オレオレ御曹司

まさみ

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三話

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 「一人暮らしだと食事に張り合いなくてねえ、やっぱり食べてくれる人がいなくっちゃね」
 『ばあちゃん自分で作ってんの?ヘルパーさんとかがやってんじゃないの』 
 「最近はね。どうしてもね。年とるとやっぱりだめねえ、すっかり足腰が弱って包丁握るにしたって手が震えておっかないし、恥ずかしいけどヘルパーさんにやってもらってるわ。本当は自分でやりたいんだけどね、味つけは好みがでるから。うちに通ってくれるヘルパーさんはとっても料理が上手なんだけど、少し味つけが濃すぎるの」
 『人が作ってくれんなららくちんじゃん。自分は動かなくていいし』
 「召し上がれを言う人がいないと寂しいものよ。ご馳走様もね」
 『ふーん』
 「年寄りに濃い味は辛くてね……せっかく作ってくれた方にわがまま言っちゃ悪いし、私が我慢すればすむことだから」
 『んなことねーよ、わがままなんかじゃねえって。金払ってんだから希望はじゃんじゃん言ったほうがいいよ』
 「私のお金じゃないわ、息子のお金よ。……もう何年も会ってないけどどうしてるかしら、電話もめったにかかってこなくて……でもね、悪い子じゃないの。とってもいい子よ、息子も娘も私にはもったいないくらいの。今じゃ立派に成長して家庭を作って……上の息子は会社を経営してるの。夫から継いだ会社。最初は小さい会社だったんだけど親子二代で頑張ったおかげですっかり大きくなって鼻が高いわ。……それで、なんだったかしら。そう、お料理よ。この年になると油ものはきつくてね、ヘルパーさんもそこのところはちゃんとわかってるからお味噌汁とかおひたしとか煮物を作ってくれるんだけど……お芋の煮っ転がしひとつとってもちょうどいいほくほく加減に仕上げるのはむずかしいの。仕方ないわよね、それぞれのおうちに違った味があるんですもの。長年馴染んだ味はそう簡単に忘れられないものよ」
 『そういうもん?ぴんとこねーなあ。煮物とかおひたしとか全然食わねーし……和食ってどうも苦手でさ』
 「今の若い子はそうかしら。残念ね、とっても美味しいのに」
 『ばあちゃんの煮物は食ってみたいな」
 「おれおれさんの好物はなにかしら?」
 『俺の好物ねー……マックリブ、吉牛、あとオニポテとケンタッキー。がっつり油もん最高』
 「カタカナが多いわねえ。外食は体に毒よ。自分でお料理はしないの?」
 『したくてもできねーって。ファーストフード命』
 「私が子供の頃は貧しかったからね、食べるものなんかなくてね……」
 『戦争?』
 「そうよ。疎開したの。疎開先でも食糧不足でみんないつもひもじい思いをしていたわ。戦争が終わってしばらくしてもやっぱり食べ物がなくってね、闇市で物々交換が主流だったわ。学校が再開されてまたお勉強ができるようになったのとお友達と遊べるのは嬉しかったけど、つらいのはお弁当の時間。お弁当を持ってこれる子はほんの一握り。貧しい子は手ぶらだったわ」
 『手ぶら?昼抜き?』
 「そう。お弁当っていったっておかずがついてるだけで贅沢だってまわりに羨ましがれる時代の話、殆どの子は日の丸弁当だったわ。知ってる?白いご飯の真ん中にちょこんと梅干をのっけた……』
 「あれか!」
 『お弁当の時間になると人目につかないよう校庭の隅っこに行ってこっそり食べるの。おかずがないとやっぱり恥ずかしくって……お昼を持たせてもらえなかったんでしょうね、手ぶらで校庭をぶらついてる子もいたわ。親だって意地悪してるんじゃないの、子供におなかいっぱい食べさせてあげたいって願ってる。仕方ないの、貧しく苦しい時代だったから……でもね、育ち盛りの私たちにとっては日の丸弁当だってご馳走だったのよ。ふたを開けると白いご飯がぱあっと輝いて見えた。ふっくらしたお米をかっこむと口の中にじゅわっと甘みと唾液が広がってね……」
 『じゅるり』
 「うちは特に貧しかったから。父が戦死してね、母がお針子やりながら女手ひとつで育ててくれたの。他に四人兄弟がいたから……日の丸弁当だって贅沢だったわ。いつもはね、新聞紙に蒸かし芋を包んで持っていったの。母には悪いけど恥ずかしかった。昼は校庭の隅っこに行って人目に隠れて食べたわ。いじめっ子にばかにされるのがいやで……やあい貧乏人、ててなしごって」
 『ててなしご?』
 「父親のいない子供のことを昔はそう呼んだの」
 『そうなんだ。俺ん時は施設の子ーとかだったけどな……いや、なんでもね』
 「夢中で頬張ると口のまわりにでんぷんの粉がくっついたわ。当時はひもじかったけど、今はいい思い出よ。母が包んで渡してくれたあのお芋、ふかふかでとても優しい味がしたわ……」
 『うわー話聞いてるだけで口ん中唾いっぱい。食いてー』
 「今はいい時代ね、食べ物がたくさんあって。私が子供の頃は粗食だったから、なんでも好きなだけ食べられる今の子が羨ましいわ。今の子はきっと日の丸弁当なんて恥ずかしがるでしょうね」
 『俺は嬉しいよ、ばあちゃんの手作り日の丸弁当なら美味しくいただいちゃう』
 「ふふ、お世辞の上手いおれおれさんねえ。でも……そうね、忘れていたわ。料理に一番大切なのは思いやり。忘れていたわ、あんまり一人で食べる事が多くて。食べてくれる人への愛情を入れ忘れちゃどんな素敵な料理だって味けないものね。ああ、なんだかとっても母の蒸かし芋が食べたくなってきたわ」


 家政夫の仕事初めは洗濯機の使い方と工程を覚えることだった。
 「おっとっと」
 両手に抱えたプラスチックのかご、そこに山と詰まれた洗濯物が視界を遮りけっつまずく。
 行儀悪くドアを蹴り開けて浴室へ、洗濯機の前にどっかとかごを置き、かいてもない額の汗を拭いため息。
 「えーっと……適当にボタン押しゃいいんすよね?」
 誰に確認するでもなく口の中で呟き、洗濯機のパネルに埋め込まれたボタンを睨み、さまよう指でタッチしかけては引っ込める繰り返しで悩む。
 自慢じゃないが洗濯は昔から近所のコインランドリーに任せきりで、脱水とかすすぎとか乾燥とか工程をしるした表示を見てもなんのことやらさっぱりわからない。
 とりあえず全自動ということはボタンを押せば勝手に洗濯してくれるのだろうと早合点、なんだ簡単じゃんとほくそえみ威勢よくふたを開けてぽいぽい洗濯物を放りこんでいく。汗臭いシャツ、染みのついた子供服、ハンカチ靴下下着類につい先日まで自身が着ていた灰色のスウェットをまとめて投入しふたを閉めパネルと向き合い、いざ。
 「ぽちっと」
 「いけません」
 不発。
 開けっ放しのドアからちょこんと覗くおかっぱ頭。視線を落とせばみはながいた。ドアの隙間から顔を覗かせ、じっと悦巳の行動を監視している。
 「どうしたんすかみはなちゃん、むこうでお絵かきしてるはずじゃあ」
 振り向いて陽気に声をかける悦巳には返事せず、ドアの隙間からうんしょうんしょと何かを後ろ向きに引っ張ってくる。みはなが床を引きずり持ってきたのは踏み台代わりに使用している子供用の椅子。普段は台所に置いてあるのをわざわざ持ってきたらしい。
 脚は白く塗られたちゃちな金属製で座面はナイロン、カバー部分には口元バッテン印でおなじみのミッフィーが印刷されている。
 余談だがみはなはミッフィーが大好きらしく、洋服や鞄、ハンカチをはじめとした彼女の持ち物にはこのうさぎが多く描かれている。みはな自身どこかミッフィーに似てるなと悦巳は思う。特にバッテンじるしが表す口元が、無口無表情で妙に頑固なみはなを彷彿とさせ微笑ましい。
 みはなは自主性に恵まれていてトイレもお着替えもお風呂もなんでも一人でこなす。悦巳が手を貸す必要など最初からほとんどない。悦巳にしても職員の手が回らない分まで年少の世話に追われた施設育ちの前身と詐欺師にあるまじきお人よしで面倒見がよい性格がプラス方向に働いて、とりあえずこれまでのところみはなとは波風立てずやってこれた。
 右も左もわからない、技能値のまっさらな新米家政夫には困難な課題が山積み。
 父子ふたり暮らしには贅沢すぎるほど広く部屋数が多い住居は掃除機をかけるだけで一苦労、いい運動になる。
 それに比べれば幼稚園への送り迎えはさほど苦じゃない。
 幼稚園からは送迎バスもでているのだが、みはなは徒歩十五分の比較的近い距離に住んでいるため入園からずっと歩きで通ってるそうだ。一日中家にこもってたら息が詰まるし体が鈍る。もともと悦巳は外で体を動かすのが好きなタイプで、往復三十分の道のりは散歩も兼ねる気分転換になった。愛想がよく口が上手い悦巳はまたたくまに他の園児のお母さん方や若い保育士に取り入って、今じゃちょっとしたアイドルに祭り上げられている。 
 洗濯機の正面に位置をこまめに調整し椅子を固定、その上にのぼる。
 へりに手をかけ爪先立ち、興味深そうに洗濯機の内部を覗きこむ。
 あんまり身を乗り出すものだから爪先が浮き、足場が不安定にぐらつく。
 「落ちちゃいますよ、みはなさん」
 やじろべえのようにぐらつく体を腋に手をさし入れ引き戻す。
 悦巳にぶらさげられたみはなが不思議そうに目をしばたたく。 
 「落ちたらどうなりますか」
 「ぐるぐる回ります」
 「回ったらどうなりますか」
 「バターになります」
 「おいしそうですね」
 ごくかすかに微笑んだみはなだが、すぐまた大人びて澄ました表情に戻り、爪先だった姿勢で傍らを仰ぐ。
 「洗剤を入れないと洗えませんよ」
 「あ」
 これがほんとの空回り。
 悦巳としたことが洗濯の基本事項、洗剤と柔軟剤の投入をド忘れしていた。固まる悦巳を冷静に一瞥、椅子を降りてキャビネットの下へと運び下から二段目の棚から洗剤の箱と柔軟剤を掴みだす。自失状態から回復した悦巳はあたふたフォローに回る。みはなの後を追って椅子を持ち、それを再び洗濯機の前に据え、小柄なみはなが前に乗り出しすぎて落ちないよう腋の下に手を入れ支え持つ。
 洗濯機の内部上段に組み込まれた仕切り箱の片方に粉末洗剤を大匙五杯、もう片方に液体状の柔軟剤を注いで収納。
 「おうちの洗濯機は全自動なのでらくちんです。ボタンを押すだけです」
 「すごいっすねみはなさん、お風呂お着替えだけじゃなくお洗濯もひとりでできるんすね」
 「それほどでも」
 おだてればへの字の口元をむずつかせ謙遜する。
 かごを逆さにして洗濯物を投入、みはなと同時にスタートボタンを押せば洗濯機が一揺れ、ごうんごうんと低く単調な電動の唸りを発して攪拌を開始。他愛ない好奇心から水位が上昇しつつある空洞を覗き込めば、遠心力の効果で水浸しの洗濯物が旋回しみるみる汚れ成分が分解されていく。
 「ずっと見てると目が回りますよ、みずはらさん」
 「面白えからもうちょっと」
 断続的に振動し稼動する洗濯機の前に大小並び、片方は椅子の上で伸びをし、片方は前傾姿勢をとり、遠心力と水とが相乗し洗濯物を攪拌する渦巻きの法則を熱心に観測する。
 悦巳に感化されたか、みはなはただでさえ大きな目を好奇心に溌剌と輝かせ、シャツが袖を泳がせ浮き沈み泡立つ水の中を覗きこむ。
 みはなは素直で手のかからないとてもいい子だ。放っておいても一人で大人しく遊んでいる、お片付けもちゃんとする、クレヨンを床に散らかしっぱなしにするような事もない。きちんとしすぎていて逆に心配になるくらいだ。
 家電の仕組みに興味津々、探求の情熱に突き動かされごうんごうん回る洗濯機をのぞきこむみはなへと、何食わぬ顔で話しかける。
 「昨日も帰ってこなかったすね、誠一さん」
 「お仕事が忙しいですから」
 「夕飯はどうしてたんすか。いつもひとりで食ってたんすか」
 昨日一昨日と誠一は連続で家を空けている。仕事が忙しくて帰れないと家電に一応の連絡はあったのだが、それは悦巳の都合を無視しひどく一方的で、いつ帰ってくるのか問いただそうとリダイヤルしても秘書を名乗る女性が出て「社長は今お忙しいので一段落したらこちらからかけ直します」の一点張りで頑として取り次いでくれないのだ。
 思い出すだけで腹が立つ対応ぶり。
 「みずはらさんがくる前は黒いお洋服のおじさんたちがついててくれました」
 「ああ、例の黒スーツ組……て事は、お父さんとメシ食ったりはぜんぜんなし?一緒にお風呂入ったりも?」
 かすかに顎を引く。たぶん頷いたのだろう。
 時としてみはなの意思表示は注意して観察しないとそうとわからぬほど微妙なニュアンスをもつ。
 下から覗き込むようにする悦巳に、みはなは感傷を交えず淡々と話す。
 「おうちにはみはなひとりです。あのひとは夜遅く、みはなが寝てから帰ってきます。ですからあんまりおしゃべりしません。朝起きて幼稚園に行く時はもういません。おなじおうちに住んでても他人どうぜんなのです」
 「むずかしい言葉知ってんね……」
 親に甘えたいさかりの幼女の口から出た言葉にたじろぐ。この年の女の子といえば父親と一緒にお風呂に入ってはしゃいで大きくなったらパパと結婚するのお約束を口走るのが定番じゃないだろうか?一方、みはなのこの冷め方はどうだ。実の父親たる誠一を一つ屋根の下に住む他人と認識し、徹底してよそよそしく振る舞う姿には大人に期待するのをとうにやめてしまった諦観すら醸す。
 同じ家に住んでるというのにみはなと誠一は疎遠だ。
 若くして社長に就任した誠一の帰宅時間は不規則で生活習慣はすれ違い、一人娘のみはなとはろくに顔も合わせず口もきかない日々が続く。悦巳が家政夫として雇われる前は例の黒スーツたちが相手をしていたというが、連中はそろいもそろって迫力ある強面でお世辞にも子供受けがいい人種に見えない。漫画喫茶をものの数分で制圧してみせた手腕と組織力には震撼したが、銃火器や爆薬の扱い、市街戦の攻略についてはプロフェッショナルでも子供の扱いについては素人だろう。
 日本はいつから戦場になったんだ?
 「つーかみはなさん、あの人ってもしかしなくてもお父さんのことっすか?」
 みはなは無言で頷く。
 ……親子間の溝は深い。母親の不在が関係しているのだろうかと邪推が働く。
 洗濯機の唸る音がやけにうるさく響く。
 沈みがちな雰囲気を払拭せんと悦巳は殊更明るく話題をふる。
 「ずっと気になってたんすけど、誠一さんて何の会社やってんすか?黒スーツのひとたちってみんな部下なんすか?」
 「よく知りません。みはなのおじいさんが会社でいちばんえらいひとであのひとはにばんめだって黒いお洋服の人に教えてもらいました。にばんめにえらいからいちばんえらい人の代わりに色んなところと交渉しなきゃいけなくって、だからおうちに帰ってこれないんだそうです」
 「トップは威張ってふんぞりかえってりゃいいっすもんね、らくちんだ。お父さん頑張ってるじゃないすか。お仕事デキるパパかっこいいっす」
 「………」
 「いやー俺みたいな行くあてなしのフリーターとはやっぱデキが違うっすねー。サラブレットっていうんすかね、優秀っすよ。スーツも靴も一流どころ揃えてるし物腰も貫禄備わってるし人に命令する態度が板についてるし……」
 失敗した、みはなの表情がますます険しくなっていく。ことここに至り、誠一を擁護するのは逆効果だと遅まきながら気付く。
 そもそもなんで誠一のフォローまでしなきゃいけないのか、雇い主の尻拭いは家政婦の仕事のうちに入ってないぞ?
 そう突っ込みを入れつつもお節介の血が騒ぎ、今ここにいない誠一とふくれっ面のみはなの仲裁に入れば、思いがけぬ一言が投げつけられる。
 「みずはらさんはあの人のお気に入りですから」
 「俺が?」
 おもわず顔を指さし叫んでしまう。
 「嘘だ、こき使われてんのに。だってあの人おっかねーし偉そうだし契約事項破った場合死るのみだし俺の命なんか街頭で配られてる無料ティッシュくらい安くて薄くて軽いっすよ?」
 「黒い人たちの他におうちにつれてきたおともだちはみずはらさんが初めてです」
 「お友達じゃねっすよ、雇い主と召使いの聞くも涙語るも血涙の主従関係っす」
 悲劇に酔って脱力、ずるずる洗濯機に凭れる。へりを掴んだみはなが自分の顔を凝視しているのに気付き、視線を追う。
 「男の人なのになんでヘアバンドしてるんですか?」
 「これ?オシャレ。嘘、らくちんだからっす」
 百円均一で買った安物のヘアバンドを取り外せば、柔らかな髪質の前髪が額に沿って流れる。
 額を覆う前髪を指先で軽くさばき、笑う。
 みはなが目をまん丸くする。
 「……ちがう人みたいです」
 「やってみますか」
 うん、ともううん、ともつかぬ角度に首を傾げるみはなの前髪に素早くヘアバンドをくぐらせ秀でた額を外気に晒す。
 ヘアバンドで前髪を寝かしつけられたみはなは落ち着かなげに頭に触れる。
 「……似合いますか」
 「似合う似合う、でこっぱちってかんじ」
 「どういう意味ですか?」
 「おでこがちゅうしたいくらいキュートって意味っす」
 視線の高さを水平に調節、お母さん方の母性本能を直撃するとびっきりの微笑みを一発打ち出す。十人並みの容貌を自覚する悦巳だが、二十人もの年寄りを毒牙にかけた極悪非道な詐欺師とは到底思えぬほど晴れ晴れ冴え渡る笑みは闊達で快活な魅力を放つ。
 「………」
 両手を重ね額の真ん中を隠し、椅子から飛び降り逃げていく。
 去り際の頬はあざやかに上気していた。
 「……結婚詐欺師もイケっかな、俺」
 自画自賛し頬杖つけば、不吉な轟音とともに内圧が高まってふたがばたつき大量の泡が噴き出す。
 「ちょ、うわなんだいきなり、ボタン押したらあとは勝手に仕上がるはずじゃ……みはなさんカムバック、説明書説明書!!」
 あたかも罰当たりな発言を戒めるかの如く、洗濯機は縦に横に激しく揺れて透明な表面に七色の光沢のしゃぼん玉をとばし渦巻く泡の洪水でもって悦巳を飲み込むのであった。
  

 洗濯機の後始末は大変だった。
 「洗剤の量の確認を怠るなんて初歩的なミスだぞ」
 「違うっすよ、洗濯機がいきなり反乱おこしたんすよ、下克上っすよ。昔っから家電と相性悪いんすよ、俺。静電気体質なんすかね?CDコンポとかすぐぶっ壊れっし冬場なんか下敷きにさわっただけでバチッとくるし……下敷きで頭こすると毛が逆立つじゃねっすか、あれとおなじ原理っすよ!」
 不機嫌に足を組み説教垂れる誠一に向かい、ソファーに掛けた悦巳は情けない顔で弁解する。その手は長時間に及ぶ雑巾がけのせいで指紋が採取できぬほど漂白されふやけきってしまった。
 身振り手振りで洗濯機の反乱または下克上革命を主張するも誠一は頭ごなしに否定し、眉間に皺を刻んだ疲労の表情で首を振る。
 「言い訳はいい。人間の失敗を機械になすりつけるな」
 「……すいませんしたっす」
 洗剤の量を間違えた犯人はみはなだが告げ口はしない。
 みはなは右も左もわからぬ悦巳を見かね親切心から手伝ってくれたのだ、洗剤の量を間違えたのだって悪気はないのだろう、きっと。
 その日の夜遅く帰宅した誠一はネクタイをはずし、シャツにスラックスだけの寛いだスタイルで特等席に腰掛け、不服げに口を尖らす悦巳に言う。
 「その言葉遣いはどうにかならんのか?使うなら正しい敬語を使え、できないならタメ口で構わん」
 「ほっといてください、癖なんすよ」
 誠一には威圧感がある。一対一で向かい合うと自然と緊張してしまう、フランクに砕けた舎弟しゃべりは悦巳なりに誠一との距離を縮めようと考えた妥協案だ。 
 時間は夜十時を回り、みはなとっくにベッドに潜っている。規則正しく寝息を立てるみはなを確認後、寝室の電気を消してリビングに引き返した悦巳は、幼稚園の送り迎えに端を欲する今日一日の出来事、浴室にあふれた泡沫の顛末を簡単に報告したあと、おそるおそる探りを入れる。
 「いつも帰り遅いんすね」
 「ああ」
 「お仕事忙しいんすか」
 「暇に見えるか」
 シャツの襟元をはだけ、精悍に引き締まった首筋を外気に晒し息を吸う。しかめた眉間と疲れた顔に知的な色気が漂う。
 台所を一瞥、亭主関白な態度で聞く。
 「飯は?」
 「え」
 顔が強張る。刹那、誠一の目が怒りを孕んで据わる。
 「今日もデリバリーか?」
 「……ピザっす。あ、でもちゃんと栄養バランス考えてシーフードとハワイアン半々にしたんっすよ、サラダとナゲットにジュースも頼んでみはなさんと半分こして……ホントはコーラがよかったんすけど、口ん中ちくちく喉しゅわしゅわでいやだってみはなさんが言うから炭酸やめてジュースにしたんす。早くて安くて美味いなんてピザ最高っす、やっぱ豪快に素手でがっつくのが一番。あ、そだ、サービス券二枚綴りで貰ったすんよ!次回はナゲット無料で超ラッキー」
 意地汚くぱくつく手まねをし饒舌ふるう悦巳に反比例し、誠一の眉の角度は急峻に吊りあがっていく。
 いけない、また不興を買ってしまう。
 ポケットから出したサービス券をひらつかせご機嫌をとるも、悦巳が必死になだめすかしても誠一は憮然としたまま、無感動に呟く。
 「俺の分はないのか」
 「…………どぞ」
 平伏しつつ献上したサービス券は邪険に払われ宙を舞う。
 誠一はしばらく憤りを押し殺した暗鬱な目でじっとり悦巳を睨んでいたが、ため息ひとつソファーに深々と身を委ねて言う。
 「紅茶なら淹れられるだろう」
 鞭打つ一声を皮切りに、悦巳が家政夫として住み込み始めてから繰り返されてきた奇妙な儀式が幕を開ける。
 悦巳は心得た動作で台所へ行く。
 帰りの遅い暴君のために紅茶を淹れるのが家政夫に課された重要な仕事のひとつ。
 いかに雇い主が傲慢で身勝手で父親として放任主義を極めた無責任な男であっても置いてもらってる義理と義務は果たさねばならない。実態は弱みをつかまれているためいかに俺様暴君な雇い主が圧制を敷こうが待遇改善の陳情を訴えるなど言語道断で、ストライキにも走れず泣く泣く耐えるしかない。誰か誠一に人権という言葉を教えてやって欲しい。もうこれ以上出ないというのに繰り返し使われ干からびきった出涸らしティーパックさながら、安価な労働力として搾取され虐げられる運命を儚み切実に乞い願う。
 一体どういう心境の変化か、初日悦巳が淹れた紅茶を酷評した誠一はあれ以来帰宅して顔を合わせるごと紅茶を淹れろと命令する。自分は一人掛けソファーにふんぞり返ったまま、台所の悦巳が陶器のカップを荒っぽくがちゃつかせる音や湯を注ぐ音を聞き、悦巳が立てる物音にいちいち顔を顰めつつもけっして手は出さず不穏な気配漂う沈黙を守る。
 ここ数日でだいぶ紅茶の淹れ方が上達した。茶葉を直接カップに入れて上から湯を注いだ初日の失敗は犯さない。いびりとしごきの二重苦にいじましく耐える灰被りの気分でしずしずとティーポットを傾け、最後の一滴を手首を振って切りながら愚痴を言う。
 「……家帰ってきて開口一番飯は?って何様っすか社長さまっすか。大体俺が面倒見ろって言われたのはみはなちゃんだけであの人の飯作りまで契約事項に入ってねーし一昨日昨日は外食だったし、んでいきなり飯はとかわけわかんねっつの!飯はの一声と指ぱっちんでできたてほかほかの豪勢な晩餐出てくるか、大体俺が作れる飯っていえばカップ麺とぎりぎりチキンラーメン鍋でゆでたのに刻みネギと卵おとしたので紅茶の淹れ方ひとつとってもケチつけるセレブ社長のお口にゃ合いませんよ」
 面と向かって抗議する度胸はないため、仕切り壁で隠れた台所でもってくさくさささくれだつ不満をぶちまける。
 「遅い」
 「ご要望どーり十分蒸らしましたからね」
 「蒸らしすぎると味と色が濃くなる」
 いただきますの一言もなく口をつける。
 生唾を嚥下、雷が落ちやしないかびくつきつつ顔色をうかがう。
 「……………」
 無言。
 「…………どっすか」
 誠一は唇からカップを放した姿勢でじっくり吟味。
 「話にならん」
 カップの底がテーブルを打ち、硬質な音が立つ。
 苛立たしげにため息を吐くや、一口しか飲んでない紅茶をもう用済みとばかり押しやる。 
 「お前には紅茶を不味く淹れる才能があるな。イギリス産の高級上質茶葉を使ってるのにどうしてこんな下品で最低の味がするんだ、人間性に問題があるのか」
 「人間性は関係ねーっす」
 「いや、ある。下品な人間が淹れるとテーストのグレイドがおちるんだ」
 誠一が目を瞑る。
 「淹れ直せ」
 社長の命令は絶対。服従。青筋立つ額を隠すように身を翻し、淹れたてで湯気立つカップを台所に持ち帰り、ステンレスのシンクに中身を捨てる。
 「もったいねえ……」
 底の方に少し残ったのを舌に垂らせば、不味いとも苦いとも形容しがたい独特の癖のある風味が広がり急いで唾を吐く。
 そんな悦巳の行動を見透かしたようにリビングから侮蔑と失笑を孕んだ声が届く。
 「自分が飲めないものを他人に出す神経を疑う」
 三回目の挑戦にして、ようやく誠一が納得いく紅茶を淹れる事に成功する。
 否、納得というのは語弊がある。正しくは妥協だ。紅茶の味に異常にうるさい誠一はとうとう悦巳が淹れる紅茶に満足せずじまいで、しかし喉の渇きのほうを優先し、休火山の如く黙り込んでカップを口に運ぶ。
 「みはなの様子はどうだった」
 「いつもどおりっす。幼稚園に送り迎えして冷蔵庫に入ってたヨーグルトとヤクルトでおやつ、夕飯はさっき言ったピザを食べました。みはなちゃんが手伝ってくれたおかげで洗濯もはかどったっす、ささいなトラブルはあったけど」
 「幼稚園では何をした」
 「お絵かきとお遊戯っす。先生がオルガンでアンパンのマーチを弾いて、みんなで声をそろえて唄ったみたいっす。お絵かきの時間に描いた絵は鞄に入ってるらしいっす、前衛的すぎて何描いたんだか今いちわかんなかったけど……」
 「見せろ」
 誠一が片手を突き出す。その手に恭しく数枚の画用紙を献上する。
 「花と……太陽と……煙突のある家か」
 呟きつつ、画用紙をめくっていく。クレヨンを重ねて塗りたくった絵はありていに評せば稚拙、よく言えば大胆奔放で、ところどころ輪郭から色がはみ出しているのもご愛嬌だ。しかしみはなが描いた絵を眺める誠一は相変わらず気難しい顔で、推理と事実の確認のほかに感想ひとつ述べない。もう少し表情を変えてもいいんじゃないかと余計な事を思う。
 「この子供はみはなか?」
 画用紙の右隅に遠慮がちに描かれた人物を指さし、誠一が問う。
 「さあ……スカートはいてるからそうなんじゃないすか」
 「はっきりしろ」
 「俺に聞かれても困るっす、描いたんじゃないんだから。気になるならみはなちゃんに直接聞きゃいいっしょ……なんすか?」
 「契約書だ。書いたんだろう?」
 画用紙をテーブルに置き、再度片手を突き出す。
 悦巳はくしゃくしゃに皺がついた契約書を懐から抜く。
 「……判子の持ち合わせねーから直筆サインでいっすか」
 「教養のない字だな」
 今すぐ破いてやろうかと思った。
 ボールぺンで殴り書きされた氏名を一瞥、退屈そうに感想を述べた誠一が契約書を畳んでしまう。
 「今この時点で正式に契約が成立した。これまでは研修期間、これからが本番だ」
 「お情けでおいてもらってんだから義理は果たしますよ」
 「いい心がけだ」
 「誠一さんて何の会社やってんすか」
 ソファーの上で膝を抱え正面の誠一を睨む。
 「仕事忙しいのはわかるけどもちっとまめに帰ってきたらどっすか、みはなちゃんまだ小さいし可哀想じゃないすか、いっつもひとりぼっちだって言ってましたよ。一人で留守番させといて万一の事があったらどうするんですか、押し入り強盗とか……」
 「マンションのセキュリティは万全だ。監視カメラと体熱センサーがある。不審者の侵入を許さない作りだ」
 「そういう問題じゃないっしょ」
 「詐欺師に説教されるいわれはない」
 「あの黒スーツなんなんすか?身ごなしただものじゃないっすよ、どこの特殊工作員すか。傭兵派遣会社でも経営してるんすか。あの人たちも誠一さんの部下なんすか」
 「半分正解だ。あれは俺のボディガードだ」
 漫画喫茶に踏み込んできた黒スーツ達の統率の取れた勇躍を思い出し、背筋を寒気が這う。 
 「ボディガード雇わなきゃいけねーほど危険な仕事なんすか」
 慎重に問う悦巳には答えず紅茶を啜る。
 本心が読めない。
 俺がこの人のお気に入り?信じられんねえ。
 現在の悦巳の待遇はただ働きの召使いも同然で、誠一に至ってはどんなに帰宅が遅くなろうが寝ている悦巳を叩き起こして紅茶を淹れさせる始末でほとんどいじめだ。そんなに飲みたいなら自分で淹れりゃいいのにと常々思うが、物心ついたころから人に傅かれ衣食住全てにおいて奉仕を享受してきた人間に家庭内労働の発想はないらしい。
 「あいつらは戦闘のプロだ。最悪のケースが発生した場合でもあいつらに任せておけば決着がつく」
 「最悪のケースってなんすか!戦闘のプロとか平和ボケした現代日本で聞く単語じゃねっすよ、少なくとも漫画喫茶でぐうすかうたた寝してた俺の拉致は最悪のケースに該当しないっしょ、店の人と他の客に迷惑だって!大勢でどかすか踏み込む意味どこにあるんすかせいぜい二人か三人で十分っしょ、ちょうど勇午読んでたからテロリストに占拠されたと勘違いしてマジびびったっす!」
 「時々加減を忘れるのが難点だが使えるやつらだ。どこかの無能家政夫とちがってな」
 「いちいち引き合いにだすのやめてくださいっす、イヤなひとっすね」
 みはなの一日を大雑把に報告し終えてお役放免、誠一との息詰まる睨み合いから解放された悦巳は席を立つ。
 「じゃ、俺寝ますよ」
 断っておくがこのマンションに悦巳の部屋は存在しない。父子家庭において居候扱いの悦巳には独立した寝室も与えられず、リビングのソファーで起居する毎日だ。最も児玉宅のソファーベッドは成人男性が悠々身を横たえられるサイズに加え衝撃を吸収し緩和する柔軟素材であるため筋肉痛を患う心配なく熟睡できる。正直、以前住んでいたアパートで悦巳が使っていた中古のパイプベッドより寝心地がいいくらいだ。漫画喫茶の硬いリクライニングチェアに慣れた身には極楽。
 一日の締めの面談、または悦巳の失敗を洗うお説教タイムを終えたあと、誠一はシャワーを浴びて寝室へ行きみはなの隣のベッドで眠りにつく。浴室へ消える後ろ姿を見るたびシャワーを浴びに帰るだけだなあこの人と呆れてしまう。
 「弁当の支度は」
 「え?」
 悦巳へ連絡帳を投げてよこす。
 「明日は弁当の日だ。準備はしてあるんだろうな」
 誠一の視線に促され慌ててページをめくれば、備考欄に保育士の几帳面な字で「明日は二週間に一度のお弁当の日です。忘れないでくださいね。自信作、期待してます」と激励がしるされてあった。
 「弁当の日って……なんすかそれ聞いてませんよ!?」
 「プリントもきてたはずだが」
 テーブルの上においた幼稚園指定の黄色い鞄のジッパーを開けて手を突っ込み中をかき回す、底の方でくしゃと紙が潰れる感触がして引っ張り出せば藁半紙に刷ったプリントが一枚出てきた。食いつくように読む。みはなが通う幼稚園は通常給食制だが二週間に一度弁当の日があるらしく、その日は保護者が腕によりをかけ拵えた子供に弁当を持たせるらしい。
 なんて傍迷惑な。
 「不意打ちとは卑怯っす……!」
 「お前、連絡帳やプリントに目をとおしてなかったのか?」
 「そういうの父親の役目じゃないっすか、誠一さんこないだ連絡帳読んでたしだから俺がしなくてもいいかなって油断してたんすよ、俺なんか所詮雇われ家政夫だし家族でも身内でもねえし連絡帳に返信書くのはあんたの役目で俺関係ね、」
 言い訳がましく批判がましく哀訴する悦巳と対照的に、誠一の目の温度は加速度的に冷え込んでいく。
 「……寝る」
 「寝るって無責任なあしたの弁当どうするんすか、俺なんも作れませんよ、水筒にお湯入れてカップ麺でも持たせりゃいいんすか!?」
 「家政夫の仕事だろう」
 あたふた無意味に手を振り回し円を描いて歩き回り、パニック来たして醜態を演じる悦巳をよそに浴室へ向かう。しばらくしてシャワーの水音が響きだし、リビングに一人取り残された悦巳は、むざんに皺の寄ったプリントを胸で揉みしだいてへたりこむ。
 「身勝手すぎる……」
 連絡帳をチェックしなかったのは自分のミスだ。
 悦巳は身柄の保護と引き換えにみはなの世話全般を委託されてるのだから幼稚園側が園児の家庭に配布したプリント類には全て目を通す義務があるわけで、それをさぼったのはただ単純に面倒くさかったからで、四歳児の割に大人顔負けなしっかりもののなみはなならうるさく世話を焼かなくても大丈夫だろうという甘えと紙一重の安心感があったからで、よもやこんな落とし穴が口を開け待ち受けていようとは予想外だった。
 「………冷凍食品で手を打つか……」 
 台所の巨大冷蔵庫には、調理を要する食材のほかに冷凍食品も貯蓄されてる。
 電子レンジで解凍したのをお弁当箱に詰めるだけなら手間もかからないし失敗もしない、味は保証される。相手は園児だ、言わなきゃばれない。仕方ない、悦巳は料理ができないのだ。おまけに重度の面倒くさがりで、手を抜ける仕事ならできるだけ手を抜いて易きに流れる癖がある。これまでの人生だってずっとそうやって生きてきた、やり過ごしてきた。大丈夫今度もきっとなんとかなる、相手はたった四歳の子供じゃないか、冷凍食品を手料理と偽って弁当箱に詰めれば簡単に騙せる、子供に供だましが通用しない謂われはない…… 

 『そうね、忘れていたわ。料理に一番大切なのは思いやり』
 『忘れていたわ、あんまり一人で食べる事が多くって』
 
 故人の柔和な声に伴いみはなの無垢な顔が脳裏にちらつく。
 「……詐欺師は嘘をつくのが仕事っすよ」
 良心を針で刺す罪悪感の痛みに目を瞑り、雑巾を絞るように握り潰したプリントをゴミ箱に投げ入れる。
 後ろも見ず勘だけで放った紙屑は放物線を描き、ゴミ箱の縁に弾かれて転々と床を跳ねる。
  
 瑞原悦巳はケチな詐欺師だ。
 どうあがいても誠一がそうあれと望むような理想の家政夫にはなれないだろう。
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