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21g
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ピジョンのネコが死んだ。
「朝起きたら段ボールの中で冷たくなってたんだ」
拾ってきてから四か月ちょっと、歴代の居候の中では長くもったほうだ。
薄汚れたモッズコートを羽織り、すっかり冷たく固くなった肉のかたまりを、大事そうに胸に抱き直すピジョン。俯いた顔の表情は陰って読めない。
「ごはんをあげようとして気付いたんだ。コイツの大好きなオイルサーディン。ホントは俺の朝ごはんだったんだけど、ちょっとだけ分けてあげようと思って。食べてると必ず足に纏わり付いて甘えたように鳴くし……人間の食べ物だから、ネコの身体に悪い成分が入ってたのかもしれないのに。油分も多すぎる」
「しょうがねえだろ、ペットフードなんて贅沢品買うカネねえし。ありゃセレブの道楽だ」
ピジョンの横には赤い柄の缶切りと蓋を開けたオイルサーディンが缶詰が転がっている。コレをネコに食わせようとしたのだ。
食いしん坊でおそろしく意地汚く、落ちてるものでも普通に拾って食うピジョンが、たかだかネコ風情に朝メシを分けてやろうなんて気前よいお慈悲を出すから、ろくでもないしっぺ返しをくうのだ。
トレーラーハウスの中には幼い兄弟ふたりきり。
母は二人に留守番をまかせ、ガソリンの値切り交渉にでかけている。ピルや生理用品、肌着の買い出しにまで息子たちに頼む出不精な母だが、さすがにこれだけは任せきりにできない。
シリアルで簡単に朝食を済ませた母は、よそ行きの服でおめかしし、バッチリ化粧を整えて、「いってくるわね」とスワローとピジョンにキスをした。
その直後の出来事だ、段ボールの中で死んでいる猫を発見したのは。
「看取ってやれなかった」
今にも消え入りそうにか細く呟いて、洟を啜り上げる。
ずり落ちかけた死体を甲斐甲斐しく抱き直し、うなだれた頭を肩にもたせかけ、丸まった背をなでてやる。
ペットに死なれるのは初めてじゃないだろうに、まるで初めてのようにピジョンは嘆き悲しむ。
何度くりかえしたって慣れはしない。慣れる必要も感じてない。
死に慣れて鈍感になることが、愛情かけた動物への最大の裏切りであるかのように、何度でも馬鹿正直に傷付き、ふさぎこむ。
震える声音は懺悔と後悔の響きを帯びて、伸びた前髪に隠れた目元に、大粒の涙が盛り上がる。
ピジョンの体には井戸がある。
尽きせぬ哀しみが掘り抜いたその井戸が、自責を釣る瓶にくりかえし水を汲み上げるものだから、コイツの涙にはきりがない。
「仕方ねえだろ、寝てるあいだにおっ死んだんだからよ。寿命だって」
こんな時なんて声をかければいいか。
発破をかける?笑い飛ばす?鬱陶しいと小突く?どれも正解で不正解だ。
スワローは兄ほどペットに愛着を抱かない。
親しくなると別れが辛いとわかっているから、けっして深入りしないよう一定の距離をおき、無視するかいじめるかの関係性を保ってきた。
ピジョンがひしと抱いて離さないネコ、ジャンピング・ジョージがトレーラーハウスに仲間入りしたのは四か月前。
当初は毛のまだらになった痩せっぽちの野良猫で、どっさりノミを沸かしていた。そのくせ洗われるのをいやがって、はりきって腕まくりし、石鹸を泡立てていたピジョンをひどく手こずらせた。
濁点を連打した声で威嚇するわ引っ掻くわ、ピジョンの腕の中での極道な暴れっぷりは、いまでも食卓を囲んだ時の語り草だ。
スワローのフォローを聞いているのかいないのか、ピジョンが目を伏せる。
「最初の頃はなでるとゴツゴツ骨が当たった」
「デブったよな」
「毎日ごはんあげてたから」
「自分のメシまでやるこたねーのに。育ちざかりだろ俺達」
「食べたがってたから……」
「メシ食ってるときだけすりよってくる。やなネコだぜ」
「……なんでもぐりこんでこなかったんだろ」
「え?」
「よくベッドにもぐりこんできたのに……昨日に限って、なんで」
朝起きるとシーツに毛玉が転がってることはよくあった。しっぽに顔を叩かれて飛び起きた体験も数回ある。
そのたびスワローが怒り狂って投げ付ける枕をジョージは華麗な跳躍で回避し、ジョージを一生懸命応援するピジョンが、代わりに顔面に受けていたのだ。
しんきくさい雰囲気はどうにも苦手だ。スワローは乱暴に頭をかく。
「ネコってさ、死ぬ日が近付くとふらりといなくなるっていうじゃん。それじゃね?」
「何それ」
「コイツもお暇しようとしたけど、途中で体力が尽きて箱の中でぽっくり死んじまったんじゃねーか」
ジャンピング・ジョージは最後まで行儀のいいネコだった。
名前の由来は突然とびあがり人を驚かせる奇癖からだが、そのうち四割はスワローがわざとしっぽを踏ん付けたり、ヒゲをちょんぎろうとしたせいだ。
ジョージを押さえこんでハサミを構える現場を兄に見咎められ、幸いにもそっちは未遂ですんだが、あれからというものスワローの半径1フィート内に寄ってこなくなった。
なおジョージがジャンプするたび、心臓発作でも起こしそうな勢いで一番びっくりしていたのは兄だった。
「…………なんだよそれ」
スワローの憶測がお気に召さず、完全に顔を俯けてしまったピジョンが、力強く死体を抱き締める。
「なんでおしまいの日にいなくなるんだよ、ずっと一緒だったのに水臭いじゃないか。最後の最期くらいあったかいベッドで、気持ちよく死んだっていいじゃないか」
「しらねーよ、あてずっぽだ。ただの気まぐれかもしんねーし……まァそういう気分だったんだろ、しみったれた段ボールこそ自分の家だと思ってたのかもしれねェし」
キッチンの片隅におかれた箱には、ピジョンが乳幼児の頃使っていた、ボロボロのタオルケットが敷かれている。
どういうわけだかジャンピング・ジョージは、ピジョンの寝小便やら鼻水やら涙やらがたっぷり染みこんだ、その汚いタオルケットがお気に入りだった。
「コイツにとっちゃまんざら悪くねェ寝床だったのかもな。飼い主そっくりの物好きだ。なんにせよせいせいしたね、これで朝くるたんび顔に毛玉吐かれて起きなくてすむ」
「そんなの俺には一度だってしない」
「お前にゃしねーだろ、いやがらせだもん。お互い嫌いだった」
「なんでだよ、こんなにかわいくていい子なのに」
うっかり口にだしてから、過去形で語り直さねばならない現実が辛すぎて瞼を擦る。
「……本当に、いい子なんだよ」
ジョージを迎え入れる神様に弁解するように、告げる。
頑なに現在形にこだわるピジョンに対し、スワローは「さいですか」と鼻を鳴らす。
思い出話が一段落し、しばし無言の時が過ぎる。
その間じゅうずっと、冷たくなったかたまりに体温を移そうと努力していたピジョンだが、どんなに強く抱きしめて、どんなに肌をすりあわせても失われたぬくもりは二度と戻らないと悟り、ふっと腕の力を抜く。
「……ジャンピング・ジョージって名前がいけなかったのかな」
「また変化球投げたな」
「もっと強くてかっこよくて長生きできそうな名前にすればよかった。略してJJじゃコメディアンの芸名みたいだもの」
「Gじゃねえのか」
「略すのがイケてる風潮が俺の中で流行ってて……」
「ファイティングなんちゃら?」
「ストロング、パワフル、ブラボー、ファンタスティック……アメージング?」
「なんもねえところでやたらめっぽうとびはねるからジャンピング・ジョージってのはダサダサで安直すぎたな」
「なんでジャンプしたんだろ」
「ノミやダニにさされたんじゃね」
「まめに洗ってたのに……」
「体中にひっかき傷こさえながらな」
スワローはドライでシニカルに皮肉る。
拾われてきた時点でこりゃだめだ、長生きできないだろうと達観していた。予想していたのでショックもない。
あとからやってきてちゃっかり兄の愛情をひとりじめする犬猫は、スワローには目障りでしかない。
だが、死んだとなれば話は別だ。
生きてるあいだは鬱陶しくて目障りでしかない居候も、死んだいまとなっては、ただの冷たい肉のかたまりだ。
ピジョンの足に甘えてすりよることもなければスワローの寝顔に毛玉を吐きもしない、オイルサーディンをちびちび食いもしない、魂の消えた何かだ。
スワローは無言で場所を移る。
散らかったキッチンの片隅、からっぽの段ボールの前にへたりこんで動かない兄と背中合わせに片膝を抱いて座り、荒っぽく吐き捨てる。
「幸せ太りだよ、きっと」
「…………」
「人間サマのメシ分けてもらって、最後に結構いい思いしたんだ。腹一杯で眠るように逝ったんなら、野良上がりにゃ上等の死にざまだ」
誰も手を付けないまま放置されたオイルサーディンを一瞥、指でほじくって口に運ぶ。
ピジョンは何も言わない。ジョージの為に用意した朝食が、弟の口に消えていくのを見もせず、最初の頃に比べて目方が増えた亡骸を抱いている。
合わせた背中のぬくもりが哀しみをゆっくり溶かし、安心感を与えてくれる。
「スワロー」
「何」
「ココロも幸せ太りするのかな」
「は?」
掠れた声をしぼりだし、生前のジョージの姿を回想する。
「最初は人間を怖がって、テーブルやベッドの下に引っ込んだきり出てこなくって……近寄るとシャーッてすごい勢いで威嚇して。そのうちだんだんなれてくれて、なでさせてくれるようになって。お前の顔に毛玉吐いたのも悪気はないんだ、たまたま吐きやすい場所に顔があっただけで……その、何が言いたいかっていうと。毎日ごはんあげて、ノミが沸いたら洗ってやって、そうやってるうちに、カラダだけじゃなくてココロもほんのちょっぴり幸せ太りして逝けたなら……」
そしたら俺も、嬉しい。
「……太り過ぎたらジャンプできなくなるぜ」
「はらぺこで死ぬよりマシさ……マシだよね」
「知ってっかピジョン、人間は死ぬと21グラム軽くなるんだとさ。で、それが魂の重さなんだと」
「ホント?」
「迷信だよばーか」
「やっぱり……」
「ネコは何グラム軽くなるんだろうな」
「…………」
「量ってみっか。あそこにあるし」
カウンターのはかりに顎をしゃくるも、くだらない提案にピジョンはちっとものってこない。ただ小さく首を振り、小刻みに震えるくちびるを噛み締める。
「おい」
だしぬけに立ち上がり、スワローのそばを離れてカウンターへ。
ネコを抱いたままプラスチックのはかりの前にたたずむ兄に、バツ悪そうにスワローが声をかける。
「マジにとるな、冗談だって」
腰を浮かせて歩み寄ったスワローは、プラスチックの皿を濡らす数滴のしずくを見、かけようとした言葉を忘れる。
ピジョンの頬に透明な筋を彫り、顎先からぽたぽた滴った大粒の涙を、皿が微動せず受け止める。
「……俺から出たぶんだけ、重くなればいいのに」
どんなに綺麗な涙を流しても、まったく意味がない。
それは1グラムにも満たず、何も癒せない。
わざわざ拭かずとも、ほっとけばあっけなく蒸発するしずくでしかない。
そんな兄の姿はまるで、ジョージの毛皮に涙をしみこませれば、抜け出た魂を取り戻せると信じている子どもみたいだ。
涙を吸ったぶんだけ重くなりやがて本当に動き出す、そんな都合いい奇跡が起きてほしいと祈る。
「なんで俺の涙こんなに軽いの?」
こんなに哀しいのに。悔しいのに。
軽くて、薄っぺらくて、何の役にも立たない。
ピジョンの涙は、失われた21グラムの代用品だ。
コイツの涙は、失われた21グラムを補填する。
「もっとしあわせにできたはずなんだ。もっと優しくできたはずなんだ。もっときっとなにかできたはずなんだ。缶詰がいけなかったのかな、おねだりされるままあげ続けたから……俺のせいだ、甘やかしすぎたからこんな早く死んだ。どうすればよかったんだろ……精一杯やったんだ、痩せっぽちのガリガリで、だからたくさん食べさせてやりたくて、日に日に太っていくのが嬉しくて、抱き上げるたんび重くなってると心がほわってして……そのせいで得意技のジャンプもだんだんできなくなって死んじゃったんなら……」
ピジョンは声を出さずに泣く。
自分を責めて啜り泣く。
「俺がやったことって、なんだったんだ?」
「21グラムに贅肉を付けたんだろ」
石鹸の匂いがするピンクゴールドの猫っ毛を軽くかきまぜる。
「腹ぺこのまんま長生きするのと腹いっぱいで早死にすんなら、あとのほうがカラッと笑って逝ける感じだぜ」
「……そうかな」
「そうだろ」
ピジョンが生涯で流す涙の量は、21グラムを余裕でこえる。
その一滴たりとも無駄にしたくなくて、体に取り入れて別の何かに変えたくて、プラスチックの皿をぬらす涙をすくいとり唇へもっていく。
誰かや何かを本気で悼んで泣く、世界で一番純粋なコイツの涙をひとなめすれば、体の内側から浄められて、別の貴い何かに生まれ変われる気がして。
手遅れになったなにもかもを、取り戻せる気さえして。
兄と同じに泣いてやる熱量をもたないスワローは、せめてそうすることで、喪失の哀しみをシェアする。
スワローと並び立ったピジョンが、弟のそっけない同意にうなだれた顔を上げ、モッズコートの袖口で顔を擦る。
真っ赤に充血した目をしばたたき、一途な祈りに似て切実な表情で、肩にもたれかかるジョージを支える。
「……そうだといいな」
ジョージの体が21グラム軽くなったかどうかは、結局わからずじまいだった。
「朝起きたら段ボールの中で冷たくなってたんだ」
拾ってきてから四か月ちょっと、歴代の居候の中では長くもったほうだ。
薄汚れたモッズコートを羽織り、すっかり冷たく固くなった肉のかたまりを、大事そうに胸に抱き直すピジョン。俯いた顔の表情は陰って読めない。
「ごはんをあげようとして気付いたんだ。コイツの大好きなオイルサーディン。ホントは俺の朝ごはんだったんだけど、ちょっとだけ分けてあげようと思って。食べてると必ず足に纏わり付いて甘えたように鳴くし……人間の食べ物だから、ネコの身体に悪い成分が入ってたのかもしれないのに。油分も多すぎる」
「しょうがねえだろ、ペットフードなんて贅沢品買うカネねえし。ありゃセレブの道楽だ」
ピジョンの横には赤い柄の缶切りと蓋を開けたオイルサーディンが缶詰が転がっている。コレをネコに食わせようとしたのだ。
食いしん坊でおそろしく意地汚く、落ちてるものでも普通に拾って食うピジョンが、たかだかネコ風情に朝メシを分けてやろうなんて気前よいお慈悲を出すから、ろくでもないしっぺ返しをくうのだ。
トレーラーハウスの中には幼い兄弟ふたりきり。
母は二人に留守番をまかせ、ガソリンの値切り交渉にでかけている。ピルや生理用品、肌着の買い出しにまで息子たちに頼む出不精な母だが、さすがにこれだけは任せきりにできない。
シリアルで簡単に朝食を済ませた母は、よそ行きの服でおめかしし、バッチリ化粧を整えて、「いってくるわね」とスワローとピジョンにキスをした。
その直後の出来事だ、段ボールの中で死んでいる猫を発見したのは。
「看取ってやれなかった」
今にも消え入りそうにか細く呟いて、洟を啜り上げる。
ずり落ちかけた死体を甲斐甲斐しく抱き直し、うなだれた頭を肩にもたせかけ、丸まった背をなでてやる。
ペットに死なれるのは初めてじゃないだろうに、まるで初めてのようにピジョンは嘆き悲しむ。
何度くりかえしたって慣れはしない。慣れる必要も感じてない。
死に慣れて鈍感になることが、愛情かけた動物への最大の裏切りであるかのように、何度でも馬鹿正直に傷付き、ふさぎこむ。
震える声音は懺悔と後悔の響きを帯びて、伸びた前髪に隠れた目元に、大粒の涙が盛り上がる。
ピジョンの体には井戸がある。
尽きせぬ哀しみが掘り抜いたその井戸が、自責を釣る瓶にくりかえし水を汲み上げるものだから、コイツの涙にはきりがない。
「仕方ねえだろ、寝てるあいだにおっ死んだんだからよ。寿命だって」
こんな時なんて声をかければいいか。
発破をかける?笑い飛ばす?鬱陶しいと小突く?どれも正解で不正解だ。
スワローは兄ほどペットに愛着を抱かない。
親しくなると別れが辛いとわかっているから、けっして深入りしないよう一定の距離をおき、無視するかいじめるかの関係性を保ってきた。
ピジョンがひしと抱いて離さないネコ、ジャンピング・ジョージがトレーラーハウスに仲間入りしたのは四か月前。
当初は毛のまだらになった痩せっぽちの野良猫で、どっさりノミを沸かしていた。そのくせ洗われるのをいやがって、はりきって腕まくりし、石鹸を泡立てていたピジョンをひどく手こずらせた。
濁点を連打した声で威嚇するわ引っ掻くわ、ピジョンの腕の中での極道な暴れっぷりは、いまでも食卓を囲んだ時の語り草だ。
スワローのフォローを聞いているのかいないのか、ピジョンが目を伏せる。
「最初の頃はなでるとゴツゴツ骨が当たった」
「デブったよな」
「毎日ごはんあげてたから」
「自分のメシまでやるこたねーのに。育ちざかりだろ俺達」
「食べたがってたから……」
「メシ食ってるときだけすりよってくる。やなネコだぜ」
「……なんでもぐりこんでこなかったんだろ」
「え?」
「よくベッドにもぐりこんできたのに……昨日に限って、なんで」
朝起きるとシーツに毛玉が転がってることはよくあった。しっぽに顔を叩かれて飛び起きた体験も数回ある。
そのたびスワローが怒り狂って投げ付ける枕をジョージは華麗な跳躍で回避し、ジョージを一生懸命応援するピジョンが、代わりに顔面に受けていたのだ。
しんきくさい雰囲気はどうにも苦手だ。スワローは乱暴に頭をかく。
「ネコってさ、死ぬ日が近付くとふらりといなくなるっていうじゃん。それじゃね?」
「何それ」
「コイツもお暇しようとしたけど、途中で体力が尽きて箱の中でぽっくり死んじまったんじゃねーか」
ジャンピング・ジョージは最後まで行儀のいいネコだった。
名前の由来は突然とびあがり人を驚かせる奇癖からだが、そのうち四割はスワローがわざとしっぽを踏ん付けたり、ヒゲをちょんぎろうとしたせいだ。
ジョージを押さえこんでハサミを構える現場を兄に見咎められ、幸いにもそっちは未遂ですんだが、あれからというものスワローの半径1フィート内に寄ってこなくなった。
なおジョージがジャンプするたび、心臓発作でも起こしそうな勢いで一番びっくりしていたのは兄だった。
「…………なんだよそれ」
スワローの憶測がお気に召さず、完全に顔を俯けてしまったピジョンが、力強く死体を抱き締める。
「なんでおしまいの日にいなくなるんだよ、ずっと一緒だったのに水臭いじゃないか。最後の最期くらいあったかいベッドで、気持ちよく死んだっていいじゃないか」
「しらねーよ、あてずっぽだ。ただの気まぐれかもしんねーし……まァそういう気分だったんだろ、しみったれた段ボールこそ自分の家だと思ってたのかもしれねェし」
キッチンの片隅におかれた箱には、ピジョンが乳幼児の頃使っていた、ボロボロのタオルケットが敷かれている。
どういうわけだかジャンピング・ジョージは、ピジョンの寝小便やら鼻水やら涙やらがたっぷり染みこんだ、その汚いタオルケットがお気に入りだった。
「コイツにとっちゃまんざら悪くねェ寝床だったのかもな。飼い主そっくりの物好きだ。なんにせよせいせいしたね、これで朝くるたんび顔に毛玉吐かれて起きなくてすむ」
「そんなの俺には一度だってしない」
「お前にゃしねーだろ、いやがらせだもん。お互い嫌いだった」
「なんでだよ、こんなにかわいくていい子なのに」
うっかり口にだしてから、過去形で語り直さねばならない現実が辛すぎて瞼を擦る。
「……本当に、いい子なんだよ」
ジョージを迎え入れる神様に弁解するように、告げる。
頑なに現在形にこだわるピジョンに対し、スワローは「さいですか」と鼻を鳴らす。
思い出話が一段落し、しばし無言の時が過ぎる。
その間じゅうずっと、冷たくなったかたまりに体温を移そうと努力していたピジョンだが、どんなに強く抱きしめて、どんなに肌をすりあわせても失われたぬくもりは二度と戻らないと悟り、ふっと腕の力を抜く。
「……ジャンピング・ジョージって名前がいけなかったのかな」
「また変化球投げたな」
「もっと強くてかっこよくて長生きできそうな名前にすればよかった。略してJJじゃコメディアンの芸名みたいだもの」
「Gじゃねえのか」
「略すのがイケてる風潮が俺の中で流行ってて……」
「ファイティングなんちゃら?」
「ストロング、パワフル、ブラボー、ファンタスティック……アメージング?」
「なんもねえところでやたらめっぽうとびはねるからジャンピング・ジョージってのはダサダサで安直すぎたな」
「なんでジャンプしたんだろ」
「ノミやダニにさされたんじゃね」
「まめに洗ってたのに……」
「体中にひっかき傷こさえながらな」
スワローはドライでシニカルに皮肉る。
拾われてきた時点でこりゃだめだ、長生きできないだろうと達観していた。予想していたのでショックもない。
あとからやってきてちゃっかり兄の愛情をひとりじめする犬猫は、スワローには目障りでしかない。
だが、死んだとなれば話は別だ。
生きてるあいだは鬱陶しくて目障りでしかない居候も、死んだいまとなっては、ただの冷たい肉のかたまりだ。
ピジョンの足に甘えてすりよることもなければスワローの寝顔に毛玉を吐きもしない、オイルサーディンをちびちび食いもしない、魂の消えた何かだ。
スワローは無言で場所を移る。
散らかったキッチンの片隅、からっぽの段ボールの前にへたりこんで動かない兄と背中合わせに片膝を抱いて座り、荒っぽく吐き捨てる。
「幸せ太りだよ、きっと」
「…………」
「人間サマのメシ分けてもらって、最後に結構いい思いしたんだ。腹一杯で眠るように逝ったんなら、野良上がりにゃ上等の死にざまだ」
誰も手を付けないまま放置されたオイルサーディンを一瞥、指でほじくって口に運ぶ。
ピジョンは何も言わない。ジョージの為に用意した朝食が、弟の口に消えていくのを見もせず、最初の頃に比べて目方が増えた亡骸を抱いている。
合わせた背中のぬくもりが哀しみをゆっくり溶かし、安心感を与えてくれる。
「スワロー」
「何」
「ココロも幸せ太りするのかな」
「は?」
掠れた声をしぼりだし、生前のジョージの姿を回想する。
「最初は人間を怖がって、テーブルやベッドの下に引っ込んだきり出てこなくって……近寄るとシャーッてすごい勢いで威嚇して。そのうちだんだんなれてくれて、なでさせてくれるようになって。お前の顔に毛玉吐いたのも悪気はないんだ、たまたま吐きやすい場所に顔があっただけで……その、何が言いたいかっていうと。毎日ごはんあげて、ノミが沸いたら洗ってやって、そうやってるうちに、カラダだけじゃなくてココロもほんのちょっぴり幸せ太りして逝けたなら……」
そしたら俺も、嬉しい。
「……太り過ぎたらジャンプできなくなるぜ」
「はらぺこで死ぬよりマシさ……マシだよね」
「知ってっかピジョン、人間は死ぬと21グラム軽くなるんだとさ。で、それが魂の重さなんだと」
「ホント?」
「迷信だよばーか」
「やっぱり……」
「ネコは何グラム軽くなるんだろうな」
「…………」
「量ってみっか。あそこにあるし」
カウンターのはかりに顎をしゃくるも、くだらない提案にピジョンはちっとものってこない。ただ小さく首を振り、小刻みに震えるくちびるを噛み締める。
「おい」
だしぬけに立ち上がり、スワローのそばを離れてカウンターへ。
ネコを抱いたままプラスチックのはかりの前にたたずむ兄に、バツ悪そうにスワローが声をかける。
「マジにとるな、冗談だって」
腰を浮かせて歩み寄ったスワローは、プラスチックの皿を濡らす数滴のしずくを見、かけようとした言葉を忘れる。
ピジョンの頬に透明な筋を彫り、顎先からぽたぽた滴った大粒の涙を、皿が微動せず受け止める。
「……俺から出たぶんだけ、重くなればいいのに」
どんなに綺麗な涙を流しても、まったく意味がない。
それは1グラムにも満たず、何も癒せない。
わざわざ拭かずとも、ほっとけばあっけなく蒸発するしずくでしかない。
そんな兄の姿はまるで、ジョージの毛皮に涙をしみこませれば、抜け出た魂を取り戻せると信じている子どもみたいだ。
涙を吸ったぶんだけ重くなりやがて本当に動き出す、そんな都合いい奇跡が起きてほしいと祈る。
「なんで俺の涙こんなに軽いの?」
こんなに哀しいのに。悔しいのに。
軽くて、薄っぺらくて、何の役にも立たない。
ピジョンの涙は、失われた21グラムの代用品だ。
コイツの涙は、失われた21グラムを補填する。
「もっとしあわせにできたはずなんだ。もっと優しくできたはずなんだ。もっときっとなにかできたはずなんだ。缶詰がいけなかったのかな、おねだりされるままあげ続けたから……俺のせいだ、甘やかしすぎたからこんな早く死んだ。どうすればよかったんだろ……精一杯やったんだ、痩せっぽちのガリガリで、だからたくさん食べさせてやりたくて、日に日に太っていくのが嬉しくて、抱き上げるたんび重くなってると心がほわってして……そのせいで得意技のジャンプもだんだんできなくなって死んじゃったんなら……」
ピジョンは声を出さずに泣く。
自分を責めて啜り泣く。
「俺がやったことって、なんだったんだ?」
「21グラムに贅肉を付けたんだろ」
石鹸の匂いがするピンクゴールドの猫っ毛を軽くかきまぜる。
「腹ぺこのまんま長生きするのと腹いっぱいで早死にすんなら、あとのほうがカラッと笑って逝ける感じだぜ」
「……そうかな」
「そうだろ」
ピジョンが生涯で流す涙の量は、21グラムを余裕でこえる。
その一滴たりとも無駄にしたくなくて、体に取り入れて別の何かに変えたくて、プラスチックの皿をぬらす涙をすくいとり唇へもっていく。
誰かや何かを本気で悼んで泣く、世界で一番純粋なコイツの涙をひとなめすれば、体の内側から浄められて、別の貴い何かに生まれ変われる気がして。
手遅れになったなにもかもを、取り戻せる気さえして。
兄と同じに泣いてやる熱量をもたないスワローは、せめてそうすることで、喪失の哀しみをシェアする。
スワローと並び立ったピジョンが、弟のそっけない同意にうなだれた顔を上げ、モッズコートの袖口で顔を擦る。
真っ赤に充血した目をしばたたき、一途な祈りに似て切実な表情で、肩にもたれかかるジョージを支える。
「……そうだといいな」
ジョージの体が21グラム軽くなったかどうかは、結局わからずじまいだった。
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