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三百四十七話
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展望台で異常事態が発生した。
「サムライが立ち稽古だとよ」
「へえ、珍しい。目立つの嫌いなサムライが表で立ち稽古なんざどういう風の吹き回しだ」
「相手は誰だ」
「こないだ来たシズルとかいう名前の新入り」
「あの女男か。なんでもサムライの従弟だって噂じゃねえか」
「従兄弟!?似ってねー」
読書を中断された腹立たしさも相俟って神経がささくれだち、ベッドから鉄扉まで大股に歩く。
勢い良く鉄扉を開け放ち、「廊下を走るな」と注意しようとして意外な人物の名に立ち竦む。十数人から成る囚人の集団が興奮に浮き足立って展望台の方角へと駆けて行くのを見届け、感傷のため息を吐く。
立ち稽古、か。相変わらず仲がいいことだな。
しかし僕には関係ない、サムライは僕にとって過去の人間だ。
房に引っ込んで読書を再開するもページをめくる手に動揺がでる。サムライの事を意識から閉め出そうと試みるもうまくいかない、僕がこうして読書してる間もサムライは静流と一緒にいる、展望台で立ち稽古をしているのだ。だからどうした?放っておけばいいじゃないか。
三日前、僕はサムライにはっきりと別れを告げられた。
サムライは僕の元から立ち去った。僕はサムライに捨てられた。かつて僕の友人だったサムライはもうこの世に存在しないのだ、と繰り返し自分に言い聞かせるも視線が文字を上滑りするもどかしい感覚に辟易、荒々しく本を閉じて腰を上げる。
発作的に僕は走り出した。
鉄扉を開け放ち、廊下にとびだす。最初は小走りに、廊下の途中からは肘振りの全力疾走で角を曲がり階段を駆け下り目的地に到着。
踊り場の壁に穿たれた窓を通り抜け、展望台を踏む。
展望台にはすでに人だかりができていた。
黄昏に暮れなずむ空の下、展望台中央にて対峙するのは……
サムライと静流。
「………くそ、こんなはずじゃなかったのに。何をしてるんだ僕は」
自分の行動に説明がつかない。
僕はこれまで意図的にサムライを避けてきた。食堂で遠くから見かけることはあったが決して彼のそばに寄らなかった。それなのに今日に限って展望台にやってきてしまった。矛盾してる。自己嫌悪に苛まれつつ先着した野次馬の間を縫いサムライに接近。サムライの位置からは最前列の人垣が障壁となって僕の姿は見えないはず。
「手加減なしだよ、貢くん。僕だって随分強くなったんだから」
悪戯っぽい声に振り向く。
静流がいた。
瞑想で集中力を高めるサムライとは対照的に余裕の笑みを浮かべている。長袖に包まれた細腕で危うげなく鉄パイプを弄ぶ様は、物心ついた頃から刀を持たされてきた者特有の慣れを感じさせた。
掌中の得物に目が吸い寄せられる。
色白の綺麗な手。
白魚の指には真珠の光沢の爪が並んでいる。無骨な鉄パイプを持つよりは扇子を握る方が余程似つかわしい手。
鉄パイプの表面をさする手を眺めるうちに違和感が膨らむ。
たかが立ち稽古、ほどほどに手加減すれば重傷を負う心配はない。せいぜいかすり傷程度で済むはず。
ましてや死亡する危険性などない、はずだ。
なのに何故、こんなに不安なんだ。
静流の手を凝視、激しい不安に苛まれ生唾を嚥下。
一体何が不安を掻き立てるんだと手を観察、違和感の原因を突き止める。
静流の手に異常な力が込められている。
鉄パイプが軋むほど握力を込めてるせいで蝋細工の如く五指が強張っているのだ、これでは指の方が砕けてしまうと危惧するくらいに。
顔にははにかむような笑みを浮かべ、得物を握る手には血を絞る力を込め。
西空に沈みゆく夕日の照り返しを受け、溶鉱炉で溶かしたような朱銀に輝く鉄パイプを緩慢な動作で構える。
「懐かしい。貢くんと立ち稽古なんて何年ぶりかな」
「子供の頃以来だ」
サムライがそっけなく答え、鉄パイプを振り上げた静流に応じて正眼の構えをとる。隙のない構え。
「どちらが勝っても負けても恨みっこなしだ」
静流が悪戯っぽく付け加え、鉄パイプの根元から切っ先まで手を滑らして殺気を通わす。僕は見た、何の変哲もない鉄パイプが凶器に変わる瞬間を。無機物に命が通う奇跡の一刹那を。
「姉さん、母さん。しかと僕の戦いを見てください。帯刀分家が嫡男、帯刀静流が参ります」
鋭い呼気を吐き、地を蹴る。
癖のない前髪が額を流れる。先攻は静流。
颯爽と展望台を駆け、流れる動作で鉄パイプを振り上げる。
綺麗な弧を描いて得物が打ち下ろされるも最前までそこにいたサムライの姿が消失、愚風を纏った凶器が残像を断ち割る。
瞬時に横に移動、鉄パイプの軌道上から逸れたサムライの目に感嘆の色が浮かぶ。実際昔と比べて格段に技量が向上しているのだろう静流は初撃をかわされてもたじろぐことなく切っ先を引く。
「逃げないでよ」
静流が上段の構えから得物を振り下ろす。
サムライは両手で支えた鉄パイプを水平に翳して難なくこれを防ぐ。
鉄パイプと鉄パイプが激突、甲高い金属音が夕空に抜ける。
両腕の膂力に利して鉄パイプを押し込む静流、体重を乗せて打ち込まれた得物を眉間に平行に翳した鉄パイプで防御したサムライが唇を噛み締める。
力と力が十字に拮抗、鉄と鉄が擦れ合う耳障りな金属音が大気を引き裂く。
「戦ってよ貢くん。昔みたいに」
静流の手に力がこもる。サムライのこめかみを汗が滴る。
両者、膠着状態に陥る。
緊迫の均衡を破ったのは、苦渋の独白。
「……太刀筋が変わったな、静流」
静流の狼狽を見逃さず反撃に転じる。
膝を屈伸させ腕の間接を撓めて一気に鉄パイプを押し返した反動で静流がよろめく。
「かつてのお前の剣は静かに流れる水の如く穏やかだった。光のどけき春の日に舞い散る桜の如く優雅だった。しかし今のお前の太刀は……激しく、鋭く、荒々しく。触れるもの皆無慈悲に斬り捨てる殺気に満ち満ちている」
「時がたてば人は変わる、太刀筋も変わる。僕も君も昔のままではいられないんだ」
静流の目を一抹の感傷が過ぎる。
あるいは残照が見せた錯覚かもしれない。
サムライが無念そうに目を閉じる。
他ならぬ己にこそ静流を変えてしまった責任があるとでもいうふうに項垂れたサムライめがけ風切る唸りをあげて一手が打ち込まれる。
サムライが目を見開く。
苛烈な眼光を宿した双眸が静流を捉えた次の瞬間、腰が沈む。
地を這うような低姿勢をとったサムライの頭上を鉄パイプが通過、静流の顔に焦りが生じる。
電光石火、サムライが鉄パイプを抜き放つ。
「っ……!」
衝撃。サムライの太刀を受けた静流の顔が苦悶に歪む。
間一髪、得物を体前に立てて斬撃を止めたものの鉄パイプが震動する威力に腕が痺れたらしい。静流とサムライでは骨格の造りが違う、体格が違う。華奢な静流と鍛え抜かれた痩身のサムライでは必然前者が劣勢にならざるえない。奥歯を食いしばり鉄パイプを押し返そうと苦闘する静流の額に玉の汗が浮かぶ。
「静流、お前に聞きたいことがある」
静流の正面に立ち、サムライが口を開く。
「お前が東京プリズンに来た真の目的は俺に関係しているのか。叔母上と薫流に関係しているのか」
静流の双眸に激情が炸裂、全身に殺気が迸る。
「俺は真実が知りたい。父上を殺した俺が帯刀の姓を名乗るのはおこがましい、しかし俺の中に流れる血を否定することはできない。俺は腐っても帯刀の人間だとお前と再会して自覚した。血の呪縛を断ち切ることができないならいっそ俺とお前、苗と薫流、父上と叔母上を狂わせた骨肉相食む争いの連鎖を食い止めたいのだ」
「優しいね、貢くんは」
薄っすらと唇に笑みを塗り、呪詛を吐く。
「生きながら修羅道に堕ちた僕を救ってくれるの?僕に犯されてもまだ救済を諦めないのは苗さんを見殺しにした罪の意識を拭いたいから?僕は苗さんの身代わりじゃない。僕を助けたからって苗さんは救われない。知ってるんだよ、僕は……」
なにを知ってるというんだ?
意味深に言葉を切った静流の方へと身を乗り出す。
静流は微笑んでいた。残照に染まる朱塗りの笑み。
生きながら修羅道に堕ち、全身血に染まった壮絶な姿に誰もが息を呑む。奈落の笑みに引きずり込まれる危惧からあとじさったサムライへと歩み寄り、静流が何事かを囁く。
サムライの目が驚愕に見開かれる。
硬直したサムライから跳び退き、無邪気な笑い声をたてる。
「実の姉弟で情を通じるなんて汚らわしい、犬畜生にも劣る行いだ」
姉弟で情を通じる?静流は何を言ってるんだ?
周囲の囚人が不審げに顔を見合わせる。
サムライは唇を噛んで黙したまま、生きながら身を裂かれる自責の念と戦っている。
西空に夕日が沈む。
残照に染め抜かれた展望台の中央、身軽に跳躍した静流が最前とは比較にならない苛烈さで斬撃を打ち込む。
サムライが追い詰められる。
人垣が崩れ、道が拓く。
美しき修羅が朱銀の凶刃を振るう。
サムライはそれでもまだ静流に手を上げることに気後れしているのか、防御を崩さない。
「知っているんだよ、僕は。苗さんは君に殺されたも同然だ」
残酷に追い討ちをかけ、防御一辺倒のサムライの間合いに踏み込む。
「帯刀家では古くから近親婚の風習があった、いとこ同士が婚姻するのも珍しいことじゃない。だけど君と苗さんの場合は違う。君たちはあまりに血が近すぎた、濃すぎた。君たちの恋は誰にも祝福されない禁忌だった」
静かに流れる水の如く。
否、岩をも砕く激流の如く。
「血と血が惹かれあうって本当だね。莞爾さんは君に本当のことを伝えてなかった。考えてみればこれほど残酷なことはない、君も苗さんもそうとは知らずに惹かれあい破滅を呼びこんだんだから。使用人と次期当主?ははっ、まさか!その程度なら大した問題じゃない、身分の差なんか簡単に克服できる。使用人と次期当主の身分差なんて屋敷の塀の中でだけ取り沙汰される問題、手に手を取り合って駆け落ちしちゃえば解決じゃないか」
いたぶるように目を細め、囁く。
「莞爾さんが君と苗さんの関係を禁じたのは、たかが使用人と本家跡継ぎの身分差を重んじたからじゃない」
「やめろ」
陰湿な光に双眸を濡らし、臆さず間合いを侵す。
名前を体現するが如く静かに流れる動きで懐に滑り込み、妖艶に赤い唇を開く。
「莞爾さんが君と苗さんの仲を裂いたのはー……」
「やめろ」
「君たちが実の、」
「やめろ!!!」
怒気の激発に感応し、大気が震える。
双眸に憤怒を滾らせたサムライが鉄パイプを構える、ただ静流にそれ以上言わせたくない一心で鉄パイプを振り上げたサムライはその瞬間足場が消失したことにも気付かない。
サムライは展望台の際に追い詰められていた。
「危ない!!!」
サムライの背後に絶壁が迫っている。
垂直に切り立った展望台の向こうには黄昏の空が広がっている。
下はコンクリートの地面、展望台から転落したら良くて瀕死の重傷、打ち所が悪ければ即死だ。僕は人垣の最前列に躍り出て叫んでいた。
「!」
僕の声で我に返ったサムライが足裏で地を掴み、展望台の際で急停止。
刹那。
静流が鉄パイプを一閃。
サムライの手より弾かれた鉄パイプが燦然と夕日を照り返す。
展望台の外へと長大な弧を描いた鉄パイプが中庭のコンクリートに激突、高く高く跳ねる。カランカランと涼やかな音をたて中庭を転がる鉄パイプから展望台の際、間一髪踏み止まったサムライに視線を転じ、静流がにこやかに宣言する。
「勝負あったね」
サムライは肩で息をしていた。立ち稽古で消耗したわけではない、静流の言葉に心乱されて自制を失っているのだ。
「莞爾さんに言われなかったかい?敵に何を言われようと平常心を保つのが武士の心得だって」
溶鉱炉の夕焼けに染まり、賢しげに教訓を垂れる。サムライは展望台の際に片膝付いたまま、従弟に敗北した屈辱に五指を握りこんでいる。
「東京プリズンに来て腕が鈍ったみたいだね。今の貢くんじゃ僕にかなわないよ」
捨て台詞を吐いて歩き出した静流の存在感に圧倒され、囚人が道を空ける。
僕はサムライに歩み寄ろうとして、思い止まる。
サムライに何て声をかければいいかわからなかった。ペア戦でも敗北したことがないサムライに、恐らくは東京プリズンに来てから初めて敗北を味わったサムライに何て言葉をかければいいかわからなかった。
落ちぶれ果てたサムライを見かね、試合終了を潮に散開しはじめた人垣の綻びを縫い展望台を抜け出す。
『血と血が惹かれあうって本当だね』
『莞爾さんは君に本当のことを伝えてなかった。考えてみればこれほど残酷なことはない、君も苗さんもそうとは知らずに惹かれあい破滅を呼びこんだんだから』
脳裏で静流の言葉を反芻、ある推測を組み立てる。
そんな馬鹿なと理性が否定しにかかるが、恐怖に強張ったサムライの顔が瞼の裏に浮かび心が揺れ動く。
僕の推理が正しければ、帯刀貢と帯刀苗はー……
「直くん」
「!?」
突然声をかけられ、立ち竦む。
静流がいた。展望台からの帰り道、物陰で僕を待ち伏せていたのだ。
「脅かすな、変質者かと思っただろう!?」
「ひどい言い草。ちょっと傷付いたよ」
何がそんなにおかしいのか、喉の奥で愉快げな笑い声をたてた静流がふと真顔になる。
「直くん、展望台にいたでしょう。僕と貢くんの立ち稽古を見に来たんだ。違う?」
「違う。僕は明日の気象予測に行ったんだ。イエローワークの進捗状況は天候に左右されるからな、展望台に赴いて明日の天気を確かめたんだ。西空が晴れていたから明日の天気は晴れの確率が80%、湿度は……」
「『危ない!』って叫んだよね。あの一言がなければ貢くんを落とすことができたのに」
何?
「君はまさか、故意にサムライを落とそうとしたのか?転落事故を装って殺そうと展望台の際に誘導したのか?」
静流は答えずに笑っている。その笑顔こそ肯定の証。
展望台から危うく転落しかけたサムライの姿を思い出し、発作的に胸ぐらを掴み、背中を壁に叩きつける。
一歩間違えばサムライは本当に死んでいた。冗談では済まない。悪ふざけにも限度がある。僕は大事な友人を失っていた……
大事な友人?
その言葉に狼狽する。
僕は今大事な友人と言ったのか?馬鹿な。あの男はもう僕の友人でもなんでもない、僕の知らない男、帯刀静流の庇護者の帯刀貢だ。帯刀貢が死のうがどうなろうが僕には関係ないと自己暗示をかけようとするも、彼が転落しかけた瞬間体が勝手に動いたのは事実で混乱する。
僕はまだ帯刀貢の中にサムライを見ているのか、帯刀貢の中にサムライの面影を求めているのか?
「みじめだね」
静流がはっきりと憫笑を浮かべる。
「過去に君を守ってくれたサムライはもういないのに未練たらしく展望台まで見に来たのはどうして?僕にはその理由がわかる。君はまだ貢くんを忘れられない、いや、かつて君を守ってくれた『サムライ』への狂おしい執着を断ち切れない。可哀想に。貢くんは僕の物なのに、僕と体を繋げてしまったのに、君はまだ貢くんが振り向いてくれないかと追いすがっている。後生だからこっちを向いてとお願いしてる」
「黙れ低脳。偉そうに精神分析するな」
怒りで語尾が震えて迫力に欠ける。
憐憫を込めた目で僕を眺め、静流が問いかける。
「……本当の事が知りたいかい?」
「貴様の言葉など信用しない。サムライが苗を犯したなど根も葉もない妄言をたとえ一瞬たりとも信じた僕が馬鹿だった」
「そうだ、そのとおり。君は馬鹿だ。貢くんが苗さんを犯したりするはずない。貢くんはてんで意気地なしだからね、想いを寄せた女性を力づくで犯すなんてイチかバチかの危険な賭けにでるわけない。貢くんと苗さんの身に起きたのはもっと残酷な出来事だ」
一呼吸おき、試すように僕を見る。
深泉のように澄み切った目に、魔性の誘惑に抗う僕の顔が映る。
「真相を知れば帯刀貢が嫌いになる。帯刀貢への執着をさっぱり断ち切ることができる。帯刀貢がどんなにか犬畜生にも劣る卑劣で卑俗な人間か痛感し、彼と結んだ友情を後悔し、彼に寄せた恋情を嫌悪し、綺麗さっぱり未練を捨て去ることができる」
耳朶に吐息を吹かれ、展望台を立ち去り際に見た光景が脳裏に立ち上がる。
展望台の際に脱力して膝を屈したサムライ。
悄然と肩を落として残照の滝に打たれる落ちぶれた姿。
「…………否」
僕の呟きを聞き咎め、静流が眉をひそめる。
当惑した静流をまっすぐ見据え、僕は言う。
これまで僕を守ってきた男、サムライ。今は静流の隣にいる帯刀貢。
その二人が同一人物だと自覚し、サムライもまた帯刀貢の一部である現実を受け入れる。
「僕はこれまでサムライを憎む努力をしてきた。だがどうしても彼を憎めなかった。彼が僕のもとを去っても憎めなかった。それが何故だかこの三日間がずっと考えていた、考えに考え続けて今この瞬間漸く理解した」
「何故?」
口元に不敵な笑みが浮かぶ。
「サムライが去って失ったものより、これまでサムライから貰ったもののほうがずっと多いからだ。僕は東京プリズンに来るまで友人がいなかった、妹以外の人間に心を許すことがなかった。だが、サムライと会って僕は変わった。サムライは僕に感情をくれた。体温の心地よさを教えてくれた。僕を守ってくれた」
僕はサムライを憎めない。
憎みたくない。
「静流、僕と君は違う人間だ。たとえ君がサムライを憎んでいても、僕までそうなる確証はない。僕は」
そこで言葉を切り、目を閉じ、呼吸を整える。
一拍のためらいのあと、嘘偽らざる本音を吐露する。
「僕は、サムライを愛しく思う。彼を愛しいと思う気持ちが彼を憎いと思う気持ちに呑まれるとは思えない。真実を知ればきっと僕もサムライを嫌悪する、だけど憎悪ではない、僕はサムライを憎めない。帯刀貢もサムライの一部だと気付いたから」
帯刀貢はサムライの一部、サムライは帯刀貢の一部。
帯刀貢がかつてこうありたいと志した理想の体現がサムライなら、帯刀貢はサムライの人間的な弱さを代わる分身。どちらか一方だけでは成立しないのだ。僕、鍵屋崎ナオにとっての鍵屋崎スグルがそうであるように。
突然、静流が笑い出す。
撃ち抜くように喉を仰け反らせ弓なりに背中を撓らせ、狂った哄笑をあげる。
「愛しい、か。そうか、君も苗さんと同じ事言うんだね。『あの時』の苗さんとそっくり同じこと言うんだね。いいさ、教えてあげる、帯刀貢の本性とやらをあとでたっぷり教えてあげるよ!後悔しても知らないよ、元の木阿弥だ、悲劇は再びくりかえすんだ!!
『愛しい』?帯刀貢にこれほど似つかわしくない言葉はないのに君も苗さんもどうかしてる、愛しいもんかあの男が、僕と姉さんを狂わせて帯刀家を滅ぼしたあの男が!!僕はずっとずっと帯刀貢を憎んでいた、いつからなんてわからない、ずっと昔から憎んでいたよ!
本家の嫡男は天才で分家の嫡男は努力の人、僕が生涯かけて到達できるか出来ないかの剣の極みに貢くんはたった十年、いや五年で到達できる!同じ帯刀の姓を持つのに何故こうも違うんだ、こんな不公平が許されるんだ?本家の長男の上だけに才能が発芽して開花して、日陰育ちの分家は本家の引き立て役で一生を終えなきゃいけないなんて姉さんと母さんが哀しむ不公平は認めない!!」
拳で壁を殴る。鈍い音が鳴る。
壁から天井に震動が駆け抜け、蛍光灯が揺れる。
肩で息をする静流の目が爛々と光る。
「君に帯刀貢の本性を教えてあげる。帯刀家の血の因縁がもたらした悲劇、帯刀貢と帯刀苗の関係を暴露してやる。帯刀貢の過去を知ってそれでもまだ彼が『愛しい』なんて戯言がほざけるなら大したものだ、苗さんといい勝負のお人よしの馬鹿者だ!!」
「お人よしの馬鹿者で結構だ、サムライを憎む天才よりサムライを好きな馬鹿でいたほうがマシだ!!」
感情的に口走ってからこれではまるで僕自身が馬鹿だと認めてしまったようだと後悔、忸怩たるものを感じる。
「……その、今のは言葉の綾だ。断っておくが僕は馬鹿じゃないぞ、天才だ」
まずい、このフォローではますます馬鹿っぽく聞こえる。どうしたんだ鍵屋崎直、しっかりしろ。この場の空気に流されるな。
内心動揺する僕を廊下に残し、何事もなかったように静流が歩き出す。
鉄パイプの先端を廊下にひきずって歩きながら、唄うように言葉を紡ぐ。
「『玉の緒よ 絶えねば絶えね 永らえば 忍ぶることのよわりもぞする』……苗さんはそうしたんだ。重すぎる秘密を守るのが苦しくて自ら命を絶ったんだ」
澄んだ声音で諳んじて、最後に付け加える。
「姉さんも、ね」
[newpage]
「悪い子にはおしおきしなきゃな」
レイジが邪悪に笑ってる。
顔にかかる前髪の奥、純白の眼帯に覆われた片目は傷に塞がれている。俺は知ってる、あの眼帯の下にはサーシャと刺し違えて出来た無残な傷跡がある。サーシャのナイフに切り裂かれて片目を失明したレイジは、硝子めいた透明度の隻眼に狂気の光をちらつかせている。
片目を犠牲にしてまでも勝利の栄光を掴んだレイジ。
体の一部を捨ててまでもリングに上がり続けたのは俺を守る為だ。
レイジはいつだって自分の身を犠牲にして俺を庇ってくれた、俺が傷付くくらいなら自分がぼろぼろになったほうがマシだと片目が光を失ってもなお最後の最後まで戦い続けた。
そのレイジが今、俺を押し倒している。
俺の上にのしかかって眉間に安全ピンを翳している。
安全ピンの先端に目が吸い寄せられる。
裸電球の光を集めて鋭く輝く切っ先が耳朶を刺し貫くところを想像、恐怖を感じる。思い出すのはタジマに無理矢理ボイラー室に引きずりこまれた時の事、安全ピンの先端で耳朶の柔肉を突かれる鋭い痛み。
俺の耳朶をちぎるとるように掴んだタジマの下卑た笑顔、黄ばんだ歯のぬめり、口臭くさい息までもが生々しく蘇る。
タジマがちょいと指先に力を込めれば鋭い針が耳朶を貫通、向こう側に抜ける。
情けない話、俺はびびっていた。
四囲を密閉されたボイラー室は暑苦しく蒸れていて、何もしなくても大量の汗をかいた。コンクリ壁を這い回るボイラー管からは間欠的に蒸気が噴出、大気を白く曇らせた。サウナに閉じ込められてるみたいだった。ピアスを開けるくらいどうってことない、一瞬で済む、大して痛いわけないと自分に言い聞かせて恐怖をやわらげようと挑戦したが無駄だった。
迫り来る安全ピンとタジマの哄笑の二重攻撃で虚勢が吹っ飛んだ。
勿論、東京プリズンにだってピアスを開けてる奴は大勢いる。レイジみたいに両耳にずらりと銀環を並べている奴もいる。
だが、自分で開けるのと他人に開けられるのは全く別物だ。
俺はピアスなんか開けたくない。男がそんなちゃらちゃらしたもんつけられっか。軽薄が服着て歩いてるレイジを見りゃわかる通りピアスは軟派の象徴だ。俺は今日までずっと硬派に生きてきた、大の男がちゃらちゃらしたアクセサリーを身に付けるなんざ冗談じゃねえと意固地な信念を貫いてきた。第一喧嘩の邪魔だ。耳朶のピアスはともかくペンダントやら指輪やら余計な重しをじゃらじゃら付けてたんじゃ、いざって時反射的に体が動かねえじゃんか。
裸電球の光を背に、レイジの顔には濃淡くっきりとした陰影が刻まれている。
俺をベッドに押し倒してのしかかったレイジの目が爛々と光っている。凶暴な光。狂気に理性を明け渡して本来の獰猛さを剥き出した危険極まりない雰囲気が漂っている。嫉妬に狂える暴君にもはや言葉は通じない、説得も釈明も弁解も一切無駄だと絶望する。
正邪と清濁が混沌とまざりあった笑顔が暗黒に染まるのも時間の問題。現に俺が身動きできず眺めてる前でレイジの笑顔は刻々と変化してる。
優雅に長い睫毛に飾られた目には脆く硬質な色硝子の瞳が嵌めこまれている。光の加減で猫科の肉食獣を彷彿とさせる黄金にも変わる神秘的な瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。
魔力が宿る硝子の瞳、視線の呪縛。
怖い。
レイジが怖い。
「冗談、やめろよレイジ。らしくねえよ、こんなの」
震えそうな語尾を叱咤、虚勢を張って言い返す。レイジの表情は変わらない。眉一筋動かない、完璧な無表情に近い完璧な笑顔。
こんなに綺麗に笑える奴には生まれて初めて会った。
レイジは俺がこれまで出会った人間の中でも断トツ極上の容姿の持ち主だが、出来すぎな程整ったツラは人に忌避される要因にもなりうる。
人は「完璧なもの」に慣れてない。
もともと不完全な人間は潜在的に「完全」や「完璧」な存在を恐れているのだと前に鍵屋崎が言っていた。だからいざ完璧なものや完全なものが眼前に現れると嫌悪を隠せない。出来すぎなほど容姿が整った者はもはや同じ人間とは思えず、悪魔か天使に近い存在である錯覚に襲われる。
あの時鍵屋崎が捏ねた理屈が今腑に落ちた。
ガキっぽく怒ったりあけっぴろげに笑ったり、いつも表情を崩してるレイジがこんな風に微笑すると背筋が凍り付く戦慄を覚える。
口元だけに薄っすら笑みを刷いた恐ろしく邪悪な表情は悪魔に近い。
俺の眉間に安全ピンを翳したまま微動だにしないレイジに焦燥が募る。
まさかレイジは本気で俺の浮気を疑ってるのか、所長に吹き込まれたデマを頭でっかちに信じこんでるのか?
確かにうなじのキスマークは動かしがたい浮気の証拠と言えなくもないがすべては誤解、ホセの悪ふざけの延長なんだと身の潔白を訴えたいが、下手に動けば眼球にピンが刺さる恐怖から、肘であとじさるように仰向けにレイジを仰ぐ。
「どうかしてるよ、お前。まさか所長の言うこと信じてんのか?俺が他の男に抱かれたって、それでキスマーク付けられたって本気で思ってんのかよ。ふざけんな、俺は男と乳繰り合う趣味なんかねーよ、男が男とヤるのが当たり前の日常になった東京プリズンでもずっと処女守ってきたのはいつか懲役終えて娑婆出て女抱く日心待ちにしてたからだ!!お前とはそりゃその場のノリっつか勢いっつか男の約束で仕方なくヤっちまったけど俺が自分から他の男に抱かれに行くわきゃねえだろが、俺は今でも女が好きなんだよ、一人でヤるときもむらむら妄想してんのはメイファの裸とか好みの女の裸とか開脚とか胸隠しとか……畜生なに言わせんだ、なんで俺が自慰のオカズ公開してまで無実訴えなきゃいけねーんだよ!?」
やばい、テンパってとんでもねえことまで暴露しちまった。
レイジの誤解を解きたい一心で恥ずかしい秘密を口走り、羞恥で顔が熱くなる。穴があったら入りてえ。激しい恥辱と後悔に苛まれて唇を噛んだ俺の上を衣擦れの音たて影が移動、レイジが前のめりになる。
「とにかくあれは、あの痣は誤解なんだ。最初から話すからまず俺の上からどけよ、こんな体勢じゃ落ち着いて話もできね……」
「うなじにキスマークつくっといて何が誤解だって?いい加減諦めろよ、ロン。聞き分けない子は嫌いになるぜ」
レイジが唄うように揶揄する。
「俺がケツにローター突っ込まれて一晩中よがり狂ってた時、房から追い出されたお前は上半身裸でどこほっつき歩いてたんだ?上半身ヌードで一晩中廊下ほっつき歩いてたら最悪凍死の可能性もある、ところがお前はピンピンしてた。ま、ちょっと風邪もらっちまったみたいだけどな」
俺の風邪なんか病気のうちに入らないと鼻で笑い飛ばし、続ける。
「やっぱ野良は駄目だな。飼い主がいなけりゃすぐ他の人間に擦り寄る恩知らずだ。白状しちまえよ、ロン。お前、餌くれるなら誰でもいいんだろ?人肌にぬくもった寝床と体をどろどろに溶かす快楽さえくれりゃ相手は誰でもいいんだろが。構ってくれ拾ってくれって甘い声で鳴いてお持ち帰りされたんだろ。首に痣まで作っといて言い逃れはナシだぜ。さて、どうするかな。他の奴に拾われねえように一発でわかる印つけなきゃな。お前の髪の毛一本から足の小指の爪に至るまで全部王様の持ち物だって、キレたら怖い暴君の財産だって身の程知らずな連中に思い知らせてやるには……」
嫉妬深い暴君がしつこく俺の耳朶をいじり、恐怖を煽る。
人体の先端でも一際敏感な耳朶を刺激され、危うく声が漏れそうになる。
下唇を噛んで声を堪えるも、むずがゆい快感に頬が赤らむ。
華奢な指先に摘まれた安全ピンが冷たい銀色に光る。
ピンの先端から目を離さず生唾を嚥下、じっとり汗ばんだ手のひらをシーツになすりつける。
だんだん腹が立ってきた。レイジは頭から俺の浮気を決めてかかってる、自分の知らないところで他の奴に抱かれたと思い込んで弁解のチャンスも与えてくれない。あんまりじゃんか。いつもくどいくらい「愛してる」を言うくせに、俺が好きだとか信じてるとか俺がいなきゃ生きてけないとか安っぽい台詞を連発するくせに肝心な時にこれっぽっちも信用されないなんてとプライドが傷付く。
失望が怒りに変換され、頭に血が上る。
レイジが信じられないなら仕方ない、腹を括るっきゃない。
目を閉じて深呼吸、心の中でゆっくり十数えて平常心を取り戻し、決心を固める。
「……いいぜ。やれよ」
レイジが鼻白む気配が伝わってきた。俺は目を閉じたままやけっぱちに続ける。
「お前が俺のこと信じらねえなら仕方ねえ、煮るなり焼くなり耳に針通すなり好きにしやがれ。どうせ俺が『ごめんなさい、実は他の男にケツ貸しました』って泣き叫んだところで容赦なく針通すんだろ?お生憎さまだな、暴君の思い通りになんかなってやるもんか。俺は誓って他の男にケツ貸したりなんかしてねえ、お前以外の男に抱かれるのなんざごめんだ、反吐がでる。だけどレイジ、どうしてもお前が信用できねえってんなら首に鈴でも耳にピアスでも何でもいいから王様の印をくれよ。俺がお前の物だって印をつけろよ。やきもち焼きの王様はそれで満足なんだろ、俺が目に涙浮かべて痛がる顔見てスカッとしたいんだろ。頼むもうやめてくれ、俺が悪かった許してくれってがくがく腰振って縋り付いてほしいんだろ。ガキっぽい仕返し。精神年齢いくつだよ」
嘲るように喉を鳴らし、口の端を吊り上げる。
薄目を開けた視界に無表情のレイジが映る。
俺の挑発が核心に触れて、笑みを浮かべる余裕すら失った顔。
「来いよ暴君。悪い猫を調教してくれよ」
安全ピンなんか怖くない。耳朶にピアス開けるのがなんだってんだ、笑って受け止めてやろうじゃんか。ペア戦決勝戦、サーシャに嬲られるレイジを金網越しに見てるしかなかった呪縛の恐怖と比べたら全然マシだ。
肘を立て上体を起こし、きっかりとレイジを見据える。
レイジは俺にのしかかったまま指先の安全ピンの存在も忘れて硬直していたが、やがて完全に俺の上からどく。
「―座れよ」
王者の威厳と暴君の威圧を兼ね備えた命令に逆らえるはずない。
レイジの表情を探りながら慎重に起き上がり、床に足を垂らす。
俺の隣に腰掛けたレイジが無造作に身を乗り出し、至近に顔を寄せてくる。裸電球の光を透かし、優雅に長い睫毛がきらめく。
物憂げに煙った隻眼が冷酷な印象を与える。
西洋の血を感じさせる彫り深く端正な顔だちに、不覚にも見惚れる。
多分、現時逃避だ。一年と半年見慣れたレイジの容貌を詳細に観察するのは、睫毛一本一本が数えられるほど顔が近付いた緊張をごまかすためだけじゃない。
指先の安全ピンから目を逸らし、跳ね上がる動悸と呼吸を整えるのに集中する。
耳朶に針を通される痛みを想像、腋の下にじわりと汗がにじむ。いくら痛みに慣れていても怖いものは怖い、なかなか心の準備ができない。
「怖いか」
レイジが悪戯っぽく囁く。性悪な顔。
「怖くねえ」
手のひらに滲んだ汗を隠し、きっと睨み返す。
「無駄口叩いてる暇あんならさっさとやれ。そうやってじりじり長引かせてびびらすつもりか?王様の癖に姑息な手使うなよ、がっかりだぜ」
「言ってろ。じきに泣いて縋り付いてくるんだから」
んなワケあるかと反発が込み上げる。
レイジがにやにや笑いながらそっと俺の耳朶に触れる。
だが笑ってるのは口元だけで目はちっとも笑ってない。顔の上と下で表情を使い分けるなんて器用な奴だと感心する。
何か、何か違うこと考えろ。
何でもいい、何か他のこと、気が紛れることを。ホセ。あいつ殺してやる。あいつの悪ふざけのせいでレイジがキレちまったんだ。
俺もとことん間抜けだ、うなじにキスマークつけられたのにも気付かず寝過ごしちまったなんて訴えたところでさっぱり説得力ない。
さすがに気付くだろ、うなじを吸われたら。でも待て、俺はホセに腹を殴られて朝までずっと気を失ってて……まさかホセ、最初からそれが狙いで?俺にキスマークつけるのが目的で腹に一発くれたってのか?
まさか。だがそう考えれば筋が通る。
ホセは最初から俺の体を狙って……
何の為に?
「!!?っ、あ、ひっ……」
耳朶への刺激で思考が散らされる。
安全ピンの先端が軽く耳朶を突く。
「やらしい声だすなよ、ちょっと感度確かめただけだろ。それとも……物足りないのか」
「馬鹿、言え……はや、くしろ」
怖い。畜生怖い。感情に抑制が利かない。
ベッドに腰掛けた姿勢でぎゅっと膝を握り締め、無意識に体を固くする。レイジを突き飛ばして逃げ出したい衝動と必死に戦いつつ、来るべき時、鋭い痛みを覚悟して絶対に悲鳴をあげないよう下唇を噛み締める。ともすれば奥歯ががちがち鳴りそうだ。これ以上焦らされたら気が狂ってしまいそうだ。もう一度催促しようとレイジに向き直った瞬間、
「!?っあ、れっ………!!」
突然、耳朶を口に含まれた。
不意打ちだった。熱い唇に耳朶を食まれ、舌で転がされる。
耳元で唾液を捏ねる音が響く。
レイジの舌を感じる。俺のいいところ感じるところ、性感帯を全て知り尽くした舌が器用に引っ込められまた突き出され耳朶に唾液を塗りこめる。耳の穴まで舌が潜りこんで来てくすぐったい。
唾液でべとべとになった耳朶を飽き足らず舐め回すレイジを何とかどかそうとして、体の前に無意味に手を掲げる。
「ふ、くっ………レイジやめ、耳朶なんか舐めても美味くねえだろっ……」
「消毒だよ」
あっけらかんと言うレイジに呆れる。消毒?口実だろそりゃ。
「鍵屋崎が言ってたぜ、こけた時膝に唾ぬりこむのは砂利とか黴菌洗い流すためで唾自体に殺菌効果はな……ふあっ」
軽く前歯を立てられ、声が弾む。やばい。これじゃ俺が感じてるみたいじゃんか。男に耳朶舐められて喘ぎ声なんかあげたら変態だ。
レイジの肩に手をかけ力づくでどかそうとしたが、レイジは俺の耳朶を舌でねぶるのに夢中で一向に引き下がらない。
背筋をぞくりと悪寒が駆け抜ける。
熱い唇とそこから覗いた舌が耳朶をなぞる。変な感じ、だ。体の先端がめちゃくちゃ敏感になってる。
風邪が悪化したらしく、気だるい微熱を感じる。レイジの肩に手をかけ寄りかかり、微熱に赤らむ顔を伏せ、懸命に声を抑える。
透明な唾液の糸を引いて唇が離れる。
耳朶の消毒とやらを終えて満足したらしいレイジが、扇情的に上唇を舐め上げる。
「耳朶舐められただけでイっちまったのか?本番はこれからだってのに」
「イってねえ、風邪気味で熱があるんだよ……」
言い返した声にも張りがない。疲弊した俺を無視し、レイジが安全ピンの留め金を外す。
冷たい銀色に光る安全ピンが緩慢な動作で迫り来る。鋭利な先端が耳朶に触れ、ひやりとする。
金属の冷たさ、硬い感触。
「……………っ!」
「声我慢できねえなら俺の服掴んでろ」
レイジが俺の手首を掴み、しっかりと上着の胸を掴ませる。はからずもレイジの胸に縋り付く格好になった俺は、刻々と迫り来る貫通の瞬間に備え、ぎゅっと目を閉じる。耳朶の感触を確かめるように二・三度軽く突いてから、レイジがうっとり呟く。
「美味そうな耳。食いちぎりたい」
おそるおそる薄目を開ける。
レイジが自分の耳朶に手をやり指を触れ、難なくピアスを外す。ピアスを外す瞬間少し顔を顰め、色っぽく眉を寄せる。レイジの手のひらに乗ったピアスを一瞥、これが俺の耳に栓をするモノだと理解する。
サイズはそれ程大きくない、シンプルな銀のピアス。
「王様の慈悲だ。片方だけで許してやるから右か左か選べ」
「右」
殆ど即答していた。右でも左でもどっちでも変わらねえと自棄になっていた。
レイジが軽く首肯、耳朶にあてがった安全ピンに圧力をかける。
「!!ひっあ………」
痛い。唇をきつく噛み締めて苦鳴を濁らす。
鋭利な針がゆっくりと確実に耳朶の柔肉に沈みこんでいく。
瞼が涙に濡れる。
耳朶を刺し貫く鋭い痛みは、俺には刺激が強すぎる。
レイジの服を掴んだ五指を閉じこみ、忍耐力を振り絞って必死に痛みを堪える。
「れいじ、通る、破けるっ……じらすな、はやくっ……」
「焦らさなきゃ面白くねえだろ。いい子だから我慢しろよ、ロン。ほら、見てみろ。冷たい針がお前の耳朶をゆっくりゆっくり通ってくところ、処女膜が限界まで張り詰めて破けるところを」
「お前といいタジマといいただピアス開けるだけの行為をどんだけ卑猥にするんだよ!?」
タジマと並べられたレイジがさも心外そうな顔をする。
だが、レイジの表情を観察する余裕があったのはそこまでだ。
それから先は殆ど覚えてない。
耳朶に浅く埋め込まれた針がさらに容赦なく進み、柔肉を貫通する痛みが電流の刺激に変わる。全身の毛穴が開いて汗が噴出、レイジの胸に埋めた顔が引き攣り、下唇が切れて口の中に鉄錆びた血の味が広がる。早くはやく終わってくれとそれだけを一心に念じて苦痛な時間に耐えるもレイジは俺を焦らすようにいたぶるようにひどく緩慢に針を進める。耳朶に痛覚が通ってるのを今この時ほど恨んだことはない。
レイジの胸にしがみついた俺はじんわり熱をもった瞼の奥で眼球が潤むのを感じ
「目え瞑るなよ。こっちからあっちへ針がコンニチワするところをちゃんと見てろ。トンネル開通万歳だ」
痛い熱い耳が熱い痒い
レイジの嘲笑をどこか遠くで聞く。
耳朶が痛痒く疼く。
息を吸い、止める。レイジはわざとゆっくり針を進める、俺が痛がる顔をたっぷり堪能して支配欲征服欲を満たしてやがる。
目の端で捉えた優越感に酔った笑顔が癪に障る。
俺はレイジがこんなに残酷になれることに驚いていた、レイジが他ならぬ俺自身に対してこんな暴虐に及ぶなんてとショックを受けていた。
「あ、あ、あああっああ、ひぐっあ……!!」
「もうすぐ全部通る。一本に繋がる。お前の処女膜が破ける」
ぷつん、と皮が弾ける音がした。耳朶の裏側に薄皮のテントが張り、それが破けて針が突出、完全に耳朶を刺し貫く。
瞬間、全身が脱力してレイジにしなだれかかる。耳朶に穴が開いた。なんだかすうすうする……変な感じだ。耳朶はまだじんわり痺れて鈍い疼痛を訴えている。じくじく疼く耳朶をレイジが掴み、慣れた手つきでピアスを嵌める。
俺の耳朶に銀のピアスが留められる。
「お利口さん。処女喪失おめでとう」
「!このっ、」
ふざけた口調でまぜっかえすレイジに怒りが沸騰、激情に駆られて拳を振り上げる。
その瞬間。
レイジが俺の腕を掴みぐいと引く。
突然腕を引かれてレイジの胸に倒れこんだ俺の唇が強引にこじ開けられて舌が潜り込む。抵抗しようとした。口腔に侵入した舌を噛もうとしたがレイジの方がうわてだった。
たちどころに舌を絡め取られて頬の内側の粘膜を探られ貪られる、唾液が喉に逆流して息苦しさに噎せ返る。
突然の展開に頭が真っ白になる。
「んっ、ふ、ぐ……」
四肢がぐったり弛緩する。
プライドも意地も何もかも全部投げ捨てレイジに身を委ねたい誘惑に駆られる。レイジは俺の肘を掴んだまま決して手を緩めず放さない、熱い舌が俺の口腔を貪欲にまさぐって歯列の裏側をなぞって未知の性感帯を刺激してー……
「!!?」
口移しで何かを飲まされた。
レイジの口から俺の口へ、舌を介して送り込まれた異物を反射的に吐き出そうとしたができなかった。レイジが俺の口をしっかり塞いで嚥下を強要したからだ。
レイジに口を塞がれ窒息しかけ真っ白な頭で必死に暴れる、激しく首を振り手足を振り乱して抵抗するもレイジは許してくれない。
酸素を欲して暴れる俺の口を塞いだまま器用に舌を使って何かの錠剤と思しき異物を喉の奥へと送り込みー
喉仏が動く。
一本の管となった喉を、謎の錠剤が滑り落ちる。
「かはっ、ごほっ」
目的を達し、漸く唇が離れる。激しく咳き込み肺一杯に酸素を取り入れる俺を見下ろし、レイジが謎めいた笑みを浮かべる。
裸電球を背に不気味な陰影に隈取られた笑顔には、暗黒が渦巻いている。
「レイジおま、どういうつもりだ!?今何飲ませたんだよ!!」
脳裏でけたたましい警鐘が鳴り響く。今更吐き出そうにもムリだ、正体不明の錠剤は喉を滑り落ちて胃袋に吸収されちまった。
片手で喉を支えてレイジを見上げた俺は、ぞくりとする。
「頑張ったご褒美。風邪薬だよ。お前熱あるんだろ?それ飲んで大人しくしてろ」
「マジ、なのか」
疑い深い目でレイジの表情を探り見る。
不安定に揺れる裸電球の翳りが真意を読めなくする。俺は立ち上がろうとして、体に力が入らずそのままベッドに倒れこむ。
体が変だ。おかしい。ぞくぞくと悪寒が駆け抜ける。寒いのか熱いのかよくわからず頭が朦朧とする。
皮膚の上を毛虫が這ってるようなむずがゆさが体の異変を物語る。
「ただの風邪薬ならなんであんなまぎらわしい飲ませ方すんだよ、あんな無理矢理……お前何隠してるんだ、俺に何飲ませたんだよ、事と次第によっちゃただじゃ!」
「逃がさねーから」
ぎしりとベッドが軋む。レイジがベッドに片膝乗せて俺にのしかかる。
天井で裸電球が揺れる。催眠術をかける振り子のように。
「めでたいなお前。これで、この程度でおしおきが済むとマジで思ってたのか?耳朶にピアス開けた程度で?ははっ、まさかな!いくらなんでもそんなにおめでたくねえよな。ロン、お前もいい加減わかったろ。俺の名前はレイジ、英語の憎しみ。キレたら怖い王様、嫉妬深い暴君。そんな俺がお前の耳に針通したくらいで許し与えるわけねえだろ。もっともっとこらしめてやんなきゃ」
レイジが俺の前髪をかきあげ、額にキスをする。
唇の温度が額に伝わる。俺は仰向けに倒れたまま、上に覆いかぶさるレイジとその背後の天井を見つめる。
配管むきだしの殺風景な天井を背に俺に覆い被さったレイジが、俺の動揺を面白がるようにすっと目を細める。
恐ろしく邪悪な表情。
嫉妬に狂える暴君が、甘い蜜を含んだこの上なく優しい声音で言い聞かせる。
「知ってるか、ロン。風邪薬の成分の何十分の一かは媚薬なんだぜ」
それ自体媚薬のような声が滴り落ちた瞬間、俺はひきずりこまれるように眠りに落ちた。
[newpage]
『君に帯刀貢の本性を教えてあげる』
静流が妖艶に微笑む。
『帯刀家の血の因縁がもたらした悲劇、帯刀貢と帯刀苗の関係を暴露してやる』
色の良い唇を禍々しい笑みが縁取る。
生きながら修羅道に堕ちた静流、生きながら修羅と化した静流。
何が彼をそうさせたのかは僕にはわからない。
静流の変貌にはサムライが、否、帯刀貢が関わっているのだろうか。帯刀貢が起こした血腥い惨劇が一族を破滅に追い込んだのなら、静流もまた余波を被って不幸な目に遭ったのかもしれない。犯罪加害者と犯罪被害者を共に身内にもつ帯刀家が世間の好奇の目に晒され誹謗中傷され、事件と直接関係ない親類縁者までも害を被ったのは事実。
静流はサムライを恨んでいるのか?憎んでいるのか?
サムライを許すふりをしながら、心の底では少しも許さず憎み続けているのか?
静流の怨恨は根深い。静流は骨の髄まで帯刀貢を憎んでいる。
本家の嫡男として生を受け将来を期待された貢。
分家の嫡男として生を受け常に貢と比較されてきた静流。
二人の間に何があった?苗は何故死んだ?苗の死がサムライの動機に関連してるのか?静流は苗の死に関わっているのか?
疑問があとからあとから脳裏に浮かぶ。静流は僕に帯刀貢の過去を暴露すると言った。はたして僕には帯刀貢の過去の全貌を受け止める覚悟があるのか、帯刀貢の本性を知ってなお彼を受け容れる覚悟があるのか?
静流との口論では怒り任せて偉そうなことを言ったが僕自身まだ迷いを捨てきれない。えてして真実は残酷なものだ。サムライが師範の実父含む門下生十二人を斬殺した動機について僕は何も知らない、だが静流は知っている。
静流はもうすぐここに来る。
運命の刻が来る。
静流が来るまでに心の準備をしておかねばとベッドに腰掛けて深呼吸するも、心の表面がさざなみだち、両手に額を預けて項垂る。
本当にこれでいいのか、僕の選択は間違ってないのか?
瞼裏の暗闇に答えを探すも見つからず、僕はまた選択を誤ろうとしているのではないかと不安が膨らむ。
静流の口から帯刀貢の過去を聞くことに対しても抵抗を感じている。これまでサムライが頑なに口を閉ざしてきた過去を、静流の口から聞き出そうとしている自身への嫌悪感を抑えきれない。
サムライから話してくれるまで待つべきではないか?
こんな卑怯な形で他人の口から聞きだすなんて……僕は最低だ。最低の卑怯者だ。彼の過去を受け止める自信と覚悟もない癖に、静流への反感と嫉妬から帯刀貢に理解を示す包容力ある人間のふりをしてしまった。
だが、後戻りはできない。
廊下の向こうから足音が近付いてくる。
カツン、カツン……周囲の閑寂を際立たせる優雅な靴音。一定の歩幅でやってくる人物の正体は、鉄扉を開ける前から予想が付いていた。来客を迎えに腰を上げた僕は、片手でノブを掴んで深呼吸する。
とうとうこの時が来てしまった。
はたして僕はサムライの過去を知ってなお、彼を嫌悪せずにいられるだろうか。それでもまだサムライを好きだと言えるだろうか。
靴音が途絶える。鉄扉の向こうに人の気配。格子窓を覗いて顔を判別するまでもなく、不吉な報せを運んできた客の正体はわかっている。
緊張に汗ばむ手でノブを握り、鉄扉を押し開く。
錆びた軋み音をあげながら鉄扉が開き、少年が現れる。
帯刀静流。
「お出迎えご苦労さま」
僕と目が合い、艶やかに微笑む。
「出迎えたわけではない、派手なノックなどされて近隣の房の囚人に注目されるのを避けたいだけだ。……早く入れ」
「お言葉に甘えてお邪魔するよ」
鉄扉を押さえてそっけなく促せば、客人が優雅な動作で足を繰り出し、房に踏み込む。音をたてぬよう慎重に鉄扉を閉じて振り返れば、房の中央に佇んだ静流が形良く尖った顎を傾げ、感慨深げにあたりを見回していた。
配管剥き出しの殺風景な天井、寒々しい灰色を晒した四囲のコンクリ壁、左右の壁際に配置された粗末なパイプベッド、奥の洗面台と隣の便器。
天井から吊り下がった裸電球が心許ない光を投げかける。
裸電球の光量はあまりに乏しく房の全貌を照らすに至らない。
房の四隅には荒廃した闇が蟠っている。裸電球のささやかな光を一身に浴び、心もち顎を傾げ、透き通るように薄い瞼を閉ざす。僕はしずかに静流に歩み寄る。裸電球の下、瞑想の面持ちで瞼を閉ざした静流は当然僕の接近に気付いているはずだが反応ひとつ示さない。
「貢くんの残り香がする」
不意に静流が呟き、薄目を開ける。
柔和な光を宿した双眸が向けられたのはからっぽのベッド……三日前までサムライが寝ていたベッドだ。サムライの不在を痛感するのが嫌で几帳面に整えられたベッドを意識的に無視してきた僕は、静流の視線を追い、後悔する。
壁際でひっそり存在を主張するベッドを目の当たりにし、喪失感が胸を締め付ける。
「サムライが出て行ってからまだ三日だ。たった三日しか経過してないのだから墨の匂いが漂っていても何の不思議もない」
「もう三日だよ」
務めて冷静に指摘すれば、あっさりと静流が切り返す。
「貢くんが君と別れてからもう三日も経つ。この三日間貢くんがどこでどうしてたか知りたいかい?」
「知りたくない」
喉元に苦汁が込み上げる。この三日間、サムライがどこで何をしてたかなどわざわざ説明されなくても大体想像はつく。
静流と一緒にいたに決まっている。
先日食堂で見かけたサムライは静流と一緒だった、二人はいつも一緒だった、排他的な雰囲気を漂わせるほど親密に寄り添い通路を練り歩き空席を捜していた。静流はとても幸せそうだった。サムライはいつもと同じ仏頂面だったが、やや頬がこけて憔悴していた。
サムライを独占した優越感からか、静流が意地悪く肩を竦める。
「嘘つき。知りたいって顔に書いてあるよ。君、この三日間ろくに寝てないでしょう。貢くんの身を心配するあまりろくに眠れず目の下に隈作って本当に健気だよ、そんなところまで苗さんそっくりだ。
苗さんは尽くす女だった。貢くんが莞爾さんのシゴキで打ち身を作った時も付きっきりで看病してた。二人が結婚すればさぞかし仲の良い夫婦になったと思うよ。苗さんは本当に貢くんを愛していた、貢くんも本当に苗さんを愛していた。剣しか取り得がない朴念仁の貢くんが苗さんの前でだけ表情豊かになった、まれに笑顔すら見せた。
苗さんは貢くんの『特別』だった、帯刀貢の生涯の伴侶となるべき女性だった。貢くんも口にこそ出さなかったけど、身分の垣根をこえて苗さんを娶る決心を固めていたよ。この世で苗さんだけに注ぐ愛情深い眼差しが何より饒舌に本心を語っていたからね」
揶揄するような口ぶりで言い、僕に向き直る。
「最初に君と会ったとき、びっくりしたよ。溶鉱炉の夕焼けに染まる展望台で貢くんと並んだ君を見て、まさかと目を疑った」
一呼吸おき、断言。
「帯刀貢の眼差しに、かつて苗さんに向けたのと同じものを見出したから」
清冽に澄んだ水鏡の目は僕の感情をそのまま反射する。裸電球の薄明かりの下、衣擦れの音すら淫靡にしなやかな動作で僕に擦り寄り、耳朶で囁く。
「この三日間、僕と帯刀貢は夜毎肌を重ねて互いの体を貪りあった。帯刀貢は最愛の伴侶をなくした哀しみと君との別離がもたらした喪失感を埋めるために、僕もまた最愛の人をなくした哀しみを癒すために、同じ帯刀の血を引くもの同士で淫蕩に睦みあったんだ」
生温かい吐息が耳朶を湿らす。人の生き血を啜ったように紅い唇が綻ぶ。しどけなく凭れかかった体を押し返そうとするも、華奢な体のどこにこんな力を秘めているのか疑うほど微動だにしない。
「嘘をつくな」
「嫉妬?」
サムライと静流が夜毎肌を重ねたなど信じたくない、あのサムライが男色行為に溺れるはずがない。
理性が軋んで悲鳴をあげる。サムライの潔白を信じたいが、静流の言葉を否定する根拠がない。現実に情事の現場を目撃してしまった僕は、静流とサムライが関係を持ってないと言い切ることができない。動揺に乱れた呼吸を整えるのに集中、固く目を閉じて平常心を取り戻す。
再び目を開けた時、僕はサムライへの信頼を回復していた。
「僕はサムライを信じる」
静流がかすかに狼狽する。怪訝な色を宿した目で僕を窺い見る表情が、裸電球の光加減で朧に揺らめく。
不審げに眉をひそめた静流と対峙、腕に力を込め突き放す。押し返された静流の頭上、黄色く煙った裸電球が揺れ、光の弧を描く。
淡く滲んだ光の弧が虚空を行き来する。
眼鏡のブリッジを押し上げて位置を直し、真っ直ぐに静流を見据える。
「事実と真実は別物だ。確かに僕はサムライの情事の現場を目撃した、君とサムライが性交渉を持ったのは現実であり事実であり僕という証人もいる、動かしがたい証拠がある。サムライが君を抱いたのは事実、それは三日前僕がこの目で確かめた。しかし僕が知っているのは経緯を省略した表層の事実のみ、深層の真実は今もってわからない。僕はサムライの身の潔白を信じ続ける、サムライが君を抱いたのは彼自身の意志ではないと無実を信じ続ける。何故ならサムライは僕の、」
静かに言葉を切り、目を閉じる。
胸に複雑な感情が去来、様々な想いが交錯する。僕は無力だ。あまりに無力な人間だ。サムライなしではきっと東京プリズンで生き抜くことさえできなかった。サムライは僕を助けてくれた、守ってくれた、庇ってくれた。売春班で流した涙の温かさ、僕を抱きしめる腕のぬくもりをまだしっかりと覚えている。時折見せるはにかむような笑顔や不器用な優しさがどれだけ僕を支えてくれたかわからない。
『お前が愛しい。直』
僕もだ、サムライ。心の底から君を愛しく思う。
だから、君を信じる。僕に愛しいと言った君を信じる。献身的に僕を守り支えてくれた一途な愛情を信じ続ける。
生まれて初めて他人から愛情を貰えた。
生まれて初めて「愛しい」と言われた。
恵以外の人間から愛情を貰えるなんて期待はおろか望んでもいなかった僕に、愛しさの意味を教えてくれた君を信じ続ける。
しっかりと目を見開き、体の脇で指を握り込み、静流を睨み付ける。
「サムライは僕の友人以上の存在だ。彼の存在はもはや僕の生きる意味と直結してる、彼の存在無しでは生きる価値さえ見出せない。僕は東京プリズンでサムライと出会って漸く自分が好きになれた、サムライに『愛しい』と言われて初めて自分を好きになることができたんだ!!
サムライはきっと僕がIQ180の天才でなくても同じ言葉をくれた、他の誰でもない世界にただ一人の鍵屋崎直として僕を好きになってくれた。『IQ180の天才』でも『恵の模範となる完璧な兄』でもない、こんなふうにみっともなく泣き叫び怒鳴り飛ばし子供っぽく感情をあらわにする僕が好きだと言ってくれたんだ!!
だから僕はどんなに落ちぶれても彼を信じ続ける、もはやかつてのように潔癖な武士ではなく現実逃避の快楽に身を委ね優柔不断な態度をとり続けても世界で僕だけは彼を信じ続けると決めたんだ、それが事実ではなく真実を選び取った鍵屋崎直の答えだ!!」
突然、哄笑があがる。
静流がへし折れそうに背中を仰け反らせ高らかに高らかに哄笑する。 いっそ無邪気にも聞こえる甲高い哄笑が四囲のコンクリ壁に跳ね返り、静寂の水面に波紋を起こし、殷々と反響する。
鼓膜に沁みる笑い声。
喉仏の突起すら美しい首を仰け反らせ、爆ぜるように笑い声をあげた静流がそのままよろめいてサムライのベッドに倒れこむ。
サムライの枕を掻き毟り、喘息めいて荒い呼吸を吐きながら上体を起こした静流が、しっとり涙の膜が張った目に僕を映す。
「ああ、可笑しい。笑い死ぬかと思ったじゃないか。君、本当に貢くんが好きなんだねえ。とんでもない惚気じゃないか」
笑いの発作が終息、余韻で口端を痙攣させる静流の前で慄然と立ち竦む。
静流はおかしい、狂っている。
あれは頭がまともな人間の笑い方ではなかった。
サムライのベッドに腰掛け、人さし指で目尻を拭い、続ける。
「……ねえ、直くん。苗さんの失明の原因知ってる?」
「なにを言い出すかと思えば……苗は生まれつき目が見えないんじゃなかったのか?サムライからそう聞いたが」
まさか。
不吉な予感が過ぎる。僕の表情を読んで動揺を汲み取った静流が、もったいぶった仕草で両手を組み、その上に顎を載せる。
裸電球が淡い光を投げかける薄暗い房にて、ベッドに腰掛けた静流の前に立ち、続く言葉に耳を澄ます。
「莞爾さんは鬼だった」
静寂の水面に落ちた一滴の呟き。
裸電球の光が届かない壁際のベッドにて、組んだ両手の上に顎を置き、遠くを見るような目を虚空に据える。
「本家と絶縁する前も母さんと伯父さんの関係は決して良好とは言えなかった。莞爾さん……貢くんの父親はとても自己中な人で、自分が気に入らないことがあるとすぐに大声を張り上げて悪し様に人を罵った。どうかすると手を上げることさえあった。
母さんはいつも言ってた。莞爾さんはとても本家当主の器じゃない、あんな品性下劣な人間を当主の座に就かせておくのは帯刀家の恥だって……僕も同感だ。僕だけじゃない、帯刀莞爾の人となりを知るものなら誰だって一も二もなく頷くだろうさ。故人を悪く言うのは気が引けるけど、莞爾さんはとても傲慢な男だった。冴さん……死んだ貢くんのお母さんも随分泣かされたみたいだから、冴さんと仲が良かった母さんが莞爾さんを恨むようになるのも道理だ」
「前置きが長い。君の話はどうにも合理性に欠けるな」
耐え切れず口を挟めば、静流が苦笑する。
「苗さんの失明の原因を作ったのは莞爾さんなんだ」
「…………どういうことだ?」
緊張で喉が渇く。静流は一体何を言おうとしている?
「莞爾さんは本家跡取りの貢くんにひとかたならぬ期待をかけ、物心つくかつかないかの頃から厳しい稽古を課した。剣だけじゃない、正座や箸の持ち方に至るまでの礼儀作法を徹底的に仕込んだんだ。明らかに行き過ぎだと本家の誰もが思っていたが口には出せなかった、みんな現当主の逆鱗にふれるのが怖かったんだ。莞爾さんの折檻から貢くんを庇ってくれる人は誰もいなかった……ただ一人、苗さんを除いて」
静流が緩慢な動作で首を振り、前髪が額を流れる。
「当時苗さんは本家に引き取られてきたばかり、貢くんと大して年の変わらないほんの子供だった。だけど苗さんは莞爾さんの横暴に苦しむ貢くんを放っておけず、ある日障子を開け放ち座敷に躍りこんだ。座敷ではちょうど莞爾さんが癇癪を起こして貢くんを打擲していた。苗さんは畳に身を投げ出し貢くんに覆い被さった、それを見た莞爾さんは激昂ー……」
静流が何かを投擲する動作をする。
「たまたま近くにあった硯を苗さんに投げつけた」
驚きに言葉を失う。静流の言葉では当時の苗はまだほんの子供だったという。つまりサムライの父は、長じてサムライに斬殺された帯刀莞爾は、たった四歳か五歳の幼い女の子めがけて大人の力で硯を投げつけたというのか?帯刀莞爾のあまりに非道な振る舞いに絶句する僕を横目で窺い、務めて平静に静流が続ける。
「苗さんは強く頭を打った。恐らくそれが失明の原因だ。打ち所が悪かったんだろうね、きっと。苗さんが高熱をだして寝込んでも莞爾さんは医者に診せようとすらしなかった、使用人風情にそこまですることないと無関心に放置した。早期の段階で医者に診せてたら失明は防げたのかもしれないのに……まあ、今となっては過ぎた事だけど」
「……胸糞悪い話だ。だがしかし、サムライは苗は生まれつき盲目だと」
「当時貢くんは三歳かそこらのおさなご、はたして当時の出来事を正確に記憶している思う?実際貢くんが物心ついた頃には苗さんの目は殆ど見えなくなっていた、何も知らされなかった貢くんが苗さんは生まれつき盲目だと勘違いしても無理はない」
サムライが育った環境は、僕の想像以上に苛酷だった。
サムライの実父である帯刀莞爾は、僕の義父である鍵屋崎優を超える非道な人間だった。
「帯刀貢と帯刀苗はほんの子供の頃から二人で支えあってきた。二人で支えあい生き抜いてきたと言っても過言じゃない。二人が愛し合うようになるまでそう時間はかからなかった」
「だが帯刀莞爾は反対した、莞爾にサムライとの仲を引き裂かれた苗はショックで首を吊りー……」
静流の語尾を奪って推論を述べれば、静流が淡々と訂正する。
「使用人と次期当主の身分差はただの口実。莞爾さんが二人の間柄に強硬に反対したのは別の理由がある。そしてそれこそが帯刀家最大の汚点、帯刀貢が刀を取った真の動機、帯刀苗の自殺の原因………」
静流が今腰掛けているベッドの下には、苗の形見の手紙を納めた小箱がある。
静流はそれを知らない。自分が苗の形見を尻に敷いてるとは思いもせず帯刀家の古く澱んだ血が起こした悲劇を笑顔で語り、とうとう静流は言った。
言ってしまった。
「帯刀貢と帯刀苗は姉弟だった。二人はそうと知らず腹違いの姉弟で愛し合ったんだ」
漠然と予想していた。覚悟もしていた。
サムライが犯した禁忌が近親相姦であると僕自身心のどこかで勘付いてはいたのだ。以前苗とサムライの関係を「姉弟みたいだ」と評した時、彼が激昂した理由がこれでわかった。
手のひらに痛みを感じた。
手のひらの柔肉に爪が食い込んでいた。
真相を明かされたところで嫌悪も憎悪も感じなかった。
ただ、胸が痛かった。
僕は苗を知らない。サムライがかつて愛した女性を知らない。だが、苗の思い出話をするサムライが痛みを堪えるような顔をする度に嫉妬をかきたてられた。
サムライはまだ苗を忘れてない。
サムライの中では今もまだ苗が生きている。
それも無理はない。
生前苗に流れていた帯刀の血が、今もサムライの中に流れているのなら。
「………やはりそうだったのか。帯刀苗はサムライの……帯刀貢の異母姉だったのか」
「さすがに気付いてたみたいだね。そうだよその通り、苗さんは貢くんの異母姉、莞爾さんが外で作った子供さ。でもそれだけじゃない、苗さんには四分の一外人の血が流れていたんだ」
「何?」
僕の動揺を手に取りもてあそぶように舌なめずり、笑みを含んだ双眸に裸電球の光を映す。
「苗さんの母親はロシア人との混血だった。そのせいかわからないけど苗さんはとても色が白かった、それこそ日本人離れしてね。見た目は絵に描いたような大和撫子だけど確かに苗さんには四分の一外人の血が流れていた。苗さんが帯刀家に引き取られた理由に関しては僕もよく知らない。とにかく苗さんは莞爾さんの気まぐれか同情だかで本家に引き取られ、出自を隠して育てられることになった。ところが莞爾さんの身勝手も極まったもので、苗さんと貢くんの関係が明らかになるや二人を裂くのに躍起になった。近親相姦がまずいのは勿論だけど外人の血が流れる娘と次期当主が恋仲になるなど言語道断、帯刀家に穢れた血を混ぜるわけにはいかないってね」
胸に苦い感情が湧き上がる。
顔を伏せて表情を隠し、吐き捨てる。
「苗は帯刀莞爾に殺されたようなものだな」
「それは違う。苗さんを殺したのは僕だ」
え?
虚を衝かれた僕の前で立ち上がり、虚空に腕を伸ばす。
「もう一度言うおうか。帯刀苗を追い詰めたのはこの僕、帯刀静流だ」
ひんやりした指先が首に触れる。
華奢な手が首にかかり、徐徐に圧力がかかる。咄嗟のことで対応が遅れた。我に返った僕は静流の手首を掴みもぎ放そうとするも、華奢な体には似合わぬ力で首を締め上げられて頭に酸素が回らなくなる。
馬鹿な。こんな細いからだをしてるくせに、華奢な手足をしてるくせに何故引き剥がせない?
渾身の力を振り絞り酸素を求め暴れるも、静流は口元に薄っすら笑みを塗ったまま、僕が足掻けば足掻くほど暗い愉悦に浸り、爛々と目を輝かせる。
「僕は貢くんを苦しめるために苗さんを罠にかけた。ただそれだけのために苗さんを地獄に落とした」
「手を放せこの低脳、気道を圧迫するんじゃない、刑務所内でまた殺人を犯す気か!?」
「帯刀貢の苦しみは僕の喜び、帯刀貢の絶望こそ帯刀薫流と世司子への供物。僕が東京プリズンに来た理由は帯刀貢に地獄を見せるため、母さんと姉さんの願い通り苦しめて苦しめて帯刀貢を殺すためだ」
気道が圧迫され、空気の通り道を妨げられる。
酸素を欲して喘ぐ僕にのしかかるように首を絞めながら静流は薄っすらと微笑んでいる。駄目だ。苦しい。縊死。絞殺。扼殺。扼死とは手または前腕で頚部を圧迫して死に至ること、被害者は年少者や女性・老人など弱者が多い。死体所見には手、指、爪による強圧部にその大きさ以下の皮下出血である扼痕や鋭い三日月型の加害者の爪あとなどの特徴があり、死体の顔面は鬱血ー……
苗と同じ死に方。
静流の目的は僕に苗と同じ死に方をさせ、サムライを追い詰めること?
「!!っ、」
ここで死ぬわけにはいかない、静流の思い通りになるわけにはいかない。
薄れかけた意識を繋ぎとめ、首に巻き付いた手を思い切り引っ掻く。手の甲に紅い線が走り皮膚が捲れ肉が抉れる、苦痛に顔を顰めた静流が握力を緩めた瞬間に彼を突き飛ばし、首を押さえて鉄扉に駆け寄る。
早く早く逃げなければ、サムライに会いに行かなければ!
「サムライの誤解を解くまで殺されるわけにはいかない、彼に『愛しい』と伝えるまで死ぬわけにいかないんだ!!」
肩から鉄扉に激突、そのまま砕けそうになる膝を支え、汗でぬめる手でノブと格闘する。くそっ、開け、開くんだ!気ばかり焦って苛立ちが募ってなかなかノブが掴めない、静流はすぐ後ろに忍び寄っているというのに、うなじに息遣いを感じる距離にいるというのに―
「開いた!!」
歓声をあげ、鉄扉を開け放つ。蛍光灯の光満ちる廊下に飛び出そうとした僕の口が、湿った布で塞がれる。扉の横で待機していた人物が僕の口に布きれを当てたのだ。誰だ?目だけ動かして顔を確認、驚愕。
以前売春班に僕を買いに来た柿沼という看守だった。
「ありがとう柿沼さん、彼を捕まえてくれて」
「お安い御用だぜ。手え怪我してるみてえだけど大丈夫か?」
「大した怪我じゃない。掠り傷さ」
鼻腔の奥を刺激臭が突く。この匂いは以前嗅いだことがある……クロロフォルムだ。まずい。柿沼の腕の中から逃げ出そうともがくも四肢に力が入らない、ぐったり弛緩した体がやがてバランスを失ってー……
廊下に倒れ伏せた僕の頭上、痛々しく腫れた引っ掻き傷を舌で舐めた静流がもう片方の手を無造作に差し出し、柿沼から何かを受け取る。
急激に押し寄せる睡魔と闘いながら柿沼から静流に手渡された物に目を凝らす。
紅い襦袢だった。
「約束通り僕の用が済んだら遊ばせてあげる。他の看守も呼んで皆で楽しもう」
スニーカーのつま先で無造作に僕の顎を持ち上げ、静流が言う。
霞む目で静流の笑顔を捉える。禍々しい笑顔。帯刀貢を地獄に落とすためなら手段を選ばないと宣言する邪悪な笑顔。
「さあ直くん、おうちに帰ろう。僕の用はまだ済んでない。夜はまだこれからだ。君には姉さんの代わりを務めて貰わなきゃいけないんだから……」
静流がスッと屈み込み、僕の鼻先に襦袢を突き出す。
香でも焚き染められているのだろうか、静流が腕に抱いた襦袢から極楽の芳香が匂い立ち、瞼の裏で悪夢めいた色彩が渦巻く。
静流の囁きが耳朶にふれる。
華奢な指が僕の上着の胸元へと忍び込み、鎖骨を這う。
「君は色白だから紅い襦袢が映えそうだ」
不吉な予言を最後に意識が溶暗した。
「サムライが立ち稽古だとよ」
「へえ、珍しい。目立つの嫌いなサムライが表で立ち稽古なんざどういう風の吹き回しだ」
「相手は誰だ」
「こないだ来たシズルとかいう名前の新入り」
「あの女男か。なんでもサムライの従弟だって噂じゃねえか」
「従兄弟!?似ってねー」
読書を中断された腹立たしさも相俟って神経がささくれだち、ベッドから鉄扉まで大股に歩く。
勢い良く鉄扉を開け放ち、「廊下を走るな」と注意しようとして意外な人物の名に立ち竦む。十数人から成る囚人の集団が興奮に浮き足立って展望台の方角へと駆けて行くのを見届け、感傷のため息を吐く。
立ち稽古、か。相変わらず仲がいいことだな。
しかし僕には関係ない、サムライは僕にとって過去の人間だ。
房に引っ込んで読書を再開するもページをめくる手に動揺がでる。サムライの事を意識から閉め出そうと試みるもうまくいかない、僕がこうして読書してる間もサムライは静流と一緒にいる、展望台で立ち稽古をしているのだ。だからどうした?放っておけばいいじゃないか。
三日前、僕はサムライにはっきりと別れを告げられた。
サムライは僕の元から立ち去った。僕はサムライに捨てられた。かつて僕の友人だったサムライはもうこの世に存在しないのだ、と繰り返し自分に言い聞かせるも視線が文字を上滑りするもどかしい感覚に辟易、荒々しく本を閉じて腰を上げる。
発作的に僕は走り出した。
鉄扉を開け放ち、廊下にとびだす。最初は小走りに、廊下の途中からは肘振りの全力疾走で角を曲がり階段を駆け下り目的地に到着。
踊り場の壁に穿たれた窓を通り抜け、展望台を踏む。
展望台にはすでに人だかりができていた。
黄昏に暮れなずむ空の下、展望台中央にて対峙するのは……
サムライと静流。
「………くそ、こんなはずじゃなかったのに。何をしてるんだ僕は」
自分の行動に説明がつかない。
僕はこれまで意図的にサムライを避けてきた。食堂で遠くから見かけることはあったが決して彼のそばに寄らなかった。それなのに今日に限って展望台にやってきてしまった。矛盾してる。自己嫌悪に苛まれつつ先着した野次馬の間を縫いサムライに接近。サムライの位置からは最前列の人垣が障壁となって僕の姿は見えないはず。
「手加減なしだよ、貢くん。僕だって随分強くなったんだから」
悪戯っぽい声に振り向く。
静流がいた。
瞑想で集中力を高めるサムライとは対照的に余裕の笑みを浮かべている。長袖に包まれた細腕で危うげなく鉄パイプを弄ぶ様は、物心ついた頃から刀を持たされてきた者特有の慣れを感じさせた。
掌中の得物に目が吸い寄せられる。
色白の綺麗な手。
白魚の指には真珠の光沢の爪が並んでいる。無骨な鉄パイプを持つよりは扇子を握る方が余程似つかわしい手。
鉄パイプの表面をさする手を眺めるうちに違和感が膨らむ。
たかが立ち稽古、ほどほどに手加減すれば重傷を負う心配はない。せいぜいかすり傷程度で済むはず。
ましてや死亡する危険性などない、はずだ。
なのに何故、こんなに不安なんだ。
静流の手を凝視、激しい不安に苛まれ生唾を嚥下。
一体何が不安を掻き立てるんだと手を観察、違和感の原因を突き止める。
静流の手に異常な力が込められている。
鉄パイプが軋むほど握力を込めてるせいで蝋細工の如く五指が強張っているのだ、これでは指の方が砕けてしまうと危惧するくらいに。
顔にははにかむような笑みを浮かべ、得物を握る手には血を絞る力を込め。
西空に沈みゆく夕日の照り返しを受け、溶鉱炉で溶かしたような朱銀に輝く鉄パイプを緩慢な動作で構える。
「懐かしい。貢くんと立ち稽古なんて何年ぶりかな」
「子供の頃以来だ」
サムライがそっけなく答え、鉄パイプを振り上げた静流に応じて正眼の構えをとる。隙のない構え。
「どちらが勝っても負けても恨みっこなしだ」
静流が悪戯っぽく付け加え、鉄パイプの根元から切っ先まで手を滑らして殺気を通わす。僕は見た、何の変哲もない鉄パイプが凶器に変わる瞬間を。無機物に命が通う奇跡の一刹那を。
「姉さん、母さん。しかと僕の戦いを見てください。帯刀分家が嫡男、帯刀静流が参ります」
鋭い呼気を吐き、地を蹴る。
癖のない前髪が額を流れる。先攻は静流。
颯爽と展望台を駆け、流れる動作で鉄パイプを振り上げる。
綺麗な弧を描いて得物が打ち下ろされるも最前までそこにいたサムライの姿が消失、愚風を纏った凶器が残像を断ち割る。
瞬時に横に移動、鉄パイプの軌道上から逸れたサムライの目に感嘆の色が浮かぶ。実際昔と比べて格段に技量が向上しているのだろう静流は初撃をかわされてもたじろぐことなく切っ先を引く。
「逃げないでよ」
静流が上段の構えから得物を振り下ろす。
サムライは両手で支えた鉄パイプを水平に翳して難なくこれを防ぐ。
鉄パイプと鉄パイプが激突、甲高い金属音が夕空に抜ける。
両腕の膂力に利して鉄パイプを押し込む静流、体重を乗せて打ち込まれた得物を眉間に平行に翳した鉄パイプで防御したサムライが唇を噛み締める。
力と力が十字に拮抗、鉄と鉄が擦れ合う耳障りな金属音が大気を引き裂く。
「戦ってよ貢くん。昔みたいに」
静流の手に力がこもる。サムライのこめかみを汗が滴る。
両者、膠着状態に陥る。
緊迫の均衡を破ったのは、苦渋の独白。
「……太刀筋が変わったな、静流」
静流の狼狽を見逃さず反撃に転じる。
膝を屈伸させ腕の間接を撓めて一気に鉄パイプを押し返した反動で静流がよろめく。
「かつてのお前の剣は静かに流れる水の如く穏やかだった。光のどけき春の日に舞い散る桜の如く優雅だった。しかし今のお前の太刀は……激しく、鋭く、荒々しく。触れるもの皆無慈悲に斬り捨てる殺気に満ち満ちている」
「時がたてば人は変わる、太刀筋も変わる。僕も君も昔のままではいられないんだ」
静流の目を一抹の感傷が過ぎる。
あるいは残照が見せた錯覚かもしれない。
サムライが無念そうに目を閉じる。
他ならぬ己にこそ静流を変えてしまった責任があるとでもいうふうに項垂れたサムライめがけ風切る唸りをあげて一手が打ち込まれる。
サムライが目を見開く。
苛烈な眼光を宿した双眸が静流を捉えた次の瞬間、腰が沈む。
地を這うような低姿勢をとったサムライの頭上を鉄パイプが通過、静流の顔に焦りが生じる。
電光石火、サムライが鉄パイプを抜き放つ。
「っ……!」
衝撃。サムライの太刀を受けた静流の顔が苦悶に歪む。
間一髪、得物を体前に立てて斬撃を止めたものの鉄パイプが震動する威力に腕が痺れたらしい。静流とサムライでは骨格の造りが違う、体格が違う。華奢な静流と鍛え抜かれた痩身のサムライでは必然前者が劣勢にならざるえない。奥歯を食いしばり鉄パイプを押し返そうと苦闘する静流の額に玉の汗が浮かぶ。
「静流、お前に聞きたいことがある」
静流の正面に立ち、サムライが口を開く。
「お前が東京プリズンに来た真の目的は俺に関係しているのか。叔母上と薫流に関係しているのか」
静流の双眸に激情が炸裂、全身に殺気が迸る。
「俺は真実が知りたい。父上を殺した俺が帯刀の姓を名乗るのはおこがましい、しかし俺の中に流れる血を否定することはできない。俺は腐っても帯刀の人間だとお前と再会して自覚した。血の呪縛を断ち切ることができないならいっそ俺とお前、苗と薫流、父上と叔母上を狂わせた骨肉相食む争いの連鎖を食い止めたいのだ」
「優しいね、貢くんは」
薄っすらと唇に笑みを塗り、呪詛を吐く。
「生きながら修羅道に堕ちた僕を救ってくれるの?僕に犯されてもまだ救済を諦めないのは苗さんを見殺しにした罪の意識を拭いたいから?僕は苗さんの身代わりじゃない。僕を助けたからって苗さんは救われない。知ってるんだよ、僕は……」
なにを知ってるというんだ?
意味深に言葉を切った静流の方へと身を乗り出す。
静流は微笑んでいた。残照に染まる朱塗りの笑み。
生きながら修羅道に堕ち、全身血に染まった壮絶な姿に誰もが息を呑む。奈落の笑みに引きずり込まれる危惧からあとじさったサムライへと歩み寄り、静流が何事かを囁く。
サムライの目が驚愕に見開かれる。
硬直したサムライから跳び退き、無邪気な笑い声をたてる。
「実の姉弟で情を通じるなんて汚らわしい、犬畜生にも劣る行いだ」
姉弟で情を通じる?静流は何を言ってるんだ?
周囲の囚人が不審げに顔を見合わせる。
サムライは唇を噛んで黙したまま、生きながら身を裂かれる自責の念と戦っている。
西空に夕日が沈む。
残照に染め抜かれた展望台の中央、身軽に跳躍した静流が最前とは比較にならない苛烈さで斬撃を打ち込む。
サムライが追い詰められる。
人垣が崩れ、道が拓く。
美しき修羅が朱銀の凶刃を振るう。
サムライはそれでもまだ静流に手を上げることに気後れしているのか、防御を崩さない。
「知っているんだよ、僕は。苗さんは君に殺されたも同然だ」
残酷に追い討ちをかけ、防御一辺倒のサムライの間合いに踏み込む。
「帯刀家では古くから近親婚の風習があった、いとこ同士が婚姻するのも珍しいことじゃない。だけど君と苗さんの場合は違う。君たちはあまりに血が近すぎた、濃すぎた。君たちの恋は誰にも祝福されない禁忌だった」
静かに流れる水の如く。
否、岩をも砕く激流の如く。
「血と血が惹かれあうって本当だね。莞爾さんは君に本当のことを伝えてなかった。考えてみればこれほど残酷なことはない、君も苗さんもそうとは知らずに惹かれあい破滅を呼びこんだんだから。使用人と次期当主?ははっ、まさか!その程度なら大した問題じゃない、身分の差なんか簡単に克服できる。使用人と次期当主の身分差なんて屋敷の塀の中でだけ取り沙汰される問題、手に手を取り合って駆け落ちしちゃえば解決じゃないか」
いたぶるように目を細め、囁く。
「莞爾さんが君と苗さんの関係を禁じたのは、たかが使用人と本家跡継ぎの身分差を重んじたからじゃない」
「やめろ」
陰湿な光に双眸を濡らし、臆さず間合いを侵す。
名前を体現するが如く静かに流れる動きで懐に滑り込み、妖艶に赤い唇を開く。
「莞爾さんが君と苗さんの仲を裂いたのはー……」
「やめろ」
「君たちが実の、」
「やめろ!!!」
怒気の激発に感応し、大気が震える。
双眸に憤怒を滾らせたサムライが鉄パイプを構える、ただ静流にそれ以上言わせたくない一心で鉄パイプを振り上げたサムライはその瞬間足場が消失したことにも気付かない。
サムライは展望台の際に追い詰められていた。
「危ない!!!」
サムライの背後に絶壁が迫っている。
垂直に切り立った展望台の向こうには黄昏の空が広がっている。
下はコンクリートの地面、展望台から転落したら良くて瀕死の重傷、打ち所が悪ければ即死だ。僕は人垣の最前列に躍り出て叫んでいた。
「!」
僕の声で我に返ったサムライが足裏で地を掴み、展望台の際で急停止。
刹那。
静流が鉄パイプを一閃。
サムライの手より弾かれた鉄パイプが燦然と夕日を照り返す。
展望台の外へと長大な弧を描いた鉄パイプが中庭のコンクリートに激突、高く高く跳ねる。カランカランと涼やかな音をたて中庭を転がる鉄パイプから展望台の際、間一髪踏み止まったサムライに視線を転じ、静流がにこやかに宣言する。
「勝負あったね」
サムライは肩で息をしていた。立ち稽古で消耗したわけではない、静流の言葉に心乱されて自制を失っているのだ。
「莞爾さんに言われなかったかい?敵に何を言われようと平常心を保つのが武士の心得だって」
溶鉱炉の夕焼けに染まり、賢しげに教訓を垂れる。サムライは展望台の際に片膝付いたまま、従弟に敗北した屈辱に五指を握りこんでいる。
「東京プリズンに来て腕が鈍ったみたいだね。今の貢くんじゃ僕にかなわないよ」
捨て台詞を吐いて歩き出した静流の存在感に圧倒され、囚人が道を空ける。
僕はサムライに歩み寄ろうとして、思い止まる。
サムライに何て声をかければいいかわからなかった。ペア戦でも敗北したことがないサムライに、恐らくは東京プリズンに来てから初めて敗北を味わったサムライに何て言葉をかければいいかわからなかった。
落ちぶれ果てたサムライを見かね、試合終了を潮に散開しはじめた人垣の綻びを縫い展望台を抜け出す。
『血と血が惹かれあうって本当だね』
『莞爾さんは君に本当のことを伝えてなかった。考えてみればこれほど残酷なことはない、君も苗さんもそうとは知らずに惹かれあい破滅を呼びこんだんだから』
脳裏で静流の言葉を反芻、ある推測を組み立てる。
そんな馬鹿なと理性が否定しにかかるが、恐怖に強張ったサムライの顔が瞼の裏に浮かび心が揺れ動く。
僕の推理が正しければ、帯刀貢と帯刀苗はー……
「直くん」
「!?」
突然声をかけられ、立ち竦む。
静流がいた。展望台からの帰り道、物陰で僕を待ち伏せていたのだ。
「脅かすな、変質者かと思っただろう!?」
「ひどい言い草。ちょっと傷付いたよ」
何がそんなにおかしいのか、喉の奥で愉快げな笑い声をたてた静流がふと真顔になる。
「直くん、展望台にいたでしょう。僕と貢くんの立ち稽古を見に来たんだ。違う?」
「違う。僕は明日の気象予測に行ったんだ。イエローワークの進捗状況は天候に左右されるからな、展望台に赴いて明日の天気を確かめたんだ。西空が晴れていたから明日の天気は晴れの確率が80%、湿度は……」
「『危ない!』って叫んだよね。あの一言がなければ貢くんを落とすことができたのに」
何?
「君はまさか、故意にサムライを落とそうとしたのか?転落事故を装って殺そうと展望台の際に誘導したのか?」
静流は答えずに笑っている。その笑顔こそ肯定の証。
展望台から危うく転落しかけたサムライの姿を思い出し、発作的に胸ぐらを掴み、背中を壁に叩きつける。
一歩間違えばサムライは本当に死んでいた。冗談では済まない。悪ふざけにも限度がある。僕は大事な友人を失っていた……
大事な友人?
その言葉に狼狽する。
僕は今大事な友人と言ったのか?馬鹿な。あの男はもう僕の友人でもなんでもない、僕の知らない男、帯刀静流の庇護者の帯刀貢だ。帯刀貢が死のうがどうなろうが僕には関係ないと自己暗示をかけようとするも、彼が転落しかけた瞬間体が勝手に動いたのは事実で混乱する。
僕はまだ帯刀貢の中にサムライを見ているのか、帯刀貢の中にサムライの面影を求めているのか?
「みじめだね」
静流がはっきりと憫笑を浮かべる。
「過去に君を守ってくれたサムライはもういないのに未練たらしく展望台まで見に来たのはどうして?僕にはその理由がわかる。君はまだ貢くんを忘れられない、いや、かつて君を守ってくれた『サムライ』への狂おしい執着を断ち切れない。可哀想に。貢くんは僕の物なのに、僕と体を繋げてしまったのに、君はまだ貢くんが振り向いてくれないかと追いすがっている。後生だからこっちを向いてとお願いしてる」
「黙れ低脳。偉そうに精神分析するな」
怒りで語尾が震えて迫力に欠ける。
憐憫を込めた目で僕を眺め、静流が問いかける。
「……本当の事が知りたいかい?」
「貴様の言葉など信用しない。サムライが苗を犯したなど根も葉もない妄言をたとえ一瞬たりとも信じた僕が馬鹿だった」
「そうだ、そのとおり。君は馬鹿だ。貢くんが苗さんを犯したりするはずない。貢くんはてんで意気地なしだからね、想いを寄せた女性を力づくで犯すなんてイチかバチかの危険な賭けにでるわけない。貢くんと苗さんの身に起きたのはもっと残酷な出来事だ」
一呼吸おき、試すように僕を見る。
深泉のように澄み切った目に、魔性の誘惑に抗う僕の顔が映る。
「真相を知れば帯刀貢が嫌いになる。帯刀貢への執着をさっぱり断ち切ることができる。帯刀貢がどんなにか犬畜生にも劣る卑劣で卑俗な人間か痛感し、彼と結んだ友情を後悔し、彼に寄せた恋情を嫌悪し、綺麗さっぱり未練を捨て去ることができる」
耳朶に吐息を吹かれ、展望台を立ち去り際に見た光景が脳裏に立ち上がる。
展望台の際に脱力して膝を屈したサムライ。
悄然と肩を落として残照の滝に打たれる落ちぶれた姿。
「…………否」
僕の呟きを聞き咎め、静流が眉をひそめる。
当惑した静流をまっすぐ見据え、僕は言う。
これまで僕を守ってきた男、サムライ。今は静流の隣にいる帯刀貢。
その二人が同一人物だと自覚し、サムライもまた帯刀貢の一部である現実を受け入れる。
「僕はこれまでサムライを憎む努力をしてきた。だがどうしても彼を憎めなかった。彼が僕のもとを去っても憎めなかった。それが何故だかこの三日間がずっと考えていた、考えに考え続けて今この瞬間漸く理解した」
「何故?」
口元に不敵な笑みが浮かぶ。
「サムライが去って失ったものより、これまでサムライから貰ったもののほうがずっと多いからだ。僕は東京プリズンに来るまで友人がいなかった、妹以外の人間に心を許すことがなかった。だが、サムライと会って僕は変わった。サムライは僕に感情をくれた。体温の心地よさを教えてくれた。僕を守ってくれた」
僕はサムライを憎めない。
憎みたくない。
「静流、僕と君は違う人間だ。たとえ君がサムライを憎んでいても、僕までそうなる確証はない。僕は」
そこで言葉を切り、目を閉じ、呼吸を整える。
一拍のためらいのあと、嘘偽らざる本音を吐露する。
「僕は、サムライを愛しく思う。彼を愛しいと思う気持ちが彼を憎いと思う気持ちに呑まれるとは思えない。真実を知ればきっと僕もサムライを嫌悪する、だけど憎悪ではない、僕はサムライを憎めない。帯刀貢もサムライの一部だと気付いたから」
帯刀貢はサムライの一部、サムライは帯刀貢の一部。
帯刀貢がかつてこうありたいと志した理想の体現がサムライなら、帯刀貢はサムライの人間的な弱さを代わる分身。どちらか一方だけでは成立しないのだ。僕、鍵屋崎ナオにとっての鍵屋崎スグルがそうであるように。
突然、静流が笑い出す。
撃ち抜くように喉を仰け反らせ弓なりに背中を撓らせ、狂った哄笑をあげる。
「愛しい、か。そうか、君も苗さんと同じ事言うんだね。『あの時』の苗さんとそっくり同じこと言うんだね。いいさ、教えてあげる、帯刀貢の本性とやらをあとでたっぷり教えてあげるよ!後悔しても知らないよ、元の木阿弥だ、悲劇は再びくりかえすんだ!!
『愛しい』?帯刀貢にこれほど似つかわしくない言葉はないのに君も苗さんもどうかしてる、愛しいもんかあの男が、僕と姉さんを狂わせて帯刀家を滅ぼしたあの男が!!僕はずっとずっと帯刀貢を憎んでいた、いつからなんてわからない、ずっと昔から憎んでいたよ!
本家の嫡男は天才で分家の嫡男は努力の人、僕が生涯かけて到達できるか出来ないかの剣の極みに貢くんはたった十年、いや五年で到達できる!同じ帯刀の姓を持つのに何故こうも違うんだ、こんな不公平が許されるんだ?本家の長男の上だけに才能が発芽して開花して、日陰育ちの分家は本家の引き立て役で一生を終えなきゃいけないなんて姉さんと母さんが哀しむ不公平は認めない!!」
拳で壁を殴る。鈍い音が鳴る。
壁から天井に震動が駆け抜け、蛍光灯が揺れる。
肩で息をする静流の目が爛々と光る。
「君に帯刀貢の本性を教えてあげる。帯刀家の血の因縁がもたらした悲劇、帯刀貢と帯刀苗の関係を暴露してやる。帯刀貢の過去を知ってそれでもまだ彼が『愛しい』なんて戯言がほざけるなら大したものだ、苗さんといい勝負のお人よしの馬鹿者だ!!」
「お人よしの馬鹿者で結構だ、サムライを憎む天才よりサムライを好きな馬鹿でいたほうがマシだ!!」
感情的に口走ってからこれではまるで僕自身が馬鹿だと認めてしまったようだと後悔、忸怩たるものを感じる。
「……その、今のは言葉の綾だ。断っておくが僕は馬鹿じゃないぞ、天才だ」
まずい、このフォローではますます馬鹿っぽく聞こえる。どうしたんだ鍵屋崎直、しっかりしろ。この場の空気に流されるな。
内心動揺する僕を廊下に残し、何事もなかったように静流が歩き出す。
鉄パイプの先端を廊下にひきずって歩きながら、唄うように言葉を紡ぐ。
「『玉の緒よ 絶えねば絶えね 永らえば 忍ぶることのよわりもぞする』……苗さんはそうしたんだ。重すぎる秘密を守るのが苦しくて自ら命を絶ったんだ」
澄んだ声音で諳んじて、最後に付け加える。
「姉さんも、ね」
[newpage]
「悪い子にはおしおきしなきゃな」
レイジが邪悪に笑ってる。
顔にかかる前髪の奥、純白の眼帯に覆われた片目は傷に塞がれている。俺は知ってる、あの眼帯の下にはサーシャと刺し違えて出来た無残な傷跡がある。サーシャのナイフに切り裂かれて片目を失明したレイジは、硝子めいた透明度の隻眼に狂気の光をちらつかせている。
片目を犠牲にしてまでも勝利の栄光を掴んだレイジ。
体の一部を捨ててまでもリングに上がり続けたのは俺を守る為だ。
レイジはいつだって自分の身を犠牲にして俺を庇ってくれた、俺が傷付くくらいなら自分がぼろぼろになったほうがマシだと片目が光を失ってもなお最後の最後まで戦い続けた。
そのレイジが今、俺を押し倒している。
俺の上にのしかかって眉間に安全ピンを翳している。
安全ピンの先端に目が吸い寄せられる。
裸電球の光を集めて鋭く輝く切っ先が耳朶を刺し貫くところを想像、恐怖を感じる。思い出すのはタジマに無理矢理ボイラー室に引きずりこまれた時の事、安全ピンの先端で耳朶の柔肉を突かれる鋭い痛み。
俺の耳朶をちぎるとるように掴んだタジマの下卑た笑顔、黄ばんだ歯のぬめり、口臭くさい息までもが生々しく蘇る。
タジマがちょいと指先に力を込めれば鋭い針が耳朶を貫通、向こう側に抜ける。
情けない話、俺はびびっていた。
四囲を密閉されたボイラー室は暑苦しく蒸れていて、何もしなくても大量の汗をかいた。コンクリ壁を這い回るボイラー管からは間欠的に蒸気が噴出、大気を白く曇らせた。サウナに閉じ込められてるみたいだった。ピアスを開けるくらいどうってことない、一瞬で済む、大して痛いわけないと自分に言い聞かせて恐怖をやわらげようと挑戦したが無駄だった。
迫り来る安全ピンとタジマの哄笑の二重攻撃で虚勢が吹っ飛んだ。
勿論、東京プリズンにだってピアスを開けてる奴は大勢いる。レイジみたいに両耳にずらりと銀環を並べている奴もいる。
だが、自分で開けるのと他人に開けられるのは全く別物だ。
俺はピアスなんか開けたくない。男がそんなちゃらちゃらしたもんつけられっか。軽薄が服着て歩いてるレイジを見りゃわかる通りピアスは軟派の象徴だ。俺は今日までずっと硬派に生きてきた、大の男がちゃらちゃらしたアクセサリーを身に付けるなんざ冗談じゃねえと意固地な信念を貫いてきた。第一喧嘩の邪魔だ。耳朶のピアスはともかくペンダントやら指輪やら余計な重しをじゃらじゃら付けてたんじゃ、いざって時反射的に体が動かねえじゃんか。
裸電球の光を背に、レイジの顔には濃淡くっきりとした陰影が刻まれている。
俺をベッドに押し倒してのしかかったレイジの目が爛々と光っている。凶暴な光。狂気に理性を明け渡して本来の獰猛さを剥き出した危険極まりない雰囲気が漂っている。嫉妬に狂える暴君にもはや言葉は通じない、説得も釈明も弁解も一切無駄だと絶望する。
正邪と清濁が混沌とまざりあった笑顔が暗黒に染まるのも時間の問題。現に俺が身動きできず眺めてる前でレイジの笑顔は刻々と変化してる。
優雅に長い睫毛に飾られた目には脆く硬質な色硝子の瞳が嵌めこまれている。光の加減で猫科の肉食獣を彷彿とさせる黄金にも変わる神秘的な瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。
魔力が宿る硝子の瞳、視線の呪縛。
怖い。
レイジが怖い。
「冗談、やめろよレイジ。らしくねえよ、こんなの」
震えそうな語尾を叱咤、虚勢を張って言い返す。レイジの表情は変わらない。眉一筋動かない、完璧な無表情に近い完璧な笑顔。
こんなに綺麗に笑える奴には生まれて初めて会った。
レイジは俺がこれまで出会った人間の中でも断トツ極上の容姿の持ち主だが、出来すぎな程整ったツラは人に忌避される要因にもなりうる。
人は「完璧なもの」に慣れてない。
もともと不完全な人間は潜在的に「完全」や「完璧」な存在を恐れているのだと前に鍵屋崎が言っていた。だからいざ完璧なものや完全なものが眼前に現れると嫌悪を隠せない。出来すぎなほど容姿が整った者はもはや同じ人間とは思えず、悪魔か天使に近い存在である錯覚に襲われる。
あの時鍵屋崎が捏ねた理屈が今腑に落ちた。
ガキっぽく怒ったりあけっぴろげに笑ったり、いつも表情を崩してるレイジがこんな風に微笑すると背筋が凍り付く戦慄を覚える。
口元だけに薄っすら笑みを刷いた恐ろしく邪悪な表情は悪魔に近い。
俺の眉間に安全ピンを翳したまま微動だにしないレイジに焦燥が募る。
まさかレイジは本気で俺の浮気を疑ってるのか、所長に吹き込まれたデマを頭でっかちに信じこんでるのか?
確かにうなじのキスマークは動かしがたい浮気の証拠と言えなくもないがすべては誤解、ホセの悪ふざけの延長なんだと身の潔白を訴えたいが、下手に動けば眼球にピンが刺さる恐怖から、肘であとじさるように仰向けにレイジを仰ぐ。
「どうかしてるよ、お前。まさか所長の言うこと信じてんのか?俺が他の男に抱かれたって、それでキスマーク付けられたって本気で思ってんのかよ。ふざけんな、俺は男と乳繰り合う趣味なんかねーよ、男が男とヤるのが当たり前の日常になった東京プリズンでもずっと処女守ってきたのはいつか懲役終えて娑婆出て女抱く日心待ちにしてたからだ!!お前とはそりゃその場のノリっつか勢いっつか男の約束で仕方なくヤっちまったけど俺が自分から他の男に抱かれに行くわきゃねえだろが、俺は今でも女が好きなんだよ、一人でヤるときもむらむら妄想してんのはメイファの裸とか好みの女の裸とか開脚とか胸隠しとか……畜生なに言わせんだ、なんで俺が自慰のオカズ公開してまで無実訴えなきゃいけねーんだよ!?」
やばい、テンパってとんでもねえことまで暴露しちまった。
レイジの誤解を解きたい一心で恥ずかしい秘密を口走り、羞恥で顔が熱くなる。穴があったら入りてえ。激しい恥辱と後悔に苛まれて唇を噛んだ俺の上を衣擦れの音たて影が移動、レイジが前のめりになる。
「とにかくあれは、あの痣は誤解なんだ。最初から話すからまず俺の上からどけよ、こんな体勢じゃ落ち着いて話もできね……」
「うなじにキスマークつくっといて何が誤解だって?いい加減諦めろよ、ロン。聞き分けない子は嫌いになるぜ」
レイジが唄うように揶揄する。
「俺がケツにローター突っ込まれて一晩中よがり狂ってた時、房から追い出されたお前は上半身裸でどこほっつき歩いてたんだ?上半身ヌードで一晩中廊下ほっつき歩いてたら最悪凍死の可能性もある、ところがお前はピンピンしてた。ま、ちょっと風邪もらっちまったみたいだけどな」
俺の風邪なんか病気のうちに入らないと鼻で笑い飛ばし、続ける。
「やっぱ野良は駄目だな。飼い主がいなけりゃすぐ他の人間に擦り寄る恩知らずだ。白状しちまえよ、ロン。お前、餌くれるなら誰でもいいんだろ?人肌にぬくもった寝床と体をどろどろに溶かす快楽さえくれりゃ相手は誰でもいいんだろが。構ってくれ拾ってくれって甘い声で鳴いてお持ち帰りされたんだろ。首に痣まで作っといて言い逃れはナシだぜ。さて、どうするかな。他の奴に拾われねえように一発でわかる印つけなきゃな。お前の髪の毛一本から足の小指の爪に至るまで全部王様の持ち物だって、キレたら怖い暴君の財産だって身の程知らずな連中に思い知らせてやるには……」
嫉妬深い暴君がしつこく俺の耳朶をいじり、恐怖を煽る。
人体の先端でも一際敏感な耳朶を刺激され、危うく声が漏れそうになる。
下唇を噛んで声を堪えるも、むずがゆい快感に頬が赤らむ。
華奢な指先に摘まれた安全ピンが冷たい銀色に光る。
ピンの先端から目を離さず生唾を嚥下、じっとり汗ばんだ手のひらをシーツになすりつける。
だんだん腹が立ってきた。レイジは頭から俺の浮気を決めてかかってる、自分の知らないところで他の奴に抱かれたと思い込んで弁解のチャンスも与えてくれない。あんまりじゃんか。いつもくどいくらい「愛してる」を言うくせに、俺が好きだとか信じてるとか俺がいなきゃ生きてけないとか安っぽい台詞を連発するくせに肝心な時にこれっぽっちも信用されないなんてとプライドが傷付く。
失望が怒りに変換され、頭に血が上る。
レイジが信じられないなら仕方ない、腹を括るっきゃない。
目を閉じて深呼吸、心の中でゆっくり十数えて平常心を取り戻し、決心を固める。
「……いいぜ。やれよ」
レイジが鼻白む気配が伝わってきた。俺は目を閉じたままやけっぱちに続ける。
「お前が俺のこと信じらねえなら仕方ねえ、煮るなり焼くなり耳に針通すなり好きにしやがれ。どうせ俺が『ごめんなさい、実は他の男にケツ貸しました』って泣き叫んだところで容赦なく針通すんだろ?お生憎さまだな、暴君の思い通りになんかなってやるもんか。俺は誓って他の男にケツ貸したりなんかしてねえ、お前以外の男に抱かれるのなんざごめんだ、反吐がでる。だけどレイジ、どうしてもお前が信用できねえってんなら首に鈴でも耳にピアスでも何でもいいから王様の印をくれよ。俺がお前の物だって印をつけろよ。やきもち焼きの王様はそれで満足なんだろ、俺が目に涙浮かべて痛がる顔見てスカッとしたいんだろ。頼むもうやめてくれ、俺が悪かった許してくれってがくがく腰振って縋り付いてほしいんだろ。ガキっぽい仕返し。精神年齢いくつだよ」
嘲るように喉を鳴らし、口の端を吊り上げる。
薄目を開けた視界に無表情のレイジが映る。
俺の挑発が核心に触れて、笑みを浮かべる余裕すら失った顔。
「来いよ暴君。悪い猫を調教してくれよ」
安全ピンなんか怖くない。耳朶にピアス開けるのがなんだってんだ、笑って受け止めてやろうじゃんか。ペア戦決勝戦、サーシャに嬲られるレイジを金網越しに見てるしかなかった呪縛の恐怖と比べたら全然マシだ。
肘を立て上体を起こし、きっかりとレイジを見据える。
レイジは俺にのしかかったまま指先の安全ピンの存在も忘れて硬直していたが、やがて完全に俺の上からどく。
「―座れよ」
王者の威厳と暴君の威圧を兼ね備えた命令に逆らえるはずない。
レイジの表情を探りながら慎重に起き上がり、床に足を垂らす。
俺の隣に腰掛けたレイジが無造作に身を乗り出し、至近に顔を寄せてくる。裸電球の光を透かし、優雅に長い睫毛がきらめく。
物憂げに煙った隻眼が冷酷な印象を与える。
西洋の血を感じさせる彫り深く端正な顔だちに、不覚にも見惚れる。
多分、現時逃避だ。一年と半年見慣れたレイジの容貌を詳細に観察するのは、睫毛一本一本が数えられるほど顔が近付いた緊張をごまかすためだけじゃない。
指先の安全ピンから目を逸らし、跳ね上がる動悸と呼吸を整えるのに集中する。
耳朶に針を通される痛みを想像、腋の下にじわりと汗がにじむ。いくら痛みに慣れていても怖いものは怖い、なかなか心の準備ができない。
「怖いか」
レイジが悪戯っぽく囁く。性悪な顔。
「怖くねえ」
手のひらに滲んだ汗を隠し、きっと睨み返す。
「無駄口叩いてる暇あんならさっさとやれ。そうやってじりじり長引かせてびびらすつもりか?王様の癖に姑息な手使うなよ、がっかりだぜ」
「言ってろ。じきに泣いて縋り付いてくるんだから」
んなワケあるかと反発が込み上げる。
レイジがにやにや笑いながらそっと俺の耳朶に触れる。
だが笑ってるのは口元だけで目はちっとも笑ってない。顔の上と下で表情を使い分けるなんて器用な奴だと感心する。
何か、何か違うこと考えろ。
何でもいい、何か他のこと、気が紛れることを。ホセ。あいつ殺してやる。あいつの悪ふざけのせいでレイジがキレちまったんだ。
俺もとことん間抜けだ、うなじにキスマークつけられたのにも気付かず寝過ごしちまったなんて訴えたところでさっぱり説得力ない。
さすがに気付くだろ、うなじを吸われたら。でも待て、俺はホセに腹を殴られて朝までずっと気を失ってて……まさかホセ、最初からそれが狙いで?俺にキスマークつけるのが目的で腹に一発くれたってのか?
まさか。だがそう考えれば筋が通る。
ホセは最初から俺の体を狙って……
何の為に?
「!!?っ、あ、ひっ……」
耳朶への刺激で思考が散らされる。
安全ピンの先端が軽く耳朶を突く。
「やらしい声だすなよ、ちょっと感度確かめただけだろ。それとも……物足りないのか」
「馬鹿、言え……はや、くしろ」
怖い。畜生怖い。感情に抑制が利かない。
ベッドに腰掛けた姿勢でぎゅっと膝を握り締め、無意識に体を固くする。レイジを突き飛ばして逃げ出したい衝動と必死に戦いつつ、来るべき時、鋭い痛みを覚悟して絶対に悲鳴をあげないよう下唇を噛み締める。ともすれば奥歯ががちがち鳴りそうだ。これ以上焦らされたら気が狂ってしまいそうだ。もう一度催促しようとレイジに向き直った瞬間、
「!?っあ、れっ………!!」
突然、耳朶を口に含まれた。
不意打ちだった。熱い唇に耳朶を食まれ、舌で転がされる。
耳元で唾液を捏ねる音が響く。
レイジの舌を感じる。俺のいいところ感じるところ、性感帯を全て知り尽くした舌が器用に引っ込められまた突き出され耳朶に唾液を塗りこめる。耳の穴まで舌が潜りこんで来てくすぐったい。
唾液でべとべとになった耳朶を飽き足らず舐め回すレイジを何とかどかそうとして、体の前に無意味に手を掲げる。
「ふ、くっ………レイジやめ、耳朶なんか舐めても美味くねえだろっ……」
「消毒だよ」
あっけらかんと言うレイジに呆れる。消毒?口実だろそりゃ。
「鍵屋崎が言ってたぜ、こけた時膝に唾ぬりこむのは砂利とか黴菌洗い流すためで唾自体に殺菌効果はな……ふあっ」
軽く前歯を立てられ、声が弾む。やばい。これじゃ俺が感じてるみたいじゃんか。男に耳朶舐められて喘ぎ声なんかあげたら変態だ。
レイジの肩に手をかけ力づくでどかそうとしたが、レイジは俺の耳朶を舌でねぶるのに夢中で一向に引き下がらない。
背筋をぞくりと悪寒が駆け抜ける。
熱い唇とそこから覗いた舌が耳朶をなぞる。変な感じ、だ。体の先端がめちゃくちゃ敏感になってる。
風邪が悪化したらしく、気だるい微熱を感じる。レイジの肩に手をかけ寄りかかり、微熱に赤らむ顔を伏せ、懸命に声を抑える。
透明な唾液の糸を引いて唇が離れる。
耳朶の消毒とやらを終えて満足したらしいレイジが、扇情的に上唇を舐め上げる。
「耳朶舐められただけでイっちまったのか?本番はこれからだってのに」
「イってねえ、風邪気味で熱があるんだよ……」
言い返した声にも張りがない。疲弊した俺を無視し、レイジが安全ピンの留め金を外す。
冷たい銀色に光る安全ピンが緩慢な動作で迫り来る。鋭利な先端が耳朶に触れ、ひやりとする。
金属の冷たさ、硬い感触。
「……………っ!」
「声我慢できねえなら俺の服掴んでろ」
レイジが俺の手首を掴み、しっかりと上着の胸を掴ませる。はからずもレイジの胸に縋り付く格好になった俺は、刻々と迫り来る貫通の瞬間に備え、ぎゅっと目を閉じる。耳朶の感触を確かめるように二・三度軽く突いてから、レイジがうっとり呟く。
「美味そうな耳。食いちぎりたい」
おそるおそる薄目を開ける。
レイジが自分の耳朶に手をやり指を触れ、難なくピアスを外す。ピアスを外す瞬間少し顔を顰め、色っぽく眉を寄せる。レイジの手のひらに乗ったピアスを一瞥、これが俺の耳に栓をするモノだと理解する。
サイズはそれ程大きくない、シンプルな銀のピアス。
「王様の慈悲だ。片方だけで許してやるから右か左か選べ」
「右」
殆ど即答していた。右でも左でもどっちでも変わらねえと自棄になっていた。
レイジが軽く首肯、耳朶にあてがった安全ピンに圧力をかける。
「!!ひっあ………」
痛い。唇をきつく噛み締めて苦鳴を濁らす。
鋭利な針がゆっくりと確実に耳朶の柔肉に沈みこんでいく。
瞼が涙に濡れる。
耳朶を刺し貫く鋭い痛みは、俺には刺激が強すぎる。
レイジの服を掴んだ五指を閉じこみ、忍耐力を振り絞って必死に痛みを堪える。
「れいじ、通る、破けるっ……じらすな、はやくっ……」
「焦らさなきゃ面白くねえだろ。いい子だから我慢しろよ、ロン。ほら、見てみろ。冷たい針がお前の耳朶をゆっくりゆっくり通ってくところ、処女膜が限界まで張り詰めて破けるところを」
「お前といいタジマといいただピアス開けるだけの行為をどんだけ卑猥にするんだよ!?」
タジマと並べられたレイジがさも心外そうな顔をする。
だが、レイジの表情を観察する余裕があったのはそこまでだ。
それから先は殆ど覚えてない。
耳朶に浅く埋め込まれた針がさらに容赦なく進み、柔肉を貫通する痛みが電流の刺激に変わる。全身の毛穴が開いて汗が噴出、レイジの胸に埋めた顔が引き攣り、下唇が切れて口の中に鉄錆びた血の味が広がる。早くはやく終わってくれとそれだけを一心に念じて苦痛な時間に耐えるもレイジは俺を焦らすようにいたぶるようにひどく緩慢に針を進める。耳朶に痛覚が通ってるのを今この時ほど恨んだことはない。
レイジの胸にしがみついた俺はじんわり熱をもった瞼の奥で眼球が潤むのを感じ
「目え瞑るなよ。こっちからあっちへ針がコンニチワするところをちゃんと見てろ。トンネル開通万歳だ」
痛い熱い耳が熱い痒い
レイジの嘲笑をどこか遠くで聞く。
耳朶が痛痒く疼く。
息を吸い、止める。レイジはわざとゆっくり針を進める、俺が痛がる顔をたっぷり堪能して支配欲征服欲を満たしてやがる。
目の端で捉えた優越感に酔った笑顔が癪に障る。
俺はレイジがこんなに残酷になれることに驚いていた、レイジが他ならぬ俺自身に対してこんな暴虐に及ぶなんてとショックを受けていた。
「あ、あ、あああっああ、ひぐっあ……!!」
「もうすぐ全部通る。一本に繋がる。お前の処女膜が破ける」
ぷつん、と皮が弾ける音がした。耳朶の裏側に薄皮のテントが張り、それが破けて針が突出、完全に耳朶を刺し貫く。
瞬間、全身が脱力してレイジにしなだれかかる。耳朶に穴が開いた。なんだかすうすうする……変な感じだ。耳朶はまだじんわり痺れて鈍い疼痛を訴えている。じくじく疼く耳朶をレイジが掴み、慣れた手つきでピアスを嵌める。
俺の耳朶に銀のピアスが留められる。
「お利口さん。処女喪失おめでとう」
「!このっ、」
ふざけた口調でまぜっかえすレイジに怒りが沸騰、激情に駆られて拳を振り上げる。
その瞬間。
レイジが俺の腕を掴みぐいと引く。
突然腕を引かれてレイジの胸に倒れこんだ俺の唇が強引にこじ開けられて舌が潜り込む。抵抗しようとした。口腔に侵入した舌を噛もうとしたがレイジの方がうわてだった。
たちどころに舌を絡め取られて頬の内側の粘膜を探られ貪られる、唾液が喉に逆流して息苦しさに噎せ返る。
突然の展開に頭が真っ白になる。
「んっ、ふ、ぐ……」
四肢がぐったり弛緩する。
プライドも意地も何もかも全部投げ捨てレイジに身を委ねたい誘惑に駆られる。レイジは俺の肘を掴んだまま決して手を緩めず放さない、熱い舌が俺の口腔を貪欲にまさぐって歯列の裏側をなぞって未知の性感帯を刺激してー……
「!!?」
口移しで何かを飲まされた。
レイジの口から俺の口へ、舌を介して送り込まれた異物を反射的に吐き出そうとしたができなかった。レイジが俺の口をしっかり塞いで嚥下を強要したからだ。
レイジに口を塞がれ窒息しかけ真っ白な頭で必死に暴れる、激しく首を振り手足を振り乱して抵抗するもレイジは許してくれない。
酸素を欲して暴れる俺の口を塞いだまま器用に舌を使って何かの錠剤と思しき異物を喉の奥へと送り込みー
喉仏が動く。
一本の管となった喉を、謎の錠剤が滑り落ちる。
「かはっ、ごほっ」
目的を達し、漸く唇が離れる。激しく咳き込み肺一杯に酸素を取り入れる俺を見下ろし、レイジが謎めいた笑みを浮かべる。
裸電球を背に不気味な陰影に隈取られた笑顔には、暗黒が渦巻いている。
「レイジおま、どういうつもりだ!?今何飲ませたんだよ!!」
脳裏でけたたましい警鐘が鳴り響く。今更吐き出そうにもムリだ、正体不明の錠剤は喉を滑り落ちて胃袋に吸収されちまった。
片手で喉を支えてレイジを見上げた俺は、ぞくりとする。
「頑張ったご褒美。風邪薬だよ。お前熱あるんだろ?それ飲んで大人しくしてろ」
「マジ、なのか」
疑い深い目でレイジの表情を探り見る。
不安定に揺れる裸電球の翳りが真意を読めなくする。俺は立ち上がろうとして、体に力が入らずそのままベッドに倒れこむ。
体が変だ。おかしい。ぞくぞくと悪寒が駆け抜ける。寒いのか熱いのかよくわからず頭が朦朧とする。
皮膚の上を毛虫が這ってるようなむずがゆさが体の異変を物語る。
「ただの風邪薬ならなんであんなまぎらわしい飲ませ方すんだよ、あんな無理矢理……お前何隠してるんだ、俺に何飲ませたんだよ、事と次第によっちゃただじゃ!」
「逃がさねーから」
ぎしりとベッドが軋む。レイジがベッドに片膝乗せて俺にのしかかる。
天井で裸電球が揺れる。催眠術をかける振り子のように。
「めでたいなお前。これで、この程度でおしおきが済むとマジで思ってたのか?耳朶にピアス開けた程度で?ははっ、まさかな!いくらなんでもそんなにおめでたくねえよな。ロン、お前もいい加減わかったろ。俺の名前はレイジ、英語の憎しみ。キレたら怖い王様、嫉妬深い暴君。そんな俺がお前の耳に針通したくらいで許し与えるわけねえだろ。もっともっとこらしめてやんなきゃ」
レイジが俺の前髪をかきあげ、額にキスをする。
唇の温度が額に伝わる。俺は仰向けに倒れたまま、上に覆いかぶさるレイジとその背後の天井を見つめる。
配管むきだしの殺風景な天井を背に俺に覆い被さったレイジが、俺の動揺を面白がるようにすっと目を細める。
恐ろしく邪悪な表情。
嫉妬に狂える暴君が、甘い蜜を含んだこの上なく優しい声音で言い聞かせる。
「知ってるか、ロン。風邪薬の成分の何十分の一かは媚薬なんだぜ」
それ自体媚薬のような声が滴り落ちた瞬間、俺はひきずりこまれるように眠りに落ちた。
[newpage]
『君に帯刀貢の本性を教えてあげる』
静流が妖艶に微笑む。
『帯刀家の血の因縁がもたらした悲劇、帯刀貢と帯刀苗の関係を暴露してやる』
色の良い唇を禍々しい笑みが縁取る。
生きながら修羅道に堕ちた静流、生きながら修羅と化した静流。
何が彼をそうさせたのかは僕にはわからない。
静流の変貌にはサムライが、否、帯刀貢が関わっているのだろうか。帯刀貢が起こした血腥い惨劇が一族を破滅に追い込んだのなら、静流もまた余波を被って不幸な目に遭ったのかもしれない。犯罪加害者と犯罪被害者を共に身内にもつ帯刀家が世間の好奇の目に晒され誹謗中傷され、事件と直接関係ない親類縁者までも害を被ったのは事実。
静流はサムライを恨んでいるのか?憎んでいるのか?
サムライを許すふりをしながら、心の底では少しも許さず憎み続けているのか?
静流の怨恨は根深い。静流は骨の髄まで帯刀貢を憎んでいる。
本家の嫡男として生を受け将来を期待された貢。
分家の嫡男として生を受け常に貢と比較されてきた静流。
二人の間に何があった?苗は何故死んだ?苗の死がサムライの動機に関連してるのか?静流は苗の死に関わっているのか?
疑問があとからあとから脳裏に浮かぶ。静流は僕に帯刀貢の過去を暴露すると言った。はたして僕には帯刀貢の過去の全貌を受け止める覚悟があるのか、帯刀貢の本性を知ってなお彼を受け容れる覚悟があるのか?
静流との口論では怒り任せて偉そうなことを言ったが僕自身まだ迷いを捨てきれない。えてして真実は残酷なものだ。サムライが師範の実父含む門下生十二人を斬殺した動機について僕は何も知らない、だが静流は知っている。
静流はもうすぐここに来る。
運命の刻が来る。
静流が来るまでに心の準備をしておかねばとベッドに腰掛けて深呼吸するも、心の表面がさざなみだち、両手に額を預けて項垂る。
本当にこれでいいのか、僕の選択は間違ってないのか?
瞼裏の暗闇に答えを探すも見つからず、僕はまた選択を誤ろうとしているのではないかと不安が膨らむ。
静流の口から帯刀貢の過去を聞くことに対しても抵抗を感じている。これまでサムライが頑なに口を閉ざしてきた過去を、静流の口から聞き出そうとしている自身への嫌悪感を抑えきれない。
サムライから話してくれるまで待つべきではないか?
こんな卑怯な形で他人の口から聞きだすなんて……僕は最低だ。最低の卑怯者だ。彼の過去を受け止める自信と覚悟もない癖に、静流への反感と嫉妬から帯刀貢に理解を示す包容力ある人間のふりをしてしまった。
だが、後戻りはできない。
廊下の向こうから足音が近付いてくる。
カツン、カツン……周囲の閑寂を際立たせる優雅な靴音。一定の歩幅でやってくる人物の正体は、鉄扉を開ける前から予想が付いていた。来客を迎えに腰を上げた僕は、片手でノブを掴んで深呼吸する。
とうとうこの時が来てしまった。
はたして僕はサムライの過去を知ってなお、彼を嫌悪せずにいられるだろうか。それでもまだサムライを好きだと言えるだろうか。
靴音が途絶える。鉄扉の向こうに人の気配。格子窓を覗いて顔を判別するまでもなく、不吉な報せを運んできた客の正体はわかっている。
緊張に汗ばむ手でノブを握り、鉄扉を押し開く。
錆びた軋み音をあげながら鉄扉が開き、少年が現れる。
帯刀静流。
「お出迎えご苦労さま」
僕と目が合い、艶やかに微笑む。
「出迎えたわけではない、派手なノックなどされて近隣の房の囚人に注目されるのを避けたいだけだ。……早く入れ」
「お言葉に甘えてお邪魔するよ」
鉄扉を押さえてそっけなく促せば、客人が優雅な動作で足を繰り出し、房に踏み込む。音をたてぬよう慎重に鉄扉を閉じて振り返れば、房の中央に佇んだ静流が形良く尖った顎を傾げ、感慨深げにあたりを見回していた。
配管剥き出しの殺風景な天井、寒々しい灰色を晒した四囲のコンクリ壁、左右の壁際に配置された粗末なパイプベッド、奥の洗面台と隣の便器。
天井から吊り下がった裸電球が心許ない光を投げかける。
裸電球の光量はあまりに乏しく房の全貌を照らすに至らない。
房の四隅には荒廃した闇が蟠っている。裸電球のささやかな光を一身に浴び、心もち顎を傾げ、透き通るように薄い瞼を閉ざす。僕はしずかに静流に歩み寄る。裸電球の下、瞑想の面持ちで瞼を閉ざした静流は当然僕の接近に気付いているはずだが反応ひとつ示さない。
「貢くんの残り香がする」
不意に静流が呟き、薄目を開ける。
柔和な光を宿した双眸が向けられたのはからっぽのベッド……三日前までサムライが寝ていたベッドだ。サムライの不在を痛感するのが嫌で几帳面に整えられたベッドを意識的に無視してきた僕は、静流の視線を追い、後悔する。
壁際でひっそり存在を主張するベッドを目の当たりにし、喪失感が胸を締め付ける。
「サムライが出て行ってからまだ三日だ。たった三日しか経過してないのだから墨の匂いが漂っていても何の不思議もない」
「もう三日だよ」
務めて冷静に指摘すれば、あっさりと静流が切り返す。
「貢くんが君と別れてからもう三日も経つ。この三日間貢くんがどこでどうしてたか知りたいかい?」
「知りたくない」
喉元に苦汁が込み上げる。この三日間、サムライがどこで何をしてたかなどわざわざ説明されなくても大体想像はつく。
静流と一緒にいたに決まっている。
先日食堂で見かけたサムライは静流と一緒だった、二人はいつも一緒だった、排他的な雰囲気を漂わせるほど親密に寄り添い通路を練り歩き空席を捜していた。静流はとても幸せそうだった。サムライはいつもと同じ仏頂面だったが、やや頬がこけて憔悴していた。
サムライを独占した優越感からか、静流が意地悪く肩を竦める。
「嘘つき。知りたいって顔に書いてあるよ。君、この三日間ろくに寝てないでしょう。貢くんの身を心配するあまりろくに眠れず目の下に隈作って本当に健気だよ、そんなところまで苗さんそっくりだ。
苗さんは尽くす女だった。貢くんが莞爾さんのシゴキで打ち身を作った時も付きっきりで看病してた。二人が結婚すればさぞかし仲の良い夫婦になったと思うよ。苗さんは本当に貢くんを愛していた、貢くんも本当に苗さんを愛していた。剣しか取り得がない朴念仁の貢くんが苗さんの前でだけ表情豊かになった、まれに笑顔すら見せた。
苗さんは貢くんの『特別』だった、帯刀貢の生涯の伴侶となるべき女性だった。貢くんも口にこそ出さなかったけど、身分の垣根をこえて苗さんを娶る決心を固めていたよ。この世で苗さんだけに注ぐ愛情深い眼差しが何より饒舌に本心を語っていたからね」
揶揄するような口ぶりで言い、僕に向き直る。
「最初に君と会ったとき、びっくりしたよ。溶鉱炉の夕焼けに染まる展望台で貢くんと並んだ君を見て、まさかと目を疑った」
一呼吸おき、断言。
「帯刀貢の眼差しに、かつて苗さんに向けたのと同じものを見出したから」
清冽に澄んだ水鏡の目は僕の感情をそのまま反射する。裸電球の薄明かりの下、衣擦れの音すら淫靡にしなやかな動作で僕に擦り寄り、耳朶で囁く。
「この三日間、僕と帯刀貢は夜毎肌を重ねて互いの体を貪りあった。帯刀貢は最愛の伴侶をなくした哀しみと君との別離がもたらした喪失感を埋めるために、僕もまた最愛の人をなくした哀しみを癒すために、同じ帯刀の血を引くもの同士で淫蕩に睦みあったんだ」
生温かい吐息が耳朶を湿らす。人の生き血を啜ったように紅い唇が綻ぶ。しどけなく凭れかかった体を押し返そうとするも、華奢な体のどこにこんな力を秘めているのか疑うほど微動だにしない。
「嘘をつくな」
「嫉妬?」
サムライと静流が夜毎肌を重ねたなど信じたくない、あのサムライが男色行為に溺れるはずがない。
理性が軋んで悲鳴をあげる。サムライの潔白を信じたいが、静流の言葉を否定する根拠がない。現実に情事の現場を目撃してしまった僕は、静流とサムライが関係を持ってないと言い切ることができない。動揺に乱れた呼吸を整えるのに集中、固く目を閉じて平常心を取り戻す。
再び目を開けた時、僕はサムライへの信頼を回復していた。
「僕はサムライを信じる」
静流がかすかに狼狽する。怪訝な色を宿した目で僕を窺い見る表情が、裸電球の光加減で朧に揺らめく。
不審げに眉をひそめた静流と対峙、腕に力を込め突き放す。押し返された静流の頭上、黄色く煙った裸電球が揺れ、光の弧を描く。
淡く滲んだ光の弧が虚空を行き来する。
眼鏡のブリッジを押し上げて位置を直し、真っ直ぐに静流を見据える。
「事実と真実は別物だ。確かに僕はサムライの情事の現場を目撃した、君とサムライが性交渉を持ったのは現実であり事実であり僕という証人もいる、動かしがたい証拠がある。サムライが君を抱いたのは事実、それは三日前僕がこの目で確かめた。しかし僕が知っているのは経緯を省略した表層の事実のみ、深層の真実は今もってわからない。僕はサムライの身の潔白を信じ続ける、サムライが君を抱いたのは彼自身の意志ではないと無実を信じ続ける。何故ならサムライは僕の、」
静かに言葉を切り、目を閉じる。
胸に複雑な感情が去来、様々な想いが交錯する。僕は無力だ。あまりに無力な人間だ。サムライなしではきっと東京プリズンで生き抜くことさえできなかった。サムライは僕を助けてくれた、守ってくれた、庇ってくれた。売春班で流した涙の温かさ、僕を抱きしめる腕のぬくもりをまだしっかりと覚えている。時折見せるはにかむような笑顔や不器用な優しさがどれだけ僕を支えてくれたかわからない。
『お前が愛しい。直』
僕もだ、サムライ。心の底から君を愛しく思う。
だから、君を信じる。僕に愛しいと言った君を信じる。献身的に僕を守り支えてくれた一途な愛情を信じ続ける。
生まれて初めて他人から愛情を貰えた。
生まれて初めて「愛しい」と言われた。
恵以外の人間から愛情を貰えるなんて期待はおろか望んでもいなかった僕に、愛しさの意味を教えてくれた君を信じ続ける。
しっかりと目を見開き、体の脇で指を握り込み、静流を睨み付ける。
「サムライは僕の友人以上の存在だ。彼の存在はもはや僕の生きる意味と直結してる、彼の存在無しでは生きる価値さえ見出せない。僕は東京プリズンでサムライと出会って漸く自分が好きになれた、サムライに『愛しい』と言われて初めて自分を好きになることができたんだ!!
サムライはきっと僕がIQ180の天才でなくても同じ言葉をくれた、他の誰でもない世界にただ一人の鍵屋崎直として僕を好きになってくれた。『IQ180の天才』でも『恵の模範となる完璧な兄』でもない、こんなふうにみっともなく泣き叫び怒鳴り飛ばし子供っぽく感情をあらわにする僕が好きだと言ってくれたんだ!!
だから僕はどんなに落ちぶれても彼を信じ続ける、もはやかつてのように潔癖な武士ではなく現実逃避の快楽に身を委ね優柔不断な態度をとり続けても世界で僕だけは彼を信じ続けると決めたんだ、それが事実ではなく真実を選び取った鍵屋崎直の答えだ!!」
突然、哄笑があがる。
静流がへし折れそうに背中を仰け反らせ高らかに高らかに哄笑する。 いっそ無邪気にも聞こえる甲高い哄笑が四囲のコンクリ壁に跳ね返り、静寂の水面に波紋を起こし、殷々と反響する。
鼓膜に沁みる笑い声。
喉仏の突起すら美しい首を仰け反らせ、爆ぜるように笑い声をあげた静流がそのままよろめいてサムライのベッドに倒れこむ。
サムライの枕を掻き毟り、喘息めいて荒い呼吸を吐きながら上体を起こした静流が、しっとり涙の膜が張った目に僕を映す。
「ああ、可笑しい。笑い死ぬかと思ったじゃないか。君、本当に貢くんが好きなんだねえ。とんでもない惚気じゃないか」
笑いの発作が終息、余韻で口端を痙攣させる静流の前で慄然と立ち竦む。
静流はおかしい、狂っている。
あれは頭がまともな人間の笑い方ではなかった。
サムライのベッドに腰掛け、人さし指で目尻を拭い、続ける。
「……ねえ、直くん。苗さんの失明の原因知ってる?」
「なにを言い出すかと思えば……苗は生まれつき目が見えないんじゃなかったのか?サムライからそう聞いたが」
まさか。
不吉な予感が過ぎる。僕の表情を読んで動揺を汲み取った静流が、もったいぶった仕草で両手を組み、その上に顎を載せる。
裸電球が淡い光を投げかける薄暗い房にて、ベッドに腰掛けた静流の前に立ち、続く言葉に耳を澄ます。
「莞爾さんは鬼だった」
静寂の水面に落ちた一滴の呟き。
裸電球の光が届かない壁際のベッドにて、組んだ両手の上に顎を置き、遠くを見るような目を虚空に据える。
「本家と絶縁する前も母さんと伯父さんの関係は決して良好とは言えなかった。莞爾さん……貢くんの父親はとても自己中な人で、自分が気に入らないことがあるとすぐに大声を張り上げて悪し様に人を罵った。どうかすると手を上げることさえあった。
母さんはいつも言ってた。莞爾さんはとても本家当主の器じゃない、あんな品性下劣な人間を当主の座に就かせておくのは帯刀家の恥だって……僕も同感だ。僕だけじゃない、帯刀莞爾の人となりを知るものなら誰だって一も二もなく頷くだろうさ。故人を悪く言うのは気が引けるけど、莞爾さんはとても傲慢な男だった。冴さん……死んだ貢くんのお母さんも随分泣かされたみたいだから、冴さんと仲が良かった母さんが莞爾さんを恨むようになるのも道理だ」
「前置きが長い。君の話はどうにも合理性に欠けるな」
耐え切れず口を挟めば、静流が苦笑する。
「苗さんの失明の原因を作ったのは莞爾さんなんだ」
「…………どういうことだ?」
緊張で喉が渇く。静流は一体何を言おうとしている?
「莞爾さんは本家跡取りの貢くんにひとかたならぬ期待をかけ、物心つくかつかないかの頃から厳しい稽古を課した。剣だけじゃない、正座や箸の持ち方に至るまでの礼儀作法を徹底的に仕込んだんだ。明らかに行き過ぎだと本家の誰もが思っていたが口には出せなかった、みんな現当主の逆鱗にふれるのが怖かったんだ。莞爾さんの折檻から貢くんを庇ってくれる人は誰もいなかった……ただ一人、苗さんを除いて」
静流が緩慢な動作で首を振り、前髪が額を流れる。
「当時苗さんは本家に引き取られてきたばかり、貢くんと大して年の変わらないほんの子供だった。だけど苗さんは莞爾さんの横暴に苦しむ貢くんを放っておけず、ある日障子を開け放ち座敷に躍りこんだ。座敷ではちょうど莞爾さんが癇癪を起こして貢くんを打擲していた。苗さんは畳に身を投げ出し貢くんに覆い被さった、それを見た莞爾さんは激昂ー……」
静流が何かを投擲する動作をする。
「たまたま近くにあった硯を苗さんに投げつけた」
驚きに言葉を失う。静流の言葉では当時の苗はまだほんの子供だったという。つまりサムライの父は、長じてサムライに斬殺された帯刀莞爾は、たった四歳か五歳の幼い女の子めがけて大人の力で硯を投げつけたというのか?帯刀莞爾のあまりに非道な振る舞いに絶句する僕を横目で窺い、務めて平静に静流が続ける。
「苗さんは強く頭を打った。恐らくそれが失明の原因だ。打ち所が悪かったんだろうね、きっと。苗さんが高熱をだして寝込んでも莞爾さんは医者に診せようとすらしなかった、使用人風情にそこまですることないと無関心に放置した。早期の段階で医者に診せてたら失明は防げたのかもしれないのに……まあ、今となっては過ぎた事だけど」
「……胸糞悪い話だ。だがしかし、サムライは苗は生まれつき盲目だと」
「当時貢くんは三歳かそこらのおさなご、はたして当時の出来事を正確に記憶している思う?実際貢くんが物心ついた頃には苗さんの目は殆ど見えなくなっていた、何も知らされなかった貢くんが苗さんは生まれつき盲目だと勘違いしても無理はない」
サムライが育った環境は、僕の想像以上に苛酷だった。
サムライの実父である帯刀莞爾は、僕の義父である鍵屋崎優を超える非道な人間だった。
「帯刀貢と帯刀苗はほんの子供の頃から二人で支えあってきた。二人で支えあい生き抜いてきたと言っても過言じゃない。二人が愛し合うようになるまでそう時間はかからなかった」
「だが帯刀莞爾は反対した、莞爾にサムライとの仲を引き裂かれた苗はショックで首を吊りー……」
静流の語尾を奪って推論を述べれば、静流が淡々と訂正する。
「使用人と次期当主の身分差はただの口実。莞爾さんが二人の間柄に強硬に反対したのは別の理由がある。そしてそれこそが帯刀家最大の汚点、帯刀貢が刀を取った真の動機、帯刀苗の自殺の原因………」
静流が今腰掛けているベッドの下には、苗の形見の手紙を納めた小箱がある。
静流はそれを知らない。自分が苗の形見を尻に敷いてるとは思いもせず帯刀家の古く澱んだ血が起こした悲劇を笑顔で語り、とうとう静流は言った。
言ってしまった。
「帯刀貢と帯刀苗は姉弟だった。二人はそうと知らず腹違いの姉弟で愛し合ったんだ」
漠然と予想していた。覚悟もしていた。
サムライが犯した禁忌が近親相姦であると僕自身心のどこかで勘付いてはいたのだ。以前苗とサムライの関係を「姉弟みたいだ」と評した時、彼が激昂した理由がこれでわかった。
手のひらに痛みを感じた。
手のひらの柔肉に爪が食い込んでいた。
真相を明かされたところで嫌悪も憎悪も感じなかった。
ただ、胸が痛かった。
僕は苗を知らない。サムライがかつて愛した女性を知らない。だが、苗の思い出話をするサムライが痛みを堪えるような顔をする度に嫉妬をかきたてられた。
サムライはまだ苗を忘れてない。
サムライの中では今もまだ苗が生きている。
それも無理はない。
生前苗に流れていた帯刀の血が、今もサムライの中に流れているのなら。
「………やはりそうだったのか。帯刀苗はサムライの……帯刀貢の異母姉だったのか」
「さすがに気付いてたみたいだね。そうだよその通り、苗さんは貢くんの異母姉、莞爾さんが外で作った子供さ。でもそれだけじゃない、苗さんには四分の一外人の血が流れていたんだ」
「何?」
僕の動揺を手に取りもてあそぶように舌なめずり、笑みを含んだ双眸に裸電球の光を映す。
「苗さんの母親はロシア人との混血だった。そのせいかわからないけど苗さんはとても色が白かった、それこそ日本人離れしてね。見た目は絵に描いたような大和撫子だけど確かに苗さんには四分の一外人の血が流れていた。苗さんが帯刀家に引き取られた理由に関しては僕もよく知らない。とにかく苗さんは莞爾さんの気まぐれか同情だかで本家に引き取られ、出自を隠して育てられることになった。ところが莞爾さんの身勝手も極まったもので、苗さんと貢くんの関係が明らかになるや二人を裂くのに躍起になった。近親相姦がまずいのは勿論だけど外人の血が流れる娘と次期当主が恋仲になるなど言語道断、帯刀家に穢れた血を混ぜるわけにはいかないってね」
胸に苦い感情が湧き上がる。
顔を伏せて表情を隠し、吐き捨てる。
「苗は帯刀莞爾に殺されたようなものだな」
「それは違う。苗さんを殺したのは僕だ」
え?
虚を衝かれた僕の前で立ち上がり、虚空に腕を伸ばす。
「もう一度言うおうか。帯刀苗を追い詰めたのはこの僕、帯刀静流だ」
ひんやりした指先が首に触れる。
華奢な手が首にかかり、徐徐に圧力がかかる。咄嗟のことで対応が遅れた。我に返った僕は静流の手首を掴みもぎ放そうとするも、華奢な体には似合わぬ力で首を締め上げられて頭に酸素が回らなくなる。
馬鹿な。こんな細いからだをしてるくせに、華奢な手足をしてるくせに何故引き剥がせない?
渾身の力を振り絞り酸素を求め暴れるも、静流は口元に薄っすら笑みを塗ったまま、僕が足掻けば足掻くほど暗い愉悦に浸り、爛々と目を輝かせる。
「僕は貢くんを苦しめるために苗さんを罠にかけた。ただそれだけのために苗さんを地獄に落とした」
「手を放せこの低脳、気道を圧迫するんじゃない、刑務所内でまた殺人を犯す気か!?」
「帯刀貢の苦しみは僕の喜び、帯刀貢の絶望こそ帯刀薫流と世司子への供物。僕が東京プリズンに来た理由は帯刀貢に地獄を見せるため、母さんと姉さんの願い通り苦しめて苦しめて帯刀貢を殺すためだ」
気道が圧迫され、空気の通り道を妨げられる。
酸素を欲して喘ぐ僕にのしかかるように首を絞めながら静流は薄っすらと微笑んでいる。駄目だ。苦しい。縊死。絞殺。扼殺。扼死とは手または前腕で頚部を圧迫して死に至ること、被害者は年少者や女性・老人など弱者が多い。死体所見には手、指、爪による強圧部にその大きさ以下の皮下出血である扼痕や鋭い三日月型の加害者の爪あとなどの特徴があり、死体の顔面は鬱血ー……
苗と同じ死に方。
静流の目的は僕に苗と同じ死に方をさせ、サムライを追い詰めること?
「!!っ、」
ここで死ぬわけにはいかない、静流の思い通りになるわけにはいかない。
薄れかけた意識を繋ぎとめ、首に巻き付いた手を思い切り引っ掻く。手の甲に紅い線が走り皮膚が捲れ肉が抉れる、苦痛に顔を顰めた静流が握力を緩めた瞬間に彼を突き飛ばし、首を押さえて鉄扉に駆け寄る。
早く早く逃げなければ、サムライに会いに行かなければ!
「サムライの誤解を解くまで殺されるわけにはいかない、彼に『愛しい』と伝えるまで死ぬわけにいかないんだ!!」
肩から鉄扉に激突、そのまま砕けそうになる膝を支え、汗でぬめる手でノブと格闘する。くそっ、開け、開くんだ!気ばかり焦って苛立ちが募ってなかなかノブが掴めない、静流はすぐ後ろに忍び寄っているというのに、うなじに息遣いを感じる距離にいるというのに―
「開いた!!」
歓声をあげ、鉄扉を開け放つ。蛍光灯の光満ちる廊下に飛び出そうとした僕の口が、湿った布で塞がれる。扉の横で待機していた人物が僕の口に布きれを当てたのだ。誰だ?目だけ動かして顔を確認、驚愕。
以前売春班に僕を買いに来た柿沼という看守だった。
「ありがとう柿沼さん、彼を捕まえてくれて」
「お安い御用だぜ。手え怪我してるみてえだけど大丈夫か?」
「大した怪我じゃない。掠り傷さ」
鼻腔の奥を刺激臭が突く。この匂いは以前嗅いだことがある……クロロフォルムだ。まずい。柿沼の腕の中から逃げ出そうともがくも四肢に力が入らない、ぐったり弛緩した体がやがてバランスを失ってー……
廊下に倒れ伏せた僕の頭上、痛々しく腫れた引っ掻き傷を舌で舐めた静流がもう片方の手を無造作に差し出し、柿沼から何かを受け取る。
急激に押し寄せる睡魔と闘いながら柿沼から静流に手渡された物に目を凝らす。
紅い襦袢だった。
「約束通り僕の用が済んだら遊ばせてあげる。他の看守も呼んで皆で楽しもう」
スニーカーのつま先で無造作に僕の顎を持ち上げ、静流が言う。
霞む目で静流の笑顔を捉える。禍々しい笑顔。帯刀貢を地獄に落とすためなら手段を選ばないと宣言する邪悪な笑顔。
「さあ直くん、おうちに帰ろう。僕の用はまだ済んでない。夜はまだこれからだ。君には姉さんの代わりを務めて貰わなきゃいけないんだから……」
静流がスッと屈み込み、僕の鼻先に襦袢を突き出す。
香でも焚き染められているのだろうか、静流が腕に抱いた襦袢から極楽の芳香が匂い立ち、瞼の裏で悪夢めいた色彩が渦巻く。
静流の囁きが耳朶にふれる。
華奢な指が僕の上着の胸元へと忍び込み、鎖骨を這う。
「君は色白だから紅い襦袢が映えそうだ」
不吉な予言を最後に意識が溶暗した。
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