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六話
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ボクサーパンツを手洗いしてると泣きたくなった。
「どうしてこんなことに……俺がなにしたってんだ」
石鹸を泡立てパンツを擦り、水を張った桶に浸けて、念入りにタンパク質のシミを洗い落とす。
水分を搾ったパンツを洗濯バサミにとめ、枯れ木に渡したロープに吊るす。
採石場を吹き抜ける風がパンツをはためかせる。
パンツから滴る雫を目で追い、何度めかのため息。
「まさか夢精しちゃうなんて……」
朝起きたらズボンと下着がじっとり湿っていた。
異変に気付いて慌てて脱ぎ、パンツにへばりついた精液に衝撃を受ける。
夢精の経験は初めてじゃない。けれどもショックは大きい。なんで?寝る前にヌイたのに……あまりに量が多いので、最初は漏らしたのかと錯覚した。このトシで寝小便はさすがに恥ずかしい、黒歴史の上塗りでブラックホールが爆誕する。
隣で高鼾をかくスワローにばれないようこっそりパンツとズボンを取り換え、汚れた下着を丸めてベッドの下に放りこみ、後ですみやかに回収した。
思春期にさしかかってから自慰の回数は増え、最低二日に一度はヌイている。
なのになんで?
アレじゃ足りない?
欲求不満か俺は。
それに追い討ちをかけたのが、ピジョンが見ていた夢だ。
「あんな夢……どうかしてる」
夢の中でピジョンはスワローにヤられていた。
スワローにペニスをいじくり倒されて、アイツの首ったまに齧り付いて、切ない声を上げていた。
ねだるように腰を揺すって膝で挟み、スワローの勃起したペニスに自分のそれを擦り付け、兜合わせの痴態を演じていたのだ。
思い出すと股がむずむずしてくる。
夜闇を背負って覗き込むスワローの意地悪い笑みが甦る。
『知ってる?一回イッたあとはめっぽう感じやすくなるんだと、下拵えご苦労さま』
『……は……ぐちゃぐちゃのどろどろになってんのわかるか?聞いてみろよ。ちょっとさわっただけでこのザマだ、寝ながら勃たせまくってよ。俺と兄貴のが擦れてンの、わかる?太さは俺の勝ち、長さは譲ってやる』
セリフまでいちいちリアルに再現される。いかにもアイツが言いそうで胸糞悪い。
ただの夢にしてはリアルすぎる、体の隅々にまで感触と余熱が燻っているようだ。
腰の奥に蟠ったまだるっこい虚脱感が、本当に行為を終えた後のような錯覚を与えてくる。
どうかしてしまったんじゃないか。スワローは血の繋がった弟だぞ?
アイツとセックスする夢なんて……
まるで俺が、それを望んでいるみたいじゃないか。
一日一日指折り数えて待ち焦がれてるみたいじゃないか。
「馬鹿げてる」
昨日の夜は荷台にいた。キャサリンにおやすみを言ってケージに返してから、こそこそオナニーに耽った。間違っても就寝中の母にバレないよう、物音などたてぬよう、モッズコートを噛んで声を殺しきった。出すものを出しきって帰ったら、ベッドはもぬけの殻だった。
喧嘩別れしたまま、弟はまだ帰ってこない。
……知るか。待っててやる義理なんかない、誰憚ることなくベッドをひとりじめできて快適じゃないか。ピジョンはスワローを待たずに寝た。
スワローのしごき……否、連日の特訓でくたびれきってすぐ深い眠りに落ちた。もともと寝付きはいい方だが、最近は激しい運動と自主練で身も心も疲れ果て、一度目を閉じると朝までぐっすり熟睡コースだ。夢を見たのだって久々だ。それがよりにもよってあんな夢ときた。
恥ずかしくて後ろめたくてスワローの顔が見れない。バレたらきっと一生軽蔑される。
どこの世界に弟とセックスする夢を見て、夢精する兄さんがいるんだ?
罪悪感のかたまりが喉に詰まり、膝においた手をキツく握り込む。
「ごめんスワロー」
『見損なったぜ兄貴、夢ン中で俺にヤられてどぴゅっと出しちまったんだろ?ハッたまってんじゃねーか!だからさっさと童貞捨ててこいって言ってんだ、のらりくらり逃げやがって……本音じゃテメェもヤリたがってんだろ?それとも何か、手っ取り早く抜けるならオナホでも雌鶏のケツ穴でもなんでもいいってか』
今日はまだ一度もスワローと目を合わせてない。
口も利いてない。
俺にはもう兄さんを名乗る資格がない。
朝起きてからずっと、顔を洗うときも歯を磨くときもスワローを避け続け、逃げるように採石場の岩陰にやってきた。
こともあろうに実の弟を性欲の対象として見るなんて……そんな人の道から外れた行い、神様がお許しにならない。スワローが求めてくるのはいい。よくないけど、それはいい。アイツが求めてくるから仕方なく応じてやってるポーズがとれる、無理矢理されたと言い訳できる。でも俺が働きかけるのは違う、アイツをよこしまな目で見て夜毎よこしまな妄想をオカズにしてるなんてバレたら死んだほうがマシだ。
弟に欲情するだなんて、しまいにはヤることしか考えられなくなるだなんて、絶対に間違ってる。
膝を抱きしめて懺悔する。
「ごめん母さん……」
『まあピジョン、スワローとエッチする夢を見てお漏らししちゃたの?元気な証拠ね!でもだめよ、あなた達は血の繋がった兄弟なの、弟とセックスする夢に興奮して寝ながら出しちゃうド変態がお腹を痛めた息子なんてママ哀しい』
こんなヤツが息子だなんて、きっとがっかりする。最愛の母の幻滅のまなざしを想像すると胸が締め付けられる。俺は最低なヤツだ。自分を偽り母と弟を欺いて……心の中でいくら詫びても本人達には伝わらない。
「はあ~あ……」
一際深く嘆息するピジョンの前をキャサリンが駆け抜けていく。ずっと閉じ込めっぱなしじゃ可哀想だし、昼間はケージから出して遊ばせているのだが、地面でのたくるミミズを元気に啄んでいる。
「コケコー!」
「うへぇ」
もうキャサリンとキスするのはやめよう。
太陽はすでにのぼりきっている。これから昼にかけて気温が上昇する。
もうすぐ特訓の時間だ。けれども岩陰から出ていく踏ん切りがつかない。
ボクサーパンツが風にさらわれないよう見張ってなきゃいけないし……スワローや母にバレたらわざわざ二人の洗濯物と分けて干してる苦労が台無しだ。
「……サボっちゃおうかな。たまにはいいよね、これまで一日も休まず頑張ってきたし……キャサリンもそう思わない?」
「コケーッ!」
「フケたら後が怖いか……スワロー怒るよね、やっぱ」
地面に指で悪戯描きをする。
卵の殻を帽子がわりに被ったキャサリンと、頭から角を生やしギザ歯を剥いたスワローの絵だ。
気は進まないが、行くしかない。
出来の悪い俺に根気強く稽古を付けてくれてる期待を裏切りたくない。それに……
スワローに蝙蝠羽を追加してから指を止め、物憂げに陰った目を地面に落とす。
「……俺は何をやらせてもドジでノロマでグズなヘタレだから、人の倍の倍がんばらなきゃいけないんだ。じゃないとみんなに……アイツに追い付けなくなる」
もうとっくに追い越されてしまったけれど、これ以上引き離されたくない。追い付く努力を放棄したくない。
夢を叶えるために必要なことから逃げたら、目標に背を向けて逃げ出したら、もう一生何者にもなれない。
へろへろと線がうねったへたくそな落書きを手のひらで一消し、腰を上げる。
「よし」
スニーカーの靴紐をしっかり結び直す。
己に喝を入れ直し、いざ岩陰から出てスワローを呼びに行こうとして……
折よく本人が目の前を通る。
「どこいくんだ」
「遊びにいく」
「え?」
ぶっきらぼうに答え、採石場をさっさか突っ切って行こうとする弟に追い縋る。
「待てよ!特訓はどうするのさ、この時間いつもやってるだろ」
「知るか。一人でやってろ」
「一人って……」
「テメェもいいトシだ、俺が相手してやんなくたってできるだろ。一人遊びはお上手だもんな?」
「なっ!」
言葉の後半には下世話な隠喩が含まれていた。ピジョンは赤面して口ごもる。
「突然どうして……これまで一日もサボらずやってきたじゃないか。それをここで放り出すの?」
「テメェに泣いて頼まれて仕方なく付き合ってやったんだ、だせえ鬼ごっこにな」
「組み手はひとりじゃできない」
「岩でも殴ってろよ」
「手が痛い」
「じゃあ走り込みでもしてろ。ぶっちゃけテメェのお守りはもうウンザリなんだよ、どんだけ鍛えたってちぃとも強くなんねぇ。もう無駄だね、無駄無駄無駄無駄。いくらねばったって無駄だっていい加減わかれよ」
残酷な現実を突き付けられたじろぐピジョンにすかさず畳みかける。
「テメェのお守りにゃ飽き飽きだ、やりたいなら一人でやれ、俺は好きにさせてもらうぜ。ヘタレ兄貴とちんたら追いかけっこしてるよか街で女をひっかけたほうが断然楽しいし。テメェは勝手に足滑らして穴におっこちて干上がれ。俺様の貴重な時間を金輪際テメェなんかの為に割くのは願いさげだね!」
ピジョンは絶句して立ち尽くす。
口を開けて閉め、体の脇の拳を強く握り締めて深呼吸してから鈍重に口を開く。
「……ずっとそう思ってたの?」
「あん?」
「俺のこと足手まといだって……嫌々付き合ってくれてたのか」
唇を噛んで、俯く。
「一緒に賞金稼ぎをめざそうって約束したのに。俺ひとりが空回ってただけなのか」
スワローが冷めきった目を向けてくる。軽蔑の視線が痛い。ピジョンは痛いほど手を握り込んで沈黙を耐え忍ぶ。
爪がてのひらの柔肉に食い込む痛みで、叫び出したい衝動を辛うじて抑える。
自分の不甲斐なさは痛感してる、何をやらせても要領が悪くダメダメな奴だってわかりきってる。それをわかったうえでスワローは鍛えてくれてるんだと今日の今日まで思い込んでいた。
賞金稼ぎは二人の夢だから。
どちらか一人が欠けても為し得ないから。
その未来を掴むために、二人で頑張っているんだと思い上がっていた。
「俺、ただいるだけでお前の足を引っ張ってたのか」
「…………」
「他にしたいことがあるのに邪魔して……俺が泣いて頼むから嫌々渋々不承不承、毎日付き合ってくれてたっていうのかよ。何だよそれ。同情かよ。馬鹿にするのもいい加減にしろよ」
勘違いだった。
のぼせあがっていた。
二人で一緒にがんばってるんじゃなかった。
ピジョンだけがんばって空回っていた。
俺のやることなすこと、コイツの足を引っ張っていた。
「俺、いないほうがよかったのか」
スワロー一人なら賞金稼ぎになるのなんて楽勝だ。
ピジョンという足手まといのお荷物を好き好んでしょいこむことはないのだ。
「ずっと……迷惑だったのか」
俺が。
俺なんかが兄さんじゃない方が、お前は自由に生きられるのか?
爪がささくれて割れるまでスリングショットを練習して、弾を的に当てる特訓をして、お前に並び立ちたい一心で重ねた努力は一切合切無駄だったのか。
深々とうなだれ立ち尽くすピジョンに、スワローは辛辣に当たる。
「そうだよ、同情だよ。運動音痴でてんで意気地のねぇテメエを憐れんでくだらねェお遊びに付き合ってやったんだ、大体こンなの何の意味があるってんだ、単なる追いかけっこじゃねーか。足腰は鍛えられっけどそんだけだ、本気で強くなりてェなら他にやりようあんだろ、名前の売れてる賞金稼ぎに頭下げて弟子入りするとか」
「あてがない……無茶言うな」
「やる気がねーのはどっちだ?いつんなったら母さんに言うんだ?」
「それとこれとは関係ないだろ」
「あるね、大アリさ!テメェの優柔不断にゃイライラする、俺は14でテメェはもう16、世間のヤツらはいっぱしに稼いでるトシだろ!とっとと言や済む話をうじうじじらしまくって、脛齧りっぱでジジィになっちまうよ!」
「じゃあお前が言えよ!!」
「やだね!!」
「どうしてさ、俺とお前二人でなるんならどっちが言ったっていいじゃないか!!」
「どーせまた自分がいなくなったら母さんが哀しむとかうだうだぬかすんだろ、母さんはテメェなんざいなくても大丈夫だっての、養ってくれる金ヅルはうじゃうじゃいる!むしろ俺達がいなくなったほうがせいせいするって、避妊の失敗でデキたガキなんざとっとと出てってもらいてーのがビッチの本音だろ!!」
思わず手が出た。スワローの胸ぐらを乱暴に掴み上げ、極端に顔を寄せる。
「……何?怒った?事実を言ったまでだろ」
「……そんなこと思っちゃないくせに」
「母さんはビッチだ」
「そのあと。俺達に出ていってほしいなんて、母さんがいつ言った」
怒りに研ぎ澄まされた赤錆の瞳が衝突、交じり合う視線が殺気を帯びる。胸ぐらを締め上げる手に震えるほど力をこめ、悲哀に顔を歪めて吐き捨てる。
「お前はなんにもわかっちゃない」
俺も、母さんの気持ちも。
「じゃあテメェに俺のことがわかるのかよ?」
「え?」
見透かされて凍り付く。
スワローがおもむろに手をだし、ピジョンの胸ぐらを掴み返す。
「三年前の約束、忘れてねーよな」
可能な限り避けて通りたかった話題を最悪のタイミングで持ち出され、一瞬心臓が止まる。
兄の顔色が豹変したのを確認、約束をちゃんと覚えていたと悟ったスワローが凄みを含んで脅し付ける。
「こっちが言い出さねーのをいいことに忘れたふりで逃げきるはらか」
「ち、違う……覚えてたさちゃんと、けど何て言うんだよ、三年たったら抱かせてやるって約束したけどアレまだ覚えてるって俺から言うのかよ!?おもいきって口にしてもし忘れてたらどうするんだよ、恥かくだけじゃないか!!俺だってホントはヤリたくない、いっそ忘れてくれたらいいのにって願ったさ、でも」
空回りすれ違う気持ちと会話が歯がゆい、どうしてこううまくいかない?不義理を働いてるのは承知の上で弟にバックヴァージンを捧げる恐怖と躊躇いが上回った、人として普通じゃないか、自然な心の働きじゃないか。
言葉を重ねるほどに無力を痛感し墓穴を掘る、スワローの胸ぐらを掴んで揺すり立てるピジョン、その目が弟の首元の痣に吸い寄せられる。真新しいキスマークだ。
「……ッ!!」
頭が急沸騰する。
スワローは逆に冷静に立ち戻り、しっかりと兄の目を見据えてなじる。
「兄貴はズルい。すぐ約束を破る、最低の嘘吐き野郎だ」
「……おあいこだろ」
「あァ?」
「お前だって、破ったじゃないか」
今も。
これからも。
あんなに言ったのに、お願いしたのに、なんで。
「……ウリはするなって約束、忘れたのか」
「ありゃお前が勝手に約束と思い込んだだけで、俺はうんともすんとも言ってねーぞ」
「確かに返事はもらってない、だからうるさく言えなかった、ずっと見て見ぬふりでガマンしてた。夜になるとこそこそでかけてって何してるか……用心棒だけじゃあんなに稼げない」
「ウリしようがナニしようがテメェにゃ関係ねえだろ!」
「兄弟なのに関係なくないだろ!」
キレて怒鳴り散らすスワローの胸板を拳で叩き、ピジョンはやり場のない怒りを吐きだす。
「お前がウリしたアガリを貯金の足しにしても嬉しくもなんともない!」
「俺のエロい夢見て出したくせに、よく言えるな」
「え……」
混乱するピジョンへと一歩詰め寄り、スワローが反撃にうってでる。
「同じベッドに寝てんだ、いやでも気付くさ。寝言で俺の名前呼んでたしな。で、どんな夢だ?聞かせてくれよオニイチャン」
「か、関係ない……」
「関係あるさ、兄弟だろ?ズリネタにされた身としちゃ大いに興味津々、聞く権利はあると思うね」
「言いたくない……」
「へえ、よっぽどやらしー夢だったんだ?夢の中でナニされたんだ、あちこちさわられて感じまくった?パンツの中が濡れ濡れに蒸れ放題で勃ちまった?ペニスを擦られてガクガク腰振ってイッちまった?」
ピジョンが力なく首を振ってあとじさる。あまりに弱弱しすぎて肯定してるのと一緒だ。
くそ、なんでバレた?シーツはちゃんと後始末した、証拠隠滅は完璧だった、されど勘の鋭いスワローをごまかしきるのは至難の業だ。
スワローの指摘は全部図星で、故にピジョンは小さく首を振り続けるしかない。
まさか寝言まで聞かれてたなんてと絶望する。どうあがいても言い逃れできない。さらにあとじさろうとするピジョンの手首をスワローが掴み、乱暴に引き寄せる。胸の方へ倒れ込んだその体を受け止めて、腰に手を回す。
「シタイんだろ?」
「ちが……」
「ヤリたくてヤリたくてたまらなくて夢に見るほどだ。よく三年も待てたな」
「スワロー許して……だってしょうがないじゃないか、寝てるあいだの反応はコントロールできない……!」
「起きてる時もだろ?もう勃ちはじめてる」
「!ッ、」
耳元で低く囁かれ、円を描くよう腰をなで回される。これじゃ元の木阿弥だ。身もがいてスワローを突き飛ばし、その行く手に回り込んで両手を広げる。通せんぼだ。
「行かせないぞ、お前は俺とやるんだ!」
「野外プレイがご所望?とっとと服脱げよ」
「違うそっちじゃない、やるのは模擬戦だ!」
「どけよ腰抜け。テメェにゃもう付き合いきれねえ、俺はオンナを抱きに行く」
「ウリなんかしなくても十分稼げる、真面目に働けばいいじゃないか、仕事の口なんてさがせばいくらでもある。変な病気もらったらどうするんだ、避妊だってちゃんとしないと……」
わざと肩をぶつけて行こうとする弟を呼び止めれば、振り返りざまスワローが笑って茶化す。
「嫉妬してる女みてェ」
頭の中で何かが弾ける。おそらく理性の糸が。
「~そっちがその気なら手加減しないぞ!!」
勢いよくスライディング、大股に歩むスワローの片足に縋り付く。
突如自分の足にタックルをしかけた兄に面食らうも舌打ち一つ反対の足で肩や背中を蹴りまくり、ひっぺがせないと悟るやずるずる引きずって歩きだす。
「重てぇ、離れろ!テメェにゃプライドってもんがねーのか!」
「お前を止めるためならなんだってする、手段なんて選んでられるか!俺だって母さんだって心配する、体を売らなくても二人の稼ぎを足せばなんとかやってけるって、貯金だってもう目標額に届くんだ、自分を落として粗末にすることないだろ!?」
血相変えて説得するピジョンの肩を固い靴裏で蹴り付け、発狂したような高笑いを響かせる。
「ハッ、本音がでたな!テメェだって内心娼婦を馬鹿にしてんじゃねーか、体を売るなんて汚ェと思ってんじゃねえかよ!!」
言葉尻をとられた。
ピジョンは愕然とする。娼婦を軽んじる意図はない、売春を全否定するわけじゃない、生計を立てる立派な一手段だ。そんなの今さら言ったって後付けの言い訳にしか聞こえない、自分の耳にさえ空々しく響くのだから間違いない、一度出た言葉は戻せない。
ピジョンは弱弱しく反駁する。
「違うんだ……」
スワローは鼻白む。
冷え込んだ目には兄への軽蔑も露わだ。
「何が違うんだ偽善者。ウリで小遣い稼ぐ俺の事も、腹ン中じゃ汚ェと思ってやがるくせに」
「お金と引き換えにどうこうじゃなくて知らないヤツとヤるのがいやなんだよ!!」
言わせるなよこんなこと。
頼むから、お願いだから、わかってくれよ。
「やなんだよ……」
お前が人のモノになるのが。
はした金でプライドを切り売りするのが。
知らないヤツがお前を好き勝手するのが、お前がいつも俺にしてるようなことを他のヤツにしたりされたりするのが、想像しただけで頭がどうかしそうな位いやなんだよ。
無慈悲に引きずられてモッズコートを砂まみれにし、地面と削れた額や頬に擦り傷を拵えて呻く。
「どうしても行きたきゃ俺を倒していけ」
「テメェが勝手に倒れたんだろが!」
洟を啜って哀願する兄の情けない醜態に何を思ったか、スワローがピジョンを蹴り倒す。
「一回だけチャンスをやる。俺かお前か、勝った方が母さんに話すってのはどうだ」
「そんな……一回も勝ったことないのに」
「本気をだせよ、俺の兄貴ならそん位できて当然だ。万一テメェが勝ったらなんでも言うこと聞いてやる。しないでほしいなら見逃してやる、ウリをやめろってゆーならそうする。どうだ、いいこと尽くしだろ?」
「見逃して……?」
「俺とお前がこうなる前の関係に戻るってこった。今まであったこと全部キレイさっぱりチャラにして、普通の兄貴と弟になって、なんとか母さんを哀しませねーよう上手くやっていく。それが望みなんだろ?」
信じがたい面持ちで繰り返すピジョンに、スワローはそっけなく頷く。
前の関係に戻れる?
スワローとピジョンがこんなにどうしようもなく拗れる前の、健全な兄と弟の関係に戻れる?
素晴らしい提案だ。もし勝てばピジョンはもう夜が訪れる度怯えずにすむ、金輪際貞操を脅かされずにすむ。
ピジョンは兄として、弟としてのスワローを好きでいられる。その事に何のうしろめたさも持たずにすむ。
「もうパンツの中に手を入れねえ、ベッドの中でイタズラしねえ、兄貴秘蔵のエロ本をこれ見よがしに広げておかねえ、オナホでしごかねえ、いやらしいキスもしねえ、テメェがオナってるトイレのドアを連打しねぇ、ケツに俺のを擦り付けて恥ずかしいことも言わせねぇ。あとえーと……他にもあったか?とにかくそれ全部ひっくるめて、手は出さねえって約束する」
「お前が勝ったら?」
「抱かせろ」
「…………」
「今夜抱かせろ」
「……心の準備が」
「今しろ」
無茶苦茶だ。
「無茶苦茶だって顔してるな?ンなびびるこたねー、ヤられたくねーなら勝てばいいだけの話だ。それとも何、兄貴は口だけの男なのか?弟にここまで譲歩させて恥ずかしくねーの?こっちは問答無用でヤったっていいんだ、今この場でテメェを張っ倒すのもワケねー、うるさく喚く口にパンツを突っ込んでずこばこ突いたってちっともかまわねー」
スワローはわざわざ取引を持ちかけ、兄の覚悟を問うている。ここで逃げる程度の男なのかとふてぶてしく挑発してプライドを試している。
ごくりと生唾を呑み、ズボンの膝汚れを払って立ち上がる。皺くちゃによれたモッズコートの背中にはスワローの靴跡が多数刻まれている。ピジョンは無言で片方の手を拳にし、それをグッと前に突き出す。
「……のった」
「そうこなくっちゃ」
スワローが皮肉っぽく笑い、同じく片拳を突き出し兄のそれと軽く当てる。
「ルール無用時間無制限、ドッグタグを奪うか完全降伏して敗北を認めるか再起不能になるまで一本勝負。フィールドは採石場全体だ。断崖に設けられた足場にゃそれなりに段差もある、所々プレハブ小屋やセメント袋の堤や堀や穴がある、トラップの細工にゃ事欠かねぇ。武器も大盤振る舞いだ、お手製スリングショットでも火炎瓶でもなんでも使っていいぞ」
兄の目の奥に尖った眼光を抉り込み、拳に圧をかけて押し返しながら宣言する。
「死ぬ気でかかってきな。じゃねーと死なす」
「どうしてこんなことに……俺がなにしたってんだ」
石鹸を泡立てパンツを擦り、水を張った桶に浸けて、念入りにタンパク質のシミを洗い落とす。
水分を搾ったパンツを洗濯バサミにとめ、枯れ木に渡したロープに吊るす。
採石場を吹き抜ける風がパンツをはためかせる。
パンツから滴る雫を目で追い、何度めかのため息。
「まさか夢精しちゃうなんて……」
朝起きたらズボンと下着がじっとり湿っていた。
異変に気付いて慌てて脱ぎ、パンツにへばりついた精液に衝撃を受ける。
夢精の経験は初めてじゃない。けれどもショックは大きい。なんで?寝る前にヌイたのに……あまりに量が多いので、最初は漏らしたのかと錯覚した。このトシで寝小便はさすがに恥ずかしい、黒歴史の上塗りでブラックホールが爆誕する。
隣で高鼾をかくスワローにばれないようこっそりパンツとズボンを取り換え、汚れた下着を丸めてベッドの下に放りこみ、後ですみやかに回収した。
思春期にさしかかってから自慰の回数は増え、最低二日に一度はヌイている。
なのになんで?
アレじゃ足りない?
欲求不満か俺は。
それに追い討ちをかけたのが、ピジョンが見ていた夢だ。
「あんな夢……どうかしてる」
夢の中でピジョンはスワローにヤられていた。
スワローにペニスをいじくり倒されて、アイツの首ったまに齧り付いて、切ない声を上げていた。
ねだるように腰を揺すって膝で挟み、スワローの勃起したペニスに自分のそれを擦り付け、兜合わせの痴態を演じていたのだ。
思い出すと股がむずむずしてくる。
夜闇を背負って覗き込むスワローの意地悪い笑みが甦る。
『知ってる?一回イッたあとはめっぽう感じやすくなるんだと、下拵えご苦労さま』
『……は……ぐちゃぐちゃのどろどろになってんのわかるか?聞いてみろよ。ちょっとさわっただけでこのザマだ、寝ながら勃たせまくってよ。俺と兄貴のが擦れてンの、わかる?太さは俺の勝ち、長さは譲ってやる』
セリフまでいちいちリアルに再現される。いかにもアイツが言いそうで胸糞悪い。
ただの夢にしてはリアルすぎる、体の隅々にまで感触と余熱が燻っているようだ。
腰の奥に蟠ったまだるっこい虚脱感が、本当に行為を終えた後のような錯覚を与えてくる。
どうかしてしまったんじゃないか。スワローは血の繋がった弟だぞ?
アイツとセックスする夢なんて……
まるで俺が、それを望んでいるみたいじゃないか。
一日一日指折り数えて待ち焦がれてるみたいじゃないか。
「馬鹿げてる」
昨日の夜は荷台にいた。キャサリンにおやすみを言ってケージに返してから、こそこそオナニーに耽った。間違っても就寝中の母にバレないよう、物音などたてぬよう、モッズコートを噛んで声を殺しきった。出すものを出しきって帰ったら、ベッドはもぬけの殻だった。
喧嘩別れしたまま、弟はまだ帰ってこない。
……知るか。待っててやる義理なんかない、誰憚ることなくベッドをひとりじめできて快適じゃないか。ピジョンはスワローを待たずに寝た。
スワローのしごき……否、連日の特訓でくたびれきってすぐ深い眠りに落ちた。もともと寝付きはいい方だが、最近は激しい運動と自主練で身も心も疲れ果て、一度目を閉じると朝までぐっすり熟睡コースだ。夢を見たのだって久々だ。それがよりにもよってあんな夢ときた。
恥ずかしくて後ろめたくてスワローの顔が見れない。バレたらきっと一生軽蔑される。
どこの世界に弟とセックスする夢を見て、夢精する兄さんがいるんだ?
罪悪感のかたまりが喉に詰まり、膝においた手をキツく握り込む。
「ごめんスワロー」
『見損なったぜ兄貴、夢ン中で俺にヤられてどぴゅっと出しちまったんだろ?ハッたまってんじゃねーか!だからさっさと童貞捨ててこいって言ってんだ、のらりくらり逃げやがって……本音じゃテメェもヤリたがってんだろ?それとも何か、手っ取り早く抜けるならオナホでも雌鶏のケツ穴でもなんでもいいってか』
今日はまだ一度もスワローと目を合わせてない。
口も利いてない。
俺にはもう兄さんを名乗る資格がない。
朝起きてからずっと、顔を洗うときも歯を磨くときもスワローを避け続け、逃げるように採石場の岩陰にやってきた。
こともあろうに実の弟を性欲の対象として見るなんて……そんな人の道から外れた行い、神様がお許しにならない。スワローが求めてくるのはいい。よくないけど、それはいい。アイツが求めてくるから仕方なく応じてやってるポーズがとれる、無理矢理されたと言い訳できる。でも俺が働きかけるのは違う、アイツをよこしまな目で見て夜毎よこしまな妄想をオカズにしてるなんてバレたら死んだほうがマシだ。
弟に欲情するだなんて、しまいにはヤることしか考えられなくなるだなんて、絶対に間違ってる。
膝を抱きしめて懺悔する。
「ごめん母さん……」
『まあピジョン、スワローとエッチする夢を見てお漏らししちゃたの?元気な証拠ね!でもだめよ、あなた達は血の繋がった兄弟なの、弟とセックスする夢に興奮して寝ながら出しちゃうド変態がお腹を痛めた息子なんてママ哀しい』
こんなヤツが息子だなんて、きっとがっかりする。最愛の母の幻滅のまなざしを想像すると胸が締め付けられる。俺は最低なヤツだ。自分を偽り母と弟を欺いて……心の中でいくら詫びても本人達には伝わらない。
「はあ~あ……」
一際深く嘆息するピジョンの前をキャサリンが駆け抜けていく。ずっと閉じ込めっぱなしじゃ可哀想だし、昼間はケージから出して遊ばせているのだが、地面でのたくるミミズを元気に啄んでいる。
「コケコー!」
「うへぇ」
もうキャサリンとキスするのはやめよう。
太陽はすでにのぼりきっている。これから昼にかけて気温が上昇する。
もうすぐ特訓の時間だ。けれども岩陰から出ていく踏ん切りがつかない。
ボクサーパンツが風にさらわれないよう見張ってなきゃいけないし……スワローや母にバレたらわざわざ二人の洗濯物と分けて干してる苦労が台無しだ。
「……サボっちゃおうかな。たまにはいいよね、これまで一日も休まず頑張ってきたし……キャサリンもそう思わない?」
「コケーッ!」
「フケたら後が怖いか……スワロー怒るよね、やっぱ」
地面に指で悪戯描きをする。
卵の殻を帽子がわりに被ったキャサリンと、頭から角を生やしギザ歯を剥いたスワローの絵だ。
気は進まないが、行くしかない。
出来の悪い俺に根気強く稽古を付けてくれてる期待を裏切りたくない。それに……
スワローに蝙蝠羽を追加してから指を止め、物憂げに陰った目を地面に落とす。
「……俺は何をやらせてもドジでノロマでグズなヘタレだから、人の倍の倍がんばらなきゃいけないんだ。じゃないとみんなに……アイツに追い付けなくなる」
もうとっくに追い越されてしまったけれど、これ以上引き離されたくない。追い付く努力を放棄したくない。
夢を叶えるために必要なことから逃げたら、目標に背を向けて逃げ出したら、もう一生何者にもなれない。
へろへろと線がうねったへたくそな落書きを手のひらで一消し、腰を上げる。
「よし」
スニーカーの靴紐をしっかり結び直す。
己に喝を入れ直し、いざ岩陰から出てスワローを呼びに行こうとして……
折よく本人が目の前を通る。
「どこいくんだ」
「遊びにいく」
「え?」
ぶっきらぼうに答え、採石場をさっさか突っ切って行こうとする弟に追い縋る。
「待てよ!特訓はどうするのさ、この時間いつもやってるだろ」
「知るか。一人でやってろ」
「一人って……」
「テメェもいいトシだ、俺が相手してやんなくたってできるだろ。一人遊びはお上手だもんな?」
「なっ!」
言葉の後半には下世話な隠喩が含まれていた。ピジョンは赤面して口ごもる。
「突然どうして……これまで一日もサボらずやってきたじゃないか。それをここで放り出すの?」
「テメェに泣いて頼まれて仕方なく付き合ってやったんだ、だせえ鬼ごっこにな」
「組み手はひとりじゃできない」
「岩でも殴ってろよ」
「手が痛い」
「じゃあ走り込みでもしてろ。ぶっちゃけテメェのお守りはもうウンザリなんだよ、どんだけ鍛えたってちぃとも強くなんねぇ。もう無駄だね、無駄無駄無駄無駄。いくらねばったって無駄だっていい加減わかれよ」
残酷な現実を突き付けられたじろぐピジョンにすかさず畳みかける。
「テメェのお守りにゃ飽き飽きだ、やりたいなら一人でやれ、俺は好きにさせてもらうぜ。ヘタレ兄貴とちんたら追いかけっこしてるよか街で女をひっかけたほうが断然楽しいし。テメェは勝手に足滑らして穴におっこちて干上がれ。俺様の貴重な時間を金輪際テメェなんかの為に割くのは願いさげだね!」
ピジョンは絶句して立ち尽くす。
口を開けて閉め、体の脇の拳を強く握り締めて深呼吸してから鈍重に口を開く。
「……ずっとそう思ってたの?」
「あん?」
「俺のこと足手まといだって……嫌々付き合ってくれてたのか」
唇を噛んで、俯く。
「一緒に賞金稼ぎをめざそうって約束したのに。俺ひとりが空回ってただけなのか」
スワローが冷めきった目を向けてくる。軽蔑の視線が痛い。ピジョンは痛いほど手を握り込んで沈黙を耐え忍ぶ。
爪がてのひらの柔肉に食い込む痛みで、叫び出したい衝動を辛うじて抑える。
自分の不甲斐なさは痛感してる、何をやらせても要領が悪くダメダメな奴だってわかりきってる。それをわかったうえでスワローは鍛えてくれてるんだと今日の今日まで思い込んでいた。
賞金稼ぎは二人の夢だから。
どちらか一人が欠けても為し得ないから。
その未来を掴むために、二人で頑張っているんだと思い上がっていた。
「俺、ただいるだけでお前の足を引っ張ってたのか」
「…………」
「他にしたいことがあるのに邪魔して……俺が泣いて頼むから嫌々渋々不承不承、毎日付き合ってくれてたっていうのかよ。何だよそれ。同情かよ。馬鹿にするのもいい加減にしろよ」
勘違いだった。
のぼせあがっていた。
二人で一緒にがんばってるんじゃなかった。
ピジョンだけがんばって空回っていた。
俺のやることなすこと、コイツの足を引っ張っていた。
「俺、いないほうがよかったのか」
スワロー一人なら賞金稼ぎになるのなんて楽勝だ。
ピジョンという足手まといのお荷物を好き好んでしょいこむことはないのだ。
「ずっと……迷惑だったのか」
俺が。
俺なんかが兄さんじゃない方が、お前は自由に生きられるのか?
爪がささくれて割れるまでスリングショットを練習して、弾を的に当てる特訓をして、お前に並び立ちたい一心で重ねた努力は一切合切無駄だったのか。
深々とうなだれ立ち尽くすピジョンに、スワローは辛辣に当たる。
「そうだよ、同情だよ。運動音痴でてんで意気地のねぇテメエを憐れんでくだらねェお遊びに付き合ってやったんだ、大体こンなの何の意味があるってんだ、単なる追いかけっこじゃねーか。足腰は鍛えられっけどそんだけだ、本気で強くなりてェなら他にやりようあんだろ、名前の売れてる賞金稼ぎに頭下げて弟子入りするとか」
「あてがない……無茶言うな」
「やる気がねーのはどっちだ?いつんなったら母さんに言うんだ?」
「それとこれとは関係ないだろ」
「あるね、大アリさ!テメェの優柔不断にゃイライラする、俺は14でテメェはもう16、世間のヤツらはいっぱしに稼いでるトシだろ!とっとと言や済む話をうじうじじらしまくって、脛齧りっぱでジジィになっちまうよ!」
「じゃあお前が言えよ!!」
「やだね!!」
「どうしてさ、俺とお前二人でなるんならどっちが言ったっていいじゃないか!!」
「どーせまた自分がいなくなったら母さんが哀しむとかうだうだぬかすんだろ、母さんはテメェなんざいなくても大丈夫だっての、養ってくれる金ヅルはうじゃうじゃいる!むしろ俺達がいなくなったほうがせいせいするって、避妊の失敗でデキたガキなんざとっとと出てってもらいてーのがビッチの本音だろ!!」
思わず手が出た。スワローの胸ぐらを乱暴に掴み上げ、極端に顔を寄せる。
「……何?怒った?事実を言ったまでだろ」
「……そんなこと思っちゃないくせに」
「母さんはビッチだ」
「そのあと。俺達に出ていってほしいなんて、母さんがいつ言った」
怒りに研ぎ澄まされた赤錆の瞳が衝突、交じり合う視線が殺気を帯びる。胸ぐらを締め上げる手に震えるほど力をこめ、悲哀に顔を歪めて吐き捨てる。
「お前はなんにもわかっちゃない」
俺も、母さんの気持ちも。
「じゃあテメェに俺のことがわかるのかよ?」
「え?」
見透かされて凍り付く。
スワローがおもむろに手をだし、ピジョンの胸ぐらを掴み返す。
「三年前の約束、忘れてねーよな」
可能な限り避けて通りたかった話題を最悪のタイミングで持ち出され、一瞬心臓が止まる。
兄の顔色が豹変したのを確認、約束をちゃんと覚えていたと悟ったスワローが凄みを含んで脅し付ける。
「こっちが言い出さねーのをいいことに忘れたふりで逃げきるはらか」
「ち、違う……覚えてたさちゃんと、けど何て言うんだよ、三年たったら抱かせてやるって約束したけどアレまだ覚えてるって俺から言うのかよ!?おもいきって口にしてもし忘れてたらどうするんだよ、恥かくだけじゃないか!!俺だってホントはヤリたくない、いっそ忘れてくれたらいいのにって願ったさ、でも」
空回りすれ違う気持ちと会話が歯がゆい、どうしてこううまくいかない?不義理を働いてるのは承知の上で弟にバックヴァージンを捧げる恐怖と躊躇いが上回った、人として普通じゃないか、自然な心の働きじゃないか。
言葉を重ねるほどに無力を痛感し墓穴を掘る、スワローの胸ぐらを掴んで揺すり立てるピジョン、その目が弟の首元の痣に吸い寄せられる。真新しいキスマークだ。
「……ッ!!」
頭が急沸騰する。
スワローは逆に冷静に立ち戻り、しっかりと兄の目を見据えてなじる。
「兄貴はズルい。すぐ約束を破る、最低の嘘吐き野郎だ」
「……おあいこだろ」
「あァ?」
「お前だって、破ったじゃないか」
今も。
これからも。
あんなに言ったのに、お願いしたのに、なんで。
「……ウリはするなって約束、忘れたのか」
「ありゃお前が勝手に約束と思い込んだだけで、俺はうんともすんとも言ってねーぞ」
「確かに返事はもらってない、だからうるさく言えなかった、ずっと見て見ぬふりでガマンしてた。夜になるとこそこそでかけてって何してるか……用心棒だけじゃあんなに稼げない」
「ウリしようがナニしようがテメェにゃ関係ねえだろ!」
「兄弟なのに関係なくないだろ!」
キレて怒鳴り散らすスワローの胸板を拳で叩き、ピジョンはやり場のない怒りを吐きだす。
「お前がウリしたアガリを貯金の足しにしても嬉しくもなんともない!」
「俺のエロい夢見て出したくせに、よく言えるな」
「え……」
混乱するピジョンへと一歩詰め寄り、スワローが反撃にうってでる。
「同じベッドに寝てんだ、いやでも気付くさ。寝言で俺の名前呼んでたしな。で、どんな夢だ?聞かせてくれよオニイチャン」
「か、関係ない……」
「関係あるさ、兄弟だろ?ズリネタにされた身としちゃ大いに興味津々、聞く権利はあると思うね」
「言いたくない……」
「へえ、よっぽどやらしー夢だったんだ?夢の中でナニされたんだ、あちこちさわられて感じまくった?パンツの中が濡れ濡れに蒸れ放題で勃ちまった?ペニスを擦られてガクガク腰振ってイッちまった?」
ピジョンが力なく首を振ってあとじさる。あまりに弱弱しすぎて肯定してるのと一緒だ。
くそ、なんでバレた?シーツはちゃんと後始末した、証拠隠滅は完璧だった、されど勘の鋭いスワローをごまかしきるのは至難の業だ。
スワローの指摘は全部図星で、故にピジョンは小さく首を振り続けるしかない。
まさか寝言まで聞かれてたなんてと絶望する。どうあがいても言い逃れできない。さらにあとじさろうとするピジョンの手首をスワローが掴み、乱暴に引き寄せる。胸の方へ倒れ込んだその体を受け止めて、腰に手を回す。
「シタイんだろ?」
「ちが……」
「ヤリたくてヤリたくてたまらなくて夢に見るほどだ。よく三年も待てたな」
「スワロー許して……だってしょうがないじゃないか、寝てるあいだの反応はコントロールできない……!」
「起きてる時もだろ?もう勃ちはじめてる」
「!ッ、」
耳元で低く囁かれ、円を描くよう腰をなで回される。これじゃ元の木阿弥だ。身もがいてスワローを突き飛ばし、その行く手に回り込んで両手を広げる。通せんぼだ。
「行かせないぞ、お前は俺とやるんだ!」
「野外プレイがご所望?とっとと服脱げよ」
「違うそっちじゃない、やるのは模擬戦だ!」
「どけよ腰抜け。テメェにゃもう付き合いきれねえ、俺はオンナを抱きに行く」
「ウリなんかしなくても十分稼げる、真面目に働けばいいじゃないか、仕事の口なんてさがせばいくらでもある。変な病気もらったらどうするんだ、避妊だってちゃんとしないと……」
わざと肩をぶつけて行こうとする弟を呼び止めれば、振り返りざまスワローが笑って茶化す。
「嫉妬してる女みてェ」
頭の中で何かが弾ける。おそらく理性の糸が。
「~そっちがその気なら手加減しないぞ!!」
勢いよくスライディング、大股に歩むスワローの片足に縋り付く。
突如自分の足にタックルをしかけた兄に面食らうも舌打ち一つ反対の足で肩や背中を蹴りまくり、ひっぺがせないと悟るやずるずる引きずって歩きだす。
「重てぇ、離れろ!テメェにゃプライドってもんがねーのか!」
「お前を止めるためならなんだってする、手段なんて選んでられるか!俺だって母さんだって心配する、体を売らなくても二人の稼ぎを足せばなんとかやってけるって、貯金だってもう目標額に届くんだ、自分を落として粗末にすることないだろ!?」
血相変えて説得するピジョンの肩を固い靴裏で蹴り付け、発狂したような高笑いを響かせる。
「ハッ、本音がでたな!テメェだって内心娼婦を馬鹿にしてんじゃねーか、体を売るなんて汚ェと思ってんじゃねえかよ!!」
言葉尻をとられた。
ピジョンは愕然とする。娼婦を軽んじる意図はない、売春を全否定するわけじゃない、生計を立てる立派な一手段だ。そんなの今さら言ったって後付けの言い訳にしか聞こえない、自分の耳にさえ空々しく響くのだから間違いない、一度出た言葉は戻せない。
ピジョンは弱弱しく反駁する。
「違うんだ……」
スワローは鼻白む。
冷え込んだ目には兄への軽蔑も露わだ。
「何が違うんだ偽善者。ウリで小遣い稼ぐ俺の事も、腹ン中じゃ汚ェと思ってやがるくせに」
「お金と引き換えにどうこうじゃなくて知らないヤツとヤるのがいやなんだよ!!」
言わせるなよこんなこと。
頼むから、お願いだから、わかってくれよ。
「やなんだよ……」
お前が人のモノになるのが。
はした金でプライドを切り売りするのが。
知らないヤツがお前を好き勝手するのが、お前がいつも俺にしてるようなことを他のヤツにしたりされたりするのが、想像しただけで頭がどうかしそうな位いやなんだよ。
無慈悲に引きずられてモッズコートを砂まみれにし、地面と削れた額や頬に擦り傷を拵えて呻く。
「どうしても行きたきゃ俺を倒していけ」
「テメェが勝手に倒れたんだろが!」
洟を啜って哀願する兄の情けない醜態に何を思ったか、スワローがピジョンを蹴り倒す。
「一回だけチャンスをやる。俺かお前か、勝った方が母さんに話すってのはどうだ」
「そんな……一回も勝ったことないのに」
「本気をだせよ、俺の兄貴ならそん位できて当然だ。万一テメェが勝ったらなんでも言うこと聞いてやる。しないでほしいなら見逃してやる、ウリをやめろってゆーならそうする。どうだ、いいこと尽くしだろ?」
「見逃して……?」
「俺とお前がこうなる前の関係に戻るってこった。今まであったこと全部キレイさっぱりチャラにして、普通の兄貴と弟になって、なんとか母さんを哀しませねーよう上手くやっていく。それが望みなんだろ?」
信じがたい面持ちで繰り返すピジョンに、スワローはそっけなく頷く。
前の関係に戻れる?
スワローとピジョンがこんなにどうしようもなく拗れる前の、健全な兄と弟の関係に戻れる?
素晴らしい提案だ。もし勝てばピジョンはもう夜が訪れる度怯えずにすむ、金輪際貞操を脅かされずにすむ。
ピジョンは兄として、弟としてのスワローを好きでいられる。その事に何のうしろめたさも持たずにすむ。
「もうパンツの中に手を入れねえ、ベッドの中でイタズラしねえ、兄貴秘蔵のエロ本をこれ見よがしに広げておかねえ、オナホでしごかねえ、いやらしいキスもしねえ、テメェがオナってるトイレのドアを連打しねぇ、ケツに俺のを擦り付けて恥ずかしいことも言わせねぇ。あとえーと……他にもあったか?とにかくそれ全部ひっくるめて、手は出さねえって約束する」
「お前が勝ったら?」
「抱かせろ」
「…………」
「今夜抱かせろ」
「……心の準備が」
「今しろ」
無茶苦茶だ。
「無茶苦茶だって顔してるな?ンなびびるこたねー、ヤられたくねーなら勝てばいいだけの話だ。それとも何、兄貴は口だけの男なのか?弟にここまで譲歩させて恥ずかしくねーの?こっちは問答無用でヤったっていいんだ、今この場でテメェを張っ倒すのもワケねー、うるさく喚く口にパンツを突っ込んでずこばこ突いたってちっともかまわねー」
スワローはわざわざ取引を持ちかけ、兄の覚悟を問うている。ここで逃げる程度の男なのかとふてぶてしく挑発してプライドを試している。
ごくりと生唾を呑み、ズボンの膝汚れを払って立ち上がる。皺くちゃによれたモッズコートの背中にはスワローの靴跡が多数刻まれている。ピジョンは無言で片方の手を拳にし、それをグッと前に突き出す。
「……のった」
「そうこなくっちゃ」
スワローが皮肉っぽく笑い、同じく片拳を突き出し兄のそれと軽く当てる。
「ルール無用時間無制限、ドッグタグを奪うか完全降伏して敗北を認めるか再起不能になるまで一本勝負。フィールドは採石場全体だ。断崖に設けられた足場にゃそれなりに段差もある、所々プレハブ小屋やセメント袋の堤や堀や穴がある、トラップの細工にゃ事欠かねぇ。武器も大盤振る舞いだ、お手製スリングショットでも火炎瓶でもなんでも使っていいぞ」
兄の目の奥に尖った眼光を抉り込み、拳に圧をかけて押し返しながら宣言する。
「死ぬ気でかかってきな。じゃねーと死なす」
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