オレオレ御曹司

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四話

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 猛然と扉を開け放つ。
 「うっそ……」
 異臭放つ冷蔵庫を額ずき拝み、這いつくばって裏に回る。
 コンセントが抜けていた。
 いったい何時間電源が落ちた状態で放置されてたのか、場所ばかりとる無用のデカブツと成り果てた冷蔵庫―もとい常温貯蔵庫の上中下段をひっかきまわし、誠一が手配した業者が二日に一度の割合で運びこむ現地直産品の腐敗の進み具合を点検していく。
 「サーモンセーフ生牡蠣アウト松阪牛セーフ牛乳は飲んでみなきゃわかんねーけど腹下しの危機回避で保留……」
 保冷剤入り発砲スチロール箱に梱包された肉や魚は少々鮮度が損なわれていたが無事、野菜も無事……が、本日のメインとなるはずだった冷凍食品は表面を覆う霜が溶けきって致命的な打撃を被っている。
 完全に意表をつかれしばし絶句。
 もう少しすればみはなが起きてしまう。
 誠一に相談し対策を仰ごう。
 転瞬決断、足縺れさせ廊下に駆け出した悦巳は、寝室へ向かう前にふと振り返り、玄関に誠一の靴がないのを見てとる。
 「出社済みかよ!」
 いってきますの一言もなく。
 リビングで寝ていたのに出て行く物音にさっぱり気付かなかったのだから神経が図太い。
 そもそも洋式スタイルのマンション玄関に靴の有無は関係ないのだが、動転した悦巳はリビングと廊下の境のドアを開け閉め、行きつ戻りつ叫ぶ。
 「どうすんだよ、どうしようもねえよ、だって俺のせいじゃねえしコンセント抜けてるなんて知らなかったし……家電の反乱?昨日洗濯機を悪く言ったから怒ったのか、家中の家電が手え組んでストライキおこしたのか?まあいいやそれはうん、今重要じゃねえし、重要なのは今日はお弁当の日でみはなちゃんに弁当持たせなきゃいけなくて用意できなかったから」
 クビ。
 待ちに待ったお弁当の時間、にんじんに切り込みを入れ花に見立てた細工やそぼろを塗してあぶりだすアニメキャラの似顔絵など母親自慢の手作り弁当を見せっこして園児たちがはしゃぐ中、椅子に腰掛け俯くみはなを想像する。
 みはなの前には何もなくて、まわりの子たちがみはなちゃんどうしたの、お弁当忘れちゃったのと質問責めにする。

 『お弁当ないなんてかわいそう』
 『ママが作ってくれなかったの?』
 『ばっか、みはなちゃんとこはママいないんだぜ、パパと二人暮らしだもんな』
 『どうしてないのー?』

 みはなはテーブルの一点を見つめて言う。
 
 『冷蔵庫から腐った匂いがしたんです』

 「死体か!」
 駄目だ、これでは悦巳が殺人を犯した上に冷蔵庫に死体を隠蔽した凶悪犯になってしまう。元から犯罪者だけど。
 おままごとで捨て猫役を割り振られる事からおのずと察しがつくがみはなの立ち位置はかなり微妙で、もともと無口無表情で何を考えてるかわからぬみはなは同年代の子供から浮いていて現時点ではいじめにこそ発展してないがそうなるのも時間の問題で、悦巳のミスのせいで孤立と偏見に拍車がかかってしまうのだけは断じて避けたい。
 とにかくなんとかしねーとなんとか……
 刻々と迫りつつあるタイムリミットに焦燥が陪乗で比例し葛藤を呼ぶ、アイディア来い来いと一心に念じ広く清潔なシステムキッチンを徘徊するうちに無為に十分が経過。
 「……上等っす、米寿の年寄りさえころりと騙す詐欺師の本気見せてやろうじゃないっすか」
 目をつぶり深呼吸ひとつ、料理の邪魔にならぬようヘアバンドできつく前髪を矯める。
 速攻で精米機のレバーを引き適量の米を出す、蛇口をひねり水を出す、洗う、研ぐ、しゃかしゃかしゃかしゃかリズミカルに切れよく殺気立って腕を回しすすぎ洗い、白濁した水を盛大に捨て新たな水に浸して炊飯器にセットしタイマーをかける。
 義務教育中に受けた家庭科の授業が役に立った。
 「問題はおかずか……」
 ご飯が炊き上がるのを待つあいだ落ち着きなく足拍子をとりつつ頭の中で限られた選択肢のカードを広げる。冷凍食品は全滅、今から手っ取り早くできるものといったらウィンナーか玉子焼きかミートボール……
 「できねえよ!」 
 シンクに頭突きせんばかりに突っ伏す。
 炊飯器に米をセットした時点で力尽きた。
 限界だ、もう無理、何も思いつかない。
 瑞原悦巳は最低の役立たずだ。
 無能無知無力と三拍子揃った生活能力底辺人間だ。
 十九年も生きてきたのに料理ひとつ満足につくれず、洗濯機ひとつ満足に使いこなせず、あげくたった四歳の子供に迷惑かけつつ手伝ってもらう始末。
 俺、今まで何をやってきたんだろう。
 何の罪もない年寄りを騙し裏切り財産を掠め取ってのうのうと遊んで暮らして、家事も炊事も何ひとつできないくせに必ず見返してやるなんて誠一に憎まれ口叩いて、親の顔も覚えてない施設育ちで最終学歴高校中退で十代の頃から腐れ縁の悪友とつるんで不良ぶって盛り場ぶらついて正規の資格と呼べるものは普通二輪の免許ひとつ持たず、何ひとつ、本当に何ひとつできやしないじゃないか。

 『下品な人間が淹れるとテーストのグレードが落ちる』
 「……どうせ育ちも頭も悪いっすよ、あんたとはものが違うんすよ最初から」

 自己嫌悪の裏返しの怒りだとわかっていても、何から何まで完璧な誠一の台詞は、悦巳がこれまで依って立ってきたちゃちなプライドをひどく傷つける。
 急沸騰する感情に歯噛みし、ほどいたエプロンをやけっぱちの勢いでカウンターに叩きつける。
 紅茶ひとつ主人の要望どおり淹れられないくせに実力を勘違いして弁当をつくるなどおこがましい。
 逃げるか、また。
 今なら誠一はいない、みはなはまだ寝ている、逃げるなら今だ、さあ何食わぬ顔をして玄関から出て行け……

 もともと場違いだったんだ。
 他人に奉仕するなんて詐欺師のがらじゃないだろう、罪滅ぼしのつもりか瑞原悦巳?

 考える前に体が動く。 
 流浪のはてに漸くありついた職、攫ってもとい拾ってくれた誠一への恩義、漠然と湧き始めたみはなへの愛情までいかぬ愛着、それら全ての未練を強引に断ち切り振り切り捨て去ってつんのめりがちに玄関へ直行、脱ぎっぱなしのスニーカーをつっかけ踵を踏んづけドアを開け放つ-……

 開け放つドアの向こうに日光を遮蔽し黒々と鉄壁が聳え立つ。
 「どこへ行く」
 頭のてっぺんからつまさきまで黒尽くめ、絞り上げた筋肉が鎧う体躯からこれでもかと圧縮したプレッシャーを放射しつつ、逆光の影になった巨漢が口を開く。
 「もうすぐみはなさまが幼稚園に行く時間だが」
 「ラ……」
 「ランナウェイ?」
 眉根が剣呑に動く。窒息せんばかりの威圧感が膨らむ。
 「……日課のラジオ体操に……家ん中じゃおもいっきり腕ふれねーし、物にぶつけて壊しちまうとまずいし、さわやかな朝の空気吸いたいかなーなんて」
 「ベランダでやれ」
 「ベランダはちょっと……ご近所の晒し者になるの恥ずいし誠一さんの外聞も悪いかなって」
 「ベランダでやれ」
 「……はい」
 さりげなく油断なく背広の合わせに手を添え拳銃の存在を匂わせる黒スーツに促され、絶望にふらつく足取りで玄関に引き返し、後ろ手にドアを閉ざす。
 バタン。
 「監視忘れてた俺の馬鹿……!」
 ドアに背中を預けずりおち頭を抱える。分厚いドアを隔てていても本物の戦場を駆け抜けた者だけが持つ殺気が漂ってくるかのようで生きた心地がしない。
 どうする?
 逃げたくても厳重体制で見張られていて現実として逃亡不可能マンション周辺には黒スーツの仲間が潜伏し通信機で連絡を取り合い網を張る、悦巳がマンション正面玄関から姿を見せようものなら娑婆の空気を味わう暇もなく蜂の巣の運命が待つ。
 死か弁当か究極の二択。
 どうしてこんなことになっちまったんだ、契約書にサインした俺の馬鹿と後悔しても手遅れ、所詮ケチな詐欺師にすぎない自分に家政夫なんかつとまるはずないだろうと苦悩に歪む顔を膝におしつける。

 『私が子供の頃はみんなおなかを空かせていたわ』

 「!」
 脳裏に起死回生の名案が閃く。
 耳元に舞い降りた華の声がおっとり優しく示唆を与え、次の瞬間俊敏に身を翻し冷蔵庫に向かうや扉を開け放ち、中をひっかきまわしてどこの家庭にも絶対あるはずの食卓のお供を捜す。
 「肉も野菜も魚も調味料だってそろってんだからあれがないはずねえ……」
 予感的中、ついにめあてのものを見つける。
 「めっけ!」
 紀州産の墨痕匂い立つ櫃の中にみっしり詰まった皺くちゃのつぶ、潤沢に湧く唾液の洪水を嚥下、タイマーが鳴ると同時にふたを開ければ水蒸気が濛々と顔を洗う、傍らのしゃもじを掴むや手首にスナップを利かせ空気をいれて混ぜ返す。
 炊きたてつややかなご飯をしゃもじで均しぎっしり詰め、真ん中に特大の梅干をのっけて完成。
 
 日の丸弁当。

 米一粒一粒が燦然と光沢放ちほっこり膨らむご飯の平原に、ただ一粒の赤が鮮烈に際立つ。
 食欲誘う匂いに別れを告げ、ミッフィーのイラストがついた巾着に弁当箱をしまう。
 「……………はは」
 終わった。長い戦いだった。封印はすんだ、あとはもうどうとでもなれ。
 顔に伝う汗を拭う悦巳のもとへ、体重の軽い足音とともに平均より小柄な幼女がやってくる。
 「もうすぐ幼稚園に行く時間ですよ」
 「みはなさん、はい、お弁当」
 まだパジャマ姿のみはなに巾着を押しつける。
 時計を見れば八時二十分、どうにか幼稚園に間に合いそうだと安堵。
 「みずはらさんが作ったんですか?」
 「……最初に言っとくけど、その……見た目は悪いけど味はしょぼいというか、でも量だけはたっぷりあるから、みはなさんにはまだ早い大人の味がするかもしれないけど、早い時期に人生の酸っぱさを味わっとくのもいい教訓になるとみずはらは思うっす」
 しどろもどろ目を泳がせ言い訳する悦巳を毅然と見上げ、ふっくらした手できゅっと、大事そうに巾着袋を握りしめる。
 「みはなはもうすぐ五歳です。あかちゃんじゃないので好き嫌いはしません」
  
 
 『奥さんあれですよ、お子さんに日の丸弁当を持たせた……』
 『よりにもよって日の丸弁当なんてねえ……育ちざかりの子がご飯に梅干ひとつでおかずなしなんて可哀想だわ、虐待じゃないの』
 『人当たりよい好青年だとおもってたけどとんでもない』 
 『みはなちゃんおうちでちゃんと食べさせてもらってるのかしら……ろくなもの食べさせてもらってないから背が伸びないのね、可哀想に』
 脳裏で悶々と妄想が膨らむ。
 陰口叩かれても自業自得だとわかっているが、みはなを迎えに行く足取りは鈍り、憂鬱なため息が口をつく。
 仕方ない、やるだけのことはやった。
 いくら冷蔵庫に豊富な食材が収納されてたって悦巳自身に調理の技能がなければ生かせない、ならば小細工なしの真っ向勝負にでるっきゃない。
 みはなには悪いが、恨むならこんなダメ家政夫を採用した父親を恨んで欲しい。
 「カップ麺やコンビ二弁当よかましだよな……」
 自分に向け気休めを言う。
 前方に幼稚園が見えてきた。
 門の向こうから響く喧騒にますます気分が重く滅入る。
 開け放たれた門の向こう側は既に保護者たちで賑わっていた。仲の良い者どうし輪を作って談笑する保護者たち、今日の話題は各自子供に恥をかかせぬよう張り切ったお弁当で持ちきりだった。
 「ママ、こうたくんのお弁当すごかったんだよ!ガチレンジャーのお顔が描いてあったの!」
 「あきちゃんのお弁当ね、りんごがうさぎさんだったの!ウインナーはたこさんだったの!」
 「ウニクリームコロッケすっごく美味しかった、また作ってー」
 舌足らずな声で甘える子供たちに母親もまんざらでもない笑顔を返す。
 各自持参したお弁当の中身について無邪気な感想と主婦の目から見た批評が飛び交う中、顔を伏せがちにし足早に園内を突っ切る。
 今日は長居したくない、早くみはなを連れ帰ろう。みはなはどうしてるだろう。教室の片隅で膝を抱えいじけてるだろうか、弁当箱をなげつられやしないだろうか。
 回れ右で引き返したい衝動が襲う。
 まわりの園児は満面の笑みで母親にまとわりつき、どのおかずが美味しかった、誰々くんのお弁当がすごかったと興奮に頬を染め報告する。二週間に一度のお弁当の日、お母さん方はさぞかし気合を入れたのだろう。我が子の喜ぶ顔が見たいという愛情と、保護者仲間に見栄を張りたいというほんの少しの下心を原動力に早起きして頑張ったのだろう。前日から準備してた猛者もいるかもしれない。
 悦巳がみはなに託したのは苦し紛れのやっつけ弁当で、おかずなんて梅干のほかになにもない質素を通り越し貧相な代物で、何も知らず期待に胸膨らませふたを開いたみはなの失望を思えば、短い間ですがお世話になりました捜さないでくださいと一筆したため失踪したい誘惑が強まる。
 ミッフィー柄の巾着袋をきゅっと握る手が瞼の裏を過ぎり、とうに麻痺したはずの罪悪感が疼く。 
 「あら、悦巳くん。今日は遅かったのね」
 「ちわっす。迎えにきました」
 「みはなちゃん、悦巳おにいちゃんが迎えにきたわよー」
 保育士が呼ぶ。
 教室の隅、一人積み木で遊んでいたみはながおかっぱを揺らして振り向く。
 絡み合う視線に時が凍りつく、空気が張りつめる。
 ぎこちなく笑い片手を挙げる悦巳、みはなは積み木を組む手を休め口を開き……
 「梅干のおにいちゃんだ!」
 「え?」
 歓声が湧く。教室に居残っていた園児が数人、それぞれ手にした遊具やクレヨンやお絵かき帳を放り出して悦巳に駆け寄る。
 保護者の長話に退屈しきっていた園児も便乗し、興奮に上気した面持ちで悦巳を指さし、親の手を引っ張って叫ぶ。
 「ママ、梅干のおにいちゃんだよ!」
 「みはなちゃんのお弁当すごいの、真っ白いごはんに梅干ひとつだけのってておもしろいの!」
 「お父さんの代わりにお手伝いさんが作ったんだって」
 「違うよ、カセイフさんだよ」
 「カセイフさんは女の人、男の人がカセイフなんておかしいよ」
 「でもカセイフさんだもん、みはなちゃんがそう言ってたもん」
 「うさぎさんのおめめみたいで可愛いの」
 「ぼく知ってる、コーハク弁当っていうんだよね。なんかいいことあった日にしか作らないトクベツなお弁当」
 「えーコーハク弁当はちがうよーそれはおまんじゅうだよ、おじいちゃんの仏壇に飾ってあるもん」
 「白と赤でくっきり分かれてすっごく面白いの、ねえおかあさん今度ななみにもおなじの作って、まっしろとまっかでキレイに分けて」
 開いた口が塞がらない悦巳のもとへ一人また一人へと園児が駆けつけては、無遠慮に服の裾を引っ張り膝にまとわりつき両腕にぶらさがってぼくにも私にも作ってと要求する。
 「ちょ、たんま、服が伸びっから引っ張らないで腰回りゴムだから穿けなくなる!」
 「今度のお弁当の日も梅干ごはんにして」
 「今度は梅干ふたっつでうさぎさんの顔にして、ね、約束!」
 膝小僧に絆創膏を貼ったわんぱくな悪ガキからおしゃまな女の子まで、走ってくる途中で合流し二、三人規模から五、六人規模にまで膨らんだ集団が、純粋さきらめく尊敬のまなざしで取り囲みじゃれつく。
 予想に反し珍しい物好きな園児に大好評を博した手製弁当に戸惑い、押し合いへし合う園児の大群に揉みくちゃにされふらつく悦巳を微笑ましげに眺め、保育士が言う。
 「今の子は日の丸弁当知らないみたいなんです。みんなみはなちゃんのお弁当にびっくりして、自分のお弁当ほったらかして集まってきちゃって」
 子供を庇護し育てる者特有の慈愛に満ちた目で続ける。
 「今日のみはなちゃん、大人気だったんですよ。いつもは教室の片隅で一人大人しくご本を読んだりお絵かきしてるんですけど、あんなお弁当見たことない、おかずなくて平気なの、大丈夫だよ梅干が酸っぱいからちょうどいいってほかの子と話が弾んで……普段はね、あんまりおしゃべりしないんです。入園してから一番しゃべったんじゃないかしら」
 「そ……う、なんすか」
 災い転じて福と成す成り行きに命拾いしたものの、釈然とせず笑う。
 「すいません、今日時間なくて、実は冷蔵庫の電源が抜けててご飯炊くだけで精一杯でおかずまで手が回んなくて……正直どうかなって思ったんすけど手ぶらよりましだし、遅刻しちゃうとやべえし、俺、なんつうかテンパって」
 「ホント言うと心配してたんですよ、みはなちゃんの事」
 保育士の顔が曇る。
 「みはなちゃん、毎回仕出し弁当だったから」
 「仕出し弁当?」
 「そう、某高級料亭の仕出し弁当。ひとつ何万円って値段がつく。芸能人や政治家が食べるような漆塗りの立派な重箱に色んなおかず入れて二段重ねたやつを包んで来るの、毎回。ほら、巾着じゃあ入りきらないでしょう」
 「はあ……重箱っすか?え、おせち?」
 「お父さんが仕事で忙しいからお弁当の日はお店に注文して届けさせてるんですって。みはなちゃん小食だからいつも半分も食べきれなくて可哀想だった。うちの幼稚園ご飯が終わるまではお外出ちゃいけない決まりになってるから、休み時間いっぱい、ずっと一人ぼっちで居残りさせられて」
 「……あの人……誠一さんは知ってるんすか?」
 保育士は首を振る。
 「言わないでくれってお願いされたの。……本当なら食べきれる分だけ持たせてくださいってはっきり言うべきなんだけど、その……みはなちゃんにお願いされるなんてめったにないから」
 食べきれない程豪勢な仕出し弁当は、仕事が多忙で構ってやれない分も兼ねた愛情表現なのか。
 保育士の気持ちは、わかる。共感さえ抱く。いつもわがままひとつ言わないみはなにお願いされたら特別に聞いてやりたくなるだろう。保育士としては間違った判断でも、みはなの気持ちを尊重する姿勢に好感をもつ。
 「…………」

 子供だからだませるだろうって、
 ありあわせの適当でいいやって。

 「みずはらさん」
 帰り支度を整えたみはなが靴に履き替えこちらに赴く。
 右手には口を絞って結んだ巾着。中には弁当箱が入っているのだろう。
 そういえば、戸棚から出したミッフィーの弁当箱はほぼ未使用の状態の輝きを保っていた。
 「おべんとう、おいしかったです」
 みはなが歩く。
 歩行に合わせ巾着が揺れ、中のお弁当箱がかちゃかちゃぶつかりあう。
 
 俺は。
 俺は。


 悦巳の正面まで歩いてくるや、保育士に優しく背中を押され一歩を踏み出し、表情を決めかねてるみたいに口元を結んではほどきをくりかえし顎を引く。
 初々しく染まる頬に、頑固そうな光を宿す目に、こみ上げるものを噛み殺す口元に、はにかみともはじらいともつかぬ淡い感情の波紋が立つ。
 「またつくってください」
 精一杯の勇気を振り絞り、両手にのせた巾着をさしだす。


 俺は、バカだ。





 悦巳は弁当にまつわるいい思い出がない。
 遠足や運動会、小中学校における行事では両親そろった家庭の児童とおなじく施設の子供たちも弁当を持たされた。
 施設の子だからと特別扱いはされない。
 そんなことをしたらかえって他の子供たちの反感を買う、微妙な均衡を崩してしまう。
 弁当の中身が他の同級生と比べ格別質素で劣っていたとか残飯を詰められていたとか、そんな事もない。
 施設の職員は遠足や運動会の行事となると早起きし、児童の人数分の弁当作りに精を出した。
 施設の子だからとばかにされないよう、親がいないからと後ろ指さされないよう腕を振るった。からあげを揚げ、芋の煮っ転がしを作り、甘辛だれの肉団子を練り上げる。いずれも子供たちに人気のメニューだ。
 が、唯一にして最大の盲点があった。
 施設の子供たちが持参した弁当は、中身が全ておなじだったのだ。
 から揚げも芋の煮っ転がしも甘辛だれの肉団子もおなじ配置、えこひいきだと後で揉めないようきっちり同じ数だけ詰まっていて、味付けも全く同じで、同じクラスに施設の子がいなければバレずにすむだのだがもし不幸にも居合わせてしまった場合、その酷似は一目瞭然からかいの種となる。
 「ねえ、なんでおまえらって弁当おなじなの?シセツの子だから?」
 揶揄されるならまだいい、失笑を浴びるならまだいい、一番辛いのは同情だ。
 「しかたないよ、お母さんがいないんだから」
 「気にしちゃだめだよ瑞原くん。そのからあげおいしそうだね、交換しようか」
 好きな子からの哀れみだ。
 小三の時だった。
 今でもはっきり覚えてる、忘れたくたって忘れられない。
 学年合同の遠足で行った山の頂上で班ごとに分かれ昼を食べたのだが、ふたを開けた途端頬に熱が爆ぜた。
 最初にそれに気付いた悪ガキどもがシセツの子シセツの子とはやしたて、当時同じ班だった女子が弁当に箸をつけず頑なに俯く悦巳を甲斐甲斐しく庇う。
 悦巳は真面目で優しいその子が好きだった。
 初恋だった。かっこつけたかった。
 山に登る途中列が乱れて偶然隣に並んだあの子にこっそりのど飴あげたら「ありがとう」って笑ってくれた、その笑顔を間近で見れただけで胸がはちきれそうに幸せだったのに。
 いたたまれずその場を逃げ出した。 
 ビニールシートの上に弁当の中身をひっくりかえし、担任のあせった声に鞭打たれ鬱蒼たる藪の中へとびこんだ。
 走って走り続けて迷子になって、服から出た部分をさんざん蚊に食われ痛痒くてたまらなくって、昼抜きの腹はひもじく鳴って。

 悦巳はあの時誓ったのだ。

 自分が作る側になったら同じ思いは二度とさせない。
 精一杯の愛情と最大限の手間をかけて、この世にふたつとない、世界にたったひとつの弁当をつくってやる。
 誰にもまねされないまねできない、食べた人が笑ってくれる、笑顔でごちそうさまを言い終える事ができる弁当を作ろう。



 幼い初恋が破れた日に、瑞原悦巳は誓ったのだ。


 
 『料理に大切なのは食べてくれるひとへの思いやりよ』


 なんで忘れていたんだろう。


 斜めに傾いだ紙袋から数冊の本がなだれる。
 「なんだこれは」
 「今日買ってきた料理本っす。中華、イタリアン、和食、洋食……とりあえず目についたの片っ端から」
 眉間に疑問の皺を刻む誠一とテーブルを隔て対峙、机上に散乱した本に平手をつく。
 「デリバリーに甘えんのやめました。今日から本気で料理勉強します、みはなちゃんが笑ってごちそうさまって言ってくれるような飯を作ります。作ってやりますよ、ええ、俺だってやればできるんす、今まで本気出さなかっただけっす、逃げてたんす、だけど日の丸弁当が今の俺の最善で最高の実力とか思われちゃさすがに男がすたるっす、俺いま幼稚園じゃ梅干のおにいちゃんて呼ばれてるんすよ!?」
 「梅干?」
 「いえ、すいません、こっちの話っす」
 お洒落に盛り合わせたパスタの写真が表紙を飾る本を、全身に闘志の炎滾らせ勇み立ち誠一につきつける。
 「みはなちゃんの弁当はこれから俺が作りますから」
 「パスタを?」
 「弁当にパスタ入れるヤツがありますか」
 みはなは即席の日の丸弁当をとても喜んでくれた、他の園児たちも目を輝かせすごいすごいと賞賛する、だけどちがうのだあれは、巾着袋をきゅっと握りしめる無垢な手と華の噛めば噛むほど味が出る教訓とが悦巳をがむしゃらに駆り立てる。
 そう、がむしゃらに。 
 「めざしてやろうじゃないすか、市原悦子も泡吹いて卒倒する無敵の万能家政夫を」
 手作り弁当をほめられたというのに胸に広がるのは罪悪感と敗北感と屈辱感、称賛に値しない仕事で評価を固定されたくないと誰にも譲れないちゃちなプライドが叫ぶ、子供の頃の自分はどうした、職員が悪かったわけじゃないと頭ではわかってる、だけど呪った憎んだ全く同じ弁当の中身を取り替えたって見分けがつかないおかずを恥じて逃げたじゃないか?

 猛烈な剣幕で料理本をたたきつけ、妥協を許さぬまなざしで宣言。

 「……華さんの教え生かさなきゃ、俺、なんのためにあいつらから逃げ出したかわかんないす」
 みはながベッドに潜った後、誠一と向き合い洗いざらい気持ちを吐露した悦巳は、テーブル上にぶちまけた料理本を一冊一冊丁寧に拾い集め胸に抱くや、不可視の炎の如きヤる気を沸々と滾らせ台所へと戻っていく。
 「飯まだっすよね」
 「……ああ」
 
 どうせつくなら、完璧に嘘をついてこそ詐欺師だ。
 
 腕振りかぶり颯爽とエプロンを羽織る、華から得た教訓を噛み締め反芻、己を鼓舞しきゅきゅっと切れよく引き締まる動作で紐を結ぶ、料理本の一冊を手早く開いて調味料と材料を用意、一瞬閉じた瞼の裏に浮かぶ巾着を握る手、また作ってくださいと精一杯の勇気をふりしぼって懇願するみはな、ガスの元栓を開いて水を汲んだ鍋を火にかけ一段落、振り返るなり真剣な眼光に似合いの不敵な表情で誠一を射抜く。
 「食後にほうれん草の灰汁で淹れた紅茶をごちそうします」
 「鍋から目をはなすな、吹きこぼれるぞ」
 料理ド素人の悦巳はあちこち駆け回り、カップを割り食器を落とし、しかしそれでもへこたれず危なっかしくフライパンを操り、肉眼ではなく連鎖する旋律でその奮闘ぶりをまざまざ瞼の裏に思き、うっすら笑んでひとりごつ。
 「……少しは自覚が芽生えてきたじゃないか」
 「そだ、忘れねーうちに」
 台所から素っ頓狂な声。料理途中のフライパンを左手に預けリビングへ引き返し、ポケットからレシートを引っ張り出す。
 「なんだこれは」
 手渡しの領収書に当惑する誠一にしてやったりと笑いかけ、反対側の親指を立てる。
 「書店で切ってもらった領収書っす。お二人の食生活改善の為、および家政夫スキル向上の為の必要経費で落としてください」
 
 結論として、瑞原悦巳は転んでもただでは起き上がらない男であった。
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