タンブルウィード

まさみ

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HELLO WORLD

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こぢんまりした待合室の揺りかごに赤ん坊が寝ている。
小さな男の子が爪先立って覗きこむ。
「風が吹いたら木の枝折れて赤ちゃん落ちた、ゆりかご落ちた、みぃんな落ちた……」
年の頃は3・4歳か。たどたどしく口ずさむのは、馴染みあるマザーグースの子守唄。
赤ん坊を寝かせた揺りかごが風と共に落ちる不吉な内容だが、そのメロディは至ってのどかで、眠りを誘うのにちょうどいい。
男の子がおもむろに片手を伸ばし、毛布を被った弟の胸を優しく叩く。
赤ん坊はバンザイをして眠る。
顔の横にちょこんと手を挙げた姿は愛くるしい。
「スアロ、寝た?」
彼はまだ幼い。
故に舌が上手く回らず、弟の名前もちゃんと呼べない。自分の名前すら略す始末だ。
舌足らずな発音で確認し、揺りかごのへりに腕をひっかけ、もう一方の手でまだ薄い頭髪をそうっと摘まんではパッと放す。
赤ん坊はみんな禿げてる。
これから生えてくるのよ、と母は言ったが本当だろうか。可愛い弟の頭がこれから一生、大人になってもずうっと寂しいままだったらどうしようと内心気を揉み、その時はちょっぴり分けてやろうと決断。
同じ血を分けた兄弟でも髪の毛の色合いは微妙に違い、彼の頭髪は赤みが強く、弟は黄味がかっている。
髪の毛で遊ぶのに飽きて頬を突付く。
人さし指の先端がフニッと沈み、柔い感触に陶然とする。
弟はよく寝ている。もうぐっすりだ。ピジョンがいたずらしたって全然起きない。
しばらくぷにぷにほっぺの感触を楽しんでから、てのひらに指を移す。キュッと握り返されてドキリとする。
起きたのかと一瞬うろたえるも、弟はむこうを向いて目を閉じている。
人さし指を軽く掴まれたピジョンは、用心深く名前を呼ぶ。
「スアロ?」
次はもうちょっと大きく。
「スアーロ?」
揺りかごの影から伸びあがるように元気一杯くり返す。
片方の瞼が震え、口元を伸び縮みさせてむずがる。
「いないいない……ばっ!」
揺りかごの影からいきなりとびだす。変化はない。相変わらずその人さし指を掴んだまま、スワローは夢の世界を旅している。
引っ込んではまたとびだす一人かくれんぼを打ち切ったピジョンは、弟と繋いだ指を軽く揺する。
「遅いねママ」
大事な話があるから、と母が奥の部屋に消えてから随分経った。
実際には小一時間も経過してないのだが、子どもの感覚では途轍もなく冗長に感じる。
時折思い出したように廊下をチラ見しては、揺りかごの中の弟を甲斐甲斐しくあやし、毛の薄い頭をなでてやる。
ピジョンはお兄ちゃんだ。だからお兄ちゃんの役目を立派に果たす。母との約束どおり、ちゃんとスワローを見てる。

ここがどこかは知らない。どこか知らない町の知らない診療所。母の知り合いがやっていると聞いたが、それ以上のことは教えてもらえなかった。
幼いピジョンは覚えてない。
一年前の嵐の晩、この診療所で弟が産声を上げた事実を。
破水した母が駆けこんだ時、母胎は共に危険な状態で、一時は命すら危ぶまれた。
この診療所は親子三代にわたって続いており、地域住民の信頼も篤い。
外観と設備こそ古いが清潔で、三桁の赤子の分娩に立ち会ってきたベテラン助産師もいる。

ピジョンは知る由もないが、母がこの診療所を恃んだのは賢明だった。
いい加減なヤブ医者に当たっていればスワローはこの世に誕生することなく、母も難産で命を落とし、ピジョンはどこぞの孤児院にほうりこまれていた。
実質母子が診療所を訪なうのは一年ぶりだが、それとてピジョンは知る由もない。再訪の目的に至っては言うまでもない。

軽やかな足音が近付く。
白帽に髪をひっ詰めた看護婦がカルテを持って通りがかり、にっこりと微笑みかける。
「あら、かわいい赤ちゃん。ボクが面倒見てるの?」
ピジョンは人見知りだ。その上シャイだ。母以外の大人の女性に話しかけられ、咄嗟に何も返せず急いで頷けば、若い看護婦が褒めてくれる。
「えらいお兄ちゃんね」
ピジョンは母以外の女のひとに殆ど免疫がない。
まわりにいるのは大人の男のひとばかりで、気まぐれに話しかけられることはあれどもまともにおしゃべりできた試しがない。
緊張で汗をかいて、顔が赤くなって、自然とどもってしまうのだ。でも大半の男のひとはそんなこと気にしない、ピジョンが赤くなろうが青くなろうがどうでもいい。
母の関心を引くためにピジョンを手懐けようとした人はたくさんいたけど、彼らにとって自分はおまけにすぎないのだと、ピジョンはボンヤリ把握し始めていた。そのことに寂しさも感じていた。
褒められたくすぐったさについ頬が緩むも、どんな表情を作っていいかわからず揺りかごの後ろに引っ込めば、看護婦がこっちにやってくる。
どうしよう?
逃げ場をさがしてきょろきょろするピジョンの前で屈み、右手を翳す。
「いい子にしてるご褒美よ。はい」
頭を包むぬくもり。なでられて心臓がどきどきする。
看護婦がポケットから飴をとりだしてピジョンに渡す。
「あい、ありがと」
どもりがちにお礼を言えば、優しそうな看護婦は笑って踵を返し―去り際にふと揺りかごを覗きこんで目を見開く。
「ホント、天使みたい……」
母性本能を直撃され、感嘆符をこぼす。
弟は美しい赤ん坊だった。起きているときは小さい怪獣だけど、寝ているときはピジョンだって見とれる。
赤子の段階から顔だちは整っていて、金糸を一本一本移植したような睫毛が、完璧な弧を描く瞼を優雅に縁取っている。
「…………、」
弟を誇る気持ちと、注目を奪われた嫉妬とが綯い交ぜになってモヤモヤする。
「じゃあね」
手を振って去っていく看護婦。
遠ざかる背中に遠慮がちに手を振り返してから、ぺりりと包装紙を剥がし、飴玉を摘まんで含む。
念のため弟を振り返って付け足す。
「スアロはだめだよ。もっとおっきくなってからね。これピジョのだからね」
口の中に放りこんで右に左に転がす。
甘ったるいミルクの風味に恍惚とする。
それにしても、遅い。
ためしに廊下を覗いてみる。母の姿はない。急激に不安がこみ上げる。
トレーラーハウスで待っててもいいのよと母には言われたが、車でおるすばんしているより、診療所を見たい好奇心が勝って付いてきた。
いい子で待ってると約束した手前心苦しいが、ちょっとだけ、ちょっとだけなら探検したって許されるはずだ。弟が熟睡してる今がチャンスだ。
「ママさがしてくるね」
そう言いおいて抜き足差し足廊下に出る。
目指すは奥の部屋……シンサツシツだ。壁伝いに移動してドアの前で立ち止まる。中から話し声がする。ママとお医者さんだ。
ドア一枚隔てた母の声を聞いて安堵、ノブを回して踏み入ろうと……

「検出された成分はヘロイン、コカイン、アヘン、LSD……現在存在が確認されている覚せい剤のどれとも異なる未知の組成です」

壮年の男性の重々しい声に硬直。
ノブを回すのはやめ、僅かな隙間に片目を寄せて室内を覗く。
白い衝立で仕切られた向こうに、椅子に掛けた影が一対。

「あの、えっと。先生、それってどういうことですか」

うろたえきった母の声。
縋るような問いかけに、もう一方の影が忸怩と首を振る。

「いいですか、気をしっかりもって聞いてください。貴女とお子さんのこれからに関わる大事な話です。貴女が出産直前に打たれた薬物……血液を採取して詳しく調べた結果、既存のドラッグの類ではないと判明しました。もっと何か別の、異常な……」
「あの夜……わたし破水して、すぐ駆け込んで……」
「ええ、いっときは予断を許さぬ状態でした。母子とも無事だったのは奇跡です。貴女は産み月の妊婦にもかかわらず酷い性的暴行を受け、薬物を静脈注射された。レイプされた女性の診療は初めてじゃありませんが、その私をもってしても悪魔の所業としか思えない所見です」
「子供に影響はないんですか……」
「経過を見なければなんとも。ですが……一説によると、薬物中毒者の子供は精神疾患を抱えやすいとも言われます。妊娠中の乱用が死産、流産、畸形などに繋がるのは言うに及ばず……薬物は胎盤を通して胎児の脳に影響するので中毒状態で産まれてくることもある。心臓や身体に器質的障害を引き起こすケースも報告されています」
「そんな……」
「NSA……新生児禁断症候群はご存知ですか?薬物中毒者の親から生まれた新生児に多く見られる症例で、生まれてすぐ震えたりぐったりするのですが、お子さんにその兆候は……」
「産声を上げるまで時間はかかったけど……でもあの、スワローはとっても元気で。健康に育ってて。ミルクもたくさん飲んでくれるし、よく泣いてよく眠るし」
「成長すれば精神面に影響がでるかもしれません。集中力の欠如、多動性、著しい自己本位や情緒不安定などといった……」
「全部クスリのせいなんですか?あの人のいうなりだったから」
「子どもの人格形成には環境が作用しますから……私が言いたいのは、この先数年のスパンで見た場合母子ともになんらかの副作用ないし後遺症がでる可能性だけは覚悟してくださいと……いえ、ハッキリ言います。貴女はもう二度と……」
「どんな後遺症ですか?スワローは一体……あの子はどうなるの」
「……わかっていることをできるだけお話します。貴女が注射されたのは巷に氾濫する安価なセックスドラッグなんかじゃない、感覚を極限まで鋭くするクスリ、遺伝子レベルのドーピング剤といえばいいのか……ミュータントはご存知ですね。彼らの体液……おそらく血を主成分としたもの」
「血……?」
「ミュータントの台頭から世代を経た現在、放射能汚染区域でも逞しく生き延び、環境への適応を成し遂げた彼らこそ規格外イレギュラーに非ず正規品ノーマルだと見直す向きがあります。人間を遥かに凌駕する身体能力を持ち、人の限界を超越する種……人類の進化形態として彼らに次代の希望を託す一部の層が、後天的にミュータントを作ろうと、その血や細胞を使って研究してるんです。たとえば注射するだけで異能を発現する新薬……皮膚の一部が硬質化したり、視力が強化されて1マイル先まで見通せたり……馬鹿げたことです。ですがそんな薬を本気で開発しようと地下に潜った連中がいます。各地から有能な医師や研究者をさらい、人身売買や誘拐で被験体をかき集め、非合法な実験をくり返すマッドサイエンティスト集団が」
「私達……実験台にされたの……?」
「貴女の話が本当ならその男が注射したのは試験段階の……」

飛び交う会話はむずかしすぎてピジョンには殆どわからず、「臨月の胎児への影響は未知数」「最悪極端に短命な」「ミュータントへの後天的覚醒はまだ確認されてない」と事務的に告げる声だけが響く。
過剰摂取オーバードースで即死しなかったのが奇跡」だとも。
とても声をかけられる雰囲気じゃないと諦め、音をたてぬようドアの前を離れて引き返す。
元の部屋にもどり、改めて揺りかごを覗く。
「スアロ」
愛くるしい弟の寝顔を見、胸がじんわりぬくもる。
内緒話を覗いてしまった後ろめたさでまだ心臓がドキドキしてる。母の不安げな声音と医師の厳めしい声音、衝立に映し出される影の不穏さを懸命に振り払い、健康的な薄ピンクの頬をちょんちょん突付く。
「いい子だね」
スワローが目を開け、無垢に透き通った瞳でピジョンを見詰める。
揺りかごのへりに腕枕したピジョンが、不思議そうに小首を傾げる。
「なんでバンザイして寝るの?」
あー、とも、うー、とも付かぬ声でスワローが呻き、ちっぽけな拳を振り回す。しきりに毛布を蹴っぽって、寝起きだというのに元気がありあまってる。

自分とは色合いの違う金髪、自分と同じ色の瞳をもって生まれた、世界にただ一人の弟。

「ピジョンも赤ちゃんの頃はバンザイしてたのよ」
「ママ!」
振り向けば真っ赤な目をした母がいた。
スカートの膝を揃えて蹲り、抱き付いてきたピジョンを優しくむかえてから、いたずらっぽくほほえむ。
「なんでバンザイしてたか覚えてる?」
「ピジョ?……ピジョはね……えーっと」
質問を質問で返され、ピジョンは一生懸命考える。
母は幼い息子をじっと見詰める。
泣き腫らしたように赤い目で、泣き笑いに似て崩れそうな表情で、謎かけと真摯に向き合う息子を見守り続ける。
ピジョンが顔を輝かせ、目一杯両手を挙げる。
「ママに会えてうれしいから、バンザイしてた」
「……そうなの?」
母が限りなく淡く微笑み、目尻にたまった涙を悟られぬよう、息子の肩に手を添えて揺りかごに向き直らせる。
「じゃあ、スワローもきっとおなじよ」
「おんなじ?」
「ピジョンに会えてうれしいからバンザイしてるのよ」

彼女は、本当は知っている。
赤ん坊が顔と手を並べて眠るのは、大人のように体温調節が上手くできないため、てのひらから放熱する必要があるから。

でも、そうは言わない。
この子が世界に生まれてきたことが間違いなわけないと、たとえ世界にとって間違いでも私やこの子にとって間違いなはずないのだと、他ならぬ自分自身がそう信じ込みたくて、祈るように嘘を吐く。
暑いから手をだしてるだけ。
そのわかってしまえば平凡な事実を、そう在ってほしい現実とすりかえる。

この子がどんな子でも愛せる。最初からそう在れば。
健やかに産まれてこれるはずだった子どもの体と心を、身ごもった自分の落ち度で損ねてしまったらどう償えばいいのだろうか。

「ちがうよ、ママ」
ピジョンがきっぱりと首を振る。
「コレはね、ピジョだけじゃなくて、ママにも会えてうれしいのバンザイだよ」

スアロのことならなんでもわかるんだよ、ピジョ。
だっておにいちゃんだもんね。

得意げに胸を張り、小さく溶けた飴を名残惜しげに飲み込んでから、手足をめちゃくちゃに振り回す弟に近寄る。
「ピジョとスアロはね、ママのお腹からでられてうれしいからいーっぱいバンザイするんだよ。でもピジョのがおっきくバンザイするんだ、おててが長くて体もおっきいから。スアロはかないっこないよ、弟だから。ピジョがいなきゃなんにもできないんだよ、ちっちゃくて赤ちゃんだから」
「……スワローだって、大きくなるわよ?」
「そしたらピジョも大きくなる」
「追い越されちゃわない?」
「うんとがんばる」
「がんばりで抜き返す?」
「がんばって、がんばって、それでもだめで、どうしようもないなら泣く」
「潔いのね……」
「大丈夫、おっきくなってもかわいがる。もしスアロがおっきくなっちゃっても、スアロが好きって気持ちはたぶんピジョのがおっきいから、そしたら絶対まけないよ」
ピジョンの言うことは支離滅裂で、幼くて。
「ピジョわかった。こっちにこれてうれしいから、赤ちゃんはバンザイするんだね。産んでくれてありがとうって、一生懸命バンザイしてるんだね」
まだ上手にしゃべれないから、言葉で意志や感情を表現する代わりに、短い腕で精一杯バンザイして。
「しあわせのサインなんだ」
ピジョンがスワローとてのひらを合わせ、妙にしみじみと独りごちる。

子どもが親を選べず、子どもが必ずしも幸せになれるとは限らないこの世界で、しあわせさがしが得意な彼女の小鳩は、どんなささいなことにも意味を見出し、尊ぶ。
無意味に意味を吹き込んで、無価値に価値を吹き込んで、産まれてきたのに幸せになれなかった子も、幸せになりたくて産まれてきたことは絶対に間違ってないのだと。
それがのちにどんな悲惨な結末に繋がるとしても、赤ん坊がバンザイするのはこの世界に送り出してもらえたのがやっぱり嬉しいから、幸せだからだと疑いもせず。
生まれてこれなかった命も、生み捨てられた命も、生まれてきたかった命だと信じて。

「……でも、スアロのバンザイがピジョに会えて一番うれしいのバンザイなら、うれしい」
ご機嫌に暴れる弟に蹴飛ばされ、「痛い!」と叫んで仰け反るピジョンの頭をかき抱き、もう何度目か滲んだ涙を柔い猫っ毛に吸わせる。
「いい子ね、ピジョン」
あなたたちがいるから、ママもしあわせよ。
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