オレオレ御曹司

まさみ

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十八話

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 加害者の傲慢は被害者を被害者としてしか認識しないことだ。
 「はなせよ、ふざけんな、酒入ってねーだろ今は……ソープ嬢の真似ごとなんてまっぴらだ!」
 「言葉遣いに育ちの悪さがでてるな。地か?」
 誠一が皮肉な角度に口を吊り上げる。
 おそらく笑ったのだろうが笑顔と形容するにはあまりに剣呑な威圧を込めた表情だ。
 「みはなのことは心配するな、とっくに寝てる。風呂場からは離れてるし聞こえない」
 「でも」
 「マンションの防音設備は完璧だ。それでも不安ならお前が騒がなければいいだけの話だ」
 誠一の顔が近付く。
 「みはなが可愛いんだろう」
 「……そりゃ……」
 「詐欺師だとバレたらあいつは軽蔑するぞ。頑固で潔癖なヤツだからな」
 心臓を鷲掴みにされる。
 わけがわからない。脅迫?立場が逆だ。自分の娘を引き合いにだして過去の罪を暴露されたくないなら言う事を聞けと脅すのか、それが父親のすることか?信じがたいものを見たような悦巳の顔に鼻を鳴らし、その手に改めてスポンジを握らせる。
 「前を洗え。誠心誠意、すみずみまで丁寧に。ただ飯食いが役に立つところを見せてみろ」
 「……メシ作ってんの俺だし……」
 「食費をだしてるのは誰だ」
 結局すべてまわりまわってそこへ戻る、金に還元されるのか。世知辛い世の中だ。
 泡立つスポンジを持て余し逡巡する。
 翻意させようと言葉を尽くしても無駄だろう、体力と気力を消耗するだけだ。
 みはなに嫌われるぞ。
 脅迫というにあまりに静かで無関心、投げ出すような指摘が悦巳に与えた影響力は計り知れない。
 みはなに嫌われる。そのたった一言が束縛力を持つ。
 一体いつのまにみはなの存在が心の中で大きく育っていたのだろう。
 せっかく懐いてくれた、手を繋ぐのを厭わなくなった、椅子によじのぼって夕飯のお手伝いをしてくれる。

 『嘘つきはきらいです』

 悦巳は事の発端からみはなに嘘をついている。
 家政夫なんて大嘘だ。
 悦巳の正体は数多の老人を毒牙にかけた薄汚い詐欺師、到底子供に慕ってもらえるような人間じゃないのだ。
 嘘つきは嫌いだ。俺は嘘つきだ。
 今も昔も嘘をついてつきつづけて人を騙し続けて……

 結局自分にできることは嘘をつくことだけか。
 嘘をつくしかとりえがないのか。 

 『お前口だけは上手いからさ、寂しがりやのジジババに取り入るのなんざ電話越しでもお手の物だろ?むかしっから年寄り受けだきゃよかったもんな』

 小学校の頃から口の上手さだけが自慢だった。
 生まれついてのお調子者で、おしゃべりで人を楽しませることに関しては自分の右に出るものはないだろうと自負していた。
 卒業文集の将来の夢にはお笑い芸人と書いた。しかし本気で芸人をめざすほどの根性と度胸もなく、勝手に相方候補と頼んだ親友に「馬鹿言ってんじゃねえ」と一蹴されあっけなく野望は潰えた。
 どうせなら嘘で人を楽しませることができる人種になりたかった。
 自分が吐いたくだらない嘘で少しでも笑ってくれる人がいるならつまらない負い目を憶えずにすんだんじゃないかと、饒舌な嘘を売りに生計を立ててきた詐欺師は一抹の自嘲と共に振り返る。

 「いつまで待たせる。風邪をひかせるつもりか」
 一度ついた嘘はつきとおす。それが詐欺師崩れのちゃちなプライド。
 重ねて促され、とうとう腹を括る。
 「………っし」
 噛み締めた歯の間から息を吐く。
 どのみち逃げ場はない、口先でごまかそうにも誠一は承知しないだろう。
 この男は今まで悦巳が騙してきた年寄りたちのように甘くもなければ優しくもない。
 なにもボランティアで祖母の仇の憎い男を居候させてやってるわけじゃない、これもきっとそう、陰険かつ陰湿な復讐とやらの一環なのだ。
 負けてたまるか。
 反抗心と対抗心とがむくむくもたげ、緊張と高揚とが綯い交ぜになった複雑な―どこかふてくされた顔で決断。
 「流すだけっすよ」
 くれぐれも念押しし、生唾と一緒に葛藤を飲み下し、持ち直したスポンジでもってほんの申し訳程度に膝を擦る。
 苦し紛れの時間稼ぎ。
 ひれ伏し、跪き、額ずく。
 理不尽だと頭では分かっている。しかし逆らう術はなく、もとより拒む資格もない。
 伏せた顔が屈辱と葛藤に歪む。
 きつく唇を噛み、沸騰する激情を痛みで堪える。
 一対一で向き合い、体の前側をなぞるようにして奉仕する。
 「手が震えてるぞ。怖いのか」
 見抜かれた恥辱に顔が染まる。
 「冷えてきたんすよ……ずっと裸だし」
 「じゃあ湯をかぶればいい」

 捨てられるのが怖いのか?
 追い出されるのが怖いのか?
 この人に見捨てられるのを怖がってるのか?

 媚を売らなきゃ『また』うちをなくす。

 強迫観念に囚われ、小刻みな手の震えをごまかそうとぎゅっとスポンジを握り潰す。
 圧縮されたスポンジが泡水を絞る。
 指の股に滴り落ちた泡水がタイルの溝を走って排水溝へと吸い込まれていく。
 さっき掴まれた手首がひりつく。
 「誠一さんてイイ体してますね。ジムのほかにスポーツやってたんですか?」
 重苦しい沈黙に痺れを切らし、愛想笑いを添えて世辞を言う。
 「学生時代にフェンシングをな」
 「フェンシング?ってあれっすか、覆面に白タイツでつっつくやつっすか」
 手まねで虚空を突く。
 「へーっへーっ、誠一さんがちゃんばらを!意外っス、驚きっス」
 「チャンバラではない、フェンシングだ」
 「部活でやってたんすか?すっげえなあ、大会とか出ました?」
 「まあな」
 「いい線いきました?」
 「高二の大会で優勝した」
 「すっげー、並み居る外人強豪を押し分け斬り払って優勝っすか!メジャーで言うならゴジラ松井じゃねっすか!強いんすね誠一さん」
 「世界大会じゃない、国内の大会だ。外人はいなかった」
 目を輝かせ称賛する悦巳の勘違いを、ほんの少しばつ悪げに訂正する。が、悦巳はへこたれない。
 「優勝しただけですごいっすよ、かっこいいっす!フェンシング部あるなんて金持ちお坊っちゃん校行ってたんすね。中高一貫?」
 「幼稚舎から大学まであった」
 「めちゃくちゃエリートじゃねっすか。じゃあ学校にはばあちゃんちから通ってたんすか」
 「祖母の家に滞在してたのは小学校の二・三年だ。あとは実家から通った」
 「聞いていっすか」
 胸板を擦りつつ、おそるおそる口を開く。
 「どうしてばあちゃんちに預けられてたんすか?ご両親は健在なんすよね?」
 「父親はな。母親は家を出た」 
 「え?」
 「女癖の悪い親父に愛想を尽かして出ていった。今どうしてるかは知らん。調べようとも思わん」
 誠一の言葉は突き放すようにそっけなく、ひとかけらの感傷も読み取れない。悦巳は遠慮しつつ聞く。
 「だから……その、おうちで色々あってばあちゃんちに預けられてたんすか」
 「そんなところだ。父親は外に女を作って滅多に寄り付かなかったしな」
 誠一もまた親に見離された子供だった。
 心の奥底でこの傲慢で冷徹な男に対し同情じみた共感が生まれる。
 同時に、無神経な詮索と質問を恥じる。
 今の誠一からは想像もできないが、この男にもかつて多感で傷つきやすい子供時代があったのだ。
 大人の事情に振り回されてすっかり心を閉ざしてしまった孫を更正させようと華は頑張ったのだろう。
 「……誠一さんにもガキの頃があったんすねえ」
 「どういう意味だ」
 しみじみ呟く悦巳をおっかない目つきで睨む。
 「変な意味じゃねっすよ!ただなんとなく今のいばりくさった誠一さんからは想像できねーから話聞くと新鮮で」
 「いばりくさった主人で悪かったな。労働条件に不満があるならいつでも出てけ、遊園地のきぐるみの中身にでもなれ」
 「しゃべれねーじゃねっすかそれ!俺五分間だんまりでいると息が詰まって死んじゃうっす!」
 あたふた猛抗議する悦巳を冷たい眼光で串刺し、注意。
 「手がとまってるぞ」
 「あ」
 慌てて奉仕を再開。
 おしゃべりに費やした分を取り返そうと広い胸板を擦り泡立て、固い腹筋に沿ってちんたら手を移動させる。
 問題は下半身。
 「…………」
 「どうした。やれ」
 「…………」
 「やれ」
 「勘弁してくださいっす~……」
 泣きが入る。しゃくりあげつつ潤んだ上目遣いでうかがうも誠一は動じない。
 いやいや誠一の股間に視線を落とす。
 タオルが掛けられてるせいでご対面は免れているが、この課題をクリアしないことにはいつまでたってもお風呂タイムが終わらずのぼせるかふやけるかしてしまう。
 「俺のものを見るのが怖いのか」
 見透かすような揶揄に頬が熱を持つ。
 きっと睨みつける。
 「若い女ならともかく男の裸に緊張する必要もあるまい。もっとも同性愛者だったら話は別だが」
 「俺は巨乳っ娘大好きな熱烈異性愛者っす、妙な誤解はやめてください!」
 「ならできるだろう」
 「う」
 「待たせるな」
 湿気が漂う中で冷や汗をかく。
 どうして緊張する必要がある瑞原悦巳よ、体を洗うったって変な意味じゃないそのままの意味で誠一さん相手にどぎまぎするのは不条理で不可解だ、ただ体を洗うだけ……
 「……………おぉ!?」
 半開きの口から吐息に混じって感嘆が漏れる。
 初めて見た。
 誠一のものは、すごい。なんというか、かなりすごい。
 もとより語彙が貧弱な悦巳の言語中枢が比喩や形容に困って暴走するほどすごい、鍛えられた上半身のたくましさから下半身もある程度予想はついたがこいつは予想以上のシロモノだ、拳銃でたとえるなら大口径だ、迫力というか直径というか自分とは格が違う……
 「全国大会優勝級っすね!!あれっすか、『剣が折れたら竿を使えばいいじゃない』っすか?」
 「軽口はやめて手を動かせ」
 引き延ばし工作を看破され口を閉じる。
 誠一のそれはひれ伏して拝みたくなるほど立派なシロモノだった。手を触れるのも恐れ多い。
 誰かと一緒に風呂に入るのなんてどれくらいぶりだろう。
 施設にいた頃は他の子供たちと入浴するのが日常だった、親友と一緒に住んでた頃はふたりで近所の銭湯に通った、風呂なしボロアパートでの貧乏生活の中には確かに楽しさがあった……
 「ふやけきった顔で現実逃避してる場合か」
 誠一の声で絶望的な現実に引き戻される。

 どうする?
 やるか?
 ……っていうかさわりたくねえ。

 下腹においたスポンジを往復させ、ためらいがちに弱音を零す。
 「ここまでやったんだからもう十分っしょ、許してください……」
 「駄目だ」
 「あ、あんたはガキっすか!頭を洗うとこから体のすみずみごしごしするとこまでぜんぶやってあげなきゃいけないなんて赤ん坊と一緒っす、みはなちゃんならともかく俺あんたのお母さんじゃねえし手とり足とり面倒みきれね」
 「さすが俺が目をはなした隙に幼女の股をごしごししようとした変態は言う事が違う」
 「指の!指のだから!」
 天国の華はこの光景を見て笑ってるのだろうか。
 苦しい時の神頼みをできる立場じゃないのは百も承知だが、助けてばあちゃんと泣きつかずにはいられない。 
 今度こそはと萎えそうな気力を振り絞り奮い立たせ手を運ぼうとするも、どうしても股間に行くまでに動きが鈍って優柔不断に行ったり来たり抵抗が働く。
 誠一の裸にだってまだ慣れない状況下で性器を洗うなんて荷が重過ぎる……
 「ひょっとして童貞か、お前」
 「はあっ?」
 何を言われたか理解するにつれみるみる赤面、しどろもどろに舌がもたつく。
 「風俗に行った事は?女とは未経験か」
 「童貞じゃねっすよ、俺は……」
 わなわな震えながら言い返す。
 「大志……じゃね、ダチに連れられて二・三回風俗行ったし!高いからそう頻繁にイけなかったけど臨時収入入ったときとかフンパツして、大体このトシで童貞のわけないじゃねっすか、もうすっかり大人っスよ、酸いも辛いも噛み分けてるっすよ!」
 「年寄りから騙し取った金で風俗に行ったのか。色狂いめ、見下げ果てたぞ」
 「詐欺に手え染める前の話、飲食店とか新聞配達とか真面目にバイトしてた頃の話っす!いやだって大志がハタチ前に童貞捨てなきゃやべえって、なめられるぞってしつこく脅すもんだからつい乗り気になって……女の子可愛かったし……」
 後半はもごもごと口の中だけで呟き、俯いてしまう悦巳の手首に激痛が走る。
 「!?痛ッ、」
 「大志、大志、大志か……」
 誠一の声が険を孕んで低まる。
 痛みに仰け反る悦巳に顔を近付け言い放つ。
 「友達がいなきゃ風俗ひとつ行けないのか。情けないヤツだ」
 「あんたに言われたくね……待っ!?」
 体がぐらつく。あっと思った時には既に遅く、掴まれた手首ごと股間へ持っていかれる。
 「しかたない、いちからしつけてやる」
 「放せよ、いやだふざけんなやっぱだめだ、何が哀しくて男のアレをごしごししなきゃいけねーんだよ!?」
 「素っ裸で放り出すぞ」
 耳元で囁かれた台詞にぎょっとする。
 眼球を滑らし、鼻の頭が触れ合う距離に迫った誠一を凍りついて見つめる。
 「ベランダかマンションの廊下か選べ」
 「誠一さ」
 「泡のついたまま全裸で追い出す。服は全部処分させる、お前愛用のださいスウェットも一着残らず廃棄処分だ。冬場だからな、凍死するのが先か変質者として近所で騒がれ通報されるのが先か見ものだ」
 「………………っ………」
 従え、言う事を聞け。ここを追い出されたら行くところがない。
 スポンジでのろのろと股間を洗う。死ぬほどみじめな気分を味わう。
 ほんのちょっとした動きにびくついてしまう。
 スポンジに指が食いこむ。間違っても直視しないようできるだけ目を背け顔を伏せる。
 「遊んでるのか」
 「………」
 「ただなぞるだけじゃいつまでたっても終わらないぞ。テクニックは望むべくもないにしろ、せめてプロのソープ嬢の十分の一でもサービス精神を学んだらどうだ」
 「……限界っすよ……」
 視界がぼんやり揺らぐ。迂闊に下を向くと不覚にも涙がこぼれそうだ。
 ソープ嬢と比べ貶められても返す言葉がない、男を悦ばせるテクニックとサービスが劣るのは動かしがたい事実だ。俺だって一生懸命やってる、イヤなの気持ち悪ィのガマンして精一杯やってんのに……
 「全力か?」
 「そっす……」
 「無能め」
 「そっす……」
 「体ひとつ満足に洗えない、とんでもないグズだ。服を着てるときも貧相だったが脱がすとよりいっそう軟弱さが際立つな。貧相で退屈な体だ。色気がない」
 まったく駄目なヤツだ。
 無能め。
 役立たず。
 ぐず。
 似たような言葉はこれまで何度も色んなヤツになげつけらたが誠一に言われるのが一番こたえる。
 無意味で無価値な世界にいなくても別に構わない存在だと烙印を押され鼻の奥がツンとする。
 「クズめ」
 父親じゃない、友達でもない、ただの雇い主と使用人の関係なのになんで否定されるとこんなに哀しくなる?
 「もういい、じれったい」
 「やる………やらせてください、最後まで」
 むきになる。意地になる。見放されるのが怖くなり、洟水を啜って縋りつく。
 再び手首を掴んで止められる。
 痛みに呻き、スポンジを落とした悦巳を引き倒し、底知れぬ凄味を帯びた形相で命じる。
 「直接やれ」
 腕ごと引っ張られて前のめりに倒れこむ。
 反射的に手をつき支えるも右手は相変わらず強く掴まれたまま、泡でぬめる性器へと持っていかれる。
 「!!―ひっ、」
 タイルで滑った姿勢から尻餅をつきあとじさる。
 腰が抜ける。膝が笑う。上下の歯がかち合ってうるさく音を立てる。
 「役に立つところを見せたいんだろう」
 「いやだ誠一さん、できねっす……俺もっと頑張るから、誠一さん好みの美味い紅茶淹れられるようになるから、ばあちゃんの味に近づける努力すっから」
 華を引き合いに出した刹那誠一の目に火花が爆ぜる。
 「しゃぶれ」
 浴槽の湯をプラスチックの桶に汲んで泡を洗い流す。
 泡が排水溝へと渦を巻いて飲み込まれていく。
 命令の意味が理解できないほどうぶでも鈍感でもない悦巳はぎょっと目を剥き、前にも増して必死に誠一から逃げ切ろうとあがく。
 「冗談、なんで俺が……いくら居候させてもらってるからってそんなことまでする義理ねえよ!」 
 「本音が出たな」
 誠一が冷笑する。
 「お前が考える償いは随分軽いんだな」
 「それこれとは関係ねーだろ、確かに俺はケチな詐欺師であんたのばあちゃんや他のじいちゃんばあちゃんにでたらめ言って金騙しとったよ、だからってあんたにフェラする義理ねえよ!!第一奥さんいんのに」
 感情に任せ口走った台詞を後悔するも遅く。
 「……誰から聞いた?」
 「……アンディが教えてくれたんです、誠一さんの奥さんは生きてるって」
 聞くなら今しかない。
 「死んだって嘘だったんすか?みはなちゃんはそのこと知ってるんすか?どうしてそんな……生きてる人を死んだことにしちまうとか嘘の中でも最低っす、悪趣味っす」
 「嘘に甲乙良し悪しがあるのか?さすが詐欺師の言う事はちがうな、勉強になった」
 「ごまかさないでください。奥さんは今どうしてるんすか、どうして一緒に住んでないんですか」

 家族なのに。
 両親が一緒ならみはなが寂しい思いをせずにすむんじゃないか?

 「奥さんはどこにいるんですか!」
 裏切りともつかぬ喪失感に苛まれ悲痛に叫ぶ。
 ひとりぼっちで放っておかれたみはなの分も、呑んでもらえず捨てられる運命の紅茶を淹れ続けた自分の怒りに乗せて、身勝手な父親を糾弾する。
 「どうして嘘ついたんですか!!」
 肺活量一杯叫び尽くして、浴槽にもたれるようにして呼吸が整うのを待つ。
 怒号の余韻が漂う浴室にて悦巳と対峙する男が静かに口を開く。
 冷酷な眼光。
 白けた表情。
 悦巳の必死の叫びさえ心にまでは届かないと絶望させる、あらゆる干渉を頑としてはねつける孤高の立ち姿。
 「死んだも同然だ。勝手に出ていったんだ」
 「な………」
 そして誠一は言う。侮蔑しきった笑みを添えて。
 「一回ひっぱたいたくらいで出て行くような堪え性のない女こっちからお断りだ」
 頭に上った血が急速に冷えて下りてくる。
 「あんた……最低だ……」
 今誠一はなんて言った?
 妻に暴力を振るったと言ったのか?
 暴力をふるっておきながら自分は悪くないと開き直った? 
 「奥さんを、女をひっぱたくなんて」
 「金めあてに孫を演じて年寄りを騙した自分は最低じゃないとでも?」
 大志の裸。
 無数の煙草の火傷のあと。
 体の傷は癒えても心の傷は癒せないというのに……
 「俺は最低であんたは最悪だ!!」
 衝撃も冷め切らぬまま最悪の想像が急激に現実味を伴って実体化し、怒りを抑圧していっそ無感動な声で聞く。
 「……まさかみはなちゃんにまで手え上げてねえだろうな」
 みはなが父親を「あの人」と呼ぶ理由。
 「実の娘じゃないから……自分の子供じゃないからひっぱたいても心が痛まないって?」
 否定して欲しい。
 血の繋がりなど関係なく娘を愛してるのだと納得させて欲しい。
 「なんとか言えよ。あんたこれまでにみはなちゃんに手えあげたことあんのか、だから寄りつかねーのか。おかしいと思ったんだ、あの人なんて他人行儀な呼び方……あの年頃の女の子ならお父さんと大喜びで風呂入んのに、おっきくなったらお父さんのお嫁さんになるとか無邪気に夢見るのに全然ねえし」
 「そうだとしたら?」
 相対して立つ誠一が究極の選択をつきつける。
 「お前が望んで身代わりになるならみはなには手を出さない」
 遠まわしな肯定ともとれる台詞。絶望で目の前が暗くなる。
 浴槽のふちを後ろ手に掴んで立つ悦巳のまなざしから次第に力が失せていく。
 「出て行った妻とみはなの代わりにお前がすべての痛みを引き受けるんだ、瑞原悦巳」
 所有物のように名を呼ばれ招かれる。
 心臓が高鳴る。
 指が震える。
 いやだと拒み抗う気持ちに反し、足が勝手に動く。
 誠一の前まで歩いて片膝をつく。
 「目を背けるな」
 容赦ない叱責が鞭打つ。
 「両手でしっかり持て」

 ばあちゃん。大志。
 俺は、これでいいのか?
 間違ってるならだれかだれでもいいそう言ってくれ教えてくれ、だけど俺バカだからこんな方法しか思いつかない、言うとおりにすればみはなちゃんには手を上げねえって約束してくれた、なら信じるっきゃない、誠一さんの言葉を無理矢理にでも信じ込むっきゃない。

 『瑞原さん、またお弁当作ってください』
 『瑞原さんが切ったにんじんまた繋がってます。ずらずらなかよしさんです』

 守りたい。

 「……………」
 極端な緩慢さで手を上げて、萎えたペニスを丁重に捧げ持つ。
 熱く柔らかな肉の感触と脈動が手のひらに伝わり怖気づく。
 「口を開けろ」
 逃げたい。帰りたい。どこへ?
 帰るうちなんかないだろ、いい加減覚悟きめろ、ぐるぐる同じところ回ってうざってえ。
 口を開きまた閉ざし、思い詰めて俯く悦巳の口へ太い指をねじこみかき回す。
 「!んぐっ、あふ、あぐぅ」
 「手間をかけさせるな」
 誠一が苛立つ。口の粘膜を蹂躙され大量の唾液が湧く。
 息が吸えない苦しさで生理的な涙が滲んで視界が曇る。
 「―んっ、あぐ、やめ……やっから、抜いて……―っ、ねがいしますっ」
 名残惜しげに唾液の糸引き指が抜かれる。両手に支え持つペニスに口を近づけ、離し、きつくきつく目をつむる。
 薄く唇を開き、カリ高の先端を含む。
 味を意識しないよう努め、不器用に舌を這わせる。
 当たり前だが、フェラチオには初挑戦だ。
 やりかたなんてさっぱりわからない、何をどうすればよくなるのかも未知数だ。
 同じ男とはいえ誠一のペニスは長さも太さも形状も悦巳と違う、感じるところが同じとは限らない。
 「ふあ、あふ、あ」
 気持ち悪い。吐きたい。のめりこむにつれ苦い胃液がせりあがってくる。
 上手く息が吸えずに苦しい。生臭い異物が口の中を圧迫し脈打つ。
 顎も外れんばかりに口を開いても入りきらず、余った部分は仕方なく手でしごく。
 「―っんぐ、にげ……でかくて入りきらねえ……っす」
 頬があざやかに色づく。
 ぱくつく唇が唾液で濡れ光る。
 つたない舌づかいでペニスをくりかえし舐め上げる。
 濡れそぼった前髪がばらけて額にはりつく。
 苦痛に潤んだ目と歪む顔が嗜虐心に火をつける。
 悦巳の後頭部を掴んで押さえつける。
 「ふあ……―あっ、はあ………ちょ、たんま、くるし……息吸わせて……」
 「しゃべってる暇があるなら口を使え」
 舌を使うだけで体力を消耗していく。
 全身の毛穴から汗が噴き出し肌を伝う。
 誠一の下半身にしがみつき苦しげに息継ぎ、改めて股間に顔を埋め、手の中で生き物の如くそそりたつペニスを無我夢中で咥えにいく。
 唾液を捏ねる音を下品に響かせ、飲み干せずあふれた唾液で顎をべとつかせ、早くらくになりたい終わらせたい一心でめちゃくちゃに舌を使う。
 強弱つけて亀頭を吸う。
 鈴口に舌をちらつかせる。
 なんだかしょっぱいのは汗の味か、洟水と涙とが混じって粘膜を濡らしているからか。
 「へたくそだな」
 赤黒くグロテスクな肉の塊にむしゃぶりつく悦巳を、軽蔑と退屈が六対四の割合で綯い交ぜとなった表情で眺める誠一。
 タイルに跪き、股間に顔を突っ込み、物欲しげに舌を出しては次第に勃起し始めたペニスをくりかえし舐め上げる顔はべそをかく寸前まで歪み屈折し、仄赤く染まった目元から匂い立つ色気に倒錯した媚態を乗じる。
 「ふあ、あふ、ぅぐ………ぷは」
 悦巳は必死だ。
 誠一を満足させ許しを得たい一心で奉仕に励む。
 喉突く異物に咽せて咳き込み、唾液でべとつく顎を拭う暇も惜しみ、憔悴に翳りがちな双眸に虐げられても失わない負けん気の強さを映し、唇で舌で手でそれらを微妙にずらし連携させ施しをする。
 頭にちらつくみはなや大志の顔を振り払い、硬度を持ち始めたペニスに唇をおしつけぐりぐりと刺激する。
 誠一は傲慢な無表情のままそれを眺めていたが、ふいに手をさしのべて悦巳の肌を掠める。
 「!?いっ、」
 泡でぬめりいつもよりさらに過敏になった肌に触られ喉がひくつく。
 「やめるな」
 誠一が大股を開いて浴槽のふちに腰掛ける。手が肌の広範囲を大胆に這う。
 フェラチオを行う悦巳の貧弱に薄い胸板をまさぐり脇腹をくすぐり、円を描くようにしてまた戻るや左右の突起をつねる。
 「んっ、ぐ、ふぐ」
 やめろと言いたい。声を出したい。できない。口の中がいっぱいで余裕がない。
 誠一のものを頬張ってるせいで執拗な愛撫を拒絶できず追いつ追われつ勝手に反応していく体に煽られ、意思表示ができない二律背反に苛まれる。
 誠一の手がさらに大胆さと狡猾さを増し悪戯っぽく乳首をつねって引っ張る。
 初めて他人の手に触られる場所がこんなに敏感だったなんて知らなかった、さっきからずっと体がおかしい、誠一の爪が食い込むごと突起に朱が滲んで周囲の皮膚も薄赤く染まっていく。
 腰のあたりがぞくぞくする。
 前がじれったい。
 違う、おかしい、変だこんなの。
 男が乳首をつねられて感じるなんて変態じゃないか、イヤイヤ仕方なくフェラチオしてるのに前に熱が集まってくのはどうして、追い上げるつもりが逆に追い上げられて触覚が研ぎ澄まされていく……
 
 「---------んんっ!!」

 油断していた。
 自覚のないうちに勃ち上がり始めた前を足で押され、右の乳首を強く絞りたてられ制御できぬ痙攣が襲う。
 口内で一回り膨張した肉が乱暴に引き抜かれ、顔面に粘っこい白濁が飛ぶ。
 「うあ………あっ、あ………」
 体を支えられず突っ伏す。
 口の端から唾液に混じって一筋白濁が落ちる。
 「……フェラチオを命じておきながら先に達するとはな。我慢がきかないヤツだ」
 股間を踏まれただけでイってしまった。
 ボディーソープでぬるつく指でしつこく乳首を責められ、口の中いっぱいで苦しくて、苦しい分気持ちよくて
 タイルに肘をつき起き上がろうとしてずしゃりと突っ伏す。
 コックを捻る音に続き、頭上に冷水がぶちまけられる。
 「汚い」
 顔を上げる気力さえ喪失した悦巳の頭上にシャワーの先端を向け、タイルに落ちた白濁を洗い流し、まだ水を出し続けるノズルを高い位置のフックに掛ける。
 冷水に打たれるがまま、それでもまだ自力で起き上がらない悦巳の姿が同情を誘ってると映ったか、もう完全に興味をなくして身を翻す。
 「後始末しておけ」
 引き戸を開けて脱衣所へ出ようとした誠一の足首をすっかり冷え切った手が掴む。
 見下ろす。
 見上げてくる悦巳と目が合った。
 「………みはなちゃんに、もっと優しくしてあげてください……」
 濡れてへばりついた前髪の隙間に見え隠れする目は焦点も覚束ず。
 白濁に塗れ突っ伏した自分をいつかのように置き去りにしようとした薄情な足を、渾身の力を振り絞って掴んで引きとめ、切実に希う。
 「…………」
 縋りつく手を蹴りどかし、今度こそ浴室を後にする。
 静寂が浴室を覆う。放水を続けるシャワーの音だけがしらけて響く。タイルに突っ伏したまま、肘で這いずるようにして引き戸へ近付いた悦巳だが、曇りガラスを嵌めた引き戸を開けようとして力尽き、その手をこぶしに握りこむ。
 「くそ………」
 こぶしを噛んで嗚咽を殺し、すっかり冷え切って震える体を温めようと膝ごと抱え込み、呟く。
 「約束守れよ、絶対……」
 
 湯気を遮断する戸の向こうから答えはなく。
 冷たいシャワーに責め立てられながら、自分の無力さを思い知った。
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