少年プリズン

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三百四十八話

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 一面の白、はてしない虚無の世界。
 僕はそこにいた。どこからともなく忽然と現れた。
 奇妙な場所だった。
 見渡す限り何もなく誰もいない荒野、永遠が存在する場所。
 僕の他には動く物とて見当たらず無限の白が広がっている。
 面積は把握しづらい。視界のはてに地平線が存在しない。
 病院の無菌室を思わせる無機質な白がただ漠然と広がるだけの殺風景な空間に忽然と出現した僕は、ここに来る前の記憶も自分が誰であるかもあやふやなまま、虚無に包まれて自我が消滅する不安に駆られてあてどもなく歩きだす。
 僕が感じるのは恐怖と不安。
 存在根源を脅かす恐怖、漠然たる不安。
 漂白された世界の片隅に突如として生み落とされた僕は内心の困惑を隠せず、落ち着きなくあたりを見回す。
 全方位を包む白、何も存在せず遮る物とてない虚空。
 時間が停滞した場所。
 どうやら生あり動く者は僕以外にいないらしいと結論付ける。
 一歩踏み出すごとに違和感が膨れ上がる。
 ここは本来僕がいるべき場所じゃないという根本的な違和感、本来立ち入ってはいけない場所を侵している後ろめたさ、禁忌を犯す罪悪感。 僕こそが不慮の事故でこの世界に迷い込んだ排除されるべき異物、異端視される闖入者という自覚が次第に強くなる。

 ここは何処だ?

 違和感が確信に変わる。
 ここは僕のいるべき場所じゃない、明らかに違う世界だ。
 無菌室めいて漂白された世界のただ中で歩みを止め、深呼吸で落ち着きを取り戻し、回想に没入する。
 ここに来る前どこで何をしていた?
 疑問を出発点に記憶を遡る。
 最初に蘇ったのは懐かしい顔と声。
 こちらを心配げに見詰める男の顔。見覚えある顔だ。
 どれ位洗髪してないのか、脂でぱさついた長髪を無造作に結ったむさ苦しい男が、猛禽めいた切れ長の目に真摯な光を宿し、焦燥に焼かれた表情でこちらを一心に覗き込み何かを叫んでいる。
 なお、なお……どうやらそれが僕の名前らしい。
 血を吐くように必死な声音で僕に呼びかける男。
 頬骨が尖った精悍な顔だち。顎に散った無精ひげがただでさえ頬が削げ落ちた禁欲的な顔を老けさせているが、よくよく見れば僕とそう変わらない年齢の少年だ。 
 なお、なお……しっかりしろ、目を覚ませ、直。
 何故だかひどく懐かしかった。
 僕を呼ぶ声に、僕を見詰める眼差しに愛しさをかきたてられた。
 悲痛な呼びかけ、思い詰めた眼差し。ああ、確かに僕は彼を知っている。理屈じゃない、彼の顔を見た瞬間胸に込み上げた温かい感情が証拠だ。全身の細胞が彼の手のぬくもりを覚えている。
 僕は彼を知っている。
 彼は僕を知っている。
 彼は僕の大事な人だ、大事な友人だ。
 確信が核心に至り、鮮明に記憶が蘇る。
 サムライ。彼の名前はサムライ、生まれて初めて出来たかけがえのない友人だ。十ヶ月前東京プリズンで出会って以来常にそばにいて僕を守り支えてくれた心強い友人、僕が愛する男。漸く思い出した。
 彼のことを忘れるなんてどうかしている、今更ながら自分の正気を疑う。たとえ記憶喪失になったとしても彼のことだけは忘れない自信があったのに、と悔しくなる。
 だけどサムライ、君は何故そんな酷い顔をしている?
 今にも死にそうな顔色で、今にも張り裂けそうに悲痛な表情でこちらを見詰めているんだ?
 「………痛っ……」
 脳の奥が鈍く疼く。
 脇腹に手をやり、見下ろす。
 僕は囚人服を着ていた。囚人服の脇腹に手を当てた僕は、意識を失う直前の出来事をぼんやり思い出す。廊下でサムライと出会った。看守と揉み合っていた。サムライが歓喜に顔輝かせ僕へと手を伸ばす。
 喜び勇んで駆け出す僕、真紅の襦袢の裾を翻し白濁が伝う素足を覗かせ一直線に……
 脇腹を刺し貫く灼熱感、激痛。
 真紅の襦袢に染み出す大量の血。サムライの絶叫。体の均衡を失って倒れ伏せた僕を抱き寄せる優しく力強い腕、頬に滴り落ちる熱い涙……最後に見た光景は、血の滴るナイフを携えて嫣然と微笑する静流。
 「そうか。刺されたのか」
 最後のピースを獲得、カチリと音たてて記憶の欠落が埋まる。
 恐らくは心因性ショックだろう、一時的な記憶喪失から回復した僕は慎重に脇腹をさする。
 痛みはない。血の染みもない。
 脾臓貫通の重傷を負ったのにと不思議に思いもしなかった。これは夢だ。夢ではどんな不条理も許される。それに痛覚が麻痺してるなら幸いだ。生憎僕はマゾヒストじゃない、好き好んで痛い思いはしたくない。
 改めてあたりを見回す。
 恐らくここは深層意識下の世界、抽象的な無の世界。
 最初に断っておくが、僕は死後の世界など信じない。そんな物は人間の妄想だ。人に限らず動物は死ねばタンパク質の塊になるだけ、霊魂などという非科学的な概念は絶対に認めない。よって僕がすでに死んでいる可能性は却下、全否定。ここが死後の世界であるはずがない。
 天国?まさか。こんな無味乾燥な天国あってたまるか。地獄?同様の理由でありえない。ダンテの絢爛な想像力と旺盛な好奇心によって描き出された「神曲」の天国地獄とはどちらにせよ凄まじい違いだ。
 これは夢だ、僕が見ている夢の中。
 「全く僕らしい退屈な夢じゃないか。フロイトの夢判断的に自分以外の人間が存在しない夢とはどうなんだ、破滅願望の表れか?とは言え僕は現在危ない状態にあるらしい、脾臓貫通の重傷を負ったのだから当たり前だ。重篤の状態が続いて脳波が低調だからこそ背景を省略した手抜きの夢しか見れないのか?」
 僕はひどく落ち着いていた。
 このまま目覚めないかもしれないとわかっていても無痛の夢の中にいると現実感が乏しかった。ただ、サムライのことを考えると胸が疼いた。彼に会いたかった。このままでは終わりたくない、彼を残して死ぬのは嫌だと体の奥底から衝動が突き上げる。
 会いたい。サムライに会いたい。
 激しい願望に駆り立てられ、出口を求めて走り出す。
 どこかにあるはずだ、夢の出口が。捜せ、捜すんだ。僕はただひたすら駆ける。夢の中でも息が切れる脆弱な体が恨めしい。
 周囲には白い闇が広がっている。北欧地方の白夜を彷彿とさせる光景の中をあてどもなく駆け続けるうちに、遥か前方に人影を発見する。
 「!」
 人だ。僕以外の人間がいた。
 警戒しつつ背後に歩み寄る。こちらに背中を向けて佇む若い男。恐ろしく姿勢が良く、背中が真っ直ぐ伸びている。凛とした雰囲気を漂わせる男の背後で立ち止まった僕は、衝撃に息を呑む。
 「サムライ」
 サムライだ。見間違えるはずない。
 再会の喜びに胸が高鳴る。僕を迎に来てくれたのか?全身から喜びが溢れ出る。今すぐサムライに駆け寄りたいのを自制し、ゆっくりと慎重に、衣擦れの音に気付いたサムライが振り向くのを恐れるように歩み寄る。手を伸ばせば届く距離にサムライがいる。僕に背中を向けている。 会いたかった、本当に。
 彫像の如く微動だにしない背中に指先を伸ばす。
 もう少しで震える指先が肩に触れるー……
 その瞬間。
 「恵を裏切るの、お兄ちゃん」
 「!」
 背後で声がした。
 弾かれるように振り返った僕は、ここにいるはずもない人間と対面する。僕の背後、虚無の世界に忽然と現れた幼い少女。小動物めいて愛くるしく庇護欲をくすぐる目、子供らしく柔らかな頬、ふくよかな唇、三つ編み。病院の患者が着るような純白のワンピースの少女が、無表情にこちらを凝視している。
 「恵……、」
 恵。最愛の妹。
 僕が両親を殺す現場を目撃し、心神喪失状態に陥った妹。
 僕の前に突如として現れた恵は記憶の中そのままにあどけない顔で、しかし無表情にこちらを見詰めている。
 黒目がちに潤んだ瞳が驚愕した僕を映しだす。
 愕然と立ち竦む僕と対峙、平板な声で糾弾の言葉を紡ぐ。
 「恵を捨ててその人を選ぶの、その人と一緒に行っちゃうの?恵はおにいちゃんのせいで心を滅茶苦茶に壊されたのに、おにいちゃんは新しく出来たお友達と一緒に恵のことなんか忘れて毎日楽しく暮らしてる」
 「違う!恵のことを忘れた日など一日もない、僕は恵を裏切ってなど……!」
 「嘘つき。裏切り者。卑怯者」
 黒い目に憎悪が迸り、幼い顔が醜悪に歪む。
 喉を反らして吐き捨て、軽蔑の表情で僕を見下す。
 「お兄ちゃんはどちらを選ぶの。恵とその人とどちらを選ぶの」
 ハッと正面に向き直れば、いつのまにかサムライが歩き出し僕の手の届かない所へ遠ざかっていた。
 慌ててサムライを追おうとして、硬直。
 振り返る。恵がいた。無言で僕を見詰めている。妹を捨てて友人を選ぶのかと糾弾している。悲哀と憎悪が渦巻く目、白く強張った頬、固く引き結ばれた唇……傷付いた顔。
 ああ、そうだ。恵はいつもこんな顔をしていた。望まれず生まれてきたことを謝罪するかの如く所在なく縮こまって、申し訳なさそうに俯いて、それでも僕だけは自分を捨てない裏切らないとひたむきに……
 「どちらを選ぶの」
 サムライが行ってしまう。離れていってしまう。
 葛藤に心が分裂する。サムライを追いたい、彼の肩を掴んで振り向かせたい。しかし恵が許さない、僕だけ幸せになるのを許してくれない。僕は恵を捨てられない。
 行くなサムライ!
 声振り絞り呼び止めようとした。
 だが声が出なかった、喉から発したはずの叫びは虚空に吸い込まれて消えてしまった。喉を掻き毟り蹲る僕の前、憐憫か嘲弄かどちらとも付かぬ表情を浮かべた恵が淡々と言う。
 「お兄ちゃんはいつもそう。いつも大事な人を選べない。いつもいつも選択を間違い続けてきた。今だってそう。足手まといの妹よりお友達を選んだほうが幸せになれるとわかっていても恵を捨てる罪悪感に縛られて行動できない。ほら、お友達が行っちゃう、見えなくなっちゃう。本当にいいのお兄ちゃん、追わなくて後悔しないの?」
 「あ…………、」
 嫌だ。行かないでくれサムライ。
 君と離れるのは嫌だ君を失うのは嫌だ耐えられない独りは耐えられない、からっぽのベッドに背中を向けて眠れぬ夜を過ごすのも話し相手のない食堂で食事をとるのも静流が仲良く寄り添うさまを見せ付けられるのも耐えられない!
 脳裏で理性が弾け飛ぶ。
 気付けばサムライを追い駆け出していた。だが一向に距離は縮まらない、走れども走れども息が切れるばかりで追いつくことは不可能だ。背中に視線を感じる。恵がじっとこちらを見詰めている、サムライに追いつこうと見苦しくもがく僕を眺めている。
 胸が痛い。最愛の妹をひとり残して友人に追いすがり、叫ぶ。

 「恵許してくれ、今だけは行かせてくれ!彼は僕のサムライなんだ、漸く僕のもとに戻ってきたんだ、漸く気持ちを伝い合えることができたんだ!生まれて初めて出来た友人なんだ、妹以外に初めて心を開けた人間なんだ、僕は彼のことが大好きなんだ!!IQ180の知能がなければ両親さえ僕の存在を認めなかった、僕に関心を示してくれなかった、しかし彼はこのままの僕が好きだと言ってくれたんだ、異常にプライド高く毒舌で頭脳以外に取り得のない僕を愛してると言った世界にただ一人の男なんだ!」

 サムライが急速に遠ざかり、やがて見えなくなる。
 僕はそれでもまだ諦めきれずサムライの消えた方向に走り続ける、喉も裂けよと声張り上げて呼びかける。喪失。嫌だ、行かないでくれ、見捨てないでくれ。こんな寂しい場所に僕ひとり残して行かないでくれ。膝から力が抜ける。
 崩れ落ちるようにその場に座り込み、白く平坦な地面に手を付き、彼のいない世界を呪う。
 「お願いだから捨てないでくれ、一人はいやだ、いやなんだ、寂しいんだ……」
 戻ってきてくれ。抱きしめてくれ。名前を呼んでくれ。
 僕の中で孤独が吹き荒れ、絶望が理性を蝕む。
 彼のいない世界など壊れてしまえばいい、砕け散ってしまえばいい。見渡す限り白が支配する虚無の世界の中心で慟哭する。
 「愛してるんだっ……………」
 愛してるんだ、サムライ。
 君がいない世界に、希望はない。

 ………………単調な音がする。
 スー、コー、スー、コー……一定の間隔で規則的に響く音。
 それが僕自身の呼吸音だと気付いたのは数秒後。
 最初に目に入ったのは白く清潔な天井。
 不潔な染みが浮き出た房の天井ではない……空調が整えられた医務室の天井だ。
 天井から視線を下ろし、現在自分がおかれた状況を確認。殺菌消毒されたカーテンに囲まれたベッドに寝かされているらしい。
 ベッドを取り巻くカーテンの厳重さから、恐らく医務室の奥に隔離されてるのだろうと見当を付ける。先ほどから耳に響く単調な音は、酸素吸入器の内側を白く曇らす僕の呼吸音だった。
 透明な酸素マスクで口元を覆われた僕は、毛布の上に出た腕に点滴が繋がれて、輸血が行われてるのに気付く。
 自分の意志で体が動かせないのに気付いたのはその数秒後。目覚めた直後で意識が運動神経が麻痺してるらしい。
 どうやら僕は入院してるらしい。
 あたりは異様な静けさに包まれている。まさか僕の安眠に配慮したわけでもあるまい、東京プリズンの医者と患者と見舞い客に他人の眠りに遠慮する繊細さがあるとは思えない。時折漏れ聞こえる話し声と靴音、ごくささやかな衣擦れの他は至って静かなものだった。
 「………………」
 枕元のパイプ椅子に腰掛け、頭を抱え込むような姿勢でまどろんでいる。
 「サムライ………」
 そう信じて疑わなかった。
 反応は迅速だった。
 たった今までうとうとまどろんでいた人影が、ばっと顔を上げた。
 瞬間、後悔に襲われた。
 「……僕としたことがすまない、とんでもない間違いを犯してしまった。お兄ちゃんが悪かった、許してくれ恵。意識のない僕をずっと心配して付き添ってくれた世界一健気で愛らしい自慢の妹をあんなむさ苦しく不潔な男と間違えるとは記憶を司る視床下部に腫瘍ができた疑いがある。即刻レントゲンを撮って手術を行わねば、」
 「……しっかりしろ鍵屋崎。私は安田だ」
 「安田?」
 誰だそれは。
 「…………副所長の安田だ」
 「!ああ」
 思い出した。心なし意気消沈した様子で訂正した人物の顔に目を凝らし、短く声を漏らす。
 「……その、勘違いするなよ。勿論覚えている。今のは意識が回復したばかりで一時的に記憶が混濁してて普段ならあり得ない初歩的なミスを犯してしまったのだ。
 言うなれば記憶の齟齬だな。単純なトリックだ。
 そうだ、こんな実験を知っているか?二十世紀にアメリカで行われた実験だ。地下鉄の中で一人の乗客が暴漢に襲われた、暴漢は次の駅で降りた。その間わずか三十秒。同日同時刻同車両に乗り合わせた目撃者に後日数人の男を映した写真を見せてこの中に犯人がいると言った、目撃者の大半は黒人を指さしたが実際の犯人は白人だった。人の記憶がいかにあてにならないかの典型だ。よって長時間の昏睡状態から回復したばかりの僕が個人識別を誤ったのも何ら異常なことではない、そうだろう」
 「息継ぎせずしゃべるな。傷が開く」
 安田が気遣わしげに言い、椅子から腰を浮かして僕を寝かしつける。子供扱いするなと反発するも、脇腹の激痛に閉口する。
 「……何故貴様がここにいる?責任ある立場の人間が職務放棄とは感心しない」
 激痛がおさまるのを待ち、口を開く。安田はばつ悪げな表情で俯く。
 「……君が心配だったんだ。脾臓貫通、出血多量の予断を許さぬ状態で一週間昏睡状態にあったんだ。一時は命が危なかった」
 「一週間!?」
 声が跳ね上がるのをおさえきれない。
 体のだるさから相当寝てたのだろうと予想は付いたが一週間も意識不明だったとは素直に驚いた、せいぜい二・三日だと思っていたのに。
 呆然とする僕の肩に手をおき、安堵の息を吐く安田の顔にも疲労の色が濃い。
 「医師の話によるとこれまで無理してた分のストレスが一気に噴き出したらしい。慢性的な不眠、栄養失調、過度のストレス……身体検査の結果、君の体はぼろぼろだった。君自身は気付いてないかもしれないが体は正直だ、君は長期の休養を必要としていたのだ。どうだ?一週間たっぷり寝て体はラクになったか、頭はすっきりしたか?」
 「………腹が痛い」
 「当たり前だ。手術が成功したとはいえ脾臓を刺されたのだ、一歩間違えば死ぬところだった」
 安田の顔に苦渋が滲む。大人しく安田に従いベッドに身を横たえる。安田は複雑な表情で僕を見詰めていた。僕の回復を喜ぶ反面、まだ楽観できないと自らを戒める表情。
 安堵と憂慮を織り交ぜた面持ちで僕を見詰め、不意に呟く。
 「………生きててくれてよかった」
 え?
 聞き返す暇もなく安田が僕の手を取り包み込む。
 温かい。神経質に骨ばった指がぎゅっと僕の手を抱擁する。そのまま僕の手を引き寄せる。懺悔。前髪が顔に落ちかかるのも構わず僕の手に額を預け、疲れたふうにかぶりを振る。
 「心配した。もう二度と起きないかと思った。君の寝顔があまりに安らかで最悪の想像ばかり浮かんできた」
 「大袈裟だな。ただ眠っていただけだ。それより一週間も職務放棄するほうが問題だ。目に余る怠慢だぞ、副所長」
 「その毒舌が聞きたかった」
 「脳腫瘍ができたのか?ちょうどいい、レントゲンを撮ってもらえ」
 ……どうかしている。副所長らしからぬ弱音に調子が狂う。ばつ悪く黙り込んだ僕の手を名残惜しげに解放、席を立つ。
 「医者を呼んでくる。君はここにいろ。くれぐれも無茶はするなよ」
 「この状況でよくそんなことが言えるな。心配せずとも手術痕から腸を露出させるような真似はしない」
 安田がかすかに苦笑する。僕の毒舌を聞けてよかったというのは本心らしい。……本当にどうかしている。カーテンを開けて出て行こうとした安田が不意に立ち止まり、物言いたげに振り返る。安田と目が合う。眼鏡の奥の目を感情の波が過ぎる。
 ベッドに寝たまま、当惑して安田を見返す。
 カーテンの端を掴んで捲り上げた安田が、毅然と宣言する。
 「君の体には私の血が流れている」
 「……?それはそうだろう。何をわざわざ改まって確認する必要がある、おかしな男だな」  
 その瞬間の安田の表情を何と言えばいいだろう?
 驚愕、狼狽、不審。
 普段の無表情はどこへやら、面白いくらい動揺をあらわにした安田に向き直り、視線を下ろす。僕の視線につられて自分の腕を見た安田が息を呑む。背広を脱いでシャツとスラックスの簡素な上下になった安田は、シャツの右袖を肘まで捲り上げて腕を露出させていた。
 腕の一点にガーゼが貼られている。
 「血を提供してくれたことは感謝するがわざわざそんなもったいぶった言い方をすることはないだろう。不条理な男だ」
 枕元には輸血パックがぶらさがり、今も管を通して僕の体へと血が注入されていた。僕はAB型だからすべての血液型から輸血可能だが、安田の右腕に血を採取した痕があるならすなわち、彼が血液提供者になってくれたのだろう。
 安田がもどかしげに唇を噛む。
 「―そうだ、私が血液を提供した。手術に際して血が足りなかったから医師の要請に従ったまでだ」
 「命の恩人に対する感謝が足りないと僕を非難するなら見当違いだ、意識不明の僕には貴方の血液を拒む権利もなかったんだから」
 どこか不機嫌な様子でカーテンに手をかけた安田にあきれる。
 安田の言動はまったくもって理解不能だ。エリートぶった大人のくせに意外に子供っぽところがあるから始末が悪い。
 今度こそ出て行こうとして、ふと思い出したように口を開く。
 「鍵屋崎、君にひとつ知らせがある。なお先に言っておくが、副所長命令につき拒否権はない」
 「なんだ」
 眼鏡のブリッジに触れて位置を直し、眼光鋭く僕を一瞥。
 「君の怪我が完治し退院が決まり次第西棟に移ってもらう。新たな同房者はヨンイルだ。問題を起こさず仲良くやれ」
 は?
 「なに、を、言っ、てるんだ」
 衝撃で思考が空転、舌が縺れる。怪我が治り次第西棟に移れ?ヨンイルが新たな同房者?発作的にベッドに跳ね起きれば、脇腹を激痛が襲う。傷が開く痛みに悶絶、体を折り曲げて脇腹を押さえる。
 額に脂汗を滲ませ、正面を睨み付ける。
 カーテンを捲り上げた安田が、東京プリズンの秩序を守る副所長にふさわしい冷徹な表情でこちらを見据える。
 「言ったとおりだ。君は西棟に移れ。サムライは君の同房者ではなくなる。今回の事件のあらましは彼から聞いた……君は帯刀静流と貢の確執に巻き込まれて脾臓貫通の重傷を負った。この上帯刀貢と同房に配属しておいては問題が複雑化する、君は一度サムライから離れて体を休めるべきだ。幸いヨンイルも快諾した、君を受け容れる準備は万全……」
 「認めないぞ!!」
 一方的な宣告に逆上、憤怒に駆られて怒号する。
 僕が西棟に移る?サムライと引きはなされて?サムライは、サムライはそれでいいと言ったのか?僕と引き離されるのを承知したのか?混乱して安田を仰げば、副所長は冷たく言い放つ。
 「勿論サムライの承諾もとってある。君に拒否権はない。これは既に決定事項だ。君の私物は全部ヨンイルの房に移しおえた、あとは回復を待つだけだ」
 「ふざけるな、僕は認めないぞ!漸く気持ちが通じ合えたのに『愛してる』と言えたのにまた彼と僕を引き離すつもりか、勝手なことをするな副所長の分際で、囚人のプライバシーにまで口を出すんじゃない……待て安田話は終わってない、最後まで抗議を聞き反省のち撤回しろ!嫌だ僕は絶対に認めないこれからずっとサムライと一緒にいるんだ、サムライとロンとレイジと食堂で食事をとって展望台で馬鹿話をして夜はサムライの読経を聞きながら読書するのが僕が東京プリズンで手に入れた幸せなのに……!!」
 カーテンの向こうに安田が消える。
 毛布を掛けた膝を殴り、痛みが再発した脇腹を押さえ込む。
 「畜生……………っ!!」
 今。
 僕は心の底から安田を憎む。
[newpage]
 『ちぎれても知りませんよ』
 低く脅しつけられ、答える代わりにホセに縋り付く。鉄板でも仕込んだみたいな胸板、呼吸に合わせて収縮する腹筋のうねり、俺を抱きすくめる腕の力強さ、その全てに身を委ねる。
 相手は誰でもよかった。
 俺を滅茶苦茶にしてくれるなら誰でも。
 『!………あっ、』
 『随分レイジくんに仕込まれたみたいですね。先端の感度がいい』
 耳の裏側に唇がふれる。唇で食まれて口に含まれた耳朶がじんわり熱をもつ。ホセの指が背筋を這い上れば快感の微電流が駆け抜ける。背骨に沿って緩やかに滑る指がもたらす快感は快楽に飼い慣らされた体にはもどかしく、もっと強い刺激が欲しいとホセを仰ぐ。
 『悪い子だ』
 ホセが酷薄に笑う。黒い肌に映える白い歯。ベッドに腰掛けたホセが俺の体を軽々持ち上げて膝に座らせる。赤ん坊みたいに膝に座らせた俺の体を上下に揺すりながら、耳元で囁く。
 『本当に後悔しませんね』
 『……しねーよ』
 後悔なんかするもんか。
 そう自分に言い聞かせて吹っ切ろうとするも固く閉じた瞼の裏側にレイジの顔がちらついて決心が揺らぐ。これでいいんだ、これで。こうするのが一番なんだ。俺がホセと寝たと知ればレイジは幻滅する、俺なんか守る価値も意味もないと思い知る。これからは自分を一番大事にしてくれる。
 尻の下にゴツい膨らみを感じる。ズボン越しでもはっきりとわかる、体積を増したペニス。でかい。レイジよりさらにでかい。性器というより凶器に近い鉄串が俺の尻を押し上げる。
 こんな物入れられたらケツの穴が裂けちまう。
 レイジのペニスだって受け容れるの大変だった、何回も深呼吸して体の力を抜いて大臀筋を緩めなきゃ収めきれなかったってのにこんな物無理矢理入れられたら死んじまう、肛門どころか直腸が裂けちまう。
 怖い。体の奥底に蓋して押し込めた恐怖が一挙に溢れ出す。
 こんな物ケツに入るわきゃねえ、ケツってのはクソひねりだすところであってペニス入れる場所じゃねえ、もともと用途が違う場所にこんな固くて太くて長い物突っ込むなんて無茶だ。ホセの膝から飛び下り逃げ出したい衝動を押し殺し、そろそろと腰を浮かせる。尻の下に固い物があたる。下着ごとズボンを引き下げ下半身を露出する。下肢を開いた恥ずかしいポーズのままぺニスの根元に手を添え挿入角度を調整、ゆっくりと腰を沈めていく…
 『怯えることはありません。君は何も間違っていない。レイジくんを守るためにあえて裏切り者の汚名を被るとは素晴らしい』
 うるせえ。
 『ワイフ一筋の我輩としては良心の呵責を感じないでもありませんが可愛い弟子たっての頼みとあれば仕方ない。ロンくんの言い分はご最も、体で責任はとらねば隠者の名が廃ります。さあ、もっと足を開いて、そう……上手いですね。物欲しげな顔だ』
 ホセの誘導に従い、ペニスの根元に手をあてがったまま慎重に慎重に腰を沈めていく。俺の手の中でずくんとペニスが脈打ちひと回り大きくなる。固く目を閉じる。瞼の裏側の暗闇にレイジの顔が浮かぶ。俺の身代わりで輪姦されたレイジ、髪にも顔にも全身至る所にザーメンぶっかけられてそれでも笑っていた。レイジにあんな顔させたくない。俺がそばにいるとレイジは傷付く。 
 レイジが俺のこと嫌いになりゃいい。
 『あっ、ひあふっ………』
 尻の柔肉を割り開き肛門が暴かれる。ペニスの先端が肛門に触れる。熱い。きつい。激痛と息苦しさを我慢してペニスを受け容れる姿勢をとれば、背後に腰掛けたホセが物騒に呟く。
 『君を犯して殺せば思惑通りに動いてくれるでしょうか、東の王は』
 ?どういう意味だ。
 真意を問いただす暇もなく、下肢を激痛が襲った。 
 
 夕暮れの展望台に風が吹く。 
 ホセに付き添われて展望台に赴いた俺は、西空を染め抜く残照の眩さに手庇を作り、目を細める。
 この世の終焉みたいな壮絶な夕焼け。空は不吉な血の色に染まっている。溶鉱炉の空に溶け込むように展望台の真ん中に突っ立っているのは、均整取れた長身の人影。こちらに背中を向け、リラックスしたポーズでポケットに両手を突っ込んでる。ただ突っ立ってるだけだってのにしなやかで隙がない身ごなしが空気に緊張を強いる。
 一目見た瞬間に誰だかわかった。
 アイツを見間違えるわけがない。
 たった一週間やそこら離れてたくらいで忘れるわきゃない。上着の胸を掴んで棒立ちになった俺の視線の先、そいつが緩慢に振り返る。涼しい風に前髪を遊ばせて振り向いたのは……
 夕映えに顔の半面を染めたレイジ。
 「お帰り、ロン」
 奇妙に優しい声音で、その実温かみなんか欠片もない口調で俺を出迎える。怒ってる。当たり前だ。一週間何の音沙汰もなく房を留守した薄情者が今さらひょっこり戻ってきたからって歓迎されるわきゃない。
 深呼吸で覚悟を決め、慎重に一歩を踏み出す。
 靴音がやけに大きく響く。砂利を蹴散らして歩み寄り、僅か3メートルを残した正面で立ち止まる。心臓の音がうるさくてまともにレイジの顔が見れない。たった一週間離れてただけでこのザマだ。レイジに何も告げず房を出た後ろめたさや再会の照れや気持ちを上手く言葉にできないもどかしさがごっちゃになって胸が苦しくなる。
 気まずく俯く俺を一瞥、レイジが大袈裟にため息を吐く。
 「……心配かけやがって。一週間どこ行ってたんだよ?」
 「………わかってるくせに、聞くなよ」
 「ああ、わかってるよ。サムライの房にいたんだろ。王様の耳はロバの耳、東棟の噂は何でも入ってくる。俺もサムライなら安心してお前預けられると思って放っといたんだ。サムライなら俺のロンに手ぇ出す心配ねーし、アイツ鍵屋崎がいなくて寂しがってるから話し相手ができりゃ気分も紛れるかなって大目に見てやったんだ」
 レイジがおどけて肩を竦める。
 「ところが王様の心下僕知らず、お前はいつまでたっても帰ってきやがらねーし昨日はとうとう食堂にも現れなかった。いい加減迎えに行こうかどうしようか悩んでた所に南から使いが来た。たまげたぜ、マジ。お前とホセが一緒にいるなんて。何がどうしてそうなったのか俺にもわかるように説明して欲しくて展望台に呼び出したんだけどさ」
 レイジが鋭い目つきでホセを一瞥、唇をねじ曲げる。
 「南に迷い込んだ猫を保護してくれたことにゃ感謝するけど、どうせならもっと早く知らせて欲しかったよ」
 「別に保護したわけではありません。ロンくんの方から『泊めてくれ』と頼ってきたのです」
 黒縁眼鏡のブリッジに気障ったらしく触れてホセが訂正する。
 レイジが虚を衝かれる。
 俺に向き直った顔には不審の色が浮かんでる。
 「……ホセの言う通りだ」
 レイジの視線を避けて唇を噛む。
 『Fuck』 
 露骨な舌打ち、苛立たしげに地面を蹴りつける。乱暴に髪をかき回すさまに焦燥が滲む。自分の思い通りにならない事に癇癪を起こし、ガキっぽく地面を蹴って喉反らし天を仰ぐ。
 「あーもうわけわかんねー、意味不明絶不調!なんだよそりゃ、なんでお前がホセんとこにいるんだよ。そりゃ俺と顔合わせたくない気持ちもわかるし頭が冷えるまでサムライに匿ってもらうのもお前が決めたことなら諦めつくよ。けどさ、まるで俺のこと避けるみてーに南に逃げてホセの懐に潜りこむのはちょっとばかしずるくね?王様の面目丸つぶれだっつの。
 なあロン、この一週間俺がどんだけ心配したかそこんとこちゃんとわかってんのかよ。本音言えば今すぐお前連れ戻したくてうずうずしてて、食堂でサムライと一緒にメシ食ってるお前見かける度に抱きついて髪わしゃわしゃしたくて、お持ち帰りの欲求と戦うのにすっげエネルギー使ったんだぜ?けどそんな事したらうざったがれるだけだし、お前はますますヘソ曲げて家出期間長引くし、いつかは絶対帰ってくるはずだって信じて待ってたのに……」
 激しくかぶりを振って嘆くレイジを醒めきった目で眺めるホセ、二人に挟まれて居心地悪くなる。
 不意に訪れた重苦しい沈黙。
 眉間を顰めた不機嫌ヅラから叱られた子供のように拗ねた表情へと変化、レイジがぽつり呟く。
 「………一週間前のこと、怒ってんのか?」
 ふてくされた態度に反し、目は暗く翳っていた。
 俺は言葉をなくす。レイジの言葉が何を意味してるかすぐにわかった。一週間前の記憶は鮮明に残っている……忘れようったって忘れられないおぞましい記憶。看守に裸に剥かれた夜の事を思い出し、無意識に二の腕を抱く。
 にわかに青ざめた俺へと手を伸ばし、虚空で引っ込める。
 レイジが、俺にさわるのをためらった。
 「仕方ねーか、怖がられても。ひどいことしたもんな」
 違う、と心の中で叫ぶ。
 俺が怖がってるのはお前じゃない、お前に犯されたからびびって逃げ出したんじゃない。俺が怖いのはお前を傷付けること、足手まといの俺を守り通してぼろぼろになってお前が死んでいくことだ。
 一週間前の夜、確信した。
 俺がこのまま一緒いたらレイジは駄目になる、どこまでも自分を粗末にする。俺はレイジを傷つけることに鈍感になってた自分を激しく憎悪して、いつしかレイジに守られる事を当たり前と受け止めていた自分を激しく呪って衝動的に房をとびだした。
 レイジは淡々と続ける。
 「正直こうなるんじゃねーかなって予想してた。お前は東京プリズンじゃ珍しくマトモなヤツだから、看守の前で俺に犯されるなんて我慢できねーだろうなって……そうなったら俺に愛想尽かして出てくかもなって半分諦めてた。だけどやっぱ嫌だったんだよ、他の男にヤられるのは。王様のわがままだ。他の誰にもお前を渡したくなかった。それならいっそ俺がヤられるほうがマシだった。俺は別によかったんだ、全然構わなかった。獣姦も輪姦も初体験じゃねーし、犬や犬にも劣る看守どもにお前がヤられるとこ見せ付けられるくらいならいっそ俺がこの手で押し倒したほうがマシだって」
 「黙れ」
 別によかった?構わなかった?
 レイジが虚を衝かれたように振り向く。
 胸を上下させ息を吸い込み、きっぱり言い放つ。
 「お前うざいんだよ」
 レイジの顔から表情が消失、隻眼が虚無に呑まれる。
 俺はレイジを真っ直ぐ見据えたまま、隣に突っ立ったホセへと寄りかかり、腕を絡める。
 「聞こえなかったか?お前うざいんだよ、レイジ。俺を守る為に自分から喜んで看守にヤられてやったとか恩着せがましく言われて感謝すると思ったか。迷惑なんだよ、ひとりよがりの思い込み。重いんだよ、そーゆーの。正直お前にはうんざりだ、お前と一緒にいると息が詰まるんだよ、お前は俺のことしか見えてなくて俺を守るためなら自分がどうなろうがお構いなしでそんな風にべったり尽くされるほうはたまったもんじゃねーよ!!」
 愕然と立ち竦むレイジの眼前、ホセの顔を両手で挟む。
 「お前よかホセのが百万倍マシだ」
 眼鏡のレンズに顔を映し、媚びるように笑う。
 お袋そっくりの笑顔に吐き気がする。我慢だ。喉元に込み上げる吐き気を堪え、生理的嫌悪に耐え、爪先立って首を伸ばす。固く固く目を閉じ喉を仰け反らせる。唇に柔らかい感触。気持ち悪いのを堪えて舌を這わし唇の隙間から口腔に潜りこませる。唇をこじ開けて潜らせた舌で頬の内側の粘膜をつつき、歯を舐める。
 「ん、ぐ…………っ」
 もういいだろ、放せ。もどかしく身悶える。
 だがホセは放さない。俺の体を抱きしめて口腔を貪り続ける。舌と舌が絡まり、口の端から溢れた唾液がしとどに顎を濡らす。やりすぎだ。口腔で舌が暴れるせいで呼吸ができず頭が真っ白になる。
 「んんっ、うぐぅ……んっ、んっ」
 横顔に視線を感じる。目だけ動かしてそちらを見る。
 レイジがいた。微動だにせず硬直していた。全身がカッとなる。何もここまでするこたない、ただキスするだけで十分だった、ホセといちゃつくさまを見せ付けるだけで十分だった。ディープキスの世界記録に挑戦したいなんて打ち合わせた覚えはない。
 予定外の展開にうろたえる俺の口腔から唾液の糸引き舌が抜かれ、ホセが誇らしげに宣言する。
 「ご覧に入れたとおりです。ロンくんは自ら望んで我輩のもとにやってきた、我輩に体を開いて庇護を求めた。早い話君は用済み、君はロンくんに捨てられたのです。その様子ではまだわかりでない?よろしい、ならば説明しましょう。君が今日ここに呼び出されたのは別れ話を切り出すため、今日この日よりロンくんは身も心も我輩の物となりました。異存はないですね」
 「大ありだよ」
 物柔らかな声音に返されたのは物騒な異議申し立て。
 口腔が蕩けてふやけた俺の腰にホセが腕を回す。腕の支えがなけりゃたちまち腰砕けに座り込んでじまいそうだった。
 薄っすら頬を染め、涙で湿った目を虚空に泳がす。
 レイジは笑っていた。邪悪に邪悪に笑っていた。前髪のかかる隻眼に憤怒が表出、全身から好戦的なオーラが漂い出る。
 「冗談は七三分けだけにしろ。王様の許しなくロンの唇奪ったら万死に値するぞ」
 凄みを含んだ声で宣告。憤怒に燃える目でホセを睨み付け、申し分なく長い足を優雅に繰り出す。
 レイジがゆっくりと着実にこちらにやってくる。
 暴君の怒りに感応し、夕映えに染まった空気が不穏にさざなみだつ。
 レイジ……呪われた名が示す通り不吉な気配を漂わせてやってくる暴君と対峙、ホセが不敵に微笑む。
 「たかだか唇を奪った程度で万死に値するならば、それ以上の禁忌を犯せばどうなるか」
 独白に似せた挑発。
 俺を後ろから抱きしめ、上着の裾を捲る。
 「!ホセやりすぎだ、こんなの聞いてねっ……」
 手足をばたつかせる俺を押さえ込み、上着の裾を捲り上げて裸を晒す。展望台に射した夕日が裸身に朱線を引く。妙に扇情的な光景。ホセにまさぐられて蠢く腰がやましさを引き立てる。恥ずかしいのに、嫌なのに、レイジに見られてるだけでどうしようもなく体が疼いて膝が砕けそうになる。
 「『たかだか』だと?」
 「ふあっ……」
 首の後ろに唇が落ちる。体の前に回った手が乳首をつねる。
 唇を噛んで堪えても巧みな愛撫に熱を煽られ快感を汲み上げられ、しまいには声が出る。赤裸な衣擦れの音、興奮した息遣い、唾液を捏ねる音……外気に晒された上半身がしっとり汗ばんでいく。
 夕日に照らされ赤く染まる裸身をよじり、必死に訴える。
 「レイジ見るな、こっち見んな……」
 「顔をお上げなさい。駄々をこねる子には痛くしますよ」
 ホセが俺の顎を掴み、強引に顔を上げさせる。
 レイジが来る。
 ひどく緩慢な足運びでこっちにやってくる。
 靴裏が砂利を擦る耳障りな音、風の音……レイジの表情は逆光に塗り潰されてよく見えない、暗闇に沈んだ顔がどんな表情を浮かべてるか想像したくもない。これは、俺が決めた事だ。後悔はない。
 そのはずなのになんでどうして胸が痛む、ホセの腕を振りほどいてレイジに縋り付こうとする?わかってる、こうするのが一番いいって頭じゃわかってる。俺は馬鹿だから他の手が思いつかなかった。
 だからわざとホセといちゃついてるところを見せてショックを与えて、レイジが俺を憎むよう仕向けた。
 レイジが俺のこと嫌いになりゃいい。
 俺を憎めばいい。
 「……………っ、」
 ぎこちなくホセの股間に腰を擦り付ける。
 「もっと、激しくしてくれ。最後までヤってくれ。中途半端はツライんだ。滅茶苦茶にしてくれよ、ホセ」
 俺は今ちゃんと笑えてるだろうか。ちゃんと嘘をつけてるだろうか。誘うように浅ましく腰を上下させ、ホセの股間を刺激する。腰の動きを止めずに前を向けばレイジがいた。
 レイジから目を放さず、卑屈に笑う。
 「正直言ってレイジ、お前の体に飽きたんだ。ホセのがデカいしタフだし俺のこと楽しませてくれる。ホセのペニスはお前とは比べ物にならねーくらい太くて硬くて長いんだ。俺はお袋譲りの淫売だからそりゃアソコがデカいほうがイイに決まってる。ホセとは体の相性も抜群、お前が割り込む隙なんかこれっぽっちもねーよ」
 おっかなびっくり、笑っちまうくらい不器用な手つきでホセの股間をまさぐる。なでる。揉む。
 徐徐に大胆さを増し、ホセの内腿に手を滑らして性感を煽る。
 俺は半笑いのまま地面に膝を付き、ホセのズボンを掴み、下着と一緒に下げおろす。従順な奉仕。ホセは指一本動かさず俺を見下している。 生理的嫌悪に顔が強張る。
 ごくりと生唾を嚥下、震える手で一気にズボンを下げおろせば天衝くように屹立した赤黒い肉塊が目に入る。下着を取り去った股間に聳える巨大なペニス……目にするのはこれが初めてじゃないが、何度見ても本能的な恐怖を覚える。戦慄。俺とは比べ物にならない、レイジと比べてもまだでかい、醜悪な……子供の腕位の大きさがある、それ。
 「ほら、な。見てみろよレイジ、ホセご自慢のムスコを。羨ましいだろ?お前と比べてもまだでっけえ。こんだけ大きけりゃどんな女だって満足する、どんな女だってホセを選ぶ。俺だってそうだ。俺は男だけどケツに淫売の穴が付いてるんだ、淫売の穴がコイツを欲しがってるんだ、俺をいちばん気持ちよくさせてくれるヤツ選んで何が悪いよ!?」
 喉の奥で吐き気が膨らむ。
 ホセのペニスから眼をそらしたい、顔を背けたい衝動を必死に押さえ込む。ペニスの根元に手を添え、顔を近づけ、口を開く。とても入りきらない。顎が外れんばかりに大口開ける。フェラチオ。さすがにここまですりゃ諦めてくれるだろう。
 俺はホセをしゃぶる、フェラをレイジに見せ付ける。
 そうすりゃ俺が本気だってわかるはず、レイジの物だって咥えたことない俺が無我夢中でホセにむしゃぶりついてるさまを目の当たりにすりゃいくら強情な王様だって……
  
 『Nothing doing』

 一陣の暴風が吹き荒れる。
 四肢を撓めた豹の如く跳躍、俺の頭上を軽々跳び越して上段から蹴りを放つ。
 風圧で上着の裾が膨らみ、鞭の痕に舐められた肢体が覗く。
 風切る唸りを上げて弧を描いた足がホセの側頭部に炸裂、鈍い音が響く。下半身素っ裸のホセが蹴りの衝撃に吹っ飛び5メートル向こうの地面に激突、展望台が揺れる。
 ホセの頭に蹴りをくれたレイジが鮮やかに着地を決める。
 「俺のロンにディープキスしただけじゃ飽き足らず背後から抱きすくめてあちこちまさぐってフェラさせるなんざ調子乗りすぎだぜ、たかだか南のトップの分際で。お前今日から『愚者』に改名しろ。王様に反逆するヤツあ直接相手してやる。俺はどっかの皇帝と違って心優しい王様だからちょっとやそっとのことじゃ怒らねえ、俺のこと陰で所長の性奴隷だ飼い犬二号だなんだとぬかしてるマザーファッカーどもも笑って見逃してやる。けどな」
 風に吹き流された前髪の奥、隻眼が異様に輝く。
 爛々と光る隻眼で地面に倒れたホセを射止め、無造作に足を踏み出す。俺はその場に腰を抜かし、ぱくぱくと口を開け閉めしていた。レイジがキレた。激怒した。
 ホセが殺される。止めなきゃ。
 金縛りにあった俺の眼前、レイジがこの上なく楽しげに笑みを広げる。
 「ロンに手え出したら百万回億万回殺されても文句言えないだろ」
 折りから吹いた風が髪を舞い上げ、狂気渦巻く隻眼を暴き出す。
 「東の王が宣告を下す。今この時よりここは処刑台、王の怒りに触れた愚者を罪人と定める」
 容赦なく砂利を踏み砕き蹴散らし迷いない足取りで展望台を突き進む。ホセがこめかみに手を添えてゆっくり起き上がる。
 ホセのこめかみはぱっくり裂けて大量の血が流れ出てた。ホセの顔半分を朱に染めて地面に滴り落ちる血が傷の深さを物語るも、暴君は動じない。 
 西空に夕日が沈む。
 熱のない業火に炙られ、展望台に煉獄が出現する。
 「跪けひれ伏せ頭を垂れよ。王の怒りを思い知れ。全力で地上から取り除く」
 「やはりこうなりますか」
 ホセが深いため息を吐き、こめかみを押さえて立ち上がる。
 下着と一緒にズボンを引き上げ、顔半分を血の朱に染めた壮絶な姿で暴君を迎え撃つ。こめかみに怪我をしてもホセは余裕だった。口元には不敵な笑みが浮かんでいた。
 なんで笑ってるんだ?殺されるが怖くないのかよ。
 イカれてる。レイジもホセもイカれてる。この場でまともなのは俺だけだ。止めなきゃ。 
 「レイジやめろ、やめてくれ!違うこれは違うんだ、ホセはただ俺の頼みを聞いて協力してくれただけ、芝居に付き合ってくれただけなんだ!悪いのはホセじゃなくて俺だ、卑怯な手使ってお前と別れようとした俺なんだ、怒る相手間違えてんじゃねーよ!!」
 レイジの背中に食い下がり訴えるも完全に無視される。怒りのあまり正気を失ったレイジに俺の言葉は届かない。
 地面にへたりこんだ俺が成す術なく見守る前で着実に距離が縮まり、夕闇迫る展望台でホセとレイジが対峙する。
 ひどく穏やかにレイジが言う。
 「ホセ。お前、ロンを抱いたのか」
 ひどく穏やかにホセが返す。
 「ようこそ穴兄弟」
 肉眼では捉えきれない速度でレイジが動く。
 レイジがかき消えたと思ったのは目の錯覚、地に這いつくばった姿勢から低空の蹴りを放つ。まともに食らえば足の骨がへし折れてたかもしれない蹴りを半歩退いて難なく避けるホセ、間合いから脱する暇を与えず次なる攻撃に移る。足腰のバネを利かせて跳ね起き、瞬時にホセの懐に潜り込んで鳩尾に一発くれる。
 「筋肉は鎧。肉体そのものが防具にして武器」
 ホセが腹筋を矯める。
 鍛えに鍛え抜いた鋼鉄の腹筋に拳を弾かれ、レイジが狼狽する。
 「――っ!」
 「東の王ともあろう者が飼い猫にフラれたくらいで短気を起こすものではありません。悲観することはない、東京プリズンに君臨する東の王ともなれば一人に固執せずとも愛人はよりどりみどりでハーレムを満喫できる。去るもの追わず来るもの拒まず、それこそ王者の賢さです。ロンくんのことは忘れなさい。一年半の間愛情注いだ猫を手放せない気持ちはわかりますが所詮野良は薄情なもの、次から次へと男を渡り歩くのが習性……」
 「るっせえ!」
 空気がびりびり震える。
 腹筋への攻撃が無力化されたと知るや、筋肉で防御されてない人体の急所めがけて必殺の拳と蹴りを放つ。膝裏、股間、顎、頭……まともに当たれば一発で沈む威力を秘めた蹴りと拳をホセは全て回避する。
 無敵無敗のブラックワーク覇者と名高い王様でも、一対一の肉弾戦では分が悪い。何せ相手はホセ、地下ボクシングの元チャンプとして何十人もの挑戦者を撲殺した伝説の持ち主で肉弾戦のプロだ。オールマイティに戦闘力が優れたレイジじゃ肉弾戦に特化したホセにかなわない。
 「諦めなさい東の王よ。君は捨てられたのです」
 口元だけで微笑み、おもむろに腕を振り上げる。
 ガツッ。鈍い音。指の骨と頬がぶつかる音。レイジの頬に凄まじい威力の拳が炸裂、勢い良く体が仰け反る。ホセに殴り飛ばされたレイジがそのまま5メートルもんどり打って転がる。
 尖った砂利で服を裂かれてあちこち素肌を覗かせたレイジのもとへホセが接近、打撲と擦り傷でぼろぼろになった王様を見下す。
 「その目で見たはず、その耳で聞いたはず。先ほどロンくんは何て言いました?君の愛情が重荷だとはっきり言った、君に付き纏われるのがうざくてたまらないと憎憎しげに吐き捨てた。いい加減真実と向き合いなさい、受け容れなさい。ロンくんを束縛から解放なさい。君はなるほど東京プリズンを支配する東の王だ、しかし独占欲をもって人の心を支配するのは不可能だった。結果として君の愛情は報われず、東京プリズンに君臨する孤独な王は誰をも愛さず誰からも愛されない……」
 違う、違う。俺はレイジを愛してる、大好きだ、今だってレイジに駆け寄りたいのを必死に抑えてるんだ。
 だけど今俺が駆け寄ったら何もかも振り出しだ、レイジはまた俺を庇って守ってボロボロになって無茶しすぎで死んじまう。
 だから耐えろ、耐えるんだ。こうするのがいちばんいいんだ、これが正しいんだ。
 ホセがレイジの前髪を掴んで乱暴に顔を上げさせる。レイジは無抵抗に従う。ホセに殴られた衝撃で唇が切れて血が滲んでいた。もんどり打って転がった際に砂利であちこり引っかかれて四肢に無数の擦り傷が生じていた。情けない。格好悪い。格好悪い王様。
 もういいよ、やめろよ。
 俺のことなんか諦めろ。お前がそこまでする価値ないよ、俺に。
 「降参なさい」
 前髪を掴む手を緩め、隠者が哀れみ深く促す。
 レイジは首を項垂れたまま、無心に唇を動かして何か呟いている。
 かすかな呟きに耳を澄ます。
 『主よ。私はあなたを憎むものたちを憎まないでしょうか』
 折から風が吹く。レイジが自分の耳朶に手をやる。
 『私はあなたに立ち向かう者を忌み嫌わないでしょうか』
 レイジが顔を上げ、耳朶に這わした指でピアスの留め金を外す。やばい。俺は直感した。理屈じゃなくやばいと感じた。ホセはまだ気付いてない。今度こそ俺は駆け出した、縺れる足を叱咤して一散にレイジに駆け寄った。
 「レイジ、やめろ、殺すな!!!」
 「―『否』」
 暗唱の続きか、独白か。
 どちらとも付かぬ言葉を吐き、レイジが行動にでる。レイジの指の狭間、残照を集めたピアスが眩く輝く。ピアスの反射光に目が眩んだ一瞬で肉薄、俺が割り込むより早くホセにとびかかって押し倒し、鋭く尖ったピアスの切っ先で喉を掻き切るー……

 レイジは笑っていた。
 その瞬間も笑っていた。
 『私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。彼らは私の敵となりました』

 「やめろっ!!!!!」
 俺が背中にぶつかり手元が狂い、ホセの首に薄く血が滲むも致命傷には至らない。間一髪、俺が背中に激突した衝撃でホセの上から転げ落ちたレイジの胸ぐらを掴む。カチン、と澄んだ音が響く。レイジの指の隙間からピアスが零れ、地面で跳ねる。俺の手は震えていた。俺が止めなきゃレイジはマジでホセを殺していた、ホセの喉笛切り裂いて全身に返り血を浴びていた。俺の、せいだ。俺がくだらない芝居したから、卑怯な手を使って別れようとしたからこんなことになった。
 直接気持ちをぶつけず、逃げてたから。
 全力でホセを殺しにかかったレイジを目の当たりにして自分の愚かさを思い知った。

 俺がいたら駄目になる。
 俺がいなけりゃもっと駄目になる。
 どのみちこいつは破滅する。

 「違う、そうじゃない、違う、違うんだよっ………」
 最初は激しく、次第に力なくレイジを揺さぶる。隻眼に困惑めいた色が浮かぶ。
 「ホセに抱かれたなんて、うそだ。確かに抱いてくれって頼んだ、頼んだよ。けど入らなかったんだ、無理だったんだ。俺はホセに抱かれてなんかない。今でもお前以外の男に抱かれたくない、そう思ってる。けどこうでもしなきゃお前はこの先ずっと俺を守り続ける、自分なんかどうなっても構わねえって俺を守り続けていつか無茶しすぎて死んじまう。だからレイジ、俺のこと嫌いになれ。頼むからお願いだから俺のこと嫌いになってくれ。嫌なんだよもう、耐えられないんだよ、自分を粗末にするお前が哀しくて悔しくてどうすりゃいいかわかんねーんだよ………」
 「…………じゃあ、浮気は嘘?」
 間抜けな声でレイジが確認。
 「嘘に決まってるだろ馬鹿」
 レイジの胸にコツンと額を預ける。
 よかった、ちゃんと心臓が動いてる。鼓動を感じる。
 俺の頭に手を置き、深く深くため息を吐くレイジ。
 「………あ―――、よかった。そっか、嘘か。嘘か!脅かすなよ、フェラまでするから本気にしちまったじゃんか」
 お気楽な笑い声。暴君が王様に戻った。
 安心したように肩の力を抜き、俺に凭れかかるレイジの腕の中で呟く。
 「……よくねえよ。何も解決してねえよ。レイジ、お前いつか所長に殺される。変態所長の暇つぶしで嬲り殺される。お前の弱味は俺だ。俺を人質にとられたらお前は逆らえない。俺が殺されるか自分が殺されるかどっちか選べって言われたらお前は迷わず自分が殺されるほう選ぶ、だけど俺は嫌だ、お前が殺されるなんて冗談じゃねえ、これからもずっとずっとお前と一緒に生き延びたいのに肝心のお前が東京プリズンから消えちまったらどうすりゃいいんだよ!!レイジ聞けよ笑うなよ、自分を粗末にすんのやめろよ、お前が好きなんだよ、好きで好きでどうしようもねえくらい好きなんだよ、だから……っ」
 深呼吸で心をしずめ、挑むようにレイジを見据える。
 「死ぬな。死ぬな。俺を守り通して庇って死ぬな、そんなかっこいい死に方ぜってえ許さねえ。いいか、最後まで足掻け。足掻いて足掻いて足掻きまくれ。往生際悪く。最高に格好悪く。格好良く死ぬよか格好悪く生き延びたほうがずっとマシだ。心中はお断りだ。片方生き残るのは最悪だ。俺はお前と一緒に生き延びる道しか行きたくねえ」
 西空に夕日が沈む。残照が展望台を燃やす。
 夕焼けに溶け込むように輪郭をぼかしたレイジにしがみつき、誓う。
 「俺、強くなる。早くお前に追いつけるよう頑張る。だから簡単に諦めるな、簡単に命を捨てるな。『生きたい』って言ってくれ。『生きたい』って足掻いてくれ。多分お前は俺に出会った頃から、いや、多分それより前から生きることを諦めてて、だからどんな酷い場所でもしぶとく生き延びてこれたんだと思う。でもさ、俺と出会えたんだから変わってくれよ。変わろうとしてくれよ。もうちょっと自分を大事にしてくれよ」
 レイジのぬくもりに抱かれて目を閉じる。 
 「もうちょっと自分を好きになってもバチはあたらねーぜ」

 やっぱりレイジと一緒にいたい、こいつのそばを離れたくない。
 レイジは俺が守る。
 誰にもこいつを渡さない。

 「お熱いですね。ワイフと引き離された単身赴任者の嫉妬を煽るつもりですか」
 声がした方を仰ぐ。喉をさすりながら起き上がったホセが、あきれた表情でこっちを眺めている。
 ホセの指摘に恥ずかしさが込み上げてそっぽを向いた俺をよそに、レイジが中指を突きたてる。
 「ロンの唇奪った上にあちこちまさぐった借りは高くつくぜ。延長戦やるか?」
 「遠慮しておきます。少々油断したとはいえ王の実力衰えずと痛感したので……それよりも」
 レンズに付着した砂利を払い、眼鏡をかける。
 分厚い眼鏡の奥で柔和に目を細め、そこはかとなく謎めく笑顔を浮かべる。
 「我輩折り入ってレイジ君にご相談があるのですか、よろしいでしょうか」
 「フェラチオの続きなら却下。上の口も下の口も俺の物だ」
 「そんな下世話な事ではありません。本日君をここに呼び出したのも別れ話が本題ではない。それは表向きの用件、我輩の目的は別にある。まあロン君の反応が面白くてついうっかり調子に乗りすぎたのは認めるし反省もしますが、我輩の思惑通りに事が進んだのは結構結構。ロン君絡みで揉め事を起こさねば王の本気を引き出せず実力をかいま見る機会もなくレイジ君を手駒……もとい協力者にするか否か、計画の要となる判断が付きかねたので」
 計画?手駒?
 不穏な単語に眉をひそめる。
 「ホセ、お前何企んでるんだ?」  
 声を低めて問いかける俺を無視、律儀に腰を折ってレイジに手を差し伸べ、微笑む。
 分厚い眼鏡が残照を照り返す。
 完全に夕日が沈む間際、どす黒い陰影に隈取られた笑みが酷く禍々しく邪悪なものへと変貌する。
 「殺しのプロたる東の王に所長の暗殺を依頼します」 
[newpage]
 僕は全治二ヶ月の重傷だった。
 「………味がない」
 入院食の粥を啜り、呟く。
 不味い、美味いの問題ではない。そもそも味がないのだからそう評価するしかなく従って食欲も進まない。
 ベッドに上体を起こし、毛布を掛けた膝の上に乗せたトレイを見下ろす。アルミの深皿によそられた白粥はまだ三分の一しか減ってない。顔を顰め匙で一すくい、無理矢理飲み下す……やはり味がない。
 東京プリズンの食事が不味いのは今に始まったことではないし囚人に贅沢が言えないのは承知の上だが、せめてもう一摘み塩を足す配慮はないのか。味付けの濃い刺激物は胃によくないとは言え、水っぽい粥を啜るだけの食事はひどく哀しい。
 僕はもともと食事にこだわらないほうだ。もとより食事に関心がなく美味い不味いもどうでもいい、運動量に適する栄養が補給できればそれでいいと考えていたのだがしかし限度がある。
 粗食に対する不満を顔に出した僕の手から、匙と深皿が消失。
 「!?何するんだっ」
 思わず声が尖る。
 僕の手から匙と深皿を掠め取った犯人はパイプ椅子に跨ったヨンイルだ。この暇人はどういうわけか入院二週間を経過した現在も毎日医務室にやってきて一方的にくだらない話を捲し立てて帰っていく。いい迷惑だ。食事を妨害され憤慨する僕を愉快げに見やり、ヨンイルが大口開ける。
 「直ちゃん、あーん」
 「あーんだと?」
 大口開けて匙を突き出すヨンイルに顔が引き攣る。
 何の真似だ道化の分際でと怒鳴りたいのをぐっと自制する。
 「いや、食事手伝ったろ思て。ひとりで食うの味気ないやろ?ただでさえ消毒液くさい医務室でひもじく粥なんぞ啜ってしんきくさい、俺が食べさしたるからいいコでお口あーんと」
 「僕は離乳食を食べる乳児か?」
 迫り来る手を邪険に払いのける。
 ヨンイルが情けない顔で匙を引っ込める。親切心かただの悪ふざけか判別しがたいが、どちらにせよ不機嫌の絶頂の僕はヨンイルの手から匙と深皿を奪い返し、味がない粥を口に運ぶ。
 「そや、直ちゃんに差し入れ持ってきたんや。粥だけじゃ味けない思て俺が漬けたキムチを……」
 ヨンイルがいそいそとタッパーの蓋を引き剥がす。
 「とっとと蓋を閉めろ、キムチの悪臭は耐え難い。目と傷に染みる」
 「つれへんこと言わんと食べてえな、西のやつらにも評判ええんやで」
 「ヨンイル、何故僕が粥を食べていると思っている。手術後日が浅く胃腸が弱っているからだ。今の僕は固形物を咀嚼するのも命がけなんだ。君は命がけでキムチを食えと強制するのか、君が漬けたキムチに命と引き換える価値があるのか」
 ヨンイルがしぶしぶタッパーの蓋を閉める。
 キムチをけなされて不満げなヨンイルを無視、匙で汁をすくって粥をたいらげる。空になった深皿をトレイに戻してヨンイルに向き直れば、枕元のパイプ椅子に後ろ向きに跨り、背凭れに顎をのせてしょげかえっている。
 ……少し言い過ぎた。
 ありがた迷惑には違いないが、僕を心配してるのは言動の端々から伝わってくる。こうして医務室にやってくるのも少しでも僕の気晴らしになればという好意からだ。
 僕がヨンイルに対し素直になれない原因は、安田だ。
 安田は僕の意志など取り合わず一方的に西棟に移す決定を下した。
 初めてその決定を聞かされてから一週間が経つが、いまだに心の準備ができないし整理もつかない。僕はサムライとずっと一緒にいたい、そばを離れたくない。僕の同房者はサムライ以外に考えられない。しかし僕一人が反対してもどうにもならない。東京プリズンを実質動かしてるのは安田であり、副所長の一存で房割りから強制労働配属先までが決まってしまうのだ。

 どうすればいい?

 入院から二週間、目覚めてから一週間一度もサムライと会ってない。
 サムライに会いたい。
 サムライは僕と引き離されることを納得したのか、今回の事件に責任を感じ僕から身を引くと承諾したのか?
 「どうして来ないんだ、サムライ」
 会いたい。会って話したい。彼に触れたい。
 知らず毛布の内側で膝を抱え、背中を丸める。そうやって自分自身を抱きしめてないと心細くてたまらなかった。漸く気持ちが通じ合ったと思ったのに、また振り出しなのか?まだすれ違いが続くのか?
 「もうたくさんだ」
 膝を抱いて弱音を吐く。もうたくさんだ、本当に。僕も彼も十分傷付いた。早くサムライに会いたい。
 「直ちゃん………」
 ヨンイルが途方に暮れたように呟き、椅子から腰を上げる気配。
 僕の肩に手をかけ、顔を覗き込む。
 緩慢な動作で顔をもたげ、ヨンイルを仰ぐ。
 思い詰めた目をしたヨンイルが畳み掛ける。
 「俺じゃ駄目か」
 「駄目だ」
 いきなり何を言い出すんだ、今の僕はヨンイルの冗談に付き合う気分じゃないというのに。あっさり即答した僕にもめげず、ヨンイルがずけずけ言い募る。
 「いや、もちっと考えてや!せめて五分くらい考えたってや、0.5秒の反応速度で却下せんでもええやん!?うわー俺めっちゃ傷付いたわ、傷心やわ。今の結構本気やったのにこんなむごい仕打ちってありか?男ヨンイル腹を括って二次元コンプレックス克服に挑んだっちゅーに現実の壁は厚い……」
 「二次元で充足してるなら克服せずともいいだろう」
 「せやかて直ちゃん、サムライにフラれたショックで俺の上に跨って一人でイったのは自分やんけ」
 さも心外なと大声をはりあげるヨンイルの頭を殴る。
 「痛ったあー」と大袈裟に嘆いて頭を抱え込むヨンイルの腕を掴んで引き寄せ、カーテンの向こうの物音に気を配る……
 良かった、僕のベッドの前を通りかかった患者だか医者だかが歩調を落とす気配はない。隣り合ったベッドの患者に聞かれぬようヨンイルの耳を掴んで囁く。
 「大きな声を出すな、僕の人間性が疑われる。確かに僕が騎乗位で射精したのは否定の余地ない事実だが、あれはその、魔が差したんだ。図書室の出来事に端を発する心因性ショックからつい行きずりの道化に身を委ねてしまったのだ。しかしすぐ正気に戻った、挿入前に覚醒した。僕たちの間には何もなかった。しいて言えば僕が射精する現場を目撃しただけ、僕が自慰するところをマグロのように仰臥して観察していただけだ」
 「マグロってあんた……、」
 ヨンイルが絶句するが、訂正しない。
 口の軽いヨンイルが僕と肉体関係を持ったと言いふらしたら、それがサムライの耳に入ったらと考えただけで冷や汗が出る。
 あの時ヨンイルと寝ていたら取り返しがつかなかった。
 たとえサムライが許しても僕自身が許せない。
 「ヨンイル、感謝する。君が真性オタクでよかった」
 「どういたしましてて……びみょ―――――」
 椅子をがたつかせてヨンイルが拗ねる。
 「ま、直ちゃんがええならええか。サムライに一発きっついのかました甲斐あったわ」
 「サムライに暴行したのか!?」
 口元に人さし指を立てたヨンイルが「しーっしーっ」と自重を促す。膝立ちになったはずみに脇腹に激痛、呻きを漏らして体を折り曲げた僕に慌てる。
 「いわんこっちゃない。サムライ絡むと直ちゃん怪我人の自覚なくすから手に負えへん」
 ヨンイルが甲斐甲斐しく毛布をかけ直す。 
 「一発かましたっちゅーかかまされたっちゅーか……結果オーライ、俺のはっぱがきいて駆け出したんやけど」
 どういうことだ?
 含みを持たせた言葉に困惑する。
 ヨンイルがニッと笑い、椅子から身を乗り出す。
 「二週間前の夜、直ちゃんのことで話があるゆーてサムライを呼び出して言うてやったんや」
 「なんて?」
 「直を抱いた。先越されて悔しいかあほんだら、お前があっちへこっちへ二股かけとるからあかんのやむっつりスケベ侍」
 ……………………………………………眩暈がした。
 「な、な、な、な……」
 恐れていたことが現実になった。
 この男は、ヨンイルは、二週間も前にサムライを呼び出して僕を抱いたと告げたと言うのか。いや待て僕はそもそも抱かれてないしあれは未遂だし証拠はないしヨンイルが勝手に言ってるだけでサムライが本気にするはず、
 「マジやった」
 ヨンイルが厳かに告げ、痛そうに頬をさする。
 その仕草が意味するところに思い至り、息を呑む。
 ヨンイルが顎の間接外れんばかりに大口開ける。つりこまれるように口腔を覗き込み、奥歯に隙間を発見。ヨンイルが不敵にほくそ笑み、拳を作った手を僕の方へとさしのべる。促されるがまま手のひらをさしだす。
 ヨンイルの五指がほどけ、カルシウムの塊が落ちる。
 歯。
 「ガツンと一発殴り飛ばされてもた。ホンマ効いたで、アレ。愛は偉大やな」
 ヨンイルが笑う。いや、笑い事ではない。
 ヨンイルは天井に目を馳せて二週間前の出来事を回想する。
 「さすがに見てられんかったんや、サムライと直ちゃんのすれ違い。俺一応直ちゃんのダチやし、直ちゃんがよわって荒んでくの放っといたらオタクが廃る。せやからサムライと直接話し合うことにした。ま、俺かてばっちり浮気現場見てもうたし直ちゃんと危なく一線こえかけたしまるきり部外者てわけでもないやろ」
 ヨンイルが感心したふうに首肯する。
 「サムライは逃げへんかった。ちゃんと時間通りにやってきた。敵ながらあっぱれな態度やった。漢と書いておとこと読む、みたいな」
 「話を続けろ」
 指で字を書くヨンイルに苛立ち、話の先を急かす。
 「男同士腹を割って話すには酒に頼るにかぎる。あ、これじっちゃんの教え。俺のじっちゃん大酒呑みでガキの頃からよおけ晩酌に付き合わされたんや。韓国酒マッコイを茶呑みに注いでぐいって」
 「祖父との心温まる思い出話はいいから本題に入れ」
 ヨンイルの話は脱線が多くていけない。
 焦燥に駆られて軌道修正、毛布を剥いで乗り出す僕を「どうどう」と宥め、ヨンイルが続ける。
 「サムライああ見えて案外酒弱いみたいで、一杯呷っただけでもう顔赤うしてたわ。で、酔いが回った頃合見計らって言うたったんや。直ちゃんは俺の物や、お前がぐずぐずしとるすきに直ちゃん美味しく頂いたって」
 あっけらかんと言い放つヨンイルに怒り爆発、傷が開く勢いで糾弾する。
 「虚言症め、大ホラ吹きめ、妄想と現実を混同する二次元オタクめ!一体いつ誰が君と寝た肌を重ねた性交渉を持った肉体関係を持った、確かに僕は君を誘った、のみならず君の上で下半身裸になって射精した!しかし君は勃起しなかったじゃないか。生身の人間には性欲を感じないとあれだけ言い張ったくせに……」
 「おっしゃるとおり俺はさらっぴんの童貞、直ちゃんは俺の上でいやらしく腰振って勃起して汁とばしたけどただそれだけ。色っぽく目え潤ませて頬赤らめて半開きの口から涎たらしてあんあん気持ちよさそうに喘いどったけど、ぶっちゃけ俺は何もしてない」
 ヨンイルが降参とばかりに両手を挙げるも、顔には反省の色なく薄ら笑いを浮かべてる。懲りない男だと怒りが再燃、ヨンイルの前で晒した痴態の数々を後悔する。
 激しい自己嫌悪に苛まれて頭を抱え込む僕の気も知らず、道化が軽薄な笑い声をたてる。
 「せやけどサムライは真に受けた。酒が入ってキレっぽくなっとったのもあるけど、俺の嘘見抜けんかったんはヤキモチが原因。あん時のサムライほんま怖かった、ほんま殺される思うた、ちびったもん。歯あ一本ですんでラッキーマンはガモウひろし。西の連中が止めに入らな片手でくびり殺されとった」
 僕の手からひょいと歯をつまみ上げ、ためつすがめつする。
 「俺、サムライに話したで。あの夜のこと」
 「あの夜」が何を意味するか直感する。
 真実を知ったサムライがどんな反応を示すか思いあぐねて膝を抱える。
 軽はずみな行動を軽蔑するだろうか。
 僕を嫌いになるだろうか。
 悲嘆する僕を見やり、ヨンイルが淡々と言う。
 「サムライの仕打ちにへこんだ直ちゃんが行きずりの道化に身を委ねかけたこと、サムライの浮気現場ばっちり目撃した直ちゃんがどんだけ沈んどったか、おどれがいなくなってからどんだけ辛い思いしとったか……」 
 人情味溢れる声音で語り、僕の肩に手をかける。あたたかい手。肩を包み込む人肌のぬくもりに励まされ、顔を上げる。
 いつのまにかヨンイルの顔から笑みが消えていた。
 ベッドに片膝乗せ、肩を掴む手に力を込め、傷にさわらぬよう慎重に押し倒す。
 思いやり深く僕を押し倒し、上にのしかかる。
 何故だか逆らえなかった。
 いつになく真剣な表情、真摯な眼光に気圧されたせいもある。
 肩から流れこむ手のぬくもりに抵抗力をなくしたせいもある。
 僕の肩を抱く手に縋るような力を込め、精悍につりあがった双眸に強い意志を宿し、誇らしげに宣言。
 「おどれがそんなんやったら、俺が直ちゃん奪う。俺が直ちゃん幸せにする、守ったる」 
 「ヨンイル…………、」
 心臓の鼓動が高鳴る。
 僕に覆い被さったヨンイルが低い声で続ける。
 「……そう言うたんや、サムライに。おどれがこれ以上直ちゃん不幸にするなら放っておけん、どんな手使っても直ちゃんかっさらう。惚れた奴を不幸にする男は最低や、とことん惚れて惚れ抜いた奴を最後まで守りきれんで偉そうなこと言うなや。俺なら絶対直ちゃん泣かせたりせえへん、直ちゃんが目から流すのは嬉し涙以外認めん」
 双眸に激情が爆ぜる。
 僕の肩にかけた手から歪んだ顔から、葛藤に苦しむ内面が痛いほど伝わってくる。ヨンイルは本当に僕を心配している。心配してくれている。その事実が重く胸にのしかかる。
 「西の龍が守ったる」
 「ヨンイル、よせっ……」
 心臓が跳ねる。我に返りヨンイルをどかそうとするも、肩を押さえ込む膂力は予想外に強く抗えない。へたに暴れたら傷にさわる、傷口が開いて腸が露出する。ベッドに身を横たえた僕の上、ヨンイルが無造作に上着を脱ぐ。
 「俺ん中の龍が直ちゃん欲しいて暴れとるんや」
 健康的に日焼けした肌、適量の筋肉を纏わせた引き締まった肉体があらわになる。オタクの癖になんでこんなにいい体をしてるんだと素朴な疑問を抱くがそれどころじゃない、身動きできない僕の眼前では上着を脱ぎ捨てたヨンイルが恐ろしく真剣な目をしている。
 精悍な肢体に巻き付く大蛇の刺青が、胸郭の上下と腹筋のうねりによって妖しく蠢動する。呼吸に合わせて収縮する腹筋で蛇腹がくねるのが妙に艶めかしい。
 「龍に抱かれて眠り」
 「ヨンイル、冗談もほどほどに!」
 柔らかく熱い感触。ヨンイルの唇の味。 
 「んっ………!?」
 一瞬のことだった。
 素早く唇を離したヨンイルが、自分自身混乱したように目を見開く。
 「こ、の…………!」
 勢い良く腕を振り、ヨンイルを床に突き落とす。背中から床に激突したヨンイルの上に衝撃で衝立が倒れこむ。
 ヨンイルがぐいと唇を拭う。
 「何をするんだヨンイル、君は二次元にしか欲情しないんじゃないのか、生身は対象外じゃないのか!?」

 頭が真っ白だ。
 ヨンイルは今何をした?
 僕の唇を奪った……キスしたのか?

 手で唇を押さえ、羞恥に火照った顔をヨンイルに向ける。
 サムライ以外の男と唇を重ねた不快感がどす黒く胸を蝕んでいく。
 ヨンイルがズボンの尻を払って立ち上がる。
 「たはは。またフラれてもた。やっぱダメや、ひょっとしたら勃たんかなー思てイチかバチか試してみたけどオタクの性がぬけきらん」
 「下半身が実用に耐えるか重患で実験するな!」
 「元気な重患やな。長生きすんで」
 上着に袖を通したヨンイルがぬけぬけと笑う。
 「唇は『お代』や。直ちゃんと相方の仲直りに貢献したお代や思えば安いくらいやろ?俺かて男の子やもん、キスのひとつくらい体験してみたいわ。ほんの出来心や、笑って許してや」
 片手で拝み倒すヨンイルに怒りが萎む。……まあ、ヨンイルの言い分も一理ある。道化にはサムライとの仲を取り持ってもらったのだ、キスが報酬になるならくれてやる。
 どうせロンともキスをしたのだ、と開き直る。
 「そうそう。直ちゃんお待ちかねのサムライやけどな、安田はんが睨み利かしとるせいで医務室に寄りつけんらしいで。医務室前の廊下を行ったり来たりしとるの何べんも見かけたわ。なんちゅーか、犬?待て、お預け、チョビ!そんな感じ」 
 「サムライがいるのか?」
 期待に胸が膨らむ。今すぐ廊下に駆け出そうとした僕をすかさず押し止め、ヨンイルが首を振る。
 「せやから無茶すんなて、今出てったかて会えんて。廊下には見張り役がおる」
 「見張り役など知るか、今すぐにでもサムライに会いたいんだ!」
 大声を出すと傷が痛む。服の上から脇腹を押さえた僕の懇願に、ヨンイルが呆れ顔で提出する。
 「言うと思った。代わりにこれ」
 「これは……?」
 「サムライから預こうた手紙」
 ヨンイルが枕の下に手紙を隠す。
 「ほなら直ちゃん、はよ元気になってな。今度来るときは動物のお医者さん全巻持ってくるさかい、チョビの可愛さにめろめろになってな」
 ヨンイルが何食わぬ顔で医務室を出ていく。
 「…………理解不能だ」
 手の甲で唇を拭う。
 僕にキスしたのはただの悪ふざけかそれとも……馬鹿な。ただの悪ふざけに決まってる。それ以外に何がある。ヨンイルのキスに不覚にも動揺してしまった自身が恨めしい。

 僕を押し倒す力強い腕。
 真剣な眼差し。
 僕を抱く龍の刺青……

 ヨンイルの事など忘れろ、忘れるんだ。
 ヨンイルに唇を奪われたことなど忘れてしまえ、他人の唇の感触を覚えたままサムライの手紙を読むのは裏切り行為だと自らを戒める。
 固く目を閉じ呼吸を整え、ヨンイルの唇の感触を意識から閉め出す。
 瞼の裏側にサムライを思い浮かべ、サムライの唇の感触をなぞる。
 両手に握り締めた便箋に顔を埋め、口を付ける。
 便箋の表面に触れるだけのキスをして唇を離す。注意深く周囲を見回し誰も見てないと再確認、安堵の息を吐く。
 「僕にはサムライだけだ」
 漸く気持ちが通じ合ったんだ。
 もう二度と放してなるものか、離れてなるものか。
 サムライの面影を重ねて便箋を胸に抱き、呟く。
 「…………愛している」 

 君を愛しく想う。
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