オレオレ御曹司

まさみ

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三十四話

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 「俺のパンツが行方不明~風に飛ばされ神田川~流れつく先東京湾~っと」
 「いま干してる」
 「マジかよなに穿きゃいいんだ、一日フルチンでいろってか、ノーパン健康法か」
 「大事なパンツなら油性マジックで名前書いとけ。まあ間違えねーけど、こんなサイケな柄」
 「スースーぶらぶら落ち着かねえ」
 「そこらへんに落ちてんの穿きゃいいじゃん」
 「きたねー」
 「天気がいい日くらい風通して虫干ししねーと」
 「毛じらみなんて沸いてねーよ失礼なヤツだな!」
 「虫干しってのはもののたとえだよたとえ!」
 アパートに戻って一週間がたった。
 ふたり暮らし再開以降、おもに大志が受け持っていた家事のサイクルに変化が訪れた。
 大志が洗濯物を干したり皿を洗ったり立ち働く間、寝転がってテレビを視聴し漫画を読んで馬鹿笑いするのがものぐさぶりに定評ある悦巳の生態だったが、数ヶ月の体験を経た現在すっかり心を入れ替え、悪しき習慣と化していたサボリ癖を深く反省すると同時にスキルを無駄遣いしてなるものかと意欲を燃やし、洗濯機がご機嫌そこねれば即座に飛んでいき大志が散らかしたCDや雑誌は収納ケースに整頓してと、元家政夫のスキルを生かして家事全般を一手に引き受けている。
 が、料理当番は交代制。
 理由は単純明解、悦巳の料理より大志が作る料理の方が見目よく美味いからだ。
 不良っぽい見た目や粗暴な言動からは想像しにくいが、大志は料理が上手い。爪を長く伸ばしたそこらの女の子より余程包丁の扱いに慣れていて調味料の匙加減もばっちりだ。
 手のひらにのせた豆腐を切り分ける様子など職人芸の領域で、口半開きでよく見とれたものだ。
 おかげで悦巳は飢えずにすんだわけだが、家政夫として一通りの料理をこなせるようになった手前いつまでも頼りきってちゃよくないと一大決心、二日に一回の交代制でメシ当番を引き受けると申し出た。
 悦巳に台所を任せることに当初難色を示した大志もキャベツの千切りをこなす手際をそばで見守り、しばらく会わずにいた親友の成長と実力を認め、台所の明け渡しに渋々承諾した。
 今日の料理当番は大志。
 朝メシは大志の得意料理で悦巳の好物、油揚げと刻みネギと豆腐のお味噌汁に塩のきいた焼きジャケ。大志が台所で鼻歌まじりにネギを切るあいだ、悦巳はアパートの窓から張りだした狭いベランダに身を乗り出し、軒先に洗濯物を吊るしていた。
 大志の鼻歌を自然とハミングしながら洗濯物バサミに洗いたての下着を挟む。
 包丁がまな板を叩く音が一定の調子で聞こえる。
 穏やかな朝だ。また一日が始まる。アパート沿いの道には自転車を漕ぐ学生や駅へ向かうサラリーマンの姿がちらほら見受けられる。
 台所から食欲そそるいい匂いが漂う。食器がかちゃつく。
 「メシできたぞ」
 「いま行く」
 ちゃぶ台に朝食を並べる大志を甲斐甲斐しく手伝う。
 ちなみに炊飯器はない。
 ご飯はコンビニのインスタントを電子でチンしたのをよそっている。米代も馬鹿にならないのだ。
 ちゃぶ台を囲んで座る。箸をとる。
 「「いただきます」」
 元気に唱和し早速朝飯にとりかかる。
 行儀悪く片膝立て飯を食う大志にならい、悦巳も自堕落に膝を崩して食べる。みはながそばにいたなら絶対やらなかったろう格好だ。男二人向き合っての朝食はむさ苦しい半面遠慮いらずでラクでもある。
 食欲旺盛にシャケを咀嚼しつつ、箸の先で円を描いて思い出し笑いをする。
 「しっかしすげーなお前のパンツ。、ほらアレ、田んぼによく吊るってある目玉のオバケ……」
 「鳥除け?」
 「そーそーそれ。配色とデザインが鳥除けっぽい。見たか、スズメが逃げてくの」
 「お前こそつまんねー柄ばっか買いやがって冒険心が足りねーんだよ」
 「パンツに斬新さ求めてねーよ。ウケ狙ってどうすんの」
 「これがホントの勝負パンツ」
 「つまんねー」
 「ファッションセンスについてどーこー言われたくねえよ、もさったいかっこしやがって」
 飯をかっこみつつの大志の指摘に聞き返す。
 「変か?」 
 「ださい。かっこ悪い。いくら部屋ン中でごろごろしてるからって一日中スウェット姿にヘアバンドってのはどうよ」
 「いいじゃねえか、どっか行くわけじゃねえんだし。一番らくで落ち着くんだよ」
 「スウェットっきゃもってねえのかよ自分の服」
 「そういうわけじゃねえけど」
 「貸してやろうか」
 「いらね。お前の趣味悪すぎ」
 「んだと?悦巳のくせに生意気だぞ」
 「あんなイロモノどこで買ったんだよ」
 「俺のズボンの中身に興味津々?」
 「食事中に下ネタ禁止」
 「お前もさーちょっとはオシャレに目覚めたらどーよ?前髪うざってえ」
 「ヘアバンですっきりまとめてっから問題なし」
 「家出る時着替え持たずにどうしたんだよ」
 「下着はコンビニで買った。服は……まあてきとーに」
 「てきとーててきとーだなおい」
 「コインランドリーもあったし」
 「見てくれ気にしねーとモテねえぞ」
 「幼女にはモテモテだったぜ。幼女キラーって呼ばれたもん」
 処置なしと首を振る動きにあわせ髑髏のプリントТシャツに垂れたシルバーアクセサリーがじゃらつく。
 料理中もけっして指輪を外さないのが大志のポリシーだ。
 団欒というには人数が足りないが、軽口叩きあいつつ寛ぐ様子には友人以上の親近感が漂い、付き合いの長さと深さを物語る。
 シャケの身をほぐして小骨を除去、片手に持った椀を口へ運びずずっと啜る。
 「ぷはーっ、五臓六腑に染み渡る」
 「安酒かっくらう酔っ払いか」
 「やっぱ朝は和食だよな、トーストなんか邪道だよ」
 両手合わせて計七本の指に嵌めた大型の指輪を箸でつつき、悦巳は言う。
 「趣味わる。はずせよ」
 「いざって時メリケンサック代わりになるんだよ。自己防衛の手段だ」
 「んなのしなくたって強いじゃん」
 「念には念を。お前にもひとつやろうか」
 断る暇も与えず右手中指の指輪を抜き、箸で遊ぶ悦巳に投げてよこす。
 ちゃぶ台を越えて懐にとびこんできた指輪を受け取り、試しに左手中指に嵌めてみるも第二間接でつっかかる。
 「……きつ……」
 「あー、指の太さ違うからな」
 「待て、もう少しで……できた!」
 ぎゅっぎゅっと力づくでおしこみ快哉を上げる。
 左手の中指に輝く指輪をひらひら見せびらかし、まんざらでもなさげに問う。
 「どうだ?似合うか?」 
 「スウェットじゃあな」
 失笑まじりの反応に気分を害し、今度はひっこぬこうと力を込める。 
 「あれ?どうしよう、とれねえ」
 「ばか、むりやり突っ込んだんだろ。貸してみ」
 指輪を掴んで困惑する悦巳にあきれて箸を置く。
 パニックをおこして騒ぐ友達をむしろ面白そうに観察し、ちゃぶ台に身を乗り出して根元に嵌まった指輪を回す。
 指輪が間接にひっかかって骨を削り大袈裟に痛がる。
 「いでででででででっ!?」
 「ガマンしろ」
 「ちょ大志、お手柔らかに……」
 あっけなく指輪がすっぽ抜け、はずみでつんのめり大志の胸に倒れこむ。
 「マジあせった~一生抜けなくなるかと思った。医者行って指切り落とすなんてやだもん」
 転々と畳に転がる指輪を目で追い、安堵に和んだ顔で笑う。
 大志は無言。
 自分の胸に凭れて笑う悦巳を真意の読めない顔で見下ろしていたかとおもいきや、その肩を掴んで引き離し、まっすぐ目を見つめる。
 「大志?」
 「もどってこいよ、悦巳」
 大志の言葉が示唆するところを直感、笑顔のまま凍りつく。
 「……なに言ってんだよ。俺もうここにいんじゃん。アパートに帰って来た」
 「とぼけんな」
 目を伏せてぎこちなく笑う悦巳の肩を掴み向き直らせる。
 肘がちゃぶ台にあたって茶碗が弾み箸がばらばらに落下、シャケの乗った角皿が跳ねる。
 ちゃぶ台を隔て、生唾を飲んで見つめあう。
 大志がふっと息を吐き、雑誌の下から座布団を抜き取って軽く埃を払う。
 「……座れよ」
 せんべい座布団を叩いて促す大志に大人しく従う。
 所帯じみた生活感あふれる六畳間の空気がにわかに重たくよどむ。正面で片膝立て、大志がぞんざいに言い放つ。
 「御影さんがお待ちかねだ。帰ってこい」
 御影。
 忌避していた名前をつきつけられびくりと震えが走る。
 「なあ、よく考えろよ悦巳。フツーあんなことしてただで済むか、さんざ世話んなった組織に後ろ足でドロかけてとんずらして見つかり次第沈められたっておかしくないんだ。御影さんがどんな人かお前だっていやってほど知ってんだろ?」
 「……知ってる。笑いながらひとの爪剥がして、それを後で笑い話にするような人だ」
 「一度キレたらとりかえしがつかねえ、半殺しが全殺しになる。あくどく、えぐい。その御影さんがお前に戻ってきてほしいって頼んでんだ、今回のこと見逃してやるからもう一度俺たちとやろうって」
 狼狽を隠せぬ悦巳に熱っぽく迫りつつ、頬と頬をくっつけるようにしてねっとり囁く。
 「ノルマ消化率85パーセントの即戦力を欲しがってんだよ」
 埃の詰まった畳の目を数えるふりをして俯き、小刻みな膝の震えをおさえこむ。
 御影雅臣。
 悦巳と大志が所属していた振り込め詐欺グループの仕切り役。
 詐欺の元締めとして組から派遣された大卒のインテリヤクザで、金勘定に強く悪知恵が回る一方、その狡猾で残忍な性格から舎弟に恐れられている。
 御影はもともと大志の兄貴分にあたる人物で悦巳とは面識がなかった。
 中学時代から傷害・恐喝の常習犯で近隣の不良の間でも有名だった大志。
 悪い仲間とつるみ、たむろい、吹き溜まりとも掃き溜めともつかぬ繁華街での夜遊びをくりかえすうちに地元ヤクザと繋がりができ、将来の盃分けを見越して組事務所に出入りし、十六・七の頃には既に幹部の洗車のバイトや使い走りで部屋を借りる資金を貯めていた。
 現在住んでるアパートもヤクザの口利きで周旋してもらったもので、悦巳はそこに大志のおまけで転がりこんだ形となる。不動産を手がけるヤクザの後ろ盾がなければ最終学歴高校中退前科持ち、身元保証人もいない未成年がアパートを借りるのは困難だった。
 御影とは大志の仲介で知り合った。
 バイトをクビになり落ち込んでいた悦巳を事務所に引っ張っていき、「使ってください」と売り込んだのだ。
 それが振り込め詐欺に足を突っ込むきっかけだった。
 「なんだよ、嬉しくねーのか」
 額をつつかれ顔を上げる。口元はにやけているが目は笑ってない。
 大志は血の気が多く感情の起伏が激しい。
 いま笑っていても次の瞬間にはキレて暴力をふるいかねない情緒の不安定さを浮き沈みの激しい言動が炙りだす。
 激発の兆候を孕んだきな臭く威圧的な笑顔に手がじっとり汗ばむ。
 「御影さんにゃ世話んなったろ」
 「焼肉おごってもらったり焼き鳥おごってもらったりラーメンつれてってもらったり」
 「食い物ばっかかよ意地汚え」
 「ほっとけ」
 「で?もどってくるんだろ」
 即答できない。
 大志は既に悦巳が「こちら側」に戻ってくるのを前提に話を進めている。
 意志確認はふりだけで、完全に主導権を握って会話を進めている。
 鷹揚に構えた態度と自信満々の顔から悦巳が断ろうなどとは爪の先ほども思ってない本音が窺い知れる。
 「俺は………、」
 舌が縺れる。言葉を失う。ズボンの膝を掴んで深呼吸、拒否の代わりに保留する。
 「……すぐには決めらんねえ」
 「どうして?」
 あてがはずれて鋭い声を出す。今にも掴みかかりそうに撓めた殺気を放つ大志に対し、淡々と言う。
 「考える時間がほしい」
 「……ふざけてんのか」
 不機嫌げに唸る。喉が渇く。
 視線に乗った圧力がふっと和らぎ、大志が下卑た顔でにやつく。
 「びびってんのか。大丈夫、安心しろ。上手く口利いてやっから。逃げたっつってもサツにタレこんだわけじゃねえし、もう二度としませんって誓い立てりゃ許してくれるって。お前は特別だからな」
 あくまで軽く言う大志に歯痒さを感じる。
 「……お前、なんとも思わないのか」
 「何がだよ」
 「俺たちがやってることだよ」
 ひとつひとつ言葉を選び、慎重に言う。
 今一度むかしの大志にもどってほしいという願いをこめ、つたない説得を重ねる。
 「孫のふりして一人暮らしの年寄りに電話かけて騙して、口座に金振り込ませてあとはしらんぷり。詐欺だぜ?犯罪だぜ?」
 「いまさらなに言ってんだ、そんなのとっくにわかってたろ」
 「そうだけど違くて………っ、やなんだよもう」
 上手く言えない。緊張で舌が強張る。
 「あの時は金欠で困ってたから、収入ねーとアパート追い出されるから仕方なく……お前がもってきた話によく考えもせずとびついた。けどさ、俺やっぱ向いてねえよ。嘘吐いて人騙して金もうけして……なんもかも御影さんのいうなりで。俺がアパート出たのだって」
 「悦巳」
 大志が静かに名前を呼ぶ。
 鞭打たれたように身が竦む。
 大志がひどく酷薄な目つきで試すように悦巳を見る。
 「じゃあ何ができるんだ?」
 「え……」
 「嘘ついて人騙す以外の特技あんのかって聞いてんだよ」
 大志の声音は淡々としている。
 駄々をこねる子供を手懐け丸め込むように、指輪で飾りたてた右手を翳してひらつかせる。
 「オレオレ詐欺の他にお前の才能生かせる仕事あんのか?」
 冷たく残酷な問いが胸を抉る。
 非情な追及に自分の無能さを痛感、伏せた眼差しに鬱屈を宿す。
 「ほら、言ってみ」
 「………」
 「言えよ。ないのかよ」
 さらに硬度を増して抉りこまれる視線に物理的な重圧と痛みを感じる。
 答えに詰まり返事に喘ぎ、ぱくぱく口を開け閉めしながら大志を仰ぐ。
 ズボンの膝を揉みしだきつつ、ためらいがちな上目遣いで口にする。
 「……家政夫?」
 ぬるい笑顔のまま急接近、額のど真ん中に狙い定めて撃ち抜く。
 「痛ッで……指輪でデコピンやめろよ額が割れる!」
 「寝ぼけたこと言ってんじゃねえぞ、俺よりまずいメシっきゃ作れねーくせに何が家政夫だ」
 「大志が上手すぎんだよ俺が下手じゃなくて!」
 「ちょっと人様におだてられたからって調子のってんじゃねえぞ」
 「いでっ、いたっ、ちょ、大志ごつごつやめて痛てて」
 額を覆って逃げる悦巳を指輪の甲で小突き回す。
 「いたっ、マジいてっ、指輪ほんといてーっつのデコ『ピン』なんてレベルじゃねえから『ビシ』だから!」
 「中指じゃねーだけ有り難く思え。俺が本気だしたら頭蓋骨貫通して味噌でるぞ」
 「これ以上馬鹿ンなったらどうすんだよ!」
 「自覚があって安心した」
 頭の横を拳で挟んでぐりぐり圧搾、畳を叩いてのたうつ悦巳からまだまだいじめ足りなさそうに身を引く。
 「現実を見ろ。家政夫クビんなったんだろ、お前。ドジばっかで使えねーから札ビラと一緒に掃き出されたくせにナマ言ってんじゃねえ」
 大志と誠一は同じ俺様だがタイプが違う。
 誠一が誇り高い暴君だとしたら大志はジャイアニズム全開のガキ大将。
 筋金入りのいじめっ子体質とでも言おうか、口と一緒に手と足が出るおそろしく短気な性格で、同い年の悦巳を子供の頃からパシリに使ってきた。半面友情と正義感に厚く、家来がいじめられてべそでもかこうものなら即座に飛んできて自分より体格のいい相手を殴り倒す。
 悦巳がいじめられれば大志が庇う。
 悦巳は大志に依存しあとを追う。
 天然で鈍感な悦巳はいまいち不憫な自覚に欠けるが、そんな主従的友情がかれこれ十年以上続いている。
 「詐欺よりずっとマシだろ、もういやなんだよオレオレ詐欺は!」
 「高校中退施設育ちで恐喝傷害前科持ち、俺やお前のよーな負け組のクズが手え汚さず稼げるほど世の中やさしいと思ってんのかよ!」
 「じゃあ別のバイト捜す、コンビニでも居酒屋でも掛け持ちして家賃いれりゃ文句ねーだろ!?」
 「時給いくらでこき使われて新しいのきた途端にクビ切られてどんなに頑張ったってお流れ、そんなふざけた扱いガマンしろってか?誰が俺やお前をまともに相手してくれるってんだ、てめえの親にだってお払い箱にされたのに!」
 ちゃぶ台を殴りつけた衝撃で袖がめくれ、手首の裏に残る引き攣れた火傷がちらつく。
 怒り狂った大志があらん限りの憎悪を込めて放った絶叫と偶然目撃した傷痕に凍りつく。
 硬質な気迫を孕む視線がぶつかりあい場が緊迫、醜態を晒した大志がそそくさと拳をのけて苛立たしげに吐き捨てる。
 「……なんど捨てられりゃこりるんだよ……」
 「……捨てられたんじゃねーよ。馬鹿だからクビになった、そんだけ。誠一さんは悪くねえ……」
 庇おうとしてやめ、ふてくされた顔つきでそっぽを向く。
 「……いや、八割くらい向こうが悪いけど」
 「てめえに酷いことした男を庇うのかよ」
 一瞬どこまで知ってるのか邪推が働く。
 が、杞憂だったようだ。
 誠一への反感と憤りも露わに、冷たく目を眇めて大志が悪態をつく。
 「黙って聞いてりゃそいつやなこと全部お前におっかぶせてたんだろ?死んだババアをだしに使って罪滅ぼしとか寝言ほざいて、メシから風呂から掃除からぜんぶこき使ってたんだろ」
 「そうだけどさ」
 「せっかく紅茶淹れてやっても一口も飲まず捨ててたんだろ?最悪」
 「口に合わなかったんだよ……」
 「大体さー、愛してねえなら中出しすんなっつの」
 「……不器用な人なんだよ誠一さんは。ホントは娘のこと大事に思ってたけど態度に出すのが下手くそで誤解されやすくて、だけど俺がみはなちゃんに悪戯したって勘違いで脱衣所に殴りこんでくるよーな真性の親馬鹿で、みはなちゃんが書いた字を一発で見分けた時なんかさすが父親だって感心した」
 「むきになんなよ気持ち悪い、すっかり洗脳されちまったか?その誠一とか言うオッサンはガキのことなんとも思ってねーよ、心の底からどうでもいいんだよ、いなくなってくれたほうがせいせいすんだ」
 「なんでそんなこと言うんだよ!」
 「お前の事だって牛乳吸ったボロ雑巾みたく使い捨てたんだろ!」
 「牛乳拭いたボロ雑巾だって洗って乾かせばまだ使えんだろ、誠一さんのことよく知りもしねえくせに勝手いうな、俺のほうがずっとあの人のこと知ってんだ!」
 「仕事仕事でガキほったらかして風邪っぴきでも帰ってこねー冷血自己中人間なんて親失格だ、そいつに任せといたらガキがおっ死ぬのも時間の問題だ、欲しくて作ったわけじゃないって言ったんだろ、育児放棄で死なすに決まって」
 「大志」

 哀しみを諦観で洗い流した眼差しをひたと注ぐ。
 馬鹿で明るくよく笑ういつもの悦巳からは想像もつかぬ真面目な顔。
 悲哀を沈めた眼差しで大志を撃ち抜き、強い意志に顔を引き締め静かに諭す。

 「親失格かどうか決めるのは俺たちじゃない。子供だろ」 

 「……騙される方が悪いんだよ」
 オレオレ詐欺をどう思うかというさっきの質問に捨て台詞で返す。
 透徹した眼差しと大人びた表情に胸がざわつき、剣呑に目を眇めて言う。
 「お前はうちの稼ぎ頭なんだ。みんなお前を頼りにしてるんだ」
 甘い言葉に心がぐらつく。
 「お前が必要なんだ、悦巳」 

 誰かに必要としてもらうのが夢だった。
 そうすれば居場所ができると信じていた。
 なのにどうして即答できない、頷けない、お前が必要だという親友の言葉を素直に喜べない?

 詐欺グループにはヤクザの後ろ盾がついている。
 深入りするのは危険だという保身の念以上に、もう「あちら側」には戻りたくないと人のぬくもりに触れて目覚めた良心が叫ぶ。
 『オレオレさんは本当に優しいいい子ねえ』
 「結論だす前に行きたいところがある」 
 けじめをつけなきゃ一歩も前に進めない。
 だからこそ、これからけじめをつけにいく。


 「ここかよ、そいつが住んでるマンションて」
 「ああ」
 「賃貸?分譲?」
 「分譲」
 「金持ちだなー」
 悦巳は再びマンションの前にいた。
 ここへ来るまで何度も引き返そうと思った。誘惑に心が揺れた。目的地にたどり着くまでに決心が鈍り何度も逃げ帰りたくなったのが本音だ。しかし何とか電車を乗り継ぎここまでやってきた。たどり着くのに三時間かかった。
 距離的にはさほど離れてないのだが、漫画喫茶から高級車で拉致られてつれてこられた悦巳は、マンションまでの行き方をろくに記憶しておらず、とりあえず区と番地の表示を頼りに歩き回って、ようやくかつての自分の職場を見つけだしたのだ。
 「行けよ」
 「心の準備が……」
 「行けって」
 「だけどこの時間みはなちゃん幼稚園でいねえし誠一さん会社だし、きっと留守」
 「~じゃあなんで来たんだよ!」
 「蹴るなって!」
 煮え切らない相棒に憤激し尻を蹴り上げる大志。
 マンションを訪れた目的はただひとつ、みはなが今どうしてるか知るため。
 「……なんも言わずでてきちまったから顔だしづれえし」
 遠くから一目確かめるだけでいい、元気に暮らしてるならそれでいい。
 みはなの事がずっと気がかりだった。
 マンションを出てからみはなの事を考えない日はなかった。
 風邪は治っただろうか。
 幼稚園に復帰しただろうか。
 自分がいなくて寂しがってないだろうか。
 別れの挨拶はおろか事情の説明も許されず追い出された身としては接触が許されないならせめて遠くから元気な姿を確認したい。しつこく足を引っ張る未練を吹っ切って心の整理をつけるためにも、今一度ここへ来る必要を感じたのだ。
 なのに動けない。
 道路を隔てた対岸から見上げるだけで精一杯、直接訪ねる勇気が湧かない。
 「とっとと行ってこい」
 肩をどつかれたたらを踏む。
 「……新しいやつがいたらどうしよう」
 「あぁん?」
 「会ってなんて言えば……」
 「知るか。お前がきたいっていうからついてきてやったんじゃねえか」
 「大志~ぃ」
 「ひっつくな。ケツ蹴るぞ」
 今の時間誠一は会社、みはなは幼稚園でマンションの部屋はからっぽのはず。
 ふたりが帰るまで待つか?おもいきって突撃してみるか?日を改めて出直すか? 
 ピンポンを押して新しい家政夫がドアを開けたらなんて言えばいい、はじめましてこんにちは先代家政夫の瑞原悦巳ですと自己紹介すればいいのか?
 次々と思いつく選択肢をひとつに絞りかね弱音を零す。
 「やっぱ帰ろっかな……」
 ドアを叩いてもし新しい家政夫が応対にでたら?
 妻とよりを戻してたら?
 親子三人水入らずで楽しく暮らしてたら?
 既に引き取られた後だったら?
 契約破棄された自分にはたしてみはなに会う資格があるのか?
 シビアな現実と向き合い絶望するくらいならいっそ何も知らず逃げるように立ち去ったほうがましだ。
 猜疑心の檻に囚われ悲観する悦巳に何か言いかけ、大志が対岸を指さす。
 「悦巳、あれ」
 銀の指輪を嵌めた人さし指を辿る。
 マンションの玄関前に黒い光沢を放つ一台の高級車がとまる。
 見覚えのある車に心臓がひとつ跳ねる。誠一の車だ。
 運転席のドアが開き黒背広の男が降り立つ。
 「アンディ……」
 「外人?」
 後部座席のドアが開き、スーツ姿の女性が滑らかに腰を浮かす。
 白いハイヒールがアスファルトを穿つ。
 アンディが礼儀正しくドアを支えて女を促す。
 緊張しているのだろうか、ドアをもつアンディに固い顔で会釈を返し挑むように背筋を伸ばしてマンションを仰望。審判に臨むかの如き毅然とした立ち姿にあたりを払う威厳と存在感が備わる。
 その怜悧で冴えやかな美貌は、いつだったかみはなに乞われて読み聞かせた絵本の挿絵から抜け出たように無慈悲で美しい雪の女王と酷似している。
 衝撃に魂ごと奪われた悦巳の隣で大志が軽薄に口笛を吹く。
 「誰?お高くとまってるけどいい女じゃん」
 正面玄関の自動ドアが円滑に開き、一組の親子が登場。
 きっちりスーツを着こなす若い男と、その男と手を繋いだ幼稚園くらいの女の子。
 「……………!」
 誠一とみはな。
 どうして?
 「おい?」
 大志の声が急速に遠のいて現実感が希薄化、駆け寄りたい衝動と逃げ帰りたい衝動とが激突し反発、固唾を呑んで成り行きを見守る。
 この距離では会話の内容は聞こえない。
 みはなはよそ行きの格好をしていた。
 おろしたてだろう可憐なワンピースを着、薄青のリボンを巻いたフェルトの帽子を被ってお洒落をしている。
 車のところまでやってきた誠一がみはなの耳元で何かを呟く。
 女と誠一が見つめ合う。
 破綻した夫婦特有の険悪な対立や確執は存在せず、家庭が崩壊した責任をなすりあうような殺伐とした空気は一切なく、歳月を経て憎しみが劣化し、傷心が慰撫されたが故の恬淡とした疎遠さで対峙。
 無関心とは違う、互いを尊重し思い合う沈黙。
 みはなに視線を移すや緊張と怯えを孕んだ眼差しに成熟した母性愛が滲む。
 スーツの膝をそろえてしゃがみこみ、精一杯の笑顔を作って二言三言話しかける。
 みはなはじっとそれを聞く。
 女がみはなの顔を覗きこむ。石膏で固めたような笑み。震える指先を頬に伸ばし、そっと触れ、口を開き―……
 みはなと、名前を呼ぶ。
 堰が決壊した。
 たちまち目が涙で潤み、虚勢ごと崩れ落ちるようにたおやかな腕を伸ばしみはなを抱く。
 ぱちぱちと瞬き、されるがまま抱擁を受けるみはな。
 誠一は傍らでそれを見守っている。困惑するみはなをしっかりと胸に抱きしめ、その肩に顔を埋めた女がしきりと何かを呟く。おそらくは謝罪の言葉、懺悔の言葉、悪いお母さんでごめんなさいと許しを乞う。
 「なんだあれ。昼っぱらから薄ら寒いホームドラマ」
 大志が白ける。
 眼前の道路で走行車が交差し視界を遮る。
 道路を隔てた対岸で行われているのは母と子の感動の再会、赤の他人が割り込む隙など微塵もない家族の情景。
 走り去る車のむこう、みはなを抱いて動かない女。
 腕の中で息づく娘のぬくもりに縋りつき、車の走行音にかき消されてこちらにまで届かない呟きをくりかえす。

 ごめんね、みはな。
 ひとりぼっちにしてごめんなさい。

 「……勝手に決めつけんな」
 体の脇にたらした拳に力がこもる。
 走り去る車のむこうを凝視、憤りに燃える目で身勝手な母親を睨みつける。
 「ひとりぼっちなんかじゃねえよ。決めつけんなよ」

 俺もいて誠一さんもいて、なんでひとりぼっちなんだよ。
 あんたが舞い戻ってこなきゃずっと家族ごっこを続けられたのに。
 勝手に捨てていなくなったくせに返してくれなんてどこまで身勝手なんだ、子供はあんたの付属品じゃねえ、あんたの自己満足の為の道具じゃねえ、誰がひとりぼっちなんだ、決めつけんな、俺の存在意義と価値を否定するな、家政夫として一生懸命やってきた数ヶ月を否定するな、俺はあんたと違う、みはなちゃんとひとりぼっちになんかするもんか、誠一さんだって

 誠一さんだって絶対ひとりぼっちなんかに、

 食い入るように見つめ続けるその先で唇がぱくつく。
 ゆ る し て。

 「悦巳!?」
 火のような憤激に駆り立てられ大志の制止をふりきって道路に飛び出す。
 乱暴に肘を掴まれ引き戻された鼻先を猛烈な勢いで車が通過、煽りを受けて髪が浮く。
 大音量のクラクションが耳を劈き、高速回転するタイヤが爪先を擦過して排気ガスにむせる。
 「ばかっ、死にてえのか!」
 立て続けに車が通過し埃が舞い立つ、大志と激しく揉み合い悦巳はもがく、まだ間に合う、今すぐあそこにもどってまた頼み込む、お願いします俺をここにおいてください何でもします給料なんかくんなくていい家においてください、なんでもする、料理だってもっと上手くなる、掃除だってさぼらない、だから
 
 俺の居場所を奪わないで。
 あんたじゃ勝ち目がないんだ。
 本物の母親が相手じゃ勝ち目がないんだ。

 だって家族ってそういうもんだろ?
 俺は知らないけど、そういうもんなんだろ絆って。

 せっかく手に入れた家族なんだ、本当の意味で俺を必要としてくれる人たちなんだ

 「許してなんて言えた義理かよ……」
 伸ばした手は車に遮られ届かず空を掴み、必死の叫びもまた逆巻く風に吹き散らされる。
 道路は信号がなく交通量が多く渡れない。
 走行音も騒々しく流れ去る車列がもどかしく泳ぐ指先を掠めて残像を曳航し、前髪を鋭利に切り裂く風が悲痛に歪む顔を暴きたて、彼岸と此岸に引き裂かれ、大志に押さえこまれ狂おしく暴れながら全身で絶叫する。
 「どうして許してなんて言うんだよ!!」

 
 どうして一度手放したものがまた戻ってくると確信できる?
 どうして一度捨てたものがまだ自分のものだと言い切れる? 
 捨てた子供が今でも一途に自分を慕い待ち続けてくれてるなんて思い上がりは親の特権で、親の義務を放棄して資格も返上したくせに権利だけはちゃっかり主張して今頃もどってきて、どうして今さら、今さら 


 『カイって子は、ほんとうに雪の女王のお城にいるのだよ。そして、そこにあるものはなんでも気にいってしまって、世界にこんないいところはないとおもっているんだよ』
 『けれどそれというのも、あれの目のなかには、鏡のかけらがはいっているし、しんぞうのなかにだって、ちいさなかけらがはいっているからなのだよ。だからそんなものを、カイからとりだしてしまわないうちは、あれはけっしてまにんげんになることはできないし、いつまでも雪の女王のいうなりになっていることだろうよ』

  
 車の流れが途切れた一刹那、垣間見た光景に絶句。
 みはながおっかなびっくり手を伸ばし、嗚咽する母親の頭をよしよしする。
 優しい労わりと慰めの手つき。
 それでもまだ離れない母親に困りはて傍らの父親を仰げば、誠一が女に寄り添い、憮然としてハンカチを渡す。
 涙を拭くためのハンカチを。
 「………っ………」

 
 ああ、
 雪の女王があの人をさらっていく。
 俺の大好きなあの人とあの子をさらっていく。


 誠一もみはなも誰一人として対岸の悦巳の存在に気付かない、数ヶ月ともに暮らした悦巳の存在など完全に忘却し数年ぶりに帰って来た本来の妻であり母親である女に関心と愛情を注ぐ、誠一に支えられ含羞の表情で涙を拭い気丈に微笑み心配そうに見上げるみはなの頭をなで……  
 
 耐え切れない。

 「悦巳!?」
 我を忘れ全速力で駆け出す。
 アスファルトの地面を蹴って跳躍し加速、後ろなど一度も振り返らずパステルカラーの塀が並ぶ住宅街を突っ切り走り出す。
 きつく閉じた目の裏にこびりつく光景、再会を喜び抱き合う親子、互いを労わり合う理想の夫婦、仲睦まじく寄り添う家族の図。

 どうして?
 あそこにいるのは俺のはずだった、俺のはずだったじゃないか。
 子供と旦那を捨てて勝手に外国行ったくせに今頃んなって戻ってきて返してくれなんてふざけんな、そうしてまたいちから家族をやり直すのか俺をのけ者にして、あんたは夢を叶えた、子供より夢を選んだんならそれまっとうしろよ、どうしていらねえことすんだよ、バリスタになる夢を叶えて誠一さんとより戻してみはなちゃんを抱いて

 あんたの手からあふれた幸せ、くれよ。
 お零れでいいから、くれよ。
 余り物でいいから。

 『おれ知ってる。ギゼンっていうんだぜ、ああいうの』
 『ギゼンってなに?』
 『ないものねだりをしてるヤツに余りものをくれること』
 ああ本当だ、本当その通りだよ大志、だけど俺はギゼンでいいから施しがほしい、ギゼンでいいから縋りたい、物心ついてからのないものねだりが報われるなら

 すりへった靴裏でアスファルトを蹴り、風を切って走りながら、いつかの大志の皮肉を思い出す。
 どうしてこんなにショック受けてんだよ馬鹿、のこのこ出ていってまた温かく迎えてくれるとでも思ってたのか、おめでたくて笑いがとまらねえぜ、ああ腹いてえ……
 もう手遅れだ、なにもかも。
 俺はあそこにちゃいけない。
 あそこにいたら、あの人たちのしあわせをぶち壊す。
 俺は邪魔者だ。
 薄汚いスニーカーで石ころを跳ね飛ばす。
 自然と幼稚園の行き帰りに辿った道をひた走る。
 じきに幼稚園が近づいてくる。黒塗りの門の向こうから聞こえる無邪気な歓声、子供たちが元気に遊んでいる、中の何人かが悦巳に気付いてプラスチックのシャベルやバケツを投げ捨て走り寄りめちゃくちゃに手を振る。
 「えっちゃん!」
 「えっ、うそ!」
 「ほんとだえっちゃんだ、えっちゃん、こっち見てえっちゃん!」
 「ねえねえどこ行ってたのどうしてお迎えこなかったのどっかお出かけしてたの、みはなちゃんに聞いてもなにも教えてくんないんだよ、ねえってば、またもどってくるんだよね、戦隊ごっこしてくれるんだよね?」
 「えっちゃん、えっちゃん……」
 「うるせえ!!」 
 柵にしがみつき一斉に囀る園児たち、甲高い嬌声がワッと殺到、久しぶりに悦巳に会えて頬染めて喜ぶ、僕も私もと競い合い手を振りたくり柵に掴まって伸びをしてと天真爛漫にはしゃぐも別人の如く豹変した悦巳に怒鳴られ火がついたように泣き出す。
 「えっちゃんのばかーきらいー!」
 畜生、泣きてえのはこっちの方だよ。ご近所中に響き渡る大声でえっちゃんえっちゃん呼ぶなよ。
 後悔と罪悪感の後追いを吹っ切りたい一心でスピードを上げる。
 幼稚園をとっくに過ぎて一直線に走り続ければやがて川沿いの遊歩道にでる。
 肺の中の空気を使い切って酸欠になる寸前、川沿いの道に飛び出せば犬の散歩中の老人と衝突しかけ咄嗟に身をかわす。
 「!あっ、」
 芝生が生えた斜面を転がり落ちる。
 視界と体が反転、口の中に草の切れ端と泥がもぐりこむ。
 体のあちこちを斜面に打ちつけ土手を滑りつつこの数ヶ月間に体験した様々な出来事を走馬灯の如く反芻する、みはなに洗濯機の使い方を教えてもらったこと、誠一に初めて紅茶を淹れたこと、初めて弁当を作ったときのこと、みはなが見せてくれた初めての笑顔、枯れた庭園で誠一が初めて見せた……
 「…………っ………」
 生い茂った雑草に顔を突っ込み、こぼれそうな涙をこらえて起き上がる。
 草を引きちぎって上体を起こし、ふらつきながら土手をのぼる。
 スウェットは泥まみれだ。帰ったら洗濯しなきゃ。靴ン中にも泥が入って……
 「悦巳」
 顔を上げる。
 目の前にいるはずのない人物がいた。
 川沿いの道のど真ん中、全速力で追ってきたのだろう息を切らした男と対峙する。
 「……まったくお前は……逃げ足、だけは、速いな」
 顎に滴る汗を拭いつつ、誠一は悪態をついた。
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