少年プリズン

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三百四十九話

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 『くそっ、よくも柿沼を……おいしっかりしろ柿沼、柿沼!駄目だ死んでやがる、ああなんだってこんなことに……』
 『さんざんよくしてやった恩忘れてとち狂いやがって静流、看守に逆らったらどうなるか思い知らせてやる!一生死ぬまで独居房にぶち込んで飼い殺してやる、喉にクソ詰めて発狂したほうがマシな思いさせてやるっ!手足切り落として目ん玉抉り出して歯あ一本残らず引っこ抜いて糞まみれの独居房に閉じ込めてやる!』
 看守を殺害した囚人に東京プリズンで生き残る術はない。
 独居房に収監されてから何日何週間経ったのか判然としない。
 頑丈な鉄扉で外界と遮断された闇の中、静流は生ける屍と化した。ただその目だけが妄執に取り憑かれて爛々と輝いていた。頬が削げ落ちて眼窩が落ち窪んで人相が変わった。それでも目の異様な輝きだけは失われず、毒蛇の吐息の如く全身から瘴気が噴き上がる。
 かつての静流を知るもの、たとえば柿沼が今の自分を見たら愕然としただろう。
 かつての穏やかな少年は今やどこにもいない。
 ひび割れた唇から漏れるのは呪詛を煮詰めた呟き。
 「まだだよ、姉さん。まだ終わらない」
 そうだ、まだ復讐は終わらない。この手で帯刀貢との因縁を断ち切るまで復讐は終わらない、この手で復讐を成し遂げねば意味がない。自分が東京プリズンに来た唯一にして至上の目的、それは帯刀貢の殺害。帯刀家に災いを招き滅びに至らしめた男への復讐。母と姉に託された想いを無駄にしてはならない、絶対に。母と姉は無念のうちに死んでいった。帯刀分家の当主として気高く誇り高く生きた母、美しく優しい姉の末路を慟哭の内に目に焼き付け、刀を引っさげて修羅へと身を堕とした帯刀分家の嫡男は、凍て付いた暗闇で目を閉じる。

 思い出す。
 暗く冥い闇の底で。

 『助けて、誰か!』
 『当主と薫流さんが死んでいる、斬り殺されている!』
 『皆逃げろ、屋敷を出ろ、ぐずぐずしていたら殺されるぞ!』
 女の悲鳴が聞こえる。男の断末魔が聞こえる。
 屋敷中を老若男女の使用人が逃げ惑う。母と姉を斬殺したその足で薄暗い廊下を歩く。一歩踏み出す毎に朽ちた軋み音をあげる板張りの廊下を優雅な足捌きで歩く。
 切っ先を下げた刀から鮮血が滴り、廊下に斑を作る。
 静流はゆっくりと余裕ある物腰で廊下を突き進み、逃げ遅れた女中の背中に日本刀を振り上げた。まだ若い女中だった。雇われて日も浅く、殆ど言葉を交わしたことがない。しかし一度だけ肌を重ねたことがあった。誘ったのは自分だ。
 実姉への恋情を断ち切るために屋敷の使用人と老若男女問わず片端から関係を持っていた静流は、それでも躊躇なくかつて肌を合わせた女に刀を振り上げた。
 女中が振り向いた。驚愕に強張った顔、絶望に凍り付いた目。
 廊下の真ん中に腰砕けにへたりこみ、尻であとじさり、呟く。
 『静流さんどうし、』
 最後まで言わせず袈裟懸けに斬り捨てた。女中が血を吐いた。あっけない最期だった。静流は何も感じなかった。憐憫も悲哀も、何も。

 そんな物感じてはいけない。
 いやしくも帯刀分家の嫡男として生を受け、幼少のみぎりより厳しい修行を課されてきたのだから。
 それは多分、心を殺す訓練。
 己を飼い慣らす訓練。
 生きながら修羅となる訓練。

 今の自分に怖い物はない、失う物など何もない。
 自分にはもう何もない。たった今、この手で母と姉を殺してきた。病み衰えた母の体を貫いて誰より愛しく美しい姉の胸を刺してきたのだ。
 手にはまだ姉を刺し貫いた感触が残っている。
 刀の切っ先が胸に沈む感触、刃が骨を断ち肉を穿つ独特の手ごたえ。
 ああ、姉さん。
 『帯刀家嫡男、帯刀静流が参る』 
 姉さんを殺した僕なら、きっと世界中の人間を殺せる。大した意味も理由もなく殺せる。だって僕には姉さんしか必要じゃなかったんだから、姉さんしか大事じゃなかったんだから、姉さんがいないこの世でどれだけ多くの罪もない人間たちを屠ろうが構いやしない。何故ならこれから僕が殺すのは姉さんじゃないから、僕に斬られて苦痛を味わうのは姉さんじゃないからだ。
 母さんも帯刀家も、本当はどうでもよかった。
 否、どうでも良くはない。母さんも帯刀家も大事ではあった。けれども姉さんに比べればどうでも良い瑣末事だった。僕はただ姉さんの幸せだけを望んでいた、姉さんを幸せにするためならどんな手段も厭わなかった。
 だけど、姉さんはもういない。
 『これより僕の行く手に立ち憚る者には、帯刀貢に漕ぎ着ける人柱となってもらう』 
 女中の体が屑折れる。女中は極限まで目を剥き絶命していた。三人目の人柱。まだ足りない、まだまだ足りない。帯刀貢に辿り着くにはまだまだ足りない、まだまだ屍を積み上げて修羅の道を征かなくては帯刀貢に邂逅できない。
 この国の法律は『ぬるい』。
 今や数少なくなった生粋の日本人にとても甘い。一人二人殺したところで法律に守られて最高二十年の懲役刑にしかならない。それでは駄目だ。帯刀貢は師範の実父含む道場の門下生十二人を斬殺して悪名高い刑務所に送られた、東の砂漠の真ん中に建つと言われる鉄壁の牢獄だ。

 『一人二人で足りないならば、三人四人と殺せばいい。
 三人四人で足りないならば、五人六人と殺せばいい』
 奇妙な節を付けた唄を口ずさみ、床板を軋ませ廊下を歩く。

 『狂っている……!』
 『静流さんが狂ってしまった、おかしくなってしまった!』
 使用人の悲鳴が飛び交う中、静流だけが不思議と冷めた心地でいた。心は凪のように穏やかだった。あるいは麻痺しているのかもしれない。
 姉を殺した時から何かが狂ってしまった。
 『母さんと姉さんが望んだのは、帯刀家を滅ぼした男への復讐だ』 
 ならば必ず成し遂げてみせる、自分にはもうそれしか残されていない。宿命?運命?違う。これは決意。僕自身の選択。
 帯刀貢への復讐を成し遂げるためなら他の全てを犠牲にしてみせる。 人を殺せ。できるだけ沢山の人を、目に付いた人間を片端から。
 逃げ遅れた人間は運が悪い、要領が悪い。
 足縺れさせ逃げ惑う使用人、その背後に衣擦れの音もなく忍び寄り刀を振り下ろす。ざくりと肉が爆ぜ、血飛沫が飛び散る。
 手当たり次第に使用人を斬り付ける、老若男女問わず逃げ遅れた使用人に一太刀浴びせて盛大に血を噴かせる。
 年配の使用人が尻餅を付き、全身返り血で朱に染まった静流からあとじさる。
 皺深い顔を恐怖に歪め、一杯に見開いた目に涙を湛え、必死に懇願する。

 『静流さん見逃してください、頼むからっ……あんたが小さい頃から帯刀家に仕えてきたってのにこの仕打ちはあんまりだ、恩を仇で返すようなもんじゃないか!ほら、思い出してください!あんたが小さい頃ご当主に叱られて泣いて時、おぶってあやしてあげたのはこの俺だ!あんただって俺に懐いてたじゃないか、あんたたち姉弟とよく一緒に遊んでやったじゃないか!だから俺は俺だけは見逃してくれ、殺すなら他の連中にしてくれ!ほら、あっちの婆なんかどうだ?口うるせえ古株で屋敷の人間から嫌われていた、どうせ老い先短い身だ、一太刀でラクに殺してもらえるなら願ったり叶ったり……』
 迫り来る死の恐怖から今しも廊下の先で転んだ老婆を指さし、ここぞと唾を飛ばす。
 生き汚く命乞いする男の正面に立ち止まり、微笑む。
 誰もが目を奪われずにはいられない、澄み切った微笑。
 『人柱に年は関係ない。冥府を下見してきてよ』

 男の顔が引き歪み、崩れ、口腔が開く。

 いちかばちか男が身を翻す。
 鋭く呼気を吐き刀を構え直す。
 凶刃一閃、無防備に晒した背中を斬り裂かれた男が野太い断末魔を上げる。血の飛沫が梁にかかる。背中をざっくり抉られた男がうつ伏せに倒れる。その亡骸を無関心に一瞥、口元に薄っすら笑みを浮かべる。
 むせ返るような血の匂いに酔い痴れ歩く、貫禄ある梁に支えられた薄暗い廊下を恐れるものなく突き進む。
 母と姉と使用人の亡骸を踏み越えて、血飛沫と一緒に殺戮を撒き散らす顔には空虚な笑みが浮かんでいる。
 肉を穿ち骨を断つ手ごたえが日本刀に伝わる。
 混乱を来たした使用人は乱心した静流に怯えるばかりで冷静な判断ができなくなっている。
 血と脂でぎらつく刃を飛燕の如く閃かせ、片端から使用人を屠り、返り血で化粧を施した凄艶な姿に誰もが圧倒される。
 恐怖。戦慄。
 大勢で飛びかかり取り押さえる発想などはなからない。
 屋敷の使用人は静流の剣の腕前を熟知している。本家嫡男と比べらて軽んじられることも多かった静流も決して剣技が劣っているわけではなく、むしろその腕前は十分すぎるほど脅威に値する。
 一度刀を抜いた静流を止めることは不可能。
 屋敷の使用人はそれをよく知っている。
 だから皆必死に逃げる、はしたなく着物の裾を翻し足袋で床を蹴りこけつまろびつ必死に逃げる。狂っている、狂っている……使用人が叫ぶ、滂沱の涙を流しながら。それでも静流の笑みは消えない。限りなく無表情に近い笑み。
 屍を積み上げて、罪業を積み上げて。
 そうして憎き帯刀貢のもとに辿り着けるなら、本望だ。
 それが姉さんの望みなら………

 『最期に本当の事を言うわ。
    を  してる』

 自分の腕の中で息絶えた薫流。
 静流は姉の最期を見届けた。自らの手で殺した姉の最期を瞬き一つせず見届けた。薫流は真実を言った。どうしても言わずにいられなかった言葉を、長らく胸に秘め続けた真実を血泡と一緒に吐き出した。
 そして、静流は壊れた。
 あまりに残酷な薫流の遺言が、静流を正気の瀬戸際から突き落とした。
 薫流の秘めたる想いを知り、決して報われぬ恋情を知った。
 あの梅雨の日。
 紫陽花が咲く本家の庭で落ち合った薫流は、道場の隅にて寄り添う貢と苗をじっと見詰めていた。
 だから勘違いした、薫流の心の内を。
 薫流の胸に燻る火の正体を。
 『最期に本当の事を言うわ』
 本当の事。静流が遂に気付かなかった本当の事、薫流の想い人の正体。
 それは―――……

 『お辛そうですね、静流さんは』 
 懐かしい声が呼び水となり、記憶が蘇る。
 丹精された庭に女が一人佇んでいる。
 紫陽花の葉陰に膝を揃えてしゃがみこみ、優しげな笑みを浮かべた女は……苗。帯刀貢の恋人で静流の幼馴染、帯刀家の遠縁にあたる心優しき盲目の女。
 『僕が辛そうだって?どうして?』 
 あれはいつだったか、母と姉を屋敷に置いて本家に出かけたことがある。その頃静流は母と姉の目を盗み度々本家に通っていた。
 理由は莞爾に呼び出されたから。莞爾が居丈高に静流を呼び付ける用向きは唯一つ、貢と苗の仲を裂くのに分家の嫡男を利用するため。貢と苗の古くからの顔見知りであり数少ない同年代の友人でもあった静流は、貢と苗を引き裂く良い知恵はないかと莞爾に相談されていた。
 苗と会ったのはその帰り。
 莞爾との息詰まる会話を終えた静流は、あてもなく本家の庭を散策していた。
 そして苗と出会った。
 目が見えない苗は、しかし一瞬で静流の心の内を悟った。
 『なんとなくですけど……なんだか空気が重いから気になって。悩み事でもあるんですか。また薫流さんと喧嘩したの?』
 幼い頃一緒に遊んだ苗は、美しく成長した今でも面倒見良く静流に接する。
 『薫流姉さんは相変わらずさ。姉さんは我侭でしたたかで意地悪で、小さい頃から何も変わってないよ』
 『良かった、薫流さんがお元気そうで』   
 苗が微笑む。後ろで一つに結った黒髪が背中で揺れる。
 『薫流さんと静流さんはいつまでも仲が良くて羨ましい。恋人同士みたいなご姉弟ね』
 『本当の恋人同士になれたらどんなにいいか』
 『え?』
 小さな呟きを聞きとがめ、苗が顔を上げる。不思議そうな苗を見詰めるうちに意地悪をしたくなる。
 紫陽花の茂みに寄りかかり、皮肉に口角を吊り上げる。
 『苗さんと貢くんが羨ましい。お互い大事にしあってることがよくわかる理想の恋人同士だ。ね、貢くんとはもう寝たの?』
 苗が紅潮する。伏目がちの目が潤み、襟を合わせた着物の胸元から清冽な色香が匂い立つ。羞恥に頬を染めて俯く苗、その初々しくも艶めかしい仕草が全てを物語る。
 直截な問いかけに狼狽する苗の隣、静流の目の温度が冷えていく。
 紫陽花に手を伸ばし、茎を手折る。
 ぱきん、小気味良く乾いた音が鳴る。
 『静流さん?』
 物思いから醒めた苗が不安げに目を彷徨わせる。
 静流は無視して紫陽花を手折り、惜しげもなく捨てる。足元に捨てた紫陽花を踏みにじる。胸の内をどす黒い感情が蝕んでいく。
 苗と貢は結ばれた。苗と貢は幸福だ。
 汚らわしい。なんて汚らわしいんだ、実の姉弟のくせに。血の繋がった姉弟で睦み合うなんて犬畜生にも劣る行いじゃないか。たとえ本人たちが知らないとはいえ許されざる行いじゃない、帯刀貢と苗はそうと知らず禁忌を犯していずれは伴侶として結ばれる将来を夢見ている。
 暗い炎が胸の内に揺らめく。嫉妬。何故貢ばかりが恵まれているのか、幸せになることを許されるのか。
 同じ姉弟でありながら片方は互いに想い合い、片方は決して報われぬ想いを胸に秘めて。
 『不公平だ』 
 そうだ、不公平だ。帯刀貢だけ幸せになるなど許さない。同じ帯刀家の末裔なのにこんなに何もかも違っていいはずがない。
 追い詰めてやる。引き裂いてやる。僕と同じ絶望を味あわせてやる。
 『苗さんは一途な人だ。本当に心の底から貢くんが好きなんだね。あんな面白みのない男のどこにそんなに惚れているのか僕には全くわからない。帯刀貢はつまらない男だ。剣以外に取り得がなく女を悦ばせる術もろくに知らない、無愛想でとっつきにくくて同じ師範の下で学ぶ門下生にも嫌われている。そうだ、さっき道場の前を通りかかった際に偶然耳に入ったんだけど』
 帯刀貢を不幸にする近道は、苗を不幸にすることだ。
 沸々と込み上げる笑みを抑えきれず、親切ごかして不安を煽り立てる。
 『道場の門下生が貢くんを襲う計画を立ててるらしい。手足の一本や二本折ってしまおう、いや、二度と剣が握れないよう酷く痛めつけてやろうって息巻いてたよ。よっぽど貢くんの態度が腹に据えかねたみたい。気持ちはわかる。貢くんはなかなか周囲に打ち解けないからお高くとまってるように見えるんだ、剣の腕が劣る連中を見下してると誤解されるんだ。自業自得さ。せめてもう少し愛想良くしてれば』
 『本当ですか!?』
 口元を両手で覆い立ち上がり、顔面蒼白の苗が叫ぶ。
 一杯に見開いた目に恐怖が凝る。愛する人が二度と剣を握れなくなるかもしれない、酷く痛めつけられるかもしれない、取り返しのつかないことになるかもしれない。
 唇をわななかせて自分に縋り付いた苗にスッと目を細め、言葉を続ける。
 『本当だとも。嘘だと思うなら道場に行ってみればいい、門下生が居残ってるはずだから。どうする苗さん?早くしないと手遅れになるよ。貢くんが二度と剣を握れなくなったら莞爾さんはさぞかし嘆き哀しむだろうね、いや、誰より貢くん本人がいちばん哀しむだろうね。絶望のあまり切腹しちゃうかもしれない。ははっ、見ものだね』
 苗はすでに静流の言葉など聞いていない。青ざめた顔に決意の表情を浮かべ、口元を引き結ぶ。
 『……私、行きます。門下生の方々を止めてきます。きちんと話せばわかってくださるわ』
 一呼吸おき、真っ直ぐに静流の目を覗き込む。
 刹那、静流は苗の目に魅入られた。
 視力を失った目が何故これほどまでに澄んでいるのか、不思議に思わずにはいられない漆黒の瞳。
 小揺るぎもしない瞳でひたと静流を見据え、微笑む。
 『だって貢さんは、本当は優しい人ですもの』
 言うなり苗は駆け出した。着物の裾をしどけなく翻し、道場の方へと一散に駆けていく。背中で一つに結った黒髪が揺れ、仄かに色香匂い立つうなじが覗く。着物の裾が風を孕んで舞い上がり、目に痛い程白いふくらはぎがあらわとなる。
 苗は善良な女だ。相手がどんな人間でも真剣に話し合えばわかりあえると信じて疑わない。人が良いと言ってしまえばそれまでだが、結局はそのひたむきさが命取りとなった。

 『はっ、ははははははっははははははっははっははっ!!』

 いい気味だ。ざまを見ろ。
 苗が走り去った庭に一人、誰憚ることなく勝ち誇った哄笑をあげる。
 もう見えなくなった苗の背中に向け、口汚く罵詈雑言を吐く。
 『いい気味だよ帯刀苗、あんたは本当に優しく愚かな女だ、自分がどんな目に遭わされるかも知らないで恋人を救うために敵地のど真ん中に飛び込んでいく救いがたいお人よしめ!いいさ、門下生にかわるがわる犯されて汚されて滅茶苦茶になるがいい!愛する男を庇って汚れるなら本望でしょう苗さん、腹違いの姉弟で睦み合った汚らわしい畜生どもにはお似合いの末路さ、二人揃って不幸になればいい!』
 いつのまにか笑みは消え、醜く引き歪んだ表情が顔一杯に貼り付いた。もういない苗を罵倒し侮辱しそれでもまだ気が済まず紫陽花の茂みを力一杯薙ぎ払う、いつか姉と一緒に見た紫陽花の株に腕を叩き付けて茎をへし折り泥にまみれさせる。
 『は、はは………』   
 閉じた瞼の裏に苗の背中が浮かぶ。姉の笑顔が浮かぶ。
 どうして帯刀貢ばかりが愛される?どうして僕は望んだ愛情を貰えない?
 ひどく、虚しい。
 膝が萎え、地べたに両手を付いて崩れ落ちる。
 豊かな前髪が表情を隠す。肩で息をしながら考える、何故帯刀貢ばかりが人を惹き付けるのかその理由を。彼は天才で、僕は努力の人。彼は優しく正しく、僕は酷く邪だ。僕が捻くれたのは誰のせいだ?
 物心ついた頃からずっと本家の長男と比べられ貶められてきた、人格を否定され続けた。僕は絶対に帯刀貢にかなわない。分家は本家の引き立て役、生涯日陰の存在だ。
 けれども僕は帯刀貢に追いつきたかった。
 帯刀貢の才能を羨み、血の滲むような努力を重ねた。

 母さんに認められたい一心で。
 姉さんを喜ばせたい一心で。

 『姉さん…………』
 地面を掻き毟り、五指に土を掴む。喉の奥で嗚咽が泡立つ。前髪の垂れた目から水滴が零れ落ちる。土に涙が沁みていく。
 『畜生でいい。僕は姉さんを、薫流を』
 姉ではなく。
 弟ではなく。
 血のしがらみにとらわれず互いの為だけに生きれたら、どれだけ素晴らしいだろう。  
 貢と苗のように自分たちが姉弟であることを知らず無垢に愛し合えるなら、喜んで帯刀の名を捨てるのに。

 ………………長い長い回想から目覚め、凍て付いた暗闇の底で密やかに息を吹き返す。
 独居房に入れられてから何日何週間経ったのか判然としない。
 一日二回、鉄扉の下部に設けられた搬入口から残飯が出し入れされるのを除けば光が射すこともない房の中、頭の先からつま先まで自身の糞尿と吐寫物にまみれ、浅いまどろみと覚醒を繰り返し朦朧と日々を過ごす。
 生きているのか死んでいるのか自分でも時々怪しくなる。
 とりあえず呼吸はしている、心臓の鼓動も感じる。手足の感覚は殆どない。後ろ手に掛けられた手錠が手首に食い込んで痛い。この姿勢では寝返りも打てない。まるで芋虫だ、と静流は自らを嘲笑する。
 「………まだ終わらない。僕は生きている。彼も生きている」
 そう、僕と彼が生きている限り復讐は終わらない。
 どちらか一方が死なない限り復讐は終わらない。帯刀の血を継ぐ者が二人、家が絶えてもしぶとく生き続ける限り呪縛はとけない。悪臭立ち込める独居房にて、汚物まみれの床に腹這いになり、日ごと膨らむ帯刀貢への妄執に取り憑かれ落ち窪んだ眼窩を光らせる。
 静流にはわかる。体に流れる帯刀の血が教える。
 いずれこの鉄扉が開き、帯刀貢と剣を交える時が訪れる。
 決着をつける時が来る。
 「………………来た」
 掠れ声で呟き、顎を持ち上げる。
 分厚い鉄扉の向こう、廊下に響く靴音。
 誰かがこちらにやってくる、静流が閉じ込められた独居房めざして歩いてくる。誰だか察しはついた。静流は笑みを湛えて待ち人の到着を待つ。鉄扉の前で靴音が止み、透明な静寂が被さる。
 一枚の鉄扉を隔て、宿敵と対峙する。
 「ようこそ貢くん。会いにきてくれて嬉しいよ」
 「………………」
 返されたのは重い沈黙。
 鉄扉の向こうに凝然と立ち竦んだ男の顔を思い浮かべ、脇腹をくすぐられてるかのような笑いの発作に襲われる。
 鉄扉の向こう側、苦渋の面持ちで俯いてるに違いない男へと笑いを噛み殺して声をかける。
 「直くん死んだ?」
 「生きている」
 怒りを押し殺した声が空気を伝わる。
 静流は「へえ」と感心してみせる。
 「凄い生命力。頼りない見た目してるくせに案外しぶといんだ、彼。見直したよ。随分深く脇腹を刺したのに死に損なうなんて、運がいいんだか悪いんだかわからないね。こんな所で長生きしたっていいことなんか何もないのにそこまで生に執着する意味がわからない。残念だよ。一突きでらくに殺してあげようと思ったのに、かえって苦しませちゃったみたいで」
 「…………」
 「今度は仕損じない。確実にあの世に送る。苗と直で名前も似てることだし話し相手になってあげればいいさ」
 「させん」
 毒に満ちた嘲笑を遮り、貢が力強く断言。
 「直は俺が守る。お前には指一本触れさせん。苗と同じ過ちはくりかえさん」
 鉄扉が溶岩の如く熱をもち溶け崩れる錯覚に襲われる。鉄扉を隔てていても、意志に研ぎ澄まされた視線の強さを感じる。
 居住まいを正して宣言した貢をよそに、静流は策略を練る。どうやれば帯刀貢を傷つけ追い詰めることができるのか、彼の心を揺り動かすことができるのかを考えて口を開く。
 「いいことを教えてあげる。苗さんが犯された時の様子だ」
 鉄扉の向こう側で空気が変化、憤怒の形相に豹変。貢の全身から迸った怒気に空気が熱膨張、凄まじい圧迫感が押し寄せる。
 静流は物怖じせずに続ける。
 嬉々とした笑みを満面に広げ、嗜虐の光を双眸に宿し。
 「君は知らないだろうね、貢くん。門下生十一人にかわるがわる犯され汚された苗さんがどれだけ淫らに喘いだか、男に股を開いて腰を振って悲痛に泣き叫んだか」
 「やめろ」
 「貢さん助けてください貢さんってずっと君の名前を呼んでいたよ。男の物を口に含んで股を開かされて、着物を殆ど剥ぎ取られたあられもない格好でね。凄かったよ、苗さん。いつもはお淑やかな苗さんが雌犬みたいにがくがく腰振って男を誘ったんだ。最後の方は嗚咽が喘ぎ声に変わっていた。はだけた着物から零れ落ちた乳房を男の手に揉みしだかれて、何人もの男を受け入れた股からどろり白濁を垂れ流して、涙と涎とそれ以外の液体とで綺麗な顔をぐちゃぐちゃにしてあんあん甲高い喘ぎを上げていた」
 「……やめろ」
 「ぐちゃぐちゃのどろどろだった。股から垂れた白濁が内腿をゆるぅく伝わっていた。奥手な貢くんはおっかなびっくり苗さんを抱いただけ、どうせ口での奉仕も試してないんでしょ。もったいないことしたね。なかなか上手かったよ、苗さん。あの上品な口で一生懸命男の物を咥えてしゃぶって吐き気を堪えて喉の奥まで、じゃぷじゃぷ大胆な音させながらさ」
 「静流」
 鉄扉の向こう側、極大の怒りを込めた声が響く。
 静流はますます調子に乗って続ける、帯刀貢を傷付けるただそれだけを目的に実際には見てもいない苗が輪姦された時の様子を事細かに描写する。
 さも自分も輪姦一味に加わり苗を犯したと言わんばかりの様子で唾飛ばし捲くし立て、
 「貢さん、助けて貢さん、怖い痛い嫌いやあ、どうして助けに来てくれないのねえどうして、私は目が見えないのに暗闇に包まれてるのにどうして手をさしのべてくれないの呼んでも来てくれないの、苗さんはそう呪いながら腰を振っていたよ。ぐちゃぐちゃぐちゅぐちゅ繋がった場所から下品な音させて最高に気持ちよさそうによがり狂、」

 轟音。
 鉄扉を拳で殴り付ける重く鈍い音。

 鉄扉が震撼する。空気が震動する。
 拳が割れる勢いで鉄扉を殴り付けた男が、獣じみて荒い息遣いの狭間から声を搾り出す。  
 「……………殺してやる」
 冥府の底から湧き上がるような、生きながら業火に炙られるような声。 
 鈍い衝突音が連続、鉄扉が震動。 
 鉄扉の表面に額を打ち付ける音。
 凍えた暗闇の中に響き渡る音が不意に途絶え、深遠な静寂が降り積もる。 
 くりかえしくりかえし鉄扉に額を激突させ出血した男が、身の内で燃え狂う激情を抑制して呪詛を吐き出す。
 「次にまみえる時はお前を殺すときだ。俺は直を守る。お前を殺さなければ直を守れないというなら、一片の躊躇なく未練なく容赦なく血の繋がった従弟も斬り捨ててみせる。覚悟は決まった。俺もお前も後戻りできん、鏡映しに地獄の際を歩いているようなものだ」
 「次にまみえる時はどちらかが死ぬ。生き残るはどちらか一方、帯刀の名を継ぐにふさわしい者のみ」
 静流が平板に復唱する。その顔はもう笑っておらず、一切の感情が抜け落ちた無表情を晒している。
 貢がゆっくりと上体を起こし、昂然と身を翻す。

 靴音高く廊下を歩き去る間際、静かな気迫を孕んだ声が余韻を残す。
 「帯刀の姓が欲しくばくれてやる。俺が欲しいのは直だけだ」
 どこまでも真っ直ぐに、ただ前だけを見据える苛烈な眼差し。
 
 靴音が完全に消え去る頃、分厚い鉄扉の奥から篭もった笑声が漏れてくる。
 おかしくておかしくてたまらないといった笑声が這うように流れる中、独居房の奥に蠢く何者かが独白。
 「奇遇だね。なるほど僕らは似たもの同士、帯刀の姓を憎んで道ならぬ恋に身を投じた畜生同士だ」
 今の君となら存分に殺し合える。
 暗闇と悪臭に閉ざされた牢獄に繋がれて、漸く帯刀貢と対等になれた喜びに酔い痴れ、静流は喉裂けるまで笑い続けた。
[newpage]
 鍵屋崎入院から三週間経った。
 「邪魔するぜ」
 シャッとカーテンを開け放ち、ぎょっとする。
 本、本、本。
 ベッドまわりの床に足の踏み場もなく本が散らばってる。
 際どいバランスを維持する斜塔を迂回して慎重にベッドに接近、枕元のパイプ椅子を取り上げる。震度一か二の微震で崩落しそうな均衡を保つ本の斜塔を横目に、ベッドに起き上がった鍵屋崎をしげしげ眺める。
 思ったより元気そうだ。
 三週間前、静流に脇腹を刺された鍵屋崎は手術で一命を取りとめたものの一週間昏睡状態が続いてサムライをはじめとする身近な人間にさんざん気を揉ませた。
 俺も例外じゃない。
 三週間前、カーテンの隙間からちらりと覗いた寝顔を思い出す。
 スーコースーコー……一定の間隔で続く機械的な音。酸素マスクの補助を得てか細く呼吸する寝顔。
 正直駄目かもしれないと思った。
 俺もサムライも悲観的になっていた。なんたって脾臓貫通の重傷に付け加え一週間も意識不明の状態が続いたのだ、誰だって不安になるに決まってる、不安を突き詰めて「もしも」に至るに決まってる。もしも鍵屋崎が死んだら、このまま目覚めなかったら?
 最悪の想像ばかりが浮かんでは消えた。
 あれから三週間、鍵屋崎は大分元気になった。
 「邪魔な自覚があるなら失せろ、集中力が散る」
 「見舞いに来てやったんだよ」
 「頼んでない。恩を売る気なら買わないぞ」
 ………毒舌は健在。
 ベッドパイプに背中を立て掛けた鍵屋崎に何か言いかけて口を噤んだのは、相手が一応重患だと思い出したからだ。口喧嘩中に傷が開いてべろり腸がはみ出したらと思うとさすがに続ける気になれない。
 渋々黙り込んだ俺の視線の先、鍵屋崎は毛布を掛けた膝の上に分厚い本を広げてる。
 何読んでるんだと覗き込んでみたら眩暈の拒絶反応が出た。
 鍵屋崎は人を撲殺できそうな厚さの難解な哲学書をすいすい読んでいく、ページをめくる手が滞ることもなく「なるほど」「斬新な見解だ」「飛躍的な解釈だ」と時々感心したふうに頷く。言うまでもなく俺は完全無視、まるっきり空気扱い。あんまりだ。折角見舞いに来てやったってのに本に夢中でこっち一瞥もしねーなんて……
 「鍵屋崎。おい、鍵屋崎」
 口の横に手をあて呼びかける。んなことしなくても30センチと離れてないのだから当然聞こえるはずだが、鍵屋崎は無反応。銀縁眼鏡の奥、怜悧な印象を与える切れ長の目に知性の光を宿らせて単調にページを繰る。
 「ものがあるとはどういうことなのか?理論的な知識はひとりの人間と彼を取り巻く彼自身も含めた世界内の存在との根源的な関係を意味する。人は知ありて生くる者、前提とする知性がなければ世界と関わりを持てずただ在るだけに甘んじて自己認識が薄れる。在ることを知ることから全てが始まる。存在の耐えられない軽さ。人間の行為は何らかの対象や目的を目指す限りにおいて志向性をもっている。読書という行為は最善の理解を志向しているからこそ尊いもの、志向性がない人間はただ無気力に……」
 「鍵屋崎おい、戻って来い」
 「今いいところなんだ、邪魔するな」
 「どこらへんが?」
 マジで聞き返す。鍵屋崎が鼻白む。
 うわ、あからさまに馬鹿にしてやがる。ちょっと傷付く。観念の世界から現実に呼び戻された鍵屋崎がうざったそうにこっちを見る。読書を邪魔されてご機嫌斜め。
 点滴された腕で苛立たしげに本を閉じ、眼鏡の奥の目を細める。
 「ロン、君は何故ここに存在している?貴重な読書時間を搾取して僕に不快感を与える自分の存在に疑問を感じないか。レイジはどうした、一緒じゃないのか」
 「レイジはホセんとこ行ってる。二人で話し合いだとさ。俺には聞かれたくねー話なんだろ、大方」
 なげやりに吐き捨てれば、鍵屋崎の顔に疑問が浮かぶ。
 やばい。あの事はまだ鍵屋崎に知られちゃいけない。鍵屋崎だけじゃなく他の人間に口外するなと脅迫されてるのだ。慌てて口を閉じた俺の様子を観察、鍵屋崎が得心したふうに頷く。
 「………なるほど。仲間はずれか」
 「あん?」
 なんだって?
 「行動原理が単純明快だ。三人寄れば公界の諺が示す通り社会の最小単位は三人だ。つまり君はレイジとホセの話し合いに混ぜてもらえずに暇を持て余して僕に構ってもらいにきたのだろう、違うか?まあ君が信用されなくても無理はない、そもそも南の隠者ホセと東棟の王様との話し合いにただの友人に過ぎない君が同席する方が不自然だ。察するに二人の話に加えてもらえず疎外感を味わっているらしいが、僕が君の暇つぶしに付き合う義務は……」
 「ちげーよ!!」
 椅子を蹴立てて立ち上がる。
 もう少しで鍵屋崎に掴みかかりそうになるのをぐっと堪える。
 体の脇で拳を握り込み鍵屋崎を張り倒したい衝動を自制、パイプ椅子に腰を下ろす。鍵屋崎ときたら人をイラつかせる天才だ。しかも何割かは当たってる。と言うか図星だ。俺が鍵屋崎のところに来たのは「大事な話があるから」とレイジがホセに連れてかれて一向に帰って来なくて身の処し方に困ったからだ。
 『殺しのプロたる東の王に所長の暗殺を依頼します』
 ホセの落ち着き払った声。
 冗談を言ってる感じじゃなかった。
 煉獄の展望台で王と隠者が死闘を演じてから数日、ホセの爆弾発言に心乱された俺は寝ても覚めてもその事ばかり考えて悶々としてる。
 所長の暗殺?本気か?なんでホセが所長を暗殺を企てるんだ、理由は何だと本人をとっちめたくても生憎ホセは南棟に引っ込んだまま姿を見せないし肝心のレイジはホセと一緒に南棟に消えたままだ。

 『どういうことだよホセ、ちゃんと説明しろよ!?俺に断りなくレイジ連れてくなんて承知しねーぞ!!』
 血相替えて追いすがる俺をちらり振り返り、ホセが意味深に微笑む。
 『我輩も胸が痛みますがここから先はレイジ君のみに話します、東京プリズンで平穏に暮らしたいならロン君は踏み込まない方が身の為かと』
 『もうとっくに踏みこんでるよ、さんざ思わせ振りな言動で釣っといて肝心なトコだけお預けなんてなしだぜ!?レイジお前も何とか言えよ、勝手に決められていいのかよ、所長の暗殺なんてそんないきなしっ……』
 『ロン』
 緩やかに振り向くレイジ、その口元は薄っすら笑っている。
 謎めいた笑み。ここから先は俺が立ち入るべきじゃないと問答無用に告げる微笑。
 『当分房空ける。東棟留守にする。ホセと大事な話があるんだ。俺がいないあいだ浮気せずいいコにしてろよ?』 
 『………っ!!』
 俺の中で何かが弾けた。
 レイジを行かせるのは危険だと本能が疼いた。発作的にレイジを追ったが間に合わなかった、ホセと一緒に展望台を去ったレイジは俺が追いつくより先に渡り廊下を渡って南棟に移っちまった。
 息を切らして渡り廊下に滑り込んだ俺は悔しさに歯噛みして境界線の向こうに行ったレイジの背中を睨み付けた。
 最後に見たレイジは、やけに深刻な様子でホセと話しこんでいた。
 緊迫した空気の中、小声で交わす会話の断片が耳に届く。
 「所長」「暗殺」「計画」「遂行」……
 何だ?ホセの奴レイジに何させる気だ?
 よっぽど足を踏み出そうとした、走り出そうとした。だが出来なかった。戦慄に足が竦んで一歩も踏み出せなかった。
 ホセは本気か。本気で所長を殺すつもりなのか。所長暗殺の汚れ仕事をレイジに押し付けて自分は高みの見物と洒落込むつもりか、本当にそこまで腐ってやがるのか。レイジは引き受けるのか、ホセの手駒に使われるのを承知で所長を殺すつもりか?
 頭が混乱する。不信感が膨れ上がる。
 勿論俺だって所長が死んでくれるのは単純に嬉しい、物凄く嬉しい、諸手を上げて喜んでやる。
 だがレイジが直接手を下すとなりゃ話は別だ。万一レイジが所長を殺した事がバレたらどうなるか想像しただけで動悸が激しくなる。
 所長を殺す。東京プリズンの最高権力者を抹殺する。
 そんな事になりゃ東京プリズンがひっくり返る、レイジは東京プリズンそのものを敵に回すことになる。
 いくらレイジが戦闘に優れた暗殺のプロでも所長を殺す事自体は可能でも問題はその後、殺害が成功した後だ。
 所長を殺したことがバレたらどうなる?
 刑務所内で殺人を犯した囚人を待ち受ける処罰……『死』。
 いや、死よりももっと恐ろしい……

 「ロン?」
 鍵屋崎の不審げな声で我に返る。ハッと顔を上げる。
 鍵屋崎が怪訝そうにこっちを見詰めている。激しくかぶりを振って不吉な想像を追い払う。
 ぐちゃぐちゃ悩んだって仕方ない、答えは出ない。レイジはホセに連れてかれたまま音沙汰ない。南棟に引きこもったレイジとホセが何を話し合ってるんだとしても俺は口出しできない。認めるのは癪だが鍵屋崎の言い分は正しい。南のトップと東のトップの話し合いにトップでも何でもねえ俺が介入できるわきゃない。俺に出来ることといったらお利口さんにレイジの帰りを待つだけだ。 
 「…………畜生」
 せっかく仲直りできたと思ったのに、わだかまりが解けたと思ったのに、喜んだ先からまた離れ離れになっちまった。
 展望台を去り際振り向いたレイジの笑顔が得体の知れない不安を掻き立てる。ホセの依頼を受けるか蹴るかはアイツ次第だが、どっちにしろ平穏は続かない予感がする。
 畜生、なんだってこう次から次へと揉め事が起こるんだ?
 俺はただレイジと鍵屋崎とサムライと一緒に食堂で馬鹿騒ぎする日常に戻りたいだけなのに神様はそれさえ許しちゃくれねえのかよ。
 「……レイジに冷たくされて相当こたえてるらしいな」
 一日中ベッドで寝てるだけのくせに、優れた洞察力をもって痛い所を突く鍵屋崎に反発する。
 「そういうお前こそサムライと会えなくてへこんでるんじゃねーか。副所長の過保護にも困ったもんだな」 
 鍵屋崎が顔を顰める。
 この上なく不機嫌な様子で眼鏡のブリッジに触れ、ため息を吐く。
 「……こちらは迷惑だ。副所長の言動は理解できない。静流は現在独居房に拘禁されている、僕を刺した本人が監禁されているならサムライが僕のそばに来ても何ら問題ないはずだ。なのに何故ヨンイルの房に移そうとする、サムライを遠ざけようとする?不条理だ。理不尽だ。のみならず無意味で無理解で非合理だ。僕は絶対に従わない、たとえ副所長命令だろうが自身が納得できない事は天才の威信を賭けて却下する。僕をヨンイルの房に移したいならベッドごと運ばせるしかない、自発歩行でヨンイルのもとに行く気は毛頭ない」
 「今の安田ならやりかねねーな」
 ほんの少し鍵屋崎に同情。
 確かに安田は極端すぎる。
 切れ者エリートの副所長とひねくれ者の天才がいつのまに親子と見紛うほど親しくなっていたのか今いち釈然としないが眼鏡と眼鏡、もとい、頭イイ奴同士気が合うんだろう。
 実際安田と鍵屋崎にはどこか似た所がある、共通の雰囲気がある。
 知的な風貌と潔癖な言動エリート故の傲慢さとプライドの高さなどなど、内と外に共通点が多々ある副所長が自分とよく似た鍵屋崎に肩入れしても不思議じゃない。
 「父親でもない癖に束縛するな。不愉快だ」
 伏せた双眸が苦悩を映す。
 神経質に眼鏡に触れる仕草が苛立ちを匂わす。
 双眸を暗く翳らせた鍵屋崎が、ぽつり呟く。
 「僕にはサムライが必要だ。サムライにも僕が必要だ。……離れたくないんだ」
 固い横顔に絶句。のろけてる自覚もないんだろう、ご馳走さま。ふと視線を下ろした拍子に枕の下からちょこっとはみ出た手紙を発見、好奇心から手を伸ばす。
 鍵屋崎が「あっ」と叫ぶも遅い、狼狽した鍵屋崎が点滴の刺さった手をこっちに伸ばして奪回しようとするのをパイプ椅子を後ろに仰け反らせて回避、わざとがさつかせて便箋を開く。
 「返せ!人の手紙を盗み読むなどプライバシーの侵害だデリカシーの欠落だ社会性の欠如だ人格の欠陥だ!わかったなら手紙を返せ、サムライから来た手紙に汚い手で触れるんじゃない、最低三十回で石鹸で洗って来い!」
 「なんだこりゃ」
 興味津々、便箋に目を落とす。
 便箋にはたった四文字、達筆な字でこう書かれていた。
 「『回復祈願』………」
 便箋を上下逆にする。ひっくり返す。横にする縦にする斜めにする。
 角度と見方を変えてためつすがめつするも「回復祈願」の四字がでかでか書かれてるだけ、他には何もない。味もそっけもない恋文……いや、そもそも恋文なのかこれ。もっと他になかったのかよ、サムライ。
 とことん不器用なヤツ。
 脱力して便箋を放り出す。
 俺が虚空に放り出した便箋を慌ててキャッチ、鍵屋崎が頬を染める。
 「……サムライらしい手紙だな。真心こもってるっつか、」
 「フォローはいい」
 「さいですか」
 「サムライのことだ。入院中の僕になんて書けばいいか迷った末に極端に無駄を省き四字熟語に要約したのだ、そうに違いない」
 「苦しい言い訳。ん?」
 封筒の中に何か入ってる。ひっくり返す。
 ぱさりと音をたて手のひらに落ちたのは、紐で括られた髪の束が一房。髪?なんでこんな物が封筒に入ってたんだと訝しみ、指先に摘んだ髪の束を顔に近づけて離す。
 「サムライの髪だ」
 鍵屋崎が俺から髪を取り返す。
 細心の手つきで髪を撫で、握り締める。
 「自分がそばにいられないからせめて代わりにと預けてくれた」
 鍵屋崎が安らかな顔になる。
 サムライが想いを託した髪を握り締めるさまに温かいものが滲む。束の間の安息。安田の妨害で引き離されてもなお鍵屋崎とサムライの絆は健在、それどころか会えない日々が絆を深めていっそう距離を近付ける。
 妨害工作が裏目にでたってわけか。
 「髪の毛だけじゃ足りない。サムライに触れたい。誰にも邪魔されずサムライと触れ合いたい」
 一房の髪を握りしめ、鍵屋崎が切実に呟く。
 伏せた双眸を複雑な感情が過ぎり、横顔に葛藤が投影される。
 サムライに欲望を感じてるわけじゃない。
 どこまでも純粋にサムライと触れ合いたい、サムライを身近に感じたいという願望。
 解釈によっちゃ愛の告白に等しい過激な発言だが、口にした本人に自覚がないのがすごい。
 「そういやサムライだけど、額に怪我してたぜ」
 「額に怪我だと!?」
 語尾が跳ね上がる。鍵屋崎が思い詰めた眼差しで向き直る。
 サムライの話になると途端に食いつきよくなるなと内心呆れた俺の肩に興奮のあまり掴みかかり、点滴外れんばかりの勢いで揺さぶりつつ声を荒げる。
 「転倒か、壁に衝突したのか、喧嘩か?サムライは平和主義者だから最後の可能性は低い、となると転倒事故か衝突事故の二択だがサムライに限ってそんな失態を犯すとも思えない。それでサムライは無事なのか、頭蓋骨陥没・脳挫傷の疑いがあれば手遅れになる前に医者に診てもらい手術を受けるべき」
 「ここんとこにガーゼ貼ってた。大した怪我じゃねえよ。怪我した理由については言いたがらなかったから知らねーけど」
 「よかった。手術の必要はなしか」
 鍵屋崎が深々嘆息、サムライが無事だとわかった安堵で表情を緩める。心配性の鍵屋崎が俺の肩から手を放してベッドに座りなおすのを見守り、ここに来る前の出来事を回想する。
 サムライは額にガーゼを貼っていた。
 どうしたのか聞いても本人は憮然と押し黙ったまま、怖い顔で睨まれちまった。
 不機嫌なサムライと不機嫌な鍵屋崎を見かねてお節介の虫が騒ぎ出す。
 「鍵屋崎、」
 お互いがお互いに会いたくてたまらないのに安田に邪魔されてストレス蓄積してる鍵屋崎とサムライの為に俺ができることを考える。
 せめて伝言を届けてやろうと口を開きかけたところで、賑やかな声が割り込んでくる。
 「元気しとったか直ちゃん、こないだの約束どおり動物のお医者さん全巻持ってきてやったでー。ってロンロンもおるんかい!」
 ハイテンションな乗りツッコミ。振り向くまでもなく見舞い客の正体を察してうんざりする。
 両手に漫画を抱えたヨンイルがベッドの端っこに腰掛ける。
 「ちょうど良かった、皆で動物のお医者さんに貪り読もうや。傷が塞がるまで暇やろ直ちゃん、二ヶ月も入院期間あるなら動物のお医者さんどころかガラスの仮面読破も不可能ちゃうわ。あ、せやけど傷開いて腸がどばーっと溢れたらヤバイからできるだけ笑い堪えてや!とくに漆原教授は出てきただけで笑えるから手のひらか紙で隠して……」
 「消えろ道化。僕はハイデッカーを読んでるんだ」
 「はいでっかーさいでっかー。絵のない本なんて読んでおもろいんか?人生無駄にしとるよーにしか思えん。さあ直ちゃん気分変えて漫画読もう、チョビの可愛さとミケのふてぶてしさを満喫しよ!」
 えらくご機嫌なヨンイルに鍵屋崎は不満顔。
 付き合ってらんねえ。
 そろそろ潮時だと腰を上げてパイプ椅子をヨンイルに譲る。
 「じゃあな」
 「ああ……、」
 「そんでな直ちゃん、チョビはこないおっかない般若顔やけど実はメスなんやでー純情な女の子なんやでー。犬は見かけによらんもんやなあ」
 鍵屋崎が物言いたげに口を開閉するも、伝言を託そうとしたそばからヨンイルがじゃれつく。
 ヨンイルと漫才繰り広げる鍵屋崎に肩を竦めて歩き出す。
 医務室を出る。廊下に看守が立ってる。安田から見張り役を仰せつかった若い看守……いつだったか、レイジに肩を貸して房に連れてきたヤツだ。
 「あんたが見張りか。大変だな」
 壁に凭れて立っている看守に声をかける。
 「副所長の命令だし……それに僕、どうせ暇だから。これ位しか仕事ないから」
 言い訳がましく付け加え、たははと笑う。ぺーぺーの新入りで大した仕事を任されてないって意味か。
 「いい加減子離れしろって言っとけ。ま、言ったらクビになるかもしれないけど」
 「ぞっとしないね」
 見るからに頼りない新入りが相手だと自然砕けた口調になる。
 気軽に冗談を飛ばせば看守が無難に苦笑する。
 「大丈夫かい」とレイジを気遣ってる所からも察したが、腐った看守ばかりの東京プリズンじゃ珍しく好感のもてるヤツだ。
 そういやあんた名前はと聞こうとして背後に気配を感じる。
 振り返る。サムライが走ってくる。
 「直は?」
 「相変わらず口と顔色が悪い。怪我はだいぶよくなった」
 「そうか」
 「大丈夫かサムライ、お前の方が病気みたいだぞ」
 サムライが重苦しく黙り込む。陰鬱な雰囲気。鍵屋崎の事が心配でころくに眠ってないせいで目の下にどす黒い隈ができている。強制労働中にぶっ倒れないのが不思議だ。鍵屋崎に会えない日が続いて心身ともに限界に来てるらしく、手入れを怠った顎に無精ひげが生え始め、垢染みた全身に荒んだ気配が漂っている。
 「………目え真っ赤だ。泣いてんのか」
 「馬鹿な。武士が泣くものか」
 サムライが断固否定、口元を真一文字に引き結ぶ。
 片手には木刀を握っている。体の脇に木刀を引き付けて廊下を行ったり来たり、廊下の端から端を往復するサムライは自分の奇行が注目を浴びてることにも気付かない。
 一挙手一投足が殺気立っている。白目がぎらぎらと血走る。
 この三週間というもの毎日医務室前を行ったり来たりひと時も休まず相棒の無事を祈ってるのだ、精神が削れて当たり前だ。
 「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空……」
 鍵屋崎の回復を祈願し、口中で般若心経を唱えるサムライを一瞥、呟く。
 「意地っ張りめ」
 サムライの額にはガーゼが貼られている。
 本人がだんまり決め込んでるせいで怪我の理由もわからないが、鍵屋崎と会わせてもらえないストレスが祟ってそこらの壁に頭突きしたのかも知れねえなと不謹慎な想像を巡らす。
 思い詰めたら何しでかすかわからないのは鍵屋崎と同じだ。
 「はあ……」
 サムライと鍵屋崎は会えねえし俺とレイジは離れ離れだし、どーしてこううまくいかねえんだろ。

 レイジ、早く帰って来い。
 お前がいないと生活に張り合いがない。
 どうせならレイジとサムライと三人一緒に見舞いに行きたい、その方がきっと鍵屋崎も喜ぶ。

 東棟に戻る前に、中央と南棟を繋ぐ渡り廊下へ向かう。
 数日前、ホセとレイジが消えたきりの渡り廊下。東棟の王様が鼻歌まじりに踏み越えた境界線をひょいと跨ぐ度胸がないのは俺がただの囚人だからだ。
 この前はホセと一緒だから南棟に行けた。
 一人で行くのは無理だ。自殺行為だ。
 北棟ほど敷居が高くなくても他棟へ行くのは抵抗を感じる。
 ホセの保護を失った俺が無事に帰って来れる保証はない。
 渡り廊下の始点に立ち、不吉な闇が凝った廊下の奥を凝視。
 あの闇の向こうにレイジがいる。ホセと二人きり東京プリズンの今後について話し合ってる。
 所長暗殺計画が本格始動したらレイジはどうなる?
 手のひらがじっとり汗ばむ。胸の鼓動が高鳴る。
 依頼を受けるのか、蹴るのか?そりゃ所長が死ぬのは願ってもない。所長がおっ死にさえすりゃレイジは俺の所に戻ってくる。
 けど、代償はあまりに大きい。

 『いい子にしてろよ』

 別れ際の台詞を想起して胸が苦しくなる。
 言われた通りいい子にしてた、してたよ。
 お前はいつ帰ってくるんだレイジ。
 「…………」
 ごくりと生唾を嚥下、さんざんためらった末に一歩を踏み出す。また一歩。このまま廊下を歩いて南棟に行き、力づくでレイジを奪いたい欲求に駆られる。
 三歩、四歩、五歩……停止。
 金縛りにあったように体が硬直、これ以上進むのは危険だと本能が知らせる。渡り廊下の空気が微妙に変容、侵入者を追い返す為なら手段を選ばず流血も辞さない空気が流れる。
 肌にちりちりと感じる殺気、産毛が逆立ち燻る感覚。
 廊下の奥から殺到する殺意と敵意、威嚇と威圧、牽制の眼光。
 廊下の奥に潜んだ南棟の門番が緩慢に動き出す。
 右側の囚人が壁に立て掛けた鉄パイプを取り直す、左側の囚人が堂に入った動作でトンファーを構える。
 廊下の奥から凄まじい殺気が吹き付けてくる。
 「お前ら、南の門番だな。ホセに言われて見張ってんのか」
 返事はない。続ける。
 「レイジはどうしてるんだ。こないだホセに連れてかれたきり帰ってこねーけどお前らなら知ってんだろ、答えろよ」
 「知ってても言いたかねーな」
 「お前に教える義理ねーよ」
 鉄パイプを肩に担いだ囚人が歯を剥いてせせら笑い、トンファーを構えた囚人が野卑に唇を捲る。
 南の門番と対峙、突き指しないよう親指を内側に拳を握りこむ。俺の武器は喧嘩慣れした拳だ。門番の動向を鋭く探り、実力の差を冷静に見極める。
 イケるか?……二人同時は無理、一人なら何とかイケる。
 南の門番を叩きのめしてレイジの居所を吐かせるのが一番手っ取り早い。 
 空気が帯電する。首の後ろがささくれるような緊迫感。廊下の始まりと終わりで二人組の門番と対峙、肩幅に踏み構えて重心を落とす。
 「とっとと帰りなビチクソガキ。そっから先は南の領域、隠者の許しなく足を踏み入れたら骨の三本四本へし折られるぜ」
 「人の相棒拉致ったヤツの許しなんかいるか。くそくらえだ」 
 頭に血が上る。全身の血が沸騰する。
 そろそろ我慢の限界だ。いつだって俺だけ蚊帳の外で重要な話に混ぜてもらえねえ、全部終わってからこれこれこうでしたと種明かしされんのはうんざりだ。俺は今レイジの身に起きてることが知りたい、拉致同然の形で南に連れ去られたレイジが無事でいるか元気でやってるか確認したくて心配で夜も眠れず気が狂いそうなのだ。
 「脇役は引っ込んでろ。レイジは俺が連れ帰る」
 門番にボコられるのを覚悟で強行突破を決意、身軽に床を蹴る。
 頭を屈めた姿勢で一気呵成に廊下を走りぬける。門番二人組がそれぞれ鉄パイプを振り上げトンファーを跳ね上げ、
 「おー。ロン、迎えにきてくれたのか」
 へ?
 靴裏の摩擦でゴムが磨り減る。急ブレーキを掛けて失速する俺の眼前、臨戦態勢の門番の肩をポンと叩いて出てきたのは……
 やけにご機嫌なレイジ。
 「迎えに来てくれたのじゃねーよ、お前今までどうしっ……」
 「長らくお引きとめて申し訳ない。少々話が長引いてしまいました」
 ご機嫌麗しいレイジの背後に控えたホセが如才なくフォローする。「それではレイジ君、例の件はくれぐれも慎重に」「わかってるよ、任せとけって」と笑顔でやりとりする二人に唖然とする。例の件……所長の暗殺。任せとけ……承諾。つまりレイジは暗殺依頼を受けたってのか、ホセの手駒に使われるつもりなのか?
 頭が混乱する。危うくパニックを起こしかける。前進も後退もできず廊下の真ん中に立ち竦む俺のもとへレイジが無防備に歩いてくる。
 「会えなくて寂しかったぜ、ダーリン。内緒話終わったら速攻帰るつもりだったんけどホセがなかなか放してくれなくて予想外に時間食っちまった。さ、スイートホームこと東棟に帰ろ。そういやオシオキもまだだったよな?俺がヨダレ垂らして見てる前でホセとディープキスあーんどフェラチオしたお仕置きだ、房に帰ったらたっぷりと……」
 隻眼が物騒に細まる。
 危険な光を宿した隻眼が射抜く方角を返り見て、冷水を浴びせ掛けられたような戦慄を覚える。

 大股に突き進むレイジの先、俺の背後から威風堂々行進してくる痩せぎすの男。
 肩で切り揃えた綺麗な銀髪。
 無慈悲に氷結したアイスブルーの目。
 片方の目は凝った装飾を施された黒革の眼帯で覆われている。

 豪華な装飾の眼帯で片目を覆った男は、落ち窪んだ眼窩で目を爛々と光らせて、乾いてひび割れた唇で何かを呟きながらこっちにやってくる。一目で重度の薬物依存症だとわかる異常な痩せ方と灰色がかって不健康な皮膚、髑髏めいた死相がちらつく不吉な顔貌。
 最後に見かけたのは俺たちの命運を決めるペア戦最終戦、あの時と比べて更に体重が落ちて肌の色がくすんで髪が傷んでいる。
 もう長くはない。
 一陣の冷風を吹雪かせて颯爽と突き進む男の手には、銀光閃くナイフが握られていた。
 「私は認めん」
 世にも美しいアイスブルーの隻眼に憎悪が迸る。 
 「何故私ではないのだ隠者、暗殺の手腕ならばこの私とて其処の雑種に劣らんと言うのに何故私を指名しない?暗愚な選択が片腹痛い。それともペア戦で其処の卑しき雑種に屈した私の手腕を軽んじているのか、薬に侵されて手の震えが止まらぬ私では暗殺を成し遂げられないと軽んじているのか。笑わせるな隠者風情が!私の暗殺技術は今だ衰えてない、ナイフの冴えは鈍ってないぞ」

 憎悪に顔歪ませて、狂気を身に纏わせて、銀髪の男がやってくる。

 「久しぶりだな。その後どうしてた?ペア戦で負け犬姿晒した手前今まで通り威張り散らしてられるはずもねえ、下克上で王座引きずりおろされて北の連中にマワされてんじゃねーかって心配してたんだぜ。お前の恐怖政治にゃ北の連中びびって小便漏らしてたからな、威信が地に墜ちたら寄ってたかって復讐されんのが世の習いだ。今度はそっちが調教される番じゃね?」
 レイジが口角を吊り上げて歩みを進める。
 次第に距離が縮まり威圧感が増す。
 銀髪の男は歩みを止めない歩調を緩めない、レイジと距離が近付けば近付くほどに全身に異様な気迫を漲らせてナイフを振り翳す。

 「今ここで優劣を決めようではないか、真の王者を決めようではないか。ペア戦のあれはわざと手加減してやったのだ、哀れな犬に慈悲を垂れてやったのだ。皇帝に敗北はありえん。皇帝の威信が地に墜ちるなどあってはならないことだ」
 「いい加減認めろよ、お前は負けたんだよ。今度から負け犬に改名しろ。『皇帝』なんざお前にゃ過ぎた名だ、北じゃどうせお前を皇帝サマと仰ぐ囚人いないんだろ。メッキが禿げたんだよ。今のお前はただの薄汚れたジャンキーだ、我こそは偉大なるロシア皇帝だって誇大妄想に取り憑かれた気違いだ」

 銀髪の男が禍々しく笑う。
 薄青に透き通る瞳にレイジが映る。
 冷酷な眼光を発する男に物怖じせず歩み寄るレイジ、その顔はこの上なく愉快げな笑みを浮かべている。遊び相手を見つけたガキみたいな無邪気で残酷な笑顔。 
 俺と門番が固唾を呑んで見守る渡り廊下で、北の廃帝と東の王が邂逅する。
 「東京プリズン最強の暗殺者はこの私だ」
 銀髪の男が憎憎しげに吐き捨て、鞭のように腕撓らせて行く手を薙ぎ払う。
 「なら俺は東京プリズン最高にして最悪の暗殺者だ」 
 レイジが挑発するように両手を広げる。
 銀髪の男が凄まじい奇声を発して廊下を疾駆、生あるもののように銀髪が舞い上がり後方に流れる。自分めがけて突っ走るサーシャを歓迎すべく両手を広げ、レイジが皮肉っぽく独りごちる。
 「殺し合いの第二幕か。好きだぜ、こういうのも」 
 北の皇帝改め北の廃帝サーシャと東の王が激突する。
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