少年プリズン

まさみ

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三百五十五話

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 堕ちていく。
 どこまでも。
 
 人として生まれ修羅として死に逝く生涯に一片たりとも悔いはない。
 終焉の風が吹く。
 静流は笑った。
 呆れて乾いた笑いだった。
 最期に目に焼き付けた光景が嫌いに嫌いぬいた従兄だなんて皮肉な幕切れもあったものだと自嘲し、上方へ遠ざかるサムライを物憂く仰ぐ。
 体が垂直に落ちていく。
 眼下では凄まじい勢いで炎が暴れている。
 耐え難い熱に苦悶してもいいものを、真っ直ぐ炉におちる己を遥か高見から見下ろしてるような奇妙な感覚に支配され、仇に挑んで自滅に至った哀しみも怒りも悔いもこの期に及んで如何なる情動も湧きあがらない。
 頬にあたる熱風や皮膚を焦がす火の粉や髪を捲り上着の裾をはためかせる風圧さえも他人事めいた錯覚をもたらすのみ。
 やがて訪れる死を予期し、身を苛む熱と皮膚が焼け爛れる痛みを甘んじて受け入れようとしたが、どうやらその一瞬は果てしなく引き延ばされているようだ。
 断罪を引き延ばし、懺悔をしいるように。
 なんという皮肉。
 時間はひどく緩慢に流れた。
 まわりの光景が静止していた。
 音は聞こえる。耳の奥で轟々と唸りを上げる炎の音、続けざまに火の粉が爆ぜる癇性な音。かすかに焦げ臭い匂いもする。
 そこで初めて自分の体が焼けていることに気付く、髪の毛と皮膚が焼け爛れてみるみる醜悪なさまに変貌していく。
 肉の焼ける甘く香ばしい匂いと髪の毛が焦げ付く匂いが混じりあって鼻腔を刺激する。
 安らかに目を閉じる。
 瞼裏の暗闇を過ぎる最期の光景は、憔悴しきった様子でこちらを見て、一途に懇願する直。
 『サムライを奪わないでくれ』
 帯刀貢を道連れにしようとした。復讐が叶わぬなら心中するつもりだった。
 静流は身の破滅を覚悟で貢に挑み、自分の命を引き換えに彼を地獄に連れて行くつもりだった。
 直の叫びさえなければ容赦なく貢の手首に爪を立て肉を抉り一緒に連れていくつもりだった。
 直は命乞いをした。
 自分の命ではなく、貢の命乞いをした。
 思い詰めた光を宿した目には、どこまでも一途な懇願の色があった。
 手首を縛られ宙吊りにされ脇腹から再出血し、口を利くどころか瞼を押し上げるのにも脂汗を振り絞らねばならない状況下で、それでも挫けずに毅然と正面を向き、はっきりとそう言った。
 他人に譲れぬものを内に秘めた、厳しく引き締まった表情に魅入られる。
 直は物怖じせず真っ直ぐ目を覗き込んできた。眼鏡をとられて視界がぼやけているはずなのにその目はしっかりと焦点を結び、矜持と意志を併せ持つ苛烈な眼差しを抉り込んできた。
 目が離せなかった。束の間瞬きも忘れてその表情に魅入られた。
 誰かに似ていた。
 今はもういない愛する人の面影が、直の顔に去来する。
 「ねえさん」
 自然と唇が動いていた。
 最初は声を発した事にも気付かず、驚愕に打たれた様子の直を前に、はじめて唇が音を発したのに思い至った。ああ、どうりで似ているはずだと腑に落ちた。この顔は、この眼差しは、死地に臨んだ薫流と酷似しているんだ。静流の手に刀を掴ませ、一息に自らの胸を刺し貫いた薫流と瓜二つなんだ。
 あまりに真っ直ぐな眼差しに圧倒される。
 なんて強く激しい目だ。
 どうしても譲れないものを持つ人間だけが放てる眼差しだ。
 直の顔に薫流の面影が重なり、血に彩られた記憶が鮮烈に蘇る。
 薫流が静流の手を握り自らの方へ引き寄せる。
 華奢な手に引かれて不覚にも体が傾ぎ、刀がさしたる抵抗もなく肉に沈む。
 綺麗に微笑んだまま口端から一筋血を垂らす薫流に我を忘れ手を差し伸べ、亡骸に縋り付くー……
 静流はつと指を伸ばし、固く強張った直の頬へとふれようとした。
 脂汗が冷たくなり、疲労に青ざめた頬へとつりこまれるように指を伸ばし、安堵の笑みを上らす。
 
 そこにいたんだ、姉さん。
 さがしたよ。

 再び紅蓮の嵐が吹く。
 手首の枷が外れたのは、その瞬間だった。  
 一瞬の停滞、空間の静止。
 手首を解き放たれた静流が呆然と仰ぐ前、苦渋の面持ちでこちらを見つめているのは……
 帯刀貢。
 今にも崩れそうな表情を必死に堪え、忍耐深く口元を引き結び、全ての責を負って非情な決断を下す。
 貢は一回も瞬きをせず、また目を逸らそうともしなかった。
 虚ろな無表情をさらした静流をひたと見据えたまま、愚直としか言えない哀しい潔さでもって自分の手で送り出した最期を余さず目に焼き付ける。
 瞬きすら惜しむように豁然と目を見開き、乾いた眼球に炎を映し、静流が炎に焼かれて灰になるまで完全に見届けようとしている。
 これでいい。
 静流は僅かに首肯した。
 自然と笑みが上ってきた。
 皆が皆生きて幸せに、そんな綺麗事はくそくらえだ。
 現実は常に非情な判断と苦渋の決断を迫り、尊い犠牲のもとに満身創痍で活路を開く事を要求する。皆が皆生きて幸せになる事など現実にはあり得ない。
 静流は今も貢を憎んでいるが、それはあくまで帯刀家を滅ぼした男への復讐心であって今この瞬間自分を見捨てた事についてはむしろ感心している。
 心優しい従兄がどんな想いで自分を見殺しにしたかと考えるだけで、命と引き換えに一矢報いた痛快さで笑いがとまらなくなる。
 遥か頭上で貢が何かを叫ぶ。
 炉へと吸い込まれる静流に全身全霊で追いすがり、みっともなく見苦しく取り乱す。眼窩からせりだした目に絶望が浮かび、反った喉が引き攣り、口が限界まで開かれ、声なき慟哭が大気をびりびりと震わす。

 貢の腕の中に直がいた。
 静流を見殺しに直を引き上げてしっかりと腕に抱きしめ、身を挺して火の粉から庇う。

 羨ましいと想った。
 いまさらながら、羨ましいと。

 『そんなに薫流が好きながら家のしがらみを断って二人で逃げればよかった、母親と姉に言われるがまま刀で刺し殺したのは君自身だ、即座に刀を捨てて薫流を抱きしめることもできたのにそうしなかったのは君だ、君自身だ!!』

 全くその通りだ。
 僕には刀を捨てて姉さんを抱きしめる道もあったのに、姉さんをとるか刀をとるか迷ったばかりに本当に大事な物を見失ってしまった。
 即座に刀を捨てて姉さんを抱きしめていれば、今とは違った結末に辿り着けたものを。 
 風を切って落下しながらゆるやかに瞼を閉ざし、誰にともなく囁く。
 「帯刀家を滅ぼしたのは、僕だ」
 わかっていたんだ、本当は。
 苗さんの死の原因を作った僕こそ帯刀家を滅ぼした張本人だとわかっていながら、事実を認めてしまえば姉さんの死を無駄にする気がして、最期まで沈黙を貫き自分の命と引き換えに僕を生かそうとした姉さんの気持ちを無にする気がして現実から目を逸らし続けた。
 僕は狂っていたわけじゃない、狂ったふりをしていただけだ。
 いっそ狂ってしまえばどんなにラクかと渇望しながらも最後の一線で理性を保ち続け、復讐の正当性をごまかし、自分を偽り続けてきたのだ。
 静流は目を閉じたまま風に身を任せ、重力に従って垂直に落下する。
 風圧に髪がなびく。上着の裾がはためく。
 風切る唸りが耳朶をかすめる中、ませた子供の声がする。
 
 『男の子が泣くんじゃないの、みっともない』
 瞼の裏に懐かしい光景がよみがえる。
 懐かしい姉の声。
 師範に厳しく鍛えられて打ち身を作った幼い静流が庭の隅で泣きじゃくっていると、最後にはいつも薫流が迎えにきてくれた。
 「仕方ないわね」という顔をしてやってきた薫流が言うことはいつも決まっていた。
 男の子がべそべそするんじゃない。あなたは分家の跡取りなんだから自信をもちなさい、胸を張って前を向きなさい。立派な当主をめざして稽古にはげみなさい……お説教は聞き飽きた。姉の叱責は容赦なく、静流の泣き声はますます甲高くなるばかりだった。
 『しようのない子ね』
 大人びたため息を一つ、きちんと膝を揃えてしゃがみこんだ薫流がしかめつらしく静流を覗き込む。 
 『ぼく、は、貢くんに、かなわないんだ。ぼくがみつぐくんみたいにつよくないから、剣の腕がいつまでたっても上達しないから、だから母さんはいつもおっかない顔をしてるんだ。僕を見るたびに首を振るんだ。ぼく、母さんをがっかりさせてばかりいる……』
 嗚咽は止まない。
 涙と鼻水を滂沱と垂れ流し、あどけない顔をくしゃくしゃに歪める弟の顔を熱心に覗き込み、暫し考え深げに黙りこくった薫流がそっと頭をなでる。
 『何を言いだすかと思えばしずるのおばかさん。本家のみつぐにあなたが劣るなんて誰が言ったの?』
 真から不思議そうな声の調子に虚を衝かれて顔を上げる。
 驚きに涙も引っ込んだ。
 静流はただただ呆然と姉を見上げ、幼い頭で必死に考えを巡らす。
 『……みんな』
 『みんなってだれよ。仕返しできないから具体的に言いなさい』
 『おとな。母さんとか、おじさんとか、道場の人たちとか……』
 『目が節穴なのよ。上から見下ろしてばかりいる連中に貴方の剣が見えるものですか』
 憤懣やるかたなく言い切り、きっと静流に向き直る。
 薫流の頬はあざやかに紅潮し、弟の名誉を守ろうと拙い言葉を尽くす顔は生き生きと輝いていた。
 『真っ直ぐに見なきゃなにも見えないのよ。見えていても見えないのよ』  
 偏見と先入観を排し、水のように清く澄んだ心で見れば必ずわかるはずなのに。
 邪念と雑念にまみれた大人の目に、愛する弟の何がわかるのだといたく憤慨して。
 『ねえしずる、あなた水が見える?』
 『みず?』
 突然何を言い出すのだとぽかんとした弟に悪戯っぽく微笑みかけ、優しく頬をなで、指の腹に涙をすくいとる。
 指の腹に舐めとった涙を見下ろし、淡々と続ける。
 『水は色も匂いもない、透き通って目に見えない。あなたの剣も同じよ。しずる、あなたの剣は水なの。水そのものなの。ある時はしずかに流れる水の如く、ある時は岩をも砕く激流の如く。力の入れ具合によってさまざまに形を変え、悠久に変化を続け、世代を経て生き続ける太刀筋……それこそ帯刀流の極意、門外不出の剣』
 薫流の指から涙が滴り落ち、地面に染みる。
 土を黒く染めた一滴の涙を見つめ、自信ありげに断言する。
 『しずる、あなたは本当はすごいんだから自信をもちなさい。本家の跡取りなんて目じゃないわ。私にはわかる、水が見える。あなたはすごい才能を持って生まれたの。あなたの振るう剣は水のように自在に形を変える、何物にも縛られず自由に奔放にひるがえり他を圧倒する』
 『でも稽古では一度も貢くんに勝てない……』
 『あんなのただ激しいだけが取り得の力押しの剣じゃない、ちっとも綺麗じゃないわ』
 薫流が心外そうに鼻を鳴らす。審美眼に恵まれた姉にとっては、見ためが綺麗かそうじゃないかは重大な問題らしい。
 小さな手で静流の顔を手挟み、自分の方へ向かせる。 
 静流の目を真っ直ぐ見つめ、噛み砕くように言い含める。
 『驕りなさい、しずる。才ある者にはそれが許される。私はあなたがどれだけ素晴らしいか知ってる、私の弟がどんなにか物凄い人間かちゃんとわかっている』
 頬を包んだ手からぬくもりが伝わる。
 戸惑う弟の視線をまともに受け止め、薫流はにっこり微笑む。
 『あなたは私の誇り、自慢の弟よ』

 自分自身でさえ誇れない僕を、姉さんは誇ってくれた。
 誇りだと言ってくれた。
 ぼくは「物凄い人間」だから、完璧に復讐を成し遂げねばならない。 
 姉さんの期待を裏切っちゃいけない。
 姉さんを幻滅させたくないという一瞬の躊躇が刃先を鈍らせ、気付いた時には姉さんに導かれるがまま、姉さんの胸に深々刀を突き刺し息の根をとめていた。
 
 『静流さんと薫流さんは仲がよくて羨ましいわ』
 澄んだ笑い声が響く。
 『小さい頃からずっと一緒だったもの』
 『よく四人で遊んだわね。裏庭の桜の木のまわりでかけっこしたり』
 『静流さんはいつも薫流さんのあとを追いかけていたわ。おいていかれるのがいやで、一生懸命』
 瞼の裏に苗が浮かぶ。
 苗は嬉しそうに笑っている。
 何がそんなに嬉しいのか理解できない。
 僕を迎えに来たのか、嘲笑いにきたのか?……否。苗はただ笑っている。遠い目で昔を懐かしんで微笑んでいる。苗は綺麗な心の持ち主だった。姉さんも苗さんが大好きだった。母さんと莞爾さんの仲が険悪になって本家と分家の行き来が絶えてからも、目が見えない苗さんの事をずっと心配して、時々ひとりで様子を見に行っていた。 

 だからなおさら耐えられなかった。
 僕が苗さんを嵌めたと知り、衝撃を受けた。
 『本当に薫流さんが好きだったのね』 
 そうだよ。
 姉さんのためなら何でもできると思った。
 貴女を殺しても悔いはなかった。
 貴女の幸せを奪って、姉さんの分にあてようとした。
 身勝手な人間だね、僕は。
 自業自得だ。

 『ええ。自業自得です』
 きっと幻聴だ。
 死んだ人間の声がすぐ耳元で聞こえるはずがない。 
 久しぶりに聴いた苗の声はひどく耳心地良く穏やかで、できるならずっと聞いていたかった。
 瞼裏を走馬灯のように過ぎる幾つもの光景……微笑み合う苗と貢、紫陽花が咲く庭に佇む薫流、傘の陰に見え隠れする撫で肩。
 さらに遡る。幸福だった幼い日々、苗と貢を交えて四人で遊んだ頃を思い出す。  
 苗。
 着物の裾を踏んづけて転んだとき真っ先に助け起こしてくれた。
 「大丈夫ですか」と親身に声をかけてくれた。
 折り紙の鶴をくれた。
 そうだ、鶴の折り方は苗さんに教わったんだ。苗さんは目が見えないけど手先がすごく器用で、僕が姉さんにいじめられて泣く度に手のひらにそっと鶴をのせてくれた。

 姉さんを愛していた。
 苗さんが好きだった。
 貢くんも好きだった。
 しあわせだった。
 『自業自得です』
 幸せだった。

 あの鶴は、いつ失くしてしまったんだ?

 「ねえさん、僕は」
 自業自得だ。
 ああ、熱い。
 瞼の奥も紅に染まる。
 静流はもがく。
 みっともなく見苦しく空をかきむしってもがく、体を焼き尽くす業火に抗おうと頭上高く手を差し伸べて何かをむしりとるしぐさをする。
 熱い。
 熱い熱い熱い。体が燃える。
 皮膚が焼け爛れて溶けてあぶくが立ち髪の毛が燃え盛り頭皮が捲れて縮む。
 業火に呑まれてもがき苦しむ耳の奥、玲瓏と幻聴が響く。 

 『  をあいしてるわ 』 
 短い遺言を思い出す。

 自らの胸に刀を突き立て口端から一筋血を垂らし倒れ伏せた薫流、鮮血に染まる畳、赤い血赤い炎赤いめくるめく埋め尽くす一面の……
 『 をあいしてるわ』 
 肝心な部分だけが聞こえないその声が炎の唸りにかき消される。
 静流は声なき声で絶叫する、断末魔の苦しみに身も世もなくのたうちまわり炎に焼かれて修羅となるー……
 姉さん。
 姉さん姉さん薫流ねえさん熱いよイヤだ助けて体が燃えていく炎が纏わり付く嫌な匂い皮膚が溶けて爛れて『自業自得』苗の笑い声『お前を殺す』貢の声『君の責任だ』直の声、熱い耐え難い視界が紅一色に染まる燃える瞼が火を噴く眼球が溶け流れるもう何も見えない暗闇でも熱は感じるこれは地獄ここは地獄ー……
 炎が喉を焼く。
 叫ぶ。
 断末魔を、

 「しずるを愛してるわ」

 はっきりと声が聞こえた。
 炎に焼かれて炉に落下する静流を、突如だれかが抱きしめる。
 静流は目を開ける。瞼は焼け爛れて白濁した目は極端に視界が狭まっていたが、突如虚空に現れた女が自分の方に手を差し伸べ、体を寄り添わせるのがわかった。
 美しい女だった。
 眉の上で真っ直ぐ切り揃えた前髪、気の強そうな柳眉、聡明な切れ長の眦。
 猛威をふるう炎に負けず紅く艶やかな着物を羽織り、神々しい後光を背負った少女が、艶めく微笑みを静流に送る。
 
 嗚呼。
 漸く。

 目尻にうっすらと涙が浮かぶ。
 無意識に手を伸ばし、炎の中で体を重ねる。
 お互いを貪り求めあい、渾身の力を腕に込めて抱き合う。
 「遅いよ、ねえさん」
 姉の背中にきつく腕を回し二度と離さないと誓い、幼子のように胸に顔を埋める。
 子供返りした静流を仕方なさそうに、その実この上なく愛しげに見守り、耳元で囁く。
 「待たせてごめんなさい。漸く追いつけたわ。貴方がおちるの早いのだもの、着物の裾がはだけてはしたないったら……」
 水鏡に映したように面差しの似通った姉が腕の中で微笑み、体が焼け爛れる痛みすら忘れ、満ち足りた幸福を感じる。
 至福の一瞬を少しでも引き延ばそうとかき抱き、真摯に詫びる。 
 「ごめんなさい、姉さん。分家の汚名をすすぐことができなくて……また貢くんに負けちゃったよ。こないだ展望台でやったときは勝ったんだけど、まだまだ修行不足みたいだ。母さんに稽古つけてもらわないとね」
 「見ていたわ、地獄から。炎の中から。もう少しで勝てそうだったのに惜しかったわね。さすが本家の跡取りだけはあるってことかしら。貴方もずいぶん腕を上げたじゃない、しずる。姉として誇らしいわ」
 静流の抱擁に応じて薫流もまた腕の力を強める。
 「敗北を誇りなさい。あなたは十分よくやった。分家の跡取りの使命を立派にはたしてくれた」
 「寂しかったよ」
 「わたしもよ」
 姉のぬくもりに包まれて堰を切ったように激情を吐露、砕けそうな力を込めて炎が形作った幻影をかき抱く。
 腕が焼け爛れるのも構わず。
 「来る日も来る日も血を吐くような想いだった、こんな辛い日々はやく終わらせたいとそればかりだった、はやく姉さんに会いたい迎えにきてほしいと気も狂わんばかりに願ってやまなかった。会いたかった姉さん、大好きだよ、姉弟だって構うものか、互いの肉を貪る畜生道に堕ちるのも望む所だ!!もっと早くこうすればよかった、もっと早く刀を捨ててこうして抱きしめていればよかった、こうして―…………」
 燃え盛る炎の中、腕が灰となる瞬間まで薫流を抱き続ける覚悟を決める。
 静流の腕の中で面を上げ、薫流が品よく咎め立てる。
 「苗にあやまらないの?」
 「悪いと思ってないのにあやまるのは不実だよ」
 「素直じゃない子ね」
 薫流が苦笑する。

 着物の裾が炎と化してたなびく。 
 炎と一体化した薫流はとても綺麗で。
 「愛してるわ、しずる」
 手と手を組み合わす。
 「愛してるよ、かおる」
 指と指を絡めあう。
 「地獄に行きましょう」
 うつくしいひとが誘う。
 「姉さんとならどこへでも」
 喜んで首肯する。
 どちらからともなく見詰め合う。口づけをかわす。炎の接吻を受ける。薫流と重なったまま体が塵に帰りゆく。
 散り散りの灰へと分解されながら遥か上を仰げば、炎の狭間から垣間見える通路にうつ伏せ、貢が直を庇っていた。
 互いの体にしっかりと腕を回し庇い合うふたり。
 固く結ばれた絆。
 
 先に逝くよ。

 別れを告げるのを待つかの如く沈黙を守り、罪業の浄化を司る炎と化して静流の身を焼き滅ぼし、灰燼にかえて。
 ふたりは漸く結ばれた。
[newpage]
 胸騒ぎがやまない。
 「……………っ」
 胸が痛い。
 上着の胸を掴み、落ち着かない気分で前方に迫った焼却炉を見上げる。
 はるばる砂漠を越えて歩き続ける事五分か十分、距離が縮まるに比例して焼却炉がどんどん大きさと不気味さを増して視界を圧迫する。
 近くで見る焼却炉はなおさら奇怪な施設だった。
 大小無数のパイプをはじめ俺にはさっぱり仕組みがわからない機械装置が寄り合わさった外観は工場に似ている。
 ……にしても馬鹿げた大きさだ。
 「どっかで見たことあるなあて思うたら」
 ヨンイルが驚嘆を禁じえない様子で小手をかざす。
 「宇宙戦艦ヤマト?」
 「古すぎるぞ」
 「せやかて似てるやん」
 安田の指摘に興ざめしたヨンイルが不満げに唇を尖らす。
 俺は口を開けっ放しに呆然と焼却炉を眺めるばかり。
 変な話だが、入所時からずっとイエローワーク所属だった俺がレッドワークの仕事場を目の当たりにするのは掛け値なしにこれが初めてだ。基本的にレッドワークの囚人を除いて焼却炉が何処にあるか知らない。仲間内の結束を固めるためだかトラブル防止のためだか知らないが、焼却炉の場所を他部署の連中に漏らさない暗黙の掟が存在するのだ。だいたい東京プリズンを囲む砂漠自体が途方もなく広い。まるごと一つの区を呑み込む面積のどこらへんに焼却炉があるかなんて定時に出るバス以外に移動手段を禁じられた囚人は突き止めようがない。
 焼却炉の威容に気圧されるでもなく眼鏡のブリッジに触れ、安田が口火を切る。
 「ピエール・ブールの『猿の惑星』だな。作中では自由の女神だったが、ここでは前世紀の首都のシンボル東京タワーだ」
 「東京タワー?なんだそれ」
 口を挟んだ俺を眼光鋭く刺すように一瞥、安田がため息を吐く。
 「そういや聞いたことある。むかし東京のど真ん中に趣味の悪い真っ赤な塔があってシャアこと赤い彗星て呼ばれとったって」
 「昔の話だ。スラムを除いて電線が地下に潜った現在では東京タワーも存在意義をなくした。……ちなみにシャアとは呼ばれてない」
 真っ赤な塔でぼんやり思い出す。
 一年と半年前、俺がジープに乗ってここに連れてこられる時にちらっと見た光景……砂に埋もれて錆び付いた円錐形の物体、羅針盤の針みたいに尖ったてっぺんで一点を突き刺した廃墟の塔。
 安田が言ってるのは多分アレのことだ。
 ジープですぐそばを通り過ぎた時、酔っ払い看守が口走った台詞をかき集めてみる。
 『てめえらスラム生まれの在日連中は知らねえだろうが、砂漠のど真ん中に鉄骨の骨組み曝け出して横倒しになってるあの真っ赤な塔はむかしむかし東京のシンボルで、世界中からわんさと観光客が押しかけたんだ』
 『上には展望台があって望遠鏡を覗きゃあ都心一帯が見渡せたんだ』
 『今じゃあのザマよ。むかしむかし東京中に電力を供給してた送電塔の王様も時代の衰勢には逆らえず、都心のスラム化・砂漠化に伴って廃棄されちまった。用済みの烙印を押されて砂漠のど真ん中に捨てられちまった忘れ去れし時代の落とし子さ』
 『お前らと一緒だな。ニーハオ先輩って挨拶しろよ、ははははははははっ』

 …………胸糞悪くなった。
 変な話題を振った安田を呪う。
 「なんで突然東京タワーなんだよ?」
 トラウマを刺激された俺がつっかかれば、安田が焼却炉をこえて遥か遠方に視線を飛ばす。ごまかしてんのかと気色ばんで視線を追えば、焼却炉もこえた遥か遠方、砂の中からちょこんと尖塔を覗かせている赤錆びた物体が目にとびこんでくる。
 そうか。ここからなら東京タワーが見れるんだ。
 「……『猿の惑星』は作者の実体験をもとにして書かれた話だ」
 感情をまじえぬ口調で淡々と話しだす安田の表情には、ただ事実だけをありのままに物語る酷薄さが漂ってる。
 「ピエール・ブールは第二次大戦中捕虜として日本軍にとらわれて虐待を受けた。黄色い猿と侮っていた劣等人種に蔑視されていたくプライドを傷付けられた彼は、そのトラウマを虚構の中で語り直して失われた尊厳を回復するために『猿の惑星』をしるしたと言われる」
 ……捕虜と囚人を同一視してるのかとひねくれた副所長に反感を覚える。まあ、扱いは捕虜のほうがイイくらいだが。
 安田と鍵屋崎が親しいワケがすとんと腑に落ちた。
 要するに価値観が近いのだ。今のなんていかにも鍵屋崎が吐きそうなヒネた台詞じゃないか。
 「喪失と再生は今も変わらぬ文学の命題だ。一種の自慰行為とも言える」
 ほらな。
 先にしびれを切らしたのはヨンイルだった。
 「猿の惑星はどうでもええっちゅねん、猿は猿でもサイヤ人以外の猿に興味あらへんさかい俺は!!」
 時と場所をわきまえぬ薀蓄語りに激怒したヨンイルがやぶからぼうに先頭きって走り出す。
 砂を蹴立てて走り出したヨンイルが向かう先は焼却炉内部に通じる鋼鉄の歩道橋だ。息をもつかせぬ二段とばしで階段を駆け上がるヨンイルを追い、俺たちも走り出す。
 鋼鉄の歩道橋を一息に駆け上がる。
 歩道橋の遥か先に焼却施設への出入り口がある。出入り口めざしてひた走るヨンイルの顔に焦燥が滲む。
 俺の足も自然と速まる。
 俺に付かず離れずのレイジはへたな口笛を吹いている。
 毎度おなじみのストレンジフルーツ……哀愁を誘うメロディー。 
 「こんな時に口笛なんか吹くなよ、鍵屋崎の一大事だってのに不謹慎なヤツだな!」
 「景気づけだよ」
 「わけわかんねえ!」
 コイツほんとに鍵屋崎のこと心配してんのかよと疑問が再発する。さっきは情にほだされちまったが、でも……
 レイジをすっ転ばしたい欲求をぐっと堪え、躍起になって足繰り出すのに専念する。
 「無事でいろよ、鍵屋崎、サムライ」
 思わず声に出し、ガラにもなく祈りを捧げる。
 俺の手に十字架があれば揉みしだいていた。
 ズボンのポケットに片手を突っ込み、十字架の代わりに麻雀牌を握る。緊張でじっとり汗ばむ手に牌を握り込み、鍵屋崎とサムライが無事でいるようただそれだけを一心に念じる。
 かつて俺を助けてくれた麻雀牌に祈りを込める。
 かつてレイジを助けてくれた麻雀牌に縋る。
 一度あることは三度ある。
 一度目と二度目の願いを叶えてくれたんだから今度もまた仲間の命を救ってくれと図々しい期待を抱く。
 がめついな、俺。
 ばちあたりだな、俺。
 ふと隣を見る。道化じみた所作で唇を窄めて口笛を吹くレイジ。
 壊れたハーモニカのような不協和音が流れる中、おそらくは無意識に胸元をまさぐり、不安をごまかすように十字架を握り締める手。
 「レイジ、おまえ……」
 褐色の手が十字架を握るのを見て、おちゃらけた態度の裏にひそむものを汲み取る。
 表面上は平静を保ち、余裕綽々大胆不敵な風情でもって鷹揚な笑みを浮かべた王様が、どこか自分に言い聞かせるように呟く。
 「鍵屋崎は生きてる。サムライもだ。俺が言うんだから間違いない。安心しろよ、ロン」
 敏捷性と瞬発力に優れた豹のごとく軽快に床を蹴り、身を切る風に髪と裾をなびかせ、鮮烈な残像を刻み付ける。
 毅然と前を向いた顔に光あるほうをめざす笑みを浮かべ、優雅な睫毛に飾られた双眸に闘志を宿し。
 「Anyone who believes will be saved.」
 不敵に断言。
 「日本語か台湾語で言え」
 「『信じるものは救われる』さ」
 無敵の笑顔。
 ……レイジに言われるとどんな不可能な事も信じたくなってくるから不思議だ。
 信じるものは救われると口の中で繰り返し己を奮い立たす。
 大丈夫、鍵屋崎もサムライもちゃんと生きてる。
 俺たちがまた食堂で笑い合える日は必ずくる。
 あの鍵屋崎が簡単に死ぬはずねえ、あのサムライが簡単に殺られるわけねえと一直線に思い込む。  
 焼却炉の出入り口が見えてきた。
 レイジを伴いスピードを上げる。
 息が切れる。胸が痛い、苦しい。
 俺はただがむしゃらに走る、体力尽きてぶっ倒れても構わないとやけくそで足を繰り出し盲目的にすっとばす。
 どうかどうか間に合ってくれ、間に合ってくれ手遅れになる前にとポケットの中で砕けそうな力を込めて牌を握り締めて気も狂わんばかりの焦燥に苛まれて祈り続けるー……
 出入り口まであと五十メートル、三十メートル、十メートル……
 「!」
 入り口一歩手前でヨンイルが急停止。
 こちらに背中を向けたヨンイルの隣、安田もまた感電したように立ち止まる。
 なんだ?どうしたってんだ?
 二人の急変に頭が混乱、最悪の予想がにわかに現実味を帯び始める。ヨンイルも安田もどうして止まっちまったんだ、すぐそこの入り口をくぐれば鍵屋崎に会えるってのに、鍵屋崎を助けられるってのに………
 まさか。
 「あかん。手遅れや」
 入り口の向こうに眼を据えたヨンイルが茫然自失の体でひとりごちる。
 全身がそわりと粟立つ。
 「―――っ、サムライ、かぎやざきィいいいいいいいいいいいいいいいい!?」
 そんな馬鹿な。
 俺たちが間に合わなかったなんて嘘だ冗談だと言ってくれ鍵屋崎をみすみす見殺しにしたなんてサムライが死んだなんて二人して炉の泡になったなんてそんなー……そんな馬鹿げたことあってたまるかよ、たらふく砂を呑んで全身に擦り傷作って足を棒にして迎えにきてやったのに!!

 瞼の裏を過ぎる凄絶な光景。
 真っ逆さまに落ちていく鍵屋崎と虚空でその体を抱きしめるサムライ、そして二人は炉の藻屑にー……
 蒸発。
 跡形もなく。
 俺の手が届く前に、

 『没想到!!』
 『shit!!』 
 俺は台湾語でレイジは英語で毒づき、残り十メートルで気力体力を振り絞り猛然とすっとばす。
 ヨンイルも安田も入り口前に突っ立ったままそこを動こうとしない。 虚脱した様子で立ち竦む二人の視線の先に何があるのか『あかん手遅れや』腑抜けた呟き『手遅れや』鍵屋崎サムライ二人は死ー………
   
 いやだ。
 おいてかないでくれ。
 
 「くそっ、くそっ、くそっ!俺をおいてくなんて承知しねえぞ鍵屋崎とサムライ、ダチに一言も告げずあの世にサヨナラなんてふざけんじゃねえぞ、あの世が行き先なら『再見』だって使えねーじゃんかよ!!」
 喉から嗚咽が迸る。瞼がじんわり熱くなる。視界がぼやけるのは涙腺が脆くなったせいだろうか。鍵屋崎いかないでくれサムライいかないでくれ俺はさんざん世話になりっぱなしで借りひとつも返せてねえのにこんな別れ方なしだなしだよ畜生くそったれども!!
 永遠ともおもえる道のりを走破して出入り口に到着、棒立ちのヨンイルを乱暴に突き飛ばす。
 我を忘れて焼却炉の中に駆け込もうとした俺の肩を後ろから誰かが掴みその手を振り払おうとー……

 「………遅参だな」
 奇跡が起きた。

 正面に向き直り、絶句。
 出入り口の向こうに人影が現れる。
 みすぼらしいボロを申し訳程度に纏った長身痩躯の男が、全身至る所に火傷を作り皮膚を爛れさせ、満身創痍の風体でよろめきでる。
 凄惨な……あまりに凄惨な変わりよう。
 気力が枯渇しきったその面構えに圧倒される。
 落ち窪んだ眼窩では激情の残滓が燻っているが、あくまでそれは残滓にすぎず、眼つきに切れが感じられない。 
 何より驚いたことにサムライの髪がざっくり短くなっていた。
 無精で伸ばしていた髪をざっくり切り落としたサムライはすっかり別人に見えた。
 髪と一緒に何か大切なものまでも切り捨てたような、いつぶっ倒れてもおかしくない廃人一歩手前の虚ろな様子。
 『好!』
 衝撃が去ったあと、入れ替わりに込み上げたのは生きてサムライと再会できた喜び。
 「生きてたのかよサムライびっくりさせんなよレッドワークから帰ってこねえからすっげえ心配してたんだぜ、にしてもすげえカッコだな、囚人服が燃えちまってほとんど裸で……うわ、ひっでー火傷!切り傷も!なんだこれ静流にやられたのかアイツがやったのか絆創膏はどこ、」
 「鍵屋崎は!?」
 冷静さを失い安田が声を荒げる。
 サムライは殆ど表情を変えず、自分が背負ったものを示す。
 サムライの背におぶわれていたのは鍵屋崎。上着の脇腹には血が滲み、額には苦痛の汗が滲んでいる。
 「直ちゃん!!」
 ヨンイルが跳ね起きる。
 安田とヨンイルが同時に駆け寄るのを待ち、怪我にさわらないよう細心の注意を払って意識のない鍵屋崎を背中から下ろす。
 そこで不測の事態が起きる。
 意識がないにも拘わらず鍵屋崎がサムライの上着を握ったまま放そうとしないのだ。
 大部分が燃え落ちた上着の切れ端を掴んだ鍵屋崎の寝顔は、疲労の色こそ拭えないものの不思議と安らかだった。
 上着の端切れを握ったまま慎重に床に寝かされた鍵屋崎の傍らに屈み、ヨンイルが詫びる。
 「直ちゃん聞こえるか直ちゃん、西の道化が助けにきたったで。ホンマ遅れてごめん、出遅れてごめん、直ちゃんが辛いのにそばにいてやれんですまん……手塚治虫に顔向けできんわ、ホンマ……」
 端切れを掴んだ手に手を重ね、そっと握ってやる。
 鍵屋崎の手を優しく包んだヨンイルがひたとサムライに向き直り、安堵に和んだ顔を厳しく引き締める。
 「ヨンイル、サムライを責めるな。サムライは十分よくやったよ。体じゅうボロボロになって火傷して、それでも鍵屋崎の身だけは守り抜いたんだ。ちょっとばかし傷が開いた位で死にゃしねーよ、縫い直せばすむこった。見たところ腸だって漏れてねーし鍵屋崎だってピンピン……は、してねーけど。ちゃんと息はしてっし、生きてるだけで万々歳だろ?」
 一触即発、険悪なヨンイルの前に腕を広げて立ちはだかる。
 正直鍵屋崎はとても無事と呼べた状態じゃないが、サムライの背中に全体重を預けきったアイツを見て、俺はなんだかとても安心してしまったのだ。
 鍵屋崎の怪我の心配よりも助かった安堵のほうが大きい俺が割り込めば、レイジが「いいからいいから」と気軽な調子で肩を引き戻す。
 サムライとヨンイルの睨み合いは続く。
 いや、正確にはヨンイルが一方的に睨み付けているだけだ。
 サムライはどこか心ここにあらずといった茫漠の眼差しを虚空に注ぐのみ。
 突然ヨンイルが立ち上がり、正面切ってサムライと相対する。
 挑戦的な態度でサムライと対峙したヨンイルがすぅと深呼吸、思わぬ行動をとる。
 額に手をやりゴーグルを外す。
 精悍に吊り上がった双眸にどこまでも潔い光を宿し、真剣に口を開く。
 「直ちゃん助けてくれて、えらいおおきに」
 ヨンイルが深々頭を下げる。最大限の感謝を込めた口ぶりは道化の名に似つかわしくない誠意があふれていた。
 「………正直悔しいけど直ちゃん守ってくれた事には礼を言うわ。おどれがいなかったら今頃直ちゃん蒸発しとった。火の鳥のように蘇る事なく炉に沈んだまま浮かんでこんかった。そんなのイヤや。俺は耐えられん。直ちゃんは俺の大事なダチや。直ちゃんがそんな死に方するのイヤや、絶対に。せやからサムライ、あんたにはものごっつ感謝しとる。出遅れた俺に代わって直ちゃんをしっかり守ってくれた、今度という今度こそきっちり約束守ってくれた。……すごいわ。カッコよすぎや。俺の出番ないやん」
 ヨンイルは冗談めかして苦笑するが、その笑みには少なからず本気が含まれていた。
 何かを吹っ切ったヨンイルのそば、手際よくネクタイをほどいた安田が止血を施す。
 オールバックが崩れ、前髪がかかった双眸に思い詰めた光を宿し、完璧に応急処置を施す。
 「……怪我は浅い。ひとまずこれで安心だ」
 安堵の吐息を漏らし額の汗を拭う。
 血に濡れた手でなすった額に赤い筋が付く。
 治療を終えた安田がどこかためらがいちにサムライに向き直り、弁解がましい早口で付け加える。
 「君は体力を消耗している。鍵屋崎の運搬は私に任せてほしい。この中における最年長者でもあり副所長たる私には無事囚人を送り届ける義務がある。どうか鍵屋崎を抱かせてくれ」
 サムライが首肯する。
 サムライに許可を得た安田は救われたような様子で鍵屋崎の体を抱き上げる。
 鍵屋崎を仰向けに抱き上げれば、意志を失った四肢がだらりと垂れ下がる。
 「…………おかえり」
 この上なく脆く壊れやすいものを扱うような臆病さで鍵屋崎を腕に抱き、恥ずかしげに俯く。
 安田をぼんやり見つめるサムライに無防備に歩み寄り、何気なく王様が聞く。
 「別嬪のいとこはどうしたんだ」
 「……死んだ」
 サムライが簡潔に答える。
 ヨンイルと安田がハッとする。俺も衝撃に言葉を失う。
 「俺が殺した」
 「事故だ。今回の件は不幸な事故として処理される。炉に落ちたのなら遺体の回収は不可能、よって君が静流を殺したという証拠はどこにもなく事件自体が成立しない。看守一名を殺害した上に医師と看守に傷害を働き重態患者を拉致した凶悪犯だ、もとより彼が生き残る可能性は低かった。君を倒して生き残っても看守に殺されるのは避けがたく私もまたそれを防げなかった」
 腕に抱いた鍵屋崎の重さを確かめるように力を込め、あどけない寝顔に微笑ましく目を細める。
 「君のせいではない。君は全身全霊で直を救ってくれた。……副所長として感謝を」
 「副所長」の前に別の言葉を言おうとして慌てて嚥下したような一呼吸の間があった。
 サムライはぼんやりしていた。
 髪と一緒に魂の一部も蒸発してしまったかのような放心状態で立ち尽くしていた。ヨンイルの礼も安田のフォローもサムライを覚醒させるには至らず、意志の光が失せた空洞の目で虚空を見据える。

 なんて声をかけりゃいいかわからなかった。
 拙い言葉でサムライを救える自信がなかった。

 重苦しい沈黙に居心地悪さを感じてポケットに手を突っ込む。
 くしゃくしゃの紙くずが指にあたる。
 紙の感触で思い出す。いつだったかリョウの房に行く道すがら静流とすれ違ったとき、気まぐれに手渡された折鶴のことを。
 いまさらこんな物渡してどうなる?
 なにもかもすべて終わっちまった後になって。
 躊躇はあった。葛藤もあった。激しく首を振ってそれ全部かなぐり捨てた。慰めにはならない。励ましにもならない。
 でも。
 「サムライ」
 最大限の勇気を振り絞り声をかける。
 沈黙の重圧で口の中がからからに渇いていた。
 ごくりと生唾を呑んで喉を潤し、大股にサムライに歩み寄る。片手はポケットの中に突っ込んだままだ。
 レイジは何も言わずそれでいて何もかも見通したようなしたり顔。
 ヨンイルと安田は不審顔。
 サムライの前で立ち止まり、おもいきり威張って命じる。
 「手を出せ」
 サムライの当惑が伝わってくる。
 構うもんかと開き直り眼光を叩きつける。
 疑問を発するのも億劫らしくのろのろ緩慢な動作で手をさしだす。面と向かって初めて目が赤くなってることに気付いた。
 俺にはサムライの涙なんて想像もできなかった。
 この寡黙で不器用で誇り高い男が顔をくしゃくしゃにして号泣するとこなんか逆立ちしたって想像できなかった。

 ああ。
 サムライも泣けたんだな。

 ポケットからゆっくり手をぬきとる。
 くしゃくしゃに丸めた紙くずを手渡す。
 赤く泣き腫らした目で俺を一瞥、サムライがのろのろと紙くずを開き、丁寧に皺を伸ばす。流麗な筆跡に重ねて面影が浮上したか、表情に乏しい顔に驚愕の波紋が広がる。 
 「前に静流に渡されたんだ。俺にはさっぱり意味がわからなかったけどお前ならわかるだろ。なんだ、これ」
 サムライは微動せず手中の紙を凝視する。
 生前の筆跡を穴の開く程見つめ、極限まで張り詰めた糸が撓むようにため息を零す。
 「恋文だ」
 『玉の緒よ 絶えねば絶えね ながらへば しのぶることのよわりもぞする』 
 紙にはたった一行そう書かれていた。
 リョウの見舞いにもってく折鶴に託されたのは、自分の身にやがて訪れる破滅を予期した辞世の句。
 どこまでもどこまでも純粋な想い。
 サムライは暫く紙を抱いたまま押し黙っていた。
 サムライの内側に去来する様々な感情、サムライの胸裏に交錯する様々な感情。
 逝きし者への哀悼の念、慙愧、悔恨、自責。
 それら全部が混ざり合った苦悩の嵐が吹き去ったとき、サムライの目は光を取り戻していた。
 その目が真っ直ぐ映すのは、安田の腕の中で眠りこける鍵屋崎。
 サムライが鮮やかな手つきで紙を折り始める。
 あっというまに一羽の鶴ができあがる。
 折鶴を紺碧の天へと翳す。

 「逝け。身は地獄におちるとも想いは浄土へ還れ」
  
 折から一陣の風が吹く。
 風に乗じて鶴が飛び立つ。
 サムライの手から放たれた鶴は紙の翼を羽ばたかせ、どこまでどこまでも高みに昇り、夜闇に儚く溶け込んでやがて見えなくなった。
 
 俺たちは揃って馬鹿みたいに空を見上げた。
 風の鳴る音をかき消して無粋なエンジン音が聞こえてきた。
 「…………ん……………」
 エンジン音に眠りを妨げられて鍵屋崎が目覚める。
 青ざめた瞼が僅かに持ち上がり、焦点の合わない双眸が覗く。
 「起きたか直!」
 「直ちゃん俺がわかるか、直ちゃんの手塚トモダチのヨンイルやで!」
 歓喜の声を上げる安田とヨンイルをたっぷり見比べ、開口一番。
 
 「……………………………………………………めがねは?」  

 「「は?」」
 鍵屋崎が息も絶え絶えに呪詛を吐く。
 「静流に奪われた僕のめがねだ。まさか僕の救出にかまけて付属品たる眼鏡の救出を忘れたのではあるまいな?もしそうなら貴様らはなんて頭が悪いんだ、低脳が低脳たる真価を発揮した貴重な症例と結論付けざるえない。僕の視力は0.03で眼鏡なしでは何も見えないというのに肝心の眼鏡を忘れるなど言語道断、眼鏡に対する配慮がなってないぞこの愚か者ども!!」
 「ちょ、ま、鍵屋崎わかったから落ち着けってそんなに怒鳴ったら腹が破けて腸がべろりとはみ出ちまうよ!?」
 「腸がはみ出る位なんだというんだ、3ミリなら誤差修正可能な範囲だ!」
 慌てて止めに入った俺をきっと睨み付け、胸ぐら掴まんばかりの剣幕で檄を飛ばす。コイツ復活早々理不尽全開じゃんかと内心呆れた俺のそばでレイジがけたたましく笑い出す。
 「はははははっ、それでこそキーストアだ!切れ味鋭い毒舌こそお前の魅力だもんな」
 「貴様の笑い声は傷にひびく。安眠妨害および騒音条例違反で訴訟を起こしたい。控えめに言って声帯に異常があるとしか思えない。どうして笑い声までもそんなに音痴なんだ、貴様のその非常識な笑い声に比べればまだしもサムライの読経のほうが耳ざわりいいぞ」
 これ以上ないしかめ面で反論する鍵屋崎へと軽快に接近、レイジが全身の緊張をとくのがわかった。
 戦闘モードの豹が一変、牙と爪を引っ込めてじゃれあいを楽しむでかい図体の猫になった。

 鍵屋崎の顔をぎょっとするほど近くで覗き込み、極上の笑顔をたたえる。
 『Welcome to Tokyo Prison.
  Please enjoy days here』
 滑らかな発音でご挨拶。
 『As far as there are you.』
 鍵屋崎が皮肉げに口角を吊り上げる。

 エンジンの音がどんどん近く大きくなる。
 砂丘の向こうから急接近する二台のジープ……迎えのジープ。
 そして。
 
 「「な!?」」
 俺とサムライと安田とヨンイルが口を開けて見てる前で。
 尻軽レイジが鍵屋崎にキスしやがった。
 「レイジお前、おま……」
 二の句が継げない。
 怪我の痛みも吹っ飛ぶ仰天ぶりの鍵屋崎を愉快げに眺めて爆笑するレイジ、反省の素振りなどさっぱりない態度にヨンイルが激昂、シャーッと奇声を発してとび蹴りを放つ。
 「レイジお前なにしさらしとんじゃこのボケカスがっ、俺かて自制心総動員して我慢したのに直ちゃんの唇よこからかすめとりしくさって……もう勘弁できん、カメハメハで沈めたる!!」
 「いててててマジで怒んなってヨンイルほんの冗談親愛のキスだよ、今のキスなんて数のうちに入らねーよ!いいじゃんか別に唇じゃなけりゃ、頬っぺなら浮気のうちに入らねーよ、なあサムラ……」
 振り向きざまレイジの笑顔が固まる。
 「サムライ、ヨンイル、許す。東京プリズンの秩序維持の為にその男を砂漠に沈めろ。今なら先の事故で死亡した事にして処理できる」
 鍵屋崎を抱いた安田の腕がわななき、眼鏡の奥の双眸が憤怒に燃え上がる。
 「御意」
 サムライの目は本気だ。
 安田の命令で殺意を剥き出したヨンイルとサムライにじりじりと追い詰められて、自業自得の窮地に嵌まり込んだレイジが半笑いでこちらに助けを仰ぐ。
 「おいおいロンこの大人げない連中にガツンと言ってくれよ。洒落がわかんないんだよなーコイツら。頬へのキスなんて挨拶代わりだってのに頭固いのなんのって……眠ってるキーストア引ん剥いたわけでもねえのにマジギレなんてどんだけ沸点低いんだよ、怒るんなら舌入れてからにしろっての……」
 「レイジ」
 頭に上った血がすっと下りてくる。
 俺は表面上はあくまでにこやかなまま―口角はひくついて目には本気の怒りが宿っていても―
 万国共通のジェスチャーで親切丁寧に地獄をさしてやった。
 『煩死人』
 いっぺん死んでこい。
[newpage]
 貢さんへ。
 あなたに手紙を書くのはこれが初めてです。
 改めて筆をとるとなんだか気恥ずかしいです。
 無知で無学な故に見苦しい所が多々あるかと存じ上げますが何卒ご容赦を。

 この手紙をあなたが読む頃おそらく私はこの世にいません。
 この手紙をしたためたのはあなたを苦しめるためじゃない、この期におよんでどうしても捨て切れぬ想いを手紙に閉じ込めておいていこうとしただけ。
 どうか嘆かないで、苦しまないで、哀しまないで。
 勝手なお願いだと承知しています。
 私は身勝手な女です。
 どうか呪ってください、憎んでください、恨んでください。
 あなたに罵倒されるなら本望です。
 未練がましい女とお想いですか?
 己が命と引き換えてあなたの執着を繋ぎ止めようとする不憫な女だとお思いですか?
 ……ちがう。
 つらつらとこんな事が書きたかったんじゃない、この世を呪う怨嗟の声を吐き出したかったんじゃない。
 ごめんなさい、不快にさせて。
 ごめんなさい、他に書くべきことがあるはずなのに。
 私自身なにをどう書き出したらいいかわからないんです。
 心の整理がつかないんです。
 嗚呼、なんでこんな事に。どうしてこんな事に。
 あなたを苦しめるために手紙をしたためたんじゃないと前置きしながら未練がましい繰言ばかり。盲いた目でも筆が乱れているのがわかります、手がたえず震えているのがわかります。本当はこんな事書きたくない、私の身に起きた事を綴りたくない。この手紙は今すぐ破り捨てるか焼き捨てるのが賢明だと頭の片隅で囁き声がします。

 今更我が身の不幸を嘆いて何になるの?
 全部終わってしまったというのに。

 いえ、違います。
 私自身の手で終わらせなければいけないのです。
 私は罪を犯した。決して許されぬ罪を。
 過ちではないと信じたい。
 過ちだとは私自身思っていない。
 貢さん、あなたと肌を重ねた行為を後悔した事は一度だってありません。
 どうか信じてください。
 私は貴方の腕の中で安心を得た、愛されている実感を得た。
 幸せだった。
 幸せだったのです、本当に。
 私なんかには勿体無いくて有難くて涙が出そうな位。
 私はもともと莞爾さんの情けで離れに住まわせてもらっている身寄りのない女、天涯孤独の身の上、卑しい使用人ふぜい。莞爾さんが私と貢さんの仲を禁じたのも当たり前です。次期当主と目される本家の跡取りが一介の使用人と恋仲になったとあっては元禄年間から続く帯刀家の名に傷が付くと案じたのです。
 莞爾さんはひどく体面を重んじる方でした。
 私とあなたの関係が表沙汰になったとあっては家の恥と、面と向かって罵られた事も一度や二度ではありません。
 莞爾さんには申し訳ない気持ちでいっぱいです。
 身寄りを亡くした私に幼い頃からよくしてくださったのに、恩を仇でかえすような振る舞いをしてしまいました。
 けれどもあなたを好きになってしまった。
 ひとりの女として好きになってしまった。
 貢さんを好きな気持ちは偽れない。
 たとえそれが当主への忘恩に値するとしても恋情を慎むことができなかった。……はしたない女です。莞爾さんの怒りを買うとわかっていながら、その怒りがあなたに向くとわかっていながら身を引く事ができなかった。
 そしてとうとう後戻りできないところに来てしまった。
 自業自得です。
 悪いのは私。
 恥と意地をかなぐり捨ててもあなたに縋り付こうとした私。
 ……支離滅裂な文章だわ。
 何が言いたいのかしら私。
 自分でもよくわからない。
 ひょっとして頭がおかしくなってるのかしら。
 だってこんなに手が震えて字がのたくっている……みっともないったら。目が見えなくてもわかります。指でゆっくり字を辿ってみれば自分の字がどんなにか見苦しく歪んでいるかすぐわかります。
 せっかく貴方に教えてもらった字なのに上手く書けなくて悔しい。
 拙い字の綴りで気持ちを伝えるしかない己がひどく歯がゆい。
 貢さんにはせめて私の字を覚えていてほしい。
 歳月を経て私の面影が薄れても、せめて私が綴った字だけは記憶にとどめていてほしかった。
 綺麗な字を書きたい。
 できるだけ丁寧に書くつもりです。残された時間を使って。
 一字ずつ心をこめて。
  
 あなたが手紙を読む頃私はすでにこの世にいません。
 首に縄をかけて己の息の根を絶つつもりです。
 あなたは当然理由を知りたがる。
 貢さんは知らない事を知らないままにしておくことができない人だから、白と黒をきっちりつけたがる人だから、私の死の真相を暴こうと奔走するでしょう。
 そして遅からず真相に辿り着く。
 私がどれだけやめてと懇願したところで決してやめないでしょう。
 ならいっそ、死ぬ前に真相を綴るべきと筆をとりました。
 本当はこんな事書きたくない。
 今すぐ筆を捨てて紙を破り捨てたい衝動に駆られて気が狂いそうです。こんな恥ずかしい、おぞましい、おそろしい……嗚呼。あなたにだけは知られたくない。あなたに知られるのが怖い。
 できることなら永遠に胸に秘めて逝ってしまいたい。
 その半面、私の身に起きた事を知ってほしい気持ちもある。
 だれでもいいから話を聞いて、だれでもいいから助けて。
 ひとりで耐え続けるのはもう限界、胸に秘め続けるのは限界。
 心が悲鳴を上げます。
 怖くて怖くて震えがとまらない。
 助けにきて、だれか、だれか……

 みつぐさん。

 私の手をとって無明の暗闇から救い出して。
 どうかこの手を握って欲しい、二度と離れぬようしっかり握って欲しい、ひとりじゃないと安心させてほしい、ひとりで苦しまなくていいと言ってほしい、守ってくれると約束してほしい。
 ……駄目。
 やっぱり駄目。縋っては駄目、縛っては駄目、巻き込んでは駄目。
 貢さんは優しい人だから縋れば必ずこたえてくれる。でも。

 ………この手紙が日の目にふれることはないと信じて続けます。

 私が首を吊る理由の一つは、道場の門下生に犯されたからです。
 全部で十一人いました。
 とある親切な方から不吉な噂を教えられたのです、道場の門下生が結託してあなたを襲おうとしていると。
 必死に走りました。息を切らして走りました。
 貢さんは寡黙を美徳する人だから色々と誤解されやすいのは承知の上、しかし大勢で一人を囲むなど卑劣なまねは許せない。
 私は彼らを止めにいきました。
 どうか仕返しを思いとどまってくれと懇願しました。
 彼らは聞く耳を持ちませんでした。
 私はそれでも必死に縋り付きました。
 押し問答がはじまりました。いつしか揉み合いになりました。目が見えない私は着物の胸元がはしたなく肌蹴たのも知らず「なんでもするから貢さんを助けて」と激情に任せて口走りました。
 なんでもするから、と。
 そのとおりになりました。
 ……その後のことは正直語りたくありません。
 ただただ怖かった。おそろしかった。
 目が見えないことが今だかつてあんなにおそろしかったためしはない。子供の頃から慣れ親しんだ暗闇があんなに得体の知れなかったためしはない。

 怖かった。
 どこをさわられるかわからなくて、
 どこをまさぐられるかわからなくて、
 どこを揉みしだかれるかわからなくて、
 どこに指を入れられるかわらなくて、
 どこを貫かれるかわからなくて、

 助けて助けてと狂ったようにかぶりを振った、頑是無い幼子の如く泣き叫んだ。かわるがわる犯されながらあなたの名を呼んだ。ずっと笑い声を聞いていた……下劣な笑い声を。逃げようとした。何度も何度もがむしゃらに身を翻した、道場の床を這いずって光のほうをめざした。けれどもすぐに引き戻された。着物の裾をひきちぎられて胸元を鷲掴まれて背中にのしかかられて

 『めくらはめくららしく芋虫みてえに丸まってんのがお似合いだ』
 『貢のお古は癪だが我慢してやる』
 『知ってるか?アイツには分家との縁談が持ち上がってるんだとよ。可哀想に、捨てられたんだなお前』
 『貢に遊ばれて捨てられた可哀想なめくらをたっぷりと可愛がってやるよ』

 乳房を乱暴に手掴みされた。痛かった。かわるがわる乗られた。足を無造作に押し開かれて一気に貫かれた。
 痛くて痛くて自然と涙が流れた。
 自分の意志では止められなかった。
 嫌々と首を振った。
 聞いて貰えなかった。
 抵抗すればするほど宴に興を添えた。
 はやく終わって欲しい一刻もはやく終わって欲しい済んでほしいとそればかりでしまいには涙も枯れ果てて体の奥深くを突く熱の塊に痛みすら麻痺して目と同じく虚ろな心に何も感じなくなった。
 何も。
 絶望だけがあとに残った。
   
 でも、それだけじゃない。
 それだけじゃないのよ。
 
 先を続けるのをためらう。
 ここでやめてしまいたい欲求が筆をとめる。
 嫌だ。こんなおぞましいこと書きたくない、暴き立てたくない。何も知らないあなたに真相を明かしてどうするの?あとに残るのは底知れぬ絶望だけ、決して這い上がれぬ暗闇だけ。私がいる場所と同じ暗闇に引きずり込む事になるとわかっていながら先を続ける意味が見つからない。
 でも、苦しいの。
 苦しいのよ。
 せめてこうして手紙に吐き出さなければ苦しくて苦しくて、胸に沈んだ秘密の錘が苦しくて息もできず深みに嵌まって、どんなにもがいても浮かび上がる事ができなくなりそうでとても恐ろしい。
 許してください、貢さん。
 私がこれから言う事を。
 罪深い恋心を。

 私たちは姉弟なの。
 血の繋がった実の姉弟なの。
  
 私の母親は莞爾さんの妾だった。
 莞爾さんは実の父、あなたは腹違いの弟。
 ……真実を知ったのはごく最近。
 とても驚いたわ。
 容易に信じられなかった。
 でもそれで納得がいったの、莞爾さんが私と貢さんの仲に反対した本当の理由が。本家の跡取りと使用人が恋仲になる事を単純に不愉快に感じたんじゃない、莞爾さんの反対にはもっと切実な理由があったのよ。
 どうか莞爾さんを恨まないで。
 たったふたりきりの親子なのだから。
 私の父でもあるのだから。
 莞爾さんは貴方を心配していた、腹違いの姉弟が愛し合うのを容認しがたかった。だから分家との縁談を持ち上げてまで私たちを引き裂こうとした。莞爾さんは必死だった。あなたが人の道を踏み誤らず正しく生きてくれるよう真摯に祈り真剣に悩んでいた。
 
 貢さん。
 子供の頃はあなたを実の弟のように思っていた。
 いつからか淡い恋心に変わった。
 自覚した途端激しい愛情に変わった。
 あなたを守ってあげたかった。ずっと一緒にいたかった。あなたの伴侶として共に添い遂げたかった。たとえまわりの人たちに祝福されなくてもあなたとなら幸せになれると夢見て疑わなかった。いつかは子供が欲しかった。私たち二人とも早くに母を亡くし父親の愛情を得られず育った、その分自分の子供には愛情を注ごうと心に決めていた。

 あなたと家族になりたかった。
 
 あなたへの恋心には今でも変わりない、あなたを愛する気持ちはゆるぎない。
 許されるならずっとあなたのそばにいたかった、あなたの伴侶として終生添い遂げたかった。  
 けれど、許されない。
 実の姉弟で情を通じ肌を重ねた罪深さは耐え難い。
 貢さん、あなたもご存知のはず。
 古く澱んだ帯刀の血をこれ以上濃く澱ませるわけにはいかない、これ以上業を深めるわけにはいかない。
 私たちの子供はきっと幸せになれない。
 生まれながらに業を孕み、帯刀家に縛り付けられて生きていくしかない。
 
 貢さん。
 ついに叶わなかった私の夢を聞いてくれますか。
 遠い将来、もし莞爾さんの許しを得てあなたと伴侶になれたらば、生まれた子供に付けたかった名前があるの。
 「咲」。
 「苗」の子が「咲」だなんておかしいですか?
 貢さんには笑われますね、きっと。
 それでももし二人のあいだに生まれた子が女の子ならば、満開の幸せを願って「咲」と名付けるつもりでした。
 実を言うと子供の頃から自分の名前がきらいでした。
 「苗」。
 地味な名前。なんだかなげやりな感じがする名前。
 薫流さんと静流さん、誰もがおもわず微笑みかけたくなる美しい兄弟の名前を密かに羨んでました。
 薫流と静流。
 生まれたときから幸せが約束されているような華やかな名前。
 二つの流れが一つになりて静かに薫る流れとなる、どこか宿命的な結び付きを感じる名前。
 二人の名前を噛み含むようにくりかえし、続き自分の名前を反芻し、自分だけが仲間はずれにされているような引け目を感じました。 
 「なえ」と自分の名を口の中でくりかえす度、お前はだれからも愛されてないんだぞと思い知らされるようでいやでした。
 自分の名前を好きになれたのは貢さんのおかげです。
 「いい名だ」と貢さんが褒めてくれたからです。
 私は貢さんに救われました。
 何度も、何度も。目が見えない私の目となり貢さんが尽くしてくれたおかげで不便もなく生きることができました。
 いくら感謝の言葉を尽くしても足りません。
 あなたの忠心と献身に報いるには私はあまりに何も持たず生きてきました。
 
 私は苗。
 とうとう咲かずに終わる苗。
 
 すべての苗が芽吹くとは限りません。
 満開に咲き誇るとは限りません。
 咲かずに終わる苗もたしかにあるのです。
 だれかを生かすために芽吹く前に摘まれる苗が、なにかを残すために間引かれる苗もあるのです。
 私は芽吹かない苗でした。
 あなたの隣で幸福に花開くことを夢見て、とうとう果たせずに終わりました。
 たとえ真実を知らなかったといえど実の姉弟で情を通じたのは事実、抱き合ったのは事実。
 私と情を通じたことが表沙汰になれば貢さんに累がおよびます。
 私と手に手をとりあって畜生道に堕ちるような男は次期当主にふさわしくないと一身に非難を浴びます。
 私は幼い頃からずっとあなたを見てきた。
 ある時は母のように姉のようにある時は恋人として、だれより近くであなたの事を見つめ続けた。見えない目で見つめ続けた。
 だからわかります。
 疲労困憊した荒い息遣い、苦しげな喘鳴、それでも挫けず木刀を振るい続ける風切る唸り、虚空に飛び散る大粒の汗、袖が翻る風圧。
 あなたがどれだけ無心に稽古に励み続けたか、文字通り粉骨砕身の努力で剣の腕を磨いたか、私は全部見てきました。
 私と情を通じたことであなたが貶められるのは耐えられない。
 あなたの努力までも無きに等しく扱われるのは耐え難い。 
 
 私はずっとあなたに守られてきた。
 今度は私が守る番です。
 自分の命に代えてあなたの名誉を守る番です。  
   
 貢さん、どうか身勝手をお許しください。
 私が死んだら泣いてくれますか。馬鹿な女だと罵りますか。どうしておいていったと縋ってくれますか。
 ごめんなさい。
 もうこうするしかないの。
 こののち私が生きていればいつか秘密を洩らしてしまう日がくる、錘の重さに耐え切れず口を割ってしまう日が必ずくる。
 それだけじゃない。
 命を断たねば私は諦めきれない、命尽きるまであなたを忘れられず未練を抱き続けるに決まってる、あなたと幸せになりたいと身の程知らずに求めてやまない。
 
 帯刀家が背負った業は私の代で断つ。
 二人で心中するくらいならいっそ私ひとりが間引かれたほうがましです。
    
 勝手なお願いと重々承知の上で言わせて貰います。
 貢さんには幸せになってほしい。生き延びて幸せになってほしい、帯刀家から自由になってほしい。
 芽吹かない苗を嘆かないで。
 いつまでも暗く冷たい土の中に心を残さないで。
 暗く冷たい土の中はあなたの居場所じゃない。
 帯刀家だけがあなたの居場所じゃない。
 あなたの居場所はあなたを愛する人の隣以外にありえない。
 貢さんはこの先何があっても生き続けなくてはだめ、しぶとくしたたかに生き続けなくてはだめ。
 どうか心して聞いてください。
 恋人として最後の、姉として最初の願いです。
 この先あなたを好きになってくれる人が必ず現れる。
 貢さんはとても優しい人だから、だれより一途で高潔な人だから、その優しさと高潔さを好いてくれる人がきっと現れる。
 あなたの脆さ弱さまでもまるごと包み込んで愛してくれる人がきっといる。
 あなたを愛するひとは帯刀家の人間であってはいけない。
 あなたを幸せにできるひとは、血の因果を外れたところにしかいない。
 
 恋人としてあなたを愛した私も結局は血に縛れて死んでいく。
 あなたには同じ道を辿ってほしくない。
 帯刀家とは関係ない所で幸せになってほしい。
 宿命に呪縛されない幸せを掴んでほしい。
 
 ………ごめんなさい、勝手なことばかり言って。
 呪ってくださって結構です。
 恨んでくださって結構です。
 でも貢さん、どうかこれだけは心にとめておいて。
 私はあなたが好きです。真実気も狂いそうなほど……死ぬほどに。
 あなたと幸せをもとめた気持ちに嘘はない。
 あなたの子供が欲しかった気持ちに嘘はない。
 私は芽吹かない苗。暗く冷たい帯刀家の中で死んでいくしかない。
 私は目吹かない苗。あなたは私の目の代わりとなってくれた。
 大好きです、貢さん。
 あなたは私のひかりでした。
 目が見えない私でもあなただけは見える気がした。
 ちょうど目を閉じても顔にあたる光だけはわかるように、些細な息遣いや衣擦れの音やおずおずとふれる手であなたを感じる事ができた。 
 けれど私は光を与えられるばかりで、あなたの光にはなれなかった。
 目が見えない私はこの先帯刀家を出ることができない。
 もし私がいることであなたまでも暗く冷たい帯刀家に閉じこもってしまうなら……
 
 貢さん、逃げて。
 どうか命尽きるまで帯刀家から逃げてください、逃げ続けてください。
 悟ったふりで死を待つよりも必死に逃げ続けたほうが余程いい、私は貢さんにそうしてほしい。
 
 帯刀家の外にこそあなたを愛してくれる人がいるはずだから、
 あなたを抱きしめて守ってくれる人がいるはずだから、
 今度こそ本当の光をつかめるはずだから。

 その人はあなたを抱きしめこう言ってくれる。
 あなたの背中に腕をまわし、あなたを優しく抱擁して。
 私がとうとう与えられなかったものを、あなたに与えてくれる。
 血と血で結ばれた肉親の愛ではなく、想いと想いで結ばれた本当の愛を。
 一方的に生かされる献身ではなく互いに寄りかかる依存ではなく、相思相愛の安らぎを。
 『自分はあなたを生かし生かされている』と。
 
 幸せになってね、貢さん。
 私と咲の分まで咲き誇って頂戴。
 いつかふたりで見た桜のように満開の花を降らして頂戴。

 この手紙は私の部屋の文机の下、和紙を貼った箱にしまっておきます。
 あなたが見ずに終わるならそれがいい。
 世の中には知らないほうがいいことも沢山ある。
 それでも書かずにいられなかったのは死ぬ前に心の澱を吐き出したかった私の我侭です。
 
 最後に、いつかあなたが出会う人に一言。
 貢さんを――弟をくれぐれもお願い致します。
 どうか私と同じかそれ以上に弟を愛してください。
 莞爾の長女にして貢の姉、一族の末席に連なる帯刀苗が切にお願い申し上げます。

 貢さん。
 桜の木の下で咲を抱いてあなたを見守っています。
 しずごころなく花散る春の日は私たちの事を思い出してね。

 幸せにならなかったら承知しませんよ。
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