オレオレ御曹司

まさみ

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十九話

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 「瑞原さんお顔赤いですよ?」
 にゅっと首を伸ばしのぞきこんでくる、ふしぎそうなどんぐりまなこに狼狽する。
 「え?」
 「ほらまた」
 今日は誰と何して遊んだといつもうるさい保護者が今日に限ってやけに口数少なく大人しい事を不審がり、しかつめらしく問う。
 懸念と怪訝を六対四で割った表情は思案げに大人びて内心を見透かすようで、後ろ暗いところ大ありの悦巳をどぎまぎさせる。
 「赤くねっす、平熱っす。ははは、おかしなこと言うみはなさんだなあ」
 「おかしくないです、まっかっかです」
 「もとからっす。んなことよりちゃんと前見て歩かねーと危ねっす、転んじゃいますよ。いち・に、さん・し」
 幼稚園からの帰り道、ふたりして住宅街を歩く。
 悦巳はしっかりとみはなの手を繋ぎ、時たますれ違う乗用車や冷たい風から守るようにして塀側に誘導する。
 乾いた音たて擦れ合う枯れ葉を踏めばフォークの先端を入れてパイ生地を崩すように脆く小気味よい感触が伝わる。
 マンションまで徒歩十五分、閑静な住宅街を突っ切る道は安全性を期して平坦に舗装されているが、そこかしこに一軒家の塀を越えて枝を伸ばした落葉樹が振り落とした赤や黄や茶の枯れ葉が積もっている。
 幼稚園への送り迎えは誠一からじきじきに与えられた仕事で義務。
 真昼間っからリビングでゴロ寝する面倒くさがりの悦巳も幼稚園への送り迎えをサボった経験は過去一度としてなく、むしろ公認の外出の機会を散歩がてら一石二鳥の気分転換として楽しんでいる。
 が、今日は様子が変だ。
 「いち・に、さん・し、いち・に、さん・し!」
 はりきって号令をかけつつも他に気がかりでもあるのだろうか、その足取りはもたついて遅れがちになるかと思えば急にはやくなり、めちゃくちゃなペースに振り回されるみはなはたまったもんじゃない。
 さっきまでいかにも体調悪そうにびっこをひいてたかと思いきや今また一刻も早くマンションに帰り着きたいとでもいうふうに急いた大股になり、靴裏がつくかつかないかの勢いで腰のあたりにぶらさげられ飛ぶように歩かされながらみはなはすうと息を吸う。
 「さざんかさざんか咲いた道い、たき火だたき火だおちばたけー」
 道端の落ち葉をさくさく踏みつつ幼稚園で習ったばかりの童謡を元気に唄うみはなの愛くるしさに、すれ違う年寄りや主婦が相好を崩す。
 幼稚園の行き帰りに通るこの道でみはなはすっかり人気者だ。
 ご近所さんにあたたかく見守られつつ、音程がずれても気にせず童謡を口ずさんでいたみはなが小首を傾げ隣を仰ぐ。
 「瑞原さん、おちばたけってなんの畑ですか?」
 「………え?」
 声をかけられのろのろと下を向く。
 心ここにあらずといった虚ろな表情。
 コートがなければ外出の辛い季節だというのにほのかに汗ばみ、足を引きずるように歩く姿には目下彼の唯一にして最大のとりえだろう溌剌とした生気が感じられない。
 一瞬の沈黙。
 好奇心漲らせ見つめてくるみはなと向き合い、とぼけて笑う。
 「ごめん、聞いてなかったっす」
 「………」
 口を尖らせる。ご機嫌斜めなご様子。
 ごまかされたと思ったのだろう、ふくれっつらで黙りこくり落ち葉にやつあたりする。
 みはなは子供だからと蔑ろにされるのを嫌う。相手の言動に敏感に反応し、子供扱いされてると思ったらすぐに拗ねてしまう。
 今この時も真剣に取り合ってくれなかった悦巳に不満を抱き、抗議に代えて落ち葉を蹴りつける。
 みはなは着膨れしている。
 幼稚園指定の制服は黒地に茶のチェック柄のプリーツスカートをサスペンダーで吊ったお洒落なデザインで、その上にフェルトのボタンがついたブレザーのジャケットを羽織って完成する。
 さらにそれから幼稚園指定のキャメル色のコートをかっちり着こんで過保護なほど防寒しているせいで輪郭はやや不恰好にふくらみ、たすき掛けにした鞄の紐に回す手が窮屈そうだ。悦巳は事情に疎くとんと知らなかったが、みはなが通う幼稚園は私立のいいところらしく、怪獣のような園児の保護者たちも一様にしゃらしゃら垢抜けた格好をしている。制服ひとつとっても市が運営する幼稚園とは違い金がかかっているのだろう。そういえばさっき幼稚園で会ったお母さんたちもカシミアだのフェザーだの新品の冬物コートを自慢しあってたっけ……
 おもわずつついて遊びたくなるほっぺがいつにもまして膨らんでいるのは不満の表れか。
 フェルト帽のゴムが下顎に食い込むのが気になるのか、ぱちんぱちんとくりかえし引っ張る。
 「ゴムがくたっちゃうから遊んじゃだめっすよ、みはなさん」
 「かゆいです」
 ぱちんぱちん。
 「怒ってます?」
 「怒ってません」
 ぱちんぱちん。
 「ごめんて謝ったじゃねっすか……」
 「せいいが感じられません」
 ぱちんぱちん。
 「瑞原さんはいじわるです。おちばたけが何の畑か教えてくれません」
 「いじわるじゃねっす、聞いてなかったんすってほんとに。ぷんすか怒ってると可愛いお顔がだいなしっすよ」
 「……おだててもだめです」
 ぱちん。
 唇を尖らせぼやきつつもまんざらではない証拠にほんのり頬が染まる。女心はフクザツだ。
 観察結果によると帽子のゴムを引っ張るのはへそを曲げた時の癖だ。
 悦巳の注意はしらんぷりし、むすっとして行く手の落ち葉を踏みつける。
 ふくれっつらのみはなを機嫌をとるように覗きこみ、元気良く手を振ってみせる。
 「えーっと、おちばたけはなんの畑かって話っすよね。オチバタケって名前からしてきのこかたけのこの一種じゃないっすかね?みはなさんはきのこの山とたけのこの里どっち派っすか、俺はきのこ派」
 「きのこが好きです。だけどたけのこの方がもっと好きです」
 どこかの子役のような台詞が苦笑を誘う。
 「みはなさんはまったくおっとり頑固っすねえ……」
 などとほのぼの会話しつつ、閑静な住宅街を歩いていた悦巳の背筋が突如感電したかの如くピンと撓う。 
 「う」
 来た。
 下半身に痺れが走る。思わず前屈みになる。手を繋いだみはなが訝しむ。
 「どうかしたんですか」 
 「なんでもね、ちょっと……」
 続けようとした言葉を遮り強まる振動。
 顔が強張る。
 まさかこんな道中で、みはなと一緒の時に限って……
 頭に火がつく。顔が燃え立つ。ちょっとでも油断すれば声が出てしまう。
 強く歯を噛み締めこみ上げる声を殺し、熱く湿った吐息に代えて逃がす。
 「ぅ………」
 音が外に漏れないか危ぶむ。
 みはなにバレたらどうしよう。
 最悪の想像が現実味を伴い膨らむ脳内においていくつもの口実や言い訳が泡沫の如く結んで弾け軸が歪み渦を巻き、言いつけを守れず醜態をさらした悦巳を蔑む誠一の顔にみはなの顔がだぶる。
 大丈夫、普通にしてりゃバレねえはず、外から見ただけじゃわからねえって誠一さんも保証した。
 しかし体内に動く異物を挿入された状態で普通に振る舞うのは極めて困難、ただ歩くだけの行為が苦痛を伴う負担をかけて歩行に支障を来たす。 
 「うぅ………」
 爪先から踵へと着地の衝撃を足裏全体に散らして吸収し、後ろに響かぬよう慎重に重心を移す。
 足を交互に繰り出し前に進む動作によって否が応にも下半身に反動が波及し、異物を咥えこんだ窄まりが不規則に収縮し、未知なる快感を生み出す。
 どうなってんだ俺の体は。
 スウェットの下にいやな汗をかく。
 体のどこもかしこも必要以上に過敏になってつらい、とくに迷走神経が張り巡らされた末端部は格別刺激に弱くできているため充血が目立つ。
 上着と肌が擦れるささくれた感触さえ悩ましくもどかしく、ズボンに包まれた股間は硬度を持って突っ張り始め、着衣との直接的な接触によって煽られた熱が自覚したくもない性感を燻らせる。
 きつく唇を噛み続けざまに襲う波に耐え抜く。
 棒立ちでやりすごす。
 冷たい風が当たっているのに体は熱く火照っている。窄まりに咥え込んだ大人の玩具が前立腺を揺すりたてるつどねっとりした快感が湧き上がり膝裏から自重を支える力が抜ける。
 「ふあ………ぁ」
 駄目だ。ガマンしろ。もうすぐ家だ。 
 懸命に暗示をかけ叱咤するも膝が従わず、前進を拒んでふらついてしまう。
 二の腕を抱いてびくつく。
 腕の中に隠すように自分を抱きしめて立て続けに苛む疼きに耐え忍ぶ。
 イっちまう。
 だめだ、みはなちゃんが見てんのに。
 だけど限界だ、もう保たない、我慢を強いられ続けた体が解放を訴える。
 この場でズボンと下着を脱いで半勃ちの前をしごきたい、おもいっきり掻き毟りたい。
 スイッチをとめればいい。ズボンのポケットに入ってるリモコンを操作して今すぐ電源を切ればいい。
 ひくつく指先をポケットに忍ばせリモコンをとろうとして、言い渡された命令を思い出す。

 『俺が帰るまでヌくな』

 「っ……」
 二の腕の柔肉に爪を立ていきりたつ己をおさえつける。
 どうすればらくになれるかわかっていながら実行できない矛盾の苦しみに煩悶する。
 あるいは誠一は遠からず悦巳がこの事態に追い込まれるのを見越し、羞恥心の限界に挑戦するような残酷な命令を下したのか?
 リモコンはずっとスウェットのポケットに入れっぱなしだ。
 誰に遠隔操作されてるわけでもない、手の届く距離にあるのだからその気になりさえすればすぐ止める事ができる。
 指先が迷う。
 再びポケットにもぐりこませた手を開閉し、ぬるつく指でリモコンを掴むも、ややあっておずおずと引き抜く。
 苦りきって眇めた目に色濃く葛藤が浮かぶ。
 過剰に分泌された唾液が口内にあふれ、何度も何度も喉仏を動かし嚥下して、下半身を苛む熱と振動が巻き起こす快感にこみ上げる声を飲み干す。
 隠し切れない体の変化に悶える悦巳の傍らに立ち尽くし、みはなはまん丸い目をしばたたく。
 よほど耳を澄まさねば聞こえないだろうが、悦巳の内耳にはさっきからずっと低くこもった羽音が響いている。
 体内の窄まり奥深くに突っ込まれた卑猥な玩具の唸り。
 強弱はランダムに設定されているため、一定の振動に慣れて油断し力を抜いたそばから前回をしのぐ揺り返しが襲い、制御の意志を離れた筋肉が弛緩と硬直をくりかえす。
 「おしっこですか?だめですよおそとでしちゃ、おうちまでガマンしなきゃ」
 へっぴり腰でへたりこんでしまった悦巳の姿が尿意を堪えてるように映ったのだろう、真剣な顔つきでいい大人のお漏らしを案じる。
 赤面し俯く悦巳の横を犬の散歩中に老人が通り過ぎていく。
 どうか音が聞こえませんようにと狂おしく願い、足音と気配が完全に去るまで探し物をしてるふりで下を向く。
 「!ぅあっ、や」
 まただ、また強くなる。
 一旦過ぎ去った老人が怪訝そうに振り向く。
 具合が悪いのかと声をかけられたらどうしよう、この場においては親切も余計なお世話でありがた迷惑だ。
 仮に異変を悟られたら、体内で意地悪く動き続けるローターの存在がばれてしまったら恥をかくのは悦巳自身。
 おせっかいなお母さん方には体調が悪いのかと質問攻めに遭い、顔から火が出る思いをした。
 耳まで赤くし上擦る吐息を堪える姿は風邪をひいてると誤解されても仕方ない。
 下手に口を開けば喘ぎ声がでてしまうため唇を引き結び、お母さん仲間とのおしゃべりにも混ざらず、どうしても必要ならばパントマイム芸人の如くジェスチャーで代用し、えっちゃん遊ぼうとじゃれついてくるちびっこどもをちぎっては投げちぎっては投げ……はさすがにできず、地雷原に等しい危険地帯を猛ダッシュで突っ切った。
 通行人に変質者扱いされ白眼視されるのも通報されるのも断じて回避。
 行き帰りに毎日通る道で射精に至ってしまったら最後大幅に迂回してコース変更を余儀なくされ、和やかに挨拶を交わすご近所さんとも二度と顔を合わせられずスーパーに行く際とても不便だ。
 というか、人として終わる。
 上擦りつつある息を押し殺しひた隠し平静を装う。
 ローター本体とリモコンは細く長いコードで繋がっている。
 窄まりの奥からしっぽのように垂れたコードの先、強弱を調節するリモコンはズボンのポケットに突っ込んである。
 長さに余裕をもたせてあるため物理的な意味では歩行に不自由ないが、生理現象としては常にギリギリの瀬戸際だ。
 もっこり不自然にふくらんだポケットは上着の裾で隠しコードが見えないよう注意を払ってるがうっかり捲れでもしたら……
 やがて犬の吠え声とともに背後の気配が遠ざかっていき、ちびりそうなほど安堵する。
 どうにか最大のピンチを切り抜けた。
 あとは帰るだけだ、さあ早く立て……
 支えを求めて宙を手探りすれば、手のひらにざらつく塀の面があたる。
 「は………はっ、はあ……」
 頭が朦朧とする。
 浮つく酩酊感に吐き気を憶える。
 窄まりに押し込められたローターが体内を圧迫し、後ろと連動して勃つ前からしずくが滴り落ちる。
 先走りをぐっしょり吸った下着が気持ち悪い。
 失禁してしまったかのような感覚は筆舌尽くしがたい生理的不快感に直結し、激しい恥辱が燃え盛る。
 「おててもすごく熱いです」
 ぱっと手を放す。
 「こっつんこください」
 正面にとたとた回りこむや悦巳の顔を手挟み、軽く額をぶつけてくる。
 「……すごく熱いです」
 「……大丈夫っス、俺バカだから風邪ひかねっス……」
 苦しげに笑う悦巳を疑り深く見つめ、もみじのような手のひらでぺたぺたと顔中さわりまくる。
 が、今の悦巳には逆効果。
 額に頬に唇に。性感帯と化した肌のあちこちに手のひらが吸いつくつど、体内を責め立てるローターの唸りが高まってびくびくと痙攣が襲い、毛穴から汗がふきだす。
 「ちょ、みはなちゃ、じゃなくてみはなさ、お願いだからぺたぺたしないで……ッ」
 生まれたての仔鹿さながら頼りなく震える膝を押さえ、もう片方の手を塀についてぐらつく体を辛うじて支え、できるだけ負担がかからぬよう細心の注意を払い歩を運ぶ。
 約束を守らなければ。
 破るわけにはいかない、絶対に。
 脂汗が流れ込み霞む目で道のはるか先、マンションの方角を睨みつける。まとわりつくみはなの声が遠く近く響く。
 事の発端は今日の朝に遡る。

 「入れ」
 今朝、誠一はわざわざ出社を遅らせ悦巳と話し合う時間を割いた。 
 みはなに朝食を作ったのち家庭内電話における呼び出しを受け、ためらいつつもエプロンをしたままドアの前に立てば既視感が襲う。
 施設にいた頃、お前に電話だと呼びつけられた時と同じ緊張を味わいドアを見つめる。
 そして悦巳はかつてそうしたように、どうしても逃げ切れない課題をいやいや消化するような義務感に充ちた諦め顔で、できるだけ引き延ばそうと悪あがきめいた緩慢さで拳を掲げ、コンコンとドアを叩く。
 「……お邪魔します」
 おもいきってノブを握って回す。
 フェラチオを強制された顎はまだだるい。
 冷たいシャワーを浴びせ掛けられた体はすっかり凍えきって、風呂から上がって着替えたあとも悪寒がぞくぞくとまらなかった。
 心なしか熱っぽい。フライパンで目玉焼きを焼きながら行儀悪く体温計を咥えて測ってみたところ37度5分あった。悦巳は元通りケースにしまって体温計を救急箱に戻し、結果については見ないふりをした。
 もとより殺しても死なないタイプの人間、健康には絶対の自信をもつ。
 馬鹿は風邪をひかないという俗信を鵜呑みにするわけじゃないが十九年間生きてきて医者にかからねばならぬほど風邪をこじらせた経験がないのも本当で、今回も軽く済むだろうと楽観的な見通しを立てる。
 体調が悪いからと家事を放棄するわけにはいかない。
 家事はここにおいてもらう為の交換条件かつマンションに匿ってもらう為の絶対条件。
 それらの前提はおくとしても、みはなを朝食抜きで幼稚園に行かせるのはせっかく芽生え始めた家政夫の良心が許さない。
 部屋に入ってまず注目するのは巨大なベッド。
 糊の利いた純白のシーツを掛けたベッドは調度の少ない室内において一際存在感を放ち、初めて出会った日、もとい拉致られた日に押し倒された記憶をまざまざ呼び起こし顔に血が上る。
 「………」
 エプロンの裾を握り締め、俯き加減に立ち尽くす。 
 誠一の顔がまともに見れない。
 顔を合わせ、なにを話したらいいのかわからない。
 怒って罵詈雑言をぶつけるべきか理不尽をなじって約束を反故にすべきか判断しかね、裾をたくしあげる手に無意識に力をこめる。
 部屋に乗り込むまでは言いたいことがやまほどあった、じかに問い詰める気満々だったのだ。
 だけどドアを開け一目見た瞬間決心が鈍り、昨日の体験がフラッシュバックし圧倒的な羞恥心が喉を潰す。
 風呂場の濡れタイルに自分を跪かせフェラチオをさせた男に対しもちろん怒りはある、だけどそれ以上に本心が知りたい申し開きしてほしい、みはなの母親についても今どこでどうしてるのか詳細な説明を乞う。
 納得させてほしいのだ、ちゃんと。
 ここにいるために。
 回れ右したくなる衝動を堪え、ありったけの勇気を振り絞ってノブを握った。
 息を吸い、吐く。
 「誠一さんは会社ですか」
 最初はジョブ。
 「それ以外にどこへ行く?」
 「いや……やけにゆっくりしてるから休みなのかと」
 「休みなら背広を着ない」
 「つってもスーツのイメージっきゃねえし。いつもならとっくに家でてる時間っしょ?いいんですか、ゆっくりしてて」
 「早く出てってほしそうな口ぶりだな」
 鏡に映った顔がニヒルに微笑む。ネクタイを結ぶ仕草さえ嫌味なほど様になる。
 「あの……朝メシどうします?」
 「いらん」
 「いらんて」
 「むこうで食う」
 とりつくしまもない返答にむきになり、一歩前に出て食い下がる。 
 「ちゃんと食べなきゃ体に悪いっすよ、それでなくても誠一さん毎日忙しくて食事も抜いてそうだし……いくらジムで鍛えてたって駄目っすそんなんじゃ。簡単なものなら作れるし、せめてトーストとコーヒーだけでも」
 「紅茶党だ俺は」
 「~じゃあ紅茶にしますから!」
 ぱっと閃き手を打つ。
 「たまには家族そろってメシ食いましょうよ。誠一さん朝早くて夜遅いからみはなちゃんとおしゃべりするチャンスねえし、朝くらいゆったりしたってバチあたりませんよ。メシはちゃんと噛まなきゃ消化に悪いっす、施設のセンセも言ってました、ごはんは三十回噛むと甘みが出て美味いって」
 「三十回噛んだら口の中で溶けて消えるしうちはずっと洋食だ」
 「好き嫌いはいけません」
 「説教か?身の程を知れ、家政夫」
 ネクタイを締めつつ口の片端を歪める。
 誠一が浮かべる笑みはおもに冷笑と蔑笑と嘲笑の三種類に分類できる。
 この人がイヤミじゃなく笑うことなんてあるのだろうか。社長なんだし偉そうにふんぞりかえってりゃいいんだろうけど、取引先の重役と会えば愛想笑いくらいするんだろうか……上手く像増できない。セイテンノヘキレキだ。
 「健康管理も家政夫の仕事っす!」
 ええい、やけっぱちだ。
 恥なんぞかなぐり捨てろ、昨日のことは水に流していつもどおり振る舞え。
 決めたじゃないか、みはなを守ると。
 悦巳が身代わりとなって憎しみの矛先をそらせるならそれでいい、みはなに危害が及ぶよりはるかにマシだ。
 わがまま暴君バカ社長恐るるに足らず、誠一だってまさか出社の準備を投げ出し朝っぱらから発情しまい、すぐ近くにベッドがあるから、寝室に呼び出されたからと勘繰りすぎだ。
 頭にこびりつく風呂場での体験を振り払い、負けるな頑張れ俺と念じ大きく息を吸う。
 「たまには和食もどっすか?今度シャケ焼きますから。お麩の味噌汁も作るっす。洋食ばっかじゃ栄養偏るし、いくら朝だってトーストとサラダだけじゃ寂しいし会社でばりばり仕事するんなら食ったほうがいっすよ絶対」
 誠一とみはなと悦巳、三人でテーブルを囲む団欒の光景が浮かぶ。
 和気藹々とは行かなくても少しでも娘とのわだかまりを消す手伝いをしたい。
 互いに疎遠で無関心、不仲な親子の橋渡しをしたい。 
 「俺もけっこー上手くなったんすよ料理、修業の成果を見せます」
 「くどい。いらん」
 「つれねっす、傷つくっす」
 「朝は洋食と決めている。欲を言えばトーストにサラダ、ベーコンエッグにポタージュスープがつけば完璧だ。そしてダージリン」
 「そっこー作ってきます、ダッシュでトースターセットしますから!五分もあればすぐできあがりますから!」
 「ベーコンの脂身はとれ」
 「は?どうやって?」
 難易度の高い要求に素で聞き返してしまう。
 誠一に睨まれる。おっかない。
 とりあえずサラダだサラダ。レタスをちぎってガラス皿に盛ってミニトマトをまぶせば完成、お手軽な一品。ベーコンは脂身をとって焦がさないようフライ返しで……
 「待て」
 ばたばた走り出そうとした悦巳を呼び戻す傲慢な声。
 「来い」
 不吉な予感が胸を掠める。
 金属のノブから手をひっぺがし、ネクタイを締めて待つ誠一のもとへ警戒心も露わに赴く。
 正直、逃げ出したい。
 一対一で何を話したらいいかわからない、悦巳一人空元気を演じてはしゃいで滑って道化の醜態をさらし続けるのは苦痛だ。
 誠一は相対する人間に問答無用で緊張を強いる。
 頬骨の高く精悍な容貌を眉間の皺がますます威圧的に見せ、切れが長く冷徹な双眸はひとをつまらなそうに観察する癖がつき、ひしひしとプレッシャーをかけてくる。
 つくづくみはなとは似てないと思う。
 せめてみはなの百分の一でも可愛げがあればいいのに……

 『みはなは俺の子じゃない』
 そうだ。
 まだあの発言の真意を聞いてなかった。

 誠一の妻がみはなを置いて家を出たのはわかった、しかしその原因が分からない。
 妻に手を上げたと聞いて一方的に誠一が悪いと決めつけたが、事情を聞くまでは断定できない。
 信じたいのだ、誠一が訳もなく女子供に暴力を振るうような短絡で最低な人間ではないと。
 家政夫として尽くす価値がある男だと。
 「あの、誠一さん……」
 鈍重な足をひきずるようにして誠一のもとへ向かい、おずおずと口を開く。
 「昨日のことなんすけど。結局うやむやで、俺、ちゃんと聞きそびれて」
 どもりがちに言う。
 「……みはなちゃんが実の子じゃないってどういう意味っすか?奥さんの連れ子とか……そういうかんじの……?」
 そうであってほしいと、祈る。
 誠一の口ぶりから薄々そうではないだろうと察しつつあるかなしかの希望に縋りつく。
 だって悦巳の想像が正しければ、みはなは。
 「脱げ」
 「え?」
 素っ頓狂に聞き返す。
 「脱げと言ったんだ」
 「脱げ……って……」
 さあっと血の気が失せていく。
 恐れていた最悪の事態が今現実に起ころうとしている。
 思考停止状態、完全にパニックに陥って無意味に手を振り回しへどもど言う。
 「や、だめっす、これから幼稚園にみはなちゃんを連れていかなきゃならないんで変な痕とか痣とかつけてくわけにいかねっす、断固反対教育に悪いっす!もしバレたらママさんたちの噂になっちゃうかもしれねえし、そしたら二度と幼稚園いけねーし、子供に優しく美人に甘く教育テレビのうたのおにーさん的なみんなのアイドルえっちゃんのイメージがぶち壊しに」
 「勘違いするな。下だけだ」
 紛らわしい。
 「~主語を省略するのやめてくださいよ……!いや、下だけって十分変態くさ」
 「ズボンと下着を脱いで壁に手をつけ」
 凍りつく。
 クローゼットの扉を閉じ、スーツに着替え終えた誠一がこちらにやってくる。
 「なに考えてんだ、あんた……」
 呆然と立ち尽くす。聴覚を研ぎ澄ませドアのむこう、リビングの気配をさぐる。
 みはなは大人しく朝食をとっているようで、つけっぱなしのテレビの音声がかすかに響く。
 「逆らうのか。風呂場では素っ裸でかっこつけたくせに所詮口先だけか」
 精一杯ひそめた声で質問する。
 「……なにさせるつもりっすか」
 「躾だ」
 顎をしゃくる動作で早くしろと鞭を当てる。
 葛藤と抵抗が働く。
 裾を掴む手のひらがじっとりといやな汗をかく。
 逃げるか?
 誘惑に心が揺れる。
 目の前の男に芯から恐怖を感じて足が竦む。
 悦巳を寝室にとどまらせる理由は一重に自分の反抗がみはなに及ぼす影響への懸念。
 深呼吸し、意を決する。荒々しい動作でエプロンを毟り取りベッドに投げつけ、ズボンに手をかけ一瞬ためらったのち、迷いを振り切って一気にさげおろす。
 「いい心がけだ」
 初めて褒められた。さっぱり嬉しくない。
 体罰を受けたかの如く立ち尽くす悦巳の股間を不躾に眺め、萎えたペニスを嘲笑い、再びクローゼットへ。
 扉を開き、着衣のカーテンをかきわけ中をさぐり、奥にしまわれていたなにかをとりだす。
 「これが何かわかるか」
 誠一が手に持った物体にぎょっとする。卵型の器具をもてあそびつつからかう。
 「使ったことはあるか」
 「あ……るわけねっしょ、彼女もいねえのに!!」
 それは俗に言う大人の玩具……ローター。
 うずらの卵くらいの大きさでいかにも卑猥なピンク色をしている。
 悦巳だってはたち近い男だ、もちろんその手の道具の存在は知ってるしAVや雑誌の広告で見たことはある、しかし実物を目にするのは初めてだ。わざわざ見せつけてどうする気だなんで愚問すぎて聞く気にもなれない、聞いて現実になってしまうのが怖い。
 「………っ………」
 どうか誠一の気が変わってくれますよう焦燥と恐怖に塗れ狂おしく念じる。
 喉が引き攣り、卒倒せんばかりの呻き声が漏れる。
 ローターを持った誠一が大股に引き返してくる。
 片手には小型のリモコン。おそらくあれで強弱や動きを操作するのだろう。
 「くるな……」
 「じっとしてろ」
 あとじさりつつ制止する。背中が壁にぶつかる。行き止まり。誠一がシャツの袖をまくりあげ正面に仁王立つ。
 「いやだ、そんなの入るわけねえ、だって指も入れたことねえのに痛いに決まってる!おかしいって絶対、それ女に使うんだろ、男が入れたって気持ちよくねえよぜんぜん」
 「心配するな、前立腺のすぐ近くに突っ込んでやる」
 「誠一さん!」
 「すぐに感じまくって後ろだけで勃つようになる」
 懸命に哀訴する悦巳を冷ややかに嘲笑い、肩を掴んで強引に後ろを向かせ、裸の下半身に無造作に手を這わせる。予言の声は汚泥が煮立つような悪意を孕み、吐息に乗じてねっとりと耳に絡みつく。
 「股ぐら踏まれてイくような変態だからな、お前は。素質は十分だ」
 「!痛っ……て」
 後ろ手にねじられ押さえ込まれる。
 ジムで鍛えてる誠一とインドア派の悦巳とでは腕力に埋めがたい差がある、全力で抵抗したところで腱を痛めるだけだろう。壁際でばたつく悦巳の臀部、女とは違う締まった腰のあたりをしつこくまさぐる。愛撫と表現するには優しさに欠けた、食用家畜の肉づきを確かめるような手つきに絶望する。  
 「誠一さんやめっ、叫びますよ!」
 「叫んでいいぞ。聞かせてやれ」
 「は……?……!っあ、や」
 双丘の奥、きつく縫い綴じられた窄まりに人さし指が突き立つ。
 太い異物にこじ開けられる痛みに背筋が撓う。
 「ッ……ぐ………ふ……」
 「この家には盗聴器が仕掛けられてる。お前が叫べば外で監視任務に就く部下に筒抜けだ。それでいいなら叫んでみろ、大声で助けを呼べ、尻穴をほじられてローターを突っ込まれそうになってると説明しろ」
 背筋にそって冷や汗が伝う。苦しい体勢から肩越しに振り返る。切れ長の双眸は鋭利な眼光を放ち、嗜虐の愉悦に端正な顔が歪み、悦巳の痴態を肴に楽しむ酷薄な笑みを形作る。
 「ちくしょ……」
 盗聴器。まさか、冗談だろ?
 頭の片隅に居残る理性がハッタリだと否定する。
 だがもしそう仮定すればみはなの着替えを手伝う現場に毎度都合よく現れるのも辻褄が合う。
 「きついな。ローションを使わないと無理か」
 孔に挿入された指が乱暴に引き抜かれ、一気に脱力が襲う。
 壁に手をついたままだらしなくへたりこみかけるも、誠一がサイドテーブルから取り上げたベビーオイルの小瓶を目撃し、安堵の念はすぐ消し飛ぶ。
 「代用だ」
 「待ってくださいそれって剃刀負けしないように塗るヤツっしょ、ツルツルお肌になるために使うんであって用途ちげーし!」
 瓶を逆さにして手のひらで液体を受け、指を擦り合わせて糸引くまで捏ねる。
 誠一の手が壁と向き合う悦巳からは見えない場所にもぐりこみ、一度指を呑んだ窄まりへと沈む。
 「―!っあああ、あっ、あぐ」
 潤滑剤代わりのベビーオイルに塗れた指は意外とあっけなく根元まで沈んだ。
 喉に悲鳴が詰まる。膝裏から急速に力が抜けていく。腰からずりおちて今にもへたりこみそうだ。
 きつく唇を噛んでこみ上げる苦鳴を殺す、あまりの痛さに涙腺がゆるんで生理的な涙が滲む、後ろを犯す異物の違和感に胃がしこり猛烈な吐き気が襲う、肛門に指を突っ込まれるなど生まれて初めての体験で自らが投げ込まれた状況の異常さに朦朧と鈍った頭が追いつかない。

 一体全体誠一はなにを考えてる?
 自分を痛めつけて楽しんでるのか?
 児玉誠一は一児の父を名乗るのもおぞましい性根のひん曲がったサディストだったのか?

 「も、すぐ、朝ごはん終わりますから……みはなちゃんが待ってる……遅刻、いかねえと」
 息も絶え絶えにうわ言を呟く。後ろでぐちゃぐちゃと卑猥な水音が立つ。
 「うあっ、ひ」
 ベビーオイルに濡れた指が二本に増え、やがてそこにもう一本足される。
 腹筋が引き攣る。
 想像を絶する激痛に声を失くす。
 いくらオイルで滑りを良くしたとはいえそこは本来排泄器官であって異物を受け入れるようにはできてない、無理な挿入が伴う違和感と不快感と痛みはどうにもごまかしきれず全身に鳥肌が広がる。
 嗚咽するようにしゃくりあげ、壁に額を当てる悦巳を観察しつつ、窄まりに抜き差しする指を曲げる。
 「!!あ、」
 びくんと痙攣する。
 それまで痛くて不快なだけだったのに、誠一の指が一点を掠めるや閃光に似た快感が湧き起こり、連動して腰が跳ねる。
 「……ここが前立腺か」
 勝ち誇る囁きはどこか蔑みの響きを帯びて、自らの体の変化に戸惑う悦巳をうちのめす。
 「せい、さ、指、抜いて、お願いだから、―っ、なんかへん、やべ」
 誠一はまるで聞かない。
 湿った声で哀願する悦巳をよそに、窄まりに抜き差しする指のペースを速めぐちゃぐちゃと水音を響かせる。
 死ぬ気で声を噛み殺す、押し潰した呻きとも喘ぎともつかぬものが口から零れそうできつく唇を噛み縛る、壁に肘をつく、もう片方の手を後ろに回して誠一の手を夢中でひっかき引き剥がそうとするも邪険に払われ終わってしまう。
 諦めずまた伸ばす、払う、伸ばす、払う。
 きりのない攻防を繰り広げつつ、前立腺への刺激に反応してしまう堪え性のない体を呪う。
 「足を開け」
 言うが早いが膝を割り込ませ肩幅以上に足を開かせ固定、ローターの先端を肛門にごく浅くめりこませる。
 後ろにひやりとしたプラスチックの感触。
 「いやだ、誠一さん……」
 のっぺりとしたプラスチックの玩具が窄まりをこじ開け進んでいく。既にほぐされた直腸は異物の侵入に対し無力で、括約筋を締めて拒もうにも役に立たず、遂に奥まで達する。
 「はあっ……は………」
 前立腺にこりっと当たる位置で漸く停止、体内におぞましい玩具を残して指が抜かれていく。
 終わった。やっと。片方の膝ががくんと砕け、体の右側だけ下がる。
 顎先から滴り落ちた汗が床にたまる。
 疲労困憊しきった悦巳の背後に立ち、おもむろにリモコンのつまみを回す。
 「!あああああああっ、あっ、は、うあっ」
 休息の暇さえ与えられない。ローターの電源が入り、体内で湧き起こる振動に脆くも体が崩れ去る。
 「ふざけ、んな、こんなむり……っ、早くとれ、とって、苦しい、腹すげえ熱くてへんっ……」
 「俺が帰るまでそのままでいろ」
 耳を疑う。
 「リモコンはやる。が、勝手に止めるな。ひとりでヌくのも禁止だ」
 「待ってください、このままって……このナリで外歩けって?」
 「そうだ」
 「幼稚園行けって?」
 「わかってるじゃないか」
 腹を抱えてのたうつ悦巳の愕然とした表情をたっぷり見つめ、ベビーオイルに塗れた指をハンカチで拭う。
 「風呂場で言っただろう、なんでも言う事を聞くと。お前は今日一日ローターを尻に入れて過ごすんだ。おもちゃにケツをめちゃくちゃにかきまわされて、節操なく感じまくった汚い顔を近所にさらして歩け。猫背になってると怪しまれるからな」
 腹を抱えて突っ伏す悦巳の鼻先に汚れたハンカチを捨てる。
 「お前ごときにわざわざ手間をかけてやるほど甘くない。覚えておけ、今日の夜だ。その頃にはすっかり出来上がってるだろう」
 「待てよ!!」
 ドアの前で立ち止まり振り向く。目が合う。
 腹が苦しい。声を出すだけで後ろに響く。ローターがめちゃくちゃに前立腺を揺すりたてねっとりした快感を生む、這うだけで力尽きる、剥き出しの下半身から鳥肌が消えてあざやかに上気、窄まりの奥から肉襞に遮られ低く濁った電動音が漏れてくる。
 無表情な誠一を床から見上げ食い下がる。
 「……言うこと聞くから早く帰ってきてくださいっス……」
 「仕事の進み方次第だ」
 「………」
 「心配するな、そう長くはかからん。日付が変わる前には戻る」
 ふっと気が遠くなる。
 だが今の悦巳には誠一の気紛れな言葉に縋るしか残された道がない。あるいは示された選択。
 誠一の足元まで余力を振り絞って這っていき、震える腕を持ち上げて小指を立てる。
 「約束してください……」
 信用できない男をどん底で信じぬくため、口約束より確かな証左を求める。
 一途に思い詰めた目で見上げる悦巳。裸の尻を突き出してローターの責めに耐える格好は間抜けだが、窄まりから垂れたピンクのコードが床を這うさまは妙にいやらしく劣情を誘う。
 「……………」
 鼻で笑われるかと思った。
 くだらんといつもの調子で一蹴されるかと。
 悦巳が小刻みに震えながら突き立てた小指、その小指を一瞥、とっつきにくい無表情がかすかに揺らいで感情の波紋が広がる。
 呆れたような困ったような、そんな顔。
 思いがけぬことが起きる。
 ドアを背にして立つ誠一が渋面を作り、催眠術にでもかかったような緩慢さでもって悦巳が伸ばした小指に申し訳に小指を絡める。
 小指と小指がしっかりと結びつき、脂汗と苦痛に塗れすっかり憔悴しきった悦巳の顔に虚勢ともつかぬ不敵な笑みが浮かぶ。

 「嘘吐いたらタバスコのーますっ!」

 誠一がちょっといやな顔をした。
 へっぴり腰で指きりげんまんし悦巳はささやかな勝利を噛み締めた。

 ささやかすぎる、一瞬の勝利だった。
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