少年プリズン

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三百五十一話

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 太陽に炙られた舗道の彼方に極小の点がある。
 針で突いたような点は次第に大きく鮮明になる。
 周囲は見渡す限り草一本もない不毛の砂漠、砂塵を含む乾燥した風が吹き荒ぶ。
 大自然の脅威を感じさせる光景の中、砂漠の中心を貫く舗道を疾駆する一台のジープ。車高が高く無骨なジープは質実剛健な威容を兼ねて、四輪のタイヤでアスファルトを削る。
 膨大な量の砂塵が視界を煙らせる。
 平坦な舗道がエンジンの振動を伝えてくる。
 アスファルトを噛んでジープが停止する。
 砂埃が晴れるのを待ち、運転手が降り立つ。
 若々しい黒髪をオールバックに撫で付けた三十路半ばの男だ。
 聡明に秀でた額の下、知性を加味する銀縁眼鏡の奥には涼やかな切れ長の双眸がある。一筋の反乱も許さず整えたオールバックが端正な風貌に似合い、地味な灰色のスーツに糊の利いたワイシャツが映える。
 運転席から降りてジープを迂回、後部座席の脇で直立不動の体勢をとる。
 後部座席の扉が開く。
 段差を降り立ったのは神経質な雰囲気を漂わす痩せぎすな男。
 縁なし眼鏡の奥の瞬きの少ない目は、低体温の爬虫類をおもわす陰湿な光に濡れている。
 身に着けているスーツは最高級の物で、先に下りた男より遥かに金がかかっていると一目で知れる。最高級のスーツに身を包んだ男は、しかし人を不快にせずにおかない険のある空気を発散していた。
 露骨に顔を顰めてあたりを見回す。
 背広の胸ポケットから気障ったらしくハンカチを抜き取り、口元を覆う。
 「相変わらずひどい砂だ。ここはひどい場所だ」
 女性的な仕草で口元を押さえ、嘆かわしげにかぶりを振る。
 大気に混ざる砂塵を吸い込まないよう口元をハンカチで庇い、所長は尊大な物腰で歩き出す。
 後部座席から犬の吠え声がする。
 所長が喜色満面振り返り、両手を広げる。
 「さあ来いハルよ、私の胸に飛び込んでこい!」
 後部座席から跳躍、弾丸のように宙に身を躍らせたのは一頭のドーベルマン。
 黒い毛並みも艶やかに、筋肉のうねりも美しく鍛え抜かれた体躯が強靭さを感じさせる犬だ。
 所長は高笑いして犬を抱きとめる。
 犬が歓喜の声を上げて飼い主の顔面を舐めまわす、犬科特有の異様に長い舌で顔じゅう余さず舐め回されてしとどに涎にまみれても怒るどころか上機嫌で犬を抱擁する。
 「ははははははっははは、まったく愛いヤツだなあ私のハルは!飼い主の粋なはからいに全身で感謝し奉仕するとはお利口さんだ。コンクリートで固められた殺風景な中庭が日々の散歩コースではお前も飽きるというものだ、たまには気分転換の遠出も必要だろう。存分に砂漠を走り回り日頃の運動不足を解消してくれ」
 無邪気に犬に頬ずりする所長のそばで、安田は伏し目がちに沈黙を守っていた。
 その顔には何の感情も浮かばず眼鏡の奥の怜悧な双眸に犬とじゃれあう所長を映している。
 所長が安田に向き直る。
 所長の腕から解き放たれた犬が喜び勇んで砂丘の向こうに駆けていく。悲鳴が連鎖する。
 「可愛い犬だ。あんなにも無邪気にはしゃいでいる」
 所長が満足げに微笑み、同意を求めるように安田を見る。
 所長が先に立って歩き出す。安田も後に続く。
 砂の上に二対の靴跡が刻印される。
 所長の靴跡に沿って歩く間も安田は伏し目がちに別の事を考えていた。
 今安田の心を占めているのは前方を行く所長でも砂丘の向こうで囚人にまつわりくハルでもなく、医務室で静養中の息子……

 直のことだ。

 事件は三週間前に遡る。
 その日、安田は医務室にいた。
 睡眠薬を貰いにきたついでに他愛ない世間話をしていたのだ。そこに駆け込んできたのが血まみれの直を抱いたサムライだった。直は脾臓貫通の重傷で一目で危ない状態とわかった。
 何故か全裸に紅襦袢一枚を羽織ったあられもない格好で、宙にだらりと垂れた片足を艶めかしく白濁が伝っていた。
 それを見た瞬間、理性が蒸発した。 
 『直を返せ!』 
 「渡せ」ではなく「返せ」と叫んでいた、無意識に。
 安田は激怒してサムライの腕から直を奪い取った、物言いたげなサムライに弁解する暇を与えず語気激しく詰り、直を守りきれず大怪我させた不甲斐なさを一方的に責め立てた。
 サムライは口元を引き結び叱責に耐えた、我を失った安田が口汚く罵声を浴びせて医務室から追い出しても弁解ひとつしなかった。
 手術は成功したが、昏睡状態が一週間も続いた。 
 その間安田はずっと直に付き添っていた。
 辛いことだらけの現実から逃避するが如く昏々と眠り続ける直の傍らに寄り添い、ひたすら手を組み無事を祈り続けた。
 直が目を覚ましてくれるなら他に何もいらないと心の底から思った。公私混同の自覚はあったが、それでも毎日欠かさず医務室を訪れて時間が許すかぎり枕元で寝顔を見守り続けた。

 あどけない寝顔だった。
 口元を覆う酸素マスクが痛々しかった。
 何度も直の手を握った。冷たい手だった。

 眠りが深まるほどに死に近付く危惧に襲われ、無防備に投げ出した腕と指から生命が漏れ出しているような不安に駆られて、ひたすら直の手を包み温めずにはいられなかった。
 直の指に体温と感覚が戻るまで一週間もかかった。
 それから間もなく安田は苦渋の決断を下した。直を西棟に移す決断だ。直が刺されたのはサムライとその従弟の争いに巻き込まれたからだ、帯刀家の確執に巻き込まれたからだ。
 柿沼を殺し直を刺した犯人は独居房に無期限拘束されているが、サムライのそばにいる限り安全とは程遠い。直の身柄を保護して安全を保障するために、安田は早急に手を打った。
 「私のしたことは間違っていない」
 直に恨まれても決定は取り消さない。
 これがいちばんいい方法なのだ、理想的な解決なのだ。
 ヨンイルと直は仲が良い。帯刀家と物理的な距離を隔てた上で西の道化の庇護を得れば金輪際危害が及ぶこともない、直が傷付くことはないのだと自らに言い聞かせて平常心を保つ。
 ヨンイルならば信頼できる、直とも良い友人になってくれるはずだ。
 そうだ。これが正しいのだ。
 東京プリズンの秩序を守る副所長として、あまりに繊細な息子を持つ一人の父親として、これこそ最善の選択なのだ。

 『ふざけるな、僕は認めないぞ!』
 悲痛な叫びが耳の奥に蘇る。

 一週間の昏睡から目覚めた直が、必死な形相で安田に縋り付く。
 『漸く気持ちが通じ合えたのに「愛してる」と言えたのにまた彼と僕を引き離すつもりか、勝手なことをするな副所長の分際で、囚人のプライバシーにまで口を出すんじゃない……待て安田話は終わってない、最後まで抗議を聞き反省のち撤回しろ!嫌だ僕は絶対に認めないこれからずっとサムライと一緒にいるんだ、サムライとロンとレイジと食堂で食事をとって展望台で馬鹿話をして夜はサムライの読経を聞きながら読書するのが僕が東京プリズンで手に入れた幸せなのに……!!』 

 幸せ。
 私は直が漸く手に入れた幸せを奪おうとしているのか、息子の友人に嫉妬して冷静な判断ができなくなっているのか?

 「馬鹿な」
 想像の飛躍を自嘲する。
 直が幸せになってくれるならこれほど喜ばしいことはない、それは誓って真実だ。しかし父親として直がぼろぼろになるのを見過ごすわけにはいかない。
 脇腹を刺されて血まみれで運び込まれた直を見た時の戦慄、直の死を意識した瞬間の全身の血が凍り付く感覚を忘れられない。
 恐怖。圧倒的な恐怖。
 直を失うのは嫌だ、直に死なれるのは嫌だ。東京プリズンの副所長なら公私の別を付けろと理性が命じても本能が逆らう、血を分けた息子を失う恐怖で発狂しそうになる。

 血を分けた息子。
 生物学上の、遺伝学上の、息子。

 割り切っていたつもりだった。
 頭脳の優秀さで選ばれて精子提供者となった時に父性を封印したつもりだった。
 十五年の時を経て息子と再会するとは夢にも思わなかった。
 それもまさかこんな形で、刑務所の副所長と囚人として再会するとは……
 なんという皮肉な巡り合わせ。
 「副所長、聞いているのかね」
 「なんでしょうか」
 ハッと顔を上げる。
 物思いから醒めた安田の前で立ち止まり、所長がこちらを見る。
 「一体どうしたのだ副所長。随分と体力気力を消耗しているようだが、連日の医務室通いが原因か」
 「何故それを……」
 「私が知らないとでも?事情聴取に熱心なのは結構だが職務放棄は感心しない、下の看守に示しがつかんだろう」
 「申し訳ありません」
 安田は素直に頭を下げる。
 「それで?鍵屋崎の殺害動機は聞き出せたのか。私のデスクには報告が上がってないが……」 
 所長が婉曲に探りを入れてくる。
 縁なしの眼鏡の奥の目が酷薄に細まり、油断できない眼光を放つ。
 安田はひとつひとつ言葉を選び、慎重に答える。
 「……調査は難航しています。鍵屋崎は全治二ヶ月の重患です。長時間の事情聴取は体に負担をかける」
 「くだらない。家畜の体調など気にすることはない」
 不快げに吐き捨てた所長に反感が込み上げる。
 息子を家畜呼ばわりされた怒りが、安田にいつになく反抗的な態度をとらせる。
 「……上が欲しいのはIQ180の頭脳だけですか?それなら頭蓋骨を切開して脳を摘出すればいい。だが違う、政府が欲しているのは鍵屋崎直という一人の人間だ。脳に栄養を送り思考活動を促す『容れ物』をなくして望みは達成されない、よって『容れ物』を粗末に扱うのは控えるべきだ」
 敬語を失念していたのに気付いたのは、所長が憤然と砂を蹴散らしこちらに近付いてきた時。   
 痩せぎすの体から放たれる抑制されたオーラが暴力の気配を連れてくる。
 砂を踏む音も耳障りに急接近、安田の手前で立ち止まる。
 「私に意見する気か」
 「私はただ、」
 平手打ちにされた。
 頬に衝撃が走り眼鏡が弾けとぶ。
 容赦ない打撃によろめく安田のネクタイをすかさず手に巻きつけ乱暴に引き寄せる。
 「何様の分際だ、貴様は。身の程をわきまえろ、エリート崩れが」
 「………申し訳、ありません」
 殴られた際に口の中が切れたらしく口腔に鉄錆びた味が広がる。
 吐きそうだ。
 ネクタイで首を絞められる苦しさに顔を顰める安田を至近距離で観察、嗜虐の悦びに爛々と目を輝かせ唇を舐め上げる。
 プライドを傷付けられた恨みと部下に反抗された怒りが相俟って、エリート然と取り澄ました表情が無残に裂けて粗暴な本性を剥き出す。
 謝罪する安田を許さず、さらなる屈辱的な仕打ちを強いる。
 「拾いたまえ」
 横柄に顎をしゃくり足元を示す。
 安田の顔から弾け飛んだ眼鏡が砂上に転がる。
 安田が膝を折り曲げ中腰の姿勢をとり、砂まみれの眼鏡に手を伸ばすのを制す。
 「砂に手足を付いて四つん這いになりたまえ」
 面倒くさげな口調で過ちを訂正、陰険な企みを秘めた眼光で先を促す。安田の顔が屈辱に歪む一瞬を見逃さず優越感を満たす。
 愉悦の笑みを口端に浮かべ、視線に圧力をかけて屈従を強いる。
 顔を伏せて表情を隠し、ゆっくりと跪く。
 ズボンの膝が砂に汚れる。
 砂に膝を屈した安田の姿にシャベルや鍬を手にした囚人がどよめく。
 囚人がこちらを指差し声高に叫ぶ。
 所長の足元に跪く副所長の構図に興味をそそられたか、ある者はシャベルを放り出しある者は鍬を引きずりこぞってこちらにやってくる。
 興奮の気配を孕んだざわめきが周囲に広がる。
 作業放棄して群れ集まる野次馬を所長は咎めもせず、愉快なショーの見物客として歓迎した。ハルに追い散らされた囚人が泣きべそをかいて砂丘を転がり落ちてくる。
 囚人の尻に噛み付きズボンの生地を破り取ったハルが、発達した四肢で砂を蹴り弾丸のように跳ねてくる。ズボンの生地を咥えて戻ってきたハルが戦利品を示してご褒美をねだる。
 「よしよしハルよ、お前も砂丘を越えてはるばる愉快なショーを見物にきたか。見たまえ、先ほど私に逆らった愚か者が砂に手足を付き頭を垂れて謝罪を乞うみじめなさまを!この男きたら全くなんと愚かだ、上司への敬語を忘れて自己中心的な意見を述べたりなどするから足元にひれ伏す羽目になったのだ」
 所長が得々と語る。
 安田は唇を噛み面を伏せて眼鏡に手を伸ばす。
 「なっさけねえな、安田。これがホントにあの副所長かよ」
 「前はこんなんじゃなかったんだけど新しい所長が来てからすっかり変わっちまった」
 「調教済みってわけか、ハル二号め」
 「こんなヤツの顔色窺ってにびくびくしてた自分が笑えてくるぜ」
 背中に嘲笑が突き刺さる。
 安田を取り囲んだ野次馬が口汚い罵倒を浴びせる。
 野次馬の垣根は二重三重と膨れ上がる。
 厳しい労働の合間の息抜きに副所長のみじめな姿を見物しようと集まった囚人は誰も彼も侮蔑の表情を浮かべている。
 ここにいる囚人は皆以前の安田を知っている。
 無能な所長に成り代わり東京プリズンの秩序を守る副所長を誰もが恐れ怯えていた。
 今や安田の権威は地に落ちた。 
 かつての凛々しい面影はどこへやら消え失せて、今では所長の気まぐれで虐待される哀れな犬へと成り果てた。
 輪の最前列の囚人が安田が拾おうとした眼鏡を蹴り飛ばす。
 「おっと悪ィ、足癖悪いんだよな俺。勘弁してくれよふくしょちょー」
 周囲が爆笑の渦に呑み込まれる。
 「なあ安田さん、あんた所長の命令でハルとヤらされるって本当か。獣姦の愉しみに目覚めて毎日一生懸命腰振ってるってマジか?東京プリズンですごい噂になってんだけど」
 大股開きで屈み込んだ囚人が皮肉に口角を吊り上げる。安田は取り合わず視線を彷徨わせて眼鏡をさがす。
 あった。
 1メートル前方に眼鏡が埋もれている。
 蹴り飛ばされた衝撃で弦がねじれたらしい。
 「ザマあねえな。かつてのエリート副所長もこうなっちまったらおしめえだ。囚人に砂蹴り掛けられて唾吐かれてもじっと我慢のコで無視決め込むわけか。なまっちろい日本人の割にゃ根性あるなって見直したよ。ああそうだ、せっかくだから今ここでズボン脱いでケツ見せてくれよ。あんた肌白いからケツも粉はたいたみてーにまっちろなんだろ?」
 「何か言えよリーベンレン。所長の飼い犬がお高くとまってんじゃねーよ」
 調子に乗った囚人が唾を吐き、顔面に砂を蹴りかける。
 目に砂が染みる痛みに動きが止まり、生理的な涙が瞼を濡らす。
 野次馬が一斉に囃し立て、仕立ての良いスーツに大量の砂を蹴りかけ汚していく。
 獲物が弱味を見せたことで悪乗りする野次馬を一瞥、所長が背広の内側から何かを取り出す。
 鞭。
 度重なる妨害にもめげずに四つん這いで前進、全身砂まみれになりつつ落下地点に辿り着いた安田が、弦の曲がった眼鏡に手を伸ばす。
 「!―っ、」
 空気を裂く音も高らかに、手の甲に鋭い痛みが走る。
 冷水を浴びせ掛けられたように野次馬が沈黙、一同に怯えが走る。
 鞭で打擲された肌に赤い痕が盛り上がる。
 裂けた手を庇い身を丸める安田、その額を脂汗が濡らす。
 噛み締めた唇から苦鳴が漏れる。容赦なく部下を鞭打ち痛みを与えた所長はそれでもまだ飽き足らず、二度三度と興に乗り鞭を振るう。
 勢い良く鞭が撓り、風切る唸りが連続する。
 肩を、腿を、全身至る所を打擲される痛みに安田はただ目を閉じて耐える。鞭が頬を掠めて肉が爆ぜる、滴り落ちた血が砂を固める。
 最前列の囚人が顔を背ける。
 中にはこそこそと逃げ出す者がいる。
 「本当に、君は、使えない、犬だな!可愛いハルとは、大違い、だ!」
 荒い息の狭間に罵倒し、体力尽きて気が済むまで鞭を振るい続ける。 あと少しで眼鏡に手が届くところを鞭に妨げられて、伏せた顔が苦渋に歪む。
 巻き添えを恐れたか所長の狂気にあてられたか、鞭が振り上げ振り下ろされる度に人垣から離脱者がでる。
 「いかれてるぜ、マジ」
 「所長と副所長のSMにゃ付き合いきれねーっつの」
 捨て台詞を残し、遂に最後の一人がいなくなる。
 漸く鞭が力を失いだらりと垂れ下がる。
 所長は肩で息をしながらぐったりと突っ伏す安田を見下ろす。
 スーツのあちこちが切れて赤く腫れた素肌が覗く。
 片手に鞭を預け、舌なめずりせんばかりに安田の素肌を鑑賞する。
 安田が酷い顔色で眼鏡を拾い上げる。
 レンズには分厚く砂がこびりついてる。
 丁寧な仕草で眼鏡の砂をこそぎ落とし、神経質にレンズを拭い、顔にかける。弦が曲がった眼鏡は鼻梁の上に乗らず大幅に位置がずれる。
 「………お気が済みましたか、所長」
 膝の汚れを払い、素早く立ち上がる。
 鞭打たれた全身が熱をもち痛んでいるはずだがおくびにもださず、冷静に告げる。 
 「嬲り甲斐のない男だ。プライドを売り渡して許しを乞うより声を殺して耐え忍ぶのを良しとするか」
 喉の奥で不快な笑いを泡立てた所長が、不意に真顔になる。  
 芝居がかった身振りでぐるりを見回す。
 だらりと体の脇に垂れた腕を庇い、安田もつられて視線を追う。
 無限に連なる砂丘の斜面、手に手にシャベルや鍬を掴んだ囚人たちが穴掘りに精を出す。水を汲んだバケツを両手に提げて貯水池を往復する囚人がいる、シャベルを立て掛けて談笑する囚人がいる、サボリを見咎められて逃げ出す囚人がいる。
 用水路は八割がた完成している。用水路の斜面に土嚢を積んで補強する囚人たち、その声が風に吹き流されて聞こえてくる。
 見渡す限り果てなく広がる大砂漠に穿たれた無数の穴、その合間で働く囚人たち、それを監督する看守たち……
 
 「東京プリズンに原子力発電所を建てる」

 「なん、だって」
 乾燥した風が頬を嬲り、前髪を乱す。
 所長は安田に背を向け淡々と続ける。
 「何も驚くことはない。原子力発電所の建設が忌避されるのは一重に放射能事故のせいだ。人は万が一の事を考えて際限なく不安を膨らます生き物だ、自分たちの生活圏内に原子力発電所が建つとあらば住民は猛烈に反対するだろう。東京プリズンはその点非常に都合がいい。都民の生活圏から十分に離れている、周囲には見渡す限り広大な砂漠がある。仮に事故が起きたとしても放射能が蔓延するのは砂漠の一定圏内に限られる。それに……」
 思わせ振りに言葉を切り、安田を見る。
 「囚人ならば、死んでもいいということですか」
 口にしたそばから凄まじい嫌悪感が湧き上がる。
 狂ったように鞭打たれた時でも表情を変えず平静を保っていた安田がこの時ばかりは激情に駆られて所長に詰め寄る。
 「仮に事故が起きて放射能が蔓延しても砂漠で働く囚人ならばいくらでも死んでいいとそういうことですか、どうせ政府に遺棄された犯罪者なのだから放射能に毒されて緩慢に死にゆくのもリンチで殺されるのも同じだと?入れ替わりが激しい東京プリズンでは先の囚人が死んだそばから新しい囚人が来る、いくらでも補充が利くし労働力に不足はない、だから……っ!!」
 「たかが家畜じゃないか。ガス室で虐殺されるのも砂漠で照り殺されるのも同じ事だよ。それに……」
 ハルの頭に手をおき、愛情深く撫でる。
 ハルが嬉しそうに尻尾を振る。
 ハルの頭を執拗に撫で回し、微笑む。
 「事故に見せかけて愚鈍な家畜どもを一掃できるならこれ程素晴らしいことはない」
 「……………」
 「万一放射能が砂漠の外に漏れだしても心配することはない。砂漠の周縁には無国籍スラムがある。台湾・中国から流れ込んできた戦争難民や韓国・ロシア・東南アジア出身者やその二世三世がドブ鼠のように繁殖して住み着いているのだ。東京プリズンの家畜どもと一緒に彼らを始末できるならこれ程喜ばしいことはない」
 「『上』はこの事を知っているのですか」

 底が抜けたような哄笑が轟く。

 ハルの前脚を取ってダンスを踊り、上機嫌に言う。
 「ははははははははっ勿論だとも、勿論ご存知に決まっているじゃないか!私はもともとその為にこの地に遣わされたのだ、東京プリズンに原子力発電所を建てる計画を推進するために政府から送り込まれたのだよ。政府とてこの無駄な土地を持て余しているのだ、原子力発電所の一つ二つ三つ建てたところで放射能汚染されるのは周縁スラムの住民と犯罪者だけ、不潔な外人どもを一掃できるなら上も万々歳だ、生まれつき血の汚れた家畜は放射能で朽ちゆくが似合いだ!!」
 哄笑が空虚に響く中、安田は固く目を閉じ直の顔を思い浮かべていた。

 直。
 二ヶ月経ったら強制労働に復帰せねばならない。
 砂漠に原子力発電所が建てば真っ先にその影響を受けるのがイエローワークの囚人。

 「……………っ」
 心臓の動悸が激しくなる。嫌な汗が全身から噴き出す。
 何とかしなければ。この男を止めなければやがて最悪の事態が起きる。砂漠が放射能に汚染されて東京プリズンの囚人が全滅、のみならず周縁スラムの住民までもが被害を受ける。
 この男は、東京を滅ぼす。 
 唇を噛んで押し黙った安田を呼び戻したのは、所長の声。
 「東京プリズンに異分子が紛れ込んでいる」
 「………どういうことですか」
 ハルの前脚を放して立ち上がり、縁なし眼鏡の奥から鋭い視線を送る。
 「政府筋からの情報だ。信憑性は高い。東京プリズンの囚人三万二千四百二人、その中に異分子が紛れ込んでいるのだ」
 「レイジ、ですか?」
 慎重に確認すれば、嘲りの笑みを返される。
 「Rаge、か。あれは確かに異端児だが東京プリズンの秩序を乱す『異分子』ではない。いいかね、安田君。異分子とは東京プリズンの秩序破壊者、本来東京プリズンにいてはいけない人間だ。ここにいるはずのない人間だ」
 不吉な予兆のように雲に遮られた空の下、不気味な陰影が所長の顔を隈取る。
 所長が両手を開く。
 視界一杯に広がる砂漠を抱き込むように腕を広げ、説明を続ける。
 「その男は本来ここに移送されるはずの囚人に成り代わり東京プリズンに潜入した。前任者のデータ管理が杜撰だったせいで未だ個人の特定はできないが、その異分子がどこから来たのかは調べがついている」
 安田が息を呑む。
 所長の顔にいかづちめいて憎悪が迸り、眼鏡の奥の双眸を極限まで見開く。
 眼窩から迫り出した眼球が血走り、ぬらりと異様な輝きを放つ。
 そして、吐き捨てる。
 忌まわしき、その名を。 
 「国際指名手配武器密輸組織ダンカイロ工作員、コードネーム『ドン・ホセ』……!」 
[newpage]
 容赦なく鞭が飛ぶ。
 『軸がぶれているぞサーシャ、このサバーカめがっ!』
 団長の激が飛ぶ。酒焼けした濁声で年端もいかない少年を罵倒する。
 天幕の内側は凍えるように寒い。
 少年が身に着けているのは粗末な衣服だ。
 氷点下に近い気温の中、防寒の用を足さないボロを纏った少年は腕が攣るまで際限なくナイフの投擲を繰り返す。
 傍らには酒焼けした顔の団長が尊大に腕を組み、少年がサボらないかミスしないか見張っている。底意地の悪い目つきをした中年男で、恰幅の良い体躯を毛皮のコートに包み、鞣革の鞭を持っている。
 吐く息が白く昇天する。
 皮膚に霜柱が立ちそうなほど寒い。
 ナイフを取る指がかじかみ感覚が失せる。
 息を吸い込むたび氷針が肺を刺す。
 それでも少年は弱音一つ吐かず愚痴一つ零さず、遥か前方の的だけを揺るぎ無く見据える。
 襟足が見えるまで刈り込んだ銀髪が清涼に流れる。
 栄養状態が悪く痩せて骨ばったうなじが痛々しい。
 年の頃は十歳位だが、同年代の少年と比べて手足が長く筋肉が発達し均整が取れている。
 体の線をくっきり浮き立たせるタイトな衣装に身を包み、天を仰いで深呼吸する。空気を取り込んだ胸郭が膨らみ、肺に酸素が満ちる。
 緩く閉ざした瞼は銀の睫毛に縁取られている。
 極上の絹糸を一本一本植毛しような睫毛は、それ自体が至高の飾りとなり切れ長の眦を際立たせる。
 瞑想から目覚め、ゆっくりと瞼を上げる。
 銀色の睫毛が震え、うっすらと瞼が開く。
 瞼の奥から現れたのは神秘的なアイスブルーの瞳、孤高を貫く氷雪の青。
 『いいかサーシャ、的の中心にあてるんだ。ど真ん中を狙うんだ。俺を失望させたら承知しねえぞ、この愚図めが。何のために今日まで無駄飯食いのガキを養ってやったと思ってる?お情けじゃねえ、道楽じゃねえ、愚図でどうしようもねえお前を立派に鍛え上げてたんまりおひねり巻き上げるためだよ。今度失敗したら足腰立たなくなるまで鞭でしごいてやっから覚悟しやがれ』
 品良く整った目鼻立ちが高貴さを感じさせる少年は、団長の叱責にも怯える事なく新たなナイフを手に取り、真剣な面持ちでためつすがめつする。
 刃を照明に翳して反射させる。
 白銀の閃光が目を射る。
 鋭利で滑らかな刃に指を這わせ、固い芯を秘めた金属板の感触を確かめる。眉間に翳した刃を手際よく翻し表裏を照明に舐めさせる。
 恍惚と目を細める少年の手の中で、ナイフが光り輝く。
 『ぼうっとするんじゃねえ!』
 団長が鞭で足元を叩いてどやしつける。
 まるで家畜に対する扱いだ。
 事実この冷酷無比な男は、早くに母を亡くし父には捨てられた幸薄い少年に対し家畜に等しい境遇を強いてきた。気に入らないことがあれば激しく折檻して鉄の檻に閉じ込めた。飯を抜くなど日常茶飯事だった。少年は幼い頃より生傷の耐えない生活を送ってきた。 
 続けざまに鞭が唸り、地面を穿つ。
 鞭で打ち砕かれた土塊が宙に舞う中、癇性を爆発させた団長が口汚く悪態を吐く。
 『いいかサーシャ、お前に教えてやる。お前はな、「捨てられた」んだ』
 嗜虐の悦びに目を濡れ光らせて、分厚い唇を涎に照り光らせて、団長が邪悪に微笑む。
 折檻の恐怖を煽るように鞭をしごき背後に接近、しゃっくりを上げる。

 『てめえのお袋は空中ブランコ乗りのスタア、アナスタシア。親父はさるロシアンマフィアの大物幹部。ある日サーカスに寄った折にアナスタシアを見初めてお持ち帰りと相成った。だけども一度手に入れたらあっけないもんで、腹ボテのアナスタシアがサーカスに出戻ってきた頃にゃ空中ブランコ乗りのスタアは代替わりしていた。だあれもアナスタシアの事なんざ覚えてなかった。
 ああ、可哀想なアナスタシア不憫なアナスタシア!ロシアンマフィアの幹部なんぞに見初められたばっかりに不幸街道一直線、お前を産んでっからすっかり体が弱くなって挙句にガキ遺してぽっくり逝っちまった。おお可哀想なアナスタシア不憫なアナスタシア、空中ブランコ乗りのスタアとして輝かしい将来が約束されていたのにお前とお前の親父のせいで全部台無しだ!』

 芝居がかった身振りで悲嘆に暮れる団長を一顧だにせず、ナイフを手に集中力を高める。
 的は十メートル離れている。
 少年の手は既に血まみれで十メートル先の的には数十本ものナイフが刺さっている。
 矢立ての様相を呈した的にはしかし、中心に空きがある。
 ナイフはどれも的の中心を逸れて刺さっている。
 少年の手はもう傷だらけだ。何時間も休みなくナイフを投げ続けたせいでひどく体力を消耗している。二本足で立っているだけで奇跡に近い体調なのだ。額には汗が浮かんでいる。唇は青ざめている。
 それでも少年は前方の的を見詰め続ける。
 的の中心を貫くまでは決して引き下がらないと目標を己に課して、投擲のポーズをとる。
 団長の呪詛は連綿と続く。
 集中力を乱して失敗を招こうというのか、熱狂的に腕を上げ下げして慨嘆する。
 『お前の親父ときたら全くどうしようもねえ人間の屑だ!そうは思わねーかサーシャ。お前だって心ん底じゃあ自分とお袋を捨てた親父を恨んでるんだろう、憎んでるんだろう?お前は親父に見捨てられたも同然だ、その証拠にお前の親父ときたら忘れ形見の息子をサーカスに預けっぱなしで一度も訪ねてきやしねえ。ああそうか、正妻がいるんだもんな。跡継ぎもちゃんといるんだもんな。昔捨てた愛人が産んだガキなんざとっくに忘却の彼方だよなあ!』
 団長が嘆かわしげにかぶりを振り、見苦しく頬肉を弾ませ盛大ににたつく。
 少年は一直線に的と対峙する。
 襟足で刈り込んだ銀髪がざわめく。
 刃の根元を指に挟み上げ下げし、慎重に目測を割り出す。
 音が消える。色が消える。
 的と自分、二つの点のみが世界に存在する。点と点が不可視の糸で繋がる。線になる。空気の流れを皮膚に感じる。
 自分が起点で的が終点、その間を繋ぐナイフの放物線を幻視する。
 高貴に整った顔の中、怜悧に薄い唇が吊り上がる。
 『黙れ、愚民』
 『なん、だと?』 
 吠え声が止む。天幕の内側に静寂が立ち込める。
 腹に力を矯め、鋭く呼気を吐く。アイスブルーの双眸が燃え上がる。全身に闘気が漲る。心地よい緊張感が充溢して筋肉が躍動する。
 世界から音と色が消える。
 五感が異常に研ぎ澄まされ刺激が飽和し無に近くなる。
 時が停滞する。時間の流れが鈍くなる。水の中にいるように一挙手一投足を緩慢に感じる。
 ナイフを投擲する。鞭のように腕が撓る。 
 刃の表面が照明を反射、長大な放物線を描いて的に至る。
 軽やかな音をたて、的の中心にナイフが突き立つ。
 『…………』
 団長が絶句する。
 少年は大股に的に近付き、無造作にナイフを抜き取る。
 片手に握ったナイフを惚れ惚れと見詰め、薄っすらと微笑む。
 この上なく幸せそうな、しかし見るものを不安にさせずにおかない狂気を孕んだ微笑。
 『僕の末はロシア皇帝だ。じきにお前のような卑しき民草とは口を利くこともなくなる。やがて皇帝の馬車が迎えに来て僕をロマノフの宮殿に連れて行く。お前に鞭打たれ檻に入れられ飯を抜かれる日々も大きくなるまでの辛抱だ』
 この上なく愉快そうに笑い声を立て、少年がダンスを踊る。
 優美なステップを踏み回転する。人を惹き付ける華麗な身ごなしは稀代のブランコ乗りと喝采を浴びた母から受け継いだものだ。
 少年は踊る。
 吐く息も凍る天幕の内側、誰もいない客席を見上げ、現実には聞こえない喝采を一身に浴びて。
 ナイフをきらびやかに閃かせ。
 『僕の母さんは皇女アナスタシアだ、皇女の産んだ子が皇帝になるのは当然だ。そうなったらお前なんかギロチンにかけて処刑してやる、これまで僕が味わった屈辱を倍返しにしてギロチンにかけてやる。ざまをみろ愚民めが、愚民どもめが!お前ら全員僕のナイフで血祭りに上げてやる、僕が不遇の年月に耐えてロシア皇帝に即位した暁にはこんなくそったれたサーカス一声で潰してやる!!』
 甲高い哄笑が爆ぜる。
 背骨がへし折れんばかりに仰け反り哄笑する少年のもとへ憤然と団長が歩み寄り、おもむろに鞭を振り上げる。
 鋭利な唸りを上げて鞭が肉を打擲する。
 『!?っあう、』
 背中を打たれた衝撃によろめき、力なく膝を屈する少年に続けざまに鞭が振り下ろされる。
 『誰が愚民だ、このクソガキが!お前がロシア皇帝たあ笑わせるぜ、お前はただの捨て子のクソガキだ、ナイフ投げっきゃ取り得のねえサーカスの荷物のクソガキだよ!わかったかサーシャ、わかったなら返事しろ、申し訳ありません団長もう逆らいませんごめんなさいて泣いて謝れ!』
 少年が腕を掲げて顔を庇う。
 服が破れて肌が裂けて血が飛び散る。
 頭を抱え込んで突っ伏す少年に怒りに任せて鞭を振るう。少年の手から零れ落ちたナイフが澄んだ音を立て地面に転がる。ナイフを追って顔を上げる、その頬を鞭が掠めて肉が爆ぜる。
 地に腹這いになりナイフを拾おうとぎりぎりまで腕を伸ばす、その背中に息を荒げて圧し掛かる。
 既にボロ屑同然となった服を破り取り、裸に剥く。
 布切れの下から暴かれたのは鞭打たれた傷跡が刻まれた白い背中だ。
 『ナイフ投げの他にお前に何ができるってんだよ、サーシャ』
 醜く肥えた指が傷だらけの背中をまさぐる。脇腹をまさぐられる不快さに少年の肌が粟立ち、喉から悲鳴が漏れる。必死に身をよじり己を組み敷く男の支配から脱しようと足掻く少年、その無駄な抵抗を嘲笑しつつ後ろ髪を鷲掴む。
 鈍い音が耳底にこびりつく。
 少年の後ろ髪を掴んだまま、固い地面に顔を打ち付ける。
 『こうして俺様の慰み者になる以外お前にどんな使い道があるってんだ、ええっ?お前がロシア皇帝たあ笑わせるぜ、そんなら俺はロシア皇帝をたぶらかす怪僧ラスプーチンだ、お前のケツの穴に精液ぶちまけて背徳の愉しみを教え込む淫蕩な坊さんだよ!』
 背中に跨った男が哄笑する、少年の頭を何度も何度も地面に強打して勝利の哄笑をあげる。男が漸く飽きて少年の後ろ髪を引っ張る。何度も何度も地面に減り込んだ額は割れて鼻梁を血が伝っている。
 額と鼻の穴から血を垂れ流した少年がぐったり地に横たわる。
 芋虫めいた指が少年のズボンを剥ぎ取り、幼い尻を晒す。
 団長が生唾を嚥下する。
 『股を開け、腰を振れ。ふっくら可愛いケツを俺のナイフで貫いてやる。団長の命令は絶対だ、天幕の内側で俺に逆らう身の程知らずぁぶち殺されたって文句言えねーんだ。サーシャ、サーカスを出て行くあてあるのか?ないだろうそんなもん、路頭に迷ってのたれ死ぬのがオチだぜ』
 血と泥に汚れた顔が屈辱に歪む。
 アイスブルーの目が怒りに漣立つ。
 憎しみに燃える目で振り返った少年を鼻で笑い飛ばし、はちきれんばかりにいきり立った股間を少年の内腿に擦らせ、唾液を捏ねる音も卑猥に耳朶をしゃぶる。
 『С ума сошёл 』
 灼熱の杭が打ち込まれる激痛に理性が蒸発、悲痛な絶叫が天幕を突き抜けた。 

 悪夢の沼から意識が浮上する。
 「……………ここは、どこだ……」
 こめかみを疼痛が刺し貫く。
 覚醒と同時に酷い頭痛に襲われてサーシャは顔を顰める。
 身動きせず頭痛がおさまるのを待ち、再び目を開ける。
 配管剥き出しの天井、殺風景な灰色の壁とコンクリート打ち放しの床……
 見慣れた房の光景にどこか違和感を覚える。
 体を起こして違和感の原因を突き止めようとして、自分の意志で体が動かせないのに愕然とする。
 「何だ、これは。どうしたことだ」
 サーシャはパイプベッドに寝かされていた。
 ペンキの剥げたパイプベッドに仰向けになり、四肢は鎖で二重に拘束されてベッドの脚に繋がれていた。緊縛。寝ている間に自分の身に起きた異常を悟り、顔から音たてて血の気が引く。
 「お目覚めですか、サーシャくん。随分うなされていたようですが、どんな夢を見てたんですか」
 穏やかな声に目を向ける。
 ベッドの端に男が座っている。
 几帳面な七三分けの下、野暮ったい黒縁眼鏡の奥には慈愛に満ちた垂れ目がある。サーシャは敵愾心もあらわに男を睨み付ける。 
 「………貴様、南の隠者か。何故私がこんな無様なナリで拘束されているのか、納得いく説明を乞いたいものだ」 
 「お忘れですか?渡り廊下でレイジ君に戦いを挑んだ事を。君はヨンイルくんに蹴り飛ばされて失神したんです」 
 朦朧と記憶が蘇る。
 そうだ、私は渡り廊下でレイジに殺し合いを挑んだ。
 今度こそ決着を付けようとペア戦の雪辱を晴らそうと、南の隠者立ち会いのもとで出自卑しき東の王に聖戦を挑んだのだ。
 瞼の裏に浮上するレイジの顔、狂気を孕んだ眼光と不敵な笑み。
 胸の内に憎悪が煮え滾る。
 「そうだ、私は殺し合いを挑んだ。今度こそペア戦の雪辱を晴らし北のトップに返り咲く為に殺し合いを挑んだ。ところがだ、私とレイジの聖なる殺し合いは西の道化の乱入より妨げられた!道化の靴裏を舐める屈辱を味わいあっけなく失神したのだ私は、全てあの道化のせいだ、不快な道化さえいなければナイフは今頃レイジの血を吸って…!!」
 全身の血管に怒りが循環する。
 サーシャは我を忘れ起き上がろうとした、今すぐ起き上がり房を出ようとした。
 しかし出来ない。
 四肢には鎖が巻かれている。
 サーシャは半狂乱で身を捩る、肩の長さに切り揃えた銀髪を振り乱し焦燥を滲ませ渾身の力で鎖を引きちぎりにかかる。
 「放せ、放せホセ!気高き皇帝に対し無礼な振る舞いにも程がある、私を誰だと心得る、恐れ多くも正統ロマノフの末裔たる偉大なるロシア皇帝サーシャだ!黒き肌持つ卑しき民の分際で皇帝に鎖を掛けるとは言語道断、ギロチンで処刑を命じる!否ギロチンで処刑などと生ぬるい、私とレイジの邂逅をはばむ不届き者はナイフで生皮剥いでくれるぞ!!」
 レイジに会いたい。
 会いたくて会いたくて気が狂いそうだ。
 あの目を抉りたい、肌を切り刻みたい、レイジの全てを私の物にしたい。片目だけでは足りない、レイジの全部が欲しいと魂が渇望する。薄汚れた褐色肌も硝子めいた瞳も魔性の微笑みも全部私の物だ他の誰にも渡さん渡してなるものか、レイジの血の一滴たりとも私の許しなく流させるものか!!
 サーシャは咆哮する。
 皮膚が破れる程に鎖を軋らせ狂おしく身を捩る、故郷の言葉であるロシア語でホセを罵倒する。自分をベッドに縛りつけるホセに団長の面影が重なる。幼き頃より自分を虐げ続けた団長の面影を打ち砕かんと激しくかぶりを振るサーシャ、その喉が濁った音を立てる。
 「ごぼっ……」
 喉から血が迸る。
 上着の胸元が朱に染まる。
 激しく噎せ返るサーシャの上にホセが圧し掛かる。 
 「無理は禁物ですよ、サーシャ君。渡り廊下で血を吐いたのを覚えてますか」
 前髪に指を絡め、吐息のかかる距離で囁く。
 「クスリのやり過ぎです。君はそろそろ覚せい剤を断つべきだ。放っておけば内臓に障害がでる」
 「お、前の指図は受けん……汚らわしい手で触れるな……」
 「そう言うと思って強硬手段をとらせていただきました。手足を縛り付けてしまえば注射が打てないでしょう」
 生温かい吐息が睫毛を湿らす。ホセが前髪をかき上げる。
 黒縁眼鏡の奥の目は深沈と凪いで本音を語らない。
 続けて何か言おうとして、サーシャは豁然と目を見開く。
 「………っ、あああああああああぐうぁあああああぅぐ!!?」
 「おや、禁断症状が来ましたね」
 呑気に嘯くホセをよそにサーシャは見苦しく苦悶する。
 毛細血管の浮いた眼球が眼窩から迫り出す、顎間接が外れる限界まで開けた口から声にならぬ絶叫が迸り空気を震わす、背骨がへし折れそうに体が仰け反り手足が不規則に跳ねる。
 鎖で縛られていなければベッドから転げ落ち頭を割っていた。

 「く、クスリはどこ、だ。私のクスリはどこだ私のクスリあれがなければ私は理性を保てない私は私でいられない私が崩壊する、あああああああっ、クスリ、クスリが欲しい欲しい誰か私の静脈にクスリを打ってくれ快楽を注ぎ込んでくれええええええええええぇえええええええぇえええええっ!!!」

 憎い憎いレイジが憎い殺す殺したいあの情熱の肌を裂き血を啜り臓物に頬ずり至福恍惚甘い臓物ナイフが皮膚の下を通る素敵なナイフ私の僕の    
 「ナイフはどこだ?私の大事なナイフはどこだ私の半身に等しいナイフはどこだあれがなければ」

 氷のように冷たいナイフ銀に光るナイフ血潮に濡れて団長の怒声振り上げる鞭振り下ろされて肉が爆ぜて血飛沫

 醜悪な顔
 裸の背中に圧し掛かり尻を犯す男
 弛んだ腹が背中に密着
 尻肉と腰がぶつかる乾いた音が連続する

 『景気良くケツ振れや雌犬が、薄汚いサバーカめが!はははははっもっと高く鳴け高く高く、声変わり前の声でひぁんひぁん喘げよクソガキめが!!母親に死なれて父親に捨てられた哀れな捨て子のサーカスの足手まとい、お前の居場所なんざどこにもねえ宮殿にもサーカスにも!!』 

 内臓に灼熱の杭を打ち込まれる激痛 裂けた肛門からゆるり垂れた血が内腿を伝う生温かい感触 
 違う、あの男はもういない、いないのだ。悪夢の中にしかいないのだと自分に言い聞かせ平静を保とうとするも現実と妄想が混沌とまざり合い男の手が肌を這い肉を貪り 熱い肉塊が肛門の中で鼓動に合わせて脈打ち 前が滴をたらし……

 「レイジいいいいいいいいいいいイいいいいいいいいいいいいいいいいっっ!!!」

 鎖と接する皮膚が破けて血が滴る。
 サーシャは絶叫する、声帯擦り切れて喉から血を吐いてもなおレイジを求めるのをやめず絶叫する。
 その様をホセはにこやかに見守る。
 銀髪をぐちゃぐちゃに乱し目を極限まで見開き半開きの口から涎を垂らし股間は勃起し、地獄の苦しみに悶えるサーシャを冷徹に観察する。
 「クスリがぬけたらレイジくんに会わせてあげます」
 サーシャの胸板に手を置き、官能的になでる。
 「君にはやって貰いたいことがある。裏社会で悪名馳せたナイフ使いたる君を手駒にできれば心強い、また一歩野望の実現に近付く」
 ホセの笑みが深まるのに反比例し薬物中毒の醜態は極まる。
 失神寸前、口から泡を噴いて不規則に痙攣しながらも目だけ動かしてホセを見据え、たどたどしく言葉を紡ぐ。
 「わ、たしに、なにをしろ、と」
 眼鏡の奥の目を悪戯っぽく細め、唇の前に人さし指を立てる。
 「我輩のカルメンになってほしいのです」 
[newpage]
 静流ご乱心から一ヶ月が経った。
 鍵屋崎が痴情のもつれで刺し殺されて泥沼三角関係が悲劇的な終局を迎えてから今日で一ヶ月……冗談。残念ながら鍵屋崎は死んでない、憎たらしいことに今もぴんぴんしてる。脾臓貫通の重傷なんだから素直にポックリおっ死んだっていいものをどっこいなかなかしぶとい。
 静流はこの一ヶ月ずっと独居房に拘禁されてる。
 看守一名を殺して囚人一名に重傷負わせたんだから当たり前だ。
 冷たい穴倉に転がってる静流を想像するとちょっと溜飲が下がる。
 ヤツにさんざん苦しめられて脅迫されて輪姦で口封じされて、静流が大手振って表歩いてる間はびくびくしっぱなしで心休まる暇なんか片時たりともなかった僕もさすがに一ヶ月が経った今じゃ気力が持ち直した。
 静流にふられたあげくあっさり殺された柿沼に同情はしない。
 自業自得だ。
 柿沼は少しどころじゃなく頭が悪かった、静流にぞっこん惚れてたせいでアイツの本性が見抜けなかったのだ。
 カッキーのおばかさん。
 とはいえ僕も一歩間違えれば同じ運命を辿っていた、静流に脅迫され共犯に仕立て上げられたあげく全ての罪を被せられてあっさり葬られていた。
 んで、現在の僕。
 「リョウさんーやめましょうよー。覗き見なんて悪趣味っスよ」
 上着の袖を引っ張ってビバリーがしぶる。
 口では嫌がってても本気で抵抗してるわけじゃない証拠に目は好奇心に輝いてる。
 「だいじょうぶだいじょうぶ」とビバリーをあしらって壁からそっと顔を出す。
 「ビバリーだってホントは気になってるくせに、三角関係の渦中にあるサムライと西の総大将ヨンイルの内緒話。サムライも医務室前うろうろしてるとこ僕に見つかったのが運の尽き、あんまりそわそわしてるんでこりゃ変だなって物陰に隠れて見張ってたら……ビンゴ!」
 軽快に指を弾く。
 物陰の向こう、廊下の片隅で深刻に話し合ってるヨンイルとサムライにバレなきゃ口笛でも吹きたい気分。
 「ま、僕だって否定はしません。カーギーさん命の用心棒サムライさんと西の道化ヨンイルさん、どうにも妙な取り合わせっスね。二人してこそこそ何話してるんでしょうか……親殺しの居ぬ間にデート?逢引?」
 「まっさかあ!」
 小ばかにしきって鼻を鳴らせばビバリーがむっとする。
 憮然とするビバリーにくるり向き直り、人さし指を突きつける。
 「考えられないね、あの二人に限って。いい?サムライが鍵屋崎を裏切るなんてありえない、ヨンイルも以下同文。鍵屋崎のどこにそんな無限のセックスアピールがあるのか全く理解に苦しむけどサムライがヤツに首ったけなのは一目瞭然、鍵屋崎の良き友人を装ってるヨンイルだってまんざらじゃあない。さもなきゃ泣く子も黙る西のトップが毎日山ほど本抱えて医務室と図書室往復するわけないよ、寝たきりの鍵屋崎のこと考えて配達サービスしてやってるにしても多かれ少なかれ下心があるに決まってる」
 「リョウさんの言う事も一理ありっス。ヨンイルが鍵屋崎に懐いてるのは西でも東でも有名な話、道化ファンクラブの連中もやきもきしてるみたいっス」
 ビバリーが神妙に頷く。
 道化ファンクラブ別名ヨンイルの貞操を守り隊は西棟に存在するらしいその名の通りの集団だ。
 どこかの王様と違って人望厚い任侠体質のヨンイルは五百名から成る集団に「兄貴」と仰がれてるらしい。暑苦しいね。
 壁に隠れた僕らの視線の先には難しい顔をしたサムライとヨンイルがいる。もっとも深刻な面持ちはサムライだけ、腕を組んで壁に凭れたヨンイルはさっぱりした顔でいる。
 ビバリーと目配せし、適切な距離と障壁を隔てて二人の会話に耳を澄ます。
 「……んで、俺に渡すもんがあるやろ」
 ヨンイルが無造作に片手を突き出し、顎をしゃくって催促する。
 何もかもお見通しだと食えない笑みを浮かべて。
 サムライは無言で手を見下ろす。
 事情を知らない人間が通りかかればゆすりたかり無心の類にしか見えない光景だ。サムライは暫し躊躇した末、囚人服の懐を探って一通の封筒を取り出し、ヨンイルに握らせる。 
 「………頼む」
 慇懃に頭を下げる。サムライから受け取った封筒を一瞥、素早くポケットに隠したヨンイルがにっこりする。
 「確かに受け取ったで。そっこー直ちゃんに届けたるさかい安心せぇや。あ、もちろん盗み読みなんぞ悪趣味な真似せんから」
 とってつけたように言い、顔の前で慌しく手を振る。
 オーバーリアクションの道化を見詰めるサムライの顔には苦悩と疲労が滲んでいる。寄らば斬るぞとささくれだった空気を漂わせたサムライは食堂でもどこでも浮いている。静流の暴挙と鍵屋崎の入院がもたらした心痛は予想以上に大きかったらしい。
 とくに鍵屋崎の怪我に多大な責任を感じてるらしく、目にはどこか後ろめたい色がある。
 「……直は元気か」 
 暗い目を伏せる。
 ヨンイルは肩を竦める。
 「そりゃもう。最近じゃ自分でベッドに起き上がれるようになって『入院食がまずい、原料は粟とひえか』て毎日ゴネとる。直ちゃんが快適な入院生活送れるよう俺もあんじょう努力しとる、お前がいのうても不自由せんから安心しィ」
 「…………そうか」
 『お前がいのうても』を強調され、サムライが複雑な表情を浮かべる。残念なような、当てが外れたような、そう思ってしまう自分を戒めるような。
 ほんの一瞬サムライの面を覆った幻滅の色は、陽気な笑い声に吹き飛ばされる。
 「直ちゃんに必要にされへんでがっかりした?」
 「何?」
 サムライが気色ばむ。すっと目を細めたサムライから不穏な気配が立ち上る。
 「これじゃどっちがぞっこん惚れとるんだかわからん。サムライ、あんた実は嫉妬深いやろ。四六時中直ちゃんにべったりひっついて悪い虫つかんよう見張ってへんと不安なんやろ。ベッドで寝たきりの直ちゃんに誰かが悪させえへんかって毎晩気ィ揉んどるんやろ。そのカオは図星やな?」
 意地悪い笑みを浮かべてぐっと身を乗り出し、サムライの顔を間近で覗き込む。
 サムライは反論しない、否定しない。
 武士に二言はないと体現するが如く仄かに頬を上気させている。
 あきれた。
 初恋に悩む中学生かよ?ウブで奥手にもほどがある。
 「直ちゃんのことなら心配すな。お前がそばにいられん分は道化がちゃあんと守ったる。西のトップが睨み利かせてれば貞操安泰や」
 ヨンイルが頭の後ろで手を組み、サムライからすっと離れる。
 「惚れた弱味、か」
 不安か葛藤か、もしくはその両方をごまかすための無意識にゴーグルをさすりつつ、苦味の勝った笑みを上らせる。
 「損な役回りやなあ、俺。逢瀬もままならぬロミオとジュリエットのために伝書鳩ならぬ伝書ヨンイル買って出て、ホンマ物好き。自分でもほとほとあきれてまう」
 「かたじけない」
 サムライが頭を下げる。
 不器用なサムライはこれしか感謝を表す術を思いつかなかったらしい。
 「このあいだのことといい、お前には口では言い表せんくらい感謝している。この恩はきっと返す」
 こないだのこと?ビバリーと顔を見合わせる。
 こないだの事が何を指すかわからず困惑する僕らをよそにサムライはいつになく饒舌に、ヨンイルに対し最大限の感謝と礼を伝えようと切羽詰った口調で続ける。
 「お前が見張りを引き付けてくれねば医務室に忍び込むなど不可能だった。お前が陽動してくれたおかげで俺は上手く医務室に忍び込むことができた。幸い医師にはばれなかった、あの老爺はぐっすり眠りこけていたからな」
 ぐうすか鼾をかく医者でも思い出したのか、サムライの顔が和む。
 「すべてお前の助力あってこそだ、ヨンイル。お前の助力がなくば夢にまで見た直との逢瀬は叶わなかった。いや、逢瀬の件だけではない。直に会うのを禁じられている俺から文を預かり毎度届けてくれる、直と俺の絆を繋いでくれる……」

 サムライが毅然と顔を上げ、真っ直ぐヨンイルを見詰める。
 嘘偽りのない、澄み切った目。

 「お前は恩人だ、ヨンイル。俺と直の、俺たち二人の恩人だ」
 一振りの刃の如く曇りなく澄み切った切れ味を誇る、サムライはそんな男だ。
 サムライの言葉と心はいつも真っ直ぐで、あまりにも真っ直ぐで、それ故自覚なく人を傷つけることがままある。今この時もそうだ。僕にはわかった。見逃さなかった、ヨンイルの顔に浮かんだ一瞬の苦悩を。おそらくヨンイル自身すら気付いてない、サムライに対する嫉妬を。
 「くっさい台詞。時代遅れもええとこや」
 ヨンイルがぐっとゴーグルを押し下げて目を隠し、笑いで表情をごまかす。ゴーグルで目を覆ったのは表情を見られたくないから、本音を知られたくないから。
 おどけた仕草で肩を竦め、どこか空々しく響く底抜けに明るい声でヨンイルが主張する。
 「俺はただ直ちゃんの手塚トモダチとして出来るだけのことやっとるだけや、お前が恩に着ることない。あ、さっきのは嘘。直ちゃんが別にお前に会いたがってないなんて大嘘や、メシ食いながら本読みながらぼうっとしとるけどアレ多分お前んこと考えとるんやろな、次はいつお前が会いにきてくれるか手紙が来るかてそればっか考えてお手手が留守になっとんのや。魂ごとどっか持ってかれたみたいに」
 「俺とて同じだ。心は常に直で占められている」
 ヨンイルが滑稽に口笛を吹く。
 サムライがますます赤くなる。
 口にしたそばから後悔するサムライ、その肩にぽんと手を置いてヨンイルが苦笑する。
 「妬けるなあ、ホンマ」 
 僕は見た、ヨンイルの手に力が込められるのを。サムライの肩を掴んだ指が強張り、口元の笑みが薄まる。
 苦痛に呻くサムライの耳元に顔を運び、顔を斜めに傾げ、囁く。
 「……直を不幸にしたら許さん」
 背筋が寒くなる真剣な表情だった。
 張り詰めた空気が廊下を包む。
 壁の向こう、一直線に伸びた廊下で対峙したサムライとヨンイルはお互い一歩も引かずに目の奥の表情を探り合っている。
 先に声を発したのは、サムライだった。
 「心得ている」
 ヨンイルの手を肩から引き剥がし、重々しく頷く。
 ヨンイルはしばらく疑わしげにサムライを探り見ていたが、やがて納得したように頷き、打って変わって調子よく手をひらひらさせる。
 「さよか。ならええわ、俺が手出し口出しすることちゃうしお前に全部任せよやないか。直ちゃんはお前にぞっこんべた惚れて他の男がちょっかいかけてもなびかんし、お前はお前で直ちゃん以外は見えへん恋は盲目病にかかっとる。お似合いや」
 ヨンイルに茶化されたサムライが何か言いかけ口を開き、また閉じる。
 話は済んだ。ヨンイルがこっちにやってくる。
 やばい!
 ビバリーと一緒に奥に逃げ込む。隅っこで頭を抱え込んだ僕らの背後を軽快な靴音が通り過ぎていく……
 「そこの赤毛とちびくろサンボ」
 「ちびくろ!?」
 ビバリーがバッと顔を上げる。
 「!ばかっ、」
 慌ててビバリーを止めたが時遅く、ヨンイルが寄ってくる。
 「今の話ナイショやで。安田が放った見張りにバレたら面倒くさいことになるさかい、な」
 「それだけ?」
 バレちゃったらしょうがないと開き直る。
 解せない風情のヨンイルに両手を広げてみせる。
 「サムライにやきもち焼いてるなんて西のヤツらにバレたら道化の面目丸つぶれだもんね」
 「リョウさん!」
 ビバリーが僕の口を塞ぐのとヨンイルが爆笑するのは同時だった。
 縺れ合って床に伏せた僕とビバリーの鼻先、ヨンイルが腹を抱えて哄笑している。
 「ははははははっはははは、あかん、俺にもレイジの笑い上戸が伝染ってもうたみたいやわ!あははははっ、お前妄想激しいな!俺がサムライにやきもち?アホ言いな、二次元でしか勃たんて評判のオタクがサムライにやきもち焼いてどないすんねん気っ色わるい!俺はただ大事な手塚トモダチ失いたくないだけや、ブラックジャックの実年齢とかピノコとメルモの共通点とかサファイアは亜麻色の乙女派かリボンの騎士派か言い争える相手を失いたくないだけや!俺を暇させんためにも直ちゃんには一日もはよぅ元気になってもらわなあかんねん」
 わざわざゴーグルを押し上げて目尻の涙を拭い、きっぱりと言い切る。
 「ゲスな勘ぐりすなよ。俺は一生童貞貫き通すてあの世のじっちゃんに誓っとんのじゃ、いまさら初恋に目覚めてたまるか」 
 言うだけ言ってくるり踵を返し、医務室の方角へ去っていく。
 ビバリーはぽかんと口を開けた。
 僕もぽかんと口を開けた。自覚がない初恋って恐ろしい。視線の先でくるり角を曲がったヨンイルが「直ちゃーん、見舞いにきたでー」と大声を上げる。ビバリーはどちらともなく顔を見合わせ肩を竦める。
 「強敵出現か。三角関係が四角関係になるとはね」
 「複雑っス」
 いつのまにかサムライは消えていた。全く神出鬼没だ。
 ……何となく面白くない。どいつもこいつも見る目がない、なんだってあの可愛げない親殺しばっかちやほやされるのか理解に苦しむ。
 「あーっ、むかつく!サムライもヨンイルも趣味悪いよ、相手は極悪非道の親殺しだよ、人を見下した物言いの自称天才だよ?あんなヤツのどこが……」
 その時だ。
 「た、大変だ!静流が脱走した!」
 全身の血が凍り付く。
 廊下を全速力で走ってきた囚人が、すれ違うヤツを片っ端から掴まえて喚き散らす。
 「静流?だれだよそれ」
 「ばかっ、もう忘れたのかよ!?一ヶ月前に柿沼殺して親殺しをぶすりとヤったサムライのいとこだよ、アイツが独居房脱走したんだよ!ほら、なんだっけ……イエローワークの温室担当の看守がいたろ?身長140センチ台のガキにしか興味ねえ変態の」
 「曽根崎?」
 「そう、そねちー!アイツが独居房の餌やり係だったんだけど、独居房に配膳に行ってから帰ってこねえんで同僚が心配になって見に来たら……ああ、思い出しただけで気分悪いぜ畜生!俺もたった今野次馬にまざって事件現場見に行ったんだけど、静流がいた独居房はもぬけの殻でイチモツ出しっぱなしにした曽根崎が口から泡噴いて倒れてて……そのイチモツが……」
 大袈裟な身振り手振りを交えてふれまわる囚人、そのまわりに瞬く間に人垣ができる。 
 大口開けてガリっと歯を噛み合わせる囚人、それが意味するところを悟った野次馬たちがどよめく。
 「やっちまったのか」
 「悲惨だなー。そりゃもう使いもんになんねーだろ」
 「で、静流は捕まったのか?」
 「行方不明だってよ。看守総出で捜してるけどなにぶん隠れる場所多いから……」
 「リョウさん、大丈夫っスか?」
 ビバリーの心配げな声を聞く。足元がふらつき、よろめく。
 ビバリーが僕を支える。ビバリーに縋って何とか体を起こした僕の頭の中に独居房の惨状がありあり浮かぶ。
 もぬけの殻の独居房、糞尿まみれの床に全裸で倒れた曽根崎、眼球がぐるり裏返って口角からぶくぶく泡を噴いて手足が不規則に痙攣して……無残に噛み千切られたペニス、床に吐き捨てられた赤黒い肉塊……

 僕がしゃぶったぺニス。

 「おえっ、」
 我慢できない。
 喉元に猛烈な吐き気が込み上げて、気付けばビバリーの上着に今朝食べた物をぶちまけていた。
 ビバリーがぎょっとする。
 無意識にあとじさるビバリーの服を両手で掴み、口の端から胃液の糸引き激しく咳き込む。 
 「リョウさん大丈夫っスか、気分悪いならすぐそこの医務室行きましょうよ!あ、でもこの格好で中に入るのまずいかも……どどどどうしましょ、医者は綺麗好きだって言うしせめて上着だけでも洗っといたほうがいいっスかね、あれ蛇口、蛇口は……」
 取り乱したビバリーの背後から看守が押し寄せる。
 静流脱走の知らせを受けて捜索に駆り出された看守が「そこのけそこのけ囚人ども、看守さまのお通りだ」と警棒を打ち振るい通路に散らばった囚人を片っ端から叩きのめす。
 「どけ黒んぼ、道を塞ぐな!」
 「ビバリー!」
 むなしく手を伸ばした僕の先、先頭の看守に突き飛ばされたビバリーが壁に衝突、後頭部を強打してずり落ちる。
 正体なくして壁に凭れたビバリーに駆け寄ろうとして、鼻息荒く突進してきた看守の集団に跳ね飛ばされる。
 衝撃で床に転げる。
 天井と床がめまぐるしく入れ替わる。
 床に打ち付けた全身に鈍い痛みを感じる。吐いた直後に床を転げたせいで気分は最悪、眩暈ですぐさま立ち上がれない。
 ぐんにゃり床に伸びた僕の体を、誰かがひきずる。
 ビバリーだ。それ以外考えられない。
 僕が跳ね飛ばされたのを目撃して助けに来てくれたんだ。

 「さんきゅ、ビバリー……」
 「どういたしまして、共犯者」

 唐突に視界が翳る。
 裏通路に引きずり込まれたのだと思った時には既に遅く、口に手が被さる。
 この声、聞き覚えがある。
 人に命令するのに慣れた声、人に傅かれるのに慣れた声……
 静流の、声。
 「~~~~~~~~~~~!!」
 声にならない絶叫を放ち、狂ったように身を捩るも背後から僕を抱きしめる腕の力は強く、びくともしない。
 振り返らなくてもわかる、確信がある。
 僕の背後、裏通路の暗がりに潜んでいるのは……
 一ヶ月前に柿沼を殺して鍵屋崎に重傷を追わせた犯人、帯刀静流。
 押し殺した息遣いを耳の裏側に感じる。
 背中に密着した体から性急な鼓動が伝わる。
 「振り向かないで」
 鋭い囁きが耳朶を射る。直後、恥じらうような風情を孕んだ声音が耳朶をくすぐる。
 「僕、困ってるんだ。こんな格好で出歩いたら目立ってしまう。だから、ね……」
 静流がゆっくりと僕の体をまさぐる。
 慣れた手つきで上着の裾をめくり、下腹を揉みしぼる。
 その手の感触が静流に犯された夜の忌まわしい記憶を喚起看守が覆い被さりマワされて上の口も下の口も犯されて体液でべとべとに汚れて髪がへばりついて暗闇にひとりぼっち
 いやだもうあんなのはいやだ暗闇怖いひとりは怖い助けてビバリー助けて助けて
 「君の服、頂戴」
 耳朶を食み、歯を立てる。
 愛撫の手が激しくなる。
 僕はそれどころじゃないあの夜の記憶がまざまざ蘇って恐怖で硬直理性が蒸発、ああまた静流に捕まっちゃった今度こそおしまいだ僕も柿沼の二の舞になる始末される殺されるママに会う前にママ
 「あげ、るから。ころさない、で」
 縺れた舌を叱咤、たどたどしく言葉を紡ぐ。
 思考の洪水が脳裏に殺到、心臓の鼓動が高鳴り全身の血管が脈動し虚空に据えた目から勝手に涙が溢れる。
 ああ、殺される。間違いなく殺される。
 静流はためらいなく人を殺す、僕さえ比べ物にならない非情さで利用価値のなくなった人間に見切りをつける。こんな所で死ぬなんていやだ、生きてここを出てママに会うって約束したのにこんな所でこんなヤツに殺されちゃうなんて僕の人生って一体……
 「もうひとつお願いがあるんだ」
 「え?」
 だから、静流のこの言葉は意外だった。
 虚を衝かれた僕の体をまさぐり、乳首をいじり、多情の白蛇めいた淫猥さでズボンの内側へと手を這わせる。
 「欲しい物があるんだ。君なら簡単に用意できる」
 「はっあ……ふく、」
 下着の中に冷たい手が滑り込む。華奢な五指がペニスに纏わり付いてゆるゆると撫で出す。腰から下が快感に蕩ける。
 床に膝をついた僕の体を貪り尽くし精気を搾り上げ、うっそりと勝ち誇る。
 「お願い聞いてくれるね」
 拒否権はなかった。
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