少年プリズン

まさみ

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三百五十二話

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 ここは蛇の穴。
 僕の体の上をのたくりくねり這いずりまわる発情した蛇、体中の穴という穴に入り込み蠢く淫乱な蛇。
 闇から生まれた蛇の正体は、僕の肌を舐める貪欲な舌と愛撫の手。
 生臭く湿った吐息が不快だ。
 赤裸な衣擦れの音が耳障りだ。
 饐えた暗闇の中で何が行われているのか肉眼で捉えるのは不可能でも異常に研ぎ澄まされた嗅覚と触覚は視覚を補って余りある。
 戒められた手首に鈍い痛みを感じる。後ろ手に拘束された手首の皮膚が破けて血が滲む。
 「僕の好みからすると君は少し育ちすぎだ」
 声が聞こえる。興奮に掠れたあさましい囁き。
 呟くあいだも愛撫の手は休めずさらに激しさを増して僕を責め苛む。 隣の房の囚人は異変に気付いているのかいないのか……鉄扉を開錠して看守が入った事には気付いても、暗闇で行われている情事にかんしては気付いてない可能性が大きい。
 否、それ自体が杞憂だ。
 かりに湿り気を帯びた物音やはしたない嬌声が壁向こうに聞こえても独房に拘禁された囚人はすでに正気を失っており、証言能力がない。
 余程精神力が強い人間でなければこんな劣悪な環境には耐えられない。閉塞感を与える暗闇が押し迫る中、後ろ手を拘束されて満足に寝返りも打てず、意志ある肉塊と化して汚物まみれの床に腹這いになる幽閉の日々に耐えられるはずもない。
 ここは蛇の穴だ。
 邪悪な蛇の巣穴だ。
 吐寫物と糞尿の悪臭が凝縮された暗闇に朦朧と寝転がっていると闇から分裂した幾万匹もの蛇がうじゃうじゃと四肢に絡んで体中の穴という穴に潜り込んでくる。
 「僕の好みからすると育ちすぎだけど、ただでヤらせてくれるんだから文句は言えないね」
 僕の体を夢中でまさぐる手、首筋を這い回る熱い舌。
 曽根崎を篭絡するのは簡単だった。
 最初は手だけだった。
 鉄扉の最下部に設けられた鉄蓋を開けて投げ込まれるアルミ皿、一日二回それを出し入れする手だけが曽根崎の印象だった。
 外から射し込む僅かな光を頼りに、おそるおそるアルミ皿をさしだす手に目を凝らす。
 曽根崎が怯えているのはすぐにわかった。
 当然だ。同僚の柿沼が僕に殺された事は記憶に新しい。
 他の囚人はともかく僕には十分気をつけてあたらねば柿沼の二の舞になるぞと脅されているのだ。
 僕は待った。
 ただただ気配を消して息を潜めて曽根崎の警戒が緩むのを待った、寡黙に徹して曽根崎の油断を誘った。
 やがて曽根崎は僕に興味を示し始めた。
 一日二回、決まった時間に曽根崎はやってくる。
 次第に廊下を近付いてくる靴音、ワゴンの車輪が床を削る音、ワゴンに積載された食器が奏でる金属音……
 鉄蓋が開きまた閉じる単調な音の連続。
 奥の独房から残飯を配り終えた曽根崎がこちらに近付いてくる。
 鉄扉の向こうに気配を感じる。 
 意を決したように片膝付き、ワゴンの下段からトレイを取り上げる様子さえ瞼裏に思い浮かべることができる。
 曽根崎が扉下部の鉄蓋を持ち上げ攻撃の意志がないと確認、危険がないと悟ってから漸く食器を入れる。
 「ありがとう」
 曽根崎がびくりとする。
 即座に手を引っ込めようとした曽根崎、その指を舐める。
 鉄扉の向こうから息を呑む気配が伝わる。
 硬直、弛緩。恍惚と吐息を漏らす曽根崎、快感に上気した顔が目に見えるようだ。 
 僕は丹念に曽根崎の指をしゃぶった。
 口腔に含み舌を絡めてたっぷりと唾液を吸わせる。
 指がふやけて白くなるまで名残惜しく口腔で転がして塩辛い後味をたのしんだ。近隣の囚人は何も知らない、何故僕の前でだけ配膳係の滞在時間が長くなるのかその理由に気付く様子もない。
 周囲の房からは絶えず意味不明な奇声が聞こえてくる、人間の声帯が発してるとは到底思えない濁った苦鳴や罵声や悲鳴や絶叫が陰陰滅滅と流れてくる。
 奇怪な呻き声が四囲から押し寄せる中、曽根崎だけが別種の声を漏らしていた。
 「いつもご飯をもってきてくれるお礼さ」 
 あくる日もあくる日も指を舐めた。
 扉下部からおそるおそる差し伸べられる手、指。
 それらを丹念に口に含み舌を絡める、繊細な舌遣いで指の股を洗ってくすぐったがらせる、手のひらに舌を這わせて唾液をのばす。
 扉の向こうから歓喜の呻きが聞こえてくる。
 僕に手を舐めさせる傍らもう一方の手で男根をしごいているらしく、栗の花の濃厚な匂いが鼻先に漂ってくる。

 日をおかず鉄蓋の下から「別の物」がさしこまれるようになった。
 日をおかず曽根崎自ら独房に入ってくるようになった。

 曽根崎が僕の頭を抱え込む。
 ズボンの前を寛げて股間を露出して男根を吸わせる。
 「はあっ、あう、ひぃっ……いいよすごくいいよ、もっと、もっとぐちゃぐちゃにしてぇ」
 曽根崎ががくがく腰を振る。
 僕は言われた通りにする。
 わざとらしく舌を使い唾液を捏ねる音を響かせる。
 僕は曽根崎に抱かれた。
 何度も何度も何度も、数え切れないほどに。
 後ろ手に手錠をかけられたままある時は腰を起こされある時は膝に座らされある時は肩に両足掲げられ無理な体勢をとらされ何度も何度も菊座に大量の精を注がれた。
 僕は浅ましく腰を振りたくった。
 曽根崎に貫かれて最高に気持ち良いと、もっと乱暴に抱いてほしいと物欲しげにねだってみせた。どんな無理な体勢をとらされ関節を痛めても、だらしなく弛緩しきった菊座から絶えず血と精液と糞便を垂れ流すみじめな思いをしても唯一つの目的を遂げるためなら肉奴隷の汚辱を厭わなかった。
 そうだ。僕は他ならぬ自分自身を取り引きの道具に使ったのだ。
 僕は待った。ただひたすらに待ち続けた。
 曽根崎が完全に油断するのを、快楽の虜となるのを。
 そして遂にその時が来た。
 『この手が使えればもっと気持ちよくしてあげられるのに』
 奉仕を中断し、顔を伏せる。
 曽根崎は快感に息を荒げ、続きを促すように僕を見下ろす。
 僕は内心ほくそ笑み、最前まで口に含んでいた男根の先端、亀頭の突起に舌先を踊らす。  
 「あっあああああっあふっ……意地悪しないで、イかせてっ……」
 「イかせてあげたくても手が使えないんじゃしょうがない」
 おどけて肩を竦める。曽根崎の顔を躊躇が掠める。もう一息。
 「曽根崎さん、お願いがあるんだ。僕の手錠外してくれないかな。曽根崎さんなら鍵持ってるでしょう」
 「だめだよ、規則違は……あうっ!」
 曽根崎に続きを言わせず、この上なく張り詰めた男根に軽く歯を立てる。醜い腫れ物めいた亀頭を舌先でつつき、すぐまた引っ込めて焦らしに焦らす。あと少しの刺激で射精できる、射精したくてしたくてたまらないといった風情で切なく喘ぐ曽根崎に追い討ちをかける。
 「ここには誰もいない、誰も見ていない。僕と曽根崎さん二人だけだ。周囲の房の連中はとうに気が狂ってる、分厚い壁を隔てたこっちで何が起ころうが興味を示したりしない。少しの間でいいんだ。僕はただ曽根崎さんを気持ちよくさせてあげたいだけだ。両手が使えなきゃ曽根崎さんの魔羅をいい子いい子することもできない、優しく包んで宥めてあげることもできやしない。口での奉仕だけじゃ寂しい。曽根崎さんだって本当はそう思ってるんでしょう」
 曽根崎がごくり生唾を飲み込む。
 「ほ、ほかの人にはナイショだよ。ぼ、ぼくときみだけのひひ、ヒミツだ」
 腰の鍵束を片手さぐり、一本を掴む。
 曽根崎が僕の背後に回り、屈みこむ。
 勃起した男根がズボンの尻にあたる。浅ましい息遣いがうなじで弾ける。曽根崎が僕の背中に覆い被さり、僕を後ろ手に戒めた手錠に鍵をさしこむ。カチリと軽い音。鍵穴に鍵が嵌まり、手錠が跳ね上がる。
 手錠が床に落下、両手が自由になる。
 両手を前に回して指を開閉、ちゃんと動くのを確かめる。
 「さあ、続きをしようか」
 待ちきれぬ期待感を込めて促す曽根崎に向き直り、床に片膝付き、股間に顔を埋める。
 男根に両手を添えて口腔へ導き入れ、唾液の溜まりに浸し、そして……
 
 凄まじい絶叫が轟く。

 音なのか感触なのか、下顎と上顎を噛み合わせた瞬間にガリッと衝撃を感じた。前歯が男根を穿ち奥歯が食いちぎり口腔に鉄錆びた血の味と精液特有の青臭い苦味が満ちる、硬く勃起した男根が歯で断ち切られた瞬間に芯がふやけて萎縮し血痰と見まがう萎びた肉塊になりはてそれを吐き出す。
 「まずい魔羅。煮ても焼いても食えないね」
 曽根崎の悲鳴は止まない。
 嗚呼うるさい。
 僕は無造作に手の甲を拭い唾液を吐く、口の中にはまだ生臭い肉の味と血の味が満ち満ちている。
 今のぼくは生き血を啜ったようなありさまで口元にも上着にも鮮血の朱が散っている、こんな格好で出歩いたら目だってしょうがない、それでなくても脳天からつま先まで糞尿まみれの格好で出歩くわけにはいかない。
 名案が閃く。
 涙と鼻汁と脂汗を体中の穴という穴から垂れ流してのたうちまわる曽根崎の傍らに跪き、看守の制服を手際よく剥ぎ取る。
 上着を脱がしズボンを脱がし下着を剥いで全裸にし、今まで着ていた垢染みた囚人服を惜しげもなく脱ぎ捨て、蛇が脱皮するが如く剥きたての裸身をさらす。
 「ひぎゃあ、ひぐぅあ、ぼ、ぼぐのちんちんがあっ……しぼ、しぼんじゃって………」
 股間を押さえて悶絶する曽根崎に構わず、看守服のボタンをきちんと留め、制帽を目深に被る。
 曽根崎の腰をまさぐり、鍵束を取り上げる。
 何本か試したのちに独房の鍵を発見、鍵穴にさしこむ。カチャリと手ごたえがあり、錆びた軋み音を上げて鉄扉が外側に開く。
 久しぶりに光溢れる外界に出て、あまりの眩さに目が潰れる。
 胸を張り両手を広げ、新鮮な空気を肺一杯吸い込む。
 蛍光灯の光に照らされた細長い廊下を見渡し、呟く。
 「今会いに行くよ、貢くん」
 「た、たひゅけて……」  
 哀れっぽい声に目を向ける。
 無関心に振り向いた僕の視線の先、汚物まみれの床を這いずる奇形の芋虫……否、曽根崎。男根を食いちぎられたショックと激痛に溶け崩れた顔に救い難い悲哀を浮かべ、こちらに虚しく手を伸ばす。
 「たひゅけて……医者、医者をよんで……だって血がこんなにでてるこのままじゃ死んじゃう僕ぼく嫌だこんなところでこんな死に方いやだ助けて助けてお願い見捨てないで」
 曽根崎の顔面に影がさす。ゆっくりと閉まりゆく鉄扉の影。
 絶望に凍り付く曽根崎の顔、その表情の変化をたのしみ声をかける。
 「さようなら、曽根崎さん。短い間だけど楽しかったよ」
 ただひとり暗闇に取り残される恐怖に脆い自我は耐え切れず理性が崩壊した曽根崎が狂ったように僕に手を伸ばし縋り付こうとして鉄扉に阻まれて絶叫、何かが鉄扉に激突する音を最後に完全に気配が絶える。
 おそらく失神したのだろう。
 鉄扉に施錠する。
 これで時間稼ぎができる。
 曽根崎が出血多量で死んでも構うものかショック症状を起こして血の海ではてても構うものかと嘲り捨て、蛍光灯の光が照らす廊下を歩き出す。漸く蛇の穴から脱け出すことができた。
 体の裏表を這いまわる蛇がもたらすおぞましい感触が淫蕩な熱に変じてゆくあの狂気に耐えられたのは僕がすでに狂っていたから、最初からどうしようもなく狂っていたからに他ならない。
 「三千世界の鴉を殺し ぬしと朝寝がしてみたい 玉の緒よ たえねばたえねながらえば 忍ぶることのよわりもぞする……」
 廊下に靴音が木霊する。
 僕はこれから、僕の運命を狂わせた男を殺しにいく。
 
              +



 『前略直
 元気でいるか。俺は元気だ。逢いに行けずにすまん。医務室前の見張りが厳しくて逢いたい気持ちは募れども叶わぬのだ。
 この前はヨンイルの助力あってこそ一夜の逢瀬に漕ぎつけられたのだ。ヨンイルはお前をひどく心配している。直、お前は良い友人を持って幸せ者だ。
 今日はヨンイルに呼び出された夜のことを語りたい。
 直。お前に別れを告げて数日余りが経った頃、俺はヨンイルに話があると呼び出された。
 唐突な申し出を訝しく思いながらも西棟に赴いた俺を、ヨンイルはしたたかに酔っ払って出迎えた。
 ますます不審に思いながらもヨンイルのすすめに従い酒を飲み交わした。  
 ヨンイルはしばらく他愛もない話をしていた。お前が好きな……手塚治虫という漫画家の話だ。
 めるもとぴのこ、どちらの幼女が好みかと聞かれたが俺にはそのめるもとぴのこが誰をさすか皆目見当がつかず答えようがなかった。
 己の不勉強を恥じた。
 しばらくヨンイルはひとりで話し続けた。
 己が好きな話題を饒舌に語り続けてから不意に口を噤み、真顔で俺を見据えた。
 そして、こう言ったのだ。直を抱いた、と。
 その瞬間の事はよく覚えてない。頭にカッと血が上り、勝手に体が動いた。憤怒で我を忘れた。ヨンイルに抱かれたお前を想像するなり完全に自制を忘れた、理性の箍が外れた。俺以外の男が俺より先にお前を抱いた、お前を貪った。その男が今目の前にいる、ふてぶてしくも目の前で取り澄ましている。気が付けばヨンイルを殴っていた。ヨンイルの顔は血まみれだった。床には一本歯が転がっていた。
 とんでもないことをした、と思った。
 武士たる者いつでも止水の心を保たねばならぬというのに、一時の怒りに身を任せて道化を殴り付けた。俺はまだまだ未熟者だ。
 しかし到底我慢できなかった。怒りを鎮めることができなかった。
 そして唐突に理解した。
 俺はヨンイルに嫉妬していると、ヨンイルにお前を奪われて嫉妬に狂っているのだと。
 「サムライ、お前まだ気付かんのか。はよ認めてまえ、直ちゃんに惚れとるて」
 痛そうに顔を顰め、ヨンイルが指摘する。
 「惚れた男を別の男にとられてカッときた。別に隠すことない、武士かて男なら嫉妬もありえるやろ。せやけどなサムライ、言わせてもらうわ。直ちゃんが俺によろめいたんはお前のせいやろ、お前が直ちゃんしっかり守ったらんかったから直ちゃんが俺にふらふら付いてきてもうたんや。あんたらの痴話喧嘩に巻き込まれてこっちはええとばっちりや、お互い好き合うとるくせに変な意地張ってこじれにこじれて身を引いて意味わからんわ、ホンマ」
 ヨンイルの喝で目が覚めた。 
 今まで深刻に悩んでいたのが途端に馬鹿らしくなった。直、お前を帯刀の因縁に巻き込みたくないばかりにやせ我慢をしていた。俺がそばにいればお前は傷付く、帯刀の因縁に巻き込まれて心と体に消えない傷を負う。だがもし俺がいないあいだにお前がだれか他の男に抱かれたらと考えたら目の前が真紅に染まり咆哮したくなり、耐え難い苦悩に苛まれて夜も眠れぬ己に気付いた。
 噛んで含めるようにヨンイルは言った。
 「これ以上ぐずぐずしとったら俺が直ちゃんかっさらってまうで。覚悟せぇよ、侍」
 俺はその足でお前に逢いにいった。
 お前に会いたい一心で、これまでの事を謝罪したい一心で。 
 しかし間に合わなかった。お前は静流に刺されて重傷をおってしまった。
 なんて不甲斐ない男だと己を呪った。惚れた相手ひとり守りぬけぬ己の至らなさを恥じた。
 だが、もう逃げない。
 お前からも静流からも、己の罪からも決して逃げぬ。
 直、お前が一命をとりとめてくれて本当によかった。無事でいてくれてよかった。俺は常にお前のそばにいる。体が離れていても心はともにある。今宵もまたお前のぬくもりが失せた寝床をなでて安否を願う、一日も早い治癒を祈る。お前の帰りを心待ちにしている。
 手紙でしか想いを伝えられぬのが歯がゆい。
 一日も早くこの腕にお前を抱きたい、お前の髪に顔を埋めたい。
 直。
 お前が恋しい。
 あと一ヶ月の辛抱と己に言い聞かせて独り寝を耐える』  
   

 ……以上がサムライの手紙の内容だ。
 端正な筆跡に目を凝らし、末尾でため息を吐く。少し顔が熱い。
 手紙を丁寧に折り畳み、枕の下に隠す。枕元にめがねをおき、ベッドに横たわり、胸元に毛布を引き上げる。
 「………僕も恋しい」
 ヨンイルを仲介役にやりとりを続けた手紙は既に五通たまっている。入院から一ヶ月、サムライとの密会はただ一度の例外を除いて実現に至らず寂しさばかりが募る。
 怪我は快癒した。体を起こす時に少し痛みが走る程度で、激しい運動を伴わない日常生活にはほぼ支障がないところまできている。
 はやくサムライに会いたい。
 房に帰りたい。
 安田の命令など知るか、従う義務もない。房にベッドがなくとも構うものか、床で寝ればすむことだと最近では開き直っている。
 安田も嫌われている自覚があるのか最近では滅多に顔を出さなくなった。 
 「嫌味な顔を見ずにすんでせいせいする」
 声にだして言ってみるも、胸が少し痛む。僕を西棟に強制移住させるという命令には強い反感を覚えこそすれ、安田が僕にいろいろ良くしてくれたのは事実なため複雑な心境だ。
 ………考えても仕方がない。寝よう。
 思考を放棄、目を閉じる。就寝時刻を過ぎた医務室には規則正しい寝息が満ちている。目を閉じるとすぐに睡魔が訪れて心地よいまどろみに引きずり込まれる……
 鈍い音が、した。
 「………?」
 どれ位時間が経った頃合か判然としないが、まどろみから覚めて目を開けた時にすぐさま異変を感じた。
 電気が消えている。
 患者全員が寝入ったと思い、医者が消したのだろうか。そうだ、そうに違いない。何も不自然なことはないと自己暗示をかけて睡魔の訪れを待つも奇妙な胸騒ぎがする、ベッドに横たわったまままんじりともせず虚空を見据える僕のもとへ何者かが近付いてくる……
 床を叩く硬い靴音。
 「看守だ」
 囚人の靴音と異なる硬質な音は、看守の革靴が奏でる音だ。
 威圧的な靴音を響かせて近付いてくる侵入者に疑惑が膨らみ、上体を起こす。仕切りのカーテンが揺れる。看守はすぐそこまで来ている。
 「誰だ!?安眠妨害だぞ」
 尖った声で誰何する。ベッドを飛び下りて逃げ出そうにも激しい運動は禁物、治りかけた傷口が開いてしまう。
 カーテンがあやしく揺れる。
 誰かがカーテンの向こうにいる。息を潜めて気配を殺し、闇に溶け込むようにこちらの様子を窺っている……
 おもむろにカーテンが開き、侵入者がベッドの傍らに立つ。
 思ったとおり看守だ。だが、見覚えはない。雰囲気からするとかなり若く体格も華奢、どちらかといえば優男然とした風貌の看守だが制帽を目深に被ってるせいで目鼻立ちはよくわからない。
 いや、待て。
 看守じゃ、ない。
 「!医者っ……、」
 悲鳴をあげようとした口にすかさず手が被さる。
 肉の薄い繊細な手……いつかもこうして口を塞がれたことがある、体を触られたことがある。忘れもしないあの手の感触、あの夜の忌まわしい記憶がまざまざとよみがえる。
 看守に変装した侵入者が僕に馬乗りになりたやすく押さえ込む、僕は暴れる、胴に跨った男を振り落とそうと激しく首をふり身をよじり抵抗するも相手の方が一枚も二枚も上手、自在に体重を移動させ僕を乗りこなす。
 「医者?死んだよ」
 耳朶に吐息がかかる。
 耳元で囁かれた言葉を理解するのに二秒かかる。
 医者が、死んだ?その事実を裏付けるように僕に馬乗りになった男が頚動脈に突き付けたのは鋭いナイフ、赤い血に濡れた刃。
 僕以外の誰かの血に濡れたナイフが示すものは最悪の事態、医者、医者はどこだ?そういえばさっきから声が聞こえない気配がないどこにいるどこにいるんだ無事なのか、無事ならなぜ声がしない物音がしない?
 死。
 まさか本当に、
 「医者だけじゃない。外の見張りも、ね」
 この声、聞き覚えがある。鈴を振るように澄んだ声音……無邪気な笑い声。
 全身の毛穴が開いて嫌な汗が噴き出す脳内麻薬が多量分泌され血に溶けて全身の血管を駆け巡る、僕は眼前の人物が誰かわかっているけどわかりたくないまさかそんな馬鹿なことあってたまるか彼は今独房にいる独房で……だが現実に僕にのしかかっているのは僕の頚動脈に冷たい刃をあてがっているのは
 「枕の下に何か入ってるね」
 「!やめろ、」
 叫んだが、遅い。
 枕の下をまさぐり手紙を引っ張り出し勝手に読む、そしてすぐさま興味を失ったように僕の鼻先に便箋をひらつかせ、破る。
 便箋が破れる。
 僕が大事に保管していた手紙を全部散り散りに破り捨てる、あまりの事態に硬直して声も出せない僕の眼前を無数の紙片が舞う。
 「貴様っ、なんてことを……貴様が今汚い手で破り捨てたのはサムライの手紙だ、サムライが一字一字真心込めて綴った手紙だぞ!言霊信仰を知らないのかこのっ……」
 脇腹を衝撃が襲う。激痛で視界が真紅に染まる。
 僕に乗った人物が脇腹に膝をめりこませたのだ。
 「あ、がっ……」
 薄れ行く意識の彼方で朗らかな笑い声を聞く。
 誰かが僕の首筋にナイフを当てて笑っている。
 脇腹を膝蹴りしたはずみに手元が狂って薄皮を裂いたらしく首筋を血が伝うなまぬるい感触が気色悪い。
 無意識に両手をさしのべ、僕に乗った人物の肩を掴む。
 「貴様、冥府に帰ったんじゃなかったのか……!」
 人影が微笑む。
 世にも美しく儚げに、魔性の翳りさえ帯びた微笑み。
 「憎い仇を道連れにしたくて地獄の底からよみがえったんだ」
 静流はさも美味そうに首筋の血を啜った。
[newpage]
 医者が刺し殺された。
 鍵屋崎が拉致られた。
 「マジかよそれっ……冗談だろビバリー、なんで医者が死ぬんだよ、鍵屋崎が拉致られるんだよ!?だれが一体そんなこと」
 「サムライのいとこのシズルっスよ、流行に疎いっスよロンさん。知らないんスか昨日シズルが独居房脱走したの、餌係の看守のアレをがぶり食いちぎって阿鼻叫喚のどさまぎで脱走したんスよまんまと!当然独居房は血の海で発見された曽根崎は完璧キてて意味不明なこと口走って、ああ可哀想にありゃもう一生使いもんになんねっスよ、思い出すだにタマが縮み上がるっス」
 「てめえのタマが縮もうが萎びようがどうだっていいんだよ。んでシズルはそれからどうした?」
 「曽根崎の制服かっぱいで看守に化けて……深夜の医務室襲ったんスよ。どこからか入手したナイフで見張りと医者に大怪我させて、んで今朝になったらカーギーさんが寝てたベッドがもぬけのからで、髪の毛、髪の毛が……」
 ビバリーの言うことは支離滅裂で筋が通らない。野次馬に便乗して朝イチで行って帰ってきたビバリーはひどく興奮してる。
 髪の毛がどうしてたって?鍵屋崎の身に何が起きたんだと問い詰めたくてもそもそも問答が成立しない、ビバリーの取り乱しっぷりは尋常じゃない。話に興がのり身振り手振りが激しくなるにつれ、もともとまん丸い目がみるみるせり出して毛細血管が浮いて破裂しちまうんじゃないかとひやひやした。
 ビバリーはもともとデリケートなやつだ。
 池袋随一の武闘派チームに所属して日々喧嘩に明け暮れた俺のまわりじゃ尖った鉄パイプがふくらはぎ貫通したりメリケンサックで鼻ひしゃげたり派手な流血伴う暴力沙汰が日常茶飯事だった。
 死と隣り合わせの環境でしぶとくしたたかに生き抜いてきた俺は、いつのまにやら親指切って血が出たくらいは怪我のうちにも入らねえと笑い飛ばす図太い神経を身に付けた。
 ビバリーの説明に関しても流血耐性がない貧弱な坊やが大袈裟に言ってるんじゃねーかと勘ぐってるが、それを差し引いてもわだかまりが残る。
 ついさっき食堂で行き会ったビバリーは、最初気付かず俺の鼻先を通り過ぎようとした。慌てて肩を掴み、腕づくで振り向かせてぎょっとした。
 ビバリーは顔面蒼白、殆ど朝飯に箸を付けずトレイを返却するところだった。体調不良食欲不振の原因を本人の口から聞き出したら医務室でとんでもないことが起こったという、とんんでもないことってなんだよと畳み掛けて返されたのが冒頭の台詞だ。
 「畜生、お前じゃ話になんねえ。実際行って見てきたほうが早ぇ」
 舌打ちしてビバリーを突き放す。ビバリーが頼りなくよろめく。こいつは相当重症だ。足元あやしいビバリーの腕を掴んで支え起こし、トレイを返却する囚人の頭越しにレイジを見る。
 「ファッキンジャップ!」
 下品な悪態が聞こえた。レイジだ。
 人ごみの向こうに目を凝らす。
 俺らがいつも飯を食うテーブルに着席したレイジは、焼き魚の骨を取り除く業にめちゃくちゃ手こずっていた。鍵屋崎なら「焼き魚を分解する作業、もしくは焼き魚を解剖する作業」と言い直すかもしれない。
 さくらんぼの茎を舌で結べるくらい器用なくせして変な所で不器用な王様は、ぱりぱりに焼けたアジの身を箸でほじくりかえして骨から剥がす作業に最高にイラだってる。
 「フィリピン人に焼き魚だすなんざいやがらせだ、何だよこの面倒くさい料理はよ、日本人は毎日こんな面倒くさいもん食ってんのかよ!?おまけになんだこの細長い棒は?こんな細長い棒で小骨取り除けたあバカも休み休み言いやがれ、ナイフとフォークかむひあー!アジのくせして開いてんじゃねえっつの、王様が認める魚料理はティラピアとフィッシュ&チップスだけなんだよ」
 見た目ガイジンなレイジはご多分にもれず箸の扱いが苦手らしい。
 汚らしく焼き魚の身をほじくりかえすレイジの対面席に視線をやる。
 サムライはいない。
 今朝は何故か食堂に現れなかったのだ。
 食事作法のなっちゃない王様が焼き魚に箸を突き刺す光景を遠目に眺め、足早に通路を歩く。
 いまだ焼き魚に苦戦中のレイジのもとに駆け付け、肩を掴む。
 「レイジ、大変だ!」
 「そうとも、大変だ。ロン、焼き魚から綺麗に骨取り除く知恵かして」
 「頭からまるかじりしろ。んなことより大変なんだ、鍵屋崎がシズルに拉致られたんだ、医務室から消えたんだ」
 レイジの手が止まり、顔がこっちを向く。
 虚を衝かれたような空白の表情。ぽかんと口を開けた間抜けヅラをぶん殴りたい衝動を辛うじて抑え、肩を揺すって急き立てる。  
 「のんきに朝飯食ってる場合じゃねーよレイジ、シズルはマジで狂ってる、曽根崎と見張りと医者でもう三人も殺して行方不明になってるんだぜ?早く見つけなきゃ鍵屋崎だって手遅れに、いや、もう手遅れかも……」
 レイジが箸をおいて立ち上がる。
 俺を安心させるように肩を掴み、耳元で囁く。
 「行ってみようぜ」
 一も二もなく頷く。
 鍵屋崎の一大事に仲間が駆け付けなきゃ大嘘だ。
 たとえ鍵屋崎本人が否定しようが承知しなかろうが俺はアイツのダチのつもりだし、重態で入院中のダチが医務室から忽然と消えたと聞かされてふんぞりかえってられるほど神経が図太くない。
 速攻トレイを返却、食堂の人ごみを突破して廊下を駆け抜ける。
 途中俺らと同じ方向をめざす囚人と合流して中央棟に渡り終える頃にゃ人数が倍の倍に膨れ上がった。
 東棟だけじゃない。
 医者が刺し殺されて患者が一名拉致られた大事件の噂は東西南北全棟にあまねく及んでいるらしく、漸く駆けつけた医務室の前には八十人近い人だかりができていた。
 不吉な予感に胸が高鳴る。
 「くそっ、遅かった。これじゃ全然見えねーよ」
 押し合い圧し合い罵り合い、競い合って首を伸ばす囚人たちの顔には猟奇的な好奇心が浮かんでいる。
 一ヶ月前柿沼を刺し殺した犯人が独房から脱走したその足で医務室に潜入、医者を殺害した挙句に患者を一名さらったのだ。不味い飯と単調な強制労働に飽き飽きしていた囚人たちにとっちゃ日々の退屈を紛らわす格好のネタ、突如降って沸いた大事件は熱狂的に歓迎されるならわしだ。
 「刺されたの誰だ?医者か?」
 「東棟の親殺しが連れ去られたんだとよ。連れ去ってどうするつもりだ、殺っちまう気か?」
 「誰にも邪魔されないところでゆっくりじっくり嬲り殺す気だろうよ、大方。犯人は柿沼を刺し殺して曽根崎のイチモツがぶり食いちぎった真性の異常者だ、狂人だ、サディストだ。医者と見張り刺しただけじゃ飽きたらず手頃な患者さらって拷問するつもりだったのさ」
 「おっそろしー」
 他人事だと思って勝手なことくっちゃべりやがる。
 おどけて首を竦める囚人、下世話な憶測をさも真実めかして吹聴する囚人、消息不明の鍵屋崎が既に殺されてると決めてかかり「いい気味だぜ」と吐き捨てる囚人……
 反応はさまざまだが、顔にはいずれも微量の嫌悪と好奇心が表出している。
 面白半分に事件を茶化す囚人どもに猛烈な反感がもたげる。
 「!?ロン、ちょ待て」
 レイジの制止を無視、憤然と人ごみに割り込む。
 最後列じゃ意味がない、現場の状況が皆目わからない。
 野次馬の人垣に無理矢理割り込んだ俺は前もって覚悟していたとおり鉄拳制裁を受ける、顔面に肘鉄砲が降ってくる、したたかに脛を蹴られて激痛に痺れる、ただでさえ寝癖で跳ねてた髪が揉みくちゃにされてぐちゃぐちゃになる。
 圧死寸前、懸命に手を伸ばし人ごみを掻き分け歯を食いしばり前進する。諦め悪い俺に業を煮やした顔見知りの囚人が、邪悪な笑みを広げて拳を固める。
 「ひっこんでろよ半々、目障りだ」
 鼻をへし折られる。
 まわりは隙なく囚人で塞がれて逃げ場がない。
 俺は踏ん張り利かせて仁王立ち、鼻を折られて顔面が血に染まろうが絶対引かねえ覚悟で相手を睨み付ける。
 俺の眼光に気圧された囚人が一瞬たじろぎ、次の瞬間には俺にびびった事に腹を立て、憎たらしいせせら笑いから憤怒の形相に変貌する。
 「鼻をすりつぶしてやる」
 獰猛な唸り声を発して腕を振りかぶる。顔面を襲う衝撃を予期して固く目を閉じる、風圧で前髪が舞い上がりー……
 「………?」
 予期した衝撃がいつまでたっても訪れず、不審に思って薄目を開ける。
 鼻先で拳が静止している。
 静止したこぶしの向こうじゃ今まさに俺を殴り飛ばそうとした囚人が慄然と立ち竦んでいる。恐怖に鷲掴みにされた囚人、その視線を追って振り向く。
 人ごみが真っ二つに割れていた。
 右岸と左岸に割れた囚人が息を呑んで見守る中、悠揚たる足取りで歩いてきたのは……
 レイジ。東棟の王様。
 「ご苦労諸君。皆の王様のお通りだ、口笛で凱歌を奏でてくれよ」
 気軽な言葉に反して誰も口笛を吹かない。
 王様の行進に際して茶々を入れる命知らずなんか、いない。
 レイジの影響力はいまだ絶大だ。所長の飼い犬だの性奴隷だの陰口叩こうが今だに誰ひとり面と向かって罵倒できないのがいい証拠だ。
 今ここに群れ集った野次馬の多くはペア戦決勝戦のレイジを鮮明に覚えている、暴君を暴君たらしめる強さが鮮烈に目に焼き付いてるのだ。
 「行けよ、ロン」
 ここは俺が食い止めてるから。
 言外にそう匂わせて軽くウィンクする。
 茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせたレイジに顎を引いて感謝、俺に殴りかかろうとした囚人の股下を頭を屈めてくぐりぬける。人垣の最前列にて床に手を付き跳ね起きて、事件現場の惨状と直面する。
 息を呑む。
 床一面に血の跡がある。
 椅子が倒れてカルテが床に散らばっている。
 医者の姿は見当たらない。当然だ、刺されたのが昨日なら死体は処理班に回収されたはず……待て、じゃあ本当に医者は死んだのか。あのヤブ医者が死んじまったってのか?
 信じ難い面持ちで呆然とあたりを見回す。
 衝撃に麻痺した頭で事情を呑み込もうとするも思考は空転するばかり、そのうち膝ががくがく笑い出して体ごと崩れ落ちたくなる誘惑に気力をかき集めて必死に抗う。
 床に倒れた椅子はこれまで医者が使ってたもの、いつも医者がふんぞり返って患者を診察したりカルテを書くのに使ってたものだがその背凭れにはべったり血が付着して脂でぎとついてる。
 床一面にばらまかれたカルテは医者の体から流れ出た血を吸って赤黒く変色している、俺の足元には万年筆が転がっている、医者が愛用していた時代遅れの万年筆……
 医者の形見。
 「嘘、だろ」
 吐き気か嗚咽か、そのどちらとも付かない熱い塊が喉元に込み上げる。医者が殺されたなんて嘘だとここに来るまでは思っていた、いや、そう思い込みたかった。
 だけど現実にこの場に立って、床一面の血の海にばらまかれたカルテとインクの零れた万年筆と倒れた椅子を目撃して、昨日ここで何が起きたかが生々しい現実感と鮮明な映像を伴って身に迫ってくる。
 医務室の扉が静かに開く。医者は気付かない。眠気と戦いながらカルテを書いている。
 机上のカルテにペン先を走らす。
 侵入者が静かに扉を閉める。
 耄碌ジジィはまだ気付かない、すぐ背後に迫った脅威をよそにカルテに所見を書き込んでいる。
 侵入者の手でナイフが輝く。
 医者がふと顔を上げる。万年筆を走らす手を止めて怪訝な表情で振り向く医者、その顔が驚愕に強張るのを待たず侵入者が行動にでる。
 誰何の声をかけようと椅子から腰を上げた医者の体にナイフが吸い込まれるー……
 「なん、でだよ。医者を殺すことないだろうよ。あんなヤブ医者でも東京プリズンにはいなくちゃならない大事な存在なのに、俺にとっちゃ大事な………」
 医者の死を実感したショックと静流への怒りが綯い交ぜになり、やり場のない衝動が噴き上げる。
 医者。ヤブ医者。
 レイジが入院した時、責任感じてしょげかえった俺をさりげなく慰めてくれた。いつも居眠りばっかしてて診察も適当だけど意外と腕がよくて、最後の最後まで名医なんだかヤブなんだかわからねえジジィだった。

 もう会えないなんて。
 さんざん世話になったのに礼の一つも言えなくて。

 「帰って来いよ、ヤブ医者………」
 そうだ、鍵屋崎は?
 ヤブ医者の死のショックを引きずりつつ、重たい体を起こしてベッドに向かう。静流がめざしたベッドがどれかは、床に点々と滴った血痕ですぐにわかった。
 血痕の道しるべを頼りに片隅のベッドに到着、カーテンを押し開く。
 ベッドはもぬけのからだった。鍵屋崎はいなかった。
 点滴は外されていた。チューブの弁が開いて輸液が垂れ流されていた。抵抗のあとを物語るように毛布がはだけていた。
 ベッドの足元に誰かが立っている。
 いつからそこにいたのか、起床してすぐか鍵屋崎が拉致られた直後からだろうか?ベッドの足元に立ち竦んでいたのはサムライだった。
 体の脇で手を握り込み、血の気が失せた顔を固く強張らせ、放心の体でからっぽのベッドを見詰めている。
 ベッドの傍らに突っ立った俺は、あまりに異常な状況に絶句する。
 毛布が捲れたシーツの上に、髪の毛と紙くずが無残に散らばっていた。
 そして、血痕。
 「俺がよこした文だ」
 サムライが不意に呟き、無造作に手を伸ばして紙くずを鷲掴む。
 指の隙間からはらはらと紙片が零れ落ちる。
 手紙の残骸をひと掴み握り締め、サムライが断言する。
 「間違いなく静流はここに来た。見張りと医者を刺して直を攫ったのだ」
 伏せた双眸に激情が漣立つ。
 「静流の目的は俺だ。静流は俺への復讐を成すために直を攫ったのだ。直は俺の、唯一の弱味だ」
 「ゴタクは聞き飽きたわ」
 背後から声がかかる。反射的に振り向く。
 開け放たれたカーテンの向こうにいたのは西の道化、ヨンイル。ベッドの足元に佇み、自責の念に打たれるサムライにおおらかな笑みを向けている。
 「サムライ、お前言うたよな。直を不幸にせん、金輪際直を傷付けん、武士の一念にかけて直を守り抜くて……その挙句がコレや。お前の言うこと鵜呑みにして直ちゃん任せたらベッドはからっぽで血痕点々、あとには髪の毛と紙くずがちらばっとる」
 「おいヨンイルやめとけって、サムライ責めたってはじまらね……」
 「おどれはひっこんどれ。俺はコイツに話しとんのじゃ」
 仲裁に入った俺をヨンイルが見もせず突き飛ばす。ヨンイルに突き飛ばされた俺を頼もしい腕が抱きとめる。
 レイジだった。
 ヨンイルがサムライに詰め寄る。
 ふたりの距離が縮まるにつれあたりに殺気が充満する。
 ヨンイルの身の内に巣食う龍が宿主の昂ぶりに乗じて気炎を吐き出す。全身から闘気を放散してサムライに歩み寄り、ヨンイルが凄む。
 「直がさらわれたときどこで何しとったんや。房で寝とったんか」
 サムライは答えない。紙くずを掴んだまま項垂れている。
 ヨンイルがサムライの胸ぐらを掴み、無理矢理顔を上げさせる。
 「俺に奪われとうないなら死ぬ気で直ちゃん守れて言うたの忘れたんか?お前あん時なんて言うた。武士の一念に賭して直を守りぬくて真っ直ぐ俺の目ぇ見て言い切ったろ。せやから俺は直ちゃん任せたんや、お互いぞっこん惚れとるおどれらを見て道化が出る幕ないなてすごすご引っ込んだんや。直ちゃんが惚れとるのはおどれやから、道化はせいぜい笑かし役に徹して直ちゃんの気ィまぎらわしたろて……」
 ヨンイルの顔が悲痛に歪み、泣くのを堪えて笑う道化じみて滑稽な表情が浮かぶ。
 「おどれ、今の今まで何しとったんや。直ちゃんさらわれてから駆け付けても遅いで」
 言いたいことを全部飲み込んでサムライが頭を下げる。
 「……すまん」
 ヨンイルがぶちぎれた。
 俺が止めに入る暇もなくヨンイルの鉄拳がサムライの頬に炸裂、衝撃でサムライが吹っ飛びベッドに激突、衝立のポールが倒れて騒音を奏でる。
 ベッドに激突したサムライにすかさずヨンイルがのしかかり続けざまに拳を振るう。いつもお気楽極楽に笑ってる道化とは別人としか思えない凄まじい剣幕でサムライを殴り倒し、語気激しくなじる。
 「すまんですむこととすまへんことがあるんじゃボケっ、万一直ちゃんが死んでもうたらどないする、おどれのイトコに嬲り殺されてもうたらどないすんねや!?取り返しつかへんやろがもう、こんなことになるんやったらお前に直ちゃん任せるんやなかった、ええ格好しィで身い引くんやなかったわ!直ちゃん大事なのはお前だけか?ちゃうやろ。俺かてお前と同じ位直ちゃんが大事なんや、直ちゃんのことが大っ好きなんや!!」
 無抵抗のサムライをヨンイルは容赦なく殴りつける。
 爆発的な暴力衝動に駆り立てられたヨンイルのまわりで混沌と大気が渦巻き、闘気が縒り合わさって一筋の流れとなり、四肢に絡み付く龍を幻視する。
 道化の双眸が剣呑にぎらつき、ゴーグルに返り血がかかる。
 右に左に上に下にサムライの顔が跳ねて粘っこい血がとびちる。
 やばい、そろそろ止めなきゃマジでやばい。
 「やめろよヨンイル、サムライ死んじまうよ!こんなことしてる場合じゃねーだろ、一秒でも早くシズルとっつかまえて鍵屋崎見つけ出すのが先決だろっ」
 暴走に歯止めが利かなくなったヨンイルに背後から抱きつき羽交い絞めにする、ヨンイルはそんな俺に構わず腕振りかぶり颶風に守られた昇龍の勢いで殴り続ける。ヨンイルの顔にぴちゃり返り血が跳ね、怒りに荒んだ凄惨な形相をさらに引き立てる。
 「放せロンロン、コイツは惚れた男ひとり守り抜けん約束破りの腰抜けザムライや!何が武士や笑わせる、おどれなんぞ色ボケザムライで十分じゃ、口ばっかでさっぱり頼りにならん男に惚れてもて直ちゃん阿呆ー……」
 その瞬間、ヨンイルが大きく仰け反った。
 やられる一方だったサムライの拳がヨンイルの顔面に炸裂したのだ。
 「直への侮辱は許さん」
 サムライがゆらり起き上がる。
 鼻血で顔面を染めたサムライの双眸にちりちりと火種が燻る。
 必殺の一撃を食らって尻餅付いたヨンイル、その目が完全に据わる。
 「……ええ度胸や、腰抜けザムライ。かかってこんかい」
 ヨンイルが俊敏に床を蹴りサムライにとびかかる。サムライとヨンイルが床で上下逆転しながら激しく揉み合う、互いの顔に何発何十発とパンチを入れて血みどろになりながらも揉み合うのをやめず医務室の備品を次々破壊して乱闘はエスカレートする。
 「おどれになんぞ直は渡さん、直は俺の物や!」
 ヨンイルがサムライの顔面に拳を入れる。
 「道化に直を渡すか、直は俺が生まれて初めて得たかけがえのない友だ、かけがえのない相棒だ!」
 サムライの拳がヨンイルの顎に炸裂する。
 下から顎を突き上げられた反動でヨンイルがふらりよろめく、しかしすぐさま唇を噛み正気を取り戻し闘いを続行する。
 「いいぞ、やれ、もっとやれ!」
 「サムライVS西の道化か、意外な組み合わせだな」
 「医務室から拉致られた親殺しを巡って痴情のもつれ勃発か、こいつぁ朝から昼メロだ!」
 医務室に押しかけた野次馬がてんで好き勝手に野次をとばしてけしかける中、サムライとヨンイルの喧嘩に刺激された囚人が乱闘おっぱじめてとうとう収拾がつかなくなる。
 「レイジ止めろよ、このまま放っといたらふたりとも死んじまうよ!」
 レイジの腕を揺すって催促するが、王様は「んー?」と気のない返事をするのみ。
 「レイジお前鍵屋崎のこと心配じゃねーのかよ、お前王様だろ、東棟どころか東京プリズンでいちばん偉い王様なんだろ?だったら王様の一声で捜索隊組織して鍵屋崎見つけ出してくれよ、手遅れになる前に…」
 必死にせがむ俺を見下ろし、レイジがあきれたふうに首を振る。
 「ロン、俺に人望ないのはお前がいちばんよく知ってんだろ」
 聞くんじゃなかった。
 達観した風情で見物を決め込む王様に舌打ち、最大限の勇気を振り絞ってヨンイルとサムライの間に割りこむ。
 「ヨンイル、サムライ、いい加減にしろっ。医者が死んだばっかだってのに医務室荒らしまくって、これじゃヤブ医者も成仏できね…」
 視界が反転する。ヨンイルに突き飛ばされた衝撃でベッドにひっくり返った俺の手が何かにぶつかる。
 ベッドにぶつかったはずみに枕が裏返ったのだ。
 「!これ……サムライっ」
 ヨンイルとサムライがぴたり喧嘩をやめる。サムライが大股に寄ってくる。
 枕の下に隠された半紙に血文字で記された文面を読み上げ、サムライが歯軋りする。
 「『炉にて待つ』……」
 片手で鼻を覆ったヨンイルと高飛車に腕を組んだレイジの視線の先、犯人が遺したメッセージをくりかえし咀嚼したサムライの手に力が篭もる。
 「………静流っっっ!!」
 衝動に任せて便箋を破り捨てる。縦に横に斜めに散り散りに、もはや原形留めぬ紙片にまで分割して虚空にばらまく。
 サムライを中心に螺旋を描いて紙吹雪が吹き荒ぶ。
 ベッドに両手を付いたサムライが、連綿と呪詛を紡ぐ。
 「そんなにまで俺が憎いか。ならばよかろう、望み通りに相手をしてやる。地獄の炉の縁で思う存分斬り結ぼうではないか」
 全身から凄まじい怒りの波動が放たれる。
 鍵屋崎の消えたベッドに顔を埋め、石鹸の残り香を吸い込むように胸郭を膨らます。
 「今助けに行くぞ、直」 
 サムライは決断した。
[newpage]
 静流を手引きしたのは僕だ。
 「お願い聞いてくれるね」
 頷くしか、なかった。命が惜しければ従うしかなかった。
 柿沼や曽根崎の二の舞はごめんだ、用済みになった道具は捨てられるだけだと二人の末路に痛感した。身のこなしはたおやかに、僕を抱きすくめた静流の腕が妖しく動く。
 首もちぎれんばかりに頷けば、静流が満足げに微笑む気配を感じる。 物分りの良さを褒めるように僕のうなじに唇を這わせ、囁く。
 「貢くんを足止めしてほしい」
 「え?」
 「鍵屋崎直に用があるんだ。二人きりで話がしたい。貢くんに医務室前をうろうろされると邪魔だ。だから君、彼をどこかに連れていってよ。適当に言いくるめてさ。得意でしょ、そういうの」
 静流が思わせ振りに含み笑う。
 揶揄の響きを込めた笑声に言葉を返すより早く、背中に体重がかかる。僕の首筋に顔を埋めた静流が、熱い吐息に紛れて独白する。
 「待っててよ、姉さん。もうすぐ終わるから」
 姉さん?姉さんて静流の?脳裏に疑問が浮かぶ。
 静流は僕の背中に凭れたまま、安らかな表情で追憶に浸っている。
 愛しい人の面影を重ねているらしく体に回した腕の締め付けが強くなり、痛みと胸苦しさとを覚える。
 腕が体を圧迫する。
 もう二度と失うものか、腕の中から逃すものかと悲愴な決意を込めて僕を抱きしめる静流が濁った嗚咽を漏らす。
 奥歯で磨り潰された嗚咽が前歯の隙間からか細い吐息となって漏れて、うなじの産毛を熱く湿らす。
 華奢な細腕のどこにこんな力が秘められているのか、僕を抱きしめる腕の力は増すばかりで一向に衰える気配がなく、体を締め上げられる苦痛に汗が滲む。
 「貴女のいる処に伴侶を送ります。祝言は挙げなかったにしろは家が決めた婚約者同士なんだから当然そうするべきだ。だけど貴女と彼だけじゃ寂しいから付添い人を送ります、祝いの盃に酒を注ぐお小姓を…」
 呪縛が解けたように抱擁の力が緩み、敢えなく腕が垂れ下がる。脱力した腕から身を捩り抜け出した僕、その背後で衣擦れの音がする。
 怨霊めいて陰惨な気配を纏って背中に覆い被さった静流が、耳朶に毒息を吹きかける。
 「二・三、用意してほしいものがある」
 静流の顔は直視できないまま、蛇が這いずる音にも似た衣擦れの音と淫靡な吐息、背後から吹き寄せてくる圧倒的な気配に戦慄する。
 振り向くな、振り向いたらおしまいだと自分に言い聞かせて狂おしく疼く好奇心を抑え付ける。
 今振り向いたらきっと後悔する、一生後悔する、とんでもなく恐ろしいものを見て夜毎夢にうなされる。
 緊張に喉が渇く。口の中がひりひりする。
 口を開けっ放しにしてぜえはあぜえはあ喘息めいた呼吸をしていたせいで口腔の粘膜が渇ききってる。僕のまわりだけ酸素が急激に薄くなったみたいだ。恐怖に侵された息遣いを続けながら目だけ動かして後ろを探る、僕の背中にぴったりくっついて逃げ道を断った静流がそっと腕に触れてくる。
 「何を用意すればいいの?何をすれば僕を解放してくれるの、許してくれるの」
 発狂しそうな恐怖と戦いながら叫ぶ、涙で目を潤ませて哀願する。
 僕はいい加減自由になりたかった、静流の呪縛から解き放たれて日常に戻りたかった。
 看守に輪姦されたショックが漸く癒え始めた頃だってのになんてタイミングが悪いと自分の不運を呪ってもはじまらない、僕が今すべき事は静流に従うこと、静流の命令を素直に聞き入れて利用価値を示すことだ。
 利用価値のない道具は捨てられる。
 柿沼みたいに、曽根崎みたいに……
 嫌だ、あいつらの二の舞にはなりたくない。
 実際には見てもいない柿沼の最期がどぎつい色彩をもって脳裏に立ち上がる。静流に腹を刺されて絶命した柿沼、何故自分が殺されるのか最期の最後までわからなかったに違いない死に顔には驚愕と恐怖と衝撃がへばりついている。 
 亡骸の傍らに佇む静流。
 自分に尽くした男を殺した事実に関して何ら胸を痛めず、無関心で無慈悲な瞳で物言わぬ亡骸を見下ろしている。静流は今もそんな目をしているのか、そんな目で僕を観察しているのか?
 僕が抵抗したら即座に命を断つつもりで首筋を見詰めて頚動脈の位置を探っているのか、仕損じないよう熱心に……
 「教えてよシズル。僕はなにをすればいいの、君のためになにを用意すればいいの?君の言うこと聞けば見逃してくれるんでしょ、無事にビバリーんとこに帰してくれるんでしょ?こんなとこで死ぬのいやだよぅ、こんな薄汚い薄暗い路地裏で野垂れ死ぬのは誰にも気付かれずひとりぼっちで死ぬのは嫌だよ寂しいよ、僕は生きてここを出てママに会うって約束したんだ、だからその日まで絶対に死ぬわけにいかないんだ、たとえ他のヤツの足引っ張っても自分さえ助かればそれで……」
 「飲み込みがいいね。話が早くて助かる。愚図で臆病な曽根崎は独房に招じ入れるのに手間がかかったよ」
 背後で苦笑する気配。
 僕の背中にぴったり寄り添い、誘うように淫らな仕草で腰を擦り付けて官能を探り、囁く。
 「麻縄と刃物」
 ごくりと喉が動く。
 生唾を飲み込んだ僕の耳朶を甘噛み、ちろちろと舌で炙って熱を煽る。
 魔性に身を堕とした静流が邪まな本性をあらわに快楽を貪るのに抗い、恐怖に掠れた声を搾り出す。
 「絞め殺すの、刺し殺すの?」 
 好奇心を抑え切れずおそるおそる聞き返す。
 「教えてあげない」
 答えを与える代わりに耳の穴に舌が潜り込んできた。

 その夜、僕は重たい気分で中央棟に渡った。
 正直気が進まなかった。静流に言われた通りロープとナイフを調達し、渡した。
 小道具の入手自体は簡単だった。
 東京プリズンの囚人は大抵護身用だか脅迫用だかのナイフを持ってるしお望みとあらば首吊り用のロープだって売り買いできる。
 ビバリーは何も言わなかった。言えなかった。
 就寝時刻を過ぎて夜も更けた頃、ビバリーがぐっすり寝入ったのを確認後こっそり房を抜け出した。
 ビバリーの眠りを妨げないよう最大限の注意を払って鉄扉に接近、ノブに手をかけてためらった。
 いっそ何もかもビバリーにぶちまけてしまおうかという誘惑に心が揺れる。静流に脅されて共犯にされている、僕は今夜静流を手引きしてサムライを足止めしなきゃいけない、ねえどうしたらいいビバリー、ビバリーならこんな時どうする?
 相棒に教えを乞いたい欲求に抗しきれず、ノブを掴んだ手がじっとり汗ばむ。
 「ろ、ろざんなぁあーーーーー」
 「!?っ、」
 体に電流が走った。
 ノブに手をかけたまま硬直、反射的に振り返った僕が見たものは寝相悪く毛布をはだけたビバリー。悪夢を見ているらしく、身振り手振りも激しくうなされている。毛布を蹴りどけて寝返りを打つビバリーに脱力、安堵のため息を吐く。
 「脅かすなよ、ばか」
 思わず恨み言をこぼす。
 あーあ、毛布はだけたまま寝たら風邪ひいちゃう。しかたないなあもう。ぷりぷり怒りながらベッドに引き返し、毛布をたくし上げる。
 「ろ、ろざんなあ……ゲイツを選ぶなんてひどいっすよ、平均二時間睡眠でスペック増やしてあげたの誰だと思ってるんスか?最高にクールでチャーミングにカスタムして磨き上げた僕のロザンナが僕を捨てて他の男に走ろうとしてる、よりにもよってゲイツになんか、あんな鼻メガネの白人に………くそう、ロザンナがミセス・ゲイツになるくらいならいっそ僕の手で引導を渡してやるっス!」
 「擬人化ロザンナの夢?変な趣味」
 つかゲイツってだれさ。
 僕のツッコミを無視してぶつぶつ呟いてたビバリーも悪夢の波が去ってじき大人しくなる。
 間抜けな寝顔に別れを告げ、忍び足で歩を再開―
 「行っちゃだめっす、リョウさあん……」
 寝言。
 意味のない寝言には違いないけど、あんまりタイミングが良くて。
 ぎょっとした僕の視線の先、片手をさしあげたビバリーが見えない糸を手繰って僕を引き戻そうとするかのように奇妙な動作をくりかえす。 引っ張り、引き寄せ、引き戻す。
 手を出しては引っ込める単純な動作の繰り返しが二・三回続き、やがて完全に停止。
 「いーとーまきまきいーとまーきまき まーいてまーいて とんとんとん……か」
 夢の中でも僕を心配してるなんて笑っちゃう。
 お人よしすぎだよ、本当に。
 泣きたいような笑いたいような複雑な気持ちでビバリーの寝顔を見詰める。気持ちに合わせて顔も泣き笑いになる。
 ベッドの脇に屈みこみ、にやけた寝顔を覗きこむ。
 ロザンナが元気だった頃の夢でも見ているのか、幸福そうなビバリーのおでこに軽くキスをする。
 「いってきます」
 必ず戻ってくるから、待ってて。
 心の中でそう告げて、房をとびだした。

 あれから数十分が経過した。
 僕はわざとゆっくり時間をかけて渡り廊下を歩いている。もうすぐ終点、中央棟に着いてしまう。
 中央棟に到着。
 廊下を進み、医務室に向かう。
 途中すれ違う囚人もなく、中央棟全体がひっそりと静まり返っている。柿沼を殺して鍵屋崎を刺して曽根崎のブツを噛み千切った凶悪犯がまだこの辺をうろついてるせいで、臆病風吹かせた囚人が深夜徘徊を控えているのだ。僕だって本当はそうしたいのだ。
 等間隔に並んだ蛍光灯がコンクリ壁と通路を照らす。
 廃墟めいて陰鬱な空気を醸す廊下をのろのろと歩き、医務室に到る。
 サムライは、いた。
 医務室の扉を正面に臨む位置に凭れている。
 パッと見立ったまま仮眠しているのかと思ったけどそうじゃない、目を閉じて物思いに沈んでいるだけだった。扉の隣にはまだ若い看守がいた。安田に医務室の見張りを命じられた新人くんだ。
 サムライが薄っすら目を開ける。
 不審者の気配を察したか、切れ長の眦から鋭い眼光を放ってあたりを見回す。
 「サムライ、大変だ!」
 深呼吸し、叫ぶ。予定通りの台詞を。
 サムライがこちらに向き直るが早いか看守が「ほへっ、な、へ!?」と寝ぼけ顔でずっこけるが早いか、廊下を全力疾走してサムライのもとに駆け付けた僕は、派手な振り付けでせいぜい必死なふりをして報告する。
 「今そこで静流を見たんだ!」
 「静流を?」
 何故こんな時間にここにいるのか、詰問しようと口を開きかけたサムライが瞬時に気色ばむ。
 内心ほくそ笑みつつ、芝居を続ける。
 「あのね、僕の房のトイレが壊れちゃって、それで外のトイレ使おうって廊下歩いてたら通路をふらふら歩いてる静流を見て……渡り廊下渡ってこっちに来るとこまでは追ってたんだけど、途中で見失っちゃって!でも多分この近くにいるはず、見失ってから何分も経ってないからまだこの辺に潜んでるはずだ。サムライいいの放っておいて、君のイトコでしょ。アイツ独居房出たばっかで頭イカレてるから何しでかすかわかんないよ、廊下ほっつき歩いてる囚人や見回りの看守がまたガブリやられないとも限らないし……」
 「がぶり!?」
 看守が股間を押さえ込む。
 サムライは険しい顔で話を聞いて尊大に顎を引き、すっと目を細める。
 「……それはまことか」 
 「まことに決まってるっしょ、なんで僕が嘘つかなきゃいけないのさ!?」
 内心冷や汗をかきながらさも心外そうに反論、サムライの腕を掴んで引っ張る。 
 「こっちだよ、サムライ!さあ早く……早くしないと逃げちゃうよシズルが」
 「僕応援呼んで来ます!」
 それまで股間を押さえてぼけっと突っ立ってた看守が、僕とサムライのやりとりを眺めて本来の職務に立ち返ったのか、慌てて走り出そうとする。
 まずい。
 「ちょっとちょっとどこ行くの看守さん、ちゃんと見張ってなきゃ駄目じゃないか!副所長に言われたこと忘れたの?」
 看守の行く手に回りこみ、両手を広げて通せんぼする。
 「しかし脱走犯が近辺を徘徊してるなら応援を呼んだほうが……僕一人じゃ手に余るし、その」
 僕はもったいぶって言う。
 「忘れたの?静流の目的は親殺しだよ。一ヶ月前、静流が独居房に入れられるきっかけになった事件を思い出してごらんよ。静流の本当の狙いは柿沼じゃない、曽根崎じゃない、その他大勢の雑魚看守なんかじゃない。脇腹刺されて入院中の鍵屋崎ただ一人さ。全治二ヶ月の重態で入院中の鍵屋崎が襲われたらひとたまりもない、もしサムライと僕がこの場を離れてるときに静流がやってきたらどうするのさ、おにーさんが応援呼びにいってるあいだに鍵屋崎が殺されたら……」
 声音を落として脅迫すれば、たちどころに看守の顔が青ざめる。
 「大丈夫だよ、中にはお医者もいるんだし何かあったら呼べばいい。おにーさんはここにいてよ。静流は僕とサムライが捜しにいってくるから、ね?」
 余程気弱なタチらしく「もしも」の可能性をほのめかしただけで顔面蒼白になった看守に安心させるよう言い含め、サムライを仰ぐ。
 「行こう、サムライ!」
 サムライが躊躇する。
 新人看守ひとりを残して離れるのが不安らしい。
 もし自分がいあないあいだに鍵屋崎が襲われたら、それこそ悔やんでも悔やみきれない気持ちは想像つく。
 決断しかねて看守と僕を見比べ、焦燥に苛まれた面持ちで言葉を搾り出す。
 「俺は、直のそばにいたい。もう決して直のそばを離れると約束したのだ。武士の面目にかけても約束を反故にするわけにはいかん。この場を離れたあいだに直の身にもしもの事があったら、俺は切腹するしかない」
 サムライが断固と首を振る。
 「切腹?冗談言ってる暇あるなら一緒に来てよ、君しか静流を捕まえられるヤツいないんだから!わかってるっしょサムライだって、シズルがとんでもなく強いこと。並の看守や囚人じゃ歯が立たない、シズルの暴走を止められない。今のシズルは完璧頭がイカれてる、それこそすれ違ったヤツを片っ端から斬り捨てかねない状態なんだ、そんなヤツを野放しにして本当にいいの、これ以上犠牲者を出していいわけ!?」
 「俺は直を守る」
 「身内の喧嘩に他人を巻き込むなよっ!!」
 鍵屋崎を守りたい気持ちと静流を追いたい気持ちの葛藤に苦しみ、サムライが面を伏せる。
 片手に握り締めた木刀が持ち主の心を反映してわなわな震える。サムライの腕に縋り付き必死に説得するも本人は決して首を縦に振ろうとせず、苦悩を映した目で虚空を見据えている。
 「いいよ、わかったよ、サムライの役立たず!サムライがこないなら僕一人でいくもんっ」
 パッと腕を放し、後ろを振り返らず廊下を駆け出す。
 背後でサムライが何か叫ぶも無視を決め込む。
 僕はひたすら廊下を走った。
 走って走って廊下の先の角を曲がってサムライの視界から脱する。
 曲がり角の壁に背中を預け乱れた呼吸を整え、ゆっくり数を数える。
 カウントダウン。
 「いーち、にーい、さーん、しーい、ごーお、ろーく、しーち、はーち、きゅーう……」
 よし。
 深呼吸で腹腔に息をため、天井を仰ぎ、絶叫する。
 空気が震える。僕の喉から迸った甲高い悲鳴が空気を媒介に鼓膜を叩く。外気に晒した皮膚にびりびり音の波動を感じる。
 「リョウ!?」
 遠くでサムライが叫ぶ。近付いてくる靴音。
 コンクリート壁と天井に反響した悲鳴は最悪の事態に繋がり、僕の一大事を予期したサムライが発作的に駆け出す。
 正義の味方見参。
 どんなに鍵屋崎が大事でそばを離れたくないと思っていても近くで悲鳴が聞こえたら体が勝手に動く、それが人間て生き物だ。サムライは半端に勇気があるのは仇になった。
 なまじあの看守みたいなびびり屋なら悲鳴を聞いただけで金縛りにあって動けなくなるのに、数多の修羅場をくぐり抜けたサムライには金縛りを断ち切る強靭な意志力があった。
 サムライが近付いてくる。
 一散に廊下を駆け抜けて角を曲がりそして、
 危うく僕と衝突しかける。
 「………どうしたというのだ。先刻の悲鳴は何事だ」
 僕の役割はサムライの足止め。
 静流が目的を達するまで、サムライを引き付けること。
 「今、あ、あそこの角に静流が消えて……」
 壁に背中を凭せたままずり落ち、十メートル先の曲がり角を指さす。
 「―ちっ!」
 サムライが邪険に舌打ち、焦りもあらわに木刀を構え十メートル先の角を曲がる。
 「リョウ、お前はここにいろ。俺が戻ってくるまで絶対にここを動くな。よいな」 
 そう、これでいい。何もかも僕の、いや、静流の思惑通りに運んでいる。曲がり角を曲がって見えなくなったサムライ、一本ずつ袋小路を改めるには時間と手間がかかる。
 サムライがいなくなり、緊張がほぐれる。
 壁に背中を付けたまま、上着の胸をひしと掴んで心臓の動悸がおさまるのを待つ。
 遠くかすかに物音がする。静流が遂に行動を起こしたのだ。
 激しく言い争う声、悲鳴、何かが転倒する鈍い音……
 耳も目も潰れてしまえばいい。僕は硬く目を閉じ耳を塞ぎ知らんぷりをする、どうか神様静流が早くやりたいことやりとげて消えてくれますようにとそればかりを一心に念じながら発狂せんばかりに念じながらコンクリ壁と同化する。
 それから何分、何十分経ったろう。
 耳を押さえた指は痺れて感覚がなくなり、閉ざし続けた瞼の裏では赤い輪が回っている。
 誰かがこちらに近付いてくる。
 静流じゃない。別方向からだ。
 サムライだ。
 「シズル、いた?」
 「……いなかった」
 憮然と吐き捨てる。
 角を曲がった現れたサムライの顔には一抹の疑念が浮かんでいる。
 「リョウ、シズルは本当にここに……」
 不自然に言葉が途切れる。ごくささいな表情の変化ー……それとも空気の変化だろうか?唐突に会話を打ち切って天を仰ぐサムライ、その目が豁然と見開かれる。
 「不覚!!」
 鞭打たれたように走り出すサムライ、慌ててそのあとを追う。駄目、行っちゃ駄目!
 「サムライ待って、そっちに行っちゃだめだ、鍵屋崎のことはもう諦めるんだ!」
 僕の制止など聞かずに廊下を走り抜けたサムライが医務室前で停止、声にならない唸りを発する。
 よろよろとサムライに追いすがるさなか、靴の裏側が変に粘ついてるのを不快に思い、スニーカーの靴裏に視線を落とす。
 血痕だった。
 「ひっ……」
 壁に凭れるように座り込んだ看守、その腹に血が滲んでいる。
 静流に刺されたのだ。息があるのかないのかパッと見にはわからない……死んでる?殺しちゃったの、まさか?そんな……僕のせいじゃない僕は知らなかったんだずっと目と耳をふさいで知らんぷりで
 「直!!」
 サムライが扉を開け放ち、息を呑む。
 僕も見た、見てしまった。
 開け放たれた扉の向こう、転倒した椅子、床一面の血の海にばらまかれたカルテと万年筆……白衣を朱に染めた医者。
 悲痛に顔を歪めながらもすぐさま一隅のベッドに走り寄り、サムライが呼びかける。
 「直、無事か、どこにも怪我は………」 
 言葉が切れ、重苦しい沈黙が被さる。
 血溜まりを避け、床を這うようにしてサムライのもとに辿り着いた僕が目にしたのは……
 空気を孕んで捲れ上がったカーテンの内、からっぽのベッドに散らばった無数の紙片と髪の毛。
 シーツを点々と染めた血痕。
 鍵屋崎の姿はどこにもなかった。
 静流に連れ去られたあとだった。
 サムライはまたしても間に合わず、静流にしてやられたのだ。
 「……………っ………………」
 ベッドの足元に立ち竦むサムライ、その双眸から理性の光が消失、半開きの唇が自責の言葉を紡ぐ。
 「………俺はまたしても間に合わなかった。愛する者の求めに応じられなかった。直、俺は我が身を賭してお前を守りぬくと約束した。心より惚れたお前を是が非でも守り抜くと誓った。しかし……」
 指がほどけ、木刀が落下。
 床に落ちた木刀が甲高い音を奏でる。
 握力が緩んで木刀がすり抜けたことにも気付かず、からっぽのベッドを見詰め続ける。  
 「……………俺は武士ではない。断じて武士などではない。惚れた男ひとり守り抜けぬ腑抜けが武士などであるものか」
 放心の体で立ち竦むサムライ、その背にかける言葉を失う。
 命の次に大事な木刀を拾い上げることもせず、ただその場に時を忘れて立ち尽くし、髪の毛がばらまかれた寝床を見つめ……
 骨ばった喉が膨らみ、この世を呪う絶叫を放つ。 
 「俺はただの、名も無き屑だ!!」 
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