痛で、逃げるようにリビングを後にする。
 壁伝いに薄暗い廊下に出、胸元を掴んで呼吸を整え、暗がりに溶け込んだ影を目視する。
 「……人聞き悪いな、それじゃこっちが誘拐したみてえじゃんか。言ったろ、自分からとびこんできたよ。車のトランクにもぐりこんで……そう。気付かなかったのか?えっちゃんのことで頭がいっぱいで?ははっ」
 御影が携帯で話をしていた。相手は聞くまでもなく誠一だろう。
 背後に立ち尽くす大志をちらりと一瞥、わざとらしく声を張り上げて取り引きを持ちかける。
 「ガキはこっちで預かってる。手荒なまねはしねえから安心しろ、小便くせえガキをいじめて喜ぶ趣味はねえからさ。……説得力ねえか?むりねえか、えっちゃんのあんな姿見たあとじゃな。……今から迎えに?やめとけよ、もう遅い。それにあの様子じゃ帰らねえだろう。脅迫?そんなつもりねえよ。俺はな社長さん、あんたの為を思って言ってんだ。警察?言いたきゃ言えよ、利口な考えたあ思えねえけど。いいか、耳の穴かっぽじってよく聞けよ」
 御影の声音が凄味を帯び、眇めた双眸がぎらつく。
 「こっちには人質がふたりいる。利に聡い社長さんならこの意味がわかるだろ。……そうそう、それでいい」
 誠一の声が聞こえなくても、御影の有利に運んでいる事は漠然と把握できる。
 「身代金?違うね、託児料だ。忘れずにもってこいよ」
 話し合いが決着、携帯を切る。
 「……今の、児玉誠一ですか」
 「家帰って初めてガキが消えてる事に気付いたんだとさ。父親失格だな」
 手口は単純、身代金と人質を交換する。大志が出かけてる間に来訪した誠一とそういう取り決めがなされたのだろう。人質が一人増え身代金の加算されただけで、計画にはほぼ変更がない。
 「怖気づいたのか。えっちゃんをあいつにくれてやるのが惜しいのか」
 大志は答えない。下顎が強張って答えられない。
 軋むほどに奥歯を食いしばり、てのひらの柔肉に爪が食い込むほど拳を握る大志の正面で歩調をおとす。
 「この期におよんで駆け落ちとかめでてぇこと考えてるんじゃねえだろな」
 冷え冷えと闇に沈んだ廊下を振り返り。
 「……ま、その前にドアぶち破らなきゃ無理か」
 あくびをひとつリビングへと引き返していく。
 「ちょっと寝るわ。お前見張っとけ。くれぐれも妙なまねすんじゃねえぞ」
 「したらどうなるんですか」
 反抗的に言い返せばポケットに手を入れ方向転換、ついさっき煙草で焼いた大志の脇腹を肘に捻りを加え押し上げる。
 「ぬるいしつけじゃイけねえか」
 抉りこむような激痛にたまらず腹を庇いしゃがみこむ。
 脇腹を庇い脂汗を垂れ流す大志の頭髪を掴み引きずりおこし、壁の方を向かせておさえこむ。
 御影の腹が背中に密着する。
 抵抗したくてもさんざん痛めつけられた体がだるくて言うことを聞かない。
 「……えっちゃんに突っ込めなくて欲求不満なんだよ。遊んでくれるか」
 吐息を吹きかけられ、気色悪さにうなじの産毛が逆立つ。
 御影の手がズボンの前に回りこみ、萎縮した股間を乱暴にまさぐる。
 「―ッ、な、てめ」
 「大きな声だすな。えっちゃんたちに聞かれるぜ」
 背中をおさえつけられ、壁についた肘で前傾した体をなんとか支るも、股間をきつくしごかれ腰が次第にずり落ちていく。
 リビングにいるみはなの存在を思い出し、罵声を放ちかけた口を咄嗟に塞ぐ。
 電気はついてない。輪郭が曖昧に溶け不安を煽る暗闇の中、性急な衣擦れの音と滾った息遣いだけがしめやかに響く。
 「可哀想にな大志。えっちゃんのことずっと好きだったのに」
 汗を揉み込むようなおぞましい愛撫と囁かれた言葉の邪悪さに背筋がびくりと突っ張る。
 「初恋は実らないってホントだな。横取りされて腹が立つだろ。えっちゃんを守れる強い男になりたくてヤクザに弟子入りされたのにこれまでの苦労が水の泡だ、同情するぜ」
 「―ふざけ、勝手な事……ぐあっ、」
 シャツをめくり、真新しい火傷が目立つ脇腹を鷲掴む。
 「えっちゃんにふられたんだろ?変態って罵られて絶交されたんだろ?可哀想にな大志、尽くした挙句に捨てられて」
 指に唾をつけ、その唾を円を描くよう火傷に塗りつける。
 生々しく灰がこびりついた火傷に唾液がしみ、頬がひくつく。
 「つらいだろう。さびしいだろう。身も心もぼろぼろだろう」
 壁に縋って姿勢を保つ。耳朶に粘着な囁きがまとわりつく。
 抗う大志を貶めつつシャツをはだけて痣だらけの素肌をまさぐる。
 「慰めてやるぜ」
 柔く耳朶を噛み、大志のジッパーを下ろしていく。
 限界だった。余力を振り絞り御影を突き飛ばす。
 「ははっ、マジんなったのか?おっかねえ顔すんな、冗談だって」
 怒りと嫌悪、筆舌尽くし難い恥辱でジッパーを締め直す手が小刻みに震える。
 軽薄に手を振り立ち去る御影の背をあらん限りの憎悪をこめ睨みつける。
 ついで、その場に座りこみそうな虚脱感が襲う。
 膝が笑っている。御影は冗談だと言ったが、間一髪突き飛ばさなければ確実に一線をこえていた。

 「………………っ、」

 怖かった。 
 俺に犯された悦巳は、もっと怖くて痛くて恥ずかしかったはずだ。

 「悦巳………」

 頭がどうにかなりそうだ。
 御影の手が這い回ったおぞましい感触を消そうと服の上から強く擦る。
 悦巳もトイレの中で同じ事をしてるのだろうか。大志に触れられたおぞましさに泣きながら痕跡を消そうと努めているのか。
 闇に沈む廊下の突き当たりに存在するドアを振り返る。重たい足を引きずってそこまで行く。
 膝が床を叩く。力なく拳を振り上げ、一回だけドアを叩く。
 「起きてるか、悦巳」
 返事はない。
 「なんとか言えよ」
 頼むからなんとか言ってくれ。 
 なんでもいい、なんでも。お前をそばに感じさせてくれ、突き放さないでくれ。
 御影にいじめられ今度は悦巳に泣きつくのか。自分が追いつめた相手に縋りついて慰めを乞うのか。
 「ずっとだんまりかよ。シカトかよ。怒ってんのかよ。だったらちゃんと口で言えよ、俺の事うざいって思ってんだろ、うんざりなんだろ、ずっとお前のこと騙してて……」
 ドアに額を打ちつけ、掠れた声をしぼりだす。
 「しかたねえじゃんか、好きなんだから」
 ずっとずっと好きだった、一目惚れだった、お前を守る事だけが俺の存在価値で意義だった。
 「悪いかよ、好きだったんだよ、俺にはずっとお前だけだったんだよ。馬鹿で泣き虫でほっとけなくて、頼ってもらうのまんざらじゃなくて、なんかくすぐったくて……」

 一緒にいたかった。
 ただそれだけなのに。

 「なんでこうなっちまうんだよ」

 誠一さえ現れなければ。
 お前さえ去らなければ。
 俺は、俺を見失わずにすんだ。

 「なんで………」

 死ぬまで一緒にいたいなんてガキが見るような夢を本当にしたくてできるかぎり頑張った、ヤクザの舎弟になって悪さにも手を染めた。 
 頑張る方向が間違っていたとしても、悦巳とともに在る日常が守れるならそれでよかった。
 いつかくるだろう終わりをできるだけ引き延ばしたくて、悦巳がいなくなる日がくるなんて考えたくもなくて

 「ごめん、な」
 詫びが喉につっかえる。
 謝るのはいつも悦巳の方からだった。
 出会いから十数年経つが、大志の方から謝った経験など数えるほどしかない。
 「許してくれ」
 掴めぬものを掴むように床を掻き、ぐっと頭を下げる。
 随分待ってみたが反応はなく、壁に手をつきふらつきつつリビングへ向かう。
 「ごちそうさまでした」
 カップラーメンを食べ終えたみはなが礼儀正しく手をそろえる。向かいのソファーでは反対の肘掛けに足を投げ出し御影が寝ていた。
 「みずはらさんはどこですか」
 お腹一杯になって本来の目的を思い出したのだろう、ちょこんと座って大志に尋ねる。
 「あいつは………」
 吸い寄せられるように近付き、正面で膝をつく。
 全身の傷が発する高熱に浮かされ体力が限界に達したのだ。
 消耗しきって足元に崩れ落ちた大志にみはなが不思議そうに目を瞬く。
 「どうしたんですか」
 「どうって」
 ぶっきらぼうに問う大志を心配そうにのぞきこむ。
 「泣きそうな顔してますよ」
 ああ、そうか。俺そんなカオしてんのか。
 「ガキにまでバレバレでかっこわりィ……」
 「だいじょうぶですか」
 「ほっとけ」
 「いじめられたんですか?」
 背広をひっかけ爆睡する御影を怖々見る。
 自分が預かり知らぬところで大金の絡む取り引きが成立したとは想像だにせず、呑気すぎるほど呑気に人の心配をする純粋さに接し、瞬く間に虚勢が剥げ落ちていく。
 「喧嘩しちまったんだ」
 俯いて弱音を零す。みはなが目を丸くする。
 「えっちゃんとですか」
 「俺が悪ィんだ」
 「ごめんなさいしましたか」
 「した」
 「えっちゃんはなんて言いました」
 「シカト」
 「……それは怒ってますね」
 「むちゃくちゃに」
 肘掛けに右頬をくっつけ顔を横たえる。そうやってもたれていると少しはラクになる。
 「喧嘩の原因はなんですか」
 「あいつを泣かせたんだ」
 「ちゃんと話してください」
 瞼を開けるのが億劫だ。
 泥のような虚脱感に沈み込みうつらうつらまどろむ大志のほうへ乗り出し、熱心に続きをせがむ。
 悦巳を泣かせたという告白を聞いて一気に真剣みが増した表情は、いかに彼を大切に思っているか暗示していた。
 「泣かせるつもりなんかなかった。でもそうなっちまった。ホントのこと言ったら、あいつは泣いた。好きだったんだ、ずっと。好きで好きでどうしようもなくて、それ言ったらダチじゃなくなんのわかってて、ずっとずっと嘘ついていた」
 「好きって言って嫌われたんですか」
 理解不能といった表情で首を傾げる。
 「あいつにひどいことしたんだ」
 「わかりません。好きなのにどうしてヒドイことするんですか」
 「好きを返してくれねーからだよ」

 悦巳が誠一を好きな事くらい知っていた。
 何年一緒にいると思ってるんだ、それ位わかる。
 誠一について語るときの口調で、表情で、どんなに悪口を叩いても隠し切れず溢れ出す眩しい空気で、悦巳がいま誰に恋してるのかわかった。
 辛かった。苦しかった。遣り切れなかった。嫉妬で息もできなかった。

 情けなく洟汁をすする大志の頭に片手をおき、ほつれてごわついた髪をなでつける。
 「いたいのいたいのとんでけー」
 節をつけて歌うみはなに面食らう。
 「痛くなくなるおまじないです。転んだ時、えっちゃんがしてくれました」
 「……はは……」
 子供特有の体温の高い手が髪の間をすり抜けていくのがこそばゆく、教えてもらったおまじないを一生懸命施す顔がおぼろに霞む。
  
 
 みはなちゃんはすっごくいい子なんだ。
 ひとの痛みが分かる子なんだ。
 
 
 誰かに頭をなでられるのは久しぶり……いや、初めてかもしれない。
 問題児で有名な大志の頭をなでてくれる大人など周囲にいなかった。
 実の親でさえ殴る蹴るばかりで愛情を注いではくれはしなかった。

 大志はいつも頭をなでてやる側で、なでられたことは一度もなかったのだ。

 「えっちゃんのところへつれてってください」
 謙虚にお願いするみはなの手を掴み、薄暗い廊下を突き進んでトイレの前へ引っ張っていく。
 「ずっと閉じこもったまんまでてこねえ」
 みはなとふたり手を繋ぎ、捨て去れらたように暗い廊下に立ち尽くす。
 互いのぬくもりに縋るように、大きさの違う手を痛いほど握り締める。
 「俺のせいだ」
 自分を責める大志の手をなめらかにすりぬけ、施錠されたドアの前に立つ。
 「みずはらさん?」
 暗闇に舞い降りたワンピースの白が清らかに映える。
 卵を握るように軽く拳を握り、控え目すぎるほど控え目にドアを叩く。
 「開けてくれるまで待ちます」
 嘘ではなかった。
 一旦リビングに戻りずるずると床に引きずって毛布を運んでくるや、ドアの前に陣取ってせっせと寝る準備をする。
 「ちょっと待て、廊下で寝んのかよ。風邪ひくぞ」
 しかしみはなの決意は固い。大志の言葉を振り切って準備を整え終えるや、ドアに背中を預け毛布を被る。
 「おやすみなさい」
 「おやすみなさいって……おい!」
 再三の呼びかけも虚しく、既にみはなは目を瞑りまどろみに身を委ねていた。


 
 どれくらい経ったのだろう。
 夜明け近い廊下ではひんやり時が停滞していた。
 ドアに背中を預け寝入っていたみはなが目覚め、子猫のように身震い一つ、ごそごそと毛布を抜け出す。
 みはなの横では大志がこっくりこっくりうたた寝をしている。
 頬にできた生傷が痛々しい。起こさぬようそっと手をあて、いたいのいたいのとんでけと口に出さず呟く。
 ドアの中からかすかな物音。
 「……みずはらさん?」
 しぱしぱと瞬いて寝ぼけまなこを擦り擦り、膝でそちらににじり寄る。ドアに耳をくっつけて様子を窺う。  
 「………みはなちゃ……どうしてここに」
 久しぶりに聞いた悦巳の声に心底安堵し、自然と顔が綻ぶ。
 「おむかえにきました。あけてください」
 「誠一さんは?ひとりできたんすか?アンディは知ってるんすか」
 「ナイショです」
 悦巳が絶句する。壁に凭れて眠る大志を起こさぬよう声をおとし、面と向かって一心にせがむ。
 「みずはらさんはトイレがすきなんですか。だからでてこないんですか。一生そうしてるんですか」
 「そうじゃねえけど、」
 「どうして開けてくれないんですか?」
 開けられるわけがない。
 みはなは知らないのだ、ドアの向こう、便座の上で膝を抱えた悦巳がどれほど薄汚く悲惨な姿をしてるかを。
 そんな姿を穢れを知らぬ子供にさらせるわけがない、ましてや自分が大切に思っている相手になど。
 「………帰ってください。俺、もう、みはなちゃんの家政夫じゃないんすよ。一緒にいられないんですよ」
 「なんでですか」
 「契約が切れたんです」
 「もういちど結びなおせばいいじゃないですか。みはなもおねがいします」
 舌足らずな説得。
 対する悦巳の声は泣き潰れ息も絶え絶えで、耐え難い悲哀と苦痛に満ちていた。
 「……ほっといてくださいよ。言ったじゃねっすか、子守りはもうウンザリだって。解放されてせいせいしてんのに……」
 嗚咽を噛み砕くような喘鳴。
 切々とこみ上げる哀しみと沸々と湧き上がる怒りを抑えこむような、矛盾に引き裂かれた痛ましい声。 
 「どうして誠一さんもみはなちゃんも俺なんかにつきまとうんすか、たった数ヶ月一緒にいただけっしょ、家族でもなんでもねっしょ。もういいじゃねっすか、お母さんもどってきたら用済みっしょ、とっとと忘れてください、ほっといてください」
 鬱々とした独白が次第にヒステリックな調子を帯びて殷々と反響し、傷口を抉り広げ膿をすべて吐き出し尽くそうとする自壊願望が膨張する。
 「俺、は、誠一さんやみはなちゃんと一緒にいられるような上等な人間じゃないんです。ずっと黙ってたけど悪いヤツなんです、何も悪くねえじいちゃんばあちゃんから孫を騙って金だましとってへらへらしてるような悪党なんです、ダチがずっと苦しんでたのにも気付かずもうどうしようもねえとこまで追い詰めてヒドイ言葉ぶつけるようなやつなんです、人の気持ちがわからねえ最低のヤツなんです!!」
 激しく殴りつけられたドアが撓む。
 「悦」
 物音に眠りを破られた大志が何か言おうとするのと口元に指を立て制し、ドアへ向き直る。
 
 「……今まで嘘吐いてたんです。家政夫なんて大嘘っす、ホントは……」
 「みはなと一緒です」
 
 大志が目を見開く。
 ドアの向こうからも沈黙に乗せ濃厚な戸惑いの気配が伝わってくる。
 
 「みはなもうそついてました。冷蔵庫のしっぽを抜いたこと、ずっとだまってました」
 静かに跪き、労わるような手つきでもってドアをなでさする。
 素朴な真心こめ癒すように、魔法をかけるように。
 「みずはらさんに嫌われたくなくて言えなかったんです」
 いたいのいたいのとんでけとゆるやかな手の動きに重ねて唱える。
 「みずはらさんもそうじゃないですか?みはなと一緒じゃないんですか?好きな人に嫌われたくなくて、言いたくても言えなかったんじゃないですか」

 
 世の中には自分のためにつく嘘と人のためにつく嘘の二種類ある。
 そして自分が傷つかぬための嘘と人を傷つけぬための嘘は、しばしば同じものだったりする。

 
 「みはなもそうです。ホントのこと言ったら嫌われると思って、みずはらさんが怒っていなくなっちゃうとおもって、怖くて言えなかったんです」
 「俺がみはなさんを嫌いになるわけないじゃねっすか」
 「みはなもですよ」

 どうしてそんなあたりまえのことがわからないのかと腹立たしげに。

 「みはなのためにうそをついてくれたひとをどうして嫌いになったりできるんですか」
 
 その声は、凍りついた心を溶かすゲルダの声だった。
 心を閉ざし耳を塞いだ悦巳の聴覚に厳しくかつ優しく響き、限りない慈愛でもって心臓に根ざした氷を溶かす声音だった。

 息を吸い、吐く。
 氷の破片が溶けてぬくんだ水が枯渇しかけた希望の源泉を潤し、鼓動する心臓をやさしく浸す。
 「……嘘つきは舌をぬかれるっす」
 「えっちゃんとおそろいならかまいません」
 「すんごく痛いっすよ」
 「ガマンします」
 「すんごくすんごく痛いっすよ?」
 「……どれくらいですか」
 「麻酔なしで虫歯を引っこ抜くくらい」
 「虫歯になったことありません」
 「ベロをおもいっきり引っ張るよりもっとっす」
 ドアを挟んで訥々と会話を交わしつつ舌の先をつまんで引っ張り、最初は手加減しいしい次第に力を込めてぎゅっとつねり、ひりつく舌を外気にあて冷やす。
 「いひゃいれふ」
 ワンピースの裾を整え、一つ一つ丁寧に皺を伸ばして正座する。
 「でも、ガマンします」
 黒々と潤んだ目に一途な光を湛える。
 「ここを開けてください。だめなら手だけ出してください」
 ほんの少しだけドアが開く。
 10センチにも満たない僅かな隙間からおそるおそる伸びた手を逃がさぬようすかさず掴み、大志の手もまた掴んで導く。
 指の股に指が潜り、対となるよう五指が絡んで組み合わさる。
 みはなの介在が強力な磁石となって、互いの顔はドアに遮られ見えぬまま手と手が結びつく。
 その大きさから大志の手だと悟った悦巳が振りほどこうと暴れるのをじっとしてくださいと宥め、重ね合わせた手の上に自分の手を添え包み込む。
 「大志さんもみはなと一緒。えっちゃんに嫌われたくなかっただけ。そばからいなくならないでほしかっただけ」
 しっかり繋いだ手からぬくもりが通い合う。
 結びついた手の上に自分のそれを重ね、願いを込めて額にあてる。
 仲直りを望むみはなの前で躊躇いがちにドアが開き、後ろに設けられた窓から宙を循環する塵を掃くように乳白の朝日がさしこみ、聖寵の具現のように清浄な光が廊下を照らす。
 悦巳がいた。
 掻き毟った髪の毛はぐちゃぐちゃに乱れ、染みだらけの服はだらしなくはだけ、一晩泣き明かした顔はひどく腫れぼったい。
 それでも確かに悦巳だった。
 会いたくて会いたくて、なにより会いたかったえっちゃんだった。
 「えっちゃ、」
 名前を呼ぼうとしたみはなの体を力強く抱きしめる。
 倒れ込むように転げだした悦巳が右腕にみはなを、左腕に大志を抱き、ふたりの体に凭れかかるようにして濁った嗚咽を零す。
 「……ごめん、みはなちゃ、俺……」
 目尻から滴る熱い雫がぽたぽたとみはなの頬を叩く。
 大志は自分の身に起きた事が信じられないとばかり硬直していたが、やがて金縛りがとけ、おそるおそる悦巳の背に腕を回す。
 手を伸ばし、指を曲げ、ためらい、くじけ、引っ込め、俯く。
 抱き返す勇気もなくしなだれた手を持て余せば、こちらを見詰めるみはなと虚空で目が出会い、吸い込まれそうに深く澄んだその瞳が磨き抜いた鏡の透明さで怯惰と諦念に怖じる卑屈な顔を映しとる。
 苦悩に苛まれ伸ばしきれぬ手で虚空を掴む大志に向かい、大丈夫だと安心させるよう一つ頷く。
 服の背を掻き寄せるように掴み、今度こそはと守るように抱きしめる。


 ゲルダは熱い涙を流して泣きました。
 それはカイのむねの上におちて、心臓のなかにまでしみこんで行きました。
 そこにたまった氷をとかして、心臓の中の鏡のかけらをなくなしてしまいました


 息も出来ないほどに抱きしめられ、仰向いた顔に涙の洗礼を受けながら、目一杯手をのばしうなだれた頭をなでる。

 おかえりなさいとみはな言った。
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