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王様とサムライ
しおりを挟む「貢さんのご乱心だ!」
「嫡男が当主を斬り殺した、帯刀家はおしまいだ!」
使用人たちが恐怖の相で逃げ惑い、足袋のまま庭に駆け出す。ほどなくして障子に血しぶきが飛び、鹿威しが甲高い音を奏でる。
当主の断末魔は短い。
障子を開け放ち出て来たのは、道着に身を包んだ痩身の青年。年の頃十五・六。
烏の濡れ羽色の総髪を結い上げた精悍な風貌は若き武士の貫禄を帯び、切れ長の一重瞼の奥には冴えた眼光が覗く。右手に下げた刀からは鮮血が滴り、畳に点々と赤を点じていた。
「ひっ、ひっ……」
青年の退室を目の当たりにし、現場に居合わせた女中が腰を抜かす。障子が傾いで外れた和室には累々と屍が折り重なり、鉄錆びた血臭が立ち込めていた。皆、青年に惨殺されたのだ。
女中は彼をよく知っていた。帯刀家の嫡男、貢。次期跡取りとして育てられた青年。
厳しい稽古にも音を上げず耐え抜き、十代半ばにして当主を凌ぐ技を身に付けた天才。
優しく実直な人柄で使用人にも慕われていた青年が、何故このような凶行に及んだのか。
春風に乗じ舞うひとひらの花弁が、涙袋に飛んだ返り血を隠すように頬に張り付く。
庭では桜の老木が今宵限りと狂い咲いていた。死出の旅路を祝うようにも見えた。
後ろで括った総髪が緩やかに靡き、爛漫と熟れた春の香りが鼻腔を刺す。
縁側に散りばめられた花びらを一瞥、刀の血を払い独りごちる。
「……これで見納めか」
嘆じる口調に虚無に宿る。嘗て恋した女と桜の下を歩いた思い出が甦り、胸の内に悔恨が根差す。
虚ろな視線の先に恋人の幻が立ち現れ、すぐかき消える。
背後で死んでいる者どもはどうでもいい、取るに足らない存在だ。
帯刀貢は復讐を成した。
目的を遂げた今、娑婆には一切未練はない。
女中が震え声を発し、皺ばんだ手を擦り合わせて拝む。
「い、今見たことは誰にも申しません。だからどうか命だけはお助けを」
「貢さんが莞爾さんを、御父上を手にかけたなんてよそには漏らしません」
土下座で命乞いする使用人たちを見下ろし、毅然と命じる。
「顔を上げろ」
「はっ」
「官憲に連絡しろ」
「は?」
「それがお前たちの務めだ。俺は何処にも逃げぬ。此処にいる。もとより逃げ隠れはせぬ」
桜吹雪がすさぶ縁側に立ち尽くし、厳かに宣言する。
「俺とて武士の端くれ。父、ならびに門下生を手にかけた裁きは甘んじて受ける」
床に這い蹲った使用人が呆然とし、鞭打たれたように走り出す。女中はまだ平伏していた。
次第に遠のく後ろ姿を見送り、手庇を透かして桜を眺める。もうもどらない日々を懐かしむ横顔に乾いた感傷が浮かぶ。
帯刀貢は親殺しの凶悪犯として東京少年刑務所、通称東京プリズンに送られた。
東京プリズンは嘗ての首都に存在する巨大な刑務所である。
純血の日本人が東京プリズンに収監されるケースは非常に稀であり、世論に敏感な政府は厳しい報道管制を敷いた。犯人以下関係者の名前は伏せられ、酸鼻を極めた事件の詳細は闇に葬られる。世間では仙台道場一門殺しと呼ばれた。
収監時の身体検査にあたった看守は、肛門をほじくられても顔色一ツ変えない貢に感心し、「まるで能面だな」と評した。
後悔はない。
呵責もない。
貢は父と門下生を殺した事を何ら悔いていない。連中には死ぬべき理由があった。仮に時を巻き戻せたとしてもきっと同じ事をする。
国の決定に異を唱えなかったのは、復讐を果たしたのちの身の処し方を一切考えていなかったから。
苗の仇さえ討てたなら、我が身がどうなろうと構わなかった。
「なあお前、親殺しって本当か?」
お上の取り決めに従い東京プリズンに収監された貢は、同期の新入りと同じ房を割り当てられた。
「……それがどうした」
「お袋?親父?どっちを殺った」
「父を」
「なんで?ムカツいたから?」
「口数が多いな」
恋人の名誉のために沈黙を守る。ベッドに掛けた少年……張は、面白そうに口角を吊り上げる。
「やるじゃん。日本人は平和ボケした腑抜けぞろいと思ってた」
「そうか」
「東京プリズンを〆るぜ、俺は。手はじめにまずは東棟から。知ってるか、ここには東西南北四人のトップがいるんだ」
張が楽しげに指折り数えていく。
「西の道化、北の皇帝、南の隠者。で、最強と名高ェのが東の王様。物凄い美形らしい、コイツを倒しててっぺんとるんだ」
「一人でか」
「もちろんチームで挑む。聞いてないか、横浜の抗争。二十人殺した愚連隊、『麒麟児』のリーダー、それが俺」
張がベッドから腰を浮かし、両手を広げて貢に歩み寄る。
「同房の縁で仲間に入れてやろうか?東京プリズンで生き残りてェならツルむのが賢いぜ」
「徒党を組んで練り歩くのは肌に合わん」
誘いを断られたのが甚く心外な様子で、肩を竦めて開き直る。
「ハッ、一匹狼気取りか。クソ生意気な日本人め、ケツ掘られても知んねーぞ」
捨て台詞と共に去ってく張を一瞥だにせず、墨を磨って写経に戻る。薄い壁の向こうでは絶えず騒音が響いていた。
先ほどから連続する鈍い音は、発狂した囚人が壁に頭突きをし自殺を図っているのか。
東京プリズンの囚人の大半は貢を遠巻きにしていた。出来心でちょっかいをかけるには素姓が剣呑すぎる。
「仙台道場一門殺しの犯人が収監されたって?」
「どれだよ」
「アレだよアレ」
「見た目は割と普通だな」
「親父と門下生斬り殺したんだとさ、おっかねえ。現場は血の海」
「うへえ」
「ヤれるか」
「どっちの意味で」
「両方に決まってらあ」
東京プリズンの治安は極めて劣悪。看守による体罰の他、リンチやレイプが横行している。
初日の夜、貢の寝込みを襲った男がいた。新入り狩りが趣味の囚人だ。
貢はその強姦魔を組み手で制し、肩関節を外して放り出した。
強姦魔を返り討ちにした一件が噂となり、同じ事を二・三回繰り返す頃には、貢の尻を狙うやからは消え失せていた。
張が勧誘したのは同房の誼にあらず、単に即戦力として見込んだからにすぎない。
収監から一週間後、サムライは食堂の隅で夕食を食べていた。
アジの干物にわかめの切れ端が浮いた薄い味噌汁、それに冷えた白飯といった質素な献立。両隣は空いていた。わかりやすく避けられている。
「綺麗なもんだなあ」
感心した声音に目を上げれば、正面の囚人を押しのけ、見慣れない青年が割り込んできた。凄味を感じる程の美形だ。
両耳に無数のピアスをはめ、胸元に黄金の十字架を下げたなりは軽薄の一語に尽きる。
「特技は骨を外すこと?」
貢が持った箸を指さし、いっそ無邪気に訊く。アジの干物は綺麗に開かれ、几帳面に小骨を取り除かれていた。
囚人に話しかけられるのが久しぶりなせいで返すのが少し遅れた。
「……こうせよと教わったのだ」
「育ちがいいんだな」
「誰だ。名を名乗れ」
対面席で頬杖付き、美しい青年が微笑む。
「ここの王様。レイジ」
してみるとこの男が東京プリズン最強か。想像を裏切られ驚愕する貢をよそに、行儀悪く椅子をガタ付かせ箸を咥える。
「俺さ~箸って超苦手なんだよね、ちっとも慣れねえで苦労してんの。焼き魚なら頭からバリバリ行くのもアリなんだけど、郷に入りゃ郷に従えっていうじゃん」
「出身はどこだ」
「フィリピン」
「なるほど」
フィリピン人なら箸の使い方がわからずとも無理ない。日本は移民の国、東京プリズンは人種の坩堝だ。
無表情に納得し、椀を持って味噌汁を啜る貢の方へ身を乗り出し、王様がうきうき続ける。
「でさ、俺が観察したかぎり東棟じゃお前がいちばん箸の使い方が綺麗なわけ」
「そうか」
「教えてくんない?」
椀から口を離し、目の前の男をまじまじ見詰める。レイジは箸を使うのを諦め、素手でアジを解体していた。
遂にはしっぽを摘まみ、逆さ吊りにしたアジをまるかじり。
「……箸の使い方を?」
「それ以外に何を。69なら俺のが断然上手いぜ、試す?」
「しっくすてぃ……?」
解せぬ。外国語だ。
オウム返しに訝しむ貢に片目を瞑り、小骨ごと焼き魚を噛み砕いて腰を浮かす。
「すぐにとは言わねえ。考えとけ」
妙な男だ。
案の定、周囲はざわめいていた。
「マジか、レイジから声かけたぜ」
「ひょえー」
「親殺しのサムライ野郎に興味津々とか悪趣味だぜ」
「傘下に引き入れようって魂胆かよ」
夕食をたいらげトレイを返却したのち、房に帰って写経に勤しむ。
その日を境に周囲の態度が露骨に変化し、様々な噂が耳に届くようになった。
曰く、レイジが人斬りザムライに興味を持った。
曰く、レイジと仲良くなれば様々な面で便宜をはかってもらえる。
曰く、欲しいものが手に入る。
次にレイジが接触してきたのは三日後。
相変わらず食堂で孤立した貢の前に陣取り、にこやかに返事を聞いてきた。
「例の件考えてくれたか、チョップスティックマスター」
「珍妙な名で呼ぶな」
レイジの前には和食のトレイが置いてある。焼き魚には骨をとろうと格闘した痕跡が見受けられた。
しばし迷い、降参のため息を吐く。
「……構わぬ」
「そうこなくっちゃ」
指を弾いて喜ぶ。
貢も人間だ、箸の使い方を褒められ悪い気はしない。面と向かって教えを請われたら応じようと考えていた。
以来、囚人で騒々しくごった返す食堂のテーブルを挟んで箸の使い方を稽古した。
骨と身の間に箸を入れ、切り開いて骨を除き、流れるように白飯を摘まむ箸捌きを惚れ惚れ眺めてレイジが呟く。
「さすが武士、二刀流はお手の物ってか」
「宮本武蔵を開祖に戴く二天一流は別流派だ」
「こまけーなあ」
「無駄口を叩くな。俺の持ち方を見てまねろ」
「こ~してこ~……」
「指が逆だ」
舌打ち。
「難しいな」
「指をかける場所は箸先から三分の二。上の箸は鉛筆の要領で持ち、下の箸は中指と薬指の間に入れて固定する。物を摘まむ時は中指・人差し指・親指で上の箸を動かす」
「器用だなあ」
実践に目を輝かせるレイジを促す。
「やってみろ」
「よっと」
レイジが焼き魚の目をほじくりだそうとして失敗、箸の片方が倒れ込む。
「あちゃ~惜しい」
「どこがだ」
「床に落ちてねえしセーフって事で」
まるで反省の素振りがない青年に、根気強く箸の使い方を説く。
一週間を経る頃には隣の席に移り、漬物を摘まむサムライの手元を熱心に眺めていた。
「すげータコ」
箸の切っ先がさすのは、貢の手に出来た固い膨らみ。
「実家は道場だっけ?ガキの頃から稽古してたの」
「お喋りが過ぎるぞ。集中しろ」
「まあまあ」
「真面目にやらんなら辞める」
「ツレねーこと言うなよサムライ」
「サムライ?」
「お前のあだ名。知らね?東棟じゅうに広まってんぞ。まあ面と向かって呼ぶ度胸のあるヤツいねーか、俺以外に」
あだ名に心当たりはあった。
憮然と唇を引き結ぶ貢をなれなれしく覗き込み、レイジが手のひらを揉んでくる。
「何す」
「うわ固ッ!何万回素振りしたらこうなるんだよ、殆ど瘤じゃん」
「気安くさわるな」
スキンシップの激しさに辟易、邪険に突っぱねる。レイジはまるで懲りずに笑っていた。
「ずっと背筋伸ばしてて疲れねえか」
「慣れたのでな」
「どんなにこんでてもお前がいる場所はすぐわかる、サーッと人が避けてくもん。あと座り方」
「自分では意識した事ないが」
帯刀家にふさわしい男児たれと父には厳しく躾けられた。背中を曲げようものなら拳骨が飛んでくる。
「頑張ったな、お前」
「……」
箸の使い方を教えるうちに二人の距離は縮まり……もとい、レイジが勝手に距離を詰めてきた。
食堂以外でもサムライの姿を見かけるたび声をかけ、どうでもいい立ち話をし、背中や肩を叩いてくる。
「よ~サムライ、お疲れさん。イエローワーク慣れたか」
「ああ」
「今日は何したの」
「井戸を掘った」
「水がわかねーんじゃただの穴だろ」
「千里の道も一歩からだ」
「オアシスできたら教えてくれ、泳ぎに行くからさ。東京プリズンにヌーディストビーチ作ってマッパで闊歩すんのが俺の夢」
「大層な野望だな」
「お前は無料で入れてやる」
「断る。人前で脱ぐ趣味はない」
「ふんどしは着衣にカウントしねーぞ?」
レイジと喋っていると周囲の視線が痛い。囚人たちはあることないこと二人の仲を勘繰り、デキているんじゃないかとゲスな憶測を交わす。どちらが上か下か賭けを張る命知らずまで現れた。
「6:4で今んとこ俺が優勢」
「俺が4か。待て、それはどちらだ」
「どっちがいい?竿役譲るぜ」
「ふざけるな」
何を隠そうこの成り行きに一番戸惑っているのはサムライである。
レイジはことあるごとサムライに付き纏い、写経や読経の日課を妨げ、東京プリズンに来た事情を根堀り葉掘り蒸し返す。
「なにゆえ付け回す」
「暇潰し」
「暇人だな」
「お褒めに預かり光栄至極」
「褒めてはおらぬ」
「お前みてーな面白いヤツほっといたら損じゃん。めっちゃいじり甲斐あんの、自分じゃ気付いてねえ?」
王様の言動は理解しがたい。気まぐれにしても些か度を越している。単に親殺しの日本人が珍しいのか。からかって反応を見ているだけか。
ある日の夕食の席にて、箸をもてあそびながらレイジが言った。
「なあ、欲しいもんある?」
「やぶからぼうになんだ」
「世話んなった礼」
「賄賂か」
「やな言い方すんな。見返りだよ」
随分上手くなったろとうそぶき、右手に持った箸で焼き魚の目玉を摘まんでみせる。
「毎日写経してりゃ墨も尽きるし紙も減る。ケツ拭く紙で代用するか?」
「情けには甘えん」
「寺子屋だって授業料とんじゃん」
「なぜ日本史に詳しい」
「勉強家なの」
正直に言えば、毎日写経に励んでるせいで墨と紙は減っていた。一方で武士の矜持が物乞いを許さない。眉間に皺を刻んで俯くサムライに対し、レイジがにんまり笑む。
「なんでも言え。ちゃちゃっと都合してやる」
「……いや」
「武士は食わねど高楊枝ってか?」
「すぐには思い付かん」
「時間をやるよ」
「恩着せがましいのは好かん」
「面倒くせえ~」
大袈裟に顔をしかめ天井を仰ぐレイジに向かい、素朴な疑問を呈す。
「そうまでして箸の使い方を体得したい理由はなんだ。お前をこけにする輩などいなかろうに」
極論を述べるならレイジが今ここで這い蹲り犬食いした所で笑うものなど皆無、東棟ではレイジこそ絶対なのだ。
一部の例外を除いて。
サムライの質問に箸をツッと上げ、レイジが口を尖らす。
「だってだせえじゃん」
「……それだけか」
「下々に示しの付かねーこたしたくねェの。東棟の王様がまともに箸使えなくてよそで恥かくのはうちの連中だし」
東棟の囚人は台湾・中国系で占められる。物心付いた時から自然に箸を使いこなしてきた連中にしてみれば、突き刺す一択の箸使いは滑稽と言わざる得ない。
「ヨンイルに馬鹿にされんの癪だもん」
「西の道化か」
「韓国出身」
房に着く間際、廊下で囚人たちに囲まれた。
先頭に立ち塞がっているのは、レイジに箸の使い方を教え始めてから、こちらを無視し続けていた張だ。
「上手く取り入ったじゃん、親殺しのサムライ野郎」
「何のことだ」
「とぼけんな」
張が怒りに顔を染め、サムライを物陰に引っ張り込む。
「俺がレイジを狙ってんの知ってるくせに何の真似だ、一緒に死にてえのか」
「関係ない。ただ箸の使い方を乞われたから教えているまでだ」
「箸ィ!?」
張が素っ頓狂な声を上げ、取り巻きが便乗して爆笑する。
「ハッ、完全無欠の王様の意外な弱点発見だな!箸が使えねえとか超だせえ、だったら犬食いしろっての、床に餌ぶちまけてやっからさ」
不快な哄笑が膨らむ。脳裏に箸と格闘するレイジの顔が浮かぶ。焼き魚の目玉をほじりだして得意がる子供っぽい顔。
「何がおかしい」
笑い声が止み、重苦しい静寂が場を支配する。サムライは静かに告げる。
「不得手を悟り師に学ぶのは謙虚な発心だ。いってよいか。寝る前に写経をすませたい」
「待てよ」
張が無造作に胸ぐらを掴んで脅す。
「チクったら殺すぞ」
「下剋上の計画を?」
そういえばそんな事を言っていた。張が言及するまで忘れかけていたが、まさか本気だったとは。
「それはお前とレイジの問題で俺には関係ない。くだらん諍いに巻き込むな」
まだ言い足りない張の手をふりほどき、人垣を突っ切って房へと帰還する。
床に正座し、経典を広げ、写経をはじめてもかき乱された心は休まらない。
凶悪無比な罪状から誤解されがちだが、帯刀貢は決して野蛮な人斬りではない。
自分の余生があと何十年、否、何年許されるかわからねど、残りの人生は無念の最期を遂げた苗の弔いに捧げると誓っていた。
なのによってたかって周囲が邪魔する、雑念を植え付ける。
張はレイジを敵視している。あのぶんでは行動を起こす日は近い。
だがしかし、自分に何ができる?
紙の余白に一点落ちた墨汁が滲み広がり、サムライの胸をも不吉に蝕む。
あの日。
帯刀貢は父を含む十数人を惨殺し、剣を捨てた。
この手が再び剣を握る事はないと達観し、身一ツで東京プリズンにやってきたのだ。
強姦魔を撃退した技は合気道を応用した護身術。サムライの本領は剣を持ち初めて発揮される。
「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色」
低い声で経を唱え、房の床に端座して墨を摺り続ける。娑婆にいた頃から続けてきた精神鍛錬の一環。
レイジがどうなろうが知った事ではない、所詮赤の他人だ。張が襲撃を計画をしているとして、わざわざ教える義理もない。
『綺麗なもんだなあ』
食堂で投げかけられた第一声を思い出す。素直に感心した声と顔。
『頑張ったな、お前』
人に褒められるのは久しぶりだ。苗以来かもしれない。貢は物心付いた頃から帯刀家の跡取りとして教育され、正しい箸の使い方や剣の道を叩き込まれてきた。
それが帯刀貢の生きる術。
ならばレイジは?
今ここにいるサムライは?
翌日、食堂で顔を合わせたレイジは箸捌きを完璧にマスターしていた。
「チョップスティックマスター免許皆伝だな」
「そんな珍妙な門派開いた覚えはないが」
「またまた~、弟子が独り立ちして嬉しいくせに」
ドヤ顔で箸を振り回すレイジはどこか憎めず、かすかに苦笑する。レイジが目を丸くしてテーブルに乗り出す。
「初めて笑った」
「見間違いだ」
居心地悪げなサムライの眉間をちょんと突き、箸を引っ込める。
「皺とれ」
「取り方がわからん」
「なるほど、重症だ」
「笑った方が男前だよ、お前」と茶化すレイジを一瞥、さりげなく切り出す。
「この前の話だが、本当になんでも融通してくれるのか」
「できる範囲でな。何が欲しいんだ?」
「墨と紙、それと木刀」
「へえ?」
椅子の背板に凭れたレイジが、面白そうに片眉を跳ね上げる。
「馳走だった」
箸を置いて手を合わせ、真剣な眼差しで再び。
「頼めるか」
「まかせとけ」
意気揚々立ち去るレイジを見送り、トレイを返却しに行く。
視線を感じて振り返れば、離れたテーブルを囲む張の一味がレイジとサムライを見張っていた。
翌日の自由時間、房の鉄扉が叩かれた。
「お届け物だぜ」
間延びしたノックに急き立てられ扉を開ければ、片手に木刀を担ぎ、片手に袋を持ったレイジが立っていた。
袋の中には墨汁の瓶と真新しい紙束が入っていた。仕事が早い。
「かたじけない」
「チョップスティックマスターのご用命とあらば即動くぜ。紙足りる?」
「問題ない」
「そっか、よかった」
張は房を留守にしており不在だ。サムライの肩越しに室内を覗き込み、レイジが甲高い口笛を吹く。
「写経の最中?」
「ああ」
「見学オーケー?」
「ならん。気が散る」
「ケチ」
「用が済んだら帰れ」
小手をかざしてガン見するレイジを追い立て、鉄扉を閉ざす。数回素振りし、木刀が手に馴染むか確かめる。
幸いにして感覚は鈍ってない。収監されてから脳内で反復していた。
「張のヤツ、今夜仕掛けるんだろ」
「王様が一人になったとこ襲うんだとさ。よくやるぜ、全く」
鉄扉越しの会話が決断を迫る。ぐずぐずしている暇はない。
右手に木刀を握り込み、鉄扉の隙間からしなやかに滑り出し、十分な距離をとり尾行を開始する。レイジは音痴な歌を口ずさんでいた。
予感は的中した。
曲がり角にさしかかると同時に囚人が殺到し、無防備な王様を包囲する。
「誰?」
「『麒麟児』の張って言えばわかるか」
「知んねー」
首を傾げるレイジと対峙し、張が大股に踏み出す。
「東棟の王様の名前はもらった」
「ひょっとして挑戦者?」
「テメェみてえにチャラいのがトップとか気に喰わねー、悪い冗談だ。そうだろみんな」
そうだそうだと仲間が応じる。連中は張と同期の新入りで、レイジの実力を知らない。レイジは軽薄な笑顔を浮かべたまま、ポケットに片手を潜らせる。
「テメエを倒せば今日から俺がトップだ。まずは東棟を足がかりにして、東京プリズンぶんどってやる」
「北の皇帝は強いぜ。西の道化と南の隠者も手ごわい」
「どうだかな、テメエみてえな顔だけ男がトップを張れるぬるい場所なんだろ」
張が憎たらしげに挑発、仲間たちに顎をしゃくって包囲網を縮める。
戦いの火蓋が切って落とされた。
木刀を構えて飛び出すサムライの眼前で、囚人の一人が背中から壁に激突する。
「ぐはっ!」
レイジの回し蹴りが炸裂したのだと理解するより早く、それは起きた。張の左右を固めていた囚人が吹っ飛び、戦列を乱す。
「いけっ、てめえら!」
「遅え」
レイジが顔を傾げて拳を躱し、華麗なステップを踏んで後退。すり抜けざま足払いをかけて囚人を倒し、あるいは素早く屈んでパンチのラッシュをかいくぐる。
敵は十人弱、相手は一人。なのに圧倒的優位は揺るがず、鼻歌まじりに張たちを翻弄する。
出る幕がないと判断し引き下がる間際、張に肉薄したレイジが抜いた武器に目がとまる。
自然と体が動く。
「ひっ!」
すっかり怖気付いた張の顔面、音速で抜き放たれた箸の切っ先が眼球に迫る。目を突き刺す気だ。
「箸の使い方を間違えてるぞ」
二人の間に割り込んだサムライが鋭い眼光を放ち、木刀一閃箸を弾く。宙に弧を描いて舞った箸が落下、レイジが虚を衝かれる。
「あ……あぁ……」
腰を抜かしてへたりこんだ張が、仲間に肩を貸されて退散していく。レイジはあえて追わずに逃がす。サムライは木刀を正眼に構えたまま、東の王を牽制していた。
「俺の邪魔する為におねだりしたの」
「逆だ」
木刀を所望したのは助太刀するため。
皆まで言わず得物を下ろし、冷ややかな眼差しでレイジを射竦める。
「ほじくるのは魚の目玉だけにしておけ。人の目を潰すのは邪道だ」
「チョップスティックマスターの有難い教えか」
「わざわざ箸など使わずとも勝てたはずだ。何故」
「こっちのが面白えじゃん」
床に散らばる箸を拾い、くるくる回すレイジに呆れる。危険な男だ。サムライの介入があと一秒遅れていれば、張は失明していた。
「優しいね。助けに来てくれたんだ」
「墨と紙の借りを返しただけだ」
レイジが喉の奥で低く笑い、次いで破裂するように哄笑し、サムライの肩を抱いて背中を叩く。
「マジおもしれー、ツボにはまった」
「懐くな。迷惑だ」
「サムライが義理堅いって本当だったんだな」
レイジは気が済むまで笑い転げ、サムライはそれに反比例し、苦虫を噛んだ渋面を作る。
「箸うんぬんは近付く口実か?」
「その心は」
「お前ほどの男が箸捌きに苦戦するとは思えん。コツを掴むのに一週間以上かかるのは異常だ」
「買いかぶりだよ、王様だって苦手なことはある。てかさ~こんな細っこい棒で飯食おうってのがどうかしてるぜ、ワイルドに手掴みでいけ」
肩口に手を掲げて吠えるまねをし、男女問わず悩殺する、挑発的な流し目をよこす。
「色んな意味でそそられたのはホントだけど」
「ふん」
「てめえ、鼻で嗤ったな?」
うるさく纏わり付くレイジをいなし、廊下を歩くサムライの横顔は、どことなく小気味良さげな色を浮かべていた。
これが腐れ縁のはじまり。
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